2011.07.02 Saturday

信仰の自立に必要な霊的な交わり

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     ここのところ、信仰の自立、自ら積極的に神と関与し、人と関与しながら、神と聖書を通して直接向き合うことの問題を、ああでもない、こうでもない、と考えている。もちろん、自分たちの子供の信仰の自立が、割と大きな問題意識の出発点になっているのですけれども。

    よく拝読させていただいている、小さないのちを守る会のブログの「ブツブツ・ベッタリ・クリスチャン」も、このような問題意識が教会の中で起きている現象をとらえながら書かれたものであると拝見しました。

    ただ、聖書を読んで、千日回峰行の修行のように一人で神と出会いその信仰を極めていくのではなく(特殊ケースとして、荒野で神に出会い、神との関係を深めることがあるとは思いますが)、一般的には、様々な信者と共に過ごし、その中での霊的交流あるいは人格的交流を通して信仰を成長させていくものだと思います。今年の春号の牧会ジャーナルの記事は、若年層の信者の自立したクリスチャンとしての成長にとって、ラポール(相互信頼)が重要であるという視点からの記事であったが、人格的交流や霊的交流は、このラポールと呼ばれる相互信頼と密接に関係するのではないだろうか。

     もちろん、このラポールは、責任者にとって、あるいは牧会者にとって、重要もなことでもあるように思うが、信頼、ということを考えると、相互的な関係性の中にあって生まれることでもあるので、牧会者や責任者の側だけでなく、信者側からの働きかけ、あるいは同年代の信者同士の働きかけ、ということが意外と重要なのではないか、と思う。

     人が一人でいるのは良くない、として、アダムにエバを与えたもうたのが神であることを考えると、このコミュニティの中にあって、ともに成長していく信仰、という問題は、意外と重要な意味を持つのかもしれない。

     自分で納得している思いがあるわけではないので、まだ、しばらくこのことを考えてみたいと思っている。




    2011.07.05 Tuesday

    What would Jesus buy ? 前編を見た

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       ローカルのケーブルテレビ局の配信局が、テレビ東京から放映権を買ったらしく、「松島×町山 未公開映画を見るテレビ」という番組を放送していた。たまたま、番組表をみていたら、Jesusという文字が目にとまったから、見たにすぎないのだが。なるほど、これが、あのJesus Campを紹介した番組とは、これだったか、ということがわかった。それとこの番組を見ながら、何かがおかしいのだが、何がおかしいのだろうか、ということをボーっと考えていた。

       WHAT WOULD JESUS BUY?「邦題 イエスのショッピング」

      これは、完全に

      What would Jesus do?「イエスならどうしたであろうか」ということを意識させるキリスト者世界での一種のスローガンのパクリである。また、この番組のタイトルや字幕が、完全にディズニーが愛用するフォントに似たフォントが流用されており、完全にあてこすりをしている感じがあった。

       このドキュメンタリーを見ながら、少しまた考えた。このドキュメンタリーで取り上げているのは、おそらくマスコミ的な観点からは、福音派とラベルが貼られる信仰者群とみられる教会の牧師の「奇矯」に見える行動である。その奇矯なというか過激な行動を取り上げたドキュメンタリー映画である。過激な行動だからこそ、映画に取り上げられたり、マスコミに取り上げられたりするのだろう。

       ところで、ドキュメンタリーを紹介するための日本人にとっての面白さは、牧師が反クリスマス活動をしている、ということなのだろう。

       日本人にとって、クリスマスは、キリスト教のものであり、そのクリスマス自体に反対する牧師がいるのが、ちょっとおかしいかなぁ、ということなのであろう。

       この牧師が反対しているのは、クリスマスそのものではなく、商業化されてしまった、手あかでべたべたされてしまった現在のアメリカという国家におけるクリスマスのあり方なのである。

       番組の中で、解説していた町山さんという方がアメリカの消費社会の現状をクリスマス商戦の異常さ、という点で少し紹介していた。確かに、感謝祭が終わった後のアメリカ社会の異常さは、おかしいとは思う。毎年のように数名の死者が、安い商品の獲得を目指した結果起きるのである。アメリカのクリスマス商戦のおかしさを指摘した映画はほかにいくらでもある。39丁目の奇跡(新しいほう)やジングル・オール・ザ・ウェイなどを見れば、そのおかしさは指摘されているとおりである。そういえば、「今をいきる」Dead Poet Societyの登場人物が、毎年、実の親がデスクセットをそれも同じものを送ってくるのだ、こんなものはつまらん、といって学生寮の屋根から投げ飛ばすシーンがある。アメリカの商業化したクリスマスは、大ジャンク交換会の様相を示している。まあ、似たようなことは、指輪物語でもトールキンが暗に批判している(第1巻の最初の方)。

       このドキュメンタリーにでてくるビリー牧師とそのグループの主張は、消費文化に色塗られ、本来のクリスマスとは別物になった過剰消費を発生させるクリスマス反対、そのクリスマスにむけてジャンクを買うため、1年間の年収の半分以上支払い続けるような現在のアメリカ社会におけるクレジット文化反対、という現代アメリカ社会の矛盾にキリスト者の視点から反対するということだとおもう。その意味で、クリスマスの本義への原点回帰をしましょう、という主張を、このグループはお持ちのようである。それ自体に異議はない。また、クリスマス自体の贈り物を大量に供給するため、中国や東南アジアの貧しい人が労働を介して掠め取ら、アメリカでは、クレジット利用により、貧しい人がクレジットという形で借金を結果的には背負わされ、それによる金融市場においてかすめ取られていることの矛盾をついている。

       これらの主張から考えれば、キリスト者左派といってよいであろうが、信仰の主張やそのプレゼンテーションプレ先手―書ん方法は、テレビ伝道者的というのか、こじんまりしたメガチャーチ風で、いわゆるメディアがレッテルを貼るところの福音派に近いようにおもった。

       彼らが主張しているテーマは、日本では社会派とよばれるキリスト者集団の論理との親和性が高いテーマであり、社会的弱者や資本主義社会の中に内在する貧しさの問題をどう信仰生活の中で位置づけるのか、という視点だと思う。

       誤解を恐れないでわかりやすく言えば、「キリスト教界のマイケル・ムーア」といえば、わかりやすいかもしれない。手法的には、完全にマイケル・ムーアである。突然、アポなしでWalMartやスターバックスなどに行ってしまって混乱を起こすような行動するあたりは、完全にマイケル・ムーアの乗りである。したがって、治安紊乱とか、不法侵入などの罪で、逮捕もされているようである。

       彼らの批判的視点は、主張としては重要な視点を含んでおり、確かになるほど、という部分があったのだが、いくつか違和感があったことである。まず、筆者の素朴な視点として、彼らの行動の全体がパフォーマンス過剰であり、パフォーマンスを重視する、というところである。

       信仰の結果のパフォーマンス、という理解もできなくはないが、パフォーマンスそのものが目的化している部分も無きにしも非ず、である。

       WHAT WOULD JESUS BUY?「邦題 イエスのショッピング」の前編を見る限りで、もう一つ違和感があったのは、彼らはもともと、古いバスに乗り、バイオディーゼルを使っていたのだが、途中であまりの気温の低さに凍結してしまい、結局化石燃料系のディーゼルを使っていたときのシーンである。石油精製したディーゼル燃料を入れながら、「こんな燃料を使って、神に対して申し訳なく思う」的な祈りが取り上げられていた。私には、なぜ、「バイオディーゼル燃料なら良くて、石油由来のディーゼル燃料は問題なのか?それは罪なのか?」ということは疑問のまま残った。

       一番の違和感は、クレジットカードに対する悪魔払い、という概念である。確かにイエスは、神殿で大激怒して、商人の商品であるいけにえ用の動物を勝手に話したり、両替商(今の銀行)の机をひっくり返したり、「神の家を強盗の巣にしている」と批判することはしているが、「悪魔」とは両替商や商人たちをいっていない、ように思うんですが。クレジットカードの悪魔祓いって、パフォーマンスとしては面白いかもしれないが、その聖書的根拠がなぁ、ということは思った。とはいえ、彼らは何らかの根拠を持っているのだろうと思うが。

       まぁ、ほかにもいくつか、何でなんだろう、と思うことはあったのですが。

       マスメディアへの露出を重視という観点からすれば、パフォーマンスをして注意を浴びるというスタイルそのものが、消費文明的であり、批判対象にしている人たちとの類似性、差別化が図れていないのではないか、という疑問はさておき、一番、この映画を見ながら気になったのは、クリスマス商戦する側も、ビリー牧師の関係者のクリスマス商戦を批判する側も、そもそも出発点はそう間違っていないように見えるのに、結果としては、かなりおかしい結果になっていることである。

       クリスマス商戦をする側の論理は、こうだと思う。

       クリスマスは、イエスが地上に来られたこと(その日が12月の特定の日ではないとはおもうが)を記念し、贈り物をすることで愛出会いを表現するのを手伝うのだ。その消費者の支援をすることで、利益を得るために、クリスマス商戦をする。

       しかし、その結果、人々の目的はクリスマス商戦が目的になってしまい、死者までがでる騒ぎになる。


       クリスマス商戦に反対する側の論理はこうだと思う。

       クリスマス商戦をすることで、地上にごみを増やし、神が与えた地上をごみで充満させている。このような地上にゴミをまき散らし、人々をクレジット地獄に陥れるようなクリスマス商戦(とクレジット依存社会)は、神のご意思に反しているはずだから、クリスマス商戦とクレジット社会に反対する。

       この論理には、確かに一見筋が通っているようであるが、いくつか問題があるように思う。確かに、人々を不幸に陥れる構造を批判するというその出発点は間違っていないとは思うのであるが、論理の補強材料としてとはいえ、その論理が神が創造された地上にゴミを増やすから、よろしくない、といった理由はどうかなぁ、と思った。どこか自分たちの論理であるものが、神の視点を勝手に持ち出したような印象があるのと、そのグループの聖書理解が神の意思を代弁しているかのような印象を与えること、そのグループの論理であるはずのものが神の論理のようなものにすり替わっている、という危うさである。

       これを見ながら思ったことは、神のことばに対する恐れ、神に対する恐れ、である。自分自身、このような危うい論理を持っていたように思う。だからこそ、神のことばに対する恐れと、神ご自身に対する恐れ、ということが必要なのだ、とも感じた。

       そして、出発点はいずれもそう間違ってはいないのに、結果としては、おかしげな結果になっているというこの悲劇である。クリスマスの商業化に反対するほうも、クリスマスの商業化を進めるほうも、そう間違ってはいないのに、結果として問題を内包してしまう。批判意識に基づくパフォーマンスも重要かもしれないが、それは深い内省、そして自己批判の方が重要かもしれない、と思ったりした。蛇の様に聡くあるということは、神の前の恐れを持った深い内省ができることなのかもしれない、と最近は少し思う。
      2011.07.12 Tuesday

      What Jesus Would Buy? 後編を見た

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         先日紹介したWhat Jesus Would Buy?という消費文化に反対するビリー牧師がリーダーを務めるキリスト信者の集団に関するドキュメンタリー映画の後編を見た。

         前編の紹介でも少しふれたが、彼らの主張だけを純粋に取り出すと「商業化された、偽善に満ちた贈り物文化に毒されて本来の姿を失ったクリスマスに反対し、本来のクリスマスの姿に戻れ」ということになる。この主張は、それはそれで正しい。ただ、ディズニーランドに行ってメインストリートUSA(ゲート前のショッピングモール)でパレードの前にクワイヤーを引き連れながら、説教してみたり、ディズニーランドのメインストリートUSAの前で、現実の地域の中で、この古き良きアメリカのようなものはどんどん衰退しており、このメインストリートUSAはその古き良きアメリカの小さな町の商店街の粗悪な偽物になっているといった、批判的な言動をしたり、そこにあるぬいぐるみや商品などを悪魔払いしてみたり、ウォールマートの看板に向かって悪魔払いと称して、祈ってみたり、ということは、私の信仰スタイルとは調和しないのであるが。ただ、ウォールマート進出のあおりをくらって、見る影もなくなってしまった商店街の紳士服店で、アメリカ製のセーターを買っている、ということには、なるほどねぇ、と思ってしまった。消費を通した政治的発言の形を見たように思った。アメリカ人は、2項対立で激論を交わし、結論の出ない問題も言い合いするのも好きだがこういう実際の行動が伴うことが大好きというところもあるように思う。

         この番組の観るべきところ、そして、この番組の制作者が言いたかったことは、ビリー牧師の発言や奇矯な行動そのものではなく、ウォールマートやKマート、その他の大規模流通資本による比較優位原理に基づく労働格差と労働に対する搾取の問題をどう考えるのか、という問題である。アメリカ人が格安で商品を購入することは、結果として、海外の低賃金労働が供給できる国の労働者の仕事の提供につながる半面、結果として低賃金の国の労働者の搾取につながっている、ということである。それは、キリスト者とそして、クリスマスの精神と一致するのか、という非常に重要な疑問である。私は、Excellent Question!だと思う。この問題、キリスト者が社会とどうかかわるのか、消費ということを通して、どのようにかかわるのか、そして、環境の問題、発展途上国の問題とどうかかわるのか、ということに関する起点となる、という意味では、重要な視点を与えるドキュメンタリー映像だと思う。その意味で、消費文化が支配する社会の中で、キリスト者がどのように選択していくのか、というわれわれの世界観が問われる、そのことを無批判に考えなくてよいのか、ということを、少しひずんだ形で指摘したのが、ビリー牧師の主張なのだと思う。その意味で、キリスト者として消費をすることにより、どのように世界の問題とかかわっていくのか、イマージェントのグループの人たちとの関心と重なる部分があるように思った。

         この番組を見ていると、なんと、 ジム・ウォリスさん(ソジャーナーズの代表者)が登場していた。ほぉ、こういう語り口の人だったんだ、と改めてなるほど、と思った。彼は、既存のキリスト集会と呼ばれる信者群の考え方への疑念から、そのグループを離れ、独自に運動を始めていった人物である。その意味で、ビリー牧師との関係でいえば、視線の類似性の高いジム・ウォリスさんを出すのは、このあたりの世界観を割と初期の段階で提起していた人物として、適切な選択なのだろうと思った。

         この問題を考えるときに、世界と自分を切り離して対立の関係で考えるのか、世界の中で生きるのか、世界と同期をとりながら考えるのか、どのように生きるのか、という問題意識が問われているのだろうなぁ、と思う。まだ、自分自身、確固たる答えが出ているわけではないが。価値観の多様化の中で、行動を通しての信仰や聖書理解の表明につながるとき、どのように行動するのか、という簡単に解決できそうもない問題を改めて考えた。答えのないまま、この問題を反省(哲学的反省)の意味でしばらく、考え続けてみよう。
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