2011.11.02 Wednesday

体調が戻ってきたので、少し戻ろうかなぁ、と

0
     この7月に突如、体調が悪くなり、生活は何とかしてきたものの、普通でない毎日が続いていた。かろうじて、社会的にしなければいけないことだけは、たらたらとこなしてきた。こんなしんどい経験は初めてだったので、参ってしまった。まぁ、途中、普段使いのPCの長期貸し出しがあったり、といった諸要素が合ったのではあるけれども。まだ、その不調の名残があるのだけれども、ちょっと、復帰してみようかと、思っている。

     他の方のブログを読んだりすることすらできなかったのだから、状態が非常に悪かったようである。対応策は良くわからないけれども、他の人が書いたもの(本やブログ)を読まなくなったら、危険信号であることだけは、確かなこととしてあるようである。実際、この数ヶ月聖書以外のものは目にするのも億劫という悲惨な状況であった。老眼がこの数ヶ月で、急に厳しくなってきた、というのもあるのだけれど。


     完全に放置していたにもかかわらず、月に2000くらいのアクセスがあるから、自分自身、正直驚いています。ウェブの世界は、ロングテール(爆発的には売れないけれども、地味にじわじわ売れ続ける)ということを改めて実感した次第。たいした内容はない、と自分では、思うんですけどね。アクセスしてくださった皆さん、ありがとうございます。

     ところで、何で書いてみようか、という気分になったかというと、これまた大和郷にある教会とのらくら者の日記というブログ記事によるところが大きい。なかでも、大和郷にある教会の記事の中で、ビブリシズムがもたらす問題を、10月3日13日の記事で取り上げておられる。その中で、

    Christian Smithという方の書かれた本の主要な主張をまとめる形で、

    このような聖書への態度・理論(ビブリシズム)は基本的にも、論理的にも維持不可能であり、また実際面でも「多様で広範な聖書解釈の 多元性(pervasive interpretive pluralism)」の問題を起こして、様々な対立や意見の相違から分裂や離反を繰り返す、教会の不一致の原因になっている。
    「あー、これわかるー。」というのを強く感じた。キリスト信仰者集団の中の一部の考え方の中に、「聖書が大事」 → 「聖書の主張が正しく、どのようなことにも聖書の中に答えがある」 → 「聖書以外のものは間違い」(→極端な場合には「聖書以外信者は読むべきでない」)という精神構造につながりやすく、結果として、なんでも聖書(信仰)の問題にこじつけてしまうのである。結果として時に、「それって、聖書が本当に主張しているといえるの?」と問い返したくなるような論理的ウルトラC(あぁ、懐かしい)どころではない、超越的な解釈が生み出されることがある。こういうウルトラC的な解釈があると、そのウルトラC的解釈に違和感を持つ人々と、それをサポートする人々の間で、時に深刻な意見対立が起きてしまうことになる。そうなると、本来、愛で結ばれている(少なくともイエスは「教会は愛によって結ばれることを望む」と主張しているように私には思える)はずの教会で不毛な教理をめぐる論争が起きたり、不一致や分裂騒ぎにいたるという、イエスの主張とは矛盾した結末を生み出しているように思うのですねぇ。個人的には、並存する考え方同士の対話という穏やかな形での、双方が並存できるような状況が望ましいと思います。極端なことをおっしゃる方々の中に、聖書の中に明白に書かれていない事柄(たとえば預言が典型的)に関して、「自分自身の解釈は聖書から得たのだから、聖書的である」という理解から、「自分自身の解釈こそ、聖書の正しい解釈である」という論理のずれがおきやす意のではないかなぁ、と思ったりも思案す。また、その理解を得た人々は、その解釈そのものが聖書からずれているかもしれない、ということに気づきにくい、ということがあるように思います。

     というのは、この種の問題で、かなり深刻な問題を起こし、それも繰り返し起こしてきたキリスト者集団の片隅にいるからなんですね。この集団が始まったのは、このキリスト者集団での、広く言われている公式理解としては、イスラエルの初代教会ということになっているが、私自身の研究による歴史的理解としては、アイルランド島(そういえば、一昨日は、アイルランドのそれとは大幅にアメリカで変容してしまったハロウィーンでしたね。アメリカ文化に著しく染まっているある公立高校に通学している高校生の娘と息子は、学校の休み時間にお菓子の交換会をした様子。しかし、ハロウィーンは「良くわからん」と一昨日の日テレ系の朝のワイドショー内の小林ディクショナリでは言及されていたが、ハロウィンは、関西での地蔵盆と似たようなもので、子供(高校生あたりまで)であるだけで、ただでお菓子をもらえるアメリカ発のお祭り騒ぎと思えばいいかなぁ、と思う)で始まった、とするほうがやや正確であるのだけれども。この集団を生み出した初期の段階のイギリス諸島でも、聖書理解をめぐる(特に詩篇におけるイエスの解釈と預言理解をめぐる)不一致やら、対立から分裂と論争を繰り返した集団だったりするのですね。聖書に熱心なのはいいのだけれども、そこに書かれている本質論を見失った人々もいなくもなかったように思うからなのですね。聖書が重要だとするあまり、どこか、論理がずれてしまっていたのかなぁ、とも思う。

     構造としては、「聖書解釈と無誤論」について、書かれている「またかー」と同じ構造なのだと思う。つまり、「聖書の無誤論(あるいは無謬性)から出発したのだったら、それに従う(というよりはこだわる)べきで、文字通りかかれている内容以外の聖書の別解釈は認めない。」という暗黙の前提に縛られてしまっている状況についてのご見解かなぁ、と思った。文字通りの理解にこだわることで、多様な理解の可能性を閉ざしてしまうことと、本来的な聖書解釈にいたらないのではないか、と思わせるような発言に関して「またかー」という印象をお持ちなのだろうと推察します。その意味で、仮説というか暗黙の前提に縛られてしまっていることの問題なのだろうなぁ、と思います。その意味で、理由は良くわからないけれども、社会(一部のキリスト者集団)で共有されている前提に縛られているという意味で、カルチャなんでしょう。

     私も、このようなこと(聖書とか福音の優先性を主張するあまり、世間的には荒唐無稽に見える発言や行為が続くこと)に出くわすことが多いので、「とほほ・・・」と内心思いつつ、「そうですかぁ」と相槌を打っている自分がいるんですね。大体、論争するだけ、不毛だし、野暮だし、駄目(石を置いたところで、意味を成さない)なので、最近は、論争するのではなく、聞き流すようにしています。

     この暗黙の前提に縛られているという問題は、「王なるイエスの福音」という記事で触れられた、サルベーション・カルチャの問題とも、密接につながっているような気がするのですねぇ。どういう構造でつながっているか、は別として。個人的には、サルベーション・カルチャと無誤論の問題は、どこかでつながっているような気がするので、今後もう少し考えてみたいぞぉ、と思っています。しかし、サルベーション・カルチャとは、大変興味深い問題意識ですね。行動パターンとしてのカルチャ。カトリックの歴史的理解の重視を否定した割りに、プロテスタントは聖書の基本的主張とずれているかもしれない部分を含むサルベーション・カルチャを生み出したという意味では、どこか似ているように思うのは、きっと私だけでしょう。いま、シリーズもので、「救いとは何か?」を扱っているので、これを契機に考えよう。

     その意味で、最近、また読み始めたMarsdenのFundamentalism and American Cultureの問題意識とも、どこか重なるように思います。

     そういえば、私の住んでいる地域では、阪神タイガース・カルチャもありますねぇ。読売テレビという日本テレビ系のテレビ局でありながら、視聴率のために、阪神タイガースを朝の6時台の番組でのトップニュース扱いする放送局もあります。まぁ、デイリースポーツという神戸新聞社系の阪神タイガース御用新聞もこの地域にはありますし。

     うーん、名古屋は中日ドラゴンズ・カルチャなのかな?
     
    2011.11.05 Saturday

    続 罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ

    0
       mさんとおっしゃる方から、「罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ」の記事に対して、貴重なコメントをいただいた。ご紹介しながら、それに対するミーちゃんはーちゃんの答えを書いていきたい、と思います。

      -------------------------------------------------------------

      横から失礼します。(コメントへのレスへの、さらにコメントですが…)

      >もっと幅広い信仰者として野武士のように、生きるための基礎を何とか与えてやれないか

       というお気持ちもよくわかります。ただ、「与える」というより、「引き出す」ほうが、今後を考えるとより大切なように感じております。(これは、ただのこちらの一意見です。)

       というのも、母教会・母集団(同じような群れ)にのみいる場合、アパシー、AC様、もしくは不感症というべき状態になっていると感じられるクリスチャンホームのお子さんたちも少なからずいらっしゃいます。
       端的には、とても真面目で、きちんと聖書(の表面?)を読んでいて、それなりに礼儀も正しくて、一見素直なのですが、他者(これは、他の価値観や背景を持つ人々の意)の痛みが理解できない、「自分を正しい」としていて自尊心が高い、という特徴があります。

       「自分を罪人」と言いつつ、実際には、そうは思っておらず(むろん、本人たちにそう言ったら、否定されますが)、ただ「そう教えられているから、そう考えている」としか、見えない言動をしているものの、そもそも自分たちがどう感じているかさえも素直に感じたり、認めてきていないために、そういう現象も起こりうるのでは、と考えているところです。これは、ブレザレンと呼ばれている群れだけではなく、いわゆる福音派でも他の所でも同様に存在すると考えられます。


      -----------------------------------------------------------

       mさんのコメントを読みながら、同一の教会・同一の集団にのみ属している場合の、特にクリスチャン2世の聖書理解の浅さや、他者との関係性の問題、とりわけ、自己正当化の傾向を指摘しておられる。自己正当化と、自尊心の高さ、あるいはセルフエスティームの高さとの関連は、確かにあるとは思うのですが、それだけとは思えないんですね。もっと、聖書理解に根差す根本的な問題があるのではないか、と思うんですね。

       それを少し深めたのが、11月2日の記事だったりはします。要点だけ言うと、「聖書は正しい」→「聖書から導かれた理解はおそらく正しいと思う」→「その結果、自分の考え方はおそらく正しいことに依拠しているので、おそらく正しいと思う」という論理構成のはずなのに、「聖書は正しい」→「聖書から導かれた理解は絶対に正しい」→「その結果、自分の考え方は絶対に正しい」という形にどこかで転換転嫁していることの危険性を指摘しようとしたんですね。「おそらく *****はず」が「絶対に****である」と変容してしまう危険性です。

       たぶん、キリスト教会(集会)以外の概念に触れさせてもらえない、自分は聖書を小さい時から聞いていて、それ以外のことが分からない、といったことが、「罪人」意識の薄さ、にもつながっているのだと思います。ある程度のクリスチャン2世が、深く「罪」の問題を考えることがないのは、彼らが聞かされている『罪』ということの理解が十分でないこと、私自身などが語っている「罪」がかなり皮相的あるいは表面的なものにとどまるから、ということはあるように思います。ただ、彼らが神との断絶の問題が分からないというのは、断絶した経験がないから、ということなのかもしれません。その意味で、イスラエルの繰り返しの反逆や神に聞き従わないことと、キリスト者2世の問題は関係しているように思います。思ってみれば、マタイ19章の青年の話は、類似した状況を示しているのかもしれませんね。

       私自身の経験でもそう思うし、自分の子供を見ていても、そう思います。最近、ほかのクリスチャン2世のバプテスマに関与したのですが、バプテスマのその際にお願いしている、彼らが「なぜバプテスマを受けるのか、受けたいのか」ということについて、最初に書いてきたものは、「罪」の問題の言及が全くないものだったので、「わかるけどねぇ」ということで、少しコーチしながら、書き直してもらいました。

      ちなみに、私は、ここで言われているブラザレンと呼ばれるキリスト者集団に属していますが、この問題は、もちろん、ご指摘の通り、ブラザレン派以外でも発生していると思います。だからこそ、このようなより普遍的なテーマに関する記事は、もう少し幅広いキリスト者世界を対象にしたより一般的なフレームワークで考えたことを書くブログで書いております。

      -----------------------------------------------------------
             
      「例)「喜ばなければならない」
       ・・・いやいやいや、もし「知ったら」、どんなに素晴らしいものなのか、みことばを知る楽しさを「知ったら」、喜ぶでしょう、と思う。
       だが、彼らはすでに「知っている」(と思っている)のだ。確かに、知識量がある人もいる。
       だからこそ、「すでに自分は知っている」という高慢さと飽和にさらされ、聖書や神様に対する関心も薄れている状況で、ただただ、「喜びなさい」と書いてあるから「喜ばなければならない」と感情を強制していたら、・・・不感症にならざるをえない。
       これは、ACに通じる。
       ACの子どもらは、いやな物を目の前にされても「これを喜ばないと、またお母さん(orお父さん)から、怒鳴られ続けるから、喜ばなければならない」となる。うそでも、相手を喜ばすために、喜んだふりをする。自分の感情を殺して、相手に合わせて取り繕う。そうしなければ、生きていけないからだ。
       これは、聖書が、ではなく、周りの大人たちが、子どもが子どもであっていいのだ、素直に感じたことを表現しても、だれもどなったり、殴ったり、いじめたり冷たくしたりしないのだ、という安心感を持たせずに、育ててきてしまったからなのかもしれない。大人のレベルを、小さな幼子に押し付けてはいなかっただろうか、と、ふと感じることがある。」


      -----------------------------------------------------------

      ここで挙げられている例が非常に示唆に富んでいると思います。これは、クリスチャン2世に限ったことでなく、クリスチャン1世の方でも、「聖書の中に、いつも喜んでいなさいと書かれているから、いつも喜んでいないといけないのだ」というご発言を公式の場でされた方がおられましたので。「とほほ・・・」と思いながら聞いておりましたが。文字通りの解釈 → 文字通りの行動、という非常に短絡的な発想に、半ば唖然としながらも、お聞きしていました。このような行動はアメリカのシチュエーション・コメディでもたびたび取り上げられており(例えばカラー版の奥さまは魔女(Be Witched)という番組で、取り上げられていた記憶がある)、どこか常識がずれているように思います。まぁ、映画アマデウスの中でのサリエリ君の行動も、そのような精神性としてカリカルチュア化されていたように思います。

       感情の強制より、むしろ深刻なのは、関係者の期待に沿うということの価値が重要になっているために、生き方の自由度がない、あるいはある特定の教会以外の考え方で生きられない、という側面だと思います。他人(同じ教会の他の信者)の期待に添うために、職業選択の自由や、就学機会の自由が奪われる(その教会でバプテスマを受けたので、その教会を離れないで済むような職業選択や学校の選択をする)ことの方が、個人的にはむしろ問題かなぁ、と思います。つまり、本来「神」でない「教会」が論理構造の中で、「神」にすり替わっていることに気がつかない、ということの問題だと思います。期待する側(親や指導者)も期待される側(子供や若年信徒)の両方で生まれる問題だと思います。

       その意味で、クリスチャン2世とAC(たぶん、本文を読む限りアダルトチルドレンだと思われる)との関連性の考察は大変重要で、面白い視点を含んでいると思います。まさしく、カルト問題を扱ったいのちのことば社刊のブックレットに、「信仰という名の虐待」という本がありますが、実際の身体的、肉体的虐待でなくても、霊的虐待という可能性はあると思います。本人たちは、あまり意識せずに第3者(他人)のこととして語っている内容に、「悪魔の手に落ちた」・「信仰の破船」・「悪霊が働いている」「あの人は裁かれた」といったようなカルトで見られることとような表現が、アダルトチルドレンのようなキリスト者2世を生み出すのかもしれません。意外に、気軽に「悪魔の手に落ちた」といったような内容が、教会やキリスト者家庭で語られることが多いように思うのですね。虐待とは、あまり意識されないことが多いとは思いますが、一種の霊的な虐待となりかねない環境が、キリスト者家庭の中でときに生まれているできているのではないか、と思うのですね。

       まぁ、「怒鳴られるから、喜んでいなければいけない」ということは、私は思ったことはあまりありませんが、個人的には、「教会で静かにしていないと、あとで親からいろいろ言われるから」ということで、ちょっと気持ちを殺して、親の指示通りしていた、という個人的経験があります。そのため、私自身は、子供が教会で騒ぐことに私自身はかなり寛容だったりするのですね。とはいえ、うちの今、高校生の長女が小学生中学年のころに、「教会とはからだを固くしていないといけないところ」と言われた時には、ショックを受けましたねぇ。「それでは、いかん。どこかがおかしい。」と思った出発点だったわけです。それまでは、あまり自分たち自身の考え方を自ら自己反省的に考えることはなかったように思います。

      -----------------------------------------------------------

       「ある意味、親もクリスチャン、親戚もクリスチャンばかり、自分も受け入れたら信じてバプテスマを受けましょう・・・という環境は、不幸にもなりうる。それ以外、選択肢が用意されていない。自分たち以外の人々との交流をすることが、ない。エネルギーや賜物がある人々ほど、その状況に甘んじることは自分を無感覚にするか、少々離れるしか・・・方法がない。確かに、そこここに、ゆがみが生じているように感じる。
       せめて、彼らが学生の頃に、まったく交流のない集会やら何やらにどぼんと入れさせて、しかもそれに数年耐えらせていたら、面白いことになったろうなぁ・・・と考える。実際、それが、刺激となる。国内の他集会がいやなら、外国にでも。だが、そういう度胸のある兄弟姉妹はそう多くはない。


      -----------------------------------------------------------

       確かに、交流の選択肢が限られている場合が出てくる、というのはありますよね。特に、子供のころであっても、いろんな家庭の子供たちと付き合う、ということを認めてもらえないということもあるようです。親の思いとして、「教会の子供とだけ遊ばせたい」というご発言されたご家庭もあるとお聞きしたことがありますが、その話を聞いた時、「それもどうかなぁ」と思った割と最近の記憶があります。子供であっても、遊ぶ友達を用意され、選択の権利がそもそも親によって奪われてしまう、というのもなんだろうなぁ、と思ってしまいます。

       似たような例で、私の義兄が「ある文学者を研究している」とある教会でそのことを言ったときに、「その人(研究対象としている文学者)はクリスチャンですよねぇ」と言われたことがあって、「・・・」となったということを聞いたことがありました。こういう精神性は、教会で少なくないように思います。思わず、看護婦さんは、キリスト者しかケアしてはいけなくなる、なんてことになりそうですしね。

      その状況に甘んじることは自分を無感覚にするか、少々離れるしか・・・方法がない。

       あとは、言いたい人には言わせておいて、わが道を行く、というカウボーイのようなスタイル表法です。まぁ、この方法だと、ローンレンジャーみたいに次第に教会内で孤立していってしまうかもしれませんけれども。そんな関係から、結局もともとのキリスト者集団に居づらくなったりするんですね。

       全く交流のない集会や組織(たぶん、KGKとか)に参加することで、信仰に関する理解の変容が起きることや、骨太の信仰者に変わる場合がある、ということはある程度確認されている事実だと思います。しかし、そんなことをすると、陰で「悪魔の手に落ちたらいけませんし」、「悪霊の影響を受けないといいのですが」とか言われたり、祈ってもらえたりするのですね。そんな声が耳に入ったときには、とっても残念な気持ちになることが私にとっては多かったことは事実です。


      -----------------------------------------------------------

       いやいや、学校時代に、ムスリムやら無神論者やら仏教徒やらいろんな人々と、接する機会があったら、また違ったのだろう。」とも、ある時(あ、ちょうど川向さんのこの記事と同じ頃ですね)、考えておりましたので…。

      長文失礼しました。

      -----------------------------------------------------------

       そうですか。今からでも遅くはないと思いますよ。ただ、そういうこといろいろな人と幅広くお付き合いをしていると、教会の純粋まっすぐ君のような信者さんから、いろんなこと言われたり、「○○さんは変わった」と言われたり、「○○さんが正しい信仰をもちますように」と祈られたり、とすることになりかねないのでねぇ。ただ、「神がすべての人を愛している」ということなのだとすると、すべての人と接することは悪いことではないはずなのですけれどもですね。

       あ、本文に関係するコメントであれば長かろうが、短かろうが、関係なく歓迎しております。どなたでも、Open Minded(開放的)な対話ができる方であれば、歓迎しております。

       m様、大変示唆に富むコメント、ありがとうございました。一度お会いして、お話ししたい方のお一人です。


      2011.11.09 Wednesday

      このブログがすごい

      0
         小さないのちを守る会の代表の水谷さんのブログ記事で、あるブログ記事が紹介されていた。これ、むちゃくちゃ面白い。婚活(これまたやな感じ~の言葉だけれども)に関して書かれた記事を見ながら、大笑いしてしまった。家内にも見せたら、うんうん、といいながら読んでいた。おまけに、この人は頭が言い人に違いないと、言っている。個人的には、激しく同意。
         たとえば、核心を突いた発言に

        少しばかりイケメンで定職を持っている男性だと、

        光の早さで売れる 

        というか学生時代に女性クリスチャンに食われる。もうバッタのように女性が食らいつく。
        とか、

        場所的にこれだけの買い手市場で一般社会より格段に女性の結婚意識が高いのに、
        誰からも選ばれなかったというのは、正直かなりの物件である。

        女性の高望みとか云々というより、結婚不適格の可能性が極めて高い。
        そんな相手と結婚しても破綻は見えているし、
        文字通り「生まれてくる子供のことを考えて!」のような結婚生活では元も子もない。

        しかももし結婚生活が破綻したとして、教会が受け入れるか、といったら「否」である。

        クリスチャン女性にとって離婚者とは、

        罪人でありクリスチャンホームを作り上げなかった落伍者であり、 夫にうまく仕えられなかった信仰の薄い負け組である。

        クリスチャンならばそうではない、と答えるだろう。それは正しい。


        とか、


        30代までにクリスチャンの恋人がいなく、どうしても結婚したい場合、

        私はもうノンクリスチャンを視野に入れることをおすすめする。
        それか英語を習って外国人にGo!である。
        とか、

        この世と一緒で、バツイチ・高齢独身女性はより肩身の狭い場所なのだ。

        特に保守的な教会の場合、バツイチ・高齢独身女性はいつまでたっても婦人会にも参加できず、青年会でも追い出され、 既婚クリスチャン女性の影で肩身の狭い思いをしている傾向がある

        彼女らは現実社会よりも苛烈なヒエラルキーの中で、
        礼拝を聞いて昼食にも参加せず一人で帰る人になるか、
        運がよければ同じ高齢独身女性と交わって端っこでお茶ぐらいはできるだろう。

        とか、


        女子会とかいってたむろしている高齢独身女性と、
        教会にたむろしている独身女性クリスチャン女性とどう違うか、と言うと…

        正直いって大差ないのである。


        若さもなく美しくもなくだからといって仕事がバリバリできるなどこれといった美点もない。
        適度に俗的で保守的で楽がしたい、普通の女性である。ただ聖書読んでいるか、いないかだけの違いだ。
        とか、


        聖書読んで救われたぐらいで、自分が一段上の人間になったとまあ大概は勘違いするものだが、
        基本急には変わらないものだ。
        変わらないことを内心気がついているから
        「みこころの人()」の()の中に祈りと欲望を混同させて、一杯条件をつける。
        しかし完成品は完成品とくっつくのが世の常であるから、
        客観性の乏しい気の利かないブスと年増は結婚できず、
        「まだ神様の時がきてないのよ」とかいう。

        とか、まぁ、手厳しい。とはいえ、一部核心を付いている。

        特に、 

        聖書読んで救われたぐらいで、自分が一段上の人間になったとまあ大概は勘違いするもの

        という指摘があるが、これ、意外と多いのではないのか、と思う。と書いている私も、この例に漏れない。ははは・・・・。

         ところで、「聖書読んで救われたぐらいで、自分が一段上の人間になったとまあ大概は勘違いすること」と、大和郷の教会の記事で紹介された、サルベーション・カルチャーは絶対にどこかで、つながっている、と思うのである。すでに、カルチャーにまでなってしまっている大いなる「勘違い」は、いろんなところに現れているように思う。それを現実世界で体験されたのが、野村先生なのだろうと思う。野村先生がかかれたブログ記事によると、は相当おつらい思いをされたようだ。

         「端っ子」さんの書き方を見習えば、

            クリスチャン>>>>>>>>>ノン・クリスチャン

        という構図があり、さらに

            クリスチャン国家であると信じられていた戦勝国United States of America>>>>>>>>>>>>>>>>>非クリスチャン国家の敗戦国 日本

        という構図が、広く社会に反映した時代のなせる業とはいえ。

         こう理解すると、反キリストの先兵、と思われていたホーチミンに敗北を喫したベトナム戦争で負けたことのショックは、単に国際政治的な文脈での理解だけでなく、彼らのそれまでの霊的な聖書理解の文脈、カルチャーそのものにまで大きな痛手を与えたのではないか、と想像する。自分(アメリカ人)たちは神の民と思ってきたのに、神に逆らうもの(共産主義者)に負けたという現実をどう理解していいのか、については相当混乱したのだと想像する。(アメリカに行くと、自分はアメリカ人だから、クリスチャンだ、と臆面もなく発言される方に出会うことが結構多いです。)

        図式化して描くと、理念の世界では、

         神の民 アメリカ >>>>>>>>>>> 共産主義者(≒無神論者) 北ベトナム

        であるはずのものが、現実世界では、

         共産主義者(≒無神論者) 北ベトナム >>>>>>>>>>> 神の民 アメリカ

        となってしまったのだと思う。この厳しい現実を突きつけられて、その現実に社会とそれを構成する人々が耐えられなかったのではないか、と思う。

         ところで、生井(2006)によれば、もともと、アメリカ陸軍は、第1次世界大戦に参加したころには、フランス軍に武器弾薬や、果てはヘルメットや背嚢という基本的な装備品を借りなければならなかったほど貧弱な武装であり、参戦当時の陸上部隊のギリシア以下、セルビア並み兵力であったことは、あまり知られていない。(海上部隊は、違うようだけれども)  

         ということで、「反キリスト教国であるイスラム世界に勝利する存在である神の国 アメリカ」を体現し、自ら証明するために、国際社会の顰蹙を買いながらもダボヤ(播州方言では、他人を非難するときに多用される言葉)と呼ばれるブッシュ君(最近大統領だった、子供のほうね)は、「クルセード(十字軍)」といったりしたのではないか、とかんぐったりしたくなってしまう。(根拠がない推測なので、追求しないでね。)しかし、いかに仲が良いらしいとはいえ、基地まで提供させられたサウディ・アラビアの人々がこのクルセード発言によく我慢したよなぁ、と思ってしまう。理由は、いろいろ考えられるけれども。

         いかんいかん。また、余談に行ってしまった。

         問題は、「聖書読んで救われたぐらいで、自分が一段上の人間になったとまあ大概は勘違いすること」が、与える影響である。Ministryという雑誌で、「あっちの人」という表現を香山リカというテレビに良く出る精神科のお医者さんがしている(リンクをたどると表示されるページの真ん中あたりにある対談しているシーンをクリックして表示される画像の左上の隅の辺り)。キリスト教会の人が「あっちの人」といわれてしまうのは、言葉の端端や、説教や聖書の話として語られる内容、キリスト者の行動パターン、キリスト者の社会集団の文化の中に「聖書読んで救われたぐらいで、自分が一段上の人間になったという勘違い」がすべての人とは言わないまでも、その一部に見られるからこそ、「あっちの人」扱いされるのではないか、と思ってしまう。

         このサルベーションカルチャーなのか「聖書主義」という考え方は、「本当に聖書からの解釈といえるんかい」といいたくなるような解釈を生み出し、論理的に無理を重ねているように思うのは私だけではないようで、心強い。

         そのあたりのそこはかとない胡散臭さを、『端っ子』さんのブログ記事は追求しているのだと思う。しかし、ここまで『教会良い子ちゃん』であることを捨てて、ここまで、正直まっすぐに書ける『端っ子』さんは、すごいと思う。私には、そこまで書けません。

         その意味で、注目である。しかし、同性愛者問題にしても、結構厳しい追求をしておられる。書籍や物品のコメントに関しては、また、改めて。

        レファレンス
         生井英考(2006), 『空の帝国 アメリカの20世紀』,講談社, 東京, pp.56-68. 


        2011.11.12 Saturday

        続 このブログがすごい

        0
           うーん、他の方のコメントにこたえていたら、どうも水谷先生と皆さんの「ツボ」にはまったらしく、アクセス数の桁が、ワンオーダー違う!せいぜい50程度のアクセスだったのが、10日が280、11日が520。恐るべし、

          命と性の日記〜日々是命、日々是性!


          そうそう、

           小さないのちを守る会

          のワンクリックもよろしくお願いします。

          --------------------以下が本題-----------------

            前回紹介した『端っ子』さんのブログのキリスト教界の関連商品に関するご意見の記事がすごい。

          児童・青年向けの本・音楽・グッズの質の低さに嘆息する。
          確かにその通りである。この時期、クリスマス用のプレゼント品を探すのであるが、うーん、どう見ても製造原価50円から100円としか見えない商品が、聖書のことばがついているだけで、300円から500円程度の金額となっている。「しょーもないのに高い」。『端っ子』さんのおっしゃる通りだと、思う。とはいえ、聖書の言葉をつけた瞬間、一般市場での流通が極端に難しくなる社会では、市場が分断されているので、高くなるのは仕方がないと思う。

           最近は、キリスト教書店さんには申し訳ないが、「裏切りもののユダめ!」と批判されることを覚悟の上で、IkeaとかCostcoとかで手に入れたものをそのまま使うか、それに聖書の言葉を同封するようにしている。あるいは、海外から直輸入している。もちろん、どうせちょっとの間だけ、子供たちが楽しむ商品なので、聖書のことばがついていなくても、「子供が喜んでくれれば、それでいい」、「『教会に来て、ラッキーなことがあった』という記憶が残ってくれれば、それでよい」と思っている。どっちみち、5分や10分で、イエス・キリストの不思議は分からないし、それは一生かけて考えていくはずのものだから。

           それ以外にも、『端っ子』さんの表現には、厳しいけれども、キリスト教の商品に関して、核心をついたするどい指摘がある。

          なんとか子供達にキリスト教を興味を持ってもらいたいと試行錯誤をしているのが伝わるが、
          「この世」を敵視している割には、中途半端に「この世」をとりいれようとするものだから
          結果が悲惨になりがちである。

          とか(大河ドラマに悪乗りして出された本といわれかねない本もありましたね)、
          市場が狭く選択肢が少ないことをいいことに、ろくなリサーチもせず低レベルなものを量産して、
          売れなかったら、「サタンの作った世界は魅力的だから」
          「この世」のせいにして子供を囲いこもうとする。冗談じゃない、サタンさんに失礼である。

          クリスチャン以前に要するにこんなのは信仰にあぐらをかいたズボラなのである。
          とか

          教会の子供達(特にクリスチャンホームの子供)には、
          キリスト教かそうじゃないかという狭量なことにこだわらず、
          ただ、美しいものをたくさん見て触れてくれと祈るだけである。

          とか

          キリスト教に忠実であれば、基本クオリティはあまり考慮されない。
          ゴミでもパクリでも小学生に失礼なクオリティでも「キリスト教」ならOKである。
          ただし、すこしでもキリスト教に反するともうダメである。

          とか

          そもそも宗教だから売れない、というのは、クリスチャンの甘えである。

          クリスチャンとは違って、「いいものだったら絶対買う」のが日本人の、またノンクリスチャンの優れたところだ。
          そのノンクリスチャンの特性を利用しないのはもったいないと常々思っている。

          とか

          人は神の似姿なので、美しいもの、愛があるもの、真理があるものに惹かれる。
          そうでなければ、「聖書」が世界一のベストセラーであり続ける理由がない。

          とかである。中でも注目したいのは、
          大丈夫どんなにコミケが発達しようが商業主義と揶揄されようが、キリスト教は負けない。

          すでに主はこの世に勝利しておられるからだ。
          という表現である。存外、『端っ子』さんの言いたいことは、

          すでに主はこの世に勝利しておられるからだ。

          の部分ではないか、と思う。そして、意外と、キリスト者は、この勝利したキリスト、それと自分の関係がかなり希薄なのではないか、と思うことがある。

           この文章を読みながら、聖書のある記事を思い出した。マタイ14章25−31節の記事である。
           夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

          という部分である。サタンさんが必死になって権謀術策の限りを尽くしている世の中で生きること自体が、そもそも水の上を歩くことより難しいことなのかもしれないのである。「サタンさんが必死になって権謀術策の限りを尽くしている世の中で、安心して神と共に歩むことができる」ということが保証されているにもかかわらず、世の中のものはサタンさんのものだから、といってキリスト教界にヒッキーちゃんして(ひきこもって)いていいのか?ということなのだろうと思う。精神的な面で、修道院生活を送っていないか、ということである。修道院生活を送るだけでは、自己閉塞してしまうのではないか、という指摘であろう。(なお、筆者は、修道院制度を云々するつもりはありません。修道院や修道会でも、伝道熱心なところはあるし。)

           この前、年配の方へのプレゼント、と思って、器楽による讃美歌のCDを探したが、国内では、非常に数が限られた。仕方がないので、Amazon.comに行くと、あるはあるは、結構ある。確かに、玉石混交であったが。この辺に、層の厚さの違い、というのを感じる。

           特に、ミーちゃんはーちゃんの趣味でもある映画の世界では、この傾向はより顕著である。そもそも、日本にはクリスチャン映画というものがほとんどない。新しいものがあるのだろうか。お金払ってまで、映画館で見ようというものを見つけるのは、難しいような気がする。何とか、見ようかなぁ、と思うのも、せいぜい、三浦綾子氏の小説の映画化された映画程度しかない。その結果、いまだに映画会というと「塩狩峠」が繰り返し上映となる。究極のリバイバル上映であり、リバイバル、という意味では、福音派的でよいのかもしれないが。(リバイバルはリバイバルでも、意味が違う、と突っ込みを入れてね。)

           洋画でも、全米ライフル協会の大看板でもあるチャールトン・ヘストンがいまだに現役で大活躍となる。うーん、地方の名画座でもここまでのリピート上映はしない。もちろん、米国産の新作もあるのだが、できがいま一つ、というところがある。わざわざ映画館に行ってお金を払ってみようか、と思ったり、上映会をしようか、という気分になれないものが多い。

           特に、教会のアニメが、その傾向が強い。いまだに、タツノコプロの作品がいまだに利用され続けている。米国では、ベジーテール等もあるが、新作が日本ではなかなか見られない。米国の吹き替えものの実写ものもあるが、吹き替えの翻訳がまずいので、意図を正確に伝えていないなぁ、と思うこともある。

           去年のクリスマスの時にとりあえずおためしで買ったCGアニメは、実に悲惨であった。事前に我が家でプレビューしたら、うちの高校生と中学生の子供はあまりにひどいので、途中で、「サイテーなトイストーリーのパクリ!」といって、大笑いし始めた。もはやキッチュなパロディとして、激しく突っ込みを入れながら、楽しみ始めた。製作者が見たら泣くかもしれないが。

           こんな現象が生じるは、製作者の側の貧弱、発想力の貧困、他にないから、といって、明らかに劣るとわかりつつも、それらの作品を受け入れざるを得ないキリスト者側の自身のなさ、そして、キリスト者側の「薄っぺらな信仰」というのがあるだろうと思う。

           ミーちゃんはーちゃんが、高校生の頃所属していた教会では、「クリスチャンは、世的(サタンさんが支配している世界のもの)なので、サタンさんの影響が入るといけないので映画などは、見ないもの・見てはならないもの、そんな時間と余裕があるなら聖書を読むべきである」とされていた。(いまだに、そのように指導している教会も多分あるでしょう。)最初に大学に入って友人と映画を見に行ったときには、それはもう悪魔の世界への扉をあけて、その世界に恐る恐る足を踏み込む感じで、悪への道へ落ちるのか、と思いながら映画館に足を運んだものであった。いやはや、なんて初心だったんでしょう。ははは・・・・・。もはや笑うしかないではないか。

           私自身の子供にも、これからキリスト者として歩みを始めた信仰者にも、そして、世の中にかかわっていくときに、私はイエスのこのことばを、よく考えるよう勧めたい。

          「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
          2011.11.15 Tuesday

          天国と地獄についてのユニークな本

          0

            いま Rob Bellという人の Love Wins という本を読んでいる。


            はちこさんも読まれたらしい。もう少しで読み終わるが、著者の天国理解というか終末理解に完全に同意するものではないが、非常に示唆的な本である。神学書、というよりは、どちらかというと詩集に近い部分がある。

            これ、翻訳難しいだろうなぁ。翻訳できたとしても、日本では市場性がないから、この本の翻訳の企画があったとしても、それはとなるかもしれない。(キリスト新聞社さんで出版とかしないかなぁ。)なお、この本には、ニューヨークタイムズのベストセラー本になったらしい。そんなシールが張ってあった(日本のアマゾンから取り寄せ版)。

            この本の背表紙が、面白い。
            -----------------------------------------------------------

            "God loves us.
            God offers us everlasting life
            by grace, freely, through no
            merit on our part.
            Unless you do not respond the
            right way.
            Then God will torture you forever.
            In hell."
            Huh?

            神は私たちを愛しています。
            神は、私たちに恵みによって、無償で永遠のいのちを与えようとしています。
            私たちになんら優れたところがあるからというのではなく。
            あなたが正しい方法でこたえない限り、
            神は、あなたを永遠に苦しめます。
            地獄で。

            はぁ

            -----------------------------------------------------------

            とある。この本のテーマを要約したような文章である。要するに、天国観が間違っている、それによって多くの場所で語られている聖書理解が、そもそもの聖書の主張とは異なったものになっているのではないか、ということを指摘している。

            英文自体は、さほど難しくないので、比較的読みやすいほうだと思います(下で紹介するような感じ)。全体を流れるBellという人の主張は、天国とは死んだ後に行くところではなく、地上でも実現するも のであって、神とともに生きることなのである、という理解のようである。それと同時に地上にだって地獄がある、ということをツチ族とフツ族の大虐殺の事例を例に 取りながら説明している。また、従来の天国観や地獄についての理解は、本当は聖書の主張とは異なっているのではないか、ということを主張している。そのことを聖書から丁寧に裏付けている。つまり、いま語られているような理解は、聖書の主張を別物にしたものではないか、本来のイエスの発言をひねまげていないか、という問題意識にたつ主張である。詳しくは、原文に当たってほしい。

            特にいくつかの教会のウェブサイトからの言明を取り上げながら、そのことを例証しているところは秀逸。 第4章 pp.95-96.

            -----------------------------------------------------------


            This is from an actual church website:"The unsaved will be separated forever from God in hell."

            This is from another:"Those who don't believe in Jesus will be sent to eternal punishment in hell."

            And this is from another:"The unsaved dead will be committed to an eternal conscious punishment."

            So in the first statement, the "unsaved" won't be with God.
            In the second, not only will they not be with God, but they'll be sent somewhere else to be punished.

            And in the third, we're told that not only will these 
            "unsaved" be punished forever, but they will be fully
            aware of it-in case we were concerned they might down
            an Ambien or two when God wasn't looking....

            The people experiencing this separation and punishment
            will feel all of it, we are told, because they'll be fully
            conscious of it, fully awake and aware for every single
            second of it, as it never lets up for billions and billions
            of years.

            All this,
            on a website

            Welcome to our church.


            以下は実際の教会のウェブサイトから取ったものである。『信じていない人々は、地獄において神から永遠に引き離される。』

            別のサイトでは、『イエスを信じなかったものは、地獄における永遠の刑罰に送られる。』

            もう一つの別サイトでは、『イエスを信じなかった人々は、永遠の苦しみに送られる』


            最初の文章は、"救われていない人(未信者)"は神とともにいることはできない。
            二番目の文章は、未信者は、神と一緒にいることができないばかりか、さらに、彼らはどこかに送られひどい罰を受ける。

            そして、三番目のものは、私たちに対して、これらの"救われていない人(未信者)"は永遠に刑罰を受け続けるばかりでなく、さらに、彼らは完全にどのような状態であるのかがわかっているということを述べている。このケースの場合、神がご覧 になっていないときにアンビエン(変換者注:睡眠薬系の向精神薬 かなり強力らしい)を1錠か2錠飲んでいればいいのになぁ、と思う。

            このような神からの分離と罰を経験する人々は、このようなことをすべて余すところなく経験するものである、と教えられている。なぜなら、彼らは完全にそのことを経験するのであり、完全に目が覚めた状態であり、間断なく発生していることを理解でき、それは何億年も何億年も終わることがないのである。

            これがすべて教会のウェブサイトに書かれていることである。

            (そんな)教会へようこそ。


            -----------------------------------------------------------

            教会が「救い」を語るために「裁き」を語る場になってしまっているけれども、それって本当に神が望んでおられることなのか?その聖書的根拠は何か?それが本当に裏付けられるか自分でよく考えて見られよ、ということが、基本的に本書のテーマだと思う。言い方を変えれば、「神様」を語るために、「サタンさん」のことを話して、「福音を語ったつもりになっているのでは、ということの問題である。

             それこそ、「福音を(カタ)」ことになっていないか?

            という指摘である。この指摘は痛かった。確かに、具体的な聖書の場所をあげながら、指摘を受けてみれば、これまで、中途半端な聖書理解に基づくいい加減な形で「福音を騙ったことはないか?」と聞かれたら、「ない」とはいえない。被害者の皆様には、この場を借りてお詫び申し上げたい、と思います。

            ただ、私自身、被害者であり、加害者であるというのもまた事実で、このことは、ACやDV、幼児虐待に見られる構図と似ているように思う。最近、Law & Order: Special Victim Unitの見すぎかもしれないなぁ。いずれにせよ、この不幸な連鎖を「ミーちゃんはーちゃん」は、止めたいと思う。少なくとも私に関しては。

             ところで、この本の中で指摘されていたことで、気になった表現があった。これは、この前の続 罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ とつながっている内容である。

            以下、Love Wins(第6章 p.152.)から引用して紹介したい。

            ---------------------------------------------

            Access to him can actually function in a strangely inverse way.

            Imagine a high-school student whose family is part of a Christian church.  She belongs to a Christian youth group, has only Christian friends, read only Christian books and has to attend Christian chapel services, because it's mandatory at the Christian high school she attends.

            The student can potentially became so anesthetized to Jesus that she is unable to see Jesus as the stunning, dangerous, compelling, subversive, dynamic reality that he is.  She has simply sung so many songs about Jesus that the name has lost its power to provoke and inspire.

            Her "nearness" can actually produce distance.

            キリストへのアクセスは、奇妙な形で逆方向に機能しうるのです。

            教会に所属する過程の女子高校生を考えてほしい。彼女は、教会の若者グループに属し、クリスチャンの友人だけがいて、クリスチャンの関連書だけを読み、彼女が通うキリスト教主義の高校の義務であるゆえ、教会の礼拝にも参加しなければならない。

            この女子高校生は、イエスについて、イエスが驚くべき存在であり、イエスが危険人物であり、イエスは人々の心を捉え、イエスには社会をひっくり返すほどの勢いがあり、非常にダイナミックな現実的存在であるにもかかわらず、イエスについてそのように見ることができないほど、まったく何も感じない無感動の状態になりうるのである。彼女は、イエスについての多くの歌を歌うものの、その名前は、もはや彼女の中では、想像力を喚起し、刺激を与える力を失っているのである。
            ---------------------------------------------

            あまりに当たり前すぎるがゆえに、あるいは、そのことが押し付けられるがゆえに、そのことに気づかない不感症状態が生まれるという悲劇かもしれないし、続 罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ で触れた、罪理解のいい加減さ、聖書理解のいい加減さに由来するのかもしれない。この問題は、どうも北米でも日本でも、共通のものらしい。なぜ、引用したように、キリストに何も感じなくなる可能性があるのか、の考察については、Bellはその章の中では、明確に触れていなかったように思う。まぁ、彼に言わせれば、聖書理解がいい加減なことが原因、ということなのだろうと思う。

            あと、非常に気に入った表現に、第6章 p.144.に次のような表現がある。

            There is an energy in the world, a spark, an electricity that everything is plugged into.  The Greeks call it zoe, the mystics call it "Spirit," and Obi-Wan called it "the Force."

            うーん、さすがBellさん、アメリカ人。スターウォーズで彩られている。zoe を the Force と言い換えて見せるあたりが、この人ならでは。日本では、May the Force be with youとかI am your father.とスターウォーズの有名なせりふのパロディといってみたところで、爆笑はしてもらえませんしね。

             このBellさんの主張は、ある面当たり前なのだけれども、ギリシア語聖書ができた当時は、その人たちがわかる表現、比喩、ぴんと来る言葉の使い方をしていたのであるから、そのことを、話し手はうまく伝えるべきだ、というものです。つまり、現代アメリカ人には、現代アメリカ人にわかるように(スターウォーズの表現なども借りながら)。現代日本人には、現代日本人にわかるような表現をして伝えるべきではないか、というのがこの方のご主張。個人的にはなるほどと同意いたしました。

             聖書の翻訳を変えろ、とは言っていないようですが、聖書の解釈の段階で、人々にわかる言葉で、神が言いたいと思っておられることが何かに焦点を当ててわかりやすく話すべきでしょう、というご主張だと思います。

             ある方向に凝り固まった聖書理解の頭を、本当にそれでいいのか、と問い直すような本です。日本語訳が出ないかなぁ。


            Misty Rae Love wins


            評価:
            Rob Bell
            HarperOne
            ¥ 1,140
            (2011-03-15)
            コメント:面白かった。ちょっと理解に問題がある所もないわけではなさそうだが、刺激的な本。

            2011.11.19 Saturday

            サンタさんとサタンさん

            0
               端っ子さんの記事の中に出てくる、「サタンさん」という表現を見ながら、それがどうしても、「サンタさん」に見えて仕方がないので、ナイツ風にしてみると面白いかなぁ、と思った。最近、ヤンキー牧師のブログでお笑いネタがないので、ちょっとしてみようかと。

              ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

              A:「もうすぐクスリマスですね。ジングルベルとか、スーパーでも流れているでしょう。」

              B:「それを言うなら、クリスマスでしょ。薬屋さんで売っているマスクじゃないんだから。」

              A:「そうそう、そのクリスマスね。クリスマスといえばねぇ、トナカイが引っ張るスリに乗って、プレゼントを配るオジサンがいるじゃないですか。」

              B:「スリじゃなくて、ソリに乗るんだろ。スリに乗ったら、あげたプレゼントをポケットに入れるだけになるだろ。スリじゃなくて、ソリ!」

              A:「トナカイの引くソリマチね。そして、空中引き回しとか」

              B:「ソリマチじゃなくて、ソリ。」

              A:「そうそう、ソレね。ソレに乗ってくるサタンさんね。」

              B:「赤い服を着た悪魔さんが、プレゼントではなくて悪い思いをみんなに配って回るのね。というか違うだろ、サタンじゃなくて、サンタ!なんで私が乗り突っ込みしないといけないんだよぉ。サンタさんがプレゼントを配って回るんだろ、それがクリスマス!」

              A:「そうそう、サタンさんが赤い服で白いひげをつけて仮装したのが、サンタさんなんでしょ。サタンさんが仮装する日が、クリスマスなんでしょ。だって、アメリカでは、サタンさんのまねをして、どっち道すぐ壊れるようなくだらないプレゼント代を安く上げるために、安いものを買いたいという物欲で11月末のクリスマスセールで何人も死んでるらしいじゃないですか。いやぁ、サタンさんには、クリスマスも正月もないのねぇ。さすがスクールじいさんの師匠さんだけあって。」

              B:「何回言ったらわかるの?サタンさんじゃなくて、サンタさん。それに、スクールじいさんじゃなくで、スクルージ!」

              A:「いやぁ、絶対クリスマスは、サタンさんの活躍の日に違いないよ。だって、アメリカ人は、クリスマスプレゼントを買うために、クレジットカードで買いまくって、後の半年くらい、その支払いに縛られるんだから。ヨハネの黙示録とやらに出てくるらしいし。似たような状況が。」

              B:「サンタさんはいい人で、サタンさんは悪者だろう!」

              A:「そんなことはないって。ビリー牧師っていう人は、クリスマスを悪魔払いしているらしいじゃんか。絶対、サンタさんとサタンさんは、仲間だって。だって、イエスって人も言っていらしいじゃないですか。『もし、サタンサンタを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。』って。」

              B:「もういい加減にしろよ。」

              A・B:「どうも失礼しました。」
              2011.11.23 Wednesday

              賛美歌の強さ

              0
                 最近、ある機会で、お会いする機会のあった遠方にお住まいの闘病中の信者さんに楽器演奏のみによる賛美歌のCDをお贈りした。お受け取りになる前は、かなり精神的にもお疲れのようであったらしいが、それを聞いたら、気分が大分、良くなられたそうである。賛美歌というのは、そういう効果もあるのか、と改めて感心した次第。

                しかし、日本でこの種のCDを探したのだけれども、なかなか良いものがなく、結局米国Amazonからの直輸入となった。結構、需要があると思うのだが、米国や英国でも、いいなぁ、と思っていたCDがすでに販売中止だったり、この種のものはあるときに買っておかないと、ということのよう。まるで、陶芸作品を買うときみたい。

                 私の家族の関係者が、いま、ボランティアとして始めたキリスト教系の老人施設への慰問の中で、賛美歌を歌ったりしているときに、たまたま「主我を愛す(Jesus loves me)」を訪問している一団と一緒に歌ったことがあったようです。すると、そこに入所していて、聖書にもほとんど関心を示さないご老人が、突然「主我を愛す(Jesus loves me)」の京都方言バージョンの「エッさん(イエス様)うちを愛さはる」を歌いだした、ということを聞いた。どうもその高齢の方は、依然、京都の街角で伝道していたグループの教会学校に行っていて、そこで覚えた歌が数十年の年月を経て、よみがえったということだそうです。(河辺貞吉のリバイバル運動の関係者かもしれないと、その話を聞きながら思ったのであるけれども。)その事に直面した家族の関係者は、伝道というのは、話をするだけではないのだなぁ、と思うと同時に、一生懸命そこで牧師さんなどがお話しても、残るものは、聖書への関心ではなく、「エッさんうちを愛さはる」だけなんだなぁ、という感想を持った。

                 その意味で、讃美歌と讃美歌に乗せる歌詞、ということは意外と重要なのかもしれない、と思ってしまった。長年の星霜に耐えるだけの歌詞と曲を持った讃美歌が、望ましいなぁ、と思った。

                 この話を聞きながら、伝道という行為の意味と難しさ、何を人々に残していくべきか、ということをもう一度昨年のマクグラスの講演を思い出しながら、一瞬の消耗品として消えていくかもしれない聖書からの話をしている、語り手として考えている。
                2011.11.30 Wednesday

                あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。

                0


                  先日の記事である「続 罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ」に対して、Caledoniaさんという方から非常にまたまた素敵で印象的なコメントをいただいたので、紹介しつつ、応答していきたい、と思います。ここで紹介するのは、Caledoniaさんさんからいただいたコメントが、mさんからいただいたコメントと同様、コメント欄で収まらない内容と広がりを含んでいるからです。同じ思いを持つ人を見つけた、という思いがあるからなんですね。

                  Caledoniaさんには、この場を借りて、深く御礼を申し上げます。貴重なコメントありがとうございました。   

                   

                  私は20代のクリスチャン2世です。
                  クリスチャンホームでの成長過程で苦しんできました。
                  こちらのブログでクリスチャンホームの問題について書かれている所があったのでコメントさせていただきました。


                  この問題、結構苦しまれている方は多いようです。子供が苦しむだけでなく、親を苦しめている事例を複数例を存じ上げていますが、それについては最後に詳述します。

                   

                   

                   

                  クリスチャンの2世には

                  ・教会で無菌培養され、理詰めで現実が伴わない熱心な人

                  ・教会で無菌培養され、現実とのギャップに苦しんで病んでしまう人

                  ざっくり分けるとこの2種類に当てはまる人がとても多いと思います。
                  病むと言っても、程度の大きさは病名がつく人〜苦労話程度の人まで様々だと思いますが。


                  確かに、教会で無菌培養されてしまっていて、現実感と苦労する人々がいることは確かです。大学生のころまでの私は、こちらかなぁ、と思います。私自身、最初の新入生歓迎会で、先輩(高校の先輩でもあった方)から飲酒を勧められ、断固断ってその場から立ち去ったのでした。まぁ、とんでもない「現実が伴わない熱心な人」だったわけです。車幅感覚ならぬ、社会感覚がなかったのでしょう。愚かしいことをしたものだ、と今では私は思います。(下らん親父ギャグ・・・・)

                   

                   

                   

                   

                  私の両親はクリスチャンで特に熱心なのは母親の方でした。
                  日本の文化を始めとするキリスト教以外の文化はもちろん、キリスト教であってもリベラルの様な考え方は罪であり危険だと教えられました。

                  両親やその友人たちの考えに反することをすると、聖書の教えを用いて私がどれだけ罪深いか教え込まれました。
                  そして「私が見ていない所でもいつも神が見ているから全て隠しておくことは出来ない」
                  「私の教えに従えないのなら独りで生きていけ、外の世界では神も助けてはくれない」と言われ続けてきました。


                  「聖書の教え」とか「聖書的」という語は、ほとんど脅迫語ですねぇ。本当は聖書が主張していない、この2000年の間に、誰かが聖書の単語やごくわずかな表現を手がかりに作り出した概念に過ぎないものが、聖書と同等の価値を持つ、ということによる問題ではないか、と思います。

                   多くのクリスチャンにとっては、本来的な聖書の主張でなくても、「聖書の教え」とか「聖書的」といわれると、水戸黄門の印籠を出されたときの悪代官みたいに「ははぁ、恐れ入ってございます」って言わなければならない雰囲気ってのが確かにありますもの。

                   これに少しでも口答えしようものなら、それは「リベラルの考え方だ」とか「聖書的ではない」といわれてしまいます。それに対抗するためには、かなり懇切丁寧に聖書から反証しなければなりませんが、そのためには聖書から縦横無尽に相手を納得させるための引用をした上で、「どう思う?」と相手の方に示さなければなりません。戦闘モード全開といった雰囲気にあまりならずに。
                   しかし、ただ、根拠なく「聖書的」というようなことを言う方は、そもそも議論を聞く気がなく、どうだといったところで、耳を傾けてもらえないことが多いのも悲しいかな事実です。その人の考え方が、「聖書的」でとどまっているならまだしも、その人の考え方が「聖書そのもの」というか「聖書に等しい権威」に化けているにもかかわらず、本人が、自分自身を一種の聖書(あるいはYHWH)に等しい権威としているという暴挙!出ているかもしれない、ということをまったく意識していない場合がかなりの高い確率でみられるのが、この話の怖いところです。だれかから、語り聞かされたものをまったく自ら吟味もせずに受け止めてしまうというウルトラスーパードゥーパーに安易な方法で、権威化するという…。

                  そうですかぁ。そうとう残念な状況におかれておられたのですね。こころから、ご同情申し上げます。 

                   

                   

                   

                  そして「私が見ていない所でもいつも神が見ているから全て隠しておくことは出来ない」
                  「私の教えに従えないのなら独りで生きていけ、外の世界では神も助けてはくれない」と言われ続けてきました。
                  そのため、私にとって神はストーカーの様に四六時中自分を見張っている存在で、御言葉は恐怖でしかありません。

                   


                  この感覚、わ・か・る!という雰囲気です。そうですよね。いつも見ている、というよりは監視されている感じなんですよね。高校生の娘と少し前まで、Hanna Montanaというディズニーチャンネルの番組を見ていたのですが、そこに出てくるHannaのお父さんが時々する、My eyes on YOU!という感じですよね。前のコメントでもふれた、O be careful little eyes what you seeの日本語歌詞は、すごいですものね。

                   あの歌詞を見ると、確かに、ストーカーのように感じるのは、致し方がないかもしれません。福音を語ったイエスではなく、Big Brother(ジョージ・オーウェルの1984という小説に出てきます)のように監視する看守のような神という感じ、非常によくわかります。私もそう感じていました。

                  そうそう、ストーカー行為は、立派なSex Crimeなのでねぇ。Detective Olivia Bensonに、"You are under arrest.  You have a right to remain silent. ...."とでも言ってください、お願いしたくなっちゃいますね。ここまでくると、Law and Order SVUの見すぎですね。

                   ところで、恐怖といえば、私の場合、さらに条件が悪かったのは、私が小学校の高学年だったころ、学研という、小学生向けの学習雑誌や科学雑誌(というよりは付録つきの雑誌)を出していた会社が、ムーというオカルト雑誌(このムーと麻原彰晃こと松本智津夫被告とのつながりがあったことが、別冊宝島に書かれていたように記憶している)を出すは、いまではトンデモ本扱いされている「ノストラダムスの大予言」という本が出るは、オイルショックで、主婦はトイレットペーパーを目を血走らせ買いあさっているは、究極の口先介入で、ニクソン政権は国際通貨危機となりかねない事態を発生させるは、まぁ、世の中が不安定なうえに、当時イスラエルは今よりももっともっとド派手にイスラエル周辺で周辺諸国相手にドンパチしているは、それこそ世の中不安が巻き散っている状態だったのですね。その中で、私どもの教派からはいまほぼ関係が切れているU野(伏字になっていない・・・)さんや山Mさんなんかが、ユダヤ関係の本を出すわ、という時代だったのですね。それこそ、恐怖の大王がまもなくやってくる、ということが言われた時代であったわけです。たしか山Mさんは、「恐怖の大王は、再臨のイエスキリスト」とその著書の中で書いておられた記憶が・・・。ははは・・・。こうなったら笑うしかないなぁ。恐怖で支配する、というのは、まさしく性犯罪や児童虐待と同じ構造・・・。

                   

                   

                   

                  私にとって神は主イエス・キリストだけではなく、両親とその友人たちもまた神でした。

                  まさに、この感覚、ワ・カ・ル!という感じです。家族や親しい知人が「それは聖書的ではない」とか「聖書はそんなことを言ってない」とどこかで聞いてきたことをもとに、おっしゃって、「」のような存在になってしまっておられるその状態。ただでさえ、BIG Brotherのような神に監視されているような気がするのに、神とは言わないまでも、神に限りなく近いような大天使のような「昔いまし、今いまし、いつもそこにおられる方」のような存在に囲まれて、わぁわぁ言われる。たまったものじゃ、ありません。高校生のころになって、どうも教会の大人が言っている聖書理解と合わない、と思った時にそれに聖書から反論したら、教会の大人から、有名な何とかという伝道者が××といっているとか、有名な宣教師が△△といっているとか、長く生きている人の特権を使って検証不能な言説を振り回すことで納得させようとされたことがございました。
                   しかし、監視する神のような存在の両親というのは、つらいですね。息が家庭でも抜けない、ということですから。恐怖が家庭を支配するのは、DV家庭と同じですよね。神とは言わないまでも、大天使のような方々によって、常に監視されている感覚がいつになっても離れない場合、「昔いまし、今いまし、今そこに見える恐怖の大王さま(両親の方とかその周辺の方)」がどこにいても見える、というのはつらいですよね。こんなパロディをするミーちゃんはーちゃんは、聖書の言葉を軽んじる、リベラルな悪魔の手先のような人間と評価され、ご両親様やそのご友人の方からは、金持ちの家の前でできものをなめられるラザロのような存在、あるいは、弟子たちから、この人が目が見えないのは、この人が罪を犯したからですか?それとも両親が罪を犯したからですか?という弟子たちの無神経な発言を聞きながら、額の所に黒い筋を何本もたらしながら愛想笑いするしかない盲人のような存在なのでしょう。

                   それから

                   

                   

                   

                  そのため、両親の言うことに振り回されてしまい、何が自分の本当の気持ちなのか、それは正しい感情なのかが分からなくなります。

                  についてですが、親が子供を振り回すときに、脈絡なく出てくることばとして、「あなたの父と母を敬え」という聖書の表現がよく用いられるようですが、敬えという言葉も、旧約時代のヘブル語からすれば、日本語でいう絶対服従、という概念ではなかったように思うのですがねぇ。敬う、ということと絶対服従が混乱してしまう事例が、結構見られるように思うのですけれどもねぇ。

                   

                   

                   

                  「重荷を負っている人は私の所へ来なさい、私が休ませてあげます」とよく聞きますが、
                  私にとってはキリスト教自体が重荷で、神を忘れる事が出来たらどんなに楽だろうと思います。

                  相当厳しい環境に置かれておられたのですね。「こころからのご同情を申し上げます。」とミーちゃんはーちゃんは申し上げることしかできません。それこそ、今読んでいる本のにThe King Jesus Gospel: The Original Good News Revisitedと いう本がありますが、この中で触れられている『救い』の文化の関係者に巻き込まれ、本来的な聖書の主張でない、『救い』の文化(Salvation Culture)の被害者になられた、ということのように思います。McKnightの主張によれば、本来、聖書から出発している教会が形成されていく中で、本来の聖書の主張とは異なる独自の文化(『救い』の文化(Salvation Culture))を作り上げられる中で、本来福音とはいえないものが「福音」として語られ、理解が広がっていくなかで、「福音」そのものが、どこかでひね曲げられてしまい、「本来の福音とはいえないもの」に変質して しまっている、ということの被害者になられたのではないか、と推察いたします。
                   ミーちゃんはーちゃんも、実は、ヘンリーナウエンという人の、ナウエンと読む福音書いま、ここに生きるに出会うまでは、20年ほどの信仰歴がございましたが、「重荷を負っている人は私の所へ来なさい、私が休ませてあげます」の意味がピンとこなかったこともまた事実です。しかし、ナウエンの本と出会って、このことの意味が、おぼろげながら、少しわかってきたところでございます。そんな関係もあり、この種の問題を抱えておられる皆さんには、いま、ここに生きるを強くお勧めしたい次第。あめんどうのまわし者と呼びたければお呼びなさい。誰になんと言われようと、ミーちゃんはーちゃんは、あめんどうを応援します。

                   

                   

                   

                  「救われた」「ありのままで愛されている」という感覚がどういうことかもさっぱり分かりません。
                  「信じれば救われる」「求めれば与えられる」という言葉も「本気で求めない自分が悪い、だから理解できないのだ」と言われている様です。

                  というのは、Caledoniaさんが悪いのではなくて、『救い』の文化のいう『救われた』ということがCaledoniaさんには、わかりにくいだけなのだと思います。その意味で、聖書がどう言っているのか、ということをもう一度再検討してみる必要を、最近強く感じています。McKnightの本にも、『救われた』ことは、ウェスレーのようにこころの中に熱い思いがこみ上げてくることでもなく、もっと普通のこととかかれておりましたが、私も救われたというのは、もっと普通のことのような気がするのですけれどもねぇ。

                   というのは、出エジプトの荒野で蛇にかまれたとき、イスラエル人がしたことは、青銅でできた蛇を見たことだけでしたし、イエスとともに十字架にかかっていた強盗の一人は、殺される前に「イエスとともにいたい」ということを思い、それを口にしただけなのです。神とともにいたいか?ということが救いなのではないかなぁ、と最近は思ったりしています。

                  「信じれば救われる」「求めれば与えられる」という言葉も「本気で求めない自分が悪い、だから理解できないのだ」と言われている様です。

                  相当おつらい思いをされたことと思います。こころからご同情申し上げますとしか、ミーちゃんはーちゃんには申し上げられませんが、Caledonia様は要するに『救い』の文化(Salvation Culture)の人が言っている意味での『救い』とイエスとの関係が分からないだけ、共通理解が構築できないだけであり、それゆえに不幸な状態に陥っておられるのでは、と存じます。

                   

                   

                   

                  私がキリスト教と関わって得たものは「救い」ではなく「劣等感と自己否定」です。

                  本当にご同情申し上げます。ただ、くりかえし、くどくなりますが、ここCaledonia様がおっしゃっておられるキリスト教はMcKnightのいうGospel Cultureの意味でのキリスト教というのか、聖書の主張そのものではなく、『救い』の文化(Salvation Culture)が化けているキリスト教のようなもの、ということなのかもしれません。本来の聖書の主張は、人を生き生きとさせるもの、であると思うのですけれどもねぇ。神は、人の鼻に息を吹き込まれ、いのちを与える存在としていのちを与えた(その具体的手法がどうか、という議論は少しさておいて)、ということが聖書の主張だと、私は思うのです。

                   

                   

                   

                  そして追い打ちをかけるように『教会で無菌培養され、理詰めで現実が伴わない熱心な人』にはその気持ちが分からないのか、
                  ちょっとキリスト教を批判したり疑問を持つと
                  「あなたは本当のクリスチャンではない、信仰が薄い」と裁かれるわけです。
                  (↑この熱心さは自分が救われた喜びで舞い上がってしまい、周りが見えていない1世の方にも言えることです)

                  疑問を持つことに関しては、重要だと思うのです。それが神学の出発点であり、聖書理解の出発点だと思うのです。でなければ、だれかが勝手に語った『聖書理解』と呼ばれるものをただただ墨守するロボットのような存在に人間はなってしまいます。

                   私も、実は、疑うことはよろしくない、と思っておったことがありまして、このあたり、イライラを抱えていた高校生から大学生の時期があります。大学2年生の時に履修した、オリエント史の授業で、池田裕先生が授業の終わり際にさらっと、イザヤ書1章18節の「さあ、来たれ。論じ合おう」とは仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」を引用され、YHWH)は、人々と語り合う存在であり、そのための聖書なのではないか、とお話しになった時から、そうか、聖書解釈にちがいがあるのは、当然かぁ、と思ったときから、気持の整理がついた記憶があります。また、疑いに関しては、McGrathという人が

                   

                   

                  Doubting: Growing Through the Uncertainties of Faith

                  という本をお書きになっておられます。個人的には、疑うこと、ということは大事だと思うのですが、鳩のように素直でもありますが、蛇の様に賢くあること(疑うこと)も神は求められているように思うのですけれども。

                  「あなたは本当のクリスチャンではない、信仰が薄い」と裁かれるわけです。
                  (↑この熱心さは自分が救われた喜びで舞い上がってしまい、周りが見えていない1世の方にも言えることです)


                  しかし、このような熱心さを持った方は、パウロのような方なので、その方々の神への熱心さが狂わせているのでしょうねぇ。「あなたは本当のクリスチャンではない、信仰が薄い」と自信を持っておっしゃる以上、神のみが知る個人の救いに関する確信をお持ちであるということは、そのこと自体、そうおっしゃる方自身がYHWH)と自らを等しくしておられることにお気づきないのでしょうね。私はこのようなことをお聞きした時に「しぃーらないっと。モーセじーさんが大激怒するぞ。そして石の板を割ってしまうからな。気をつけた方がいいぞぉ。金の子牛でそうなら、自らを神とひとしくし、その上勝手に裁きをするなぞ、『私のほかに神があってはらなない』に違反してんじゃん。」と思ってしまうんですねぇ。

                   

                   

                  ただ、今までの人生の傷を全てキリスト教のせいにするつもりはありません。
                  大人になってみて両親の育った人生にも問題があったことを知り、今彼らを憎む気持ちはあまりありません。
                  傷は癒えず、今もなお苦しんでいますが、両親にその怒りをぶつけてもしょうがないなという感じです。

                  私は、Caledonia様の対応というのが、いいなぁ、と思います。憎しみ、怒り、嘆きからは不幸は生まれますけれども、あまりよいものが生まれないように思います。

                   

                   

                  しかし、先ほど言った2種類の2世の様な人間はどちらにしてもバランスが悪く極端な人間に育ってしまいがちです。
                  そのため、やはり小さい頃から沢山の選択肢に触れさせ、自分で選択できるような環境を与える事は本当に大切だと思います。
                  子供が沢山の選択肢のなかでクリスチャンとして歩むこと出来ればそれはそれでいいことです。
                  子を持つ親にとっては心配でしょうが、こうしない限りキリスト教が数世代にわたって広がることはないと思っています。

                  一つのマインドセットにとらわれ、その中でしか考えられないこと、というのは、非常に不幸な結果を生み出します。ただ、多様性がある、選択肢があることの大切さをなかなか分かっていただけない方々もおられます。それは仕方がないことなのかもしれません。

                   15年戦争(一般には太平洋戦争と呼ばれる)を小国民としてライブで体験された方は、マインドセットが国体の維持(国民総体として維持するの意味ではなく、陛下を中心とした万世一系の天皇制を維持する、にいつの間にかすり替わってしまったことが問題)が中心的課題であり、小国民の夢は、陸軍士官学校か、海軍兵学校に行くこと、または、兵隊さんのお嫁さんになって、兵士の予備軍を再生産することという夢しか持てず、農林一号という量的な生産性が非常に高いサツマイモ(ある程度味は良いらしい)が食べられればましな方で、そのツルを食べなければならなかった時代を通過した人からすれば、選択など、贅沢であり、贅沢は国民の敵であり、非国民のすることであった時代が刷り込まれているようです。

                   どうも、人間は選択していくことで自分を形成していく、という部分があるように思いますし、信仰は、個人の信条の選択の問題であり、その意味で個人の主権の最も重要な部分であると思うのです。その意味で、日本国憲法の信教の自由の保障というのは、人権を考える上で、極めて重要な要素を持っていると思います。信仰の選択を脅し、脅迫、恐怖を道具にしてするようでは、某国際勝○連合と同じではないか、と思うのです。「ご先祖様の悪い霊があなたの上に働いています。この聖書を読むことで悪い霊の影響から透明バリアの様にあなたは保護されます」的な言説や「信仰は良いものだから、絶対に受け取ってもらいたい。何が何でも受け取るべきだ」という押し売りまがいの言説、あるいは最近のうるさい賃貸用マンションの販売業者のような言説が、時にあるのではないか、と思うのですね。聖書のいう救いとは、そういうものではない、と思うのです。

                  最後になりますが、親の観点から、こどもの教会生活と親の苦しみ、ということを触れておきたいと思います。具体例から導かれた抽象化したお話として。こどもが教会に行かなくなった親、というのはそれはそれで、教会の人から冷たい目で見られたり、クリスチャンホームの失敗者だと言われたりするわけです。それが、未信者と結婚したりしようものなら、陪餐停止、ひどい場合は追放されることともないとは限りません。それこそ、霊的な、そして精神的な石打ちの刑状態となるのです。それこそ、「悪魔の手に落ち」、だとか「信仰の破船にあった」とか、神ならぬ人間であるにもかかわらず、神であるかのごときご発言をされる方々の言説や陰口を聞かなければならない親の立場は親の立場で非常につらいものなんですけれども。

                   役員なんかしていた日には、役員の子供なのに教会に来ないなんて、と批判を浴びることになるでしょうし、役員の親が子供の成長のためとはいえ、他の教会に出した日には、状況が分からない信者さんからは、「自分の教会がつまらないからだした」というようなお小言ならまだしも、破壊的な陰口を頂戴するかもしれません。

                   となると、もう、それは親の覚悟と根性が問われる世界となります。誰かに何か言われても、気にしないだけの根性と覚悟が必要なのですが、それに耐えられるだけの人は少ないと思います。ということを考えると、なかなかこのことに踏み切れないだろうなぁ、と思います。

                   最後に、キリスト者の親子関係の確執について、ジム・ウォリスという私どもの集団から飛び出して、ソジャーナーズという独自の動きを始めた方の親子関係の葛藤について終末を生きる神の民というタイトルの本の最終章で、後藤敏夫さんが書いておられますが、世代を取り巻く文化の違いをどう考えるのか、という際には、この最後の章の記述なんかも参考になるかもしれない、と思います。

                  あー、まただらだら書いてしまった。貴重なコメントをくださったCaledonia様にお礼を申し上げるとともに、ここまで辛抱強く駄文にお付き合いいただいた、皆さまに感謝いたします。ありがとうございました。

                   

                   

                   

                   

                  Calendar
                    12345
                  6789101112
                  13141516171819
                  20212223242526
                  27282930   
                  << November 2011 >>
                  ブクログ
                  G
                  Selected Entries
                  Categories
                  Archives
                  Recent Comment
                  Links
                  Profile
                  Search this site.
                  Others
                  Mobile
                  qrcode
                  Powered by
                  30days Album
                  無料ブログ作成サービス JUGEM