2011.06.07 Tuesday

赦しますが、忘れません。を考えて

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      時々読ませていただいている山崎さんのブログ「からしだね」にシンガポールでの滞在記(Singapore その2)があった。そのなかで、「赦しますが、忘れません。」というアジア諸国の人たちが日本という国に対してむけて発せられた言葉があることが書かれていた。

     「赦しますが、忘れません。」非常に大事なことではないか、と思う。

    よく言われることであるが、「足を踏んだほうは、その痛みを忘れるが、足を踏まれたほうは、その痛みを忘れない。」のである。われわれという国は、他国に土足で乗り込み、勝手に戦争というものをしてきた国家と見られている、ということを忘れてはいけない。それだけではない。個人の名前を勝手に変え、別言語でながらく生活を行ってきた人々に、日本語を使用することを強要し、強制し、学校教育、というよりは公教育の名を借りて、これらのことを行っていったのである。考えて見られよ。明日から、公用語が古典ギリシア語になったり、古ヘブライ語になったり、そうでなくても、英語になったり、エスペラント語になった世界を。たまらない。

     もちろん、こういうことをしていったのは、日本の軍事政権だけではない。インドでは、大英帝国支配の下、英語が強制されていったし、南アフリカでも、同様である。オーストラリアでは、アボリジニに対して同様なことが起きているし、スペイン支配下の南米や、ポルトガル支配下のブラジルでも、同様なことが起きている。アフリカ諸国だって、ルワンダなどでも起きている。その意味で割りとよく起こることではあるが、だからといって、日本という国家国歌が大日本帝国であったころ、他の周辺諸国にしたことを正当化はできないと思う。現代に生きる日本人は、そのことを忘れていることが多いが。しかし、踏まれたほうは、忘れない。踏んだほうは、痛みがないので忘れやすいのであるが。

     私自身、ワシントンの片田舎の大学で修士課程の交換教員をしていたとき、たまたま同僚になった韓国勧告系の女性教員がおられて、その方から、日韓関係をどう考えるのか、と突っ込まれ、しどろもどろになってしまったことがあるになる。というよりは、韓国併合問題についての韓国の方の鬱積を直接聞かされたような気がした。この人たちの痛みはすごかったのだ(それがたとえ教え込まれたものであれ)、ということが良くわかった。

     踏んだほうが他人を踏んでしまった事実を忘れやすい、というようなことは、教会の中でも起きる可能性がある。牧師の不祥事という問題であったり、単独教会とその単独教会の包括団体との関係であったりするかもしれない。踏んだほうは、「謝ったんだからいいじゃないか」と思うし、キリストは「あなたの敵を赦せ」といっているくらいなんだから、「赦したらいいじゃないか」というだろう。それは、そのとおりかもしれない。しかし、キリストは「あなたの敵がした悪事を忘れよ」とか「なぜ、そうなったのかを含めて、忘れよ(つまり水に流せ)」と言っていないような気がする。怒ることは聖書的ではない、とも言っていないような気がする。でなければ、神殿で商人たちのテーブルをひっくり返し、商人たちのものでありその後神殿でささげられる運命の生き物を逃がしてしまい、「あなたたちは、神の家を強盗の巣にしている」に近いことをいったイエスの姿は理解できない。たぶん、私の聖書理解や、言語感覚がおかしいからそう思うだけなのだろう。イエスは、公正を実現するために、一種の暴力行為に出ている。だからこそ、祭司長や律法学者からは眉をひそめられたのだろうが、誰から、眉をひそめられようと、それをしなければならないときには、断固として是正しようとしている姿とも受け取れる。それは、社会的公正が当時のユダヤ社会の中で失われていたからではないだろうか。

     最近考えている問題は、「赦す」ということの問題と、「正義(公正)の実現」の問題をどう考えるかに関する部分だろうと思う。「赦す」ということは、なんらかの人間的世界における「公正(justice)の実現」を図るための「被害の補償」があって、初めて可能なことであって、それが実現しない中で、「赦す」ということは難しいのではないか、と思う。つまり、人間には、回復不能な(非可塑的)部分(たとえば、名誉とか信用とか、あるいは肉体的な機能)と、回復可能な(可塑的)部分があって、回復不可能な部分(とはいえ、ある程度回復が可能なこともあるのだが)に対する損害が発生した場合には、個人の罪の問題として、赦せないことがあるのはわかる。不完全な形であっても、被害者たちへの被害は補償されるべきであると思う。この社会的公正の感覚が欠如しやすい構造的な問題が日本のキリスト教会には存在するように思うのである。信仰、あるいは宗教という独自の論理的構造があって、社会的公正と違う論理の世界が存在し、それは、社会的公正から追及されえない、と考えてしまう思考法なのかもしれない。

     「忘れない」ということは、おそらく、そのことを認識し、深く受け止める、ということと関係しているのだと思う。つまり、なぜ、そういうことがおきたのか、それを深く受け止め、心をめぐらし、思いをめぐらし、考える、あるいは思う、という行為なのだろうなぁ、と思う。思わず、湯川先生から教わった「哲学的反省」という言葉を思い返してしまった。

     まずかったなぁ、と思う一過性の反省ではなく、なぜ、そうなってしまったのか、ということを含めて考える反省である。それも、一過性の反省ではなく、繰り返し、さまざまな状況や時代に照らして、なぜ、そうなったか、について、構造的な何か、があるのではないか、ということを含め、考える、ということが、哲学的反省や哲学的思考なのではないかなぁ、と思う。そして、これは、常々する必要があるかどうかは別として、このような反省をときに触れ、折に触れする必要があるのだろうと思う。それが、忘れない、ということだろうと思う。

     常に、そのことを考え続けることや、哲学的反省し続けることは、その種のことを仕事にしている人(たいていは歴史学者かなぁ)のみにしかできないだろうが、一般人は、その問題が切り口になっていく瞬間(尖閣問題や、竹島(独島)問題など、あるいは北朝鮮帰還者の問題、北朝鮮拉致問題などや、韓国旅行に行くとき、そして、韓流の現代ドラマを見るとき)にでも考えることが重要なのかもしれない。少女時代などの韓流スターの姿を見るときにも。特に、彼女たちや韓流スターが日本語でしゃべるのを見るときに、彼らがどのように思うのか、ということも考えることも重要かもしれない。さらに、外国人扱いされる在日という背景を背負っている芸能人たちの姿を見るたびにも日本と韓国の両国の間にある忘れてくれてはいない問題を、われわれも哲学的反省をしてみる必要があるように思うのだが。

     そして、彼ら韓流スターに与えられてきた日韓交流あるいは韓日交流関係の歴史(それがいかに偏った表現となっているものであっても)を少し考えてみて、彼らの考え方や思いに少し、思いをはせてみることが忘れない、ということのきっかけになるのではないかなぁ。

     教会の話に戻れば、問題が起きそうなときに、おきかけるかなぁ、と思うときに過去の多くの歴史、必ずしも教会だけとは限らず、さまざまな社会の中で起きたことを考え、人がどのように行動するだろうかを考えながら、こうなるとまずいことになるかも、という場合に哲学的反省をしてみることは重要かもしれない。言い換えると、重要な局面について大胆に捨象した社会モデルを使いながら、どのようなことが起きるかについて、予防的な哲学的反省をしてみる必要があるのではないか、と思う。その上で、それぞれの教会にとって、正義とは言えないけれども、公正な判断とはどのようなものか、ということをそれぞれ一人ひとりの信者が考え、おかしいと思ったら声を上げてみることや、その責任者との対話を始めてみることが一番大事なのではないか、と思う。
     
     そんなことを、山崎さんのブログと松ちゃんの教室ブログ記事(正確にはツイッター)の記事を読みながら、考えた。
     
    2011.06.12 Sunday

    続 赦すことと忘れること 

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      第1コリントの13章に、次のような言葉がある。

      愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。

       これがイエス・キリストの性質だ、ということを教会で今日お話ししてくださった方がおられたが、必ずしも、こうはいえないように思う。イエス・キリストは、義憤であったとはいえ、怒ったし、当時の人から言えば、礼儀に反することはしたようである。何せ、大酒のみの食いしん坊といわれたからである。あてこすり、という側面があるとはいえ、実体として、礼儀に反することもあったように思う。

       そのお話を聞きながら、『愛』という日本語の問題を考えた。『愛』というと、人間に対する愛ということを我々は考えるように思う。しかし、どうも、聖書の中の『愛』は、人間に対するものだけを指していないように思う。そして、自分が『愛』されることを暗黙に想定しがちであるが、そのようなものであるだろうか。

       もう少し、ここでいう『愛』をもう少し詳しく考えてみる必要があるかもしれない。というのは、キリストは『愛』を説いた、だから、『愛』の一環として許すべきだ、「愛は、怒らず、人のした悪を思わず」だから、「愛を説く聖書を信じる人々は、悪を忘れるべきだ」ということをいう人々もいるかもしれない。しかし、怒らず、という意味はどういう意味だろうか。悪を思わず、という意味はどういう意味だろうか。この聖書のことばの理解が十分でないと、「何でも許さなければならない」境界線のない状態になってしまう。

       この部分の聖書理解が十分でない聖書全体の主張とは少し違う『福音』が語られることになるのではないだろうか。そこのところを十分に伝えきれていないところや、誤解をそのままにしているところが、日本のキリスト教のまずいところなのかもしれない。

       家内がどこかで読んだ話として、こんなことを言っていた。面白かったので紹介したい。

      恋は不寛容であり、恋は第3者に不親切になります。また人をねたむ原因になります。恋は自慢するし、高慢にさせます。礼儀に反することも気にならず、自分の利益だけを求め、怒り、人(恋敵)のした悪を思い、不正でも喜び、曲がった認識を喜びます。すべてをがまんができなくなり、すべてが信じられなくなり、すべてが期待できなくなり、耐え忍ぶことができなくなります。恋はすぐ絶えてしまいます。
      まぁ、恋というのは、はたから見ると、かっこ悪いものなのかもしれません。愛と恋を間違いやすい日本社会だからこそ、愛と恋を厳密に考えない中で進みやすいだけに、日本では、愛と恋についての勘違いから不幸なことが起きるのかもしれません。

       その意味で、聖書の言う「愛」とは何か、ということを考える(哲学的反省をする)ことは重要なのかもしれません。

       「愛」とは何か。重要なテーマだと思うんですがねぇ。
      2011.06.14 Tuesday

      真理とは何か?

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         『真理』とは何だろう。

        これも『愛』同様かなり幅の広い言葉であり、話す人と受け取り手によって、それが意味するところがかなり変わりかねないことばである。

         聖書には、「真理」があり、「真理」を聖書に見つけることができる、とキリスト者としては語ることが多い。しかし、キリスト者の側で、神が「真理」であり、神にこそ「真理」があるということを語ったとき、神は、全てのものの創造者であり、支配者であり、我々が価値を置くことができる永遠に存在する存在であり、全てのものの基準とすべきものである、という意味であるが、必ずしも、そのことがその通り、受け取り手に伝わっているとは限らない。このことについての受け取り手の側の解釈として、「(一般名称としての)神には、何らかの価値(現実的な利益や、倫理的な価値基準)があり、(一般名称としての)神にこそ、何らかの価値あるもの(現実的な利益や倫理的な価値基準)を見つけることができる」という解釈になっている可能性があるのではないか、ということを最近考えている。

         つまり、延々と間違った伝言ゲームをしている可能性があるのではないか、というのが最近私の考える素朴な疑問である。これを埋めるためには、神や聖書に心理がある、というだけでなく、それをもう少し詳細に検討して、普通の人が聞いて分かる表現にしないと、現代における真理が相対化する社会環境下、あるいは多様な真理が並立すると考えられる環境下での伝道活動は難しいのではないか、と思うのである。そのことを伝えるには、時間がかかる。しかし、愚直に「真理」とは何かを考え、それを分かる形で提示する努力をしないといけないのではないか、と思うのである。

         わがキリスト者集団では、福音集会と称する伝道する時間で、「聖書にこそ、真理がある。神にこそ真理がある」ということだけを割と迫力ある形で主張し、その詳細について言及せず終わってしまう部分があるように思う。高校生相手ならば、これで通用するだろうけれども、大人相手では厳しいのではないか、と思う。結果だけ言って、プロセスや、その背景をあまり語らないのは、どうかなぁ、と思う。現実社会との中で生きている人が神と関係を持つための接点として、意味あることを語らなくていいのかなぁ、と思う。まぁ、それがユダヤ問題となりやすいのが、わがキリスト者集団の特徴でもあるのだが。

         まぁ、それは、聖書を一人一人が読んでわかればいい、というのが、我々のキリスト者集団の暗黙の前提なんでしょうけれども、本当にそれでいいのかなぁ、と思う。

         さて、今度の日曜日、『罪』の問題に関しての第1回目を語ろうと思う。さて、これをどう提示しようか、それを今どうしようか、考えている。

        2011.06.20 Monday

        罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ

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           ここのところ、聖書で言う罪の問題をまじめに考えていて、結局行き着いた結論が、聖書で言う「罪」とは「その人の人生の中にすべてのものの創造者であり、聖書を通して私たちに語りかけようとする人格的存在である神の存在がないこと、その存在が見られないこと」ではないか?という結論にとりあえず今の段階で達したので、そのことを、個人の具体的事例から述べるのではなく、ヨハネの7章全体を読んだ上でイエスと盲人、その周りにいた弟子やほかの人々とパリサイ人との対話のなかから、肉眼において見えること、肉眼において見えないこと、神の目から見て見えること、神を見ていることについて、聖書の言う「罪」との関連でお話した。

           その後、教会内で他の方とのお話し合いをしていたので、私と一緒に帰るのを待っていた家内とある信者さんとが話をしていたらしい。そのとき、その信者さんは、私が以前「クリスチャンホーム2世」は「どうしても、生活すべての中に神の存在は、無意識的に意識しているため、聖書が言っているような『罪』の認識の理解に苦しむことがあること、さらに、クリスチャンホーム2世にとって、神の存在は当たり前のことであり、疑うことすらしたことがない可能性があること、その結果、いつ信じたという日時特定があまりに茫漠としてできないこと(信じる決意の原因がどうであれ、信じようか、と思った年頃などは特定できるが、いつから信じていますか?という質問は、回答に本当は困ること)」といったことを話していたなどを覚えていたらしく、その話をしていた、という。「○○年△月○日に私は信じました」ということは私にはいえない(ただし、信じる決心をした日というよりか、バプテスマを受けようかと思った日は、明確)。そんなことを思ったときでも、人前でそういうことを言える人はえらいなぁ、いいなぁ、と思っていたのである。とはいっても、今、「そんなことを言える人はいいなぁ」と私が思った人たちは、私の関連するキリスト者集団の中にいなかったりするのであるが。

           誰かに、「バプテスマを受けたら」といわれて、そうしてみようか、と軽く思ったのが、私の信仰生活の出発点だったりするいい加減な信者であるから、そうなのかもしれないのであるのであるが。個人的には、そういうある面で自由さ、というのかおおらかさを持った信者さんのほうが、好感が持てたりするんですね。私自身、ギラギラと脂ぎった信仰者ではないので。

           ところで、いつも読ませていただいている、小さないのちを守る会ブログに、キリスト者家庭における別教会問題が連載されている。親子関係で、同じ教会に行きながらも、信仰に対する意識をめぐるギャップがあると、「厳しいだろうなぁ」と思う。実際に「厳しい」と個人的に何回も思った。親や教会の年長の信者の方からは、「お前は、いつ信じたのか?信じたら、そのことがわかるはずだから、いつかを言いなさい」などというが、そんなものは、わからないのである。子供のころから、神の話を聞かされて育ち、それだけしか見ることが良いとされたクリスチャンホームの子供にとっては、「それがいいというから、ご飯を食べるようにそのことを素直に受け入れてきただけ」なのに、何でこんなややこしいことを言われるのだろうか、と思うことがあるようである。自分自身を振り返ってみても。

           非キリスト者家庭に育った人は、そもそも、自分で選択的にかつ意識的に、そして意図的に神といきることを選んだ、ということがあるので、聖書の中での『罪』がわかったことや、自分が、聖書の言う『罪人(神とともに歩んでいない人)』であることがわかったこと、神に救いがあるという概念がわかったときは、衝撃的な印象を持つのであろうが、そもそも「神がともにいる」といわれ続け、それを正直に、ただ当たり前に受け止めていたキリスト者家庭の2世の少なからぬ部分は、「そんなの当たり前だし、それ以外選択肢を考えもしなかった」というのが実情ではないだろうか。当たり前すぎて、そのことのすごさがわからないのである。

           このことを考えることために、外国に行ったときのことを考えてみればよい。海外に行って(ツアーでもなく、添乗員もなく)初めて、日本語が通じるありがたさを、われわれは感じるのではないだろうか。あるいは、海外に出たとき、日本の清涼飲料水の自動販売機や宅配便の確実さのことを考えてみればよい。いつでも、どこでも、コインさえ入れれば、確実に押した商品が出てくる、非常にすばらしい自動販売機はおそらく日本にしかない。アメリカで、自販機に何回25セント貨(クォータ)を持っていかれたことか。この日本という細長い国土で、ほぼ24時間以内に物品をほぼ問題なく届けてくれる。海外の物流業者の手にかかると、物がなくなる、出てこない、そんなものは受け付けていないといった半年後に突如届く、なんてことがざらな海外の物流サービスを当たり前として暮らしていると、日本では、郵便局ですら、荷物のトラッキングをさせてくれる。日本は、基本的に親切すぎるぐらい親切な国(おせっかいな国)なのである。ある時、アメリカの郵便局にいって電話したいので両替を頼んだら、「銀行にいけ」といわれて、しょうがない、切手を買ったが、その時、郵便局が金融サービスをしてないなんて、とショックを受けた。自分が当然と思っていたことが当然でないことに、自国を出てみて、初めて気づき、愕然とするのである。それ以来、海外赴任者のために、いくつかの国の電話をかけるための硬貨をプレゼントできるよう、持ち帰っている。最近は、コーリングカードやクレジットカードがあれば通話できるので、あまりいらなくなっているが。

           ところで、キリスト者家庭に育つ、あるいはキリスト教会内で幼少年期、青年期を過ごすということは、ある面、非常に優れた状態(ただし、それは快適な温室状態である可能性がある)に置かれている状態であり、そのことにその家庭で育ったものは、それがどれだけすごいことなのかに気づかないのである。大学や企業などでキリスト教会や学校以外の社会の違う側面を見て、あまりにその違いに触れ、ショックを受けることもあるかもしれない。それが、ある面で言うと、その個人の信仰の立脚点、自分自身の信仰の見直しをする点になるのではないだろうか。

           ところで、どのキリスト者グループ(教派)であれ、特定の方法論や、考え方、行動パターンが見られる。それがなければ、特定のキリスト者グループである意味はない。聖公会には、聖公会の特徴があり、組合教会系の教会には、組合教会系の教会の特徴やその信者さんの特徴もある。改革長老派には、改革長老派の特徴があり、バプティストには、バプティストの特徴がある。カトリック、正教会であっても、グループごとに微妙な違いがあるように感じる。もちろん、そのグループの中でも、それぞれの教会の内部のキリスト者集団において歴史的プロセスの中で形成されてきた固有の習慣や行動パターンというものがあるように思う。その集団しか知らなければ(それはそれで幸せな生き方ではあるが)、それらの行動パターンについて、世の中のキリスト教会がすべてがそのようなものであると誤解する信者家庭の子供が増えてしまうのではないか。

           多様なキリスト者集団があり、それぞれ、独特なパターンがあるという認識を持つため、そして、自らの信仰の姿を見直すという意味で、信仰者の短期及び長期留学制度としての、親子での別教会という選択は、一つの考え方ではないか、と思う。もし、子供がそのことを望むのであれば、親としては、教会内での立場があったとしても、結果としての信仰の幅、人間としての幅をつける機会として、信仰者の短期留学制度としての別教会というのはあってよいと思う。いずれ、子供は独立する時期がくるのである。そのための親の練習としても、そのような機会はあってよいのではないか、と思う。自派だけが『正しい』キリスト教だ、という思い込みがどこかキリスト教会に集まる人々の中にないだろうか。あるいは、自派が正しいことだ、と思い込んでいることに対する反省をさせるためにも、他の教会という環境にあえて触れさせてみることも、キリスト者教育だと思うのですけれども。

           特定教会での囲い込みによる英才教育というのは、お受験に似て、どこかひずんでいるように思う。ほかのことを知らない信者育成プログラムであり、その教会の中でしか通用しない大リーグボールを投げることのできる人材の育成プログラム、あるいは特定集団の中だけで通用する大リーグボール養成ギプスを子供に課している可能性があるのではないだろうか。とすれば、まるで、星一徹君である。本人(星飛馬君・即ちキリスト者の第2世代)が判断力がある中で、それでもさらに望んで、大リーグ養成ギプスを着けているのならそれは何もいえないかもしれないが、大リーグボールを投げれるように、重い『こんだら』(本当は、「思い込んだら」らしいがこの時の映像が、ローラとか古タイヤを使ったトレーニングシーンなので、中学生くらいまで、ローラとか古タイヤを『こんだら』と業界用語で呼ぶのだとミーちゃんはーちゃんは思っていた)を引きずりながら走れるような英才教育をしてしまう。これが、どこか歪んだものをキリスト者2世に与えるのではないだろうか。それこそが、松ちゃんの教室の中で指摘されたどこかおかしくなったキリスト者2世を生み出すのではないか、と思ったりした。息が詰まって、つかれきってしまっている信者やキリスト者2世がいるのではないだろうか。あるいは、その教会や教派の裏表を余すところなく知っていることを道具的に(戦略的に)利用して、他の信者を圧迫したり、不愉快な思いにさせる人々も出てくることは起こりうるだろう、と思う。普遍的にこのような事例が存在するわけではないだろうが、この種の問題を考えることは重要ではないだろうか。こんなことは、従来の品のよい教会雑誌では無理だったかもしれないが、「教会を元気にする」を標榜しておられるMinistryの編集部としては、松ちゃんさんのこの視点、大事にしてほしい。とりあえず当初予定の3年のうちの半分は過ぎたので、最後の強烈な一発、というのがあってもいいかもしれない。

           すべての教会の人には、必ずしもすすめられないが、最近見たドキュメンタリー映画の中で、ペンテコステ系のアメリカの教会での早期教育の問題を取り上げ、アメリカ宗教右派の精神性を垣間見せる『Jesus Camp』という映画があった(ツタヤでレンタルできました)。これを見ながら、考え込んでしまった。ただ、この中で福音派と製作者によってラベルが張られている信仰者グループ(実際にはペンテコステ系の人たち)が、主張しておられることの大半は、そうかもなぁ、でも、と思いつつも、基本的な理解は私の聖書理解と、そう離れているわけではないなぁ、という思いを持った。とはいえ、この映画の中で、それらの人々が発言する内容に対して、「そのような主張する上での聖書の根拠は何?」と聞きたくなるような主張(アメリカは神の国だから、罪のきよめが必要だ、とか、その他もろもろ)も同時に満載のドキュメンタリー映画であった。もともとは、A&E(Art and Entertainment)というアメリカのケーブルテレビ局の関連会社が購入したドキュメンタリー映画らしい。このチャンネルは、芸術や歴史などのドキュメンタリー物などを流してくれるので在米時代は良く見ていたチャンネルで流されたものらしい。A&Eは日本でいうと、教育テレビをもうちょっと商業的にした感じのチャンネルである。

           この映画、若干マイケル・ムーア風の視線があるが、ドキュメンタリーとしては、キリスト教の左派系のラジオホストを登場させ、キリスト教系左派(というよりは、民主党支持者)に近い人たちの主張も取り上げているが、映像の大部分は、キリスト教右派系(というよりは、共和党支持者)の人々の表現をそのまま述べさせるという形をとっている。両者の意見を並存させて、中央公論であることを保障しようとさせる工夫かもしれないが。

           まぁ、これを見て、どう思うかであるが、洗脳とはいわないまでも、このような環境の中で選択の自由もなく、それが当たり前と思い生活している人たちが少なくとも現在の社会の中で存在することことが分かる。「彼らには、選択ということそのそもない」と左派系キリスト者向けのラジオ番組のDJがつぶやいていたが、それはその通りであろう。とすれば、特定の世界観の中にどっぷりつかって、それに疑問を抱くことなく過ごし、その中で教えられたことを、(哲学的反省の視点から)批判的に考えるのではなく、頭ごなしに受け入れ、それを後付けした知識やある価値観から見た聖書の表現(それすら、特定のグループ固有の理解を反映したものである可能性が高いが)で正当化する人々も出てくるだろう。私だって、そうなっていたかもしれない。自分のキリスト者としての生育環境を考えると、かなり、その可能性は高い。だからこそ、直視するのがつらいいくつかシーンもあったが、結局は2回見た。昔は、「私もあんなことをしていたし、あそこにいた」というのが、私の正直な感想だった。

           この映画を見ながら思ったのは、クリスチャン第一世代は、自己の選択として信仰を選択していったかもしれないが、クリスチャンの第2世代は、選択の余地なく、親からの贈り物として、それを受けとる。それはそれでよいのかもしれないが、それに対する疑問を持ったとき、つまり、個人の信仰の問題として選択を迫られるとき、すなわち、個人が信仰の選択の問題と対峙する機会として過ごすとき、様々なしがらみのない教会でじっくりと考えることは大事ではないだろうか。そして、それはある面、聖書に先行事例をもとめることもできるのではないか、と思う。

           そもそも、イエスは重大な問題と取り組むとき、時に荒野に独り退いている。リトリートをしておられる。また、ヨハネ4章44節でも、イエスは、「イエスはみずからはっきり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのである。」とあるように、故郷ではあまりその存在を公にしておられない。このような観点からも、信仰継承問題と親子別教会の問題を考えることは重要かもしれない。そもそも、信仰継承問題とは、イエスがキリストあるいはメシアであるということに対する信仰の継承問題であり、自派の信仰理解の継承という狭い基準についての問題ではないはずである。キリスト者2世が、イエスはキリストであるということを認め得れば、カトリック教会に行っていようが、ギリシア正教会であろうが、プロテスタントのどのグループに行っていようが、信仰は継承されたと、ミーちゃんはーちゃんは思うのですけど、あまりにエキュメニカルすぎるかなぁ。

           そういえば、いつも楽しく拝見させていただいている大和郷の教会の小嶋先生は、3世代目だそうであるが、http://sugamo-seisen.blogspot.com/2010/08/blog-post_22.html
          この他の教会に行く、という選択について、どうお考えなのか、お考えをお伺いしたい気もします、とおねだりしてみようか、と思うミーちゃんはーちゃんなのでした。
          2011.06.28 Tuesday

          皆さん、いろいろと考える素材をありがとうございました。

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             前回の記事で、大和郷にある教会の小嶋先生におねだりしたら、非常にご丁寧が回答を小嶋先生のブログの記事としていただいきました。小嶋先生には、私の意を十分くんでくださり、ご丁寧な回答をいただき、ありがとうございました。大変参考になりました。とりわけ、先生がお若いころの教会内での取り組み、ということは、ティーネイジャーの信仰の自立環境を考えてやりたい子供と暮らしております私にとりまして、非常に参考になりました。

             また、応答していただいたものを拝読していて、一番言いたかった部分、自派の信仰スタイルに対する疑念をもつということの意味、それを相対化して考えることの部分、そして、自派の信仰スタイルの継承自体が信仰の継承ではないこと、ということに焦点を当てていただいて、ありがとうございました。

             ご指摘いただきました通り、さまざまな文化的、政治的、社会的コンテキストの違いによる世代間関係の並立(対立)ということが、教会内で問題になるでしょうし、その結果、ご指摘されていたような既存教会の枠組みではとらえにくいようなイマージェントの実態をとらえにくい共同体(ムーブメントという方が正確でしょう)が登場するようなことが起こるのかもしれません。イマージェントのような、非常に緩やかな連携としてのキリスト者集団がバーチャル環境下で登場しているのも、既存教会内では、そのような動きを内在化できないからなのかもしれない、とも思います。ただ、個人的な関心としては、イマージェントのようなキリスト者共同体が、実態としての地域に実在する教会とどのようにかかわり、どのようにその教会によって受け入れられ、地域に実在する教会をどのように変質させていくのか、ということに、ミーちゃんはーちゃんは、非常に関心をもって考えております。

             ある面で、イマージェントのような集団は、一種のゲリラ的な組織(正式な組織を作ることなく、なんとなく共通の関心でまとまっている姿が見えない共同体)であるがゆえに、既存の教会からすると不気味に見えるのだろうと思います。とはいえ、このようなイマージェントという既存の価値観とは違う人たちをどのように教会の内部に併存させていくのか、多元的な意識や価値観をもつ人々がともに存在するコミュニティとしての教会とはどのように考えるのか、そのコミュニティについて、聖書からどのように考えていくのか、考えたいなぁ、そして、さまざまな人々がともに神に向かうコミュニティとはどのようなものか、ということが、現在の私にとっての一つの課題となっています。


             小嶋先生ご自身の神学校での教育経緯と信仰スタイルの相対化をどう考えるのか、ということについて、お示しいただきまして、ありがとうございました。実は、私と家内は、自派の教会に行くのが困難な状況におかれた中で、他の信仰者共同体に短期的に滞在することで、自己の信仰スタイルを根本的に、そして、批判的に見直すことにつながりました。この短期留学ともいうべき体験がなければ、自己の信仰ということを客観的に、そして、時に批判的に考えることもなく、相対化することもなかっただろうと思います。以前、このブログにコメントをいただいたHKさんは、普通の社会人として、ほかの人たちとの交流を通して、自身の信仰を相対化客観化しておられる、とのコメントを以前頂戴いたしましたが、ミーちゃんはーちゃんのように、自派の中の方だけとのお付き合いが多い場合、どうしても、自己のキリスト者共同体固有のことと、キリストの体、と申しますかコーパスクリスティと申しますか、キリスト者世界と申しますか、広いキリスト者共同体としてのコモンが何であるのか、という問題意識にぶつかることがなかったように思います。

             コメントいただいた、YY様には、このような短期留学の経験は集会ジプシーにつながるのでは、というご意見をたまわりましたが、ご指摘のような懸念は私にも確かにございます。それは、消費文明に大きく影響を受け、選択の自由度が高まった社会環境で個人の感性に合う賛美や礼拝スタイル、自己の耳に都合のよいことだけを聞けるという非常に短絡的な理由で、参加する教会をかなり自由に選択する信仰者の登場につながることもある、という水谷先生のご指摘と同一の視点からのご懸念、と思います。また、これは米国で実際に見聞きしたことでもあります。

             ひかるさまの非公開コメントでは、ご自身の三代目、四代目のキリスト者としてのご感想をお語りいただいております。非公開をご希望なので、公開いたしておりませんが、拝見しながら、じわじわと考えております。ご指摘いただいた問題は、自主的な信仰の確立が十分に行われていないメキシコ系のカトリックの方々とのお付き合いの中で、その実情を体験いたしました。私共がおりました教会には、マルチカルチュアルの環境の社会において、ヒスパニック系カトリックの方々にイエスを直接知るという経験を伝えたいという使命を感じておられるパスターがおりましたので。

             信仰者がコミュニティの中で神と共に歩む民とともにあることで、成長するための示唆を受けることができる(それが牧師や責任者だけからとは限らない)とは、私個人は思っていますし、だからこそ、特定の教会にとどまる、ということは重要だと思うのです。もちろん、それは、小嶋先生がお書きになられた表現を用いれば、摂理的配慮を信者がどのように考えるか、とつながっていく問題だとも思います。摂理的配慮は、大事にすべきものとも思います。ただ、それも、個人的な神との関係において、どのような節理があるのか、ということを考えていくことが重要なのかなぁ、と思います。

             しかし、現実には、そのキリスト者集団の人数や年齢構成、さまざまな構成員の人的要因によって、疑問に思ったこと、なんとなく思っていることなどを個人としての信者間交流の中で直接聞けない(聞いたところで、共通理解や問題意識の共通性がないために、適切な回答が得られるとは限らない)あるいは意見交換できないことが、意外と多いのではないか、とも思います。実は、こういった意見交換の機会というのは、教会では意外と少ないのではないかなぁ、と思うのです。私にとって、現在、そんな状況におります。

             だからこそ、ネット上で、意見を投げてみて、意見交換がそれぞれの人々の関心に応じて可能であるからこそ、イマージェントのような動きがあるのではないか、と思います。そして、それを可能にするネットというインフラストラクチャーにより、その存立の可能性が一気に広がったのではないか、と思います。

             私自身、水谷先生のブログ、小嶋先生のブログ、のらくら者の日記のH先生のブログ、南の島のブログ王子こと久保木先生のブログ、松ちゃん様のブログ、YYさま、HKさま、ひかるさま、minakoさま、UgoUgoさま(順不同です。ごめんなさい)、Ministryの記事などで示されておりますご意見を拝見しながら、思うことを殴り書きすることで、なんとなく自分の教会では聞けないこと、聞いたところで深い対話ができそうにないことなど、ほかの人々からの意見を参考にしながら、自分自身の考えを相対化し、そして反省する機会として、そして、まとまらないまま反省したこと(考えたこと)を書きなぐっているように思います。そんなものにお読みいただいている方にはお付き合いいただいており、申し訳ないのですが。

             もちろん、これまでも、書籍や雑誌を読みながら、自己の考え方を抽象化してきましたが、これだと、どうしても書かれたものを読み、自分の中だけで考えてみているだけに終わってしまい、双方向性の対話という形にはなりません。そのような書籍などの場合、自分自身の問題意識とのずれがあった場合、それなりの費用も発生するし、本棚もスペースをとってしまいますし。


             私のように、神学教育を受けていないものは、今の話題、気軽な問題提起がしにくいということもあります。さらに、一信徒としてライブの話題について気軽に問題提起というのは、限られているように思います。私が、そう思い込んでいるだけかもしれませんが。

             そのようなことから、皆さんからの、ブログでの問題提起やご意見を頂けることで、私自身、考える素材をいただいており、そのことを皆さんに感謝したいと思います。

             どうも皆さん。ありがとうございます。

             また、これからも、時に触れ、折に触れ書いてまいりますので、よろしければ、突っ込みを入れていたき、私が考えるきっかけを頂戴できれば、とわがままなお願いをお聞きいただければ、大変うれしく存じます。
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