2012.05.02 Wednesday

近代という時代 と 正しい あるいは 真理 と自称すること

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     この前、うちの息子殿と晩御飯を食べているときに話していたのだが、そもそも、今の高校生にとって、というよりは、うちの息子殿にとっては、「真理」と自ら主張することや「正しい」と自称することは、自ら「怪しい」と主張することに等しいそうだ。

     彼が、オーム真理教という「自らが真理である」ということを主張した集団が出た後に成長したという経験があるからかもしれない。あるいは、彼が基本的に生活している文化がすでに社会共通の概念というものが崩れてしまっている時代に住んでいるからかもしれないし、ネットを当然としている世代であり、ネット上に多様な意見が存在しうることが当然になっているからかもしれない。

     誰が言って言い出したのかはよく知らないが、つい最近までの近代では、「真・善・美」という普遍的概念が広く社会一般に、あるいは広く人間全体に存在することを前提にしてきたし、それを前提に教会でも語ってきたように思うが、その前提が、高校生などの低年齢層では、すでに破たんしていることを示していることを感じた。

     そう考えてみると、この過程が崩れ始めたのが、1960年代のヒッピー文化がはやった時代からかもしれないし、それ以前からかもしれない。世代間の違和感というのは、メソポタミアの楔形文字で書かれた粘土板に記載されている、と聞いたことがある。

     若者がよいと思う対象といわゆる若者の卒業生である大人がよいと思う対象が異なることは以前からあったが、現代では、若者の中でも、関心分野が多様化、分断化されていて、共通部分がないというのが実際なのだろう。その分断化された人たちに「真・善・美」とかいう普遍的価値が存在する、などということは理解を超えているのだろうし、それを真正面から主張することは、おかしくて、間抜けに見えて仕方がないのだろうと思う。

     ある面、近代は、普遍的な価値が存在することを暗黙の前提にしてきた社会であり、その普遍的な価値が共有されていることを前提にしてきたように思う。人とすれば、○○ということは当然だ、ということから。普遍的な価値の追求とそれが存在し、自分が主張していることは、普遍的な真理であるという主張をしていれば、そのことに関心をもつ人々がいた、というのが、近代という時代であったのではないか、と思う。

     しかし、普遍的な価値が共有されず、真理があることを自ら主張することが意味をもたなくなった現代において、個別化した真理として理解しようとする人々に、どのように語りかけるのか、これって、結構ややこしい問題かもしれない。しかし、香川出身の○川さんの心は真理を全面に出しながら、人を集めているというしなぁ。

     でも、そのややこしいことをややこしいから、といって無視するのもなぁ。このためには、愚直に相手の話に耳を傾け、関心分野に沿って共通部分となるものを探しつつ、そこに乗るように「神の国」を載せていくしかないのかなぁ、と思う。安易な恐怖心に訴えかける方法ではなく。




    2012.05.05 Saturday

    ○○が好きなキリスト教徒

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      いつも愛読させていただいている水谷先生の愛と性の日記の記事に○○が大好きな○○シリーズがあり、

      「〇〇の大好きな〇〇」(1)教会編


      「〇〇の大好きな〇〇」(2)信徒編

      「〇〇の大好きな〇〇」(3)牧師編

      とあった。

       ところで、最近参加させてもらっている読書会で、今、イエスの主張や福音書の主張をどう見るのか、ということが話題になっているのだが、読んでいる本の中に、「天国に行くこと」が福音書の主要な主張であると主張しているグループがあると指摘されている記述があった。これを読みながら、ミーちゃんはーちゃんは、グサグサっと心をさされる思いがした。

       ミーちゃんはーちゃんは、福音派と呼ばれるグループに分類される教会群のひとつの教会に通っているし(といっても、ペイリンさんがリスペクトする紅茶党という意味とは違うアメリカの政治運動体のTea Partyとか、共和党のBush支持基盤となったとされるキリスト者右派よりは、ミーちゃんはーちゃんは、キリスト社左派との親和性が高いと思うのだが)、そこで育ったので、天国は存在すると信じるし、天国に行くことを疑ってはいないが、福音書の主張を死後の世界や終末の理解に寄せて理解することが多いグループであるために、「神の国を天国として理解することをなんだかなぁ」と思っていたところに、この話題だったので、グザグサグサと胸を刺される思いであった。我がグループとしては、Left Behind by Tim LaHeyeたん の理解に興味シンシンの方が少なくないグループなのですね(あーあ、かいちゃった)。

       割と福音派と呼ばれるグループのお話では、「滅びからの救い」としての「天国」が語られることが多く、一部『滅び』について脅迫的な内容が『福音』として語られることがあり、このような語り口に関して、バルトのビリー・グラハムの印象について書かれた記事がのらくら者の日記にございます。福音派の教会でのお話がすべてビリー・グラハムさんがドイツでされたような脅迫的な話ではありませんが、脅迫的な聖書理解についての影響がある部分をお持ちの方もおられます。

       割と天国に対する期待が大きいからかもしれませんが、その結果、「天国が異様に好きな信徒」「天国に異様に関心がある信徒」・「終末が異様に好きな信徒」・「終末に異様な関心がある信徒」や極端な場合、「天国が書いてあると思われる聖書の箇所だけが好きな信徒」や「終末論的記述が書かれている聖書の箇所だけが好きな信徒」が生まれかねないように思うのですね。

       こうなってくると、聖書といっても、それは聖書を読んでいることにならないのではないか、と思ってしまうのですね。フランス料理のコース料理で、食後のソルベ(シャーベット)だけを食べているに等しいと思うのですね。

       この種の聖書理解の方々は、「ムー」という雑誌に取り上げられるような内容の関連で聖書を読み込んでいく人々が生まれます。(たとえば、陰謀史観とか、地震兵器とか、フォトンベルトとか(ご関心のある方は、フォトンベルト 聖書 や 陰謀史観 聖書 でGoogle先生にお願いしてみてください。本当にヒットします)を聖書の言っていることとして、おっしゃられる方もおられます。)

       現実世界があまりうれしくない人々、現実世界に失望しているルサンチマンに満ち溢れた人々にとっては、甘いソルベのような天国への希望は大きな希望になったり、期待になったり、喜びになったり、現実逃避になるのかもしれません。あまりに、天国に関する価値が大きくなりすぎてしまうと、日常生活や現実世界の中での「神の国」というか「神とともに生きる生活」が軽んじられてしまうがあまり、そのことの理解が薄くなってしまう側面もあるようです。だからと言ってその人たちの神への信仰が「NG」や「間違い」や「まがい物」や「マツガイ」や「ヲワコン」だと、主張するつもりもありません。


       アフリカ系アメリカ人のご先祖様の方々の信仰にもそういう面はあるかもしれません。1960年代公民権運動はなやかなりしころがあったとはいえ、現代でも、厳しい状況に置かれているとは思います。キング牧師の神格化には反対いたしますが、ただ、キング牧師の有名なI have a dreamという演説は、地上でのことをイメージしていると思うのですね。

       ただ、天国に価値がありすぎる価値観の結果、現実世界との対応が取れなくなって、ついて行くのがつらい言動をとられる信徒や教会の方もおられます。これは、ちょっと、どうかなぁ、と思うのですね。ウィルコムのCFではありませんが、ドン引きになっちゃうのですけど。

       他の方からや、他のキリスト教会の信徒の方からドン引きされるだけなら、それはそれでよいのですが、それが聖書理解や福音書理解や聖書の読み方やキリスト理解にまで及ぶのであれば、個人的には、「ドンドン引き引き ド―ン引き ドンドン引き引き は〜」では済まないなぁ、と思うのですね。ま、こういう方は、周囲の方から「ドン引き」されてしまうので、被害は軽微と思いますが、ただ、一部、ファナティックなファンが生まれることもあるだけに・・・・。

       今の多文化時代といいますか、多元的理解の並立が赦される社会において、「真理」とか、「正しい」とかいうことを主張すること自体、そもそもナンセンスだとミーちゃんはーちゃんは思いますし、そのような記事をお示しした直後でありますけれども、一部だけを取り出し、そこにかなりの強調を置いて話すことは「間違い」とはいいませんが、「誘導的」だと思いますし、少なくとも「バランスを欠いている」と思いますし、その「誘導的」あるいは「バランスを欠いた理解」を起点にした聖書を理解しようとする行為は、さらに、聖書の理解をさらにバランスを欠いたものにするように思うのです。

       これを防ぐ方法は何か、と思うと、おそらく信者一人ひとりが「聖書理解についての異文化体験」することではないか、と思うのです。不幸にして、キリスト者は往々にして他の教会や他のグループの関係者と交流する機会は非常に限られ、暗黙の前提として他のキリスト者もすべからく、自分たちが信じている、と思いこんでいたり、他のキリスト者群は、「誤りを含んでいる」、「異端的」とラベルをお札のように張って安心してしまう傾向があります(鳩のように素直 と評されるほど純粋な方であればある程)が、これが、他者の聖書理解に対する尊敬をもって勇気をもって接し、神が愛するものとして他者をとらえたうえで、自らの聖書理解を再検証する「聖書理解についての異文化体験」を阻むとすれば、残念でなりません。他者の聖書理解を受け入れると言っても、自派の信徒が言うことなら、何でもずぶずぶに受け入れるように、ずぶずぶに何でもかんでも受け入れるのではなく、論争するのでもなく、一方的に批判するのでもなく、みずから反省するために価値観の間の対話として受け入れるのは、イエスが言うように、蛇のようにさといキリスト者として重要ではないか、と思うのですね。

       「聖書理解についての異文化体験」の好きな信徒の方が増えてくださることを願わずにはおられません。ちなみに、ミーちゃんはーちゃんは、エキュメニカル運動の可能性については、かなり否定的であることを申し上げたいと思います。









      2012.05.09 Wednesday

      天国と極楽と西方浄土

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         前回に引き続き、 天国話が続いて恐縮なのですが、この概念、意外と日本人の漠然とした生き方に影響しているように思うのですね。

         調査したわけではないのですが、おそらく、日本の方の多くは、死んだら西方浄土(浄土)に行き、そしてお盆とお彼岸の時期には家族のもとに霊として戻ってこれる、という信仰というのか、概念をお持ちの方が多いようです。だからこそ、お盆やお彼岸の風習が無くならないし、その時期になれば、墓地の前には、花売りの仮設店舗が大量に並ぶのでしょう。

         さらに、いつのころからかはわかりませんが、日本人の死生観の中に天国がなんとなくもぐりこみ、現代では、西方浄土と天国が混乱しているように思うのですね。日常会話を聞いていたり、テレビなんかを見ていると、別にキリスト教を信じていなくても天国(実態としては、西方浄土の現代風表現なのでしょうが)に行ける、と思ってらっしゃる方が意外に多いように思います。結構、芸能人やニュースに載る事故の遺族によって行われている仏教式のお葬式でも、遺族の方からのお話の中に、故人は天国云々という話があるように思います。

         このような西方浄土があるという死生観をお持ちの方々にとっては、死は手じかな解決策に見えてしまうように思います。自死は、どうも平安朝以来の伝統のようですから。平家物語のクライマックスともいうべき入水事件などでも、西方浄土が念頭に置かれている節があったように思います。
         
         こういう精神になっている日本のかなりの部分の皆様方にいくら、「天国があります、真に希望があります」、「神がおられます」といっても、天国=西方浄土と誤解されるだけで、あぁ、そんなことは、すでに信じているよ、ということになり、大いなる誤解が存在したまま、本質的なことが伝わっていない、大いなる誤解が残ったまま、というのも一つの現実の断面かもしれません。

         昨日のニュースで、就職活動に失敗したことが原因と思われる自死者が、1年に50人ほどおられたという話がテレビニュースで流れていたが、就職活動に失敗したということで絶望して自死をオプションとして選ぶことは、絶対に避けてほしいのだが、ただ、絶望感にとらわれた人たちにとって、西方浄土(あるいは天国)は非常に魅力的に映るのかもしれない。平家物語の壇ノ浦の記述のように。

         こういう西方浄土の概念をお持ちの方に、そして、お若い方々に、どのように神の存在と天国の存在を語り、聖書の主張をどう表現してご理解していただくのか、誤解がないように伝えていくのか、ということは非常に大事ではないか、とここのところ、思っています。
        2012.05.12 Saturday

        天国について (続)

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           めぐまぐま様とおっしゃる方から、非常に重要なご指摘をいただきました。ご出身地がキリシタン関係の歴史が深いところでもあり、そこでの殉教と自死の問題を取り扱う問題を提起されておられます。非常に重要な問いだと思いますし、ミーちゃんはーちゃんには役不足、ということは十分自覚しながら、あくまで、私の思うところを記していきたいと思います。おそらくご期待に沿うようなお答えになっていないとは思うで、申し訳ないのですけど。

           そもそもキリスト教の世界やキリスト教と一口に言いましても、その関係の人々での天国の理解や表現、その概念はそもそも多様であり、いわゆるキリスト教の世界が広がってから2000年以上にわたり、すごい頭のいい人が頭を悩ましても今なお、解決ができない問題ではあります。マクグラス先生というミーちゃんはーちゃんに非常に影響を与えているイギリス人の先生がお書きになられたキリスト教の天国、という本がございます。ざっとこれまでどのように理解されてきたのかを理解するには、よい本だろうと思います。ご参考までに、ご紹介しておきます。
           天国の話題に関しては、ミーちゃんはーちゃんはチャレンジすることはできても、その理解がまともであるとは思えませんが、お問い合わせでもございますので、できる限り正直に、かつ、誠実にお答えいたしたいと思います。以下は、ミーちゃんはーちゃんの現時点での理解だとご理解のうえ、お付き合いいただけたら、と思います。

          私たち共通の理解は
          彼ら(キリシタンの方々)が信じたようなハライソ(天国)は無い、ということです。
          カトリックの煉獄も信じていません。
           めぐまぐま様のご理解では、死後の世界の天国は存在しない、という理解でよろしいでしょうか。
           ミーちゃんはーちゃんは。キリシタン研究家ではないので、ハライソ(天国)がキリシタンの人々にとってどのようなものとしてイメージされたのか、ということが正確には分からないのですが、いま、よくある天国理解だとすると、「死んだ後、最終的な希望として、人が存在する領域というのか存在できる場所のようなのものが存在する」、という理解かなぁ、と思います。

           ただ、天国・パラダイス・ハライソにかんしては、死亡直後に行くという説もあり、イエスが再び来てからだという説もあり、将来いつかわからないときに最終的に行くという説もあり、現在存在するという説や、将来それが完全な形で実現するという説もあり、また、地上でそれが実現するという説もあり、天上で実現するという説もあり…そもそも、めぐまぐま様ご夫婦のようにそもそもない、というご意見の方もおられます。
           このように「天国」あるいはパラダイス、あるいはハライソは人によって実にまちまちなので、もはや収拾がつかない状況ではないか、と思います。ただ、ミーちゃんはーちゃんの個人的な理解としては、永遠の命が実現するところ、つまり神の国の完成したものは、将来において存在するであろう、ということは、思っています。といいますのも、イエスが何回か言及していますから。
           ミーちゃんはーちゃんの理解にそれ以上の根拠はありません。「私の理解の中では、天国は存在する、と思います。」ということでしかないので、「あなたが思っているだけですよね」と言われたら、「左様でございます」とお答えしかできません。
          天草・島原の乱も、宗教一揆ではなく
          百姓一揆そのものでした。

           これは、ご指摘の通りだろう、と思います。ただ、実際には百姓一揆ではあったが、それを構成するひとつの核として、そしてかなり大きな部分として、キリストに対する信仰を確保しようとした、という部分があった、ということなのだろうと思います。
           広く社会運動を見てみますときに、いくつかの(一つの場合も)の大義(それの真実性は別として)が掲げられ、それになんとなく同調する人たちがいろいろなところから集まって、当初の理念からどんどんずれていく、というのは現実として存在するし、それは、社会運動である以上、ある程度仕方がないことだと思います。社会運動の場合、どうしても不満分子が集まりやすく、その不満の本質に完全に合意していなくても、不満分子であるということで、非常に強力な連接性をもってしまうということはあるようです。

           今、個人的な関心では、賀川豊彦の運動の変質やドイツがナチスドイツに大きく影響を受けていく変質の側面が大変興味深いと思っています。ただ、そのことを資料に基づききちんと理解していく能力と才能がないので困っていますが。
          多くの殉教者たちも
          この世の地獄を逃れ
          神の国ハライソへ行きたい。行ける。もう苦しみはない。
          ただそれだけが彼等の精神的支えだったようで仕方ありません。
           特に、ご指摘の事件のころには、一向一揆が結構頻発していますから、その関係も見てみる必要があるかもしれません。その意味で、特殊な終末思想といいますか、末法思想というもの影響も考えてみる必要があります。特に、この種の自滅的な事件では、特殊な終末思想の影響はあると思います。
           天草・島原の乱を主唱された方々の思想に特殊な終末思想が影響していて、その結果としての一種の自滅作戦だとすれば、1990年代のテキサス州で起きたブランチ・ダビディアン事件と構造的には特殊な終末理解が背景にあるという意味では、共通する部分もあるように思います。

           研究者ではないので、正確ではありませんが、天草・島原の乱の方々が武装蜂起に走った背景の一つは、当時のスペインの無敵艦隊とかがひょっとして救援してくれるかも、というほのかな期待があったのかもしれないなぁ、と推測します。
          綿綿と受け継がれてきた日本古来の極楽浄土思想と
          キリシタン独特のハライソ思想が強く結びついたことへの
          最終的な帰結? そんな気もするのですが。
           これは、ご指摘の通りかもしれません。当時の末法思想と終末思想が混乱し、極楽浄土思想とキリシタン独特であるはずのハライソ理解が混乱したことは、当然考えたほうがよいとは思います。

           当時の伝道スタイルを考えてみると、特にそう誤解されたかもしれません。この時代の伝道の際の翻訳で、神を大日如来と翻訳しようとした経緯が、下にリンクをお付けした『聖書の日本語』 という鈴木先生の本に書いてありますから。

           聖書のお話をしている場面でときどき思うのですが、語り手のほうと聞き手の間で同じ言葉を使っていながら、実は全く別の理解が生まれているようです。このような現実にがくぜんとする経験ということをときどきします。それを防いで行くためには、丁寧に話し合いながら、お互いの理解を相互に納得しながら、より相互に考えていくという非常に面倒な作業が必要になるのかなぁ、と思いますし、そのことの大切さを感じています。
          マルコ12章には、
          「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」
          とあります。
          しかし、十字架上のイエスは
          ひとりの強盗に対して
          「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいる」
          と仰っています。
           ご指摘された聖書の場所のように、私の理解では、福音書をまじめに、そして素直に読む限り、この地上での命とは違う永遠の命もある、という結論にミーちゃんはーちゃんは達せざるを得ません。それがどのようなものかはわかないけれども。という条件付きで。

           当時のイスラエルあたりに住んでおられた人々の普通の感覚では「永遠の存在はある」と思っていた、と思わざるを得ません。「死者の(地上での)復活はありえない」と言い切っていたサドカイ派の人たちもおられたので、サドカイ派の人たちにとって見て、アブラハム・イサク・ヤコブの神という表現をどう考えるのか、ということは相当な問題であったようにも思います。これは、旧約聖書や新約聖書をご研究なさっておられる方やオリエント史やオリエント宗教史や思想史をご研究の方にお任せしたいと思います。ただ、イエスの言動に着目する限りは、明らかにアブラハムを死んではいるが生きたもの、として読み説いているような節をミーちゃんはーちゃんは感じますし、当時の人々も素朴にそう思っていたのではないだろうかなぁ、とは思います。
          いまこの(一応)平和な日本で
          牧師でも神父でも一信徒でも
          あの隠れキリシタンたちが受けた拷問と同じ責め苦にあって
          それでも信仰を捨てることなく
          殉教できるひとがどれくらいいるでしょうか。

           現代の日本でも、殉教できる人は、ほとんどいない、と思いますし、「ミーちゃんはーちゃんは殉教できるか?」といわれると、超能天気であまりそういうことは考えたくないので、「無理っ」と素直に思います。そういう目に合わないことを願っております。
           たまたま昨日、下で紹介するナウエンと読む福音書の英文版の読書会に参加していたのですが、ニコデモのイエスの対話のシーンのところでした。そこで、ナウエンという方は、イエスを愛しているのだけれども、イエスを一番にできない自分がいる、若いころはイエスが私の人生の中心ですと無邪気に言えたのであるけども、年をとるとそうは言えなくなってきたということを正直に書いておられる場所でした。ナウエンという方が、お書きになっておられるものを読みながら、どうもその人が置かれている環境や状況、その人を支えるものとの関係もこの種の問題を考える際の要因になるのだろうなぁ、と思いました。

           我が国の最近の例でも、大東亜戦争(15年戦争)のころに、ホーリネスでも治安維持法違反事件で投獄されているうちに死亡された方もおりますし、私の属している集団でも、治安維持法関連で投獄された方もおられますし、そうでない方もおられます。また、イギリス人の伝道者で帰国船に乗って帰国された方もおれば、帰国船に意図的に乗船せず、日本で伝道しようとしているうちに、治安維持法関連で逮捕され、コミュニケーションがうまくいかなかったこともあるのでしょうが、松沢病院に収容され、そこで死亡された方もおられます。その動機やそのことと神との信仰は、本人と神との間だけのものだと思いますし、それを当事者ではない者としてのミーちゃんはーちゃんは軽々に判断することは避けたいと思います。
           
           宗教事案以外でも、食糧管理法(1990年代まで存続していたように思います。なくした直後に高温障害で、コメ不足が起きた記憶が…)に従い、配給食だけで過ごして亡くなった裁判官や学校の先生などもおられます。この場合、どちらかのというと社会的抗議の意味が強いのでしょうが。それも視点によっては自死かもしれませんし、抗議活動かもしれません。
          彼等のあの強さは信仰のたまもの
          聖霊の働き、神の支えそのものだったのでしょうか。
           聖霊の働きなのか、神の支えだったのかは、神でないミーちゃんはーちゃんには何ともいません。ただ言えるのことは、絶望的な状況のただなかにあっても、運動を支える一部の人にとっては、そこに希望があったのでは?ということだろうと思います。引くに引けなくなっちゃった、周りの人の手前、引くに引けないというような人間間の力学が働いた可能性もあるかなぁ、と思っております。

           このような自滅的な結果を迎えるような状況に直面した方々が、宗教を背景とした例もそうでない事例も古来多くありますが、何らかの一縷の希望(たとえば救援部隊が来るかもしれない)があったときには、そのような希望だけで案外人間は生きられるものかもしれません。マサダの砦なんかもそうでしょうが。映画だと、戦場のピアニストとか、Jacob, the liar、シンドラーのリストなんかがそのテーマを扱っていたように思います。山本七平氏の「一下級将校が見た帝国陸軍」の中にもそのような起債があったように記憶しています。他にも自滅的な戦闘に巻き込まれ、集団自殺?と思えかねない事例は数多くあります。
           今、目下の話題では、自爆テロを起こされる方などは、そういう部分があるだろうと思います。ただ、いろいろな事例を見ていますと、若さ、そして若さゆえの無謀さ、というのがこの問題の背景にあるようにも思います。
          それとも、天国思想の極みからのものでしょうか。
           極限状況に置かれた人々である天草・島原の乱の方々にとっては、「結果として、そこに希望を託さざるを得なかった。」ということではないか、と思います。それぞれの人々が直面している厳しい現実と生存への希望の中で、折り合いをつけていくことが求められたのだろうと思います。その折り合いをつけようとするプロセスの中で、結果として天国の理解が必要以上に大きな存在になってしまった、ということかなぁ、と思いますし、ミーちゃんはーちゃんが極限で、そうなる、という保証もありませんし、逆にまた、そうならならないという保証もないように思うのです。極限は、人間の限界を超えることでもあり、そういう体験もしたことはないので。

           ただ、犠牲者(何らかの大義を掲げて、その結果絶滅した、ないしはその危機に直面した犠牲者)を出した側からすると、経緯がどうであれ、自分の信奉する理解を主張して被害にあった方(被害の実際は悲惨なものが多いのですが)が殉教者として、称揚される傾向はあるようです。島原の乱でも幕府側について亡くなった方もおられますが、それはあまり殉教者ともいわれませんし、犠牲者ではあるのですが、犠牲者としては普通考えないことが多いように思います。このあたりも何とも落ち着きの悪さを感じますが。
          殉教は自死とは違うのでしょうか。
          これ、違うともいえますし、そうだともいえると思います。要は事件をとらえる視線だと思うのです。歴史的な事実は一つですが、それをどのような視点から見、どのような部分に強調を置いて理解するのかによって、その認識や理解は変わってくるのではないでしょうか。当事者ですら、何がどうなっているのか、わからないまま、現実になんとか対応している中で、あれよあれよという間に、ある結果になっていく、ということが多いように思います。

           島原・天草の乱は、当時の幕府から見れば、できて間もないまだ十分に安定していない幕府の存在を脅かしかねない無謀な百姓一揆であり、無謀な集団自殺的として理解したい側面もあったでしょう。
           同じ事件を信仰者の側から見たときに、イエスを信仰する故に迫害された殉教者として見たのだろうと思います。
           実態としては、現実は実に多様で、一つのことばで単純に片づけられない部分があるのだろうなぁ、と思います。個人の動きにせよ、社会の動きにせよ、ある運動体のどの部分を重視して見るか、によって評価は変わってくるのだろうと思います。

           ご参考になるかどうかは分かりませんが、英さんという神父さんが、当時の社会においてのキリスト教がいかに画期な概念であったか、について高山右近を例にご講演をされておられる映像がございます。ご参考のためにリンクを挙げておきます。

          危機の時代におけるキリスト教の霊性のありかた


           最後に
          このことについてよくパートナーと話しますが
          結局は「全然解らない」で終わってしまいます。

           結局、振り返ってみれば、何が何だか、よくわかんない、結局どうとでもいえる、という結論でしかないことになってしまいましたが、ミーちゃんはーちゃんとしては、できるだけ、正直に自分の思うところの理解を書いてみました。それだけ、現実は複雑だし、部外者にも何とも言えないし、当事者でも何とも言えないというが事実なのだろうと思います。それを還元主義的にばらしてみて、それを適当に組み立ててみて、わかったことになったつもり、ということをこれまで近代人はしてきましたが、わからないものはよくわからないという素朴さも必要なのかもなぁ、と思います。

           教会でお話ししていて思うんですが、同じ言葉を使いながらお話していても、話しているほうと、聞いているほうで、全然違った理解が成立しているという恐ろしい現実を見るときに、時間と手間がかかっても、お互いに相互の理解を尊敬をもって共有しながら進めていくことの大切さを感じます。

           イエスが言おうとしたことは、比較的シンプルであって、教会に行きなさいとか、献金しなさいとか、信者同士仲良くしなさいとか、天国に行けるとか、イエスを模範にしなさいとか、倫理的に生きなさいとか、道徳的に生きなさいとか、死ぬまで頑張って信仰を守りなさい、とかいったことではなくて、もっと素朴に、「神はいるし、神と共に生きたら。神と共に生きることが大事なんではないかなぁ。そこに希望があるんじゃないの。神のもとに行きましょうよ。どんなに人間の社会では孤独であっても、神は一緒にいようよ、って言っているんじゃないかなぁ。少なくとも私はあなたと一緒にいたいと思うし、永遠に一緒にいようと思う」という主張だと思うのですね。

           さぁ、イエスが伝えようとした希望のメッセージ、神が人と共に存在しようとする、ということ、たぶんそれが福音だと思うのですが、そのことをどう、現代に生きる人に、共有しながら伝えていくのか、ということは、今のミーちゃんはーちゃんの課題だったりするのですね。誤解されないように、お互いの理解を提示しあいながら。

           あ、ナウエン、いいですよ。私は一番好きです。以下のリンク先の中で一冊と言われたら、ナウエンと読む福音書をお勧めいたします。






          評価:
          アリスター・E. マクグラス
          キリスト新聞社
          ---
          (2006-09)
          コメント:マクグラス先生が、天国の理解がキリスト教の世界でどのようになされてきたのか、絵画や文学を手掛かりに開設されている本。非常に楽しく読めます。

          評価:
          鈴木 範久
          岩波書店
          ---
          (2006-02-23)
          コメント:聖書の翻訳史をわかりやすく書いている本。とりあえず、全体を概観できるし、翻訳聖書の課題についても、率直に取り上げている大変参考になる本。

          評価:
          ヘンリ・ナウエン
          あめんどう
          ¥ 2,415
          (2008-04-30)
          コメント:ナウエンの様々な本の中から、非常に心に響く部分を集め、イエスの生涯との関係のを含めながらナウエンがイエスとの関係をどのように見ていたのかをわかりやすく書いた本。

          2012.05.14 Monday

          めぐまぐま様へのお返事

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             めぐまぐま様

            お手紙としてのコメント、ありがとうございました。

            いただいたコメントのほうは、非公開とさせていただきますね。

            長くなったので、お返事としての記事をお書きしておきます。
             
             ミーちゃんはーちゃん自身は、信条というものに対して、一切価値を見出さない、やや極端な立場に立つ教会で育ちましたし、現在おりますところの教会も、その立場に立ちます。それはそれで、一つの立場として尊重しておりますし、多少不自由は感じますが、多様な教会の一つの考えとして受け入れ、過ごしております。

             信条に冷淡な態度をとるといいましても、聖書の理解や教会の理解に関しては、信条(聖書理解をコンパクトに要約し、わかりやすくしたもの)と基本的に同じであり、それを聖書のお話などを通して来会者の方や信者の方に繰り返して維持しながら、理解していただく、という形をとっております。この方法ですと、確かにやや迂遠かなぁ、と思いますし、信者さんには、ある面、何度もたくさん聖書を読み、理解してもらいながら、信条に近いことの体系を理解していただいているので、大変、しんどい思いをしていただいております。確かに、信条とかがあったらもっと便利なのに、ということを思うことがあります。迂遠な分だけ、鈍行列車の旅のような別な味わいもありますが、鈍行列車であるがゆえに、意味がわかりにくく感じられたり、つらく感じられる方も中にはおられるようです。

             しかしながら、信条を唱えていても、ご指摘にもありましたように、信条が表現しようとしている文字の裏側に示そうとされた意味をあまり考えないのであれば、結局のところ、呪文や、呪術文と化したオラショと同じというのはその通りだろうとおもいます。また、どこまで、信条の中に意義と意味を見出そうとしているのか、ということは信徒も教会も問われると思います。そのためには、信条と聖書を照らし合わせるような繰り返し繰り返しの聖書からのお話も必要なのかもしれません。

             ただ、聖なる公同の教会と聖徒の交わりにつきましては、海外のしばらくおりました際に他のキリスト教会(Free Evangelical Community Church)に行って思いましたのは、ここも信条は一切口にしなかった教会ですが、初めてお会いする方々とも、共通部分としてのキリストと聖書ということは存在した、それを共有部分にできた、ということでございます。まさしく、聖なる公同の教会、聖徒の交わりの価値といいますかね、そのありがたさを感じました。異国の地で一人でない、ということを感じたのでございました。交わり、というとわかりにくいのですが、あぁ、交わりとは、仲間であると相互に認証することだし、それができることか、ということが理解できたのですね。Fellowshipですし、コイノニアということの意味がおぼろげながら感じられた経験でございました。

             どうしても、人間は最初にイエスと出会ったところでの聖書の理解やイエスの理解がその後の信仰生活や聖書を読んでいく際の一つの補助線(というか定規)になってしまう、という側面があるようです。私も例外ではありません。しかし、聖書の理解はもっと多様で、さまざまなものがあってよいように思います。といいますのも、時代が違い、環境が違い、立場が違う人たちを一つの定規に納めて、それで測定してわかったような気になることは、問題が少なくないように思います。律法学者の聖書理解はそのようであったためか、イエスは、それは正しいのだろうか、と問うておられるように思います。ただ、長らく信仰生活を続けておりますと、ある状況が当たり前になりますために、定規のようなものが中にできてしまう、パターンというものができてしまい、それが神の座を占めることや、あまりに当たり前に行われることで、神の領域を侵犯していることに気づかなくなる危険性もまたあるようです。本当に怖いことです。

             ところで、私自身も、ここでも書いたように思うのですが、実は、今の教会に行く前に同じ信徒集団の一つの教会を飛び出しております。ま、きっかけは、実にくだらないことだったのですが、ただ、それが発展した結果に納得ができなかった(何が何でも責任者がきめて、それに従うことを求められましたので、それに異論を申し上げたところ、非常に不愉快な思いをした)ため飛び出した、ということでございます。当然、私自身の今もなお続く、コミュニケーション能力の貧相さもあったと現在は、反省していますが。

             残念ながら、地上にあるローカルな教会(地域にある教会)は、聖なる公同の教会の一部の性質を持つものの、完全に聖なる公同の教会そのものではないとミーちゃんはーちゃんは理解しておりまして、そこにはパウロの諸書簡にもありますように問題と課題が山積しているところもあるし、全く問題がない完璧な教会も存在しないのだろうと思います。

             だからこそ、パウロからほとんど悪口に近い叱責を受けている教会があるのだろうと思います。だからこそ、昔から、また、今なお、パウロの手紙が広く読まれてきたのだろうと思います。そして、課題と問題が今もなお手を変え、品を変え、少しずつ現象を変えながら繰り返されているのだと思います。

             思いますに、人間はイエスに抱きしめられるようにして罪がふわっと覆われている存在でしかなく、人間からは根本的には罪が抜き去られていないのではないか、と思ったりしております。このため、信仰者とはいえ、神を見るのではなく、神以外のものに目を奪われたり、思いが行ったりするのではないかと思います。神に心を向けることを忘れ、ほかのものを目を止める、そしてそこに心が奪われることが罪だ、と聖書は主張しているのだと思いますし、イエスはそのことを神の国ととの関連で、あなた方は、神の国とその義を第一としなさいとおっしゃったのだと思います。残念ながら、人間は完全ではありませんゆえに、神が必要なのではありますが、それを忘れ、自らを神とすることがあります。私もかつても、また今もそうだと思います。それが罪なのだろう、と思います。

             ミーちゃんはーちゃんも、気をつけておりますけど、今なお、自らを正しいものとすること、つまり、自らを神とすることや、無意識にそのような状態になっていることがございます。このような結果として、教会のさまざまな会話や対話の中でそれがいろいろな部分から破れ出るように、問題や不具合、混乱や、悩み、信徒の痛みとしてあらわれるだろうと思います。

             ご指摘のように、教会を出て行った人、出ていかざるを得なかった人、出ていかなかければならなかったことが発生した事実についての真摯な反省をすることは、信徒の群れとしては必要なのだと思いますし、それ以上に不断の努力として、聖書と自らの姿を照らし合わせ、教会や信徒一人ひとりが、自らが神となっていないかどうか、神の領分を領空侵犯していないかどうか、それぞれの聖書の理解の妥当性をきちんと検証していく作業が必要なのだろうと思います。面倒なことですし、つらいことではございますが。ただ、日本では、キリスト教はプロテスタント系教会も、カトリック系(異教化してしまった隠れの方々は除く)教会もおよそ200年弱ですから、まだ、教会も発展途上にあると理解したほうがよいのかもしれません。

             日本では教会そのものが発展途上ですが、教会として確立され、発展しているはずの欧州やアメリカでは、信条やそれ以外の神学理解が発展してしまったために、本源的な福音と福音書の理解やそのものが軽んじられる状況にもあるようです。Scot McKnightという方がキング・ジーザス・ゴスペルという本でその旨、ご批判されておられます。また、N.T. Wrightという方が、How God Became Kingという本で福音書の理解をもう一度再検討することの必要性を示しておられるようです。まだ読みかけなので、何とも言えませんが。たぶん、そうだと思います。

             ところで、私どもの信徒集団は、かなり流出者が多い集団でもありまして、そのことをアメリカの信徒群をもとに調査された神学校の先生がおられますが、これまた難しい側面を持つようでもあります。流週された信徒を見つけるのが難しい、見つけられたとしてもなかなか調査に応じてもらえない、調査された教会は、暗に批判されたと感じる・・・。

             このためには、先ほどもお話しいたしましたように、信徒一人一人、教会一つ一つが、他者のみを批判するのではなく、神との関係の中で、それぞれが自らを神と等しくしていないか、神の領分に領空侵犯していないか、ということを考えるべきなのかなぁ、と存じます。

             めぐまぐま様、コメント、本当にありがとうございました。

             これまでのめぐまぐま様ご夫妻の通られた厳しい道を考えますと、心からの同情を禁じえませんが、ご夫妻様の上に神との豊かな関係がございますよう、祈っております。公同の教会の一員として。体なるキリストの足か手、あるいはおとった器官だとは、思っておりますが、キリストのからだの一部として。





            2012.05.30 Wednesday

            祈ること と 親密さ

            0
               先日、ヘンリー・ナウエンという方が書かれたJesus:A Gospel(日本語では、ナウエンと読む福音書)の A Call to Friendship というところを読んでいた。

               そこには、イエスが、非常に親しい関係に招いておられること、親密な友情に招いておられることが書かれてあり、旧約聖書では、当時の人々が神の元に行くこと、神の隠れ場に行くこと、神と親密な関係にあろうとしたことが書かれていた。そして、さらに、ヨハネの福音書の中にある、ぶどうの木のたとえ(ヨハネ15章)のところの記述があり、「私にとどまりなさい。私もあなた方の中にとどまる。」というところが取り上げられていた。英語版では、「私をあなたの戻るべき場所(家)にしなさい。私もあなたを戻るべき場所(家)とする」だったように思う。

               キリストを信じるということは、キリスト(メシア・油注がれたもの・王・神が人に遣わしたパートナー)とともにいることなのだろうと思う。一方的な弱さからの脱出としての「救い」というより、孤独にさいなまれやすく、安心感がなく、不安にさいなまれ、気分が移ろいやすいミーちゃんはーちゃんのような人間の親密で忠実なパートナーとしてのイエスが神から遣わされたものとして、手をさし伸ばしておられるような気がする。孤独にさいなまれること、安心感がないこと、気分が移ろいやすいこと、それは弱さといえば、弱さであるかもしれない。その意味での弱さからの救いといえばそうとも言える。しかし、単純に弱いが故に救いが必要、といってしまうと、消えてしまう豊かさ、親密さが、イエスとミーちゃんはーちゃんの中にあるように思う。

               祈ることは、単純に救いが必要、ということを超えてパートナーであるイエスとの親密さを確認する手段だと、ミーちゃんはーちゃんは思う。単に自分の希望を言うのでもなく、自分を見つめる、というのでもなく、ミーちゃんはーちゃんのために命をかけてともであることを示そうとしたイエスという神から遣わされたパートナーを信頼して、イエスがともにいるということを確認しているような気がする。その存在に思いをめぐらすことだとも思う。もちろん、聖書を通してそれを確認することもできる。確かにそう書いてある。祈りとは、聖書に書いてあることを確認する以上に、神の思いを探ることだし、神の前に自分自身をさらけ出すことだと思う。祈りとは、キリスト者が一人で歩んでいるのではなく、イエスがパートナーとして歩んでいること、イエスがともにいるというその親密な関係を確認するのが祈りだと思う。

               甘えといわれれば、甘えなのかもしれない。しかし、親密な関係であるということは、甘えとは少し違うのかもしれない。

               祈りとは、問題解決のための応急処置ではなくて、問題解決を求める手段ではなくて、もっと深い人格的な関係性を確認するような作業のようなものではないか、と思う。救いが罪の問題を解決する単純なものでないのと同じように。

               隠れたところにいる神に隠れたところで祈るよう、イエスは山上の説教で主張しておられる。それは、隠れたところでは、やはり隠れたところにおられる神とともにいて、神のみに目を向けて、神に自らを明け渡し、自らをさらけ出す、非常に親密な関係を作り出す環境ができるからではないか、と思う。

               ミーちゃんはーちゃんには、人を導く力はあまりないように思う。自覚的にそう思いますが、イエスはそうでないと思います。

               つまり、人を導き、そして人を受け入れ、その隠れた場所へと招く力を持つ方である、ナザレのイエス、メシア、キリスト、神から人に遣わされたパートナーとともにいることの大切さは感じている。また、人を導き、そして人を受け入れ、その隠れた場所へと招く力を持つ方とともにこれまで歩んだ人々や今も歩んでおられる人々が書かれたもののいくつかを読みながら、神とともに生きた人々、神とともに生きる人々、神とともに生きようとする人々からなる教会の一部として、神との親密な関係を確認できる祈りを大事にしたいと思う。もちろん、この日本でもそのような教会があると信じている。そして、日本ばかりでなく、幅広い教会の中に神とともに生きる人々がいることを知り、また、これまでのイエスが十字架で死んだあと、アジアで、ヨーロッパで、南北アメリカで、オセアニアで、アフリカで、幅広い教会の中に、神とともに生きる、生きようとした人々がいることを感じている。

               キリスト者は一人ではない、と思う。イエスがともにあると言う意味でも。しかしそれ以上に、世界でナザレのイエスが神から遣わされたパートナーである人々とともにあるということをミーちゃんはーちゃんは確信している。もちろん、めぐまぐま様を含め、同じ信仰を持つ人々、つまり、イエスがキリストであることを信じる信者の方々が気にかけてくださっていることでも、それを思う。そして、祈られていることのありがたさと、他者のために祈る、同じキリストを信じる人々を、そして、神が愛した人々を気にかける(たぶん、信者でない人々を含めて他の人の価値を尊重し、その存在を気にかける)ことの大切さを思う。

               つらいとき、本当につらいとき、死が手近な解決策に見えてしまうことはあると思います。それは、正直そう見えるときもあるだろうと思います。でも、ミーちゃんはーちゃんにとって、死を手近な解決とするのは、それがどうかなぁ、とおもうのは、神が、そしてイエスが、一人ひとりの人間を個別の存在として尊重し、その上で気にかけている、殻なのです。神は、そしてイエスは、生きていて、神とともに、そしてイエスと一緒に生きるという時間をできるだけ味わってほしい、そして神との関係をもっと豊かにしてほしいと思っておられるからだと思うのです。

               何が他の人にできるとか、他の人にまさって何ができないとかとは関係なく。立派だとか、立派でないとかとは関係なく。一番身近な隣人である自分を含めて、イエスは神が与えた命を持つ人々が生きている、神とともに生きることができる、ということも価値を認めなさい、といっておられるように思うからです。


               めぐまぐまさま お祈り、ありがとうございました。私のためにもキリストの体の一部として祈ってくださって。そして、ご友人の方にご回復がございますように、めぐまぐま様とご友人の方の上にも神からの平安とご回復がございますように。

              評価:
              Henri J. M. Nouwen
              Orbis Books
              ¥ 1,538
              (2001-12)

              評価:
              ヘンリ・ナウエン
              あめんどう
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