2012.08.28 Tuesday

犬に聖なるものを投げてはいけません。

0
     連休明けから、どっと疲れが出たのか、極端な体調不良に襲われ、文字を読むことすら、座っていることすら、つらいという状況に見舞われ、お休みをしておりましたが、ようやく敗戦記念日ごろから少し体調も戻ってきたので、ここらでちょっと再開してみようかと。


     この前、山上の説教の「豚に真珠」のほうが有名なマタイ7章の部分、犬に聖なるものを投げてはいけません。の部分からお話しをしていた。これを読みながら、うーん。私は、犬みたいに聖なるものをワンワン言いながら、引き裂いてしまっていたかもしれない、とある本を読みながら思ってしまったのである。

     その本とは、なんも新しいことを主張しているわけでない、という批判もあるN.T.ライトという方のHow God Became Kingという本である。

     そこを読みながら、十字架と死に焦点をあてるがあまり、神の国がおろそかにしていた自分の聖書理解の問題とは、まさしく、犬が聖なるもの(王としてのキリストの神の国とその十字架上での苦しみ)を完全に引き裂いてしまい、挙句の果てに、本来イエスが述べていたはずの神の国をズタズタにし、土にまみれ、足でふんずけて泥の中に押し込み、その代わりに、倫理や人間の努力や、向上心や、物質的な豊かさや、人数や聖書を読んだ数や、信仰歴みたいな数えやすいもの、わかりやすいもので、埋め込んでいたのではないか、とはたと反省してしまった。たぶん、していたと思う。事実、していたのだ。

     福音を中心とした文化を救いという概念を中心とした文化で塗り込めてしまったと、前、ここで紹介した、The King Jesus GospelでMcKnight先生はおっしゃっておられるけれども、結局は、それをしていたのだと思う。

     いやぁ、私とは、聖なるものを投げ込まれた犬だったんですね。

     同じことを繰り返さない自信はない。たぶんするだろう。でも、そうであっても、アブラハム・イサク・ヤコブの神は、私とともにおられると思う。それが約束だから。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、エリヤも、失敗しなかったわけではない。似たようなこともしているように思う。でも、アブラハム・イサク・ヤコブの神は、彼らとともにおられたし、彼らとともにいるという誠実をつくされたように、私とともにおられるという約束をその通りである、と言いたい。それが、たとえ、私が完全に理解できないとしても。

     神が人と共に過ごすことを希望しているということが、誠実なる神の約束である、ということの故に。

     
    Calendar
       1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    262728293031 
    << August 2012 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM