2011.05.01 Sunday
リトリートに参加した。よかった。
木曜日から土曜日にかけて、軽井沢でリトリートに参加した。よかった。楽しかった。普段の教会生活で経験できない経験をした。
参加者に受け入れられ、参加者の方々を受け入れ、そして、柔らかく一体となるという経験をした。かなり本音に近いところを私自身も開示し、参加者もかなり開示していただいた。そして、様々な地域から来られる方とともに、相互に霊的に受け入れられ、交流を深めるという経験をした。何とも言えない経験である。温泉に入って、暖まっているような経験といおうか。霊的なマッサージを受けている感じがした。
この秋にもすることが決まった。少ない人数でも、参加者があり、このことを味わう方と共に過ごせれば、と思う。来年は、5月のゴールデンウィークかなぁ。いまから、楽しみ。
参加者に受け入れられ、参加者の方々を受け入れ、そして、柔らかく一体となるという経験をした。かなり本音に近いところを私自身も開示し、参加者もかなり開示していただいた。そして、様々な地域から来られる方とともに、相互に霊的に受け入れられ、交流を深めるという経験をした。何とも言えない経験である。温泉に入って、暖まっているような経験といおうか。霊的なマッサージを受けている感じがした。
この秋にもすることが決まった。少ない人数でも、参加者があり、このことを味わう方と共に過ごせれば、と思う。来年は、5月のゴールデンウィークかなぁ。いまから、楽しみ。
2011.05.05 Thursday
雑多な異国人とマナについて、思うこと
Ministryの最新号に乗っていた説教である
教会は、単なる仲良しクラブではない。もちろん、キリストを信じる者にとって、歴史的に存在したイエスという人物が、キリストであり、神であるということを信じる者の集まりであり、キリストを仲良しクラブという側面もある。しかし、単なる仲良しクラブというのではなく、雑多な異国人を含んだ形で構成され、多様な人々が多様なままでありながら、一つであることを実現する場であるという場でもある。意見の合わない人々がともにいる場でもある。その意見の相克を神にあって超克して、ともに存在する場でもあることを荒野で旅するイスラエルが示していること、雑多な他国人の存在、多様性の存在が重要であるということ、そして、時に我々に不快感を与える存在こそが、祈りの根源になることを示しているという意味において、ナウエンの「差し伸べられる手」をもう一度思いなおし、読みなおすこととなった。
また、マナの解釈も面白い。マナは、「これは何だろう?」という意味でもあり、それをエジプトからカナンに向けて旅する放浪のあるいは寄留者のイスラエル人が「これは何だろう?」と思いつつ、毎日受け取ったものである。イエスは、ヨハネ13章の中で、永遠のいのちは、神を知り、イエスを知るというプロセスだと主張している。とすれば、我々が日々「これはいったい何だろう」と体験することは、マナなのではないか、ということの広がりを考えるとき、我々がイエスから差し伸べられた手を受け取ることが、永遠のいのちかもしれない、とまた思いが広がった。
この説教は、ぷつっと切れることにより、オープンエンドになっている。違和感を与えるかも、と解説しておられる平野さんは書いておられた。しかし、少し考えてみれば、もともと、説教とは、それだけで完結するものではなく、説教に伴う霊想、または、説教に伴うフェローシップ(交わり)や聴きてのリパーカッションによって、完結し、展開するものであるという側面を感じるとき、こういう冒険的な説教もありかなぁ、と思う。語り手の主張を聴き手に伝達することだけが、説教の役割でもないのではないか、と思う。聴き手に波紋を与え、聞き手のリパーカッションを期待しつつ、聴き手とのインタラクションを導入する仕掛けなのではないかとも思う。こういう冒険的な説教を一度してみたい。
「雑多な他国人への説教」
が面白い。非常に深いことを教えてくれたし、違和感をどう牧会者、そして信者が受け取るのか、という非常に重要な視点を与えてくれていたと思う。教会は、単なる仲良しクラブではない。もちろん、キリストを信じる者にとって、歴史的に存在したイエスという人物が、キリストであり、神であるということを信じる者の集まりであり、キリストを仲良しクラブという側面もある。しかし、単なる仲良しクラブというのではなく、雑多な異国人を含んだ形で構成され、多様な人々が多様なままでありながら、一つであることを実現する場であるという場でもある。意見の合わない人々がともにいる場でもある。その意見の相克を神にあって超克して、ともに存在する場でもあることを荒野で旅するイスラエルが示していること、雑多な他国人の存在、多様性の存在が重要であるということ、そして、時に我々に不快感を与える存在こそが、祈りの根源になることを示しているという意味において、ナウエンの「差し伸べられる手」をもう一度思いなおし、読みなおすこととなった。
また、マナの解釈も面白い。マナは、「これは何だろう?」という意味でもあり、それをエジプトからカナンに向けて旅する放浪のあるいは寄留者のイスラエル人が「これは何だろう?」と思いつつ、毎日受け取ったものである。イエスは、ヨハネ13章の中で、永遠のいのちは、神を知り、イエスを知るというプロセスだと主張している。とすれば、我々が日々「これはいったい何だろう」と体験することは、マナなのではないか、ということの広がりを考えるとき、我々がイエスから差し伸べられた手を受け取ることが、永遠のいのちかもしれない、とまた思いが広がった。
この説教は、ぷつっと切れることにより、オープンエンドになっている。違和感を与えるかも、と解説しておられる平野さんは書いておられた。しかし、少し考えてみれば、もともと、説教とは、それだけで完結するものではなく、説教に伴う霊想、または、説教に伴うフェローシップ(交わり)や聴きてのリパーカッションによって、完結し、展開するものであるという側面を感じるとき、こういう冒険的な説教もありかなぁ、と思う。語り手の主張を聴き手に伝達することだけが、説教の役割でもないのではないか、と思う。聴き手に波紋を与え、聞き手のリパーカッションを期待しつつ、聴き手とのインタラクションを導入する仕掛けなのではないかとも思う。こういう冒険的な説教を一度してみたい。
2011.05.05 Thursday
新天新地とイエルサレム
今日、大阪市内のM教会に行って、東京都内のK教会の方がお話しされる集まりに行ってきた。たぶん、話が2部で完結するお話の第1部だけを聞いてきたので、うーん、何なんでしょうね、ということに終わった。新天新地とイエルサレムがどのように関係しているのか、その話はほとんどなく、関連している、という話だけしかなかったので、個人的には、完全に消化不良で終わった。ただ、まぁ、断片的な知識をお聞きする限り、よく学んでおられることだけは、伝わった。
大学時代に、旧約学の池田裕先生の講義を聴かせてもらった者としては、うーん、それで、という印象を持った。
もうちょっとイエルサレムの特殊性、地中海から吹いてくる風、砂漠から吹いてくる風、イエルサレムの砂埃、オリーブの木のにおい、イエルサレムの回復の意味、中間時代のイエルサレムと再建された神殿の話、ハスモン王朝の話など、もっと面白いことがいっぱいあるのに、とききながらおもってしまった。ちょっと残念でしかなかった。まぁ、池田先生はイスラエルで数年過ごした人である。比べるほうが、どうか、という気はするけれども。
話を聞きながら、頭は、からっからに乾いたイエルサレムの土埃とアラム語、ギリシア語の混じる世界にどこか飛んで行ってしまっていた。
大学時代に、旧約学の池田裕先生の講義を聴かせてもらった者としては、うーん、それで、という印象を持った。
もうちょっとイエルサレムの特殊性、地中海から吹いてくる風、砂漠から吹いてくる風、イエルサレムの砂埃、オリーブの木のにおい、イエルサレムの回復の意味、中間時代のイエルサレムと再建された神殿の話、ハスモン王朝の話など、もっと面白いことがいっぱいあるのに、とききながらおもってしまった。ちょっと残念でしかなかった。まぁ、池田先生はイスラエルで数年過ごした人である。比べるほうが、どうか、という気はするけれども。
話を聞きながら、頭は、からっからに乾いたイエルサレムの土埃とアラム語、ギリシア語の混じる世界にどこか飛んで行ってしまっていた。
2011.05.08 Sunday
ある教会での母の日
今日は、母の日だったりするのですね。サンタ・バーバラにいたときの母の日を思い出してしまった。
我が家では、毎週土曜日、おいしい、そしてちょっと安心感のある野菜を買いに行くために、サンタ・バーバラダウンタウン近くの駐車場で開かれるファーマーズマーケットに買い物に行っていました。その時、いつも参加していた教会のジュニア・パスターが声をかけてきたのですけれども、両手に花をやたらたくさん抱えていたのでした。「どうするの?」と私が聞くと、「秘密。明日教会に来たらわかるから」と彼が言ったので、そのまま、翌日の日曜日を迎えました。
翌日、日曜日に教会に行くと、説教の中で、「今日は母の日ですが、母だけではなく、教会や時に様々な場面で、ケアを与える母の役割を果たす女性の方に花をプレゼントしましょう。我々一人として、母なしに、女性なしに生まれませんでした。故郷にいる母を覚えてでもいいし、既に亡くなった母を覚えてもでいいから、プレゼントしましょう」といって、くだんのシニアパスターと長老たちが、男性信徒に花を配り、女性信徒にプレゼントさせていた。
こういうのいいなぁ、と思う。特に、離婚の問題で親権を取れなかった女性の方や、様々な問題で結婚できなかった方たちを含め、母の役割を果たしたくても実施や、養子の子供たちに母の役割を果たせなかった方々に対して、それでもあなた方は女性として母の役割を果たしていること、あなた方の存在に感謝する人々がいることを形にしてさりげなく伝えているその姿に、「いいなぁ、こういうの」と思ってしまった。ちょっと感動した。たとえ、つまらなく見えるプレゼントでも、母の日にもらえない人々は、世間で母の日だと騒がれると癪に障るものだと思うが、一種の家族であることを教会が示す、というそのアイディアに、なるほどねぇ、と思ったのでした。
と思ったら今日になっていたので、今年は私の集会では、この企画は没ですね。来年、やってみましょうか。
我が家では、毎週土曜日、おいしい、そしてちょっと安心感のある野菜を買いに行くために、サンタ・バーバラダウンタウン近くの駐車場で開かれるファーマーズマーケットに買い物に行っていました。その時、いつも参加していた教会のジュニア・パスターが声をかけてきたのですけれども、両手に花をやたらたくさん抱えていたのでした。「どうするの?」と私が聞くと、「秘密。明日教会に来たらわかるから」と彼が言ったので、そのまま、翌日の日曜日を迎えました。
翌日、日曜日に教会に行くと、説教の中で、「今日は母の日ですが、母だけではなく、教会や時に様々な場面で、ケアを与える母の役割を果たす女性の方に花をプレゼントしましょう。我々一人として、母なしに、女性なしに生まれませんでした。故郷にいる母を覚えてでもいいし、既に亡くなった母を覚えてもでいいから、プレゼントしましょう」といって、くだんのシニアパスターと長老たちが、男性信徒に花を配り、女性信徒にプレゼントさせていた。
こういうのいいなぁ、と思う。特に、離婚の問題で親権を取れなかった女性の方や、様々な問題で結婚できなかった方たちを含め、母の役割を果たしたくても実施や、養子の子供たちに母の役割を果たせなかった方々に対して、それでもあなた方は女性として母の役割を果たしていること、あなた方の存在に感謝する人々がいることを形にしてさりげなく伝えているその姿に、「いいなぁ、こういうの」と思ってしまった。ちょっと感動した。たとえ、つまらなく見えるプレゼントでも、母の日にもらえない人々は、世間で母の日だと騒がれると癪に障るものだと思うが、一種の家族であることを教会が示す、というそのアイディアに、なるほどねぇ、と思ったのでした。
と思ったら今日になっていたので、今年は私の集会では、この企画は没ですね。来年、やってみましょうか。
2011.05.09 Monday
バックシートドライバーとリーダーシップ
ブログ友達をさせていただいているUgoUgoコメント王子が、面白い記事を書いておられた。
これを、読みながら考えた。
ようするに趣旨は、なぜ、日本人は強いリーダーシップを期待するのか?ということに関する問題意識である。おそらく、日本人はリーダーシップを期待しているのではない。何でもしてくれるドラえもんを待っているだけなのである。ドラえもんは、リーダーではない。ノビタ君の問題を解決してくれる便利屋でしかない。日本人は、尊大なるノビタ君になっただけの話だと、私は思う。
この背景を考えてみると、二つあるだろう。一つは、大日本帝国憲法下、というよりは帝国主義に内在した国父主義(国は国民にとって父親の役割を果たす存在である)という概念である。このような意識は、日本に限られれない。大なり小なり、帝国主義国家では、帝国主義であるがゆえにこのような姿勢とならざるを得ない。それがいかに滑稽な虚構であろうとも。もう一つは、戦後の冷戦下で生まれた強い国家・福祉国家という虚構である。強い国家であるがゆえに、福祉国家であるがゆえに、国が何でも面倒を見ます、という無茶な虚構である。カウンターパートである共産主義国家群が福祉国家であると主張したために[実際はよく知らないが、少なくともアクセシビリティ(結果としての公平)の問題は別として、建前としては医療は公平(機会としての公平)となっていそうである]、資本主義国家群も、福祉国家であることを競争することとなった。過去の植民地から収奪した遺産でそれができた大英帝国やフランス、偉大なる発展途上国で国民年齢が若いがゆえに可能であった合衆国はいざしらず、弱小国では、税金を大量に集めてするしかないのである。典型的には北欧諸国。
その福祉国家とそれを時代の潮流として追求しようとしたUgoUgo王子があまり好きでない『団塊の世代』は、この両方の思想背景の中にある。だから、国が何とかするのが当然と思っているし、国に文句を言っていくことで、何とかしてきたのである。その結果、ノビタ君になったにすぎない。今の30歳代以下の方は、ノビタ君をしようと思ったころに、自己責任ということが突然降ってわいたかのように言われ始め、ノビタ君ができなくなったので、不満に思っているのではないか、と思う。そして、ノビタ君ができた『団塊の世代』はいいなぁ、と思っているのかもしれない。とはいえ、『団塊の世代』は貧しかったのである。その貧しさをノビタ君をすることで、かろうじてバランス感を保っているのだと思う。30歳代以下の人たちは、一応福祉国家という制度がある程度機能していたので、『団塊の世代』やその前の『おしん』の世代の人のような貧乏や学問したくてもできない、という経験はしなくてよくなっている半面、ノビタ君ができないという現状に直面しているのではないだろうか。
こう考えると、ドラえもんは日本人論を考える手がかりとして、意外と有効な漫画かもしれない。
英国型のリーダーというものがあるのかどうかはよく知らないが、ウィンストン・チャーチルは何となく昔の英国型のリーダーであった。貴族制がかろうじて生き残った時代のリーダーである。貴族であるがゆえに、薄い唇で、やせ我慢するのが、貴族なのである。普段は国民の犠牲のゆえに生活があるがゆえに、危機の時には人柱になるのが、貴族の役割であり、そのためだけに国民は、貴族を特権階級とするのである。まさに、人柱。それが貴族なのである。
ところで、国や総理大臣に何でも決めてもらおうとする人々がいる、それはおかしいんじゃないか、と、UgoUgo君は言っていたが、それはその通りである。国や総理大臣に頼ろうとする人々は、そもそも国とか総理大臣は、我々の奉仕者、Public Servantsであり、我々が主権者であるという民主主義社会の前提を全く理解していないんだろうなぁ、それとも全体主義がお好きなのかしらん、と思ってしまった。個人的には、国や所属する組織に箸の上げ下げなどを言われる窮屈な社会に住みたくはないものだとは、思う。
これを、読みながら考えた。
ようするに趣旨は、なぜ、日本人は強いリーダーシップを期待するのか?ということに関する問題意識である。おそらく、日本人はリーダーシップを期待しているのではない。何でもしてくれるドラえもんを待っているだけなのである。ドラえもんは、リーダーではない。ノビタ君の問題を解決してくれる便利屋でしかない。日本人は、尊大なるノビタ君になっただけの話だと、私は思う。
この背景を考えてみると、二つあるだろう。一つは、大日本帝国憲法下、というよりは帝国主義に内在した国父主義(国は国民にとって父親の役割を果たす存在である)という概念である。このような意識は、日本に限られれない。大なり小なり、帝国主義国家では、帝国主義であるがゆえにこのような姿勢とならざるを得ない。それがいかに滑稽な虚構であろうとも。もう一つは、戦後の冷戦下で生まれた強い国家・福祉国家という虚構である。強い国家であるがゆえに、福祉国家であるがゆえに、国が何でも面倒を見ます、という無茶な虚構である。カウンターパートである共産主義国家群が福祉国家であると主張したために[実際はよく知らないが、少なくともアクセシビリティ(結果としての公平)の問題は別として、建前としては医療は公平(機会としての公平)となっていそうである]、資本主義国家群も、福祉国家であることを競争することとなった。過去の植民地から収奪した遺産でそれができた大英帝国やフランス、偉大なる発展途上国で国民年齢が若いがゆえに可能であった合衆国はいざしらず、弱小国では、税金を大量に集めてするしかないのである。典型的には北欧諸国。
その福祉国家とそれを時代の潮流として追求しようとしたUgoUgo王子があまり好きでない『団塊の世代』は、この両方の思想背景の中にある。だから、国が何とかするのが当然と思っているし、国に文句を言っていくことで、何とかしてきたのである。その結果、ノビタ君になったにすぎない。今の30歳代以下の方は、ノビタ君をしようと思ったころに、自己責任ということが突然降ってわいたかのように言われ始め、ノビタ君ができなくなったので、不満に思っているのではないか、と思う。そして、ノビタ君ができた『団塊の世代』はいいなぁ、と思っているのかもしれない。とはいえ、『団塊の世代』は貧しかったのである。その貧しさをノビタ君をすることで、かろうじてバランス感を保っているのだと思う。30歳代以下の人たちは、一応福祉国家という制度がある程度機能していたので、『団塊の世代』やその前の『おしん』の世代の人のような貧乏や学問したくてもできない、という経験はしなくてよくなっている半面、ノビタ君ができないという現状に直面しているのではないだろうか。
こう考えると、ドラえもんは日本人論を考える手がかりとして、意外と有効な漫画かもしれない。
英国型のリーダーというものがあるのかどうかはよく知らないが、ウィンストン・チャーチルは何となく昔の英国型のリーダーであった。貴族制がかろうじて生き残った時代のリーダーである。貴族であるがゆえに、薄い唇で、やせ我慢するのが、貴族なのである。普段は国民の犠牲のゆえに生活があるがゆえに、危機の時には人柱になるのが、貴族の役割であり、そのためだけに国民は、貴族を特権階級とするのである。まさに、人柱。それが貴族なのである。
ところで、国や総理大臣に何でも決めてもらおうとする人々がいる、それはおかしいんじゃないか、と、UgoUgo君は言っていたが、それはその通りである。国や総理大臣に頼ろうとする人々は、そもそも国とか総理大臣は、我々の奉仕者、Public Servantsであり、我々が主権者であるという民主主義社会の前提を全く理解していないんだろうなぁ、それとも全体主義がお好きなのかしらん、と思ってしまった。個人的には、国や所属する組織に箸の上げ下げなどを言われる窮屈な社会に住みたくはないものだとは、思う。
2011.05.14 Saturday
一つの翻訳聖書だけを読むこと
カリフォルニアで1年間、生活していて教会に通っていたときに、そこのパスターが「私は、New International Versionを使うんだけれども、その理由はそれが聖別された(Sacred)な聖書だから」と、自分自身大笑いして、明らかに冗談であることを聞き手に示しながら話していたことがある。そのパスターは、NKJVやToday's English Versionや、New American Standard等の翻訳なども使っていたので、そのパスターが、NIVとも呼ばれる聖書だけを重視していないことは明らかだったから、冗談であることはすぐ理解できた。
翻訳聖書に頼らざるを得ないときの問題は、自分がその翻訳聖書から得た聖書理解が、聖書翻訳者の聖書理解から得られたものなのか、それとも、聖書自体から発せられるメッセージなのか、その区別がつきにくいことである。
教会で使う聖書の翻訳テキストを一つにするのは、必要悪として仕方がない部分がある。多くの人が一度に聖書を開いてもらう上で、共通の翻訳テキストを使うということは大きな利益をもたらす。空けるページの指示から、テキストのどこを読んでいるのかの共有が非常に容易となるからである。
しかし、自分が聖書を読むとき、単一の翻訳テキストに沿ってしまって、そこからだけ導き出された結論から考えを深めていくとき、少し罠があるような気がする。特に、特定の個所から舐めるように読んでいって、その部分だけを読みこんでいくとき、その人の持つ日本語の単語に関するイメージが大きく影響してしまい、聖書の意図とは少しずれてしまった聖書理解の展開となる場合があるかもしれない。
わが教派の歴史を追っかけていて見つけたことであるが、わが教派では聖書の特定の節を細かく丁寧にじっくりと読みこなしていく傾向が強いため、概して、「木を見て森を見ず」ではなく、「葉っぱを見て森を見ず」に陥っている感がある。その意味で、近代の呪縛の一つである分析的な考え方の方向性にとらわれすぎているきらいがあるかもしれない。私自身も、そのことは自己批判として強く感じる。これまでの聖書のお話は、どうしても、「葉っぱだけを細かくみた時に見えてきたもの」「葉っぱだけから見た、葉っぱと枝のつながり」「葉っぱだけから見た、森全体」という程度のものでしかなかったように思う。そんなお話に付き合っていただいた方には、本当に申し訳ないのだけれども。
多少葉っぱや木を見るという側面を犠牲にしながらも、森全体を見て、そのうえで、葉っぱや木を見るということをすることの大切さを感じている。このバランスに欠けると、本来森として見えたはずのものが見えなくなってしまい、葉っぱが別物に見えてしまうのかもしれない。
UgoUgoさんは、最近、いろんなことが見えてくるようになったと、書いておられたが、それはそれで喜ぶべきこだ、と思う。自派の枠組みの中だけに捕らえられている場合、自己自身を客体化して眺めることができにくいことは、あるのだろうと思う。ただ、これまで慣れ親しんだ枠組みの中にいて、その枠組みの中に居続け、居心地良い信仰生活を過ごすこと、それはそれで、信仰の一つの形態であろうと思う。それはそれで大事にしていかれたらよいと思う。しかし、その枠組みの中に順応することに不満を覚えてしまった個人、自分が裸の王様であることに気付いた人々は、裸の王様でとどまるもよいとも思うし、現状に不満があるのであれば、個人の信仰生活を変えればよいと思う。そして、そのどこがまずいのか、ということを自己に対して批判的に考えること、それを深めていくことが大事なのではないか、と思う。まずは、そこから始めるしかないのではないか、とも思う。それが、信仰者として討ち死にしない生活なのではないか、とも思う。
翻訳聖書に頼らざるを得ないときの問題は、自分がその翻訳聖書から得た聖書理解が、聖書翻訳者の聖書理解から得られたものなのか、それとも、聖書自体から発せられるメッセージなのか、その区別がつきにくいことである。
教会で使う聖書の翻訳テキストを一つにするのは、必要悪として仕方がない部分がある。多くの人が一度に聖書を開いてもらう上で、共通の翻訳テキストを使うということは大きな利益をもたらす。空けるページの指示から、テキストのどこを読んでいるのかの共有が非常に容易となるからである。
しかし、自分が聖書を読むとき、単一の翻訳テキストに沿ってしまって、そこからだけ導き出された結論から考えを深めていくとき、少し罠があるような気がする。特に、特定の個所から舐めるように読んでいって、その部分だけを読みこんでいくとき、その人の持つ日本語の単語に関するイメージが大きく影響してしまい、聖書の意図とは少しずれてしまった聖書理解の展開となる場合があるかもしれない。
わが教派の歴史を追っかけていて見つけたことであるが、わが教派では聖書の特定の節を細かく丁寧にじっくりと読みこなしていく傾向が強いため、概して、「木を見て森を見ず」ではなく、「葉っぱを見て森を見ず」に陥っている感がある。その意味で、近代の呪縛の一つである分析的な考え方の方向性にとらわれすぎているきらいがあるかもしれない。私自身も、そのことは自己批判として強く感じる。これまでの聖書のお話は、どうしても、「葉っぱだけを細かくみた時に見えてきたもの」「葉っぱだけから見た、葉っぱと枝のつながり」「葉っぱだけから見た、森全体」という程度のものでしかなかったように思う。そんなお話に付き合っていただいた方には、本当に申し訳ないのだけれども。
多少葉っぱや木を見るという側面を犠牲にしながらも、森全体を見て、そのうえで、葉っぱや木を見るということをすることの大切さを感じている。このバランスに欠けると、本来森として見えたはずのものが見えなくなってしまい、葉っぱが別物に見えてしまうのかもしれない。
UgoUgoさんは、最近、いろんなことが見えてくるようになったと、書いておられたが、それはそれで喜ぶべきこだ、と思う。自派の枠組みの中だけに捕らえられている場合、自己自身を客体化して眺めることができにくいことは、あるのだろうと思う。ただ、これまで慣れ親しんだ枠組みの中にいて、その枠組みの中に居続け、居心地良い信仰生活を過ごすこと、それはそれで、信仰の一つの形態であろうと思う。それはそれで大事にしていかれたらよいと思う。しかし、その枠組みの中に順応することに不満を覚えてしまった個人、自分が裸の王様であることに気付いた人々は、裸の王様でとどまるもよいとも思うし、現状に不満があるのであれば、個人の信仰生活を変えればよいと思う。そして、そのどこがまずいのか、ということを自己に対して批判的に考えること、それを深めていくことが大事なのではないか、と思う。まずは、そこから始めるしかないのではないか、とも思う。それが、信仰者として討ち死にしない生活なのではないか、とも思う。
2011.05.24 Tuesday
老いと老いた親をめぐる家族を考えさせる映画
何の気なしに、レンタルしたデニーロのEverybody's Fine(みんな元気)という映画がなかなか良かった。見所がある、という映画ではないが、労働者階級の退職者役をしていたデニーロとその子供たちの微妙な関係、アメリカの核家族における独立した子供との家族関係を垣間見るような映画であった。
まさしく、団塊の世代で、子供たちを育て、一流にすることだけを夢見て働いてきたデニーロ演じるちょっと社会感覚が狂い始めた(といっても、時差を調整しないことくらいであるが)父親役で、その子供たちはそれぞれ、一流の広告会社の取締役、オーケストラの打楽器奏者、ラスベガスのダンサー、そして画家として描かれていた。その子供たちを育て上げる経済的環境を提供することだけを見て、子供との関係をうまくとれなくなっていた父親と、その結果、母親にだけ強く結び付いていった子供たち世代、その結果希薄になってしまっていた父親と子供たちという親子関係を描いていたいい映画であった。
そして、子供たち同士は、子供たちどうして結びついている結果、親と子供の溝が深まっていくという構図を描いた映画であった。 特に一流となることを期待された子供たちの葛藤がよくわかる。子供が幸せになるために一流になってもらいたい、という親の気持ちはよくわかる。しかし、現実には一流になれる人が少ないというその事実。その中で生きていかないといけないという現実との折り合いをつけていく必要に迫られた子供たちは、自分自身が現実と理想との間で葛藤しているという事実があることを、親の期待というのか理想が示されることで、さらにこの葛藤の事実を否応なく突き付けられ、葛藤がイライラに変わること等を非常にうまく示していた。
親と子供の 核家族化が進んでいく中で、親子関係の希薄化、その中での父親と家族の関わりの重要性を示すいい映画だったと思う。親が子供に関与できる時間は案外短かったなぁ、というのが子育てが終わり始めた自分自身の問題意識でもある。
デ・ニーロが、年齢がすすんだのだなぁ、と思わせる映画でもあった。この前見た、ハリソン・フォードも年齢を重ねているし、結構、じい様になってきたことがよくわかる映画であった。
自分の思いを伝えるだけでなく、相手(子供たち)の言うことを聞くことこそコミュニケーションであるということを感じさせるいい映画であった。お勧めの一本。
まさしく、団塊の世代で、子供たちを育て、一流にすることだけを夢見て働いてきたデニーロ演じるちょっと社会感覚が狂い始めた(といっても、時差を調整しないことくらいであるが)父親役で、その子供たちはそれぞれ、一流の広告会社の取締役、オーケストラの打楽器奏者、ラスベガスのダンサー、そして画家として描かれていた。その子供たちを育て上げる経済的環境を提供することだけを見て、子供との関係をうまくとれなくなっていた父親と、その結果、母親にだけ強く結び付いていった子供たち世代、その結果希薄になってしまっていた父親と子供たちという親子関係を描いていたいい映画であった。
そして、子供たち同士は、子供たちどうして結びついている結果、親と子供の溝が深まっていくという構図を描いた映画であった。 特に一流となることを期待された子供たちの葛藤がよくわかる。子供が幸せになるために一流になってもらいたい、という親の気持ちはよくわかる。しかし、現実には一流になれる人が少ないというその事実。その中で生きていかないといけないという現実との折り合いをつけていく必要に迫られた子供たちは、自分自身が現実と理想との間で葛藤しているという事実があることを、親の期待というのか理想が示されることで、さらにこの葛藤の事実を否応なく突き付けられ、葛藤がイライラに変わること等を非常にうまく示していた。
親と子供の 核家族化が進んでいく中で、親子関係の希薄化、その中での父親と家族の関わりの重要性を示すいい映画だったと思う。親が子供に関与できる時間は案外短かったなぁ、というのが子育てが終わり始めた自分自身の問題意識でもある。
デ・ニーロが、年齢がすすんだのだなぁ、と思わせる映画でもあった。この前見た、ハリソン・フォードも年齢を重ねているし、結構、じい様になってきたことがよくわかる映画であった。
自分の思いを伝えるだけでなく、相手(子供たち)の言うことを聞くことこそコミュニケーションであるということを感じさせるいい映画であった。お勧めの一本。
2011.05.26 Thursday
終末思想が跋扈しなければよいけれど…
東北・関東地震で被災地におられ、今もなお、ただただ、避難所に座っているしかいない方々には、深い同情の思いを抱かざるをえない。無力感と焦りと、しかしどうにもならない現実とを抱えておられることが自身の10数年前の体験でも思い起こされるだけに、何とも申し上げかねる部分がある。人間の無力さを思わざるを得ない体験である。
こんな中、災害の原因として、神の怒りであると主張するグループがあちこちに出現しているという。主張するのは個人の言論の自由が保障されている以上、自由だが、個人としては、非常にいやな感じがする。
聖書の特定の個所、とりわけ、黙示録とエゼキエル書(旧約聖書の預言書のひとつ)を全体像を少し忘却の彼方において、一部の表現や表記のみを細かく読み込んでいき、その結果、神の怒りや神の計画としての週末の一部として、自然災害や戦争の災害の事を説く人々がいそうな気がする。
まずいよねぇ。絶対にまずい。そう思う。
しかし、この終末論で読み解いていく思想性は、どこから来るのだろうか。中世の歴史の上に立った近代がその役割を終えようとしている時代背景からなのかなぁ。それとも、人間世界における根源的なものだろうか。
歴史を見ている限り、自己と他者、という区別が激しくなればなるほど、このような対立の構造の中で物事をとらえていく傾向があるように思う。
時代の変化が大きな転換点を迎えている時期に、災害、戦争などが起こると、終末論的な思想に関心が当たりやすい傾向はどの世界でもあるように思う。日本だと、奈良期の終焉と平安期への移行期、平家物語の時代がそうだし、戦国時代もまたそうである。幕末も、実は終末論的な世界観が存在し、その反映の一つが、「ええじゃないか」運動でもあるといえる。アメリカだと、ジョナサン・エドワーズなどが活躍した時代のリバイバルなどもこの終末思想を背景としていると見てよいのではないかなぁ、と思う。ほかにも、いわゆるアメリカにおけるファンダメンタリズム(古典的な意味でのファンダメンタリズム 聖書を思想のバックボーンとしようとする1900年代ころのアメリカ中西部で一定の評価を得た。現代の原理主義とは少し違う)の一部の考え方などもそうだといえるかもしれない。
しかし、聖書に基づくとされる終末思想だけから見ていると、これこそ、「福音」を伝える好機として、他者の不幸を足台にして自分たちが福音であると信じる概念(福音)を聞かせるきっかけとしてこの災害を利用しようとする一種の機会主義が台頭しがちだし、そのような底の浅い表面的なつながりだけを頼りに、発言する人々が事実として増えるような気がする。災害や戦争を取り上げた底の浅い表面的な聖書理解や、戦争や災害を利用した殿堂に関する一種の機会主義というものは、個人的にはどうなんだろう、と思う。
そんな機会主義的に伝道しようとする人々が増えなければいいなぁ、と思う。特に、ドイツ系の人たちが、最近教会に乗り込んできて、混乱させたようであるが、そういう人たちが増えなければいいなぁ、と思う。
それよりも、イエスが語ろうとした主張、社会的状況、個人的状況がどのようなものであろうとも、「あなた方は心を騒がせてはなりません」という主張を、たおやかに、穏やかに伝えるという姿勢を持つことが大切なのではないか、と思う。チープな機会主義に陥ることなく。
こんな中、災害の原因として、神の怒りであると主張するグループがあちこちに出現しているという。主張するのは個人の言論の自由が保障されている以上、自由だが、個人としては、非常にいやな感じがする。
聖書の特定の個所、とりわけ、黙示録とエゼキエル書(旧約聖書の預言書のひとつ)を全体像を少し忘却の彼方において、一部の表現や表記のみを細かく読み込んでいき、その結果、神の怒りや神の計画としての週末の一部として、自然災害や戦争の災害の事を説く人々がいそうな気がする。
まずいよねぇ。絶対にまずい。そう思う。
しかし、この終末論で読み解いていく思想性は、どこから来るのだろうか。中世の歴史の上に立った近代がその役割を終えようとしている時代背景からなのかなぁ。それとも、人間世界における根源的なものだろうか。
歴史を見ている限り、自己と他者、という区別が激しくなればなるほど、このような対立の構造の中で物事をとらえていく傾向があるように思う。
時代の変化が大きな転換点を迎えている時期に、災害、戦争などが起こると、終末論的な思想に関心が当たりやすい傾向はどの世界でもあるように思う。日本だと、奈良期の終焉と平安期への移行期、平家物語の時代がそうだし、戦国時代もまたそうである。幕末も、実は終末論的な世界観が存在し、その反映の一つが、「ええじゃないか」運動でもあるといえる。アメリカだと、ジョナサン・エドワーズなどが活躍した時代のリバイバルなどもこの終末思想を背景としていると見てよいのではないかなぁ、と思う。ほかにも、いわゆるアメリカにおけるファンダメンタリズム(古典的な意味でのファンダメンタリズム 聖書を思想のバックボーンとしようとする1900年代ころのアメリカ中西部で一定の評価を得た。現代の原理主義とは少し違う)の一部の考え方などもそうだといえるかもしれない。
しかし、聖書に基づくとされる終末思想だけから見ていると、これこそ、「福音」を伝える好機として、他者の不幸を足台にして自分たちが福音であると信じる概念(福音)を聞かせるきっかけとしてこの災害を利用しようとする一種の機会主義が台頭しがちだし、そのような底の浅い表面的なつながりだけを頼りに、発言する人々が事実として増えるような気がする。災害や戦争を取り上げた底の浅い表面的な聖書理解や、戦争や災害を利用した殿堂に関する一種の機会主義というものは、個人的にはどうなんだろう、と思う。
そんな機会主義的に伝道しようとする人々が増えなければいいなぁ、と思う。特に、ドイツ系の人たちが、最近教会に乗り込んできて、混乱させたようであるが、そういう人たちが増えなければいいなぁ、と思う。
それよりも、イエスが語ろうとした主張、社会的状況、個人的状況がどのようなものであろうとも、「あなた方は心を騒がせてはなりません」という主張を、たおやかに、穏やかに伝えるという姿勢を持つことが大切なのではないか、と思う。チープな機会主義に陥ることなく。
2011.05.28 Saturday
原発牧師と制御機能不足指導者
いつも拝読させていただいているヤンキー牧師のブログ記事と、のらくら者の日記のブログ記事と、UgoUgoさんのブログ記事を読みながら、おとなりのまちで起きていることを見ながら考えた。
お隣の町の首長さんとそのお取り巻きのご発言である。お隣の町の首長さんは、ちょっと離れたところの人口の少ない町の議員さんが多すぎるんじゃない、といって物議をかもし、人口の少ない町の首長さんは、ご自身のところはご自身でご判断になられればよいのであって、よそのことまでご発言されるのはどうかとおっしゃったようである。その直後、どれくらい直後かはしらないけれども、ある会合(首長会)で人口の少ない町の首長さんにお詫びして一件落着されたようである。
その前には、その首長さんのお取り巻きというのか、首長さんのファンクラブみたいなグループが、学校の式典で国歌となってしまった歌を歌わないような教員は、退職願うべきだという条例案を出すだの出さないなど言って話題になっている。話題にされることが目的であれば(話題づくりをし着目されることが目的であれば)、このことは評価されるべきであるが、話題にされることで、このファンクラブみたいな人たちがあまり深く考えずに物事をご発言になっておられるかもしれないなぁ、という印象を少なくとも、私は印象として受けた。
まぁ、その町の住民でないので、その町の住民の良識に期待し、次の選挙を楽しみにしているのだけれども。自分の町の代表となるのであれば、そういう発言をする方には、絶対に投票はしない。
ちなみに、お住まいの地域の市会議員さんや区会議員さんの最低得票数を見てみてください。意外とびっくりした結果だと思いますよ。意外と知られていない事実が判明します。ウェブサイトで、各市区町村の選挙管理委員会が公開しておられるはずです。
ところで、この問題発言を繰り返される現在も首長さんで弁護士の方(資格は一時停止されたが、永久に資格停止はされていないはずで、首長さんとしてお忙しいので、弁護士としての仕事をしていないというだけの話。資格は、医師と同様不祥事を起こしてはく奪されるか、死ぬまで基本有効のはず)は、そもそも地方の自治権・自主権の確立をお話しになられていたはずなのだが、最近どこかで、それがずれてしまっているのではないか、と思う。
そもそも、地方の自主権・自治権は、それぞれの社会集団が一定の尊厳をもつという多様性の概念の延長線上にある話であって、多様性を無視して一色に塗りつぶせ、という話ではないはずである。多様性を無視して一色に塗りつぶせ、というのであれば、それこそ、地方分権ではなく、中央集権であればよいのである。中央集権がけしからんと言いながら、地方分権、あるいはサブグループの独自性(思想・信条)を踏みにじるようなことが同時に出てくるところに、ファンクラブみたいな方々の考え方の甘さ(自己批判的思考の欠落)がないとも言えないように思うのだが、私の思いすごしだろう。きっとそうに違いない。でも、こうやって見逃した結果、大政翼賛会が生まれる環境を醸成していったという歴史的事実があるように思う。
ところで、原発牧師という記事があるが、原発牧師というのは、原発牧師の周辺の信徒さんを巻き込んで、加速度的な反応を起こしていき、処理するのが困難な問題を後世やその教会に残していく牧師さんのことなのだろう、と思う。正確には、核分裂牧師、連鎖反応牧師ではないか(あるいは、藤掛先生の本によれば、強行突破型の牧師)ではないかと思う。この強行突破型あるいは、核分裂型の指導者は、残念ながら社会に存在する。問題は、制御装置(信徒会や信徒代表など)が適切に機能すれば、こういう指導者の暴走はある程度食い止められる。しかし、社会や教会が閉鎖状態や課題を抱えるとき、この閉塞感を打破してくれるようなポテンシャルがあるように見えるところに強行突破型、あるいは核分裂型の指導者の魅力があるように見えるのだろう。その結果、核分裂型指導者は、閉塞時代に現状打破を期待され(時に過度に)、そして、核分裂型指導者の周辺にいる人たちに影響を及ぼし、本来安定的である人々も連鎖反応を起こしやすくなるのだろう。結果として、組織や地域、国家が活性したように見え、形式としては民主的な経過を経ているものの、結果としての独裁となり、非常に不幸な結果をその組織や地域、国家にもたらすことになりかねない。
核分裂反応牧師や核分裂反応指導者が被害を大きくするのは、連鎖反応する信者や連鎖反応するお取り巻きの存在である。一種の自己破壊型の社会的共振現象ともいえる。共振とか連鎖反応を止めるためには、その制御装置、ブレーキが必要なのである。制御装置とは、存外健全な普通の人の感覚である。権威を笑い飛ばす健全な良識あるいは批判的思考といってもよい感覚だろう。この健全な良識をもとに、教会とか組織における非常事態が終わったら、それまでの貢献には感謝しつつ、その核分裂藩型の指導者の方にその役割を終えていただくことである。そういう一見非情な対応が結果として組織を守るように思う。これまでの成果やこれまでの貢献に気持ちや気分で流されてしまい、核分裂型指導者の長期政権化は、かえって組織を破壊するのかもしれない。指導者というのか代表者は組織のために存在するのであって、指導者や代表者のために組織があるわけではない。指導者や代表者のための組織という誤解が生じると、ろくな事が起こらない。
核分裂型の指導者が出てきたとき、そして、指導者付近の連鎖反応を起こそうな人々が出てきたとき、連鎖反応を起こす前に、冷却する行動を取ることが意外と重要かもしれない。非常事態に核分裂型の指導者を置くことはやむを得ないかもしれない。しかし、それが一時的であるべきことを、多くの人々が知っておくことは重要かもしれない。非常事態にうまくいくリーダーは平常時には副作用が大きすぎることも知っておいた方がよいのかもしれない。一番避けなければならないのは、そのリーダーが存続させるために、あらゆる手段を用いて非常事態を平常時化させることである。歴史はそのことを語っているように思う。
お隣の町の首長さんとそのお取り巻きのご発言である。お隣の町の首長さんは、ちょっと離れたところの人口の少ない町の議員さんが多すぎるんじゃない、といって物議をかもし、人口の少ない町の首長さんは、ご自身のところはご自身でご判断になられればよいのであって、よそのことまでご発言されるのはどうかとおっしゃったようである。その直後、どれくらい直後かはしらないけれども、ある会合(首長会)で人口の少ない町の首長さんにお詫びして一件落着されたようである。
その前には、その首長さんのお取り巻きというのか、首長さんのファンクラブみたいなグループが、学校の式典で国歌となってしまった歌を歌わないような教員は、退職願うべきだという条例案を出すだの出さないなど言って話題になっている。話題にされることが目的であれば(話題づくりをし着目されることが目的であれば)、このことは評価されるべきであるが、話題にされることで、このファンクラブみたいな人たちがあまり深く考えずに物事をご発言になっておられるかもしれないなぁ、という印象を少なくとも、私は印象として受けた。
まぁ、その町の住民でないので、その町の住民の良識に期待し、次の選挙を楽しみにしているのだけれども。自分の町の代表となるのであれば、そういう発言をする方には、絶対に投票はしない。
ちなみに、お住まいの地域の市会議員さんや区会議員さんの最低得票数を見てみてください。意外とびっくりした結果だと思いますよ。意外と知られていない事実が判明します。ウェブサイトで、各市区町村の選挙管理委員会が公開しておられるはずです。
ところで、この問題発言を繰り返される現在も首長さんで弁護士の方(資格は一時停止されたが、永久に資格停止はされていないはずで、首長さんとしてお忙しいので、弁護士としての仕事をしていないというだけの話。資格は、医師と同様不祥事を起こしてはく奪されるか、死ぬまで基本有効のはず)は、そもそも地方の自治権・自主権の確立をお話しになられていたはずなのだが、最近どこかで、それがずれてしまっているのではないか、と思う。
そもそも、地方の自主権・自治権は、それぞれの社会集団が一定の尊厳をもつという多様性の概念の延長線上にある話であって、多様性を無視して一色に塗りつぶせ、という話ではないはずである。多様性を無視して一色に塗りつぶせ、というのであれば、それこそ、地方分権ではなく、中央集権であればよいのである。中央集権がけしからんと言いながら、地方分権、あるいはサブグループの独自性(思想・信条)を踏みにじるようなことが同時に出てくるところに、ファンクラブみたいな方々の考え方の甘さ(自己批判的思考の欠落)がないとも言えないように思うのだが、私の思いすごしだろう。きっとそうに違いない。でも、こうやって見逃した結果、大政翼賛会が生まれる環境を醸成していったという歴史的事実があるように思う。
ところで、原発牧師という記事があるが、原発牧師というのは、原発牧師の周辺の信徒さんを巻き込んで、加速度的な反応を起こしていき、処理するのが困難な問題を後世やその教会に残していく牧師さんのことなのだろう、と思う。正確には、核分裂牧師、連鎖反応牧師ではないか(あるいは、藤掛先生の本によれば、強行突破型の牧師)ではないかと思う。この強行突破型あるいは、核分裂型の指導者は、残念ながら社会に存在する。問題は、制御装置(信徒会や信徒代表など)が適切に機能すれば、こういう指導者の暴走はある程度食い止められる。しかし、社会や教会が閉鎖状態や課題を抱えるとき、この閉塞感を打破してくれるようなポテンシャルがあるように見えるところに強行突破型、あるいは核分裂型の指導者の魅力があるように見えるのだろう。その結果、核分裂型指導者は、閉塞時代に現状打破を期待され(時に過度に)、そして、核分裂型指導者の周辺にいる人たちに影響を及ぼし、本来安定的である人々も連鎖反応を起こしやすくなるのだろう。結果として、組織や地域、国家が活性したように見え、形式としては民主的な経過を経ているものの、結果としての独裁となり、非常に不幸な結果をその組織や地域、国家にもたらすことになりかねない。
核分裂反応牧師や核分裂反応指導者が被害を大きくするのは、連鎖反応する信者や連鎖反応するお取り巻きの存在である。一種の自己破壊型の社会的共振現象ともいえる。共振とか連鎖反応を止めるためには、その制御装置、ブレーキが必要なのである。制御装置とは、存外健全な普通の人の感覚である。権威を笑い飛ばす健全な良識あるいは批判的思考といってもよい感覚だろう。この健全な良識をもとに、教会とか組織における非常事態が終わったら、それまでの貢献には感謝しつつ、その核分裂藩型の指導者の方にその役割を終えていただくことである。そういう一見非情な対応が結果として組織を守るように思う。これまでの成果やこれまでの貢献に気持ちや気分で流されてしまい、核分裂型指導者の長期政権化は、かえって組織を破壊するのかもしれない。指導者というのか代表者は組織のために存在するのであって、指導者や代表者のために組織があるわけではない。指導者や代表者のための組織という誤解が生じると、ろくな事が起こらない。
核分裂型の指導者が出てきたとき、そして、指導者付近の連鎖反応を起こそうな人々が出てきたとき、連鎖反応を起こす前に、冷却する行動を取ることが意外と重要かもしれない。非常事態に核分裂型の指導者を置くことはやむを得ないかもしれない。しかし、それが一時的であるべきことを、多くの人々が知っておくことは重要かもしれない。非常事態にうまくいくリーダーは平常時には副作用が大きすぎることも知っておいた方がよいのかもしれない。一番避けなければならないのは、そのリーダーが存続させるために、あらゆる手段を用いて非常事態を平常時化させることである。歴史はそのことを語っているように思う。
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