2012.04.14 Saturday
説教者と会衆
ミーちゃんはーちゃんは、学校というところでお話しするのが本業なので、その時には、実習を混ぜたり、試験やレポートを出させたりするので、自分が教えたことの定着度や、どのあたりが、うまくいっていないのか、理解が進んでいないのかを把握することを日常的に試みている。
今通っている(というよりは、メインの活動の場としてきた)教会では、日曜日には、かなりの頻度で講壇からしゃべっている。しかし、どの程度、伝わったのかなぁ、ということがかなり分かりにくい場合が多い。参加者の方に、聞きまくるわけにはいかないので。お話終了後に雑談したり、信者さん同士の雑談をスパイするように聞く中で、軽くモニターする程度しかできない。
両者の違いは、何か、というと、相手の反応が見えやすい(学校)と相手の反応がつかみにくい(教会)が一番の違いである。次が、相手の前提条件や知識レベルのをある程度想定できる(学校 とはいえ、最近は、かなり怪しくなってきたのでつらい)と話す相手についての条件設定がしにくい(信者さん対象の場合はある程度できるが)ということであろうか。
先日のある市の総合計画審議会の専門部会に参加させてもらったときに、行政と市民との対応の関係になったのであるが、今、社会の潮流として、市民の側で求められているのは、市民の要望に合わせてサービスが提供されることではないか、という話になった。
市役所の中には、いろんな多様な政策メニューがいろいろあるのであるが、社会から役所に求められるのは、多様なメニューの中から、適切なものをパッケージにしてくれるあり方ではないかなぁ、というお話になった。
今の行政の方法論は、行政に申請する側が全部、申請書をいちいち書いて必要なものをそろえて初めて、まともなサービスを受けられる、ということになっている、ということをその場におられた社会福祉の専門家がおっしゃっておられた。その話を聞きながら、じゃ、行政は、いうなれば、定食屋やファミレスでもなく、一膳飯屋方式でとりあえずありとあらゆるメニューだけはそろっているが、それを自分で取りに行くようになっていて、隅っこのほうに隠されておかれているようなおいしい話を見つけられなければ、結局サービスを受けられないようになっている、という話か、と聞いたら、その社会福祉がご専門の先生がうまいことを言う、とほめてくださった。
でお調子者のミーちゃんはーちゃんなので、調子に乗って、「じゃ、市民が求めているのは、市民の顔を見て雑談しながら、パッと必要なものを出してくれる寿司屋のオヤジですか?」と言ったら、大受けしてしまった。
ところで、行政の側で所在を把握できていない就学児童生徒が1000人超のレベルで出ているというニュースが昨日か何か流れていたが(数えているだけ偉い。数えるところが日本政府ですね。大変得意な分野だからかもしれませんが。世の中には、そういうことを数える気力すらない大国があるのです。どことは言わないけれど、西半球にも東半球にも。)、基本的に行政は、一膳飯屋で、並んでいるお皿を自分でとりに行く気力と能力がある人にはサービスが提供されるシステム(制度)なので、仕方ないこととはいえ、その気力さえない人々や、それが何らかの事情でできない人には、まったくサービスが行かない制度であるのは、仕方がないとはいえ、その結果、餓死する家族や行方知れずになっている児童がいることがねぇ。つらいです。はい。
バブル時代を経て形成されたサービス化社会(というよりは過剰サービス社会)の日本を経由して現代の社会では、行政のシステムである、「サービスを申請しに来て初めてサービスが提供される」というのは、なんか変な感じになっているのだろうなぁ、と思う。これから、行政がどっち向いて走ろうとしているのかを、少し見極めたいと思う。許されるならば、その自治体さんとお付き合いしながら。
ところで、ミーちゃんはーちゃんは、教会の講壇で語ることもあるけれども、ある程度は、会衆というか聴き手の反応や顔を見ながらしゃべっているのだけれども、なかなか、うまくいかない。ロイドジョンズ先生のような寿司屋のオヤジにはなれないものの、リパーカッションがないと、どのあたりが伝わっていないのか、何が疑問なのかが拾いにくい。寿司屋のオヤジのような職人芸はできずとも、せめて、定食屋のオヤジや、ファミレスの営業本部くらいにはなりたい。社会の動向を見極めながら、信徒の必要を見極めながら、神のことばのコアの部分を提示できるようになりたいなぁ、とぼー、ぼー、ぼぉーっと思っている。
今通っている(というよりは、メインの活動の場としてきた)教会では、日曜日には、かなりの頻度で講壇からしゃべっている。しかし、どの程度、伝わったのかなぁ、ということがかなり分かりにくい場合が多い。参加者の方に、聞きまくるわけにはいかないので。お話終了後に雑談したり、信者さん同士の雑談をスパイするように聞く中で、軽くモニターする程度しかできない。
両者の違いは、何か、というと、相手の反応が見えやすい(学校)と相手の反応がつかみにくい(教会)が一番の違いである。次が、相手の前提条件や知識レベルのをある程度想定できる(学校 とはいえ、最近は、かなり怪しくなってきたのでつらい)と話す相手についての条件設定がしにくい(信者さん対象の場合はある程度できるが)ということであろうか。
先日のある市の総合計画審議会の専門部会に参加させてもらったときに、行政と市民との対応の関係になったのであるが、今、社会の潮流として、市民の側で求められているのは、市民の要望に合わせてサービスが提供されることではないか、という話になった。
市役所の中には、いろんな多様な政策メニューがいろいろあるのであるが、社会から役所に求められるのは、多様なメニューの中から、適切なものをパッケージにしてくれるあり方ではないかなぁ、というお話になった。
今の行政の方法論は、行政に申請する側が全部、申請書をいちいち書いて必要なものをそろえて初めて、まともなサービスを受けられる、ということになっている、ということをその場におられた社会福祉の専門家がおっしゃっておられた。その話を聞きながら、じゃ、行政は、いうなれば、定食屋やファミレスでもなく、一膳飯屋方式でとりあえずありとあらゆるメニューだけはそろっているが、それを自分で取りに行くようになっていて、隅っこのほうに隠されておかれているようなおいしい話を見つけられなければ、結局サービスを受けられないようになっている、という話か、と聞いたら、その社会福祉がご専門の先生がうまいことを言う、とほめてくださった。
でお調子者のミーちゃんはーちゃんなので、調子に乗って、「じゃ、市民が求めているのは、市民の顔を見て雑談しながら、パッと必要なものを出してくれる寿司屋のオヤジですか?」と言ったら、大受けしてしまった。
ところで、行政の側で所在を把握できていない就学児童生徒が1000人超のレベルで出ているというニュースが昨日か何か流れていたが(数えているだけ偉い。数えるところが日本政府ですね。大変得意な分野だからかもしれませんが。世の中には、そういうことを数える気力すらない大国があるのです。どことは言わないけれど、西半球にも東半球にも。)、基本的に行政は、一膳飯屋で、並んでいるお皿を自分でとりに行く気力と能力がある人にはサービスが提供されるシステム(制度)なので、仕方ないこととはいえ、その気力さえない人々や、それが何らかの事情でできない人には、まったくサービスが行かない制度であるのは、仕方がないとはいえ、その結果、餓死する家族や行方知れずになっている児童がいることがねぇ。つらいです。はい。
バブル時代を経て形成されたサービス化社会(というよりは過剰サービス社会)の日本を経由して現代の社会では、行政のシステムである、「サービスを申請しに来て初めてサービスが提供される」というのは、なんか変な感じになっているのだろうなぁ、と思う。これから、行政がどっち向いて走ろうとしているのかを、少し見極めたいと思う。許されるならば、その自治体さんとお付き合いしながら。
ところで、ミーちゃんはーちゃんは、教会の講壇で語ることもあるけれども、ある程度は、会衆というか聴き手の反応や顔を見ながらしゃべっているのだけれども、なかなか、うまくいかない。ロイドジョンズ先生のような寿司屋のオヤジにはなれないものの、リパーカッションがないと、どのあたりが伝わっていないのか、何が疑問なのかが拾いにくい。寿司屋のオヤジのような職人芸はできずとも、せめて、定食屋のオヤジや、ファミレスの営業本部くらいにはなりたい。社会の動向を見極めながら、信徒の必要を見極めながら、神のことばのコアの部分を提示できるようになりたいなぁ、とぼー、ぼー、ぼぉーっと思っている。
2012.04.21 Saturday
教会用語の共通理解の程度について
教会で多用される用語で聖書理解や対話の根幹にかかわる語が、いくつかあるけれども、それの信者間での共通理解がされているかどうか、怪しい用語がいくつかある(というよりはいくつもある)。
代表的には「信仰」・「罪」・「赦し」・「愛」・「希望」・「喜び」・「試練」・「試み」・・・・・ときりがない。
ミーちゃんはーちゃんが所属している団体は、キリスト教ゲリラ部隊とも言うべき存在なので、正規のキリスト教に関する理解の体系に関する教育だの訓練を受けたことのない人々が恐れ多くも講壇から語ることが多い(その講壇の位置は、信者席と同じであり、プラットフォームが置かていないとはいえ)ので、聖書から「うーん、どうなんでしょうねぇ」、と思われる理解が話されることや、「あれ、どうなんだろう」と思われる理解に基づいて、聖書を読み込んでいった結果の話が語られ、「ん?あれれ」という印象を抱くことが非常に発生しやすいように思うのは、私の信仰と聖書理解が圧倒的に不足しているせいなのでしょう。
なお、水谷さんという方のブログの最近の記事(某国ミサイル問題と共通項としての牧師説教問題)を拝見する限りこの種の問題は、正規の聖書に関する教育機関で教育を受けた牧師、伝道者、伝道師、教益者、教職、教職者の方々でも同じ場合が皆無ではないようであるが、ミーちゃんはーちゃんが所属している、あるいは他者から「この団体だよね〜」と分類されるキリスト者集団では、この問題が予想以上に深刻かもしれない、と反省している。自分自身を含めての話だが。
高校生や、大学生が「あー、どうなんかなぁー」という内容を語っているのであれば、害は軽い。ほほえましくさえある。相手の能力に限界があるのはなんとなくわかる。ある程度年齢もいった社会的に信用されそうな人たちが、あるいは、教会の中で信望を集めそうな方々や、集めているかもしれない方々が理解の可能性であるという前提条件をつけずに「これが聖書の主張です」といった雰囲気でお話しになられるのは、非常に「難儀なことよのぉ〜」や「おじゃほ〜」と、坂ノ上おじゃる丸君のように思ってしまうのである。
わがキリスト者集団では、「聖書から語る」ことになっているので、聖書から語る逸脱ということはないかもしれないけれども、「聖書のテキストについて誤った解釈をして誤った内容を語る」ことや、人々を聖書に関心を持ってもらうようにするために、という理由はあるのだろうけれども、非常に聖書本文と薄い関係の対象と「聖書の表面的文言を半ば強制的に結び付けて」語ることは、犯罪を構成するということは言わないまでも、非常に悲惨な結末を生み出すように思うし、まぁ、ある程度聞く気のある人たちの関心を失せさせてしまうのではないか?と思う。
結構、自分自身を振り返ってみてもそうだが、普段教会で使う用語に振り回され、その振り回された理解で聖書を読み込んだり、聖書の表面的な文言にとらわれていることが多い。
聖書の表面のその奥を考えながら読むこと、そして、そのことばの周辺背景に目を配りながら読むことの必要性、その具体的な事例の積み重ねをしたプロセスを含め考えていくこと、そのための具体的な理解の積み重ねの必要を強く感じておりますです。はい。
代表的には「信仰」・「罪」・「赦し」・「愛」・「希望」・「喜び」・「試練」・「試み」・・・・・ときりがない。
ミーちゃんはーちゃんが所属している団体は、キリスト教ゲリラ部隊とも言うべき存在なので、正規のキリスト教に関する理解の体系に関する教育だの訓練を受けたことのない人々が恐れ多くも講壇から語ることが多い(その講壇の位置は、信者席と同じであり、プラットフォームが置かていないとはいえ)ので、聖書から「うーん、どうなんでしょうねぇ」、と思われる理解が話されることや、「あれ、どうなんだろう」と思われる理解に基づいて、聖書を読み込んでいった結果の話が語られ、「ん?あれれ」という印象を抱くことが非常に発生しやすいように思うのは、私の信仰と聖書理解が圧倒的に不足しているせいなのでしょう。
なお、水谷さんという方のブログの最近の記事(某国ミサイル問題と共通項としての牧師説教問題)を拝見する限りこの種の問題は、正規の聖書に関する教育機関で教育を受けた牧師、伝道者、伝道師、教益者、教職、教職者の方々でも同じ場合が皆無ではないようであるが、ミーちゃんはーちゃんが所属している、あるいは他者から「この団体だよね〜」と分類されるキリスト者集団では、この問題が予想以上に深刻かもしれない、と反省している。自分自身を含めての話だが。
高校生や、大学生が「あー、どうなんかなぁー」という内容を語っているのであれば、害は軽い。ほほえましくさえある。相手の能力に限界があるのはなんとなくわかる。ある程度年齢もいった社会的に信用されそうな人たちが、あるいは、教会の中で信望を集めそうな方々や、集めているかもしれない方々が理解の可能性であるという前提条件をつけずに「これが聖書の主張です」といった雰囲気でお話しになられるのは、非常に「難儀なことよのぉ〜」や「おじゃほ〜」と、坂ノ上おじゃる丸君のように思ってしまうのである。
わがキリスト者集団では、「聖書から語る」ことになっているので、聖書から語る逸脱ということはないかもしれないけれども、「聖書のテキストについて誤った解釈をして誤った内容を語る」ことや、人々を聖書に関心を持ってもらうようにするために、という理由はあるのだろうけれども、非常に聖書本文と薄い関係の対象と「聖書の表面的文言を半ば強制的に結び付けて」語ることは、犯罪を構成するということは言わないまでも、非常に悲惨な結末を生み出すように思うし、まぁ、ある程度聞く気のある人たちの関心を失せさせてしまうのではないか?と思う。
結構、自分自身を振り返ってみてもそうだが、普段教会で使う用語に振り回され、その振り回された理解で聖書を読み込んだり、聖書の表面的な文言にとらわれていることが多い。
聖書の表面のその奥を考えながら読むこと、そして、そのことばの周辺背景に目を配りながら読むことの必要性、その具体的な事例の積み重ねをしたプロセスを含め考えていくこと、そのための具体的な理解の積み重ねの必要を強く感じておりますです。はい。
2012.04.25 Wednesday
保守的なキリスト者の視野の狭さ
ある書物を読んでいるFacebook上での読書会に参加させてもらっているのだが、そこで保守的な人々の視野の狭さ、ちょっと教会で勉強したい人が勉強するガイドがないことが話題になった。
聖書以外の書物を読んではいけない、一般の神学書を読んではいけない、ということがちらっと話題になっていた。かく言うミーちゃんはーちゃんも、以前は、そんなものは読んではいけない、という風に言われていたので、そもそも怖くて神学書なるものにはこれまであまり手を出さなかったのだね。
それはそれで、いいと思うのだけれども、ちょっとこまっちゃくれた本を今読んでいるときに、そのあたりの知識が完璧に抜けているので、困っていたりする。そこで、正直に、「そんな知識はございませんの。困ってますの」とその読書会の主催の方にお願いしたら、いろいろ教えてくださった。ありがたい読書会なのだね。本当に。
その中で、聖書以外の書物を読んではいけない、と指導されている教会が結構あり、そんな指導がなされる保守的な教会(主に福音派)の視野の狭さが話題になっていた。「牧会的な配慮から(信者さんがへんな本(リベラルな人が書いた本)を見て、とち狂ったりしないように)禁止されているのではないか。普通の本屋にいくと、そういう本も並んでいるし、・・・」というお話が書いていただいていた。
「出版社が悪い」という話もしておられるかたもおられた。「売れる本しか出さない。」というご意見である。
それはそうだろう。ネットで面白い記事が読める今、何で、売れない本を大量に抱え込んで、自ら倒産の憂き目に向かうようなおきらくごんた君のような出版社がいたら、そこの社員はやってられない。そもそも、日本のクリスチャン人口が少ないうえに、その中で本を読む人は、ほんの一握り、それも本を読んで、自分の信仰が揺さぶられるような、頭が痛くなるような経験をしたい人なんて、ほとんどいないとおもう。
となると、売れる本しか出せないに決まっている。最近売れた本としては、聖書風オカルト小説とか。そんなシリーズ本が出ていたような気がした。はい。Tim ○○さんが関係しているあの「左後」シリーズです。
ところで、「本を読んではいけない」という話しを聞きながら、「そうか、リベラルな信者さんが書いた本は、キリスト者にとって青少年有害図書、すなわち、ポルノグラフィーと同じなのだなぁ。フムフム。しかし、リベラルはと呼ばれる信者さんが書いた本を読んで、とち狂うって、何を心配しているのだろうか。それこそ、そういう指導をされる牧師さんこそ、不信仰ではないだろうか。神の力を信じるといいながらも、まったく信じておられないのかな?」と思ってしまった。そんなことで、信仰が揺らぐような信仰なら、それはそもそも、信仰ではなかったのではないだろうか。そこまで言ったら、言い過ぎかもしれないが。
この話を横目で眺めていたら、あることを思い出した。今年の信徒大会とやら言うところで、リベラル派の方の書かれたものを引用しながら、嘲笑的に取り上げておられた「学び手」と呼ばれる方がなさったことである。
他人様の悪口が言いたいわけではないが、あまりにひどい欠席裁判をするかのような引用の仕方に、ミーちゃんはーちゃんは、「まじっすか?そんなご無体な」と思ったために、大爆笑がとまらなくなり、思わず笑い転げていたのですけど、他の参加者のかたがたは、「リベラルな方は、聖書が語っていることを信じないで、聖書学者だなんて、おばかだよね」と話し手の方に同調する意味で笑っておられたらしいのである。(しかし、「おばかと思ったあんたたち、燃えるゲヘナに投げ込まれてしまいますぞ」とミーちゃんはーちゃんはその話しを聞いて思ったけど)
あまりに引用の仕方がリベラルの信者さんを悪者扱いするような引用だったので、その方が所属しておられる教会のご本人宛にに、「どの本を引用されたのですか、聞き逃したかもしれないので知りたいです。」とお聞きしたら、教えてはいただきましたが、「他の方が迷うといけないから具体的な著者名と、具体的な書名は公にしないでほしい」という丁寧なお返事をいただきました。そのお返事を読みながら、「それなら、批判的に取り上げるために、公の場で読まなきゃ良いのに。」と素朴に思ってしまいました。
その話で思い出したんですが、この前お会いしたお若い信者の方に、「聖書以外の聖書や信仰に関する本は読まないの?」とお聞きしたら、「きっぱりと読む必要がない」とおっしゃった。「どうして?」と聞いたら、「教会の責任者(牧師)に聞けば、いいし、よく知っている人に聞くのが一番だから・・・」とおっしゃった。うーん、歌舞伎や能の世界だ。口伝による伝承ね。
悪いとは言いませんよ。悪いとは。モーセ5書は口伝だったという説もありますから。こういう純粋まっすぐクンのような信者さんがいらっしゃるところでは、「聖書以外の本を読むな」というのが正解なのかもしれませんね。
2012.04.28 Saturday
自称『牧師』と自称『教会』について
水谷先生のブログで、ここのところ、自称『牧師』の問題が取り上げられているが、よく考えてみれば、自称『牧師』や自称『教会』もあるのでは、と思った。
司馬遼太郎さんという方の本に空海の伝記小説でもあり、空海を生んだ風景を描いた風土記ともいうべき「空海の風景」という小説があるが、基本小説なので、史実ではない、と怒られてしまいそうだが、奈良朝末期というか空海が生まれたころには、結構私度僧というのがいたらしい。ようするに、現代で言う脱税目的の宗教法人の利用、みたいなものかなぁ、とも思う。
基本、宗教者は課税措置から免れている特例を受けていることが多いのだが、奈良時代末期には、国家課税から逃れるために私度僧になった事例が、空海の風景に紹介されていたような記憶があったように思う。さてさて、そういう意味では、荘園制度も、国家からの徴税を逃れるために、寺社に寄付したというような説明を高校の頃(30年近く前)に高校の日本史の先生から聞いた記憶がある。ちなみに、昔は、工学部を目指していたので、日本史は、まともに聞いていなかったし、日本史は、中世にはいるところ(つまり平安朝まで)で知識が断絶している。
こう考えてみると、もともと、仏教にしても、単にブッダについて行った人たちが勝手に始めた社会集団から生まれた新興宗教だった時代があるし、キリスト教だって、イエスにくっついて行った弟子たちが12使徒とか呼ばれ、えらいさんにさせられて始まって行った新興宗教だった時代がある。パウロだって、ギリシア社会にあるシナゴーグに入り込み、そこの信徒を横取りするようなことをしている。すっかり、そんなことをしたことは忘れられたパウロが語られていることが多いが。事実としては、そんなところだろう。
何が言いたいか、というと、クリスチャンということや、キリスト者ということは、基本人間の目から見れば、自称でしかない。また、教会も、自称でしかない。自称でいくらでも教会ができる。だからこそ、正統論争がおこなわれたし、その過程で教理が作られてきたし、信条が作られてきて、一応、これで納得できるかどうかが一種の判断基準となってきた。つまり、信条にせよ、教理にせよ、自分たちの共通の土台とは何か、を定める作業であり、相互参照可能かどうかの判断基準だったのだろう。
今、読書会で読んでいる本では、この信条が問題になっている部分を読んでいる。そもそも、共通部分であるかどうかの一種の判断基準というか共通の土台とは何かを考えた結果が、時間の経緯とともにそれ以外の役割というか価値をもってきた(具体的には、信仰の本質や自分たち自身のナザレのイエスがその時代に対して持っていたそもそもの意味や、意義、その社会の人々にもたれていたイメージとは違いものとなってしまった)問題を取り上げ、この信条が優先するがあまり、福音書自体が参照されなかった問題を取り上げている。
余談に行ってしまったので、本論にもどしたいと思う。そもそも、キリスト者にしても、教会にしても、社会の前においては、所詮自称なのである。まぁ、宗教法人格であれ、他の法人格であれ、法人格をとった瞬間に公的な認証を受けるが、それは、正統なものであることにはならないのであるが、存在していることは公的な認証(存在することの証明 あるいは 確認)を受けたことになる。それを悪用したのが、昔のオウム真理教であったように思う。革命を起こそうとする組織が、革命を起こす対象から認証を受けるのは、どっかおかしいけど。
またもや、ずれ始めたので、本論にもどすが、そもそも、包括組織(業界用語で、教団といいます)がある教会群にしても、単立の教会にしても、現代の社会では、しょせん自称でしかないのではないか、と思う。それよりも問題なのは、その自称教会が、神との関係、聖書の主張とどのような関係にあるか、である。
残念ながら、はじめてキリスト教に触れる人、特に、キリスト教の背景のない日本の社会のような社会で過ごした人で始めてキリスト教に触れる人にとっては、神との関係、聖書の主張との関係がどのようなものについて、どのようであれば『標準的』であるのかがわからないところが問題なのだと思う。このような『標準的』な理解がない社会で育った人にとっては、最初に出会った教会とか教会の包括組織(教団)の主張が『標準的』と刷り込まれやすい。まるで親鳥とひな鳥の関係であるが。その主張が大幅に『標準的』なものからかい離しているものである、としても。
実は、キリスト教会やキリスト教徒は、多様であるにもかかわらず、「キリスト教」や「カトリック」や「プロテスタント」というラベルを張って、それを張り出す教会も、それを見る一般の方がもそうであるが、それを見て安心しているところに一番問題があるのかもしれない。
あと、セカンドオピニオンを聞くための場所と機会が限られることもあるかな。
となってくると、基本教会や牧師は、根源的には、「自称」である、ということを理解したうえで、ご本人がその集団が主張することは、どこかおかしくないか、ということを考えながら、付き合っていくしかないのだろう、と思う。
基本、キリスト者もそうだし、牧師もそうだし、教会もそうだし、時代という特定の歴史的なコンテキストの中で生きないといけないので、限界がある存在なのだと思う。だからこそ、信仰者は常にその生き方を、教会や牧師にお任せで、タクシーの乗客のようになるのではなく、聖書の主張を自分自身に照らし合わせて考えていく必要があるんじゃないかなぁ。
そんなのめんどくさい、って。そりゃそうですが…。でも、あなたの人生のハンドルを握っているのは、あなたでもあるということをお忘れなく…。
司馬遼太郎さんという方の本に空海の伝記小説でもあり、空海を生んだ風景を描いた風土記ともいうべき「空海の風景」という小説があるが、基本小説なので、史実ではない、と怒られてしまいそうだが、奈良朝末期というか空海が生まれたころには、結構私度僧というのがいたらしい。ようするに、現代で言う脱税目的の宗教法人の利用、みたいなものかなぁ、とも思う。
基本、宗教者は課税措置から免れている特例を受けていることが多いのだが、奈良時代末期には、国家課税から逃れるために私度僧になった事例が、空海の風景に紹介されていたような記憶があったように思う。さてさて、そういう意味では、荘園制度も、国家からの徴税を逃れるために、寺社に寄付したというような説明を高校の頃(30年近く前)に高校の日本史の先生から聞いた記憶がある。ちなみに、昔は、工学部を目指していたので、日本史は、まともに聞いていなかったし、日本史は、中世にはいるところ(つまり平安朝まで)で知識が断絶している。
こう考えてみると、もともと、仏教にしても、単にブッダについて行った人たちが勝手に始めた社会集団から生まれた新興宗教だった時代があるし、キリスト教だって、イエスにくっついて行った弟子たちが12使徒とか呼ばれ、えらいさんにさせられて始まって行った新興宗教だった時代がある。パウロだって、ギリシア社会にあるシナゴーグに入り込み、そこの信徒を横取りするようなことをしている。すっかり、そんなことをしたことは忘れられたパウロが語られていることが多いが。事実としては、そんなところだろう。
何が言いたいか、というと、クリスチャンということや、キリスト者ということは、基本人間の目から見れば、自称でしかない。また、教会も、自称でしかない。自称でいくらでも教会ができる。だからこそ、正統論争がおこなわれたし、その過程で教理が作られてきたし、信条が作られてきて、一応、これで納得できるかどうかが一種の判断基準となってきた。つまり、信条にせよ、教理にせよ、自分たちの共通の土台とは何か、を定める作業であり、相互参照可能かどうかの判断基準だったのだろう。
今、読書会で読んでいる本では、この信条が問題になっている部分を読んでいる。そもそも、共通部分であるかどうかの一種の判断基準というか共通の土台とは何かを考えた結果が、時間の経緯とともにそれ以外の役割というか価値をもってきた(具体的には、信仰の本質や自分たち自身のナザレのイエスがその時代に対して持っていたそもそもの意味や、意義、その社会の人々にもたれていたイメージとは違いものとなってしまった)問題を取り上げ、この信条が優先するがあまり、福音書自体が参照されなかった問題を取り上げている。
余談に行ってしまったので、本論にもどしたいと思う。そもそも、キリスト者にしても、教会にしても、社会の前においては、所詮自称なのである。まぁ、宗教法人格であれ、他の法人格であれ、法人格をとった瞬間に公的な認証を受けるが、それは、正統なものであることにはならないのであるが、存在していることは公的な認証(存在することの証明 あるいは 確認)を受けたことになる。それを悪用したのが、昔のオウム真理教であったように思う。革命を起こそうとする組織が、革命を起こす対象から認証を受けるのは、どっかおかしいけど。
またもや、ずれ始めたので、本論にもどすが、そもそも、包括組織(業界用語で、教団といいます)がある教会群にしても、単立の教会にしても、現代の社会では、しょせん自称でしかないのではないか、と思う。それよりも問題なのは、その自称教会が、神との関係、聖書の主張とどのような関係にあるか、である。
残念ながら、はじめてキリスト教に触れる人、特に、キリスト教の背景のない日本の社会のような社会で過ごした人で始めてキリスト教に触れる人にとっては、神との関係、聖書の主張との関係がどのようなものについて、どのようであれば『標準的』であるのかがわからないところが問題なのだと思う。このような『標準的』な理解がない社会で育った人にとっては、最初に出会った教会とか教会の包括組織(教団)の主張が『標準的』と刷り込まれやすい。まるで親鳥とひな鳥の関係であるが。その主張が大幅に『標準的』なものからかい離しているものである、としても。
実は、キリスト教会やキリスト教徒は、多様であるにもかかわらず、「キリスト教」や「カトリック」や「プロテスタント」というラベルを張って、それを張り出す教会も、それを見る一般の方がもそうであるが、それを見て安心しているところに一番問題があるのかもしれない。
あと、セカンドオピニオンを聞くための場所と機会が限られることもあるかな。
となってくると、基本教会や牧師は、根源的には、「自称」である、ということを理解したうえで、ご本人がその集団が主張することは、どこかおかしくないか、ということを考えながら、付き合っていくしかないのだろう、と思う。
基本、キリスト者もそうだし、牧師もそうだし、教会もそうだし、時代という特定の歴史的なコンテキストの中で生きないといけないので、限界がある存在なのだと思う。だからこそ、信仰者は常にその生き方を、教会や牧師にお任せで、タクシーの乗客のようになるのではなく、聖書の主張を自分自身に照らし合わせて考えていく必要があるんじゃないかなぁ。
そんなのめんどくさい、って。そりゃそうですが…。でも、あなたの人生のハンドルを握っているのは、あなたでもあるということをお忘れなく…。
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