2012.02.01 Wednesday

教会とオープンネス ー現代社会における教会

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     先日、東京で所要があったこともあり、以前からお伺いしたいお伺いしたいと思っていたK先生のところにお伺いしました。2時間ばかりでありましたが、なんと時間が早く過ぎ去って言ったことか。あめんどうのOさんとお話したときも、水谷先生とお話したときも、もちろん、Ministryのイケメンかつイクメン編集長のまっちゃんさんも・・・・UgoUgo王子も、Hattori先生も、言い出したらきりがないので、このあたりで。

     建築家崩れ(ある程度理解力があるのだけれども、それを図面に落とす能力や、それを作り上げるプロセスの能力がないため、建築家よりたちが悪い存在。ちょうど、アマデウスにおけるサリエリ君みたいな存在)であるミーちゃんはーちゃんは、Y郷の教会のポストモダン様式のおしゃれな教会堂に驚いた。コンクリ打ちっぱなし(たぶん、透明塗装加工済み)の吹き抜けの大空間。ピラーレス構造をうまく作り出しているホール。これまたポストモダン様式の照明。そして、天窓。設計士が教会堂の設計を任されて、うれしくて、うれしくてしょうがなくて設計したことがわかるホールであった(つまり、それなりにメンテとそのコストが大変)。建築家にとって、教会堂(たいてい教会は、会堂を長期間使うので、住宅や、ビル、店舗の設計はごろごろしているが、教会の設計めったに設計できない案件。教会設計の案件に当たるとうれしいらしい。)の設計は、西洋建築のオリジンに触れる設計ができるのは、建築家冥利に尽きず、楽しくてしょうがないのであるのは分かる。建築家崩れとして。特に、西洋建築の華とも言うべき教会堂の設計は、日本ではあまりないからだと思う。

     まぁ、パチモン(にせもの)の冠婚葬祭業者の教会風の結婚式場の設計案件も少ないながら回ってくることはあっても、会員がいて、牧師がいて、毎週使ってくれるほんまもん(本物)の教会の設計案件なんてのは、めったにないんですよ。そりゃ気分が高揚して冒険もしたくなるよね。

     さてさて、その教会の隣に隣接するK先生の昭和風でありながら、カリフォルニア様式の大きな窓を取り込んだショップ(工房)の脇室でお茶をいただきながら、いろいろご教示をいただいていたが、何より、ショップにあった古道具の平かんな類のコレクション。思わず、うらやましいと思ってしまった。自分では、鉋をかけることもめったにないくせに。あーいう骨董、機能美の美しさがあるんでねぇ。

     余談はさておき、いくつも思ったことがあるのであるけれども、今回は、現代における日本の教会が公共空間となっているか、ということである。K先生と話していて思ったことの一つに、日本のプロテスタント派の教会とその敷地というのは、公共空間としての機能を果たしていないのではないか、教会員にとってのクラブハウス(ゴルフ場にあるらしいやつと同じ、そのメンバーとお連れの方しか使えませんということになっているやつ。ミーちゃんはーちゃんはゴルフをまったくしないので、わからないけれども)でしかないのではないか、という問題意識を取り上げたい。

     カトリックは、一応、誰が行っても、ドアが開いていれば、入らしてくれるらしい。ディズニーアニメ(ハンチバック・オブ・ノートルダム 子供と一緒に繰り返し見たので、台詞はほぼ暗記した)で描かれていたことしか知らないが、世情の権力が介入しようと思っても入らせないだけの根性がある組織であるカトリック教会は、人々を受け入れる隠れ家として機能していることが描かれていた。そういえば、あぁ無情でも、ジャン・バルジャンは、教会に行くのであった。そういえば、家内の大好きな「フランダースの犬」のアニメ化作品でも、ネロ少年とパトラッシュは、アントワープの教会堂で最後死んでいる。ルーベンスの絵は、お金を払わないと(献金しないと)見せてもらえなかったらしいが。フランダースの犬の原作本とアニメには、乖離があることはなんとなく知っているが、原作はまだ読んでいない。
     
     ということは、カトリック教会とその敷地は私的空間でありながらも、公共に向かって開いている、という意味で、公共空間なのかもしれない。私の行っている教会の近所にあるカトリック教会の司祭様が、あまりに外部の見学者の方が教会堂でうるさくするので、教会に来るなといったとか言わないとか言う話が、以前ネット上で流れていた気がする。真偽のほどは知らない。その司祭様のお姿は道路を通りがかるとき、何度か拝見したが。

     一応、神社の境内はキリスト者でも通行できるし、お賽銭入れないやつは入れてやらない、ということにはなっていない。事実、私の前の職場に行くとき、近道なので、ほぼ毎日、境内を北から南に突っ切る近道として利用させてもらっていた。プロテスタント系キリスト教界のある方とお話したとき、「神社には悪い霊がいるから、そういうところに近づかないほうがよい、といわれた」ということをお話してくださった方もいたっけ。思わず、「そんなことはありません。大丈夫です。」と突っ込みを入れましたが。

     ところで、お寺の敷地を突っ切るということはできる寺社の方が主流だと、思う。京都や奈良などにある有名な仏教系寺院(寺とはもともと大きな建物、というくらいの意味らしい)や神社には、庭や建築を見るんだから、参拝料をよこせ、という神社、寺や塔頭は、あるけれども、国宝や重要文化財といった文化遺産の少ないような寺では、境内に入ったり、墓地に潜入したりするには、制限がないところが多い。実際に行ったことのある四国の石手寺だとか、善通寺は、実に風通しのよい寺であった。

     一応、昔の国立大学(今は国立大学法人といいます)も、『用件のない方は立ち入らないように』とは書いてあるが、理念上は、『国民のもの』なので、結構自由に進入しても基本怒られない、はずである。その意味で、かなり、アクセシビリティがいいのである。普通の人は、あまり入ろうと思わないかもしれないが。ただ、自衛隊の基地は、同じ国民のものだけれども、勝手に入れなくしてある。入り口にはおっかない車止めと、怖そうなお兄さんたちが立っているのだね。アメリカの空軍基地(ヴァンデンバーグ空軍基地)は、入り口には、ゲートがあった記憶がない。敷地内道路がほとんど迷路なので、そもそも案内されないと初めての場合、基地にたどり着けない。でも、基地祭のときには、外人のミーちゃんはーちゃんでも入れてくれた。パスポートを見せろとかは、いわれなかった。一応持っていった。ICBMの試験場なのに・・・。B2が超低速の超低空飛行するアクロバット飛行(あんな重たいものをちんたら地上10mで飛ばすのは結構大変なはず)を見せてくれたり、現役のAWACSに立ち入らせてくれた・・・。将軍様のところのスパイかもしれないのに・・・・。こういうおおらかさが911の後でもあるのは、いいよなぁ、と思った。まぁ、多民族国家なので、見た目で『将軍様のスパイか?』と市民権を持つ人に軍関係者が詰問したら、裁判沙汰になるからかもしれないが。

     ただ、AWACSのタラップから降りようとしたら、上空から、足元のところに米国旗をつけたパラトゥルーパーが上空から降りてきて、みんな静止していて、あれ、変だと思った。それと同時に、うちの子供が『国歌だからプレッジ・プレッジ』と小声でいったので、とっさに立ち止まって一応胸のところに手を当てるふりだけはした。まるで、ホーマー・シンプソン。

     ところで、アクセシビリティといえば、小嶋先生も以前書いておられたが、先生のところの教会にも、時々、ひょっこりと、祈らせてほしい、という人が来られるらしい。割と日本人は、心を落ち着かせるために、これまで、このような宗教施設をテキトーにうまく活用してきたのだろう。主に仏教寺院の散策であったり、子供と一緒に入り込んでかくれんぼしたり、神社の境内の散策であったりしたのであろう。

     静謐な環境の中で、時にお百度石を踏んでいく(無目的に同じ作業を繰り返すので、気分が落ち着く)作業であったりすることで、心落ち着かせている場面というのはあると思う。キリスト者2世のミーちゃんはーちゃんは、神社でお百度を踏んだ経験はない。自慢するほどのことではないが。

     ナウエンだったかなぁ、晴佐久さんだったかなぁ(両者のミーちゃんはーちゃんの中でのミックスが起きたのかもしれないが)、都市における現代人は、常に音のある喧騒世界の中で生きていながらも、孤独の中でいきている、という指摘があり、時に心落ち着けるときも場所もない、ということが書かれていたように思う。普段家にいる人、あるいは教会や大学図書館などのオフィスにいる特殊な人(はい、ミーちゃんはーちゃんは特殊です)は、比較的静謐な時間と空間を得ているが、普通の人は、職場では電話がなり、隣では打ち合わせをしており、ラインプリンターはガンガン音を立てている世界でお仕事をしておられる。電車に乗れば、これでもかこれでもかと騒音にまぎれるように駅の案内放送が入り、若者は大音量でビートを音漏れさせ、(関東ではめったにお目にかからないが)おばさんが近所の悪口を言ったり、親類の悪口を声高らかにお話されていることがある(一度、新神戸から東京まで乗っためったにのらないグリーン車(これは、エクスプレス予約で乗車して経験値がたまったので、ただでアップグレードしてもらった)にのったとき、新神戸から名古屋間、前の座席のおばさま方の親類の大悪口大会を傾聴する羽目になったので、車掌さんに頼んで、別席に替えてもらったことがある)。かと思えば、阪神電車では商談を終えたらしい二人組のサラリーマン(これも日本ならでは)が、直前の商談について大声で会話している。

     スーパーに行ってもバックグラウンドミュージックならまだしも、購買意欲を誘うような勢いのあるノリノリのポップスや、「さかな・さかな・さかな 魚をたべーると、あたま・あたま・あたま、あたまがよくなる」という頭によくするとは思えない音楽が無限ループかメビウスの輪のように流れている。電気店に行っても、頭が痛くなるような、電気店チェーンの名前を連呼するような音楽が流れていることが多い。さすがに書店は静かなところが多いが。

     散歩で街に出ても、バイクや自動車は音を立てて走るし、自転車にひかれそうなことも少なくない。喫茶店に行っても、もう、クラッシック喫茶や、ジャズ喫茶は、ほとんど絶滅危惧種に指定してもよいほど少なくなっている。スターバックスなどのコーヒーチェーンに間違った時刻にいこうものなら、おばさんたちや女子高生のおしゃべりなどに巻き込まれ、落ち着くことすらままならない。特に、関西のスターバックスは、にぎやかである。都内だと、スターバックスでうるさかった経験は少ないが、一度都内のマクドナルドで、辟易したことがあるけれども。

     都会の中で、喧騒から離れ、静謐を保ち、心落ち着ける場所として神社、お寺、教会のキャンパス(敷地)は、案外その静謐を与える場所であるのかもしれない。個人的に一押しは、海っぺた。ボーっと波を見ているだけで、幸せな気持ちに慣れる。俗世を離れた中に長時間いると(ラピュタ人と呼ばれても仕方がない。ガリバー旅行記参照)、そんなことは気が付かないが、時々、おこもりを決め込んでいる洞窟からときどき世間に出てみると、実は、都会のビジネスパーソンや普通に仕事をしている人々にとって、このような静謐な空間のありがたさが少しわかる。

     ところが、プロテスタント派の教会は、入りたくても入れないところ、キャンパスと呼ばれる敷地すら、ゲートや結構おっかないコンクリートや金属製の柵(といっても、陸上自衛隊や機動隊の本部よりはおっかなくはない。そもそも、牧師館が併設されてないところも結構あるし、普段、プロテスタント系の教会には人がいない。私の属するところもそうで、普段は、電話をかけても留守電がさびしく応答してお出迎えしてくれるだけである。ちょっこし反省。

     何でプロテスタント派の教会は、教会堂だけでなく、外部に対して何故閉鎖的か(過去、非国民として意地悪されたことがあるとかないとか、というような)、という原因追求の話はさておいて、これ、おかしいのではないか、と思う。他の神社さんやお寺さん、カトリック教会さんは、非常にあけっぴろげというか、地域に溶け込んでおられる。

     そのような寺社仏閣やカトリック教会と比べてプロテスタントは全体に閉鎖的な気がする。ジャン・バルジャンの時代のように、教会堂には銀の食器がある(うちの道具は銀色だが、ステンレスか錫)とか、教会内に現金が唸っているとか言うわけではないのに、何ゆえ、外部に対して閉鎖的で信者の未利用可能なクラブハウス的存在という空間なのであろう、ということを、K先生とお話しながら、考えた。もうちょっこし、開放的でいいのではないか、と思った。

     開放すれば、「事故が起きたときの訴訟が・・・」とか、「開放に伴う人手がいる・・・」とか、現実の壁はいくつかあるけれども、まぁ、一般家庭でも、子供の犯罪被害の避難所として解放する(芦屋には、ウルトラマンも守ってくれる、という看板があるお店や家がいくつもあります。)ところがあるご時世ということを考えると、どうなんでしょう、と思います。まぁ、賀川豊彦は、最初の配偶者を紹介するときに、「これは皆さんの女中です」と紹介したという話があるようですけれども(「著名人クリスチャンの結婚生活」 中村敏 ファミリーフォーラムジャパン)、そこまでとは言わないから、もうちょっとそれぞれの教会でできることを考えて、やってみる、ということをしてもいいかなぁ、と思ってみたりしたのですね。Ministryで紹介されていたような、おばぁちゃんがいてお菓子食べさせてくれて、中高生が帰り道に寄れるような教会があったような・・・。

     まぁ、これまで敷居が高くて利用の要望がなかったというのもあるかもしれないが、ボランティア団体とかママさん子育ての会とか、名目的な使用料だけいただいて、勉強机を提供するような形で、解放するだけで、結構利用申し込みはあったりして・・・、と思うのは、ミーちゃんはーちゃんだけかもしれません。

     こういったご時勢に、「教会は教会員のものですから、すいませんねぇ、こういうサービスはしないんで・・・」というのも、ちょっと残念かもしれません。「うちの牧師が聖書からお話しするのは、日曜日と、これこれの日です。この日は、開放しています、どうぞお越しください」という言い逃れがあるかもしれませんが、それも、教会側(世間様からすれば、あっちの人たち[教会の人たち])の都合にこっち(行ってみたいかなぁ、と思っている人たち)のほうが合わせてくれ、といわれているという印象を与えるに近い、ということは思います。まぁ、居座られても困る、というのもあるのでしょうけれども。

     以前、関西の市役所の職員さんたちとの研究会で、市役所のCRM(シティズン・リレーションシップ・マネジメント ← もともとは、企業の顧客関係の改善:カスタマー・リレーションシップ・マネジメントの援用)の研究会に参加させてもらっていたときに、市役所というのは、一応、市民にサービスをご提供するということに地方自治法上はなっているものの、いまだに上から目線のところが多くって、市民にしてやっている(市役所用語では、施策(施す方法)ですよ、施策 この語は、いまだに現役で活動中。役所用語で最も引っかかるものの一つで、現在も某市役所でまったりと議論中)という雰囲気がちょっこしあって、「それが変わらんとねぇ」ということをアーでもないコーでもないと議論したけれども、時間切れであまりうまくまとまらなかった。要は、市民にとっての市役所への精神的なアクセシビリティ(近づきやすさ、サービスの提供の受けやすさ)をどう改善するのか、という問題だと思います。

     たぶん、それと似たようなことが教会でもあるのではないかなぁ、と感じたのです。いえば、教会のCRM(Christian Relationship ManagementのCRMは当然されていることとして、Outreach Relationship Management(社会の人々とよりよい関係を作り出していく方法:他にいい用語があったらコメント欄で、大募集中!)を少し考えたほうがいいのかもしれないなぁ、と小嶋先生と話しながら思ったのでした。

     実は、これには伏線があって、この前、このブログでご紹介したANR Cafeに来られた三木市の元地方議員さん(女性の方)が、「何で、教会がこの少子化時代、子育て支援が大事だといわれている時代に、両親とも働きに行っている世帯に学校帰りの子供の一時保育サービス、週に一回でもいいからしないんでしょうか?すればいいのに。日曜学校が無理でも、託児所をかねた教会学校はできるはずなのに。それすれば、地域と交流の窓口ができるのに。教会への敷居も下がるのに。(なお、おおむねの発言趣旨)」と問題提起されたのでした。そこにいる人たちからは、「人がいない」・「事故が怖い」というよくある話が出たのですが、ただ、新しいことをすることに対する抵抗であったり、漠然とした不安感であったり、だとはおもいました。

     そこにおられた方は、そんなことはないと思いましたが、他の教会員の方々の中に、ひょっとして、ではあるが、教会をどこかで自分たちだけのメンバーズクラブハウス(基本、一見さんお断り)にしたいのかなぁ、と思う。確かにクラブハウスにしている方が、管理も楽だし、安心だから。

     自分たちでするのが無理なら、地域の有志の方に(無償/実質経費のみの有償で)自分たちの使わない時間帯は、場所貸しだけでもいいのではないかなぁ、と思ったりもする。

     でも、本気で地域に出て行く、とか、地域との連携を図って伝道する、というのは、案外、教会のメンバーズクラブ的なキャンパス利用を少しはずしてみるといった、あたりにヒントがあるのかもしれない、と思うのである。

     そもそも、日曜学校や教会学校運動は、工場労働者や炭鉱労働者の家庭の子供たちが放置されていることを見るに見かねて、1760年代ごろから、救貧対策(文字が読めないゆえに貧しさから脱出できない問題の回避と聖書を自分で読めるようにすることをかねた教育)の一環として、教会が地域の住民の子弟向けに始めたものであり、過去これまで、相当にそのことに教会は資源を割いていたはずである。その意味で、キリスト教会側の論理、貧しい人とともにあるという論理で始まっているものの、一種社会の需要にこたえていたのが、日曜学校運動なのではないだろうか。教会からの押し売りではなく、求められるものを提供してきた歴史があったのではないだろうか、とも思ったんですね。
     
     とはいえ、今の小学生は、日曜日、土曜日は忙しいのである。たまの土曜日ぐらい、サラリーマンのお父さんと同じように眠っていたいし、テレビだって見ていたい(おやじ化する小中学生が急増中)。サッカークラブがある、リトルリーグがある。下手をすると朝から塾があったり、土日特別講習だの、早朝講習だの、受験直前講習があるのである。教会員の家庭だって、「お受験より、お受洗」と叫けばなければならないところまで来ている。だとしたら、日曜日は神様の日だから、日曜学校にどうぞ、というのは、提供側の論理を振り回しているだけではないか、と思う部分もある。

     社会に、塾だの、リトルリーグだの、少年サッカークラブだの、このようなサービスがなかった時代は、これでよかったのかもしれない。しかし、現実の子供たちはサラリーマン並み(いや、以上かもしれない。お父さんにはゴルフという楽しむことができなくはない、れっきとした仕事があるかもしれないけれども)に忙しいのである。その中で、日曜学校に来てもらっているだけ、ありがたい方々だとミーちゃんはーちゃんには思えるし、そのサービスを提供しておられる方々の熱心さが、日曜学校に忙しい子供が来ていることの背景にあるのではないか。

     ところで、K先生とのお話の中で、マーケティングという言葉が出てきた。まさか、教会関係者からマーケティングという言葉が出てくるとは思わなかったけれども、もうちょっと、これを考えた方がいいのではないか、というご示唆をいただいたように思った。その通りだと思う。Purpose driven Churchはその色があまりに強すぎるが・・・。

     これまで頭が高かった役所ですら、市民にどう自分たち(市役所)という資源を提供し、市民が持つ資源とどう協力しあって、市民の生活の質の向上を図るのか、を考える時代になった(市役所が全部抱えるだけの財政的余裕(地方交付税を含め)を失った、という側面も大きい)。仏教寺院や神道の境内が、いざというときの避難所になったり、一部の被災地での教会が一時的とはいえ救護所や避難所になったように、教会は地域にとって、資源ともなりうるし資源であってほしい。もし、教会が地域や社会に霊的な資源を提供する場(本来そうだと思うが)であるのであれば、もうちょっとマーケティングというのか人々の需要を意識をして、教会員のニーズにもこたえた上で、木曜学校でもいいし、水曜学校でもいいから、地域の非教界関係者のニーズにこたえる教会のあり方を、そろりそろりでいいので始めたほうがいいかなぁ、と思うのであるけれども。そんなことを考えるミーちゃんはーちゃんは、まぁ、教会あるいは教界という風車に向かって突撃するドン・キホーテなのかもしれない。

     突撃して、自爆だけは、しないようにしよう、と思うけれども。

     あー、今日も長くなりましたね。読んで下さった皆さん、ありがとうございました。すみません。できの悪い蕎麦屋の出前みたいで。(そのこころは、長くのびきっている・・・)



    評価:
    Rick Warren
    Zondervan
    ¥ 1,566
    (1995-11-27)
    コメント:Rick Warrenの読みやすい本。マーケティングオリエンティッドだという意見もありましょうが、教会からの上から目線でかかれていない、ということでは、評価できるんではないでしょうか。日本語訳では、訳出されてない部分が多々あったように思います。

    2012.02.04 Saturday

    教会という建物について考えた

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       教会という建物について、この前、教会とその敷地の開放性というのか、オープンネス、そして霊的な、精神的な開放性と社会に対する開放性というものについて考えたが、今回は建物自体について、考えてみたい。

       教会堂を建てるときとかであれば別だけれども、普段は、あまり意識しないかもしれないし、内部そこで過ごしていると、外側はあまり気にならないものかもしれない。昔読んでいた少女漫画の一こまにその漫画家の友人が事故を起こし、修理していないのを見た漫画家が、何で直さないのか聞いたところ「私には見えないから関係ない」と言っていた友人がいるとかいないとかいったシーンがあったが、それと似ている構造が教会の建物と使用者である信者の間にあるのではないかと思う。内部に慣れすぎて、内部を覆うシェルである教会堂の建物が持つ意味ということがあまり意識されないのではないか、と思った。

       私の住む街には、いくつかの有名な教会建築がある。典型的には、神戸栄光教会であるし、兵庫県庁近辺には、非常に印象的な教会がいくつかある。栄光教会は面白い。フランス様式の旧兵庫県庁と並列して、ジョージアン風様式の栄光教会が並んでいる。昔の、神戸地方裁判所は、和洋折衷式で面白かったが、さすがに、老朽化が進んでおり、イタチが廊下を走り回ったり、ネット対応が難しかったりなどなど、近年の執務に差しさわりがあるので、外側の外壁だけ残して、中身は近代ビルにしてしまった。神戸税関も建て替え中らしい。これらは、おしい公共建築物であった。このあたりで一番最高なのは、教会を模した本願寺神戸別院(モダン寺)である。震災後立て直した建物も面白いが、昔の建物はもっとおしゃれであった。



      教会と、仏教寺院と、チベット仏教寺院を足して3で割ったら、こんな感じか、というような非常に特徴的な建物であった。これらの建物を使っている人が内部にいるとき、外側のことをどこまで意識するのだろう、と思った。

       建築は、メッセージでもある。建物の外見は機能を伝えるメッセージを来る人に伝えているのである。それを一番よく示すのが、看板建築である。内面は日本家屋であるが、道路に面したファサードを看板状に変え表現することで、どんな建物であるのか、何屋であるのかを示そうとした昭和30年代までによく見られた建築様式である。

       看板建築でなくとも、昭和期までに建てられた警察署の建物は、おっかない雰囲気をしていた。国会議事堂が典型である。銀行も、重厚さを示す建物で、信頼と尊厳と信用を示していた。東大の建物(赤門と安田講堂だけが有名だが)は完全に雰囲気を出し切るのに成功しているとは言えないが、もともとは僧院だった大学の雰囲気を出している建物もある。農学部の一部など、味わいのある建物が多い。近代の効率化の中、コルビジェのモダニズム全盛期をへて、近代という時代がすすむにつれて、画一化されたビル、ガラスとスティールでできた建築物全盛の時代が続いたのである。ちょうど、911でテロリストが突っ込んだWorld Trade Centerが典型であり、悲惨な事件によりあの建築が狙われたのは、近代というモダニズム時代の終焉を告げるものであったかもしれない。

       教会の内部に入ってしまえば、その機能をどうするかは教会員が決めるしかない。むかし、NHKでやっていた大草原の小さな家、というテレビドラマシリーズで、教会は、町民集会所であり、学校であり、教会であり、議会の議場でもあった。教会がみんなのものであった、つまり、公共の場であった時代を切り取っていたように思う。ま、所詮、お話はお話であるけれども。そのお話(ものがたり)に託された理解の反映を読み取るとそういうことかもしれない。

       ヨーロッパでは、教会がコミュニティであり、自治体であり、そこに住む住民にとって社会であっり、旅行者にとっては数少ないホテル代わりに使えた時代がかなり長く続いたし(その当否は別として)、アメリカ中西部でも、教会とコミュニティと自治会というのか自治体が一体であった時代があったことをあのドラマは示しているのかもしれない。

       しかし、近代都市においては、信者の信仰理解(露骨にいえば教派)、民族、世代、仕事の内容、居住地域という中でのコミュニティの中のコミュニティ(サブ・コミュニティ)が出てきて、地域という空間的要素でくくっていたコミュニティ自体が、それ以外の要素で分裂させられる、あるいは自発的に分裂するコミュニティの分裂が生じてきており、それがそのまま教会と教会の乱立にも持ち込まれていったのだと思います。そもそも、団地というところでは、自発的コミュニティの存在がなかなか40年たってもできないところも少なくない。

       さらにプロテスタントが装飾性を嫌ったこともあり、イコン(聖人像やキリスト像)はおろか極端な場合は十字架(私のいるキリスト者集団は、近年まで十字架を一切置かず、表示しないことにこだわりがあるところが多かった)まで取り去る形の儀式性を排除していった。実際に、イギリスでは、これらのイコン(キリスト像を含めた聖人像)破壊が行われている教会があるはずである。その中で、教会自身が装飾性をあえて避けてきた部分も少なくない。その伝統にのっとり、装飾性が排除された教会も少なくない。
       
       さて、建築にもう少し戻せば、近代の建築が近代であるため、抽象性を追求し、近代の抽象絵画のように線と面で構築されることとなり、建物自体の抽象度を上げていき、それに追随する建築家たちも、それに従っていった。そして、建物の目的という固有性をもたない教会建築を構築していったのであり、教会なのか、学校なのか、区別のつかない建物が量産されていった。

       抽象化でいえば、行きついた一つの抽象化の先が、機能が全く想像できない抽象度のむちゃくちゃ高い建築物などがある。大阪の湾岸部に突如登場するこの建物は、外形から、これが汚水処理場やごみ処理場であることを知ることはもはや不可能であろう。

       教会建築に話を戻せば、個人としてイコンを置くべきだとか、十字架を置くべきだとかは思わないし、十字架を置いていようが置いていまいが、それはその教会の判断であると思うが、教会が普通の建物ではないと理解される仕掛けというかデザインは意外と大事だと思うのである。というのは、教会が、教会として認識される建物であることで、ここに神の国を語る場所がある、ナザレのイエスという人物がいたということを今なお通りがかる人に語りかけようとする場所がある、ということを、建築というわかりやすいデザインで示すことができるからである。つまり、デザインを通じた伝道という意識をもう少し考えた方がよいのではないか、と思うのである。

       以前、東南アジアから来た伝道者を日本で案内した時に、パチンコ屋のケバケバしいネオンを見ながら、「日本には、キリスト者が少ないと聞くが、何で日本にこんな教会が多いんだ。それもでっかい駐車場つきの」と真顔で聞かれて、あれはパチンコというギャンブルをする所で教会ではない、といくら言ってもわからなかったので、仕方がないパチンコ屋に連れて行ったことがある。煙もうもうで目を血走らせたおじさんたちを見、チーンじゃらじゃら、チーンを聞いて、さすがに悟ってもらったけれども。

       最も身近な公共空間に対してのメッセージは、建物そのものであり、また、看板である。看板より、建物の形の方が、そもそもメッセージ性が強いが。だからこそ、ディズニーランドでは、シンデレラ城は、丸ビルのような形はしていないし、カリブの海賊は、映画館の格好をしていないのではなかろうか。それが張りぼてであることを知っていても、そのうえで、人々は、そのデザインを楽しんでいるのではないだろうか。そして、その劇場での演劇に参加する役者の一人になっているのであろう。それが、信条の問題や教会暦を守ることと、関係していそうな気がする。

       福音と世界の最新号だったかなぁ、平田オリザが劇場と教会と公共圏の話を少ししていたが、そのあたりをもう少し探ってみる必要があるのかもしれない。都市が、劇場だと考えるとき、その劇場の中での教会の位置とその建物そのものが発するメッセージと建物が発信するメッセージ性の使い方を考えてみる方が必要かもしれない。教会の問題として。







      評価:
      中川 理
      彰国社
      ¥ 2,447
      (1996-02)
      コメント:日本の近年の建築物の位置づけと、日本の公共建築物の衣装と、それが公共空間に対して発しているメッセージを語る書籍。建築のことを知らなくても、身近に偽装した建築物の意味を考えることで、日本社会が抱える問題を示す本。

      評価:
      五十嵐 太郎
      春秋社
      ¥ 1,995
      (2007-08)
      コメント:日本における信者も牧師も全くいない教会という論理矛盾を幾重にも重ねた、わけわからない建築物に関する調査と論考をした書籍。この成立から建築様式にまで及んで、非常に面白い視点を与えてくれる書物。

      評価:
      藤森 照信
      岩波書店
      ---
      (2004-11-16)
      コメント:藤森 照信氏の博士論文であるが、読みにくくはなく、日本の近代建築と、東京がどのように作られてきたのかについて一番わかりやすく、まとまっている本。明治の東京計画(とりわけ、コンドルの帝都計画)の意図が解説されており、建築がメッセージを発することが分かる。

      2012.02.08 Wednesday

      今月読んだ本

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         今月読んだ本は、いくつかあるが、特筆すべき本として、ダラス・ウィラードの「心の刷新を求めて」という本がある。これは、このブログへのコメントをよせてくださるはちこさんが翻訳された本で、推薦された本でもある。最初出たころに注文して入手していたのだが、ある方に差し上げてしまい、その後何を考えたか1冊つづ別々に注文して、積ん読になっていた本の一つである。3冊も買って、うち2冊も我が家にある。ネット注文の怖さであるが、あまり発注管理しないので、時々、こういうことが起きる。まぁ、いいか。

         この本、霊性に関する整体のような本である。歪んだところを強制的にマッサージされることで、硬くなった霊性の筋肉をほぐすというのか、緩めるというのか、まともな機能を回復させるような本である。ヘンリー・ナウエンやトゥルニエ、晴佐久神父の本が体の基礎体温を上げて、機能をじんわりと回復させる温泉というのか湯治というのかスパのような感じであるが、ウィラードの本は整体というのか、スポーツジムで、筋肉を鍛えるような感じがする。

         特に、この本の後半がよかった。特に、キリスト者のリーダーのひずみの問題を取り扱った部分「正しくて意地悪なキリスト者」のセクションで、彼はこう書いている。(P431)

         この問い(「なぜ、キリスト者はそんなに意地悪なのか」という問い)には、実は答えがあります。私たちがこの答えに向き合い、うまく対応しなければ、サタンは地域教会での霊的形成を、自らの足の下に置き続けるでしょう。正しくあること(お気に入りの「器」、つまり自分が慣れ親しんだ「伝統」)はキリストに似たものとなるよりも重要であると、キリスト者は行動とことばを通して日々教え込まれています。実際、正しくあるためなら、意地悪な言動も容認され、場合によっては当然とさえみなされるようです。もちろん、正当な意地悪だと本人たちは思っているのです。間違っている人々には厳しくすべきで、相手がリーダーの地位にあればなおさら、きつく当たってしかるべきだというのでしょう。これについては、私は別の著作で、「断罪の工学」として言及しています。 

         うーん、自分自身、「断罪の工学」に汚染されている部分はあるよなぁ、と思う。 断罪の工学の背景には、「自らYHWHと重ねる心理学」「自らYHWHとする聖書理解の方法論」があるのだと思う。これがこれまで多くの聖書理解の混乱と、教会内の対立と、キリスト教会内諸派の乱立を生んできたと思う。そして、自派が正しく、他派が間違いとする(ならいいが、汚れたものと教えてきた)聖書によらない、あるいは聖書の誤用による他者批判の体系があった場合もあったことも少なくないものと思う。

         正しくあること、すなわち、お気に入りの「器」、つまり自分が慣れ親しんだ「伝統」という指摘は大事だと思う。

         伝統となってしまった段階で、妙な「正統性」が出てしまうことで本来見なければならない価値あるものの座を、それほど価値のないものが価値あるものの座を占めてしまう問題だと思う。そして、伝統になったり、正当性が出てくることで、そのことに疑問を抱くことが無くなっており、その器に会わないだけで、正しくないと思うことにもなりかねない。

         信仰から派生した、形式論に関する「器」の継承にかんしては、大和郷の教会のブログ「信仰の継承」の記事でも触れられている。

        しかし宗教団体の中に生きている者達には単に「自分たちの教団の価値観、組織の行動様式」が伝承されて行く事だけが問題なのではなく、そもそも自分たちが 伝承された「信仰」を批判的に捉えた上での「信仰の継承」でなければそれは単なる伝統主義に過ぎなくなってしまい、次世代の「信仰の継承」も単なる宗教的サブカルチャーの通過儀礼に過ぎなくなってしまうのではないか、との問題意識を筆者は感じている。
         まさしく、「教団の価値観、組織の行動様式」は、それぞれの教団の信仰内容から派生されたものであるかもしれないけれども、その信仰対象である本来の価値の根源(たとえば、神とか仏とか、教祖とか)の価値を超えて、「教団の価値観、組織の行動様式」がその根源を超えた過剰な価値をもたされてしまうのであり、「信仰」を批判的に捉えた上での「信仰の継承」ができていないかもしれないという問題について触れておられる。

         問題は、「信仰」という内容そのものとそれに付随して生じた考え方を批判的にとらえる、というのは、非常に難しいし、どうも、それができる人は非常に少ない、ということがあるようである。そもそも、「信仰」である以上、そのことを受け入れている以上、批判的であるのが難しい。そもそも、「信仰」に疑念を抱くことは、「信仰」に対して、牙をむけることにもなりかねないと思う。しかし、それを超えて存在するのも、「信仰」なのだと思う。「信仰」はどこかで「理性」と対立とは言わないまでも、併立するものでもあるように思う。このあたりが、科学と信仰との間を対立的にとらえるのか、併存的にとらえるのか、のあたりの違いになると思うし、概して、科学的理解のない方は、信仰と科学を必要以上にどちらかが正で、どちらかが誤っていると、対立的にとらえがちだと思う。とはいえ、科学の側でも、信仰の立場を無意味として認めない方もいないわけではないので、なんともいえないか。

         自己を批判的にとらえる、というのは、アゴラというサイトのちきりんさんという方の記事で取り上げられていた「今、必要な「壊す人」と「考える人」の組み合わせ」という記事にあった「考える人」というのか、「創り出す人」なのである。壊すことは、勇気と根性がいる。しかし、創り出すのは、既存のマインドセット(考え方)を放棄したり、壊したりする勇気と根性がいると同時に、考えるという結構疲れ、さらにその考えた結果を批判したり、壊す人たちへの対策も同時に考える必要があり、結構面倒な作業が待っているのである。また、それに耐える根性がいる。なかなか、このような作業に取り組める人、というのは限られる。そうなると、人はめんどくさいので、どうしても、前例踏襲主義となってしまい、器の一層の強化に向かってしまい、器自体のおかしさにたいして、疑問を持たれることが無くなってしまうように思う。となると、いかに「器」を見直すか、という作業が大事になると思うのである。

        先ほど紹介した、大和郷の教会のブログ「信仰の継承」の記事の中に、

        「なるほど『信仰の継承』とは新興宗教団体の課題なのだ」と言うこと

        が記載されていたが、考えてみれば、当たり前かもしれない。新興宗教であればある程、「信仰の継承」というよりは、「信仰にまつわる生活様式及び行動様式あるいは価値観」というかが安定的でないため、それを安定化するため、あるいは、「器」として強化し、伝統化し、確立していく力学が働くため、新興宗教団体としての重要な課題になるのだろうと思う。だからこそ、信仰が身についていないため、あるいは社会全体の文化にしみ込んだ普遍的存在となっていないために、継承が求められるのであろう。とはいえ、いわゆる伝統宗教と呼ばれる宗教集団(仏教でも、キリスト教)でも、常に批判とそれに基づく信仰の再検証、信仰の見直しが起きていることを考えると、批判というものは、必ず必要だし、常に起き続けるのであり、それに用いられるメディアが違い、その見直しの検証の速度と影響を与える範囲の規模が違ってきているだけではないか、と思う。

        あー、ウィラードの本とそのほかの本を紹介する予定だったのに。 これは、また次回にしよう。



         
        評価:
        ダラス・ウィラード
        あめんどう
        ¥ 2,520
        (2010-03-30)
        コメント:キリスト者にとって、熱心になりすぎたり、逆に熱心さを失ったり、特定のことに異様な関心を示したり、と、ときどき霊的なひずみがどこか出てくる場合があるのであるが、この霊性の問題に関して意識啓発をしてくれる本。信仰歴がある程度ある信仰者に推薦したい。

        2012.02.11 Saturday

        心の刷新を求めて の紹介(続)

        0
           前回紹介した「心の刷新を求めて」ダラス・ウィラード著 中村佐知・小島浩子訳 あめんどう刊の紹介で、紹介しきれていないので、その続きを少しずつ書いていこうか、と。

           概念は、人間生活において重要であるにもかかわらず、それを定義し、正確に記述することは絶対にできません。しかし人々は、概念を支配しようと、それを定義する努力をむなしく続けています。概念とは、広く包括的な、時代とともに培われてきた物事や出来事の解釈方法で、その影響の大きさにもかかわらず、個人の意識に上ることはめったにありません。したがって、ほとんどの人にとって、どの概念がどのように自分の生活を支配しているのかを知るのは、非常に困難です。(p169)

           どうも最近思うのであるけれども、聖書を読み込むときの概念というかある定規というのかメガネみたいな概念が先験的というのか、アプリオリにあって、それを用いて聖書を読んでいる人が案外多いのでは、と思う。定規とかメガネをかけて読むと楽なんだけれども、意識せずに定規やメガネをかけてしまうことがあって、自分は、定規やメガネを使ってない、と思いになる方もおられるように思います。ウィラードはその後、こうも書いています。

           概念とイメージは、個人においても社会においても悪の主要な要塞でもあります。それらは、私たちが普段の生活の物事や出来事をどう受け取るかを決定します。物事にどのような意味づけをするのかを左右し、目の前にあるものを見えなくすることもできます。(p.173)


           悪の要塞!(デ、デス・スターっすか?あ、ダースベーダが死亡したところね)めっちゃおもろい。ミーちゃんはーちゃんのフォースが影響されて…。冗談はさておき、これと同じ状態が聖書に起きていると、結構怖いことじゃないですかねぇ。それが福音理解でも起きているかもね、って批判してのけたのが、McKnightのThe King Jesus Gospel(YouTube の下にざっとした日本語の内容紹介を付けました)なんだと思います。
           大体、概念を批判的に捉えることができる人がそもそも少ない、と思います。批判的に捉えることで、自らの世界の理解が壊れる、足元が崩れるような精神的に結構おっかない経験をするわけです。今読んでいる本でいえば、生の冒険(トゥルニエ)などがそのことの重要性を、伝えようとしたように思います。この批判的に捉えるきっかけは、HK様が言う「他者との交流」で生じ、その他者との交流で生じた自らの世界観というのか、概念の破れをどう処理していくのか、ということだろうと思います。

           今に始まったことではありませんが、今日の私たちにとって思考の果たす役割は非常に重要なものです。おそらく、かつてないほど重要になっているでしょう。地上で御心が栄えるか否かは、神の民がどれだけよく考えるかにかかっています。
           今日の私たちは、強い信仰を保つためには理性的な思考が必要であることを、軽視したり無視したりしがちです。そして悲惨にも、思考は信仰に反するとみなす人さえいます。そのような人たちは、それが神への侮辱になると気付かないまま、西洋の平等主義が生んだ徹底的な反知性主義に屈しているのです。この傾向は、デイビッド・ヒュームやジャン=ジャック・ルソー、また彼らを信奉する19および20世紀の人々に見られるような一時的な感情や根拠のない感覚のロマン主義的理想化に根差しています。彼らは気付いていませんが、その考えは、カンボジアの「キリング・フィールド(自民族虐殺)」を生み出したのと同じ悪魔的原理にのっとっています。
          (p.184)

           うわぁ、こんな「神への侮辱」とか「悪魔的原理」とかかいちゃって大丈夫なんですかねぇ。ウィラードさん。どうせなら、「すでにダークサイドに支配されているのです。」とか言ってほしかったなぁ、というのは、スターウォーズフリークのミーちゃんはーちゃんだからかな?

           ミーちゃんはーちゃんは、18世紀イギリスのロマン主義の影響をたっぷり受けて始まったキリスト者グループ(いわゆる教派)にいるので(うちは、教派でない、という強硬派もおられるので・・・ね。むちゃくちゃロマン主義的でしょ)、現在もなお、まったりとその改革を目指して運動中ですけれども、なかなかねぇ。「地上で御心が栄えるか否かは、神の民がどれだけよく考えるかにかかっています。」が理解されない。「理性的な思考が必要であることを、軽視したり無視」されているように思えてならない。残念だけれども。最近、ちょっと、ましになってきたというものの。理性的な思考を前面に出すと、「信仰が学問的」とか、「私は、学識がないから」と逃げられてしまう。そして、対話が教会内で成立しない…。結構つらいんですよね。これ。ミーちゃんはーちゃんにとっては。説教の中で話すことはあっても、理解されないことが少なくないので、「ひかる」さんみたいに斜に構えながらでも、かまってくれる方がいるブログに逃げ込んでいる、という説がある。ははは・・・。

           ちなみに、「キリング・フィールド」の映画、以下のリンクで紹介しましたが、アジア人の方には、東南アジアの西の片隅で起きたことに関して、ぜひ見てもらいたいたいと思います。このキリング・フィールドの遺骨がある場所に水谷潔先生は行かれたときに、現在の働きに献身される決心をされたというお話をお聞きしたような記憶があります。違ってたら、ごめんなさい。

           まぁ、胎児がいともかんたんに、そして大量に捨てられていく姿と、大量の野晒しにされた野ざらし(人骨)は、確実に重なるでしょうね。ツタヤでもレンタルしていたはず。目をそむけたくなることも多いですが、目をそむけずに、見ていただきたい映画。







          評価:
          ---
          Happinet(SB)(D)
          ¥ 3,135
          (2010-02-19)
          コメント:あー、このアジアで起きた現実、どの程度、知っているだろうか。ベトナム戦争より悲惨だと思う。何より、若い時のサム・ウォーターマン(Law and Orderで検事補、検事総長役で出演中)やジョン・マルコビッチ(この時から髪の毛が少しかわいそう)が出ている。

          2012.02.15 Wednesday

          先月読んだ本 (続)

          0
             このブログの以前の記事にコメントくださった、Pen子さんから、「いいよぉ」と紹介された本である。 ご紹介いただいたPhil DownerさんのA Father's Reward -Raising your children to walk in the truth-という本を米国アマゾン経由(中古のみ入手可)で入手して読んでみたのだけれども、ご主張はごもっともだったのだけれども、この著者の主張がどこまで日本で妥当性を持つのか、特に現代の日本で父親である立場にある壮年層と呼ばれる人々に訴求力と、実行力があるのか、ということを少し考えた。

            今月読んだ本の一部

             この本自体のご主張は、比較的明快だとおもいました。そのため、同じような主張が繰り返されるので、後半読むのが、かなり面倒になりましたが、とりあえずは読みました。

             非常に単純化(危険なので、かなりのディテイルを落としていることをお含みおきください)していうと、現代アメリカ社会の中において、大量消費社会とマスメディアやインターネットを介して提供されるその情報により、神を知る機会そのものが妨げられており、その結果子供たちが権威や聖書の権威、本来アメリカ社会がもっていたような社会の一員としての教示というのか信仰と密接に結びついたライフスタイルの家庭における復権をするために、「お父さん、家庭に戻り、子育てを一緒にしませんか」という本である。

             この本の著者は、どこでどうたどればいいのかはわからないが、ジョナサン・エドワーズという火を噴くような説教だったといわれるような18世紀の説教者の子孫のお一人らしい。このあたり、アメリカでは、歴史的伝統が薄い分だけ、このあたりの出自へのこだわりなどは、英国人と付き合ったときよりも、アメリカ人のほうが強いかなぁ、というのを思い出した。

             著者のDownerさんは、基本若いころにはノンクリスチャンの元米国海兵隊(ここは、忠誠の順序が、海兵隊、その次に神というところもあるらしい。詳しくは、ア・フュー・グッドメンという映画参照・ジャック・ニコルソンの怪物振りが・・・)隊員であったが、あるときに改心をした改心経験を持つクリスチャン(Born-Again Christian)であり、海兵隊を退役した後、弁護士(日本ほど、高給取りではあるが、基本成功報酬なので、その能力により、給与はピンからキリまで)になられた方のようである。ちなみにアメリカでは、軍役につくと、授業料がただになる場合がある制度がある(完全に余談)。

             要するに、著者の主張と聖書の主張を重ね合わせるなら、イエスが当時のイスラエル人に対して思った思いとよく似ているのだろうと思った。「群集が飼うもののないような羊のようであったので、・・・・」(マタイ9章)つまり、「(子供たちが、家庭で)飼うもののないような羊のようであるので、・・・・」という思いから、この本を書いたのだろうと思った。それはそれで尊い思いであると思う。

             しかし、この本を読みながら、どこまでこの本の内容が、日本の壮年層のサラリーマンに訴求力があるか、ということを考えた。

             ご主張は、よくわかります。家庭のことや子育ては奥さんにまかせっきりで、働くことにキュウキュウしたたら、子育てはできないし、世間様がそうするから、というので、世間並み(ディズニーランドでの大勢の友人を招いての豪華な誕生パーティや、ゲーセンとレストランの合体したチャッキー・チーズでの誕生パーティ、他人の持っているからという理由でボンボン子供にニンテンドー(もはや英語になっている)やユーギオーカード(これも、アメリカ人の子持ちには通じる)やポキモンカード(これもアメリカ人の子持ちには通じる)を買い与えることなどをすること、それは子育てといえるのか?と、幸せがおカネで買えるワケと同じ構造を批判しておられる。

             それよりも、子供と一緒にホームセンターにいって一緒に工具や部品の買い物してみたり、牧場で動物の世話してみたり、自然環境の中で、ロープなんかを使ったターザンごっこをしてみたりなんかの方がよいのではないか、そして、きちんとした信頼関係を構築し、そのうえで神とともに生きる生き方を父親として見せたらどうか、というのが、おおむねのご主張である。

             うーん、ここまでアメリカンなライフスタイルを実現するのは、日本では無理、と思った。だいたい、日本では、野外の自然環境と取っ組み合う環境に到達にすることが難しい。東海岸では暮らしたことがないので、よくわからないが、ロサンゼルスでも、休日で方向さえ間違わなければ、車で20分ほど走れば、State ParkやNational Forestにたどり着ける。そういえば、マンハッタン島にも、セントラルパークという野性味がある程度現存する森が都市の真ん中にある(そこでは、Law and OrderのSUVで犯罪行為が起こったとされる舞台となることも少なくない)。State ParkやNational Forestには、バーベキュー場やキャンピングカーで止まれるキャンプサイトなどがあるのが当たり前である。この本の著者Downerさんは、コロラドかどこかにお住まいだったことが長いようなので、コロラドなら、もっと手近いところにあるのは当たり前のような気がする。

             これにくらべ、日本では、手付かずの自然といってよいものが、そもそもほとんどない上に、その自然までが遠すぎる。電車に乗って2時間ほどかかるのが普通ではなかろうか。行ったところで、ここでつりをするな、ここでボールで遊ぶな、ここでバーベキューするな、木に登るな、池に入るな、自転車に乗るな、と禁止事項だらけであり、まるで美術品か珍奇な生物(パンダ)のようなものを眺めに来ているのかのような行動を求められていて、自然環境に触れるためにきているのか、何をしに来たのかわからなくなることのほうが多い。

             日本において、自然に触れるとは、自然の横を通過しながら美術品のように眺めることなのかもしれない。のびた君などのアニメの世界には、比較的大きなコンクリート製下水管がある空き地があるが、日本の都会には、自由に子供が立ち入れるような空き地はほとんどない。大体、国有林自体も割と少ないし、民有林で自由な活動することは不法侵入になってしまう。そんな状況の中で、自然に取っ組み合いするようにして触れる、というのは、かなり厳しい。

             その上、日本人男性(ミーちゃんはーちゃんを含む)の大半は、金槌やのこぎりを握って木工をするのは、中学校の技術の時間以降0回という人のほうが多いと思うし、ロープを使っての作業なんかは、運送業界とか農林水産業界の現場にかかわる人でなければ、したことない人のほうが多いだろう。そんな男性が、何のノウハウもなく、自然と取っ組み合いをするというのは、土台無理なのではないか、と思う。

             その意味で、日本の壮年男性の大半は、今の大河ドラマではないが、「殿上人」におなりになってしまい、地下人(じげにん)経験のある壮年層はそもそも限られるのである。UgoUgo君の嫌いな団塊の世代は、まだいい。中学校くらいまでは、実家での農林水産業関連の作業を手伝っていたり、家業を手伝っていたからである。その「残り」くらいはお持ちの場合がある。

             一人で一部隊相当や、ワンマン陸軍ともともいわれる海兵隊員(簡単な応急手術まで自分でやる。ランボーみたいな人たち)とまでは行かなくても、ある程度のライフスキルがある人々はよいが、今の50代以下は、サラリーマン化し、分業がすすんだ社会で過ごしているので、サバイバルスキルというのか、ライフスキルがそもそも存在しない方が多いように思う。そのライフスキルをアウトソース(自分たちで処理せず、他人任せにする方法)したのが都会での生活である。だから、災害が起きるとパニックになる。都会人には、ライフスキルがないから。ロープを渡されても、創造的な使い道すら思いつかない人たちである。この前、シンプソンズを見ていたら、冒険野郎マクガイバーのパロディ(声の出演はマクガイバー役していた本人だったと思う)をしていた。当然、日用品で奇跡の脱出を不思議にやってのけるむちゃくちゃな設定を皮肉りながら、ではあったが。アメリカ人は、この手の日用品の目的外利用というか創造的利用するお話が大好きな国民でもある。

             さて、日本に戻そう。江戸時代は、人口の10%以下であった殿上人(武士階級)ですら、一定のサバイバルスキルがあった。なぜなら、武士階級だって、基本農民上がり(新田さんなんかは、新田開発業者)であり、実際に俸禄で食えない武士は、自宅で農作業や近所での漁業を強いられた。現代の日本社会では、ボーイスカウトなどの集団やこの種の職業訓練を受けていない限り、生活の中で、サバイバルスキルと直結している人口層が非常に薄くなっている。

             日本の人口の80%強は、都市住民であり、ドライバーを片手に何か自分でするよりは、電話のボタンを押して業者を呼ぶ人たち(よしずみさんがタウンページのCMで推奨中)が増えているのが実際ではなかろうか。そもそも、Downerさんのお持ちのようなノウハウ(家庭内の小工作のノウハウすら)を持ち得ない人たちが大半であるのではないか、と思ったのである。

             あと、もう一つ思ったのは、日本の小学生は、塾やピアノ・サッカーや少年野球でお忙しい。そもそも、家にいる時間は、子供とお父さんとがいい勝負ではなかろうか。中学生になると、そもそも、家庭の行事より優先する「クラブ(関西では、ラの音に強調があるイントネーションになる)」と称されることの多い、実質強制参加型の課外活動が待っている。家庭の都合をクラブの都合に合わせるのが当然という雰囲気がある。それがいやで、クラブに参加しなければ、一部の学友から白い目で見られることも覚悟せねばならないし、学校の一部の教師は、若干普通でない子供と言う扱いをする場合もないともいえないようである。となると、子供と親が一緒に何かをする時間というのは、一般に想定される平均的なサラリーマン家庭(そもそも、すべてのことに平均である人は存在しないゆえに、平均的な人物というのは、どこにも存在しない)には、絶望的に少ないように思う。

             企業によっては、ノー残業デーがあるところがあるが、ノー残業デーが残業デーの残業時間の一層の長時間化につながり、サービス残業が増えていく実体もないわけではない。そもそも、ノー残業デーという発想がおかしい。そもそも、残業しないと仕事が回らない、というのは、どこかがおかしい(労働力の可少投入が原因か?)のかもしれない。まさしく、帝国陸軍の員数主義(人員や資源があるつもりで後は現場が何とかしてね)の再現かもしれない。たとえば、ノー残業デーで家に帰ったとしても、奥さんが残業してたり、子供が塾に行っていたとすれば、ほとんど意味がない。

             こういう状況を考えると、確かにこの本のご主張は正しいけれども、どこまで、この本の中身を日本に紹介する意味があるのか、ということを考え込んでしまった。現状の日本社会を基点として、日本社会におけるキリスト者家庭を考えるのなら、親子で参加するような日曜学校(親が教会学校の教職するのは、基本NGだとおもうが)などからはじめるのがいいのかなぁ、と思った。ただ、教会学校の教職している側、した側からすると、親付きの日曜学校は、しんどい。無言の圧力を感じるので。キリスト者家庭の実際を考えると、子供を早めに起床させ、朝ごはんだけでも一緒に食べるところからはじめるしかないのかもしれない。

             ちなみに以下の本には、ジョナサン・エドワーズのことがある程度触れられている。個人的には、森本あんり先生のアメリカ・キリスト教史がおすすめ。




             
            評価:
            森本 あんり
            新教出版社
            ¥ 1,785
            (2006-05)
            コメント:アメリカの宗教思想史のわかりやすい入門書。全体をカバーしているという点では、非常にコンパクトでありながら親切な本。アメリカ人とアメリカ社会の中に潜む宗教観との関係を解き明かしてくれる本。合衆国憲法の政教分離(国教会を持たない)などについても解説がある。

            2012.02.18 Saturday

            昨日のナウエン研究会のこと

            0
               昨日、明石でやっているヘンリー・ナウエン研究会であーでもないこーでもないをやったのだが、昨日の部分は、Visitationを読んだ。いわゆるエリザベツ(エリザベス)とマリア(メアリー)の妊婦コンビというか妊婦コミュニティから、神との冒険を生きる人々にとってのコミュニティの大切さに関する話をしていた。

               その話題から、コミュニティの基礎として、というか、コミュニティを形成する共通部分としてのイエスの存在という話になり、キリスト者同士の関係をブドウの木のたとえ(ヨハネ15章)からした。

               その場にいらっしゃった、信仰者でない方(だけども興味があって、教会に行っておられる)から、面白い質問が出た。「うーんじゃ私はどうなるんですか?なんか自分は風船みたいに浮いているみたいな感じがするんで・・・・」と言われてしまった。一瞬答えに窮してしまったが。

               「最初は浮いている感じかもしれませんけれども、○○さんが、神の方に向かれたら、神の方から手が伸びてきて、つながれますよ。それが聖書の約束だと思うし、イエスが言ったことだと思うんですけどね。」というお話をしましたが、どうもキリスト者になるというのと教会員になるというのが混乱しておられるようでした。この二つは似ていますし、相互に関係があるのですが本質的に異なるものだということがどうも理解されていないようで。このあたりのことを意外ときちんと説明していないのかもしれない、と思ってしまった。

               クラブに入会するような感覚で、キリスト者になるということを捉えておられるようで、これらの二つは実は相当違うのではないかなぁ、と話しながら思ってしまった。神の視点からしてみれば、どこの教会員であるかどうかは、本来的にはあまり重要ではなく、神とともに歩もうとしているかどうかだけが、重要だと思うのであるけれども、どんなもんかなぁ、とも思う。

               今回のヘンリーナウエン研究会は、このあたりの議論が面白かったと思った。
              2012.02.22 Wednesday

              心の刷新を求めて の紹介(その3)

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                 最近、読んだ本の中でもかなり気に入った本の上位を占める本である、ダラス・ウィラードの「心の刷新を求めて」でいくつか気に入ったところがあるので、それを紹介したい。基本、この本の主張は大事だし、その通りだと思うけれども、この本が読みにくい、と思う方もおられるようで。そうかなぁ、と思いますが…。あと2回くらい、この本の紹介にかかりそう。それくらい良い本なのですね。ポストイットだらけになっています。今回も、その一部を紹介しながら、思ったことを書いていきたいと思います。

                 「感情(feeling)」という言葉は、ある種の「接触」、つまり「触れること」を示唆しています。魅力にしても嫌悪にしても、感じるのに理屈は関係なく、しかも強力です。私たちの感情を湧き立たせるものを「感動的」といい、それはこころの「琴線」にふれます。感じることによって、何かが「そこに」あるとはっきりわかります。しかし、何かがそこにあるのは確かでありながら、それが何であり、なぜそこにあるのかはよく分かりません。この「理屈抜きの力」という側面のために、「感情は人間を奴隷にする」とあらわされてきたのは周知のとおりです。(バルーフ・スピノザの『エチカ』第3部『人間の隷属について』とサマセット・モームの小説『人間の絆』(このタイトルはスピノザの著作から取られた)を参照。どちらも多数の版がある)理屈抜きの力を持つ点では感覚や欲望も同じで、感情同様、とにかく抗しがたいものです。
                 この記述を読みながら、聖霊の導きと感情の混乱の問題を考えた。教会で感情のあふれる人々と時々で会うことがあるけれども、個人的には、しんどいなぁ、と思うことがある。むき出しの感情をぶつけられると、ミーちゃんはーちゃんは非常につらい。感情豊かな方は、ミーちゃんはーちゃんのむき出しの理性の部分がつらいのかもしれないけれども。

                 ミーちゃんはーちゃんはほとんど感情的になることはないのだけれども、祈り会などでミーちゃんはーちゃんが祈るのを聞かれて、感情あふれる方が、びっくりされることがあるようです。聖霊の導きというか、祈りにおいて、神に対する受け入れ、神の主権の受容を示すからかもしれないなぁ、と思いますが。これって、相矛盾しないものなのだけれども、理解されないみたい。

                 上の引用の文章を読みながら、時に人は、感情と霊の働きを勘違いするかもしれないし、その区別は非常に難しいものの、これはある程度真剣に考えた方がいいかもしれない、と思っってしまったのである。ある人々にとって、感情のほとばしりみたいなものを、霊の動きと誤認しやすいのではないか、と思ったのである。どこかにつながるチャンネルがあいているように思う。ウィラードさんが書いておられるように、感情があることから、そこに何かがあることはわかるわけで、感情そのものを霊の働きと誤認し、その感情を追い求めていく結果、本来の霊の働きとは別のものを追い求めていき、結果としてどこかずれてしまうのではないか、という危険性である。感情は、ウィラードさんの言うように人間を支配してしまうのでしょう。多分。

                 そして、スピノザおじさんの言うように、感情は人間を奴隷にする」のだとすれば、霊の動きと誤認された「感情の動き」は、本来人間が求め、関係を持つべき神(JHWH)からキリスト者すら引き離す可能性すらあるかもしれない、という印象を持った。これは案外怖いことである。本来聖霊が座るべき座に感情(人間)が座っているからである。

                 どこかで、感情に対してどこか冷めていて、理性の働きを重視する傾向にあるミーちゃんはーちゃんは、ロマン主義的な人の多い、わがキリスト者集団ではあまり受けがよくないのであるが(多分)、このロマン主義的なあり方にどこか、危険なものにつながる落とし穴がありそうなのかなぁ、とミーちゃんはーちゃんは思ってきたのであるけれども、この本を読んで、感情の働きにブレーキをかけうる理性の働きの重要性を改めて認識した次第。しかし、この両者がバランスを取って動くことが本当は大事なんだろうけれども。多分。

                 ミーちゃんはーちゃんは、感性主体、感情的な礼拝や、そこに重点があるキリスト者集団がNGだといっているのではない。ミーちゃんはーちゃんのいるキリスト者集団にも、そのような人々はいる。そのような人々や集団をキリスト教ではない、と切って捨てる気はない。ただ、ミーちゃんはーちゃんの方向性とは違うということを認めてほしいということと、ミーちゃんはーちゃんがその種の方々を認めるのと同様に、その種の方々からも違うけれども、キリスト教だよね、という同意というのかな、承認というのかな、それがほしいだけである。そして、自分と同じようでなければならない、とご自分やご自分たちの感性の押し売りというのか、ご自分やご自分たちの感情の押し売りはご遠慮願いたい、ということだけなのだけれども・・・。


                2012.02.25 Saturday

                マニュアル化した信仰

                0
                   マニュアル化した信仰との問題をサラリーマン川柳に触発される形で、小さないのちを守る会ブログ記事から始まるブログ記事でヤンキー牧師が取り上げておられる。

                   生き生きとした信仰であるべきものが、形を重視し、形を守ることだけになっていることに関する問題なのだと思う。本質(心のありよう)が、表面(行動)に現れるという新プラトン主義風の思想傾向とその新プラトン主義的な思想傾向が教会運営やキリスト者のガイダンスに安易に使われている問題を取り上げた記事群だと思う。たとえば、まともなクリスチャンは、教会に行き、礼儀正しく、愛を持って他人に接し、献金をし、聖書を読み、という形式的な外形についての指導がなされるものの、その本質的な部分が全く教えられていないのではないか、それがどこかで忘れ去られているのではないか、という問題意識の提起をしておられるのだろうと思う。

                   これらの記事を読みながら、考えたことは、普通の人にとっては、形式の背後に隠された謎というのか神秘を探ろうというのか、尋ね求めることはかなり少ないのではないか、ということである。

                   なぜ、教会に行くのか、と尋ねられた時、牧師さんが、そういう進めを説教でしておられるから、とか、習慣だから、とか、なんとなく、ということが多いかもしれない。教会とは、それぞれの個人にとって、どのようなものか、ということは、あまり考えておられず、その結果として、神とともに生きるぶどうの木の枝同士の交流とか、牧師の説教や信徒との会話の中で掲示される神と神のご性質の啓示というか開示を受けることができるのだけれども、それがどこかで忘れ去られ、教会に行くということの背景や理由を抜きに、形式論というか、目に見える行為でしかない『教会に行く』という行為だけが着目され、それが判断の基準になってしまっていることが横行しているような部分がある。

                   この前、ある方と話をしていた時、その方の教会では、『聖書通読コンテスト』がされているそうである。半年で2回旧約新約聖書の通読をした、とかいうすごい方がおられるという話を聞いた。そんなに早く読んで、聖書を味わうように、本当の意味で読んでおられるのだろうか、と他人事ながら気になってしまう。読まないよりはいいんだけれども。通読状況が、教会に張り出されるのだそうで、そんな回数や量を競うようになっているのは、なんだかなぁ、と思ってしまう。

                   マニュアル化したキリスト教や回数を誇るようなキリスト教会での動きも含めて、その背景には近代のロマン主義というのか、数量主義を含めたモダニズムの影響があるように思う。社会自体は、脱近代(ポストモダン)に突入しているのだが、教会がモダニズムにこだわり続けるのであれば、シーラカンス(生きている化石)というのか、伝統芸能のような状態に教会がなるのではないか、と思う。それはそれで、一つの生き方であるが、現代に生きる人々に神を伝えるのは、さらに難しくなると思われる。

                   そのあたり、どう考えるのか、というのは、結構重要なキリスト教会にとっての問題だと思うのですけどね。
                  2012.02.29 Wednesday

                  晴佐久神父の講演から考えた普遍化と現地化の問題

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                     このブログでも、時々紹介してきた晴佐久神父がある講演の中で、聖俗二元論で苦しんでいる信仰者であったころのご自身の話をしておられた。この聖俗二元論(善悪二元論)の話題は、プロテスタント2世のミーちゃんはーちゃんやCaledoniaさんだけの問題と思っていたが、カトリックでも、近代主義の思想的な風景画となっている二元論が、ここまで影響しているとは思い至っておりませんでした。晴佐久神父の主張は、説教集でのご主張と同じであり、変わらず、ぶれず、聖餐が大事、洗礼が大事、キリストともに生きることが大事、というご主張でした。人間は、俗なるものであけれども、キリストを信じキリストを肉なるものの中に受け入れ、それを形として示す聖餐式に預かることでパンを口にする行為を通して聖となる(聖となったことを自ら行為として確認する)、ということの大切さを訴えておられたと見ました。まぁ、若干カトリック的部分なものはありますが。

                     あと、印象的なものは、聖なるものは、普遍性を持っている。こっちに来ると天国、あっちに行くと地獄行き、というようなことを主張する原理主義風の主張は、カトリックでもプロテスタントでもしており、そういう明確な区分線を持つ聖俗二元論は、恐ろしいものだ、という主張も納得的でした。お話を聞きながら、重要であったのは、聖にも立ち、俗にも立ちその間を取り次ぐのが普遍ではないか、というご主張であった。まるで、モーセか、イエスの姿かと思う。それが、普遍性だといっておられた。普遍性、を日常用語で言うとすれば、ほんまもん、ということばであろう。聖なるものが普遍性をもつ、ということを言っていたように思う。

                     よかったのは、聖と悪や善と悪ではなく、聖と俗だったこと。悪なら排除しなければ、ということがあるかもしれないが、俗ならより人間の性質に近くて、無理やり排除、とはならないのでね。このコンセプト、大事かもしれない。

                     ヨハネパウロ2世は、晴佐久さん談によれば、「今までのような福音宣教が悪いとは言わないが、新しい福音宣教の必要性がある、といっていた。」ということだそうである。晴佐久さんの主張としては、「神のことばに力がある、って信じて、多くの人々に神を示していく方法を考えるべきじゃないかな」というご主張だったろうと思う。これって、ひょっとして現地化の問題とつながっているのではないか?ということを考えた。この話を聞く前に、「危機の時代だから教会の時代だ」というご主張の当否は別として、英神父の高山右近の解説については、聞いておいたほうがよいかもしれない。本当にそうであるかどうかは別として、貧しい人々への葬式を高山右近が実施したことが、日本の寺における葬儀の重要性が高まった、ということが事実だとすれば、それこそ、現地化という問題と密接に関係していると思う。

                     ちなみに、ベトナム戦争当時、ベトコンと呼ばれたホーチミンさんの関係のゲリラ部隊になぜ人気が集まり、ゲリラに加わる人が多かったか、という話について、本当かどうかは知らないが、ホーチミンさんの関係の軍隊が、死亡した兵士の埋葬を丁寧にしようとしたから、ということがあったらしい。以外と素朴にこのあたりの感性が現地化の問題を考えるときに重要なのかもしれない。おそらく、ベトコンという言葉は、もう死語だろう。むかし、両親がベトコンに殺された、と主張する子どもたちの写真のコピーが YMCAの体育館に張られていたのを思い出した。

                     もっとシンプルに(あまり深く考えず、駄目じゃないかとか思わず、これまでの伝統にないと思わず)素直にやってみる、という信仰ってないか、という問いかけをしておられたが、これは激しく同意したいなぁ、とおもいました。

                     福音を語る、というのは、普遍的なものとしてキリストが存在していない、また、キリスト者以外に十分に評価されていない社会においてキリストを公に語ることは、かなり異様な行為であるわけで(これは現在の日本社会においても同様)、その意味でも、若干浮世離れして、神のことばをことばとして語りかけてみる、という晴佐久さんのご主張は大事ではないかなぁ、ということを思った。受け手にどう受け取られるのか、ということも大事であるが、所詮、どんなにことばを尽くして語ったとしても、受けては受け手で勝手に解釈するのでねぇ。農業関係の専門家の間で語られる話の現場にプログラムを書く関係上、必要悪として立ち会いながら、そういう現場を目の当たりにしていると、発言者と聞き手の関係って、どうなんだろう、と思う。


                     





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                    晴佐久 昌英
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                    (2011-08)
                    コメント:ちょっと、カトリックくさいけど、でも、福音としては、普遍的な内容を含んでいる。お薦め。

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                    (2011-08)
                    コメント:神に希望があることを、わかりやすくやわらかく伝える本。ちょっとカトリックのにおいが強いところもあるけれど。

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