2012.09.06 Thursday

終末論とオウム真理教のデジャブ

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     以前、ここでも書いたかもしれないが、終末論にやや強調を置く人々が多かった(一部には今なお終末論に関心をお持ちの方でそのことを聖書からとして語られる方が多い)キリスト者集団の端くれに居るので、オウムの人たちが出たときには、あれ、どこかで見た光景ということで、デジャブ体験をした記憶がある。確かに終末のことも、聖書には書いてあるけど、それだけを語るのもねぇ。予想屋じゃないんですから。

     ところで、オウム真理教といえば、世田谷道場だの富士の本部だのが取り上げられたころや石垣島セミナーのころの熱狂、衆院選のころの騒動(マスコミの報道を含めて)、終末を語る麻原彰晃こと松本死刑囚を見ているときに、あれれ、うちで1980年ごろ起きたこととよく似ている終末論だなぁ、と思ったことがある。1990年ごろまでは関東に居たので、衆院議員選挙でのNHKで放送された真理党の政見放送を見た記憶がある。

     断片的な報道の中で語られる終末論が、末法思想のような仏教的な終末論ではなく、あまりに自派の終末論と似ているので、一時期はかなりオウム真理教をまじめにウォッチしていたことがある。といっても、別冊宝島を買い込む程度、ではあったが。当時は、新新宗教ブームで、オウムだけではなく、法の華(足裏見て、寄進を要請 「最高ですか〜?」が有名)とか、大川隆法先生のグループとか、ライフスペース(死者を死者でないとした)、真光などが活発に活動していたし、信仰者の端くれとして、これらの信仰者をどう捕らえるのか、という問題意識があったように思う。主流派以外のキリスト者としての説明を果たす一環として、これらとの差異を明確にする必要があったし、そのようないわゆる非伝統宗教団体に人が集まる理由は何だったのかを知りたい、と思ったからでもあったように記憶している。それで、オウム真理教関連の本も大量に買い込んでいた時期があったが、引越しとともに、収容不可となったので、ブックオフさんに買い取ってもらった。

     大和郷にある教会のブログ記事で、最近、オウム真理教がまた取り上げられていたのと、面白そうな本(
    オウム真理教の精神史ーロマン主義・全体主義・原理主義)のご紹介があったので、とりあえず近くの図書館から借りて読んでみた。

     基本、ロマン主義を根っことして全体主義・原理主義が近代の否定として派生し、その中でオカルトやニューエイジ思想、洗脳や原理主義、ノストラダムスの大預言とがどのように位置づけられるのかを、とりあえず整理して見せた本であった。近代国家と個人の関係、近代個人と共同体としての宗教との関係、近代の国民国家を前提とした社会における個人の死をどう位置づけるのかが不確定になったことが、近代社会におけるコミュニティの崩壊に伴う個人の孤独、一種のロマン主義や特定の死の問題を扱う宗教的関心によって形成されたコミュニティの形成という視点からオウム真理教をどう位置づけるのか、という視点で書かれていたように思う。

     その意味で、この本は、オウム真理教の本ではなく、オウム真理教のようなカルト的な集団に共通する近代との対決を語っている本だし、その対決の通奏低音として、ロマン主義、全体主義、原理主義があるといえることを指摘した本である。

     その意味で、オウム真理教の本、ではなく、近代における国家と対立的な立場や、国家を無視したような集団に共通する属性を持つ宗教集団がどのような背景の中で、いかに形成されたか、そして、されうるのか、を示すための本であるといえよう。オウム真理教は、そのフレームワークから見た分析対象でしかなく、著者の主張を位置づけるための素材でしかないので、厚みが薄いとは感じた。

     同書の中で、キリスト教原理主義の中で、ハル・リンゼイという懐かしい名前が出てきた。レフト・ビハインド シリーズのティム・ラヘイと類似した主張をしておられた方である。そういえば、1970年代末の終末論ブームのころには、本が出ていた。家にもあるかもしれない。

     それ以上に驚いたのは、依然私の所属するキリスト者集団の中で、全国を飛び回って活躍をし、今も関西を中心にその関係者の方々が多い宇野正美さんという名前が出たことである。評価は中立的に(ま、学問ですから)書かれていたが、日本でのキリスト教原理主義に大きな影響を与えた人物として描かれたので、少し驚いた。高木慶太さんでもなく、宇野正美さんだったからである。

     まぁ、もちろん、宇野さんも、最初は、私の所属するキリスト者集団の中で、聖書預言(エゼキエルとダニエル書が中心)を中心に語っていたが、そのうち、シオンの議定書がどうのこうの、アシュケナージユダヤ人がどうのこうのと、次第に聖書の本論から外れていき、そのうち「ユダヤがわかると・・・」とユダヤ陰謀史観にのっとった本を何冊かお書きになられ、次第に、教会を中心にするのではなく、全国各地で主に中小企業の管理職や社長クラスの講演活動を中心にされていったようである。

     宇野さんは現在も講演活動をされておられ、最近はフォトンベルトだの地震兵器だのにも講演の内容が及んでおられるようです。先日改革派のある若い牧師さんから、先生、これ、知ってます、と聞かれて、「あっちゃー、宇野さんねぇ。昔はうちの看板説教者だったけどねぇ・・・」と答えざるを得なかったと同時に内容がどんどんオカルトになっているその変わりようにびっくりしてしまった。聖書はどこに行ったのだろう。宇野さんにとって・・・。

     ところで、先に上げた本の中での大田さんの主張には、おおむね賛成できるなぁ、と思った。私の所属するキリスト者集団は、19世紀イギリスのロマン主義の影響を受けていることは確かだし、そのことは、私の属するキリスト者集団のアメリカ人の信者さんで、テキサスの聖書学校をしておられた先生が、著書で指摘しておられる。

     私は、私の属する集団が、キリスト教原理主義者の中の原理主義者といってもよい集団であることも、私は、認める。ま、逐語霊感説に立ち、聖書に書かれている通りを信じるという意味では、J.I.Packerの言う意味での原理主義では少なくともその分類に属する。私の所属する集団の大半の人は、そうは言わないと思うが。そもそも私がその片隅にいるキリスト者集団では、「自分たちをキリスト教ではない」と言い切る方が多いので。それって、一種の原理主義者じゃないか、と思うのだけれども。では、多くの私の属するキリスト者集団の信者さんが、なんというかというと、自分たちは、「聖書の神への信仰者であって、キリスト教という宗教に属するものではない」とご自身を定義する方が多いと思う。「聖書の神への信仰者であって」というのはその通りであるが、「キリスト教という宗教に属するものではない」は、いたずらに一般の方に混乱を招くだけだと思う。外部から見る限り、キリストに対する信仰がある以上、キリスト教だと見えるからである。


     私は、所詮、キリスト教という語は外部の人たちが私たちに張るラベルに過ぎないから、そこを云々しても無意味だと思っているので、「キリスト教ですか?」といわれたら、「はいそうです、宗教改革前後に発生したキリスト教の影響を強く受けていますよ。」といいます。説明が面倒だし。どうせ細かなことを説明してもうんざりされるか、わかった顔をされて、説明を聞くのを回避されるので。大体、ルターは知られていても、カルヴァンは認識していない人も多いし。ツィングリに至っては何をかいわんや。

     話をオウムに戻すと、オウムがおもちゃ箱のようにいろいろなグループのオカルトチックというのか証明不可能な話を持ち込んで、自派の教説に取り込んでいたのは有名な話であり、これらは、別冊宝島(今は手元にないのでわからない)で、ある社会学者だったか宗教学者と麻原さんとの対話の中で、ビックリマンチョコかおもちゃ箱をひっくり返したような、という表現で、オウムの主張のシンクレティズムの多様性が紹介されていたような記憶がある。対談相手は、宮台氏だったような気がするが・・・。そのうちのひとつに、キリスト教のディスペンセーショナリズム(古典的ディスペンセーショナリズム)が持ち込まれていたようであり、その主張の根源が、日本人ユダヤ人同祖論だったり、シオンの議定書だったり、再臨信仰だったりしていたので、何かどっかで似ている、と私が感じてもしょうがなかったのだなぁ、と思った。
     
     オウムを見てデジャブと思ったのには、それなりの理由があったのだと思って、少し安心した。

     あと、この本を読んで、少し気になったことがあるが、それはまた次回に。



    2012.09.10 Monday

    オウム真理教の精神史ーロマン主義・全体主義・原理主義 を読んで思ったこと

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       前回の続きで、

      オウム真理教の精神史ーロマン主義・全体主義・原理主義

      を読んで思ったことを、少しメモ的に書いておこうかなぁ、と。

      というのは、この本で抜けているかも、と思う視点が二つあるからである。ひとつは、オウムに潜む、あるいは、そのほかの宗教団体に潜む進化論的な指向性というものである。もうひとつは、オウムにおける具体性の重視という側面である。

       まず、一点目の進化論的な思考方法の浸透による影響である。この問題は全体主義の問題と関係するのであるが、宗教団体内に何らかの階層構造を想定するということは、あるレベルから別のより高位のレベルにのみの一方通行的な階層構造のみが想定されるということであり、より高位のレベルから低位のレベルへの移行と言うことが想定されにくい点である。つまり、上へ上への指向はあっても、上から下への移行や、そちらに向かう方向性すら考えられないのではないだろうか。これは、進化論の一方向的な方向性が漠然と想定されているように思うのである。

       近代のキリスト教会で言えば、牧師から平信徒への移行ができないため、死ぬまで牧師といった例も考えられるであろうし、教会役員が辞められない、辞めてくれない、とかいった例が、これにあたるかもしれない。イエスは神としての姿を捨てて、上(神の御座)から下(地上)に移行したにもかかわらず、それに追随するはずのキリスト者にとって、これは意外と難しいのであり、この経験は、実は信仰者の信仰生活の見直しにとって、非常に重要なのではないか、と考えている。持っているものを捨てる、という経験として、この種の上から下への移行を具体的に経験することは、意外と重要なことかもしれないのである。

       オウムでは、一時期、教祖としてアーチャリーを担ぐ動きがあったが、宗教法人として解散してしまったために、その後どうなったのかよくわからない。公安調査庁さんはきちんとモニターしておられるはずであるが、現在私には、調べる方法と、その気持ちはない。

       オウム真理教の精神史ーロマン主義・全体主義・原理主義を読んで抜けているかなぁ、と思った第2の点は、オウムの持っていた具体性というのか、目に見えることというのか、感性に訴える、というのか身体との関連のところの記述が非常に弱いところだと思う。

       基本宗教学の本なので、理念や個人の思想や神概念などの思索が中心になると思うので、この部分が抜けるのは仕方がないのかもしれないが、オウムがオウムであったのは、その信者個人の身体を使うところや、身体を使って信者個人が感じるという点であり、具体性にあったのではないか、と思う。このことは、オウムがヨガサークルを出発母体にしていることに強く関係すると思う。それを見逃すとオウムのかなりの部分が抜けてしまうように私には思えた。

       オウムの皆さんは理念としての麻原さんの言うことや、その主張に共鳴していたというよりは、具体的に体を動かして何かしたときに体験できたことや経験できたこと、麻原さんに手でさわってもらったりして、感じたことや体験できたこと、他の信者がやって見せたことを見ることの中に、何らかの意義を見出していたのではないか、と思うのである。

       このあたりのことは、麻原さんが鍼灸師の資格を持っていたことや、麻原さんのお兄さんが技能レベルの高いマッサージ師であることで触れているというものの、自分が触れられるものや自分が触ってもらって感じることが希薄な現代人であるからこそ、麻原さんに触れてもらうこと(シャクティパットとかありましたなぁ)や麻原さんが風呂に入ったあとの残り水といった私には気色悪く思えて仕方ないものに高額のお布施を払ったのではないだろうか。それは、身体的感覚を求めるあまり、個人的な関係を求める行為が行き着いた先だったのかもしれない。まぁ、それも、新約聖書に出てくる、イエスの衣に触ることさえできれば、自分の婦人科病が治ると思った女性の行為を換骨奪胎したものなのかもしれないが。

       麻原さんご自身が主張するように麻原さんは人であり神であるという概念は、麻原さんご自身やその信徒さんが主張するのは自由であるが、聖書からは支持されないと思う。彼らが面倒だなぁ、と思うのは、シンクレティズムが行き着いた先として、チベット仏教やら日本のカルト的な信仰やら、怪しげな伝承やらと一緒に聖書の一部を自分たちの教義と言うのか、宗教的理解の中に取り込み、ガラガラポンしてしまっている点であり、それを引き離し分離して、整理して再構築することが困難な点である。いろんなものがくっついたおもちゃ箱状態、それがオウムの実態であったのではないか、と思うのである。

       個々のパーツをくっつけるものが、ロマン主義であり、そこに巧妙にくっつけられた対象が原理主義であり、それを束ねているものが全体主義なのではないか、とこの本を読みながら考えた。そして、これらを生み出していくことを可能にしたメディアが身体的接触というのか身体的行為として統合されたヨーガの一種としての行為なのではないか、という素朴な感想を持っている。また、それを分解して、再構築したら、オウムはオウムでなくなるような気がする。それが近代の分析的思想の持つ視点の限界かもしれない。

       オウムがアレフと光の輪とそのほかのマイナーグループに分裂し、今となっては、オウムの思想というのか、宗教としての特質というのか、宗教的理解そのものを理解するのが困難になりつつある。

       私を含めてであるが、どちらかというと現代のプロテスタント系キリスト教は頭でっかちになっており、信仰における身体性を失っているのかもしれない。私などは、病者の塗油塗油の儀式だの終油の儀式などはしないし。意外とこのあたりの身体性と言うのが、体験的に感じられること、ということが重要なのかもしれない。だからといって、そういうことをしようとも思わないし、するべきだ、とも思わないが。ただ、聖餐式をどうするのか、賛美をどうするのか、という部分は、もう少し深く考えることは意味があるかもしれない。宗教と身体性との関連で。といって、ロシア正教のように、神父様がお香をたいておられる間、何かしないといけない、というのも、個人的には勘弁してほしい、とは思うが。



       
      2012.09.16 Sunday

      飢え過ぎ献身ならぬ植え過ぎ献身

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         最近、私の周りの関係者の皆さんが、献身を巡る話題が取り上げられておられる。献身者と献身する時点を巡る「あぁ、大いなる勘違い」についての問題が取り上げられていたが、それを読みながら、ちょっと悪乗りをしてしまおうかと。しなきゃいいんだけど、してみたくなるのが、ミーちゃんはーちゃんの悪いところ。

        発想のもと記事となったのがこれで、
        人生いろいろ、献身もいろいろ(追加)〜「飢え過ぎ献身」

        水谷さんによる整理が、
        人生いろいろ、献身もいろいろ(エピソード編)〜「献身維新の会」

         『飢え過ぎ献身』は、清貧の思想にも通じるストイシズムが、献身者にとって神の座を占めてしまいかねない問題を取り上げたものである。一種の繁栄の神学の対極にあるというものの、ここまで行くと行きすぎ、という事例である。

         これに対し、『植え過ぎ献身』とは、教会設立の数だけしかしない献身者の問題である。これも繁栄の神学(経済的な豊かさが神の祝福であるという考えや、教会員の人数を神の祝福の反映と理解する)のキリスト教界に潜みやすいマツガイというか、「あぁ、勘違い」の亜種ではあろうと思う。

         『植え過ぎ献身』先生の場合、本人は「(表向きは)神の祝福によってこれだけの数の教会を建て上げた(植えた)。これこそ神の祝福だ。」と思っているのだが、『植え過ぎ献身』先生の教会でキリストに出会った信徒は悲惨なことになりかねない。といっても、『植え過ぎ献身』先生の聖書理解が異端のそれでなければ、その信仰自体は間違ったものではない。ちょうど、アポロの理解が十分でなくても、一定の意味をもっていたのと同様に。自分たちの聖書理解が間違っており、自分たちの信仰が無意味だ、と思う必要はないのである。キリストのことばは、植え過ぎ先生の問題をはるかに超越したものであると、ミーちゃんはーちゃんは確信している。

         ところで、『植え過ぎ献身』先生の問題というのは、信徒が成長しないうちに次の教会建設というか伝道活動を開始してしまうために、信仰をもって間もない信者が適切な聖書理解や信仰の成長のための配慮を受けないまま放置される場合があったり、子泣きジジイ信者は論外としても、関係性の中で成長していく機会が失われたり、信仰をもって間もない信者をOJTのノリで無理やりに『植え過ぎ献身』先生の伝道活動に借り出したり、信徒を奉仕という名をかたってまだ聖書理解も十分でない信徒を教会活動の要員として酷使した結果、本来の信仰理解が歪んでしまったり、信仰そのものに絶望感を抱いてしまったり、とここまで来るとカルト的という批判を受けても仕方がない側面も起きるだろう。

         また、『植え過ぎ献身』先生の場合、多数のサテライト教会というか、多数の独立教会が乱立し、その乱立した教会であるがゆえに、自分たちのそれぞれの教会内部で本来問題を解決すべきであるにもかかわらず、教会としての形成が十分でないまま放置されるために、自分たちで解決できず、それぞれの教会が『植え過ぎ献身』先生に介入を求め、問題解決を図ってもらうということになりかねない。

         となると、それぞれの教会の独立性が阻害されるのみならず、『植え過ぎ献身』先生の問題解決者、調停者としての権威が高まってしまい、それのみならず、問題解決者や調停者として活動するなかで、聖書に言及があるため、問題解決者や調停者としての権威の向上に加えて、聖書理解の権威としての権威性までが向上してしまうという副作用症状まで見られる事例が、時に見られるような気がする。また、問題解決を依頼する教会は、教会で、いつまでも依頼する習慣が抜けないために、自立に向けての成長が阻害される状況が発生しかねない。これが続くと、依存と介入の繰り返しになり適切な成長の阻害が生まれてしまう。

         また、介入を依頼される『植え過ぎ献身』先生は、日常の信徒の状況を十分把握しないままの教会への介入を求められることとなり、どのような影響を介入がもたらすのか、ということを十分把握できないまま介入をせざるをえない。比較的妥当な介入が行われた場合、「やはり植え過ぎ先生はすごい」と神格化が進むし、妥当な介入とならなかった場合、「こんなことで植え過ぎ先生をお煩わせたのがいけなかったのかも・・・」とネガティブな側面からの神格化が進むいうことになりかねない。いずれも、神格化が進みかねない危険性もはらんでいる。

         この『植え過ぎ先生』のあと始末をさせられる牧師や信徒は、たまったものではない。ボロボロになった信者さんの多数の群れがそれぞれ別の群れを形成しており、信者群としての成長ができていないために、それぞれが我こそは正統的なこの教会群の後継教会なんて思った日には、その教会群の中でのお家騒動、となりかねない問題まで生んでしまう。

         いずれにしても、『植え過ぎ』先生の熱意に燃えた献身というか、自己実現というのか、自己満足のための手段と化した伝道活動というか、宣教活動というか、自分自身のお考えに神の名を無理やりこじつけたご活動だけは、お控え願えれば、と思う。






        2012.09.24 Monday

        ライト読書会に行ってきた

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           先週の土曜日、朝2の新幹線に乗って、これまで行きたくても実現しなかったライト読書会に初めて参加させていただいた。今回読んだのは、「主の祈り」と出エジプトの荒野での出来事を重ね合わせて読む、というライト先生の論文に関する読書会であった。

           参加するまでに読んでいて思ったのは、『試練』や『試み』(peirasmos)に関する私の解釈が根本的に変わる可能性があることであった。試練を「キリスト者が経験する困難性」としてとらえてきたが、そうではなくライト先生の書かれたことをミーちゃんはーちゃんが理解した範囲では、「キリスト者が経験する困難性の中で、神の力を試すようなつぶやき(ツイートではなくぐちぐちいうこと)、神への苦情申し立て、神の力を試そうとするような行為」とライト先生は主張しておられたと理解した。しかし、『試み』をこう理解してよいのだろうか、ということである。こういう転換ができれば、『試み』や『試練』の理解がミーちゃんはーちゃんの中では画期的に変わる、と思った。それに合わせて、終末理解とそこでの試みというか、試練に関する理解ががらっと変わるのではないか、ということを思った。

           『試み』の理解が、この方向に変われば、『キリスト者であれば、試練に耐えなければならない』というこれまでの肩肘張った生き方から、解放されて、少し楽になれるかもしれんなぁ、と素朴に思ってしまった。

           もうひとつ、この論文を読みながら思ったことは、ここまで象徴的な解釈をして大丈夫なのだろうか、と思ってしまったのである。参加者の方にこの質問をぶつけてみたところ、ライトさんは、何でもかんでもtypological(類型論的)解釈をしているのではなく、聖書的文脈とテキストに基づく解釈なのでOKではないか、ということだったが、わがキリスト者集団に紹介する場合には、相当慎重に取り扱わないと、何でもかんでも類型論、類型論の無理やりあてはめをしそうで、ちょっと怖さがあった。我がキリスト者集団は真面目だし、伝道熱心なのはよいのだけれども、自己の考え方を批判的にとらえる部分が弱いのがねぇ。それと、我がキリスト者集団では、主の祈りを黙殺に近い形で扱うのでねぇ。教会のイベントなんかや、日常のプログラムの中で合同で唱える習慣は、我がキリスト者集団にはないように思う。ディスペンセーション神学の性質から、こうなる、ということらしい。

           この読書会で理解した範囲では、主の祈りを形式として、単に唱えるのではなく、その意味、その祈りが述べられた歴史的文脈、旧約的な背景、旧約のメシア理解との関連を深く考え、深く理解しながら味わい祈ることが重要であるということであったように思う。ライト先生の御主張によれば、バプティスマ、聖餐に並ぶ重要性が主の祈りにはある、ということのようである。主の祈りつについて、荒野での放浪時代のイスラエルにとっての十戒に相当するような重要性をもつもの、とライト先生はご指摘であったように理解したが、この点は、ミーちゃんはーちゃんにとっては、非常に画期的な指摘を受けたように思った。

           それと、読書会に参加しながら、じつは、この論文の中でふれられていた『peirasmos(試練とか、艱難とか、試み)』ということの理解が、終末論や十字架の意味と密接に結びついており、それをどう考えるかが、終末について、触れられている部分の聖書の読み方を画期的に変える可能性があるということを思ってしまった。

           読書会に参加させていただいて(小嶋先生、ファシリテーター役ありがとうございました)、メシア待望の中でのユダヤ教の中での試練を予期するような理解の伝統やイエス時代の神殿神学と主の祈りとの関係などについての理解のきっかけをいただいたように思う。

           実に充実した週末を過ごせたように思う。キチンとライト先生の御主張を理解しているのかどうかは、かなり疑問であるけれども。



          評価:
          N. T. Wright
          Fortress Pr
          ¥ 1,028
          (2009-01)

          2012.09.27 Thursday

          若者が教会に行かないアメリカでの7つの理由

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             ある方(はちこさん)が、Facebookでシェアしておられ、面白いとおもったので、日本語変換(翻訳ではない)したものを載せてみようと思う。ある面、日本で、若者がお寺や教会に行かない理由と共通しているのではないか、と思うからである。
             
             なお、オリジナルのテキストは、こちらから取りました。

            ---------------------------------<日本語変換>-----------------------------------------
             ときどき、なぜ、青年時代の人々は、教会から離れるのだろうか?ということを私は考える。答えは人それぞれ違うだろうが、多くの場合、いくつかの一般的な傾向があるのではないか、と思うのだ。

             以下での「私たち、私自身、私」として書くことは、私自身よりもより若い世代を示しているのであり、私自身のことそのものではない。

            I 我々は傷ついている


             私自身、傷ついたものの一人である。ある場合、傷つけるような行為は特定的なものである。たとえば、青年会のリーダが適切でない質問をしたといって私に向かって聖書を投げつけた行為や、説教壇で語られる言葉や、スモールグループでの活動や、食事をしながらでの会話における表現であったりする。ある場合、もっと身体的なもので、性的虐待やその種のものを含むこともある(変換者注 この種のものでは、アメリカでは、カトリック教会が大規模な訴訟に巻き込まれた事例が結構有名。個人的に、カトリックに関する偏見はあまりない、と思う。だって、雨宮先生やナウエン大好きだし)


             多くの苦情が教会に寄せられているはずであるが、問題が解決されたことがない。なぜだろうか。その理由の一部は、教会がめったに(変換者補足 自らの誤りを認め、)『赦し』を求めないからである。(変換者注 教会や牧師が、自己正当化する傾向にあるからなのかもしれない。)


            II 青年期の生き方のスタイルや、大学での生活と教会の生活パターンが一致しない

             たとえば、日曜日の朝に活動が割り当てられている等のような、明らかなことが存在するけれども(変換者注 青年期の人々は、バーやクラブと呼ばれる酒場に土曜日の夜に出歩く傾向がある)、それ以上のことがあるのだ。
             大学に行くまでに、両親から、新しい世界をみて、そして、視野を広げるように、そして批判的に考え、すべてのことにい互いをもち、自分自身を見つめ直すように言われることが多いと思う。確かにこのことに価値があるのであるが、しかしそれは、きわめて個人的なものである。だが、教会は、コミュニティ(共同体)に関するものなのだ。

             多くの場合、コミュニティというものは、かなりの程度、同一的な性質や同質的な性質をもつものであり、「ドアを通る前にあなたの考えを確かめてからにしてね」ということを要求するような雰囲気をもったものなのである。これらのことは、世間一般が、青年期に重要である、としていることとは非常に対立的な立場なのである。

             高校卒業後1年くらい地域での活動をすることが強調される背景には、このような活動が、この時期の青年期の自意識過剰な状態への自然な改善の方法であることがあるのだろう。

            III 教会への自然に足を向けるためのアプローチがない


             多くの青年は、大学に行くためであれ、旅行のためであれ、仕事のためであれ、高校を卒業後、家族から離れる。景気の悪い時には、これらの数は少なくなるかもしれないが、それは自然な流れである、(変換者注 ということはアメリカでのパラサイトシングルの存在は、景気とリンクするのだろうなぁ。なお、学生時代に親と同居する若者は、変人扱いをアメリカでは受ける傾向があるようだ。Law and Orderを見ていると、そのような表現が結構ある。)
             既存教会のモデルは、コミュニティとは総体的に落ち着いたものであり、教会はその安定的なコミュニティの中心にあるという仮定の上に成り立っているのだ。それほどではないかもしれなくなっているかもしれないが。
             私が大学に行っていたころ、クラブ(変換者注 女子の場合、キューティブロンドに出てくる寮を運営する組織がこの友愛会というクラブに当たる。有名なのでは、パパブッシュもダボヤブッシュ元大統領も入っていたと言われるスカルプアンドボーンズ が有名。日本には、これに相当する組織がない大学が大半だと思われる。)から誘われたり、キャンパスで活動するグループから誘われたり、クレジットカード会社からカードのお誘いを受けることはあるが、教会から誘われることはなかった。教会とのコネクションは、公園で、牛の角(変換者注 角は、罪を示す象徴として用いられることが多い。日本では牛角は全国チェーンの焼肉屋さんのトレードマーク)のついた箱の中に文字どおり立って、私たちの罪深い生き方について叫んでいるおバカな人だけであった(変換者注 いくらなんでも、これでは引くだろう、エキセントリックにして注目されるのはいいけど、広告としてのセンスはないよなぁ)

             私自身の借金問題に対応するためのサポートがあったらどんなだったろう(変換者注 借金天国、あるいは借金地獄が普通なアメリカでは、教会が来会者向けに借金に関する支援をするところもあるというニュースクリップを、CNNか何かで見たような気がする)。友人のネットワークを作ることができたらどんなだったろう。もし気にかけてもらったらどうだっただろう。地域のレストランでただでピザを食べられていたらどうだったろう。選択するのを手伝ってくれる人がいたら、どうだったろう。だけど、教会といえば、角をつけた変な人だけしかいなかったのだ。
             ところで、あなたの教会では、20代や30代の人にどのように接する体制をもっているだろうか。

            IV 我々の意識が向いていない


             最近の記事で、街中で、灰の水曜日(変換者注 イースター直前の水曜日)の儀式を行った神父についてのダイアナ バトラー バスのビデオ(変換者注 たぶん、オリジナルはこれかな?違うかもしれないが。)を紹介した。普通の人が、あの神父を見たら、深い眠りから、たたき起こされるような経験をするのではないだろうか。

             人々が灰をつけないかと言われたきに、「今日は、灰の水曜日だ!レント(受難日)が始まったね」と驚きをもっていっていた。しかし、レントは、彼らの心にはまったく引っかかっていなかったようだ。

             こうなるのは、我々が気にしていないからではない。限られた時間と注意力の中で、さまざまなことが行き交っているために、すぐに理解できるない受動的なことは、うずたかく積まれた『後ですること』の項目に放り込まれてしまうのである。そして、『後ですること』はほとんど顧みられることがなく、次のことへと移っていくのである。

            V 我々は、懐疑的なのである

             我々は、これまでのどの世代が一生の間にさらされた量よりも多い広告宣伝にさらされている。ホテルに座ってこの文章を書いているが、この部屋の中にも、広告があちこちにあるのだ。テレビをつければ、CMが流される。見られる。電話がかかってくれば、広告が聞こえてくる、ネットにつなげば・・・・、もう言葉がない。お分かりのことだとは思う。

             我々の前の世代は、情報を求めるためエネルギーを費やしてきたが、今日、圧倒的な量の情報が我々のところにやってきて、必要な情報を見つけ出すために見つけるのと同様のエネルギーを要するのである。このことは、意識が固まってしまうことになりやあすく、あなたの注目を得ようとする人は何らかの方法で何かを求めることを意味してしまうのである。

            VI 我々は疲れ切っている

             私自身は、X世代、別名、いい加減な世代として知られている世代の一部をなしている。しかし、このことは、我々が怠け者であるのでもなく、モティベーションがない人々であることを意味しない。

             我々の世代以前よりも大学に行く人数が多いことを考えてほしい。家庭の基準となる経済水準が上がり、中産階級の生活水準を維持して生活するために、共働きが当たり前であることを理解してほしい。(変換者注 大学の大衆化が最初に始まったのはアメリカであったと思う。ただし、アメリカの場合、大学に行くための学資ローンを組むのは、親ではなく、学生本人だけど。だから借金まみれになっていることが多い。日本でも、日本育英会が学資ローンをするようになったので、変わってきたが。)

             借金と、クレジットがあり、正規職員や正規社員として働きながら、結婚生活を続け、子供を育て、友人との時間を過ごしていると、神がお許しにならないだろうけれども、我々のための時間は、まったくないのである。

             我々は、赤字生活を送っているのである(変換者注 感覚として、アメリカ人の大半はそうだとおもう。クレジットの金利で泣かされている。日本のクレジット会社は、金利はうるさくないが、アメリカは結構金利が高い。日本は、住宅ローンに追われているのだろうと思う。住宅ローン、返し終わって残るのは、35年物の中古住宅で転売が困難な物件になっていることが多い。なので、アメリカ人は7-8年で転居したり、住宅価格の維持するために、芝刈りに精を出す。日本も住宅の転売価格を意識する社会に向かっていくのかもしれない。人口減少社会だから)。教会のために時間とお金を取っておくように言おうものなら、あなたは空っぽのところから抜き出そうと努力するようなものである。

            VII 我々は、よくわからんのだ。


            今日の青年世代は、かなりの長期間教会生活を離れている世代である。多くの場合、われわれが教会から離れた、ということではなく、そこに行ったことがないのである。(変換者注 日本の観光目的で拝観料をとるお寺以外のお寺も似たようなものか。なんせイオンさんにお葬式を頼む時代になったくらいだから。教会もお寺も、普段行くようなところではない、と思われている点では、似たようなものかもね。しかし、教会員がイオンさんに牧師を頼むようになったら、終わりやね。)

             私が外部から言うことができるのは、そこに行く意義が見いだせない、ということであり、何か見つかるかどうかと、教会のドアを通って、その中に入ろうとするリスクを負担してまでしてみようと、していないということだ。

             これらの私が触れてきた問題に何か少しでも対応するための洞察が提示できれば、と試みてきたが、答えを見いだせないという緊張感をもって、しばらくそのことに我慢しながら考えることをしてほしい。できれば、青年層の人々を見つけてきて、教会と関係をもつことについてどう思うか聞いてみてほしい。そして、彼らが抱えている課題を教会が、ではなく、あなたが個人としてどう手伝えるのか、ということを考えてほしい。

             そこでの会話の内容は、非常にあなた自身を非常に驚かせるものになるのではないか、と思われる。
            ---------------------------------<日本語変換>-----------------------------------------

             次回、ミーちゃんはーちゃんによる、日本の若者と教会へ行かない理由、へと続く。チャンネルは、そのまま。次回を待て。

            2012.09.28 Friday

            いよいよ、明日いのフェスです。

            0
               いよいよ、明日、いのフェスというイベントが東京都台東区の東京卸商センター 3階展示場で10:30〜18:00で開催されます。

               ミーちゃんはーちゃんも、出店者として、サムワイズ牧師を支援する会(ブース番号5番)、支援者として、Guitar Praise for the Lord(ブース番号6番)あたりでふらふらしております。

               ぜひ、みなさんもいのフェスにお越しください。

               いのフェスで、何ができるかは、こちらをどうぞ。

               しかし、祈りによる共同体の形成、って、多様な聖書理解を含んだキリスト者群からなるため、祈祷書による一致という一致をしている英国国教会と何となく似ている感じがしますよね。



              2012.09.28 Friday

              日本で非キリスト者の若者が教会に行かない6つの理由

              0
                 最初に先ずお断りしておきます。できるだけ、短くしようと思いましたが、短くなりませんでした。申し訳ないが、お付き合いしたい人だけ、お付き合いしてください。

                 前回の記事を書きながら、日本で、キリスト者でない若者が教会にいかない理由は、何だろうと考えた。日本の若者は、教会風のホテルなどの結婚式場(信者もいなければ、聖なる儀式としてのバプテスマもしなければ、聖餐式はおろか、礼拝すらない、それらの聖なる儀式もなく、神の宣教(Missio Dei)とは全く無関係な建物であり、何にもまして信者でない人の結婚式が最優先で行われる教会もどきの建物)で結婚するのが好きである。

                 ところで、建物もパチモンなら、そこで司式する人もパチモンである可能性がある。つまり、神学校の卒業証書すら持っていないかもしれないパチモンの牧師もどきで、日本語がかろうじて理解できるくらいの下手さで下手であることが望ましく、さらにコーカシア系人種に見える人が望ましいとされる人物の司式(外国籍の人であっても、アジア系、インドネシア人や、アフリカ系の人々、ラテンアメリカのインディオ系の人々やカリブ海諸島系の人々、インド系の人々やマオリ系やアボリジニ系の人々であってはならないのが、一応暗黙のルール)で、ウェディングドレスを着ながら結婚式をするのが大好きな人々なのだ。ちなみに、ミーちゃんはーちゃんはこれらの人々、アジア系、インドネシア人や、アフリカ系の人々、ラテンアメリカのインディオ系の人々やカリブ海諸島系の人々、インド系の人々やマオリ系やアボリジニ系の人々に対する偏見はあまりない。

                 その症状が進行した人になると、ハワイまで行って、旅行会社と提携しているホンマもんの教会で、その教会(その教団や関連教派に属する教会)の信者でもないのに、にわかに信者になったふりをして結婚式を挙げるのが好きな人々なのだ。

                 しかし、こんなに結婚式を教会風の建物や、本物の教会であげることにこだわるのに、なぜ、普段は教会に行かないのか、それを信仰的な立場とは相いれない立場かもしれないが、外部者の観点に立ち、冷酷に見つめるマーケティング的な観点から、考えてみた。さすがに7つはなかったので、6つに絞ったけれども。あまりあたってないことを期待しているが、ある程度は当たっている部分の一つや二つはあるのではないか、と思うのである。

                I 日曜日の朝早くに行事が行われており、土曜日深夜枠のテレビのバラエティよりも面白くもなければ、若者にとって価値がある、と思えるものを提供しない場所、という印象がある


                 若者だって、かっこいいもの、価値あるものにはひかれ、金や時間やエネルギーを費やすのだ。似合うかどうかは別として、グッチやフェラガモ、エルメスなどのブランドは、価値があるとされるから、彼らはほしがっているのだ。話題性だけでもあれば、ウン十万もするケリーバッグだって、他人に買わせて貢がせるか、自分へのご褒美として買うかは別として、お金を出すのだ。くだらないと思えても、話題性があるからこそ、深夜枠のテレビのバラエティ放送をみんな見るのだ。週刊誌や月刊誌が売れるのだ。だれが、AKBのじゃんけん大会でセンターをとるのか、は若者にとって重要な情報なのだ。友人と話をするきっかけとして。自民党の総裁、民主党の代表がだれか、よりははるかに重要かもしれない。ためしに若い人に聞いてみたら、この感覚がわかるかもしれない。自民党の二代前の総裁はだれか、AKB48の2代前のセンターはだれか。後者は素早い反応が返ってくるが、大半の若ものは、前者はだれだっけ、と考え込んでしまうことが普通だろう。

                 価値は、個人や年齢層によって異なる、ということを、モノ不足だった時代に近代の大量生産大量消費時代を通過した今の60歳以上の大半の人には理解しにくいかもしれないが、現実には価値は、個人や年齢層によって、かなり違うように思う。そのことをマーケティング業界の人たちやテレビ業界の人たちはかなり意識していると思う。

                 さらに言えば、先日のニュースで結婚詐欺での訴訟案件をやっていたが、結婚してくれる、と思えばこそ、そこに希望があればこそ、異性からお金を請求されてお金を貢ぐ人もいるのだ。そういえば、数億円を病気を騙ったホステスの女性に貢いだ会社員がいたよなぁ。

                 ということは、日本人の一般の若い人にとって、教会というのが選択肢の一つであるとすれば、何らか社会的に若者の生活にとって価値あると思わせるものを教会が提供しているかどうか、ということが重要なのではないだろうか。あるいは、教会が提供しようとしているものの価値をわかりやすく提示することが必要なのではないだろうか。

                 ミーちゃんはーちゃんは、聖書には価値があると思っている。現在、その価値が若者に認められるよう提示されていない、プレゼンテーションされていない点が問題だ、と思うのが、それは言い過ぎかもしれない。

                 ただ、教会での提示の仕方として、これまでの伝統があるがために、本来価値があるイエスの主張、福音を、あまりにも聞き手を退屈させるような提示のされ方しかされていないのではないか、とは思う。それは、イエスが伝えようとした「福音」の価値を考えるとき、少し残念なアプローチかもしれない。

                II 教会への自然に足を向けるためのアプローチがない


                 これは、そうだと思う。まずもって、キリスト者自身、私自身を含め、教会堂にたてこもっている内弁慶キリスト者なのではないか、と思ってしまうのである。「相手に来てもらって当たり前」が続くと、確かにこうなりかねないのは分かる。アウトリーチはしていないわけではない。教会は確かに一般に広く門戸を開いている、伝道文書を配っている、というのはあるだろうが、若者をターゲットにした直接的コンタクトというのは、意外としていないかもしれない。

                 このアウトリーチの分野で、キリスト教の周辺組織で一番熱心なのは、モルモン教やポストに印刷物を入れてくださる『ものみの塔』の皆さんだろう。個人的に、彼らをキリスト教の範疇に入れることには、ものすごく抵抗があるが。モルモン教の人についていえば、日本のどこに行っても、ユタ州から来られた男性信徒の方が、二人ずれで自転車に乗って、自分自身を移動する広告塔にしておられる。この前、稲穂が輝く水田が連続する地域で、このような二人ずれを見た。

                 まぁ、自然なアプローチかどうかは別として、すくなくともアプローチをしようとしていることは確かである。ものみの塔の皆さんも、その印刷物に示されている絵画が自然と感じるかとか、好感度や完成度が高いとかんじるかどうかは別として、人々に必死でアプローチしているのは間違いない。

                 ところで、アプローチといえば、キャンパスでの強引な勧誘は、キリスト教風のカルトがあっちこっちの大学で問題起こしているし。こんな強引な方法での勧誘をする組織って、どこか自然じゃないよね。どう見ても、異質でしかない。強引な方法での勧誘って、人が引くのは当たり前、その勧誘でその組織につながろうとする人が特殊な人になるのは当たり前かもしれない。

                 ところで、地方を自動車で走れば、黒くべた塗りした看板に、白字や黄色で、『神の裁きがある 聖書』とか『悔い改めよ 聖書』と大書した看板が掛けられていることがあるが、これも角をつけたおじさんが公園で「悔い改めよ!滅びが来ますぞ!」と叫ぶのと一種センスが似ているだろう。これも、パブリック・リレーションという観点からの広告としてのセンスとしては、かなり疑問。

                 ところで、前回の記事を変換しながら、ミーちゃんはーちゃんが、大学時代に教会に行き続けるインセンティブになった一つの理由を思い出した。ミーちゃんはーちゃんがお世話になった教会では、毎週日曜日にお昼を出してくれていたのである。そして、お昼御飯のお残りをただでもらって帰って晩飯にしていたのである。安い寮の食堂が閉まっている日曜日に、これは実にありがたかった。今、娘が現在行っている教会でもそうしてもらっているらしく、彼女には、これがありがたいらしい。意外と、こういうことって大事かもしれない。

                 いくら情報が豊かで、スマートフォンで情報が提供されたとしても、スマートフォンで流れるサイトの情報では空いたおなかは満たせない、という厳然とした事実を少しでも考えてみることは重要かもしれない。

                III 教会は具体的な悩みに「祈れ」としか言ってもらえない場所、という印象がある

                 教会自身は、具体的な悩める人へのかなり親密なサポートをしていることも多いのだが、その実情は意外と知られていない。一般の人の印象としては、一般の人々がよく理解していないし、一般の人々にとって理解不能と思われる「『神』に祈りましょう。問題が解決されるように。」といわれる場所と思われていたり、「キリストに懺悔しましょう」といわれるためにある場所だと思われているようである。これでは、占いと大して変わらないし、お払いしてくれたり、何かというと、お経を読まされたり、祈祷代として賽銭を請求されるお寺と大して変わらない、という印象が続いているように思われる。

                 教会は、あなたに代わって借金は払ってくれないかもしれないが、借金問題について、聞いてくれたり、当たっているかどうかは別として、何らかの方向性を一緒に相談してくれたりする牧師さんがいる教会もいるのである。スカイプで相談に乗ってくれ、といわれて、朝4時でも対応してくれる牧師見習いさん(そんな奇特な牧師見習いの方に会いたい人は、いのフェスに行こう。)もいる教会もあったりするのである。

                 問題は、教会が社会の若者に提供していることがあまり知られていない、ということなのかもしれない。

                IV 教会は、社会の周辺にいる人々が集まっているところ、という認識が一般に広がっている

                 一番一般社会で有名なキリスト者はだれだろうと考えてみると、社会福祉関係の人が多い。典型的には、マザーテレサかな。個人的には、マザーテレサとその思想・考え方は好きだが、いかんせん、一般には、社会の周辺にいる人々に奉仕した人という印象が強すぎる。ごく普通の人ではないのだ。

                 逆に、元アイドルや芸能人など、一般に成功者と思われる社会の着目度の高い人々を取り込もう、と必死になっている教会は、T一○会をはじめとして、かなり怪しいところが多い。なお、統○教○はミーちゃんはーちゃんは、そもそもキリスト教ではない、と思っている。

                 だいたい「繁栄の神学」にかなり批判的な意識をもっているミーちゃんはーちゃんとしては、何かといえば成功者を担ぎ出す教会や、信徒数の多い牧師を成功者のように紹介する教会、あなたも成功者に神の力でなれると主張する教会には、ちょっと距離を置くような視線を向けている。あくまで、教会は普通の人たちからなるものであり、普通の人たちのものであってほしい、と思っている。教会は人を社会的な評価が高い成功者にするための組織ではない、と思うのだ。社会的な成功者になりたければ、会社でバリバリ働くとか、自分でベンチャーとして起業して、社長になればよいのであって、成功者に人をすることを教会に求めることはおかしいと思うのは、ミーちゃんはーちゃんだけだろうか。失敗者だらけの旧約聖書を、繁栄の神学では、どう理解するのだろうか。素朴な疑問がある。経済的に成功した場面だけを旧約から取り出すのかもしれない。それでは、聖書全体を読んだことにならないだろう。

                 確かに、教会にはまじめな人が多いので、そこそこ、社会で成功した、といわれる人たちも少なくないが、そればかりでは、偏っている、と思うのはミーちゃんはーちゃんのひがみあるいは歪かもしれない。

                V 我々は好き好んでマイノリティになりたくないのだ。


                 ヨーロッパ社会、アメリカ社会において、キリスト教は社会的なマジョリティであったし、現代のアメリカにおいては、その当否は別として、政治家の言動や政治構造にまで影響を与えるほど、マジョリティなのである(個人的には、自己の政治的な理想状態の実現の方法として、キリスト者が政治を利用するのは、悪影響が少なくない、と思う)。

                 しかし、IVとも関連するが、日本社会では、キリスト者は人数的には徹底的にマイノリティなのだ。日本社会では、戦国時代の一時期、それも、特定の地域ではマジョリティであった時代があったが、江戸時代以来、社会的、政治的マイノリティであったのである。確かに明治のご一新では制度的には、日本に高圧的に臨んできた欧米列強を黙らかすために、布教活動や表立っての圧迫はしなくなったというものの、マジョリティとはならなかった。その意味で、社会的なマイノリティであり続けた。

                 ところで、明治のご一新のころ、薩長土肥の下級武士であれば、政府に就職の口があったが、幕府と仲良しだった佐幕側の藩の下級武士の場合、当時の社会のマジョリティとの人間ネットワークもなく、社会に影響を与えるとすれば、軍隊に入って特別の武功をあげるか、出自がとらわれない分野、あるいは社会の周辺におかれていた芸能や文化や学問分野での評価を受けるしかなかったのである。学問にしても、文化にしても、芸能分野にしても、社会に与える影響力は大きいとはいえ、基本は才能のある一握りのマイノリティの人しか活躍できない。

                 ところで、キリスト教の初期の説教者のかなりの部分は、当時社会で肩身の狭かった佐幕側の藩の下級武士の出身者がかなり多く、そもそもマイノリティであったのである。

                 そして、15年戦争期前後に宗教団体法が成立するなか、キリスト教が宗教団体という枠組みの中で、法的に、そして、半ば公的に位置付けられただけで、当時のキリスト教会は、欣喜雀躍、とまではいかなかっただろうが、少なからぬキリスト者の人々が、これでようやく日かげ者の立場から出られる、位に思ったのではないか、と思われるほど、マイノリティであったのだ。だからこそ、なんだかなぁ、とは感じながらも、国家総動員体制の波に乗っていく教会が少なくはなかった。

                 米軍が日本に進駐し、マッカーサー元帥が伝道者を日本国中に進駐軍の力を使ってばらまいて初めて、進駐軍のご意向のもとマジョリティになれるか、と思いきや、マッカーサー元帥が更迭され、進駐軍の皆さんが次第に撤退して間もなく、日本のキリスト教ブームとやらはいずこかに消えてしまったのである。

                 1960年以降は、皆さんご存じのとおりのコースをたどった。プロテスタント、カトリックを合わせても、どうやったところで人口の1%を超えることのできないマイノリティであったのである。

                 他に、より大きな社会集団があるにもかかわらず、何もよりにもよって、家族の反対を押し切ったり、周囲が寄せる奇異の目にさらされるマイノリティの道に自ら足を突っ込む意味は、普通の現代日本に生きる若者にはあまりないのかもしれない。

                VI 我々は忙しいのである

                 若者にとって、テレビやインターネット、映画やファッション雑誌、マンガやお化粧品やファッションが重要なのである。それは、キャ○キャ○やメン○ クラブ等の雑誌を見ればよくわかる。あの手の雑誌は、特定の若者層に買ってもらわないといけないので、特定の層の若者を対象に、徹底的にマーケティングリサーチしている、と思う。詳しくは、月刊記録のOL関連記事を分析したこちらを見れば、この種の雑誌の企画がどう動いていったのか、そのためにかなり丹念なマーケティングリサーチしているんだろうなぁ、ということを知ることができる。教会はキャ○キャ○やメン○ クラブなどを読む読者層の一部でもとりこむような努力をしたかどうか、ということは考えてみてもよいかもしれない。

                 教会のアウトリーチも、情報によるしかないのである。前回の記事で指摘されていると同様に、現在は押し付け情報過多の時代なのである。情報過多の人々に無理やり情報を押し付けたとしても、選択的に処理されるのは仕方がないだろう、とは思う。

                 ところで、現代を生きる若者には、にわかに信じがたいかもしれないが、昔は、印刷物は高価であった。読みたくても、読むものを買うお金がない時代があったのである。ただでくれるギデオンの聖書が飛ぶように消えた時代があったのである。ところが、今は、読みたいものは携帯の端末料金と通信費だけ負担すれば、ただでいっくらでも手に入れられる時代なのである。

                 最近では、ギデオンの日英対訳聖書を中学校の前で無料で配れば、その日の中学校のゴミ箱はギデオンの対訳聖書であふれかえる時代なのだ。今の中学生諸君は、配布している皆さんへの親切心から受け取ってあげている、らしいのだが、受け取った上で必要がないとすれば、彼らはいとも簡単に捨ててしまうのだ。このことは、実際に我が子の学校で起きたことである。ちなみに我が子は、聖書と聖書関係の書物があふれているので、置き場に困ると思ったのか、もらわなかったそうである。

                 若者にとって、情報を選択的に入手できる時代であり、若者がそのことを実際にしている時代になっていることを教会は十分認識していないかもしれない。

                -------------------------------------------------------------

                 ここまで冗談半分、冷やかし半分に書いてみて、先日参加した某地方自治体での会議を思い出した。それは、某地方自治体の政策について。市民の人々の意見をどう拾っていけばいいのか、ということに関する会議であったが(踊る大捜査線の青島刑事からは、「事件は会議室で起きているのではない!」と叱られそうだが)、その会議の中で、一番議論になったのは、「これからのその自治体で活動するだろう若者にどう自治体にアプローチしてもらうか」という部分であった。お年寄りで、市役所にものを言いたい人たちは勝手に言ってくれるのである程度放置しておいても、先方から言ってくれるのでいいらしいのであるが、若い人はそもそも市役所の存在などをあまり意識してくれないので、どうすれば自分たちに振り向いてもらえるのか、ということを少し集中的に他の会議の参加者と少し議論した。

                 つまり、自治体も教会同様、忙しく、関心が分断化され分衆化してしまった若者たちにどう自分たちに振り向いてもらうのか、頭を悩ませているのだ。

                 企業でもそうである。関心が多様化した若者に話題にしてもらいたくて、ちょっと気色悪く描いたハイジやクララに「低燃ピッピッピー」と叫ばせたり、ジャン・レノにドラえもんの格好をさせたりして、どこでもドアと同じ機能を自動車が果たすことを印象付けながら、自動車を売らないといけなくなっているのだ。このあたりのCMを見ていると、日産やトヨタの必死さが伝わるような気がする。

                 昔は、若者も金がなく、時間や暇だけは大量にあったので、ブランド力のある人(たとえば、元野球選手や評論家)を講演会やイベントに呼んでくれば、そこそこ人は集まったのだ。今では、アイドルでも呼んでこない限り、動員は難しい。たとえ、アイドルを呼んで、そのアイドルを人寄せパンダにしたとしても、そのアイドルのファンという特定のグループのみが参加することになりかねず、広く一般に知らしめたことにならない、という問題を抱えることになる。

                 スポーツだって、そうである。野球を見る人はサッカーをあまり見ないだろうし、サッカーを見る人は、ほぼ野球は見ないだろう。この前、朝の番組を見ていたら、関西では比較的人気がある川籐という元野球選手が、「野球界が長期低迷している」という現状認識に立って巨人阪神の元選手による野球のイベントを宣伝していたが、野球が長期低迷しているという、その指摘は、おそらく正しい。スポーツ観戦や娯楽というマーケットが細分化されてしまった以上、長期低迷せざるを得ないのである。現在では、野球放送があるからといって、銭湯がガラガラになる時代ではないのである。そもそも銭湯が少なくなっているが。(名古屋はよく知らないけれども。中日ドラゴンズの試合があるとき、中日ファンは、神聖なるドラゴンズの試合中は、お風呂には入らないのだろうか。)おそらく、全国民が野球中継にかじりつく、あるいは天覧試合(おぉぉ。なんという時代錯誤的な言葉であろうか。若い人のために書いておくと、天皇陛下が臨席される野球の試合や相撲の興行などである。テロリストが跳梁跋扈する現在では、警備上の理由から、これは最近やりにくいのかもね)が行われて、野球の試合に人が集まる、という時代はもう二度と来ないだろう。どう頑張っても。

                 ご当地ゆるキャラ(有名どころは、彦根市のひこにゃんとか熊本県のくまもん)の場合にしても、ヤングアダルト対象でも、来場者は、子供を抱えるグループと、一部のフリークのグループに限られるだろう。

                 映画でもそうである。洋画といえば、ハンフリー・ボガートや、チャールトン・ヘストン、ハンフリー・ボガートといったみんなが知っていた俳優は人気を集めた。彼らのブロマイドは大変売れた。しかし、現在では洋画の俳優だってファン層が細分化されているように思う。日本映画でも、昔は高倉健主演の東映任侠もの、菅原文太主演の東映トラック野郎ものといえば、おおむね画像が目に浮かんだものであるが、今ではそうでもなさそうである。上映される映画が多く、さらにシネコンの普及で、映画の観客という市場が細分化されてしまっているのである。

                 では、お笑い芸人やタレントの場合どうだろうか。お笑い芸人やタレントであれば、ある程度、広い層を相手にできるというものの、しかし、現代ではお笑い自体がセグメント化(ファンの細分化)が進んでいるので、かなり広い範囲というわけにはいかない。松鶴家 千とせ、中高年の星 綾小路きみまろ、アグネス・チャンや森昌子は、50-60歳代の人は呼べても、若者にとって、「だれ、それ?」となりかねないのである。

                 企業は、対象とする消費者、特に購買力の強い若者に買ってもらえなければ困るので、ずいぶん前から若者へのアプローチに膨大な金とエネルギーと資源を使いながら、頭をひねっているとおもうのだなぁ。これが。

                 なんでも、企業をまねをすべきだ、とは単純に思はないが、教会も、自治体同様、遅ればせながらも、セグメント化された社会に生きる人々に広く自分の伝えたい内容をどう伝えるのか、とくに、キリスト教的終末論を十分知らないにもかかわらず、人生や社会に対して終わった感にあふれる若者に、どう自分たちが伝えたいことを伝えるのか、に関して、もう少し頭をひねったほうがよいのかもしれない、とこの記事を書きながら、思ってしまった。


                 次回は、なぜ、日本の若者は、キリスト教会からいなくなるのか、という視点から書いてみたい。

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