2012.11.01 Thursday

いよいよ4年に1度のお祭りがやってくる。やってっくる。

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     いよいよ、アメリカでは4年に1度の国を挙げてのお定まりのお祭り騒ぎがやってくる。投票所に行く前に、投票権者として登録するかどうか、大統領投票人のだれに投票するか、そして、各州でロバとゾウがのいずれの動物(ちなみにロバは民主党、ゾウは共和党のシンボル)の党派の候補に投票する投票人を何人獲得するか、そして、結局だれが大統領になるか、ということでアメリカの国民とメディアが大騒ぎする日でもある。投票後の結果の後、次期大統領候補の就任演説の陰で、本当にその投票結果が正確かどうかは、一応ぶつぶつ言われるものの、実際にはほとんど十分に検証されることなく、今回もおわってしまうんだなぁ。多分。最初にアメリカに滞在していた時、滞在してた大学のキャンパスが投票所になっていて、結構教え子たちがヒートアップしていたのを思い出す。ちなみにその時の教えた学生(環境系の大学院生)の一番人気は、ビル・クリントンでした。ヒラリー・クリントンも今よりもうちょっと若くて、もうちょっとスレンダーだったように記憶している。女子学生には、ヒラリーファンがいたなぁ。ヒラリー・ダフのファンじゃなくて。

     大統領選挙というのは、アメリカ合衆国憲法に規定された合法的な革命なんだろうとおもう。それこそ、ホワイトハウスに置く自動販売機のコーラの種類([以下棒読み]どーでもいいことですが、私はペプシ派です[棒読み終わり])から、政府の要人から要人関連のスピーチライターや代筆屋(要人に代わって手紙を書くスタッフ)などの事務職スタッフ、そして対外的な方針、経済運営政策まで、ガラッと変わる。政治任用でない公務員だけは変わらないようであるが。

     革命騒ぎだからこそ、みんな関心があるし、みんなそれに一枚かもうとするのだろう。実際の政策的な差はほとんどないにもかかわらず。これに関しては、20世紀初頭にこのことを分析した有名な経済学の論文がある。

     となると、非常に狭い範囲での違いの追及になり、一般人にとって外形的に見える、本来政治的には本質的でない部分で、プロかカトか、とか、プロライフ(中絶やや反対、という程度であるが)かプロチョイス(中絶をやや容認的)、とか、同性婚(大半は同性愛者だろうが、かならずしも同性愛者同士とは限らないはず)賛成か反対か、という目に見えて普通の人にとってわかりやすい要因だけが、焦点としてマスコミは取り上げ、4年に一回盛り上がるのである。それもどうかと思うが。選挙が終わってしまえば、プロチョイスか、プロライフか、プロかカトか、アフリカ系アメリカ人かヨーロッパ大陸系アメリカ人かどうかといったことや大統領の思想信条に文句を言う人はあっても、それが取り上げられることは、ほとんどない。おそらく、大統領がユダヤ教徒であっても(これはまだ可能性がある)、イスラム教徒であっても(ま、さすがにこれはないだろうけど、イスラム系人口が大きくなれば可能性はゼロではない)、選挙戦最中には、話題にされはするが、大統領になったら、普通はだれも言わない、というのがアメリカという国の精神ではある。ぐちぐちいう人や悪口を言う人、けなす人はいるが。最近で、けなされたのは、不適切な関係(improper relationship)で有名になったビル・クリントンと、二人のジョージの内の、英語がまともにしゃべれない若い方(ダボヤとも呼ばれる子ブッシュ)である。なにせ、人種、門地、出自、性、年齢、宗教、思想信条を含めて、法の下も平等が一応約束されているから。実態は、かなり怪しい場面にも出くわすが。

     本来、In God We TrustのGodは建国の父たちは、旧新約聖書の権威の根源である神(ニューイングランドで社会的影響力があったキリスト教の特定集団の理解)をさしてそう思っただろうが、今では、イスラム系国民も米国国民になれるし、仏教徒であっても米国国民になれる。

     アメリカは、確かにキリスト教の理解が幅を利かせている(大きい顔をしている)国であるが、キリスト教の理解一色で塗りつぶされている国家では実はない。だからこそ、キリスト教の異端(異教)扱いされることもあるロムニー君を共和党は候補として抱えているのである。そこらを読み違え、勘違いしている日本のテレビメディアで知識人扱いされている人は、少なくない。

     多民族国家とその問題、宗教意識の多様性を知りたければ、非常に後味の悪い映画で恐縮であるが(本当に後味が悪いが、みたほうがよい)、アメリカの911以降の時代と社会を描いたCrossing Over(正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官)【直訳すれば、違法越境に感じが近いかな】を見ればそのことがよくわかる。移民差別や、アメリカ市民に必死になろうとする非アメリカ市民の人々の姿が描かれている。後味が悪い中でも、唯一笑えるのは、でたらめな現代ヘブライ語での祈り(中川家の弟がギャグでやる中国語か、次長課長の河本君がギャグでやる中国語のレベル)を市民権審査官と審査官が呼んで来たラーバイ(ラビ)の前で唱えさせられる青年であったが。

     大統領候補が、プロライフであるか、プロチョイスであるかは、実は通常のアメリカ人にとっては法的にはほとんど影響を与えない。ただ、自分に近い精神性を持つ人物かどうかだけである。大統領が直接アメリカ国民にできることは実はかなり限られている。ほとんど、国民生活の基盤を決めているのは、州法であり、州政府である。州政府は、National Guardという武力組織をもっている。

     1960年代のアラバマで、公民権運動(確か州立大学にアフリカ系アメリカ人を入学させるかどうか)に関与して、州を二分するような大論争が起きた時、実際州知事が指揮権を持つアラバマ州軍と大統領が指揮権を持つアメリカ陸軍が対峙したことがあったはずである。その意味で、実は、アメリカの国民というか市民に密接した影響を与えるのは、どちらかというと州政府と州法のほうである。プロライフの大統領が中絶反対の法案を議会を通過させようが、州政府は法的には、無視できる。それほど州の力が強くても、州法があっても、自分たちのコミュニティは違うのだ、と主張することで、その州法ですら無視することが可能であるのだ。それほど、地域社会の権威と政治力はアメリカ社会では重視される傾向にある。カリフォルニア州やワシントン州にあるカジノ(本来はそれぞれの州法では非公営ギャンブルは違法行為)は、実は、ネイティブ・アメリカン(アメリカ原住民)の居留地にあるがゆえに、州法を無視できるため存在する。法的には、ネイティブ・アメリカンの居留地は、一種の独立国扱いである。その意味で、1国二制度どころか、1国複数制度でできている、というのがアメリカの実情であり、現実である。あーややこしい。

     連邦警察に当たるFBIが犯罪捜査に直接関与できるのは、連邦に対する犯罪(テロとかスパイ行為)、連邦政府の所有地で起きた犯罪か複数州が関与する犯罪、連邦法で管轄権が定められている誘拐事件や偽札でないと、本来、直接関与できない。市警察や郡警察、州警察がお手上げのとき、初めて連邦警察に当たるFBIに協力が求めることもあるらしい。しかし、それでも、協力者の立場でしか、関与させてもらえないはずである。たいていの場合、実際の法執行(逮捕・取り調べ)は市警察や郡警察のローカルな法執行官が担当することになる。そして、市の警察官や郡警察官、州の警察官(いわゆるローカルな法執行官 Law Enforcement Officers)は、FBIが出てくると露骨にいやな顔をし始める。アメリカでは、結構法執行機関(警察)の管轄権はうるさいのだ。これは、ソフトバンクやBossのCFにも出ているおじさんが主演する In the Valley of Elah(ダビデとゴリアテが戦った戦場 旧約聖書の汽汽爛┘觸 17章2節) 告発のときで事件の捜査が軍になるか、市警察になるかでもめる場面で出てくる。

     ただ、国家に対する反逆行為(スパイ案件)と誘拐事件は市警察や郡警察は管轄権を持っておらず、FBIが専管権を持っている。ミシシッピ・バーニングという映画でFBIが登場しているのは、対象事件が公民権活動家の誘拐事件であるからであり、最終的な逮捕は、州警察だったように記憶している。

     いかんいかん。話をもとにもどそう。アメリカ合衆国の普通の市民にとって、実質影響力が及ぶのは、州政府であり、州議会であり、市の政府だったりするのだなぁ。これが。本来、アメリカ市民はローカルな州の制度によって縛られており、連邦を意識するのは、連邦法が彼らの生活に影響を及ぼすときだけであり、基本、連邦政府を信頼していない。連邦政府の職員をFeds(連邦政府の走狗という印象があるよなぁ。)といって、かなりバカにする。

     そのくせ、大統領選挙になると騒ぎ出すのは、自分たちが、連邦国家であるUnited States of Americaの一員であることを唯一意識し、その合法的革命に参加する唯一の機会が、この大統領選挙と、あとは、上下院議員選挙のときだけだからである。ちなみに、アメリカでは、市民戦争と訳すほうが正確な州連合と州連合が戦った南北戦争という武力革命の歴史がある。

     合法的な連邦政府の革命とはいうものの、上下院選挙にしても、連邦政府の立法府に対する地域代表を選ぶ選挙、という感じがかなり強いので、基本ローカルな問題が争点になりやすい。その意味で、国軍(陸軍・海軍・空軍・海兵隊)か沿岸警備隊や国境警備隊で国家に対する貢献(Service)に参加する以外で、アメリカ人がUnited States of Americaの国民であることを強く意識できる機会がアメリカ大統領選なのだと思う。

     だからこそ、自分との共通項をことさらに強調したくて、大統領候補がモルモンだとか、大統領候補がプロライフだとか、プロチョイスだとか、本来の連邦政府の政策と国民生活にほとんど関係のないところでの問題が話題になるのだよなぁ。国民生活に、直接関係ないからこそ、好き勝手に話題にできるのだとも思う。中絶禁止かどうかを決めているのは、実は基本、州法なのに。

     どうせなら、それぞれの大統領候補の好きな飲料も公開して、ネガティブキャンペーンなんかやったらおもしろいのに。「あいつは、ペプシが好きらしい。こんな人間を大統領にしてよいのか?」とか「あいつは、A&Wのルートビアが好きらしい。こんな人間を大統領にしてよいのか?」とか「あいつは、カナダドライを飲んでいるらしい。こんな候補が大統領になっていいのか?」とか、くだらないことをネタにしてネガティブキャンペーンをすればよいのに。よっぽどギャグが効いている。あー、アメリカ人でギャグ好きは本当に冗談でローカル局のCM枠買って両方の陣営にこういうことをやりかねない人たちいるからなぁ。何年か前、ザ・シンプソンズで、大統領選挙のパロディの内容的にきわどい動画があったよな。

     まぁ、ダボヤと呼ばれた第一言語がテキサス語とされることもある子ジョージが大統領のときに無理やり制定しちゃった愛国者法という名の反テロ法は連邦法であるけれども、それでも結構州レベルで反対した州もあった。その意味で、基本、州の主権が確立された米国で「市民の権利を大きく制限しかねないプロチョイスやプロライフに関する事柄は連邦法になじまない、以上終わり」で終わると思うのだけれど。

     こういう個人の選択にかかわる問題を制約する連邦法を作るとなると、州レベルで、「ま〜た、Fedsがいらんことを言ってきた」という形で各地で抵抗が起きるだろうと思う。そのレベルの話であって、本来アメリカ合衆国大統領選挙で話題にしてもあまり意味がないことのはずなのだが、そーゆーことを争点とする残念な方もアメリカ人の中にはおられるのがねぇ。また、このあたりの理解もなく、国内でそれを論点にアメリカ大統領選挙を話題にマスコミに踊らされるのも、どんなものかと思いますが。

     と、ここまで書いたところで、愛読している水谷さんのブログ記事に「グラハム親子のロムニー支持とモルモン教認可〜問題の本質は「聖書倫理>聖書信仰」という記事があったのだけれども、[以下棒読み]もはや、ビリー・グ○ハムおじいさんは、聖書倫理の故発言しているのではなくて、政治的なアリーナでの存在感を維持したいからか、マスコミでの注目を集めたくて、言っているのではないか、とすら思えてしまう。それとも、アメリカ社会の中で存在感が薄くなり始めているフ○ンクリン君に言わされているのではなかろうか、とCNNの画像を見ながら思ってしまった。政治的に中立って言うけれども、明らかに政治への影響力の行使だと思う。[棒読み 終わり]

     とはいえ、おそらく、このグ○ハムおじさんの発言、ほとんど影響しないと思うけど。アメリカの宗教右派の皆さんは、グ○ハムおじさん大絶賛だったテキサス語が第1言語、英語が第2言語といううわさもある子ブッシュさんで十分懲りたので。
     
     だれが大統領になるのかは、いずれ、時間がくればわかること。さて、だれが次期第45代アメリカ合衆国大統領になるんでしょうね。終わった後のアメリカのマスコミ(とくにCBSとFOX)が何を言うか見て、楽しみましょう。あと、The Simpsons の作家さんがこの事件でどう遊ぶのかも含めて。ま、彼は基本左寄りなんでねぇ。エイブラハム・シンプソン(おじいさん)と原理主義的キリスト者という設定になっている隣人のフランダースとラブジョイ牧師で遊びそうな気がして仕方がない。



    評価:
    価格: ¥3,591
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:後味が悪い映画ですが、911以降のアメリカ社会の雰囲気がよく出ている映画です。移民、差別、宗教と現代アメリカ社会の矛盾を切り出した映画ですかね。

    評価:
    ---
    ¥ 3,750
    コメント:湾岸戦争がアメリカに何を残したのか、を元軍人の視線でたどった個人的には名作と思う作品。

    2012.11.03 Saturday

    日本での教会を考えるためのお勧めの一冊 第6回(最終回)

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       さて、ここのところ、話が外れたり、乱れた姿をお見せしてしまいましたが・・・・(コホンコホン・・・)、ここらで元に戻して・・・っと。

       これまで5回にわたり「宣教って何だ?」というキリスト新聞社さんの本から、引用しながら、この本でご指摘になっておられることの大切さをご紹介してまいりましたが、その機会も本日で最後。ここで紹介できなかったことがあり、ぜひみなさん、この本をお買い求めくだされ。きっと、あなたの教会観が変わること間違いなし、です。


       第1回 日本での教会を考えるためのお勧めの一冊 第1回

       第2回 日本での教会を考えるためのお勧めの一冊 第2回

       第3回 日本での教会を考えるためのお勧めの一冊 第3回

       第4回 日本での教会を考えるためのお勧めの一冊 第4回

       第5回 日本での教会を考えるためのお勧めの一冊 第5回

       で、今回が、最終回第6回です。

       多分に、日常の牧会の現場で培われてきた観測に基づいての論文や対談になっているだけに、分析やその表現が、日本の教会にとって非常に重要な方向性を指し示していると思うので、ご紹介いたしたい次第です。

       今回は、最後の鼎談の部分から一部ご紹介して、締めくくりたいと思います。

       日本の宗教性ということとキリスト教会もしくは西洋の宗教性ということを見てみると、対極的な部分があると思うんです。キリスト教が「いかに神に近づくか」ということを宗教的な根源的な求めとするのに対して、日本の宗教性には「いかに神に近づかないで済むか」ということを宗教的根源とするところがある。「いかに神に近づかないで済むか」ということを求めている社会の中で、「あなたはこうすれば神に近づけます」というキリスト教のアプローチはそもそも理解されにくい。それから受け入れられにくい。(p109)
       そう、牧会、特に伝道の現場で直面する大きな事実。「神に近づく」ということを言い出すと、突然落ち着きが悪くなる人たちの存在があるんですが、その背景に日本の神概念がある、というご指摘です。日本語訳聖書が、『神』という語を当ててしまったがために、たたり神やら貧乏神と同列の位置を天地万物の創造主、全能の神が占めることになったのですが、それを説明するためには、キリスト教の全体像をまず説明し、神が何なのか、を説明するところから始めないといけない。この前の祈りフェスティバルでの鼎談「カミ、ホトケとときどきオタク」(その2の動画)でも、キリスト教の伝道者の方が、唯物論者で日本のコンセプトで聖書を理解しようとしている岡田さんに必死に説明しようとしていたけれども、おそらく理解はしてもらえていなかっただろう。キリスト教の伝道者の方が、ニコ生神学部で、キリスト教が岡田氏からDisられた、ということを言っていた。


       私が大きな問題だと思っているのは、そうした(筆者補 個々の教会の)特性や特徴をその教会の人たち自身がどこまで把握しているのかな、自覚しているのかなという問題なんです。それぞれの教会はそれぞれユニークな性格を持っているわけで、長所とか端緒とかもあるはずなんです。そういった自分たちの教会の性格をきちんと理解していれば、修正すべき点と開示すべき点とかもはっきり見えてくるはずなんですけど、なかなか自分たちの教会を客観化してみるということができていなうように思うんです。(p122)
       うっ、つらいところを言われてしまった。自分たちの教会、あるいは教会群の性格をきちんと理解していない。おっしゃる通りでございます。そもそも、キリスト教は分家筋が多すぎて、分類学上も混乱しかねないのだが(そういえば、改革派は、岡田さんによれば、ガンダムZZだそうであるが)、そういう概念整理は、教会史や教理史をある程度抑えないと無理なので、そんな頭が痛くなるような作業は、普通の信者はしたがらない。となると、自分自身を相対化してみることはおろか、客観化してみることなんてできるわけがない。だからこそ、「我らこそは正当なキリストの弟子・・・・」と、よくわかっておられない信徒さんがいいだしかねないのが実情ではなかろうか。そりゃー、だれしも自分の信念システムや信仰システムに自信と愛着を持っているのだから。

       じつは、ちょっと前にやったお遊び メディアとキリスト教会の地図作成の試み(知的スポーツとして) は、この部分の発言に大いに触発された結果なのだった。 メディアとキリスト教会の地図作成の試み(知的スポーツとして) を書いたときには、この記事をすでに書いていたのでした。スマソ。

       外部からは、「あー、もーちょっこし内部で話し合って、一本化して下さらんか、話のわかる代表者を決めてくだされ」といっても、各個別教派が「われらこそは」と言い出す始末に終わりそうだし・・・。キリスト教界は多様だ。

       と思っていると、
       最近教会が弱気になっているというか、今後10年ないし20年のうちに教会数や信徒数は半減するだろうとか、教勢の停滞や衰退についてあきらめているような感じの話を耳にすることが時々あります。(中略)
       明治以来、がんばってがんばってやって来て、しかし思ったようにキリスト教は伸びなかった、こういういい方は問題があるかもしれませんが、投資したコストに対してリターンがあまりにもわずかだったことに疲れてしまったんじゃないかという印象すらもちます。(pp.124-125)

       はい、まぁ、日本は宣教師の墓場、永遠の宣教地(ちょっとかっこよすぎ?)なんですね。だからこそ、日本の教会にも、絶望感とまではいかないまでも、終わった感が漂っているのかもしれない。海外の宣教団体とすれば、同じカネをつぎ込むなら、信者になる人が増えたと思ったら、いつの間にま流砂の如く消えていく日本という魔界に資源を投下するよりも、他のアジアアフリカ諸国、特にイスラムの侵食の激しい、アフリカ諸国での宣教に力を入れたくなるのは、理として当然でしょう。
       とはいえ絶望する必要はなくて、「できることを愚直にして行きながら、聖書の理解を広めていく方がいいんでないかい?」と思うのはミーちゃんはーちゃんだけかもしれません。

       日本にキリスト教が広まった第3の時期、つまり戦後の時期、いわゆるキリスト教ブームの時期に大量に教会にやってきた人たちが、一つの時代のキリスト教的な雰囲気を形作ってきたというところがあるんじゃないでしょうか。その時代の霊性というか、教会や信仰に対する姿勢、具体的な教会活動の形とか、さらに言えば讃美歌の好みとかも含めて・・・・・。ところがこれらの時代の人々の層が厚かったために、かえってそれ以降の世代や時代の人々の求めていくものと合致しない面を生んだということもあったように思います。そして、結果的にはさっき言ったような淘汰・排除みたいなことが起こって、新しい人、特に若い人が教会にいなくなるということが起こったんじゃないかと思います。(pp.126-127)
       うーん、こんなことを転載していると、UgoUgoコメント王子が『わが意を得たり』『禿同』とうきうきしている姿が目に浮かぶ。ま、これ、現実の問題としてあるように思う。特に教団みたいなものがそもそもないため、教団の意向というものがない単立教会群やわがキリスト者集団では、個別教会の責任者の意向でかなり物事が決まるところがある。となると、責任者はどうしても人数の多いところの意見やこれまでの経緯からくみ上げられてきた聖書理解の分布に配慮せざるを得ず、それらの人数が多い世代の方々を優先していくことになる。となれば、青年期のキリスト者の意見が排除とまではいかないまでも、十分反映されないものとなる。逆に、青年層が多いところでは、老年層の皆様が肩身が狭くなる。

       大体において、組織では、官僚主義組織や大日本帝国陸軍のように、インクリメンタリズムなどの前例踏襲主義が跳梁跋扈し、「とりあえず名目がたてばよい」とする員数主義がはびこりやすいので、クリエーティブな発想、斬新な発想で物事にあたることは難しいような気がする。これは日本だけではない。要は責任者が、どれぐらいの苦情やバッシングを受けても、大事なんだから、前例にないけれどもやるのだ、という決意を示すことと、荒野に鉄道を走らせたり、前代未聞の前例を作るくらいの気概で、物事を進めていくかにかかっている。ただ、いきなり「既定路線の大規模変更」にすると信者間に動揺が広がりかねないので、ちょっとした変更、変更を加えて、小さな成功事例を積み重ねていくことで、変えていくしかないのかもしれないが。

       良くも悪くも一つの決まった日本のプロテスタント教会っていうもののイメージがあって、そこでは喜びというものがあまり重要視されていないというか、むしろ、そういうものは表現しないほうがいいんだという風にさえ思われていたんじゃないかと思うんですね。(pp.129-130)
       そうなんだよね。プロテスタント教会っていうと、顔をしかめてバッハやブラームスを聞いているプチインテリ系のおじさんたちと重なるところが強い。ま、これも、内村なんかにも見られる下級武士階層の「武士は食わねど高楊枝」的美学がキリスト教と一体化して、風紀委員とみまごうばかりの信者さんが多いからかもしれない。そうかと思えば、新興プロテスタント系教派のペンテコステ系を中心とした、「ハレルヤー」「アーメーン」とやたらと教会で狂喜乱舞している若者が多い集団、というイメージも反面あり、ふつーの市民のもの、というイメージがないよなぁ。社会のマジョリティはふつーの市民さんなんですけど。これも、教会がふつーの人にとって近寄りがたい原因の一つかもしれない。

       ある時代に作られた組織や習慣が、そのままタイムカプセルのようにしてずっと戦後まで続いてしまっていて、戦前の感覚が保存されてしまっているために、新しい世代の人たちには合わないということが起こるようになる。例えば、新しく加わってくる女性は「お嫁さん」みたいな位置づけで、婦人会のため働かされて教会に来なくなってしまうということがある。(p141)
       この問題、意外と深刻かもしれない。結構、青年層(特に女性信者)が教会を離れる理由に、教会のおば様、教会のお局様に遠慮しながら、息を殺すように教会内で過ごさなければならず、精神的につらい、ということもあるだろう。こういう事例は、いくつか直接見聞きしたことがあるので、この部分を読んだときには、「御説ごもっとも、おっしゃる通り。禿同」と思わず口から出そうになった。

       この種の問題は、教会内部だけではなく日本の社会の至る所で起きている。町内会からPTA、果ては、中学校のクラブでも起きるのが日本社会ではなかろーか。先輩が築きあげたものを維持・継続することが美談ととらえられる社会では、それを変えることは「まるでゴジラのような破壊者や根源的破滅招来体(ググってください。ウルトラマンガイアに出てきます)であることを意味し、先輩への反逆者であり、自らを無知蒙昧の徒であるこ主張することと等しい」ことを意味する。たとえ、その行為の継続の存在根拠が何であるかをだれも言えないとしても。それは、教会でも起きるのだ。

       教会内の婦人会などは自治が進み、聖域化が進んでいて、下手をすると牧師や責任者ですら、手出しできない存在になっているかもしれないのだ。そんなところに、「新しいことをされてはいかがですか、今ある活動を再検討されては・・・」なんてことを言うのは禁句である。となると、その文化が永遠に継承されていき、さらに参入のハードルが高まるのだ。教会の中でも、京都のお茶屋さんの一部にみられる「一見さんお断り」見たいな文化をもつグループが生まれているのではなかろうか。

       「自分たちは何者か」「どういう共同体なのか」ということを、よほど自覚的に意識して行かない限り、教会共同体とは言っても、共同体性がすごく弱くなっちゃって、学校とか会社とかその他いろいろな形の共同体の方が力が強くなり、結局、そういう他のいろんな共同体に属している人たちが、もっと弱いきずなで教会に集っているというだけのものになってしまうんじゃないかと思うんですね。(p142)
       海外で信仰をもった信者が日本国内に戻ると信仰者集団から離れるのは、まさにこれだろう。国内における共同体のネットワークや論理に対抗するには、あまりに弱体化しており(キリスト教会側の教理的正当性を持った論理が本来弱くないはずであるにもかかわらず)、結局その共同体の何気ない雰囲気、空気みたいなものにがんじがらめになっていく若年層信者が多いのだと思う。だから、信仰をもっても3年ともたず、どこかに霧散消失してしまうのだろう、と思うのである。つまり、論理による価値が、空気という価値に負けるのが実態なのだろう。これは教会の世界に限らない。日本帝国陸軍の伝統の員数主義などが典型的にそうだが、わけのわからない上意というのか、指揮官会議の雰囲気を作戦参謀が適当にくみ取って、現場を無視した宙に浮いた作戦指示書にしてしまうのが、日本の古き良き伝統なのだ。だから、青島刑事は、いまだに、「事件は会議室で起きているのではない!」を声高に連呼しなければならないのだろう。

       日本のキリスト教会も普通の日本人が大半を占める以上、このなんとなく漂う空気みたいなものが、キリスト教が主張する論理的価値に日本社会では優勢勝ちするのは、仕方のないことなのかもしれない。

       私たちの信仰が、プライベートな、個人主義的な要素が強いことは否めないとおもうんです。そこに共同体性というか歴史性というか、そういうものを回復していくためには、私はやはり旧約聖書のもっている歴史性、あるいは共同体性もそうだけれども。旧約聖書からもっと日本の教会は、学ばなければならないんじゃないかな。(p173)
       そうですね。プロテスタントの教会は、みんな神様にだけ向かっていて、お隣の人が何を考えているか、どういう風に思っているか、ということはあんまり気にしていないのかもしれませんね。空気みたいなものは気にするけれども。共同体といっても注意しないと、空気が教会において神が占めるべき場所を簒奪・占拠することになりかねず、そうなると、もはやキリスト教と呼べなくなってしまうような気がしますね。このあたり、日本社会に適した教会形成、というのが、求められることになりそうです。

       それが、どうもキング・ジーザス・ゴスペルでスコット・マクナイトさんが語っておられることともかさなるのだと思う。

       あー、長かった。しかし、それだけの内容と、現代の日本社会と教会を切り結ぶためのヒントになる糸口というのかがこの本には、書かれているように思います。ぜひ、手にとって読まれ、そして、それぞれの教会の特徴を考えながら、どういう方向を考えていくか、ということをお考えになられるようお勧めいたします。




      2012.11.07 Wednesday

      読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第1回)。

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         今回、ご紹介する本は、グレース・ハルセル著 越智道雄訳 核戦争を待望する人々 −聖書根本主義派潜入記 朝日選書 386(下記リンク参照)をご紹介したい。

         この本は、もともと、穏健的福音派の家庭で育った元新聞記者でリンドン・ジョンソン大統領のスピーチライターの一人でもあった著者がアメリカ合衆国内の原理主義的なキリスト教集団のイスラエル聖地旅行とその問題をジャーナリスティックに調査取材した取材記です。

         この本がおもしろいのは、以前流行ったキリスト教のテレビ伝道師がやっているイスラエル聖地旅行に言ってみたこと、そこで見たこと、そこで感じたこと、アメリカ国内のユダヤ人とイスラエルという国家への視点、1980年代という時代を背景にした、当時の福音派と呼ばれる人々のかなりの部分の時代理解、福音派の信者と国家としてのイスラエルとの関係、アメリカ国内のイスラエルロビーと福音主義者との関係がかなり克明に描かれていた。

         記録を当たってみると、レーガン(注 元大統領)は核兵器の飛び交うハルマゲドンでサタンに率いられた軍隊とアメリカが戦う運命にあるという発言を、長年にわたって繰り返していることが分かる。ニューヨーク在住の研究者ラリー・ジョーンズと宗派横断的(注 超教派的)なワシントン・キリスト研究所のアンドルー・ラングの二人が調査した結果、レーガンがハルマゲドンを世界最終核戦争に結び付け、その必然性を信じる解釈を少なくとも1986年までは受け入れていた確証をつかんでいる。(同書 pp.11-12)

        という記述があった。そーいえば、今を去ること約30年くらい前、こういう言説(核戦争が最終戦争で、それがハルマゲドンだという言説)が日本の我が教派の中でも、まことしやかにはやったよなぁ、しかし、その後の当時のソ連の崩壊やデタントの進行で、こういう理解はいつの間にか消えてしまったなぁ、と思った。しかし、今考えてみれば、基本、偉大なる厨二病設定ではある。ま、当時は、中学生から高校生で、厨二病設定が有効な期間であるので、それに罹患したとしてもしょうがないのであるが、大の大人の大半が厨二病だったのが残念。うちの義父は、我が教派の中でもこの設定を批判的にとらえていたらしく、子供たちに、「説教者が、『今晩、主が来られる』と言ったら数を数えてみればいい」と言っていたらしい。厨二病設定の時事解説大会なのか、聖書の学び会なのか判然としない会に参加しながら、家内は「今晩」と説教者が言う、その数を数えていたらしい。

         もっとすごい厨二病だなぁ、と思ったのは、次の表現である。

         ところが、リンゼイによれば、今や神は彼やジェリー・フォルウェル(フォーウェル?)、ジミー・スワガート、パット・ロバートスンらにご自分の最終シナリオを示されたので、彼らが一斉にハルマゲドン説を唱え始めたというのである。


        そんな、ご無体な。これがハルマゲドンが最終核戦争であるとした事実であったとすれば、モルモン経なんかとあんまり変わらないよなー。と思うてしもうた。聖書による検証不能だし、聖書理解の根拠が、聖書とはなっていないではないか、と思ってしもうた。示された内容でしょう。

         ハルセルさんはこの辺の人たちに手厳しい。

         リンゼイ、フォルウェル、ロバートスンをはじめ大半のテレビ説教師たちが口にするこれらの7つの時代が神の啓示の時代と呼ばれるので、この信仰体系自体が天啓史観(注Dispensationalism?)、これを信じる者たちは天啓史観論者と呼ばれる。ジェリー・フォルウェルやジミー・スワガートのような天啓的史観論者は、自分たちの信仰体系を聖書の無謬性を信じるが故にそれを文字通り解釈する正統派の根本主義と見なしている。しかしこの「正統派教義」はわずか150年の歴史しかなく、しかも戦争を求め、「平和を実現する人々は幸いである。」というキリストの「山上の説教」を否定するような教義を持つキリスト教に、「聖書を文字通り解釈する」とか「聖書根本主義注 Biblical Fundamentalism?)」などの呼称を与えるのは、正確さを欠くことになるだろう。(同書 p.13 太字と青字はミーちゃんはーちゃんによる)


         うわぁ、すごい手厳しい。確かに、Dispensation説は高々現在では、180年の歴史なんですな。調べてみればわかることですが。それまでの文献資料には出てこない。それは、だれも書かなかったからだ、ということをご主張される向きもおられるかもしれませんが、基本的な聖書教理が2世紀中にほぼ確立し、それを示す文書がある程度存在していることを考えると、文献学的にDispensation説は、確かに200年弱の歴史しかないのですね。ハルセルさんの言うように、山上の説教や主の祈りとの教理的な対立が処理できないまま、『「聖書を文字通り解釈する」とか「聖書根本主義(注 Biblical Fundamentalism?)」などの呼称を与えるのは、正確さを欠くことになるだろう。』と言われても、返す言葉がございません。まぁ、テレビ説教師という人々なので、学問的な背景がないことを追求してもしょうがないのかもしれません。学問書を読む時間があるなら、聖書を読むほうがよいので、学問的な検証をするお時間はお持ちでないのだろう。よくそれで、マスコミでしゃべれると思うが。そうか、マスコミは、面白ければよいので、学問的な検証は意味がないのかもしれない。しょせん、テレビはテレビ、ということで認められているのかもしれない。(あー、ホーマー・シンプソン化が進んできたなぁ。いかんいかん)
         ハルマゲドンと天国移送(Rapture)説を支持するキリスト教徒が増えて来ていることを示す証拠があるのだ。彼らもまたスコフィールド同様、キリストがボーン・アゲイン・キリスト教徒らに新しい天と地を約束してくれていると信じている。
         そう信じている以上、彼らにとって地球はかけがえのない惑星などではないから、どうなろうと知ったことではないのだ。使い古されればあっさり捨ててしまえばいい。地球まるごと。そしてキリストから我々選ばれた者たちに新しい天と地を用意してもらえばいいではないか。レーガン政権で内務長官を務め、差別発言で辞職したジェームズ・ワットも、この地球に対して典型的な天啓史観を披露している。アメリカの森や川の汚染を心配する連邦下院のある委員会の面々に向かって彼は、自然資源の破壊は大して気にならないと答えのだ。その理由は、「イエスの再臨まで後何世代もかかるわけじゃないですからな」というわけだ。(同書 p.16)


         わっちゃー。後は野となれ山となれ、だということなのだそうだ。多分、Wattさんは連邦議会下院の小委員会でそう答弁したのだろう。だから、石油とかの資源は使えるときには使ってしまいましょうぜ、皆さん。という企業寄りの話だよなぁ。いかにも1980年代的な能天気さだ。1990年代末にミーちゃんはーちゃんが一緒に学び、そして教えた大学院生たちにこんな発言したら、それこそ、とんでもない、ミーちゃんはーちゃんは、本当に物事を考えているのか、と迫られたことであろう。とはいえ、彼らも、電気自動車がCO2を排出しない動力で動くので、環境負荷の少ないクリーンな自動車だ、と信じている人たちだった(このあたり、やはり能天気なアメリカンだった)。その話をしていたので、「確かに原子力発電所の発電では、CO2は出ないかも知らんが、あんたたち、Nasty(始末に負えないような)Nuke Waste(核のゴミ)を忘れてはいないか?」ということだけはちゃんと教員らしく言っておいたのであった。まー、アメリカはコロラド州当たりのロッキー山脈の山中での地中処分ができるからまだましだが、日本はどうするんだろう。アメリカの最終処分地に埋めさせてもらえると嬉しいのだけれども、無理だろうな。アメリカ人、激怒するだろうなぁ。金払ったら受け入れてくれるかも・・・・無理か。

         古い地球が回復されるのではなく、(おそらく核戦争で完全に)滅びて、新しい地と新しい天がやってくるから、現在の地球をどのように汚染仕様が何をしようが関係ない、というのがどうもワット君の考えだったのかもしれない。環境破壊しながら、ぼろもうけをしていったアメリカ企業の経営陣にとってもこの論理は便利だった、というのもあるかもしれませんねぇ。

         まぁ、これも、最下部のリンクで紹介するThe Old Scofield Study Bibleの注釈にScofield君がつけた古典的な天啓史観の基本的な考え方だと思われます。詳しくは、ご自身で確かめられたらよろしいのでは、と思いますです。ちなみに、このThe Old Scofield Study Bibleは基本テキストは、King James Versionですから、古い英語テキストの聖書と同じものですが、問題はその注釈。読者がより分かりやすく聖書理解ができるために、と思ってつけたのでしょうが、注釈に合わせる形で聖書の本文を無理やり読んでしまう人たちも出てきてしまったのですね。残念な人たちが。

         最後に、ハルセルさんがこの本の目的めいたことが書いてある部分を紹介して、今回はお終い。

         この本を書くにあたって、私は特定のグループの活動を暴き立てる気にはなれなかった。むしろこれだけ膨大な人々に信じられている信仰体系のことについて書きたかったのだ。ハルマゲドン説の信奉者たちには、貧富、有名無名の別がない。(同書 p.18 p.13 太字はミーちゃんはーちゃんによる)

         ハルセルさんは、この当時1980年代のアメリカに、このような考えの人がやたらとたくさんいた、ということを書いておられるのだ。つまり、社会全体の雰囲気の中で、これらのことが語られていた、ということが問題とお感じになったらしい。

         それはそうだろう。軍縮に向かい、そのあと数年で、ベルリンの壁が崩壊し、(悪の帝国・・・スターウォーズみたい・・・とレーガンから言われた)共産主義国が自滅するように軒並みつぶれていく方向に向かいつつあったのが、本書が描かれた時代でもある。アメリカの喉もとには、カストロ君のキューバがまだ健在であるが。もともと1986年に書かれた本であり、東西融和の方向になんとなく向かいつつあった時代に書かれた本であることを忘れてはならないだろう。

         次回以降、この本で書かれていることなどを紹介しながら、「へぇ〜・へぇ〜・へぇ〜」と思った部分を紹介していきたい。





        評価:
        越智 道雄,グレース ハルセル,Grace Halsell
        朝日新聞社
        ---
        (1989-09)
        コメント:1980年代当時のアメリカ福音派のイスラエル建国への熱気と終末への渇望を知るための貴重な記録という意味では、星5つ。翻訳に著者のアメリカキリスト教世界の知識の薄さが目立つのが、かなり残念。だれかに聞いたらしいが、聞いた人が悪かったかな。

        ---
        Oxford Univ Pr (T)
        ¥ 1,929
        (2006-03-16)
        コメント:皮装でしっかりしていて、小さいがきちんとScofieldの注釈も読める。

        2012.11.10 Saturday

        アメリカ大統領選挙も終わったことだし・・・・

        0
           気分が悪くなった本の紹介は後回しにして、最近の話題から。

           アメリカ大統領選挙も終わった。今年は、割と速く、決着がついた。8年前は、ジョージ・W・ブッシュ(デフェンディングチャンピオン 共和党)対ジョン・ケリー(挑戦者 民主党)だったが、今回も最後まで集票と投票結果がややこしかったフロリダ州の投票結果の集計でもめて、再集計、再集計の嵐だったが、それが懐かしい。  

           前回の大統領選挙は、共和党の候補がマケイン(ベトナム帰還兵の元海軍士官で上院議員)・ペイリン(アラスカ州元知事・自称サッカーマム(サッカーをする子供を陰で支えるおっかさん))連合と民主党の候補がオバマ(ハワイ生まれの元弁護士で元上院議員)とバイデン(元弁護士で元上院議員)だった。それで遊んでいる、シンプソンズの映像は、こちらのリンクhttp://www.youtube.com/watch?v=IoWJkrlptNsから。(ちょっとグロテスク。ここまでしなくてもいいのに。ハロウィンスペシャルだからだそうだが… この映像を見ると、シンプソンズの制作側が、共和党嫌い、であることがマケインの支持者の建物でわかる。こういう細かい遊びが実はミーちゃんはーちゃんは好きなのだな。ヲタク?そうですよ。それが何か?あと、おじいさんが、I Still like Ike.という音韻をふんで遊んでいるのも面白い。うちの息子には、Ike(息子はイケと発音した)って何?と聞かれたが。第2次世界大戦の高名な将軍、ベトナム戦争に米国を巻き込んでいったアイゼンハワー大統領(アイク)を息子は知らなかった。orz

           その前が、戦争とかやらかした関係もあってやたらと長かった感じがする。その前は、おっかない顔したディック・チェイニー(http://politicalhumor.about.com/library/images/blpic-cheneyemotions.htm)とペアのブッシズムで超有名なG.W.ブッシュ(リアル映像つきのタイムマガジンのサイトでどうぞ)http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1870938_1870943_1870949,00.html だったしね。いやな授業が長く感じるのと同じ理由で、長く感じたのかもしれない。

           その前は、ディフェンディング・チャンピオンは、モニカ・ルインスキーさんと不適切な関係で超有名になっちゃったババことビル・クリントン君とアル・ゴア君のペアで、チャレンジャーは、G・W・ブッシュとディック・チェイニーだった。しかし、ヒラリー・クリントンみたいなおっかないオカーチャンいて、よく不適切な関係に手出しをしたもんだ、と思う。個人的には、クリントンの南部なまりのある黒人風英語、結構好きだったんだけどね。

           そういや、4年前、オバマを有名にしちゃったスピーチ

          It's the answer spoken by young and old, rich and poor, Democrat and Republican, black, white, Latino, Asian, Native American, gay, straight, disabled and not disabled ? Americans who sent a message to the world that we have never been a collection of Red States and Blue States: we are, and always will be, the United States of America.

          を、「うまい。うますぎる でも、キリスト教の伝統」で御紹介したのだが、ま、キリスト教の伝統でもあるが、基本、ローマやギリシア世界の伝統でもあるのだな。これが。ま、オバマ君のスピーチ・テクニックとオバマ君のスピーチライターのレトリックのシナジー効果さく裂、といった感じのスピーチであった。ウデノキさん、オバマさんが自分で書いてた、オバマさんの人格がなした演説と思ってたみたいだけど、そのあと、日本のマスコミでもスピーチライターの存在がばらされちゃったしね。プロはプロ。それに任せるのがアメリカなんだぉ。

           さて、本題でないところで、脱線してしまったが、今回は、デフェンディングチャンピオンのオバマ君に対して、チャレンジャーがミット・ロムニー(元コンサル社長で元州知事)ということだったのだが、日本のキリスト教の関係者の皆さんでも、話題になった。なにせ、ロムニー君は、キリスト教の異端(プロテスタント諸派)、正統なキリスト教とは言えません扱い(カトリック教会)されているモルモン教徒の方だったからである。 ちなみに、上智大学のサイト(回答番号69番)http://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/catholic/cathocen_qa/cathocen_qa61_73 では次のように書かれていた。

          モルモン教徒の倫理的なまじめさは尊敬に値しますが、その教えは架空の私小説に基づく、一九世紀のアメリカの世界覇権の自負心に由来する、と言ってもよいでしょう。正統なキリスト教とは言えません。
          うわぁ。やるなぁ。ミーちゃんはーちゃんには、私小説だの、アメリカの世界覇権の自負心などと恐ろしいことは言えません。でも、ちゃんとディスってないことを言うために、「尊敬に値します」とは書いておられる。

           このことで、アメリカ大統領選挙への投票権のない日本のキリスト者(はい、ミーちゃんはーちゃんもございません。ほしいとも思いません。最悪、軍への徴兵される義務も負うので。)の中でも、話題にはなったので、ちらっと書いておこうか、と。

           気になったことがいくつかあるのだが、まずその第1は、多くの人が政治的な主張と政治的な主張をする個人との区別とその個人の背景となっている信仰世界と区別がついていない、という点である。

           政治は、リアルな現実世界を扱うためのアルテ(Art)の体系を用いた権力の行使である。政治家には、そのアルテ(Artあるいは技術、技)の卓越が求められるのであって、その人の信仰そのものではないことである。その意味で、ビリー・フランクリン・グラハム3世(日本では、フランクリン・グラハム)の言うこと「我々は、[大統領選で]我々の国家としての就任牧師を選んでいるのではない。」は正しい。ただ、だとしたら、「聖書的な価値観を持っているかどうかで大統領を選ぶ」という主張は、政治的には間違いであろう。リアルな場で、「大統領候補がどのような決断をするかどうかで大統領を選ぶ」とまず、政治的な観点からは考えるべきだろう。

           政治がアルテ(Art)だとするならば、キリスト教徒であろうと、モルモン教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、仏教徒であろうと、無神論者であろうと、国民を困窮させず、国民全体の最大幸福を達成できること(あるいは、そのために大統領に仕事をさせること)が大事なのである。すべての政治指導者がキリスト者ではない、という冷酷な現実を見極めたうえで、選挙の候補者がどのような政策を実現しようとしているのか、その政治家が普段の日常的な発言の中から、どんな政策を実現しそうか、ということの区別をしたうえで、議論すべきであるが、このことを理解しておられないキリスト者があまりに多いのが残念。

           特に、選挙戦終盤になって、ロムニー君とお父さんのビリー・グラハムとして知られるウィリアム・フランクリン・グラハム2世とだけ面会させた映像をテレビで流すのは、政治的センスがあまりにもない。彼ら(ビリー・グラハムさんの関係団体)が政治的に中立だ、というなら、ここは何としても、オバマさんとも同じ時期に無理やり引っ張ってきても会談させるべきで、形だけでも両論併記の形をとるというのが、アメリカ人の感覚でいう政治的中立の形だ、とは思う。確かに2010年4月にビリー・グラハムとオバマ大統領は会っているhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/04/25/AR2010042501255.html 。しかし、2008年10月(前回の選挙戦の最中のとき)に二人の日程が合わなかった、ということで会ってないらしいがマケインとは会っている(直前のワシントンポストの記事を参照)。ビリーグラハム伝道協会がどの候補に投票すべきだ、とは言っていない、と言っているという2010年段階での彼らの主張も載せている。

           今回の場合、まァ、彼らは、人工中絶反対、同性婚反対なので、それに従って投票せよ、とは言っているので、どちらの候補かは、火を見るより明らかではあるが。

           そう思って、ビリー・グラハム伝道協会のサイトを手繰っていたら、面白い名前が出てきた。そう、前回紹介した本に出てきた名前である。

          We need something like what Jerry Falwell did in the 1980s. We need a “moral majority”―made up of Christians, Jews, Mormons, Catholics and many others of faith―to come together to take a stand for our religious freedoms and rights.

          ソースはこちらをクリック。http://www.billygraham.org/articlepage.asp?articleid=8998

          その直後で、こうも言っている。

          In recent days, President Clinton said that President Obama “has a plan to rebuild America from the ground up.” But God-fearing Americans have no desire to see America rebuilt―but rather restored. To “rebuild it” would be to create a new nation without God or perhaps under many gods. This was never the intent of those who shed their blood for the freedom to worship as “one nation under God.”


          ソースはこちらをクリック。http://www.billygraham.org/articlepage.asp?articleid=8998 

           [棒読み開始]ま、もう好きに言ってください。どーとでも。クリントンが言ったんで、オバマが言ったわけじゃねーし。再建主義神学。なんですろー、それ。確かに、単語は同じですけど。[棒読み終わり]

           前にも書いたのだでくどくて申し訳ないのだが、人工中絶は連邦の管轄とすることはなじまないので、オバマ氏が人工中絶に絶対反対でなかろうが、ロムニー氏が人工中絶に絶対賛成でなかろうが、どちらが大統領になったところで、本来影響はなかったのである。実際に州知事時代、ロムニーは、マサチューセッツ州の州法の中絶可の状態を維持している。人工中絶を禁止する政策はとっていない(なので、Tea Partyの皆様方からディスられている)。

           また、同じく婚姻法も、州法での規定ということになっているので、基本、オバマが同性婚に絶対反対しなくても、ロムニーが同性婚に絶対賛成しなくても、あんまり変わんなかったはずなのだ。

           まぁ、なんで、大統領選挙で、この種のことが問題になるかというと、実は、連邦最高裁判所の判事の指名権が大統領にあるからかもしれない。つまり、州法でカバーしない人権の問題として同性婚や人工中絶の問題が連邦裁判所に持ち込まれた案件(ローVSウェイド裁判など)での裁定に影響するからであるが、大体、連邦裁判は、裁判案件として難しく、連邦最高裁まで行くケースはほとんどない。そういう意味で言うと、同性婚反対・賛成、人工中絶賛成・反対とか、聖書的な価値観云々は、最高裁判所判事の任命以外では、ほとんど政策的に影響しない。

           大統領ができることのなかには、連邦法にたいする拒否権(Veto)という切り札を切るくらいなのと連邦最高裁判事をだれにするかくらいであるが。そのためには、上下両院での法案の成立がまず必要で、今みたいに上院と下院が過半数の議席を持つ党派が違う現状では、法案がデッドロック状態になるので、難しいだろうなぁ。その意味で、政権成立当初から、現大統領は、就任当初からレイムダック状態にある(たいていの場合、大統領の任期が1〜2年になってから、それも中間選挙後からであることが多い)。何かをしようと思っても、議会の反対にあうことを就任段階から、すでに前提としなければならないのだ。頭が痛かろう。

           第2点。問題は、大統領個人の信仰的な背景と政治のアルテとの混乱である。もちろん、アメリカ大統領は武力的には絶大な権限を持つ。なにせ、Commander in Chief(三軍の長 陸軍、海軍、空軍、そしてほんとうは海兵隊だけど、海兵隊は海軍配下。ちなみにホワイトハウスにいる兵隊や大統領専用ヘリの運転手は海兵隊員)で軍の指揮権を持つ最高司令官なのだなぁ。とはいえ、大統領とて、まったく制約なしに自分の理想は実現できないようになっているのも近代アメリカ国家としての性質なのだなぁ。そりゃ、前任者が残していった戦争っていう宿題の後始末をしないといけないし、議会の反対を無視してまで、強行突破はできないという現実がある。

           いかにプロライフの大統領であっても、国内のマスコミや法曹界の反対を押し切ってまで、中絶禁止にはできないのである。いかに議会や、国民やマスコミを納得させるか、ということも考えたうえでないと、政策立案できないのだ。特に、マスコミや法曹界にはリベラルな人(ヒラリー・クリントンおばちゃんなどが代表格)が多いので、それを無視しては行動できないのだね。これが。残念だが。実際、ロムニー君がマサチューセッツ知事だった時、あまりに軟弱だったので、アメリカの保守強硬派のティーパーティの皆さんは、ロムニーに批判的で、ティーパーティの皆さんは、大統領としてふさわしくない、と言っていた節がある。http://www.usnews.com /news/blogs/washington-whispers/2012/11/07/tea-party-slams-mitt-romney- as-weak-moderate-candidate-hand-picked-by-mushy-middle-gop 

           第3点。アメリカの大統領が言う神が、アメリカという国家神道の神であるかどうかについて、であるが、それは、一般化できないと思うし、個人によって異なるとは思う。しかし、一般のアメリカ人のいう神は、裁判所とか通貨に書かれているIn God We Trustの神や、Pledge に含まれている神だろう。その意味で、国家にとっての抽象概念としての神ではある。それを国家神道というかは別として、ではである。以下に、小学校で毎週いうことになっている Pledge での文言を記載しておく。

          I pledge allegiance to the Flag
          of the United States of America,
          and to the Republic for which it stands:

          one Nation under God, indivisible,
          With Liberty and Justice for all.

          ミーちゃんはーちゃんの子供たちも、学校でほとんど毎週これを言っていた、そうだ。ここでいうGodは、ある面、キリスト者の方はナザレのイエスを遣わしたYHWHかナザレのイエスを想定するだろうし、イスラム教徒の方はアラーの神を想定するだろうし、ユダヤ教徒の方はYHWHを想定するだろう。その意味で、実態のない、国家にとっての抽象概念としての神である。それをアメリカにおける国家神道の神というかどうかは別として。

           ところで、アメリカ人の仏教徒の方は何をプレッジの時に思うのだろう。

           アメリカの現実は、今やプロテスタント系キリスト者人口が、50%を割る時代http://mainichi.jp/select/news/20121011k0000m030024000c.html で、若年層では無宗教(特定の宗教的背景なし)が約1/3を占める勢いある。大体、もう、アメリカの建国の父たちやニューイングランドでジョナサン・エドワーズが想定した社会構造とは、大きく異なっており、それを無視して政策は進められない。民主主義国家を自任し、他国にそれを輸出しようとしている国家として、多文化多宗教の中で、自分たち以外の信仰システム以外の人たちも神が創造したもうた人々であることを忘れてはならない、とは思うのだな。これが。聖書がいくら正しい(これは、ミーちゃんはーちゃんも激しく同意)から、といって、本人たちは何も価値がない思っていないにもかかわらず、聖書の価値観を無理やり他人の口を開けさせて言わせたところで、意味はほとんどないと思うのだが。だって、その人たちは同意してないんだもん。

           第4点。キリスト者であっても、神ではない。神の意思を必ずしも反映するとは限らない。

           我が国を振り返ってみれば、庶民を見下した発言をしたことで有名になった麻生太郎さんはカトリックの信者さん(彼は麻生財閥のボンボンなのでしょうがない。家内の実家のあたりが選挙区なので、時々地元にも出没するらしい。)、ミリタリーヲタクの石破茂さんもどうも教会人みたいだし。民主党の土肥さんも元牧師さんだし。

           ミーちゃんはーちゃんは、これらの方がキリスト者だからといって投票するほどナイーブぢゃございませんの。ダメなものはダメ、同じキリスト者だから、同じ聖書が持つ価値観に沿っているかどうかだけでは投票いたしませんの。政治的なリアリティの中でそして、その政党やその政治家を取り巻く環境の中で、個々人の投票行動を決めたらよいと思いますのですね。どの党だから、どの人だから、どの宗教だから、ではなく。

           他国だから無責任に言いやすい、という部分があるということを十分承知の上ではあるが、民主党関係者だからといって完全に人権重視的な行為をとるか、というとそうではない。私は、ビル・クリントンが、ユーゴやイラクに空爆したのを忘れない。共和党から選出された大統領である二人のジョージ(G・H・WブッシュとG・W・ブッシュ親子 二人ともファーストネームはジョージ)が他国で戦争したのを忘れない。戦闘員はしょうがないが、非戦闘員まで巻き込んで。

           第1次世界大戦以降、戦争はすべからく、非戦闘員まで巻き込む、ということを忘れてはならないように思う。

           政治家は、平和を希求し平和に言及するが、平和をもたらすものとは限らない。それは、彼らが神ではなく、人であるからだ。所詮人であるものに神と等しい倫理や神とおなじことを求めるのは、どだい無理だろう。それこそ、偶像崇拝であり、皇帝崇拝と同じだと、思う。そこを分かったうえで、どうリアルな社会の現実と取り組んでいくのかが重要なんじゃなかろうか。

           誰しも、自分の信念システムを大事にしたいのは、わかる。それは大事にすればよいと思う。しかし、それに惑わされて、政治のリアリティを忘れてはならん、自己の信念システム(faith system)にこだわるあまり、自己の信念に惑わされて、政治のリアリティを見失ってはならん、と個人的に思うのだが。

           政治のリアリティは、できるだけ公正で、できるだけ多くの人の幸福を求めることではなかろうか。政治家個人が、モルモン教徒であろうと、キリスト教徒だろうと、ユダヤ教徒だろうと、それは政治のリアリティからいうと、あまり関係ないのではないだろうか。投票することで政治にかかわるということは、自分自身の幸せと他人の幸福を決める行為である、ということを忘れてはなるまい。そして、それぞれがおかれた場で、そのための投票という行為を通して発言すべきことを。

           自分たちの思い通りの候補に今回ならないからといって、失望する必要もないし、落胆したり、嘆いたりする必要もないだろう。それよりは、現実のリアリティをどう変えていくのか、そのために、どう考えるのか、手じかなところから始めることが重要ではないだろうか。そして、考えることが。

           ま、この種の議論をするうえでは、下に紹介した本は、一応目を通しておいたほうが理解が進むかもしれない。ニーバーと森本ああんり先生の本はお勧めの一冊。日本語で読めるので。




          評価:
          ヘルムート・リチャード ニーバー
          聖学院大学出版会
          ¥ 3,150
          (2008-03)
          コメント:一昔前のアメリカ人のキリスト者と国家の関係の精神構造を解析した名著。アメリカ人の信仰と政治を考えるうえでは、ぜひ読んでおいたほうがよい本

          評価:
          D. A. Carson
          Eerdmans Pub Co
          ¥ 1,505
          (2008-04)
          コメント:アメリカ人の精神世界と文化の関係を知るうえでは読んでおいたほうがよいかも。

          評価:
          森本 あんり
          新教出版社
          ¥ 1,785
          (2006-05)
          コメント:わかりやすくて、非常に参考になります。もともと、教科書なのかな。一人で読んでもわかります。

          2012.11.12 Monday

          ちょっこし告知

          0
             ちょっこし告知。

            明日 2012年11月13日、20:00JST よりニコニコ生放送 神学部

            非常勤で出講 or 出張(?)の予定でござる。

             ヌシ=LV32DTsomeone さんに迷惑がかかってもいけないし、再放送できなくても、こまるので、普段のディスりパワー炸裂とはならないように忍耐に忍耐、自制に自制を、の予定ですが、生Voiceで参加予定。

            詳細はこ、こちら  
            ↓↓↓↓↓
            http://christnm.info/wp/?p=1755

             一応、タイムシフト予約、現在お受けされておられるそうですので、後日聞くだけで十分というかたは、事前にタイムシフトご予約を。

             ライブでミーちゃんはーちゃんをののしりたい(罵るのは、ミーちゃんはーちゃんだけにしてくださいね)、ライブで騒ぎたい、ライブでコメントしたい、ライブで質問したい、という方はライブでのご参加をおねげーしますだ。

             タイムシフト予約は、1週間のみ有効。1回のみ再生可、だったように記憶しておりますが、詳しくは、ニコニコ生放送のウェブサイトで検索をおねがいいたします。

            では、明日。
            2012.11.14 Wednesday

            読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第2回)

            0


                今回もグレース・ハルセル著 越智道雄訳 核戦争を待望する人々 −聖書根本主義派潜入記 朝日選書 386(下記リンク参照)をご紹介したい(2回目)。まぁ、外から福音派の中での聖書原理主義者の人たちとその方々の聖書理解から影響を受けた結果、核戦争もやむなしと言っていた人たちがどう見えていたか、ということのご紹介です。それをどう考えるかは、皆さんにお任せいたしますが、ミーちゃんはーちゃんが読んで、へぇ〜ほぉ〜はぁと思ったことも、ちょっこし書いておこうかと。

               黙示録へのアプローチの仕方は、彼(注 リンゼイ)の場合自称「演繹的方法」というのを用いる。聖ヨハネの科学的知識や語彙に限りがあるので、その足りないところを演繹して、神の言わんとされる内容を引き出そうとする方法だ。例えばヨハネはその夢か幻に、サソリのをを持ついなごを見る。リンゼイはこれをコブラ・ヘリコプターとみてえ、それらが美部から一種の神経麻痺ガスを噴射している光景だと解釈する。(同書 p.46)

               しかし、これを読みながら、「演繹 Deduction」ではないよな。演繹のためには、規則性を前提としているはずなのであるが、その規則性はない。演繹とは、平たく言えば、1、2、とくればサーンときて、そのあと、4,5とくるせかいである。まさしく、世界のナベアツ(ここをクリック)の世界だな。ただ、これは、前提が正しい、という条件が付くのだ。

               たとえば、先の例でいえば、通常想定される10進数の世界では、1,2,サーン,4,5,ローク,7,8となるけれども、前提を6進数にすると、1,2,3,4,5,10,11,12,13となってしまう。

               演繹は前提さえ正しければ、結果も正しいのだが、前提が崩れてしまえば、結果は正しくないのは、10進数の世界と6進数の世界でご理解いただけようかと思う。

               演繹論では、前提(公理)の正当性の保証が重要なのであるけれども、申し訳ないが、リンゼイ君の場合は、方法論としては、演繹方法ということすら難しいと思う。そもそも、前提となる公理の検証が十分されていないようにおもうのだな。となると、どちらかというと、こじつけに近いよね。コブラはいまだに米海軍下の海兵隊では使われているけど、もう間もなく退役するはずなんだけどね。

              確かにコブラは、バッタ系のデザインだけどね。

              で、続きですが、

               
              リンゼイは、1948年以降に生まれた世代はキリストの再臨を目撃する運命にあると断定する。だが、その前に「ゴグ=マゴグ戦争」とハルマゲドンを戦わないといけない。ホロコースト(ハルマゲドン?)の始まりは、ソ連軍プラス全アラブ軍が大挙してイスラエルに侵入する時である。(同書 p.46)


               確かにゴグ(ガンダムに出てくるザグではない)とマゴグ(5月に日本で空を飛ぶと言われるお父さんこいのぼり、マゴイではない)は聖書に出てきますよ。それがソ連(←今のロシア、ベルリンの壁にともなっていつの間にか消えてしまった国。ランボーシリーズの怒りのアフガンでは、悪役の出身国になっている・・・)だって。あれ、アフガン(イスラム国)に侵攻したのは、ソ連ではなかったっけ?全アラブには、親米国のはずのサウジアラビア王国も攻めてくるのだろうなぁ。サウディアラビアはアラブ出ないって言ったら、怒られそうだが。確かに、一時期、ソ連は地中海の海軍寄港地がほしくて、アラビア系諸国を支援していた時期があったよね。

               聖地旅行を巡る問題で、本来見なければいけないもの(たとえば、パレスティナ人には、ムスリムもいるがキリスト教徒もいるという現実)を見ていない、アメリカからの聖地旅行をするキリスト者があまりに多いことについて、次のように著者は書いている。

               
              モーナ(注 著者が同行したパッケージツアーに参加したキリスト者の一人)が神はユダヤ人だけ特別扱いしてパレスティナ人はキリスト教と、モスレムの別泣く特別扱いしないと信じ込まされていたのなら、彼女はキリスト教徒としてパレスティナ人のキリスト教徒もモスレムも無視するか、十っぱ一からげのステロタイプとみなすか、神のチェスゲームの単なる小間として片づけてしまうしかないわけだ。人種差別にはつきものだが、モーナもパレスティナ人の政治、宗教、文化の多様性を一纏めに自分の視野から締め出してしまったのだ。彼女のように神に選ばれた民と言う信仰を受け入れたキリスト教とは、自分以外のものを理解し、同情を感じる能力の一部を失ってしまう。それどころかモーナは、パレスティナ人のキリスト教徒とモスレムが、彼女のような多民族のキリスト教徒と同じ人間的特性や人間的生活を営んでいるという見方さえ、できなくなってしまうのだ。(同書p.86)


               1980年代半ばに、大学の外国人教師から英語を習っておりましたころ、農業協同組合主催の海外旅行団が多く行っていたころでしたので、アメリカ人は、これらの旅行者をNoKyo San(農協主催のパック旅行の主催者側の引率者を旅行者がこう読んだかららしいが)と呼んでいた、ということをアメリカ人の非常勤の先生からお聞きしました。ま、アメリカ人は、よほどのことがないと集団で群れて旅行する習慣があまりない(というよりかはできない人たちが多い)ので、バカにされていたそうです。アメリカ人とて、聖地旅行した瞬間に、アメリカ人版のNokyo Sanになってしまっていたのだ。読みながら、思わず、微笑みがこぼれてしまった。

               つまり、多くの人間は、見学しに行っていると言えども、見せられたもの、見せるように意図的に計画され、設計され、仕向けられたもの以外、人間は見ることができない、という冷酷な現実である。

               実は、ある読書会に参加した時にパレスティナでの困窮者の支援をしている女性の方が来られていて、その方が、「教会関係者の方は、パレスティナの問題になかなか関心を持ってもらえなくって・・・」といっておられたのを思い出してしまったのだ。イスラエルを支援することがあっても、パレスティナにはキリスト者がいるのに、パレスティナ人も人間なのに、イスラエルに一方的に肩入れするキリスト者が日本でも多いということのようでした。
               
                つまり、聖地旅行に行っても、行った人は現代パレスティナ人にキリスト者がいることも知りもしないし、知ろうとせず、イスラエル側の主張(パレスティナ人=テロリストという構造)のみをうのみにしてしまうのだろう。物事は単純にした方がわかりやすいのは確かであるが、まさしく、これなどはまさに典型的な単純化の誤謬とでもいうべきものだろう。このような単純化の誤謬を防ぐためには、より深い思考と開かれた目で見、開かれた心で受け止めることが大事なのだと思う。

               彼らがイスラエルの聖地旅行に行ったときに、イスラエルの政治家に引き合わされた時のシーンが次のように紹介されていた。

               熱狂的な拍手を浴びながら、フォルウェル(注 アメリカのプロテスタント系超有名伝道者の一人)は合衆国に生まれ、マサチューセッツ工科大学卒の国防相を紹介した。(中略)
               アレンズ(
              注 当時のイスラエル国防相)がイスラエル軍が再びレバノンとシリアに侵攻した経緯を話すと、キリスト教徒たちはぱっと立ちあがって拍手した。拍手はしばし鳴り止まなかった。国防相はたぶんシリアかソ連の方角に手を振りながら、「敵」と「共産主義者ども」のことを語り、「合衆国が我が国と共に戦ってくれるなら、我々は最終的勝利をものにできるでしょう!」とぶち上げた。
               アレンズが軍事力増強と新たな一層大規模な戦争に改めて打ち込むことを呼びかけると、キリスト教徒たちは実に18回も立ち上がって拍手を送り、彼の講演を中断したのだった。私の周りの中で、男も女も激しく手を打ち、足をふみならし、「アーメン」「ハレルヤ」と叫び続けた。(同書 pp.56-57)

               
               かなりの熱狂だったようですね。アメリカは、朝鮮戦争・マッカーシズム・ベトナム戦争・キューバ危機を通じて、反共産主義がどこかで民衆レベルでアメリカ人なら当然という感じにしみ込んでしまった。彼らの言う憲法上での思想信条の自由は、実態的に『思想信条の自由(共産主義を除く)』なのである。とはいっても、法曹関係者、マスコミ関係者、映画関係者、文筆関係者では、結構、批判意識の強い人が多いので、共産主義者ではないものの、左派系の人は意外と多い。ミーちゃんはーちゃんも、共和党よりも民主党寄りで、やや左ががっていることは認める。反共を言えば、普通の市井のアメリカ人は喜ぶ、ということをこのアレンズさんは、アメリカ生まれ、アメリカ育ちでしょうから、よく知っていたのだろうと思います。シリアの話がいつの間にか、共産主義への戦い(一応当時シリアは社会主義国、親ソ連だった。ソ連は、地中海での海軍寄港地としてのシリアが便利だった模様。)にすり替えられている。

               この前後の文章を読む限り、この聖地旅行に参加している人々は、ニコニコ生放送で有名なアルファベット一文字の牧師先生(ここをクリックすると見られます)のお仲間ではどうもなさそうです。おそらく、たんに知っているヘブル語またはアラム語が、「アーメン」「ハレルヤ」だっただけ、ということだろうと思います。

               しかし、上での記述は、どう見ても集団ヒステリー状態だと思う。ドイツ人がヒットラーとナチスに対して集団ヒステリー状態だったし、アメリカでは911の後の2-3年位は、集団ヒステリー状態だったと思う。日本でも15年戦争中そういうことが起きたし、最近ではオーム事件の河野さんが疑われた松本サリン事件のときにも、その前後のオウム真理教の集団の中でも、もっと最近では、311の時に似た現象が起きた。集団ヒステリーは、どこの国でも起きるのだろうけれども、この特殊な環境の中でアメリカ人にも起きただけのことだろう、とは思う。

               最後に、パレスティナ人でプロテスタントの福音派のキリスト教徒の弁護士と本書で紹介されているジョナサン・カッタブの発言を本書に記載された内容を紹介し、コメントをつけてこの記事を終わろう。

               「フォルウェルのような福音派の聖書根本主義者にとっては、イスラエルに対する崇拝のほうがキリストの教えより大事なんですよ」と、カッタブは率直に答えた。「フォルウェルのようなキリスト教徒のシオニストは、キリストの教えを捻じ曲げてしまうんです。フォルウェルのシオニズムは政治そのもので、道徳や倫理とは全く無縁、現実の深刻な問題と本気で取り組むなんてことはありません。彼は信徒にイスラエルに味方せよというだけです。そしてアメリカの納税者たちに年間五十億ドルをイスラエルに援助せよと説くわけです。そして信徒たちにシオニズムに味方すれば正しい側、『いい』側、勝利を勝ち取れる側に回れると請け合うわけです。そしてそうでない側には目もくれる必要がないと言い切るんですよ。」(中略)
               「普通のアメリカ人はこの神話に非常な魅力を感じていますね」カッタブは続けた。「道徳的とか非常に倫理的な宗教ではないから、窮屈じゃない。小さいけれども柔弱なところのないウルトラ級の威力を持つイスラエルという国家をあがめる、男らしさを求める宗教なんですよ。彼らの神はスーパーマンとスターウォーズの混血で、ここと思えばまたあちらこちらという具合に炎の剣を振り回して、ズバズバと敵を切り倒していくんです。信仰の薄いものにとってはこの混血神は、聖書の神通力が依然として今も本物で現に生きていることを証明する存在です。彼らにとっては、ヨシュアが日刊紙(注 たぶんタブロイド紙のこと。日本のスポーツ新聞に相当)に毎日登場しているようなもんでしょうよ。」

               これは、ミーちゃんはーちゃんが言っているわけではなくて、当時パレスティナにお住まいの米国での弁護士経験もあるパレスティナ人のプロテスタント系福音派のキリスト者であるお方がおっしゃっていることである。お間違いのなきように。

               「フォルウェルのようなキリスト教徒のシオニストは、キリストの教えを捻じ曲げてしまう」のだそうで。そりゃ、そうだよね。主の祈りなんかはほとんど当時説教されなかっただろうし、山上の説教もすべて無視、いきなり旧約聖書の預言の特殊なところと、黙示録だけが聖書、みたいなところもあっただろうし。主の祈りだって、「み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」の「地にもなさせたまえ(イスラエルという近代国家が連戦連勝すること)」と読み替えるんだろうなぁ。

               「シオニズムに味方すれば正しい側、『いい』側、勝利を勝ち取れる側に回れると請け合うわけです。」という部分を見て、アメリカさまざまな選挙の末期のころに流れるCFを思い出してしまった。アメリカでは、この候補が勝つ側だ、それに乗り遅れるな、という主張のCFがかなり流れる。Analyse Thisという映画でも、このようなシーンが流れている。彼らは基本、勝ち組か負け組かで投票行動を決める人々なのだ。だからこそ、相手を徹底的にけなし、相手が負け組であることを印象付けるネガティブキャンペーンが成立するのだ。まさしく、この弁護士さん、アメリカ人の精神性をよくわかって、キリスト教徒のシオニストの言動を分析していらっしゃる、と思った。

               「道徳的とか非常に倫理的な宗教ではないから、窮屈じゃない。」まさに、その通り、アメリカ人は、窮屈じゃなくて、自由に生きるのが好きな人たちなので、そういう精神性にどんぴしゃりなんだと思う。まさしく、ホーマー・シンプソン(シンプソンズのメインキャラクター)がそうである。ちなみに、ホーマーシンプソン君の信仰(映像はここをクリック。神をスーパーマンと呼んでいるかのように聞こえる。一応、神とは呼んでないが、どう見ても神がイメージされるポーズではある。)そのものである。ある面で、シンプソンズの作者は、アメリカの中産階級のライフスタイルや考え方を揶揄するためにシンプソンズをかなりデフォルメして、カリカルチュア化して描いている節があるので、アメリカ人の中産階級の人たちの考え方や精神性がよくわかる。

               ここにアメリカの日刊紙という表現が出てくるが、これはウォール・ストリート・ジャーナルやワシントン・ポスト、ニューヨークタイムズなどの新聞ではない、USAトゥデイでもない。まさしく、日本のスポーツ新聞と同じ感じの芸能ニュースや三面記事というか、事件記事大好きな新聞がニューススタンドで売られているのだ。

               いぜん、のらくら者の日記で、カール・バルトがビリー・グラハムを脅迫(http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-da28.html)といったことが記事に乗せられていたが、まァ、この聖地旅行に行った人たちの感性としては、神は、ランボー怒りのアフガンで出てくる、ランボーのような存在なのだろう。Look Rambo!


               次回か、次次回へ、また続く。(全4回シリーズを予定)



              評価:
              ---
              ジェネオン エンタテインメント
              ¥ 1,490
              (2004-06-25)
              コメント:厨2病設定のエンタメとしてはありかもね。エンタメですから、エンターテイメント。

              2012.11.17 Saturday

              読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第3回)

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                  前回、聖地旅行に行っても、遺跡は見るものの、現実にその地域に住んでいるパレスティナ人やパレスティナ人キリスト教徒を全く無視する、という聖地旅行の問題をハルセルさんが指摘しておられることを記載したが、今回は、その聖地旅行のイスラエルという近代国家に与える影響についての部分を紹介していきたいと思います。

                 過去千年余にわたってエルサレムへは、キリスト教徒、モスレム、ユダヤ教徒が巡礼に訪れてきた。ところが1976年イスラエルがエルサレムを占領して以来、この年に退去やってくるのはキリスト教徒とユダヤ教徒だけになってしまった。(中略)
                 ユダヤ教徒はほんの少ししかイスラエルにやってこない。なにしろ世界中でわずか1400万、そのうち300万余がイスラエル国民だからだ。観光客のドルをあてにするには世界中で10億を占め、イスラエルの観光収入の70%余りを提供してくれているキリスト教徒を狙うしかない。その中でも福音派・聖書根本主義、ペンテコステ派、カリスマティック派などを中心とする保守派のキリスト教徒が、その観光収入の大半を提供しているのだ。
                 ベギンは首相になってから、親しく福音派・聖書根本主義者の牧師らと会見して、彼らのパケッジ・ツアーに援助の手を差し伸べた。早くも1981年にベギンはペンテコステ派の一派「神の集会」(注 アセンブリーズ・オブ・ゴッドかな)の牧師デーヴィッド・ルーイス夫妻を自宅に招いてもてなしている。そしてミズーリ州スプリングフィールドに本拠を置くこの牧師とパケッジ・ツアーの相談をし、ルーイスはその年自らの名を冠したツアーを組織して何千人もの福音派信徒をイスラエルに連れてきたのだ。(pp.178-179 青字はミーちゃんはーちゃんによる)

                 エルサレムは、ムスリムの人たちにとっても聖地のひとつなのだが、1980年代ころのイスラエルとアラブ社会との対立の中で、アラブ諸国がイスラエルを国家として承認していなかったので、当時はビザが発給されることもないため、エルサレムにムスリムたちが立ち入れなかったのも事実のようである。となると、人口としてむちゃくちゃ多いキリスト教徒、それも中近東から距離的に遠く、歴史的に関連も薄く、その分だけ憧憬の念の強いアメリカ人のキリスト教徒を、そして、当時の(今も)世界の覇権国家であり、ドルの発行元であり、お金を持っていたアメリカ人のキリスト教徒を主要なターゲット顧客と設定とするのは、非常に合理的な選択だと思う。
                 
                 その結果、これらの人々が大量に落としていく資金で、イスラエルという近代国家へのドルの流入が発生することになる。そういうわけで言うと、現金を運んでくれる観光客を呼び寄せることができる観光資源を持っているだけで、少し呼び水をしてやれば、人は大挙してやってきてくれることを意味するのだ。まさしく、関西の一部のお寺や観光施設と同じ構造を示している。私の住んでいる町でも、今年は、清盛がテーマだということらしいので、普段は緑色の地下鉄(写真はここをクリック)に赤いシールが貼られた特別編成の列車(写真はここをクリック)があるようだ。最初のこの編成の列車を見たときには、ぎょっとした。ま、仲良しにさせてもらっている神戸の地元商店街の皆さんが、ちょっこし潤ってくれているようなので、地域振興という点では、よしとしよう。

                 まぁ、そういう意味で言うと、ベギンさんは、呼び水としてデーヴィッド・ルーイスさん夫妻を招き、パッケージツアーをしたらしい。このあとには、仮庵の祭(スカス)で一週間の間エルサレムの街を叫び、歌い、踊り歩いたカリスマ派の旅行者の姿が描かれている。仮庵の祭りの原義と意義を忘れた旅行者たちだったのだろう。ちなみに、イスラエルでは、熱心な人たちは、マンションに住んでいても、この期間ベランダに建てたテントで過ごすらしい。

                 次に著者のハルセルさんが参加したツアーの異常さを記載した部分を紹介してみたい。

                 
                どちらのツアー(注 フォルウェル主催のツアー)でも私は、自分たちがキリスト教にゆかりの土地で過ごし、キリストについて耳にした時間と、シオニスト国家(注 近代国家としてのイスラエル)が上げてきた政治的・軍事的以下について聞かされてた時間とを、数えてみた。その比率はおよそ1対30になった。つまり私たちはキリストの教えについて、1時間学ぶ毎に、イスラエルの政治・軍事的側面については30時間も聞かされていたことになる。新約聖書からイエスの名が読み上げられるのを聞いたのは3回だった。一度は、フィリポ・カイザリアで、キリスト教の信徒代表が使徒言行録の24勝1-9節を読み上げた。二度目はイエスがペテロに「私はこの岩の上に私の教会を建てる」と告げたゆかりの地で。3度目はガリラヤ湖でだった。(同書 p.183青字はミーちゃんはーちゃんによる)



                 つまり、聖地旅行と言いながら、当時のイスラエルの政策を聞かされる場であり、イスラエルとその周辺の地域との関係を学ぶことなく、また、イエスの足跡に十分に触れてもいない(まァ、イエスの足跡といっても2000年たっているので結構怪しいものが多いのも事実だが・・・)。どうも、それがこの時代のフォルウェル主催のツアーの実情だったようだ。これだと、何をしにイスラエルまで行っているのかわからない。要するに、イスラエル政府の政策をふきこまれに行ったようものであり、イスラエルの風土自体を自由に体験できたわけでもなさそうだ。参加された方にご同情申し上げたい。

                 著者の記述によると、どうも、日曜日の礼拝も、パレスティナやエルサレムにある教会でするのではなく、ホテルの会議室でしたらしいし。長らくその地で頑張ってきたカトリック教会やギリシア正教会の教会でアメリカのプロテスタントの人たちが礼拝するわけにもいかんという、参加者側と受け入れ側の教会の心情の問題もあるのだろうが。せっかくだから、ギリシア正教の聖餐式にオブザーバーとしてでも参加してみるということもないだろう。ほとんどの信徒はギリシア語が分からないだろうから。行けば、それはそれでここまで同じキリスト教で様式に対する考え方が違うのか、ということが分かって面白いのに。


                 しかし、わざわざイスラエルに行ってまで触れるのは、旧約聖書の記述ですらなく、現代の近代国家としてのイスラエルの政治的・軍事的情勢についてばかり聞かされるのは、いろんな意味で、非常にたまらん経験だったに違いない。

                 私の大学時代の恩師の一人にヘブライ大学で学位を取られたオリエント史の先生がおられたが、その先生が語られる聖地の風景で地域としてのイスラエル(近代国家としてのイスラエルではなく)を知るのと、このようなツアーに行って地域としてのイスラエルを知るのとでは、どっちがよかったのだろうか、と思うてしもうた。なお、このヘブライ大学でダビデ・ソロモン王朝時代の考古学の研究をされてこられた先生が、乾季の後の雨がどれだけすごいことをイスラエルの枯れ川ワジにもたらすか、ということをお話しくださったが、それは、私の想像を絶するものだったらしい、とだけは当時でもなんとなくわかった。この説明をするため、第I列王記のエリヤが腰をからげて走って行ったところの記事を説明された。


                 これをまさか後年カリフォルニアで体験することになろうとは、思いもよらなかった。乾燥地帯であるカリフォルニアでは、雨対策が弱いので、日本の標準で、ああ、少し強い雨だな・・・、と思っていると、それだけで道路は洪水、川のようになったのであった。道路がまるで、ワジ状態・・・。もうちょっとで、車をぶつけるところだった。

                 ところで、ヘブル語もギリシア語も読めない人たちが現地に行って何をするのだろうか、と素朴に思ってしまった。発掘作業の手伝いをするはずもないし、死海文書の解読の手伝いなんて、とてもできないだろうし。させてくれ、といっても、貴重な資料をむちゃくちゃにされそうで、断られるであろうが。

                 次回は、本書で、福音派・聖書根本主義者(僕のことですか?かもしれません。)と近代国家としてのイスラエルについての部分を紹介していきたいと思っとります。



                2012.11.21 Wednesday

                読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第4回 最終回)

                0

                    前回まで、アメリカ人の福音派・聖書根本主義者のテレビ伝道者主催のイスラエル聖地旅行についての部分をご紹介してきましたが、今回は、イスラエルという国家や、ユダヤ人シオニストと福音派・聖書根本主義者との関連についての部分をご紹介していこうと思います。



                  読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第2回)…



                   一応、今回で、この本のご紹介は終わりたいと思います。

                   まず、1985年にバーゼルで開かれたキリスト教徒シオニスト会議での著者のハルセルさんによる参加記録を引用してみたいと思います。

                   スピーカーたちは、ホロコースト、つまりナチスによるユダヤ人迫害で世界中が同情し、ユダヤ人国家建設の道が開かれた経緯を話した。だが彼らのだれ一人として、イスラエル人、キリスト教徒の別なく、核時代においては私たちすべての人類が何らかの形で隣人として生きるすべを学ぶ必要があることには、まるで言及しなかったのだ。アラブ人、イスラエル人、すべての敵同士が融和と平和にこぎつける方法を提示して世界に希望を与えるどころか、どのスピーカーも自分たちに危険が迫っているとするあのユダヤ人に昔からつき纏って離れない恐怖を一層強めることしか口にしなかったのである。(同書 p199)

                   この時代の危機意識、というのはよくわかるのですが、また、ここに挙げられている男性的な聖書理解というのか、極めて単純化された福音書の主張からやや離れた聖書理解であり、その結果「天国に行けるかどうかが重要」という危機意識を起点として福音が語られることが多いので、その延長線上でイスラエルの危険を語るのは、精神構造としてミーちゃんはーちゃんは理解できないわけではないのですが、どうも、福音書のイエスの主張(特に、山上の説教の精神)と合わないのではないか、と著者のハルセルさんは、おっしゃっておられるようです。

                   この種のユダヤ人の危機意識の構造につして、イスラエル人のドキュメンタリー映像作家が制作したDefamationという映像資料があるのですが、これは、アメリカ国内のみならず、世界各地でのユダヤ人人権問題への対応組織についての行動について、記録されています。この本を読んだとき、まずこの映像資料のことを思い出してしまいました。YouTube にだれかがアップしているので、全部をここ(http://www.youtube.com/watch?v=TOUlJLrQ3sQ)で見られます。ただし、ほとんどが英語ですが、英語が割とゆっくりしているので理解はしやすいと思います。DVDは英語版のみかな。

                   パレスティナ人市長を殺害し、岩のドームを破壊しようとした科で有罪宣告を受けたテロリストの首魁モシェ・レヴィンゲール・ラビは、彼自身と無数の仲間たちのシオニズム感をこう定義している。
                   「シオニズムは神秘主義だ。神秘的メシア観の根を切れば、それは枯れてしまう。シオニズムは合理主義的な言葉では考えられない運動だ。現実の政治、国際関係、国際世論、統計、社会胴体などの言葉では考えることができない。シオニズムは神の戒律のことばでしか考えられないのだ。重要なのはただ一つ、創世記に記されているアブラハムに対する神のお約束なのだ。」(同書p.215)


                   イスラエル人シオニストが、シオニストを神秘主義であると言っておられる。あー、出た。神秘主義。神秘主義であるが故に検証できないし、検証する気もそもそもないみたいなんだなぁ、とは理解した。

                   合理主義的な言葉で考えられない、ということは、基本的に対話の拒否なのである。イスラム過激派とまったく同じ精神構造をしていて、それがゆえに過激派同士が武力闘争しているのかなぁ、と思ってしまった。彼らにとっての他者とのコミュニケーションは、合理的な言葉によるものではないらしい。合理的な言葉で考えることができない、という以上、むき出しの暴力によるコミュニケーションにならざるを得ないのだろう。これは、だれにでもわかるから。

                   日本でも、過激派同士、特に武装闘争派同士の武装闘争が1960年代末から1970年代に頻発したが、合理的な言葉で考えられなかったのかもしれない。冷静さを失った神秘主義者ほど怖いものはないのだろうと、この部分を読みながら、改めて実感した次第。

                   ユダヤ人シオニスト指導者たちがリベラル派による指示から保守派のキリスト教徒に乗り換えた理由について、次のように書いている。

                   
                  NCC( National Council of Churches)はおよそ4000万のキリスト教徒を代表している。福音派・聖書根本主義者もほぼ同数だ。しかしNCC系列の4000万信徒はばらばらにしかイスラエルのアラブ領土占有を非難しないからほとんど取るに足らない。しかし福音派・聖書根本主義派の4000万派一致団結して、神自らがイスラエルに奪える限りのアラブ領土はすべていかなる土地でも奪えと欲しておられるものと、心底から熱心に信じているのだ。これでは到底太刀打ちできまい。
                   イスラエルとユダヤ系アメリカ人のリーダーたちは、聖書根本主義派の狂信的戦闘性に匹敵する迫力が主流派キリスト教徒には何もないと気づいている。根本派にとってイスラエルは、自分たちの経済と直結した本質的な宗教的関心の対象なのだ。(同書 p291)


                   これは、ハルセルさんの分析であって、ミーちゃんはーちゃんの分析ではありません。ただ、ミーちゃんはーちゃんは軟弱なFundamentalist(多分、下で紹介する本で、J.I.Packerの言う意味でのFundamentalist)なので、狂信的戦闘性を持っていませんし、すべての聖書根本主義派に属する人々が狂信的戦闘性を持っていないことは確かですが、アメリカではそのかなりの部分が退役軍人や軍関係者であったり、軍事産業と何らかの形でつながっていたり、経済的な面で軍事産業との関連の影響を受けやすい人々であるので、あくまで、アメリカという国家では、ですよ、そのアメリカ合衆国での国家という枠内にお住まいの聖書根本主義者の方々の中には、経済(というよりかは、彼らのお財布)と直結した宗教的な関心を持つ人々がおられることは、そうだろうなぁ、と思います。

                   現実に2002年ごろにアメリカにいたころ、Evangelical Free Churchであるとおっしゃっておられる教会に通っていたのですが、そこで、イラク戦争反対、というひそひそ声は聞こえても、公にそのことを教会内で主張するのははばかられる雰囲気が漂っておりましたです。はい。なんでそんな戦闘的なの?とも聞けなかったですね。

                   近年のアメリカ英語自体が、基本的にやや戦闘的な言語であり、非常にインパクトがあることに価値を見出す言語の形態をとっておるという印象を持っておりますが、そのあたりも影響しているのではなかろうか、と思います。

                   以前、大学院生相手にアメリカの学校で1990年代末に教えておりましたときに、同僚だった女性の先生に、「あなたたちはいい人なのに、なんで言葉はそんなに戦闘的なの?」って聞いたら、「・・・・」と一瞬彼女が凍ってしまったことを思い出します。彼女は、本当にいい人だったんですよ。まぁ、反資本家的なところがございましたが。

                   戦闘的といえば、続く部分でこのようにハルセルさんは書いておられます。

                   親イスラエル派がいわゆる「男性的キリスト教(注 ハルセルさんが言う聖書根本主義者)」と言う厳格な宗派に鞍替えした三番目の理由は、双方のリーダーがともに兵器増産、軍隊増強、軍事力で目標を達成するやり方を信じ切っている点だ。(同書p232)


                   先にも書きましたように、軍関係者、元軍関係者、軍事産業関係者の方も、このグループには確かに少なくないので、ある面、軍事力で目標達成するやり方を信じ切っているというのはあると思います。企業などでも生産力向上、合理化のツールとして使われておりますオペレーションズ・リサーチ(まさしく作戦研究)は、まさしく第2次世界大戦中、日本軍やドイツ軍と軍事力で先頭し、被害を最小化しながら、戦闘に勝利する為の技術から発達した技術なのですね。

                   パワーポイントとかを使ったプレゼンテーション技術は、もともと、軍の将軍だの大統領を含め大統領側近の皆様に作戦の概略を示し、納得してもらうために生まれた技術に端を発しているので、これまた軍と直結しているのですね。

                   あと、宇宙開発技術では、アポロ計画に使われたロケットは、大陸間弾道ミサイル技術の延長線上にございますですし。

                   その結果、もともと、反ユダヤ主義→反差別的で、リベラル色の強かったアメリカのユダヤ人に何が起こったかについて、ハルセルさんは次のように書いています。

                   イスラエルがアメリカの植民地的軍事国家に変貌し、ウルトラ右翼のキリスト教徒と同盟を結んだために、リベラル派のユダヤ系アメリカ人は帰趨に迷い、居心地の悪い思いをしている。(同書 p.240)

                   個人的に法廷論争が好きで見ているLaw & Orderで出てくるユダヤ系NY市警察の刑事のMunchと呼ばれる警察官の設定(http://en.wikipedia.org/wiki/John_Munch)は、リベラルということになっている。彼は、一応、現代ヘブル語がしゃべれるという設定になっている。このマンチおじさんなんかや、ニューヨークのジャーナリストや法曹関係者たちが、結構居心地の悪い思いをしているのだろう。Law & Oder SVU の番組内では、Hate Crime(差別による犯罪)も扱うので、結構ユダヤ人問題が出てくることが多い。このあたりも、先にご紹介したDefamation(http://www.youtube.com/watch?v=TOUlJLrQ3sQ)を見てもらうと、なんとなくその実情がご理解いただけるか、と思う。

                   まぁ、もっと生々しい表現や記述、厳しい表現が本書内では繰り広げらておりましたが、ここにご紹介した一部(まだ、それでも穏健な記述が中心)でも、十分、気持ち悪くなったり、鼻から牛乳経験された方もおられたかもしれません。そうなられた方には、こころからお詫び申し上げますが、ハルセルさんには、こう見えていた、ということで、ご理解を。本当はもっとショッキングな内容Jel-USA-lem(エルサレムはJerusalemと英語でつづるはず)とか満載でしたから。

                   最後に、何人かのユダヤ系の方々のご発言がこの本にご紹介されていたので、それを紹介してこの記事を閉じたいと思います。

                   有名なバイオリン奏者エフディ・メニューヒンの父モシェが精神的避難場所を求めて新たに作られたユダヤ国家に移住したものの、シオニストが「神ではなく自らの権力」を崇拝しているのを知ると政治的シオニズムにとって代わられた預言者のユダヤ教が「悲惨なデカダン」に陥っていることを嘆いている。
                   エルサレムの『ポスト』紙のインタビューで、有名なユダヤ系アメリカ人のバイオリン奏者アイザック・スターンは、シオニズムとシオニスト国家を「わが汚されし夢」と呼んでいるのだ。(同書p212)

                   このあたりの様々な人が直面する現実と様々な人が抱いた理想の違いをどう考えるのか、Fundamentalismの系譜に属すと分類されるキリスト者として自己反省的に考えないといけないなぁ、と思ったことをお伝えして、この記事を閉じます。

                   ちなみにメニューヒンの演奏(あ、グレン・グールドと一緒)は古い白黒動画で、画質は少し、ひどいですが、こちらで。(http://nicoviewer.net/sm16115603)

                   アイザック・スターンはこちらで(http://www.youtube.com/watch?v=P8Oo9m5s4Ss)。(そういえばセサミストリートに出ていたのを見たことがある[http://muppet.wikia.com/wiki/Isaac_Stern])確か、アイザック・スターンは、映画のMusic of the Heart(http://www.youtube.com/watch?v=jHD5tjCrdws)にも出演していたように思う。見た瞬間、それこそ、ビックらこいたけれども。

                   ということで、これらの映像をお楽しみくだされ。ミュージック・オブ・ハート、アメリカの音楽教育の現実を描いていたようにも思います。子供たちが言っていたカリフォルニアの小学校では、音楽教育、いっさいなかったなぁ。


                   ところで、日本の方で、羽村の風、というブログをお書きになった方が、これらの戦闘的なキリスト者の問題について、既にふれられておられたので、関連分だけ、ご紹介。特に、キリスト教が倫理化していくことに伴う問題を紹介しておられるジーザス・キャンプを紹介した「原理主義キリスト教」再考は秀逸。


                  「原理主義キリスト教」再考

                  「正義の戦争」を考える

                  いま、改めて「聖戦論」を問う



                   ま、そんなこんなで、こういう戦闘的なアメリカ人のキリスト者たちが、いたということのご紹介。実は、これが間違いじゃね?と言っているアメリカ人の方の記事(日本語変換)を次回以降ご紹介。

                   「正義の戦争」を考える、で出てくるWayne Grudem さんの問題も、実は次回以降、3部作構成でご紹介します記事にも出てきます。本職の神学部の先生だけあって、聖書解釈の中からかなり明確に、それも議論に用いられる部分の解釈の問題として取り出しておられます。羽村の風の方の論点とアメリカの神学部の先生の論点は、極めて共通していますのが、実はアメリカで、このことを正面切って言っていることがすごいので、次回以降は、こちらをご紹介いたします。



                   お詫びと訂正

                   ご紹介したブログのお名前を間違えておりました。こころからお詫びして、訂正申し上げます。

                   正 羽村の風
                   誤 羽室の風

                  謹んで訂正いたします。ご指摘いただきました、ヤンキー牧師先生には、心より御礼申し上げます。


                  評価:
                  Yoav Shamir,Yoav Shamir,Morten Højbjerg,Karoline Leth,Knut Ogris,Nynne Selin,Sandra Itkoff
                  First Run Features
                  ¥ 1,127
                  (2010-05-18)
                  コメント:イスラエル人監督が作成したアメリカ国内での反ユダヤ主義対抗団体の行動についてのドキュメンタリー映像。ユダヤ人の意識とアメリカ人の意識のギャップが大変興味深い。

                  評価:
                  J. I. Packer
                  Eerdmans Pub Co
                  ¥ 821
                  (1984-07)
                  コメント:パッカー博士によるFundamentalismの理解に関する本。冷静に書かれていて、非常に好感が持てました。

                  評価:
                  マリアンヌ・マッダレーナ,パメラ・グレイ
                  ワーナー・ホーム・ビデオ
                  ¥ 991
                  (2012-04-04)
                  コメント:アメリカの公立学校における音楽教育の位置づけなどがよくわかる。それから、アメリカの音楽家のアウトリーチに関する考え方の一端が現れているかも。

                  2012.11.23 Friday

                  上智大学大阪サテライトキャンパス講演会のお知らせ。

                  0
                     

                    上智大学大阪サテライトキャンパスで、上智大学文学部教授 川島信三先生(イエズス会司祭)による公開講座

                    秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか ― 伴天連追放令の背景

                    が開催されるようです。

                    上記のサイトによれば、講演概要は以下の通り。

                     日本の戦国末期に移入されたキリスト教は、様々な社会的背景の追い風をうけ、大きな集団へと成長しました。それはキリスト教側からみればよろこぶべき発展 でしたが、天下統一を目論む為政者にとってはどのように受けとめられたのでしょうか。

                     特に、1587年(天正15)に「伴天連追放令」をだした秀吉の意図 はなんであったのか。その原因を探るために、先ず、秀吉の全国制覇の最終段階であった「九州仕置き」と「長崎イエズス会領」の関係を日本史的課題として取 り上げ考察します。

                     また、秀吉のキリシタン政策の真意はどこにあったかを、1597年の長崎西坂における26聖人の殉教の背景から考察したいと思います。 その際、キリスト教側にあったイスパニア系とポルトガル系の二つの宣教方針の違いを比較検討します。

                     また、キリシタン信徒集団についても、公認→迫害→禁教のながれの中での変化をみていきます。国家と宗教のあり方。統一政権の外交問題。信教の自由と国策の関係など、多くの要因をあわせて考えていきます。


                    ということだそうです。

                     第1次キリスト教ブームと呼ばれる戦国末期のキリシタンについての講演のようです。


                     一応有料で、1回2500円。2回ともで5000円。上智の関係者は500円の割引がある模様。

                     なお、高山右近に関しては、2011年の聖トーマス大学の講演会が参考になるかもしれませんのでご紹介しておきます。


                    聖トマス大学 夏期神学講座(2011年度)
                    テーマ: ユスト高山右近の列福運動と聖性への普遍的召命
                    ( ※ 一連の講義すべてを網羅してはおりません。 )
                    7月25日(月曜日)
                    講師: 溝部 脩 高松教区名誉司教
                    7月26日(火曜日)
                    講師: 晴佐久 昌英 東京教区司祭
                    7月27日(水曜日)
                    講師: 英 楼賚 イエズス会司祭
                    7月28日(木曜日)
                    講師: 酒井俊弘 オプス・デイ属人区司祭
                    講師: アンドレア・ボナツィ 聖トマス大学キリスト教文化研究所所長
                    7月29日(金曜日)
                    講師: アンドレア・ボナツィ 聖トマス大学キリスト教文化研究所所長

                    2012.11.24 Saturday

                    結婚相手としての牧師の厳しさ

                    0
                       ここのところ、気分の悪い記事が続いたので、ちょっとお気楽な(でもテーマ的には、気分が悪くなりそう)テーマで書いてみようかと。

                       実は、いつも愛読しているヤンキー牧師のブログで、

                      僧侶じゃなくちゃいけないんですか?牧師じゃダメなんですか?


                      を受けて・・・。

                       ポイントは、現代の若い女性が、結婚相手としてお坊様をお選びになるものの、牧師には嫁候補がいない、という話なのですね。教会には女性信徒がうなるほどいるのに・・・。ヤンキー牧師は、3つのポイントを挙げておられます。

                      (1)牧師だと、悔い改めよ、と説教されそう。(ジョナサン・エドワーズか?)

                      (2)生活大変そう(でも、若手ボンビー芸人と結婚する女子はいる)

                      (3)信仰の内実が問われそう

                      で、それで思ったことを書いておこうかと。しかし、三相交流電源みたいな、三『そう』交流不可能牧師の話になりそうだけど。

                      (1)牧師だと説教されそう。

                       確かにこれはあるだろう。冗談めかして、以前、IT系奥様幸せのためのしてはならない七カ条をもじって、説教者系奥様幸せのための七カ条などという戯けた記事をミーちゃんはーちゃんは書いたが、まァ、説教者系男子は、説教こそがキモ(一番重要)だと完璧に誤解している人が多いので、どうしても「説教1番、家族は2番、3時のおやつは文明堂(オリジナルはここをクリック。ガウディのサクラダファミリアと思しきお菓子の建物の前でのくまダンスのCM)」になってしまうのかもしれない。本当は違うのにね。説教がね、一番なんてことはないんですよ。神と共に歩む家庭というコミュニティこそ、まず、基礎なんですけどね。旧約聖書では、教会というコミュニティができる前に家庭というコミュニティが造られていること忘れて、現実に振り回される説教者の説教っていったい、・・・・とミーちゃんはーちゃんは思うのであった。

                       キリスト新聞社刊(キリ新の回し物と呼びたければ、呼ばれよ。キリ新の御用ブログと言いたくば言われよ。)の「健康な教会」を目指して −その診断と処方 越川弘英編・関谷直人著(下記リンク参照) には、説教依存症のページに、次のような記述がある。

                       説教は難しい。「長すぎる」と文句を言われ、短すぎると「CS(注 子供向け聖書学級)の説教みたいだ」といわれる。難しい話をすると、「何を言っているのか、わけがわからない」という信徒が出てくるし、わかりやすい話をすると、今度は「信徒を馬鹿にしている」と言われたりする。もっとも信徒が直接牧師に文句を言うことはなく、そうした「文句」はもっぱら、祈祷会後に湯飲みを洗う厨房でのおしゃべり(注 これを教会系女子は聞いている可能性大。聞かされる牧師夫人はつらかろう。)や、日曜日の夜遅くの役員同士の電話の中に登場する。文句を言うのは結構だが、同時に牧師の説教のためにぜひ祈ってほしい。そして、そんな祈り心を持って説教を聞いてほしいのである。
                       牧師にとって一番きついのは、説教だに立つときに「はぁ〜、どうせ今朝もいつものつまらない話をするんだろう」というオーラを信徒から感じることだ。説教が始まってすぐに信徒が週報の報告欄を読み始めるのは悪いしるしだし、下向き加減になって目を閉じている姿勢は緩やかな拒絶だ。説教中にあちこちから聖書やら讃美歌やらが床に落ちる音がすることも説教者をなえさせるだろう。(同書 p32)
                       牧師の奥さんとなるということは、教会のキッチンで繰り広げられる配偶者の文句、苦情、批評、批判を毎週聞くことに耐えなければならない、ということでもあるのだ。教会系女子は、ベテランの女性信徒(お局様みたいな女性信徒や大阪のおばちゃん風信徒のキッツイ女性信徒)のみなさんの物言いを知っているだけに、あれに自分がさらされるのか、と思うとそりゃ、二の足踏むでしょうよ。もし、二の足踏まないとしたら、マザーテレサ級の大物か、ステゴザウルスクラスの鈍感力に優れた方ではないだろうか(それはそれで偉大だけれども)。


                      (2)生活大変そう。

                       これは、切実な問題としてあると思う。経済的にも苦しければ、精神的にも苦しいとは思う。それ以上に、信徒から注視される精神的な監禁状態があるからだと思う。教会女子が牧師を配偶者に選ぶのに躊躇するのは、自分たちもしてきたことを、自分が牧師の配偶者になったらされることを知っているからなのではないか、と思う。これは、確実にそうだと思う。

                       先ほどの、キリスト新聞社刊「健康な教会」を目指して −その診断と処方 越川弘英編・関谷直人著には、金銀は私たちにはない、のタイトルのもと次のような記述がある。

                       しかし、貧しければそれでよい、というものではない。ときには過度の貧しさの強調は、特に牧師やその家族の上に想像以上のストレスを与えるものとなるからである。以前あるところで、一人の牧師の妻が、「教会の財務役員さんからガスを使いすぎると注意を受けた」と嘆いていたと言う話を聞いたことがある。その牧師家庭は前の月に赤ちゃんが生まれたばかりで、哺乳瓶を煮沸するためにお湯を沸かしていたためにそれまでの月よりもガス代が高くなっていたのだ。そのことを信徒に説明すると、「私たちが若いころには哺乳瓶の煮沸なんてしゃれたことはしなかった」と一括されたという。っクリスチャン(とくに献身者)は「清貧に甘んじる」べきだという思いがあったとしても、これはあんまりな気がするのである。
                       私が牧会に出る前に先輩の牧師から言われた言葉。「関谷君、牧会に出て、特に地方の教会に赴任したら、自動車に乗ることになるだろう。自分で買うんだったら、2000CCはだめだよ。ちょっと立派すぎるから。1800CCも避けた方がいいな。1500CCのカローラなら安全件だ。もちろん中古だよ。僕はずっと中古の軽自動車だったよ。それならどの信徒にも負けるからね」。
                       (中略)
                       しかし、「貧しさ」の美点を強調する余り、自分たちの霊的指導者に過度なストレスを与えるようなことがあってはならない。そんなぎりぎりの状態では、創造的な牧師の働きは到底期待できないのだから。(同書 pp.53-55)


                       これは、どう考えてもキッツイよな。ミーちゃんはーちゃんは、この話を読みながら、思わず涙がこぼれてしもうた。教会女子で、教会歴が長くなれば長くなるほど、この種の牧師夫人へのあしらいは肌感覚として知っているだろうから、これで二の足を踏まなければ、あなたは勇者だ。

                       この話を読みながら、おとなり大韓民国の牧師先生のことを考えてしもうた。大韓民国の牧師先生のすべてではないが、規模の大きい教会の信徒数も多く、祝福を受けた教会の牧師先生が、スズキのワゴンR(あれは名車だと思うのだが・・・服部先生、見ていただけてます?)やダイハツのミライース(CMでブルース・ウィルスがコミカルなキャラででていた。彼はもともとコメディ出身なのでね。出世作は、こちらブルームーン探偵社)に乗っている人は寡聞にして知らない(ミーちゃんはーちゃんが無知なだけ、という説はある)。なんか、みんなメルセデスを転がしてそう(こう書くといやらしく聞こえるがベンツのこと メルセデスは女性名なので、いやらしさが漂ってしまうが、アメリカ人は、あの戦車みたいな車をメルセデスと呼ぶことが多い)な気がするのは、たぶん気のせい。

                       キリスト新聞社刊「健康な教会」を目指して −その診断と処方 越川弘英編・関谷直人著の対談部(これがまた実に面白い)では、牧師の子供たちについて、こう書かれている部分がある。

                      関谷ー PKというのは、日本ではなじみのない言葉かもしれませんが、英語でPastor's Kidsつまり「牧師の子供」のことを意味します。
                       こう言う言葉が存在するということは、欧米では牧師の子供に何らかの共通する特徴があるということを意味すると思います。それは、おそらく日本でも同じだと思います。
                       牧師に気をつけていただきたいことの一つは、牧師の子供というのは一般の家庭の子供と比べて非常に「露出度」が高いということです。
                       (中略)
                       また牧師の子供は、大体日曜日は教会に行くことが義務付けられているわけですから、常に多くの人に一挙一動を見られていることになります。ある意味では信徒から大事にされ、かわいがられてはいるのですけれども、やはり常に他人の目にさらされているということは、子供にとって大きなストレスになっているということを、親としては知っておいていただきたいのです。 
                       (中略)
                      関谷ー そうですね。逆に私は多くのPKたちが、教会における牧師としての父親と、家庭の中での父親のギャップに戸惑っているのを知っています。「あんな父親が礼拝説教で何を言っているんだ」などということを聞きます。(同書pp.119-121)
                       そう、これまたキリスト新聞社のMinistry2011年冬号(Vol.8)(注 この号は上智の雨宮先生が取り上げられているので、大事な1号。ヲタのミーちゃんはーちゃんは保存用にもう一冊買おうかと思ったほどであった。)で取り上げられていたように、牧師の子供たちは、かなりつらい思いをしているようだ。中でも、一番、「あぁ〜」と思ったのは、「受験のときに期待された。牧師の子だからって頭がいいわけではない。(20代製造業・男)」、「何をやっても「信仰的、聖書的か」をチェックされるような気がした(40代福祉関係・男)」、「牧師を辞任に追い込むやり方がひどすぎる。(30代神学生・男)」という部分であった。これはきついだろう。

                       そういえば、フランシス・シェーファー親子の問題が子シェーファーによる暴露本に近い自伝の出版で、アメリカでは一時期話題に上がったが、これも、この辺に関係しているのかもしれない。まだ、子シェーファーの問題となった自伝は読んでいないし、注文もしていない。

                       先日、ある教会にお邪魔した(本当にお邪魔虫した。でも、
                      ニコ生のアルファベット一文字牧師の超有名生主のように、ハレルヤーといって混乱させたりはしなかった)時のことをこの記事を書きながら思い出してしまった。その教会の牧師先生というか仲良くしてもらっている方に1歳の息子さんがおられ、その息子さんがまた愛想良しの可愛いお子さんなので、みんなのアイドルになっていたのだが、ある女性信徒の方が、かわいく思ったのであろう、お菓子をあげ始めた。それはそれでかわいいと思ったが故の行為だったようだが、そのお子さんのお母様に当たる牧師夫人の方は少し困った顔をしておられた。晩御飯を食べなくなり、甘いお菓子を子供が求めるようになるからだ。それを敏感に見てとった若い牧師先生は(偉かったよN先生)、とっさに子供さんを抱き上げて、「この子に『勝手にこの子にえさを与えないでください』って札、ぶら下げようかなぁ。」と冗談交じりに言いながら、何とか信徒の年配女性のお菓子攻撃からお子さんを守ろうとしておられたが、結局女性信徒の方はお菓子をあげてしまっていた。

                       これを見ながら、結構厳しいよなぁ、と思ってしまったのだ。自分の子供が
                      勝手に教会員のおもちゃになってしまうのを防ぎたくても、防げないのだ。その教会の帰り道、うちの奥さんが電車の中で、「N先生の奥さん、偉いなぁ。黙っていた。」というのを聞いて、なるほどなぁ、と思ったのである。「牧師家庭の子供は、信徒のおもちゃじゃございません。
                      と思ってしまった。

                       教会女子は、教会生活が長くなればなるほど、このようなことを見ているのだろう。だからこそ、牧師萌えにはなっていないのではなかろうか。求む。牧師萌え教会女子。

                      (3)信仰の内実が問われそう。

                       これは、キリスト者であれば、常にYHWY様から問われているはずなので、これは大したことにはならないのではないか。とは思った。問われてないとすると、逆に大問題ではないかと、ミーちゃんはーちゃんは思ってしまった。


                       今回も、キリスト新聞社さんの書籍、雑誌などのオンパレードのなってしまった。キリ新の回し物と呼びたければ、呼ばれよ。キリ新の御用ブログと言いたくば言われよ。それでも、こういう本出してくれるキリ新が好き。

                       特に「健康な教会」を目指して −その診断と処方 越川弘英編・関谷直人著 キリスト新聞社刊 は対談の部分がお勧め。教会で直面するかもしれないDVの問題とその対策などにも触れておられる。非常にお勧めの一冊。



                      評価:
                      関谷 直人
                      キリスト新聞社
                      ---
                      (2007-10)
                      コメント:教会が抱える様々な問題(症例)と対処法(治療方針)を、ユーモアを持ちつつ書かれた本。ミーちゃんはーちゃん大絶賛。

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