2011.04.12 Tuesday
一つになろう は、美しいか?
サザエさんのCMから東芝のCMの名前が消えた。福島原発のいくつかを製造した(設計技術はGEらしいけど)のが東芝だったからなのかもしれない。
スポンサー名を出すことで、自社ブランドの周知する目的でのCMの自粛をしたのは、それは一つの判断だと思う。しかし、ブランドの周知というのか売名行為を被災者感情に配慮して前に出さない、というのも何となく、感覚としてわかるが、注目しないでほしい、という感じもしなくもない。どうなんでしょうかねぇ。
それよりも、何よりも、最近のCMで一番違和感があったのは、「一つになろう」というCMのような5秒ほどのメッセージであった。確かに、復興しよう、という気持ちの非常にことばによる短い表明としてはよくわかる。しかし、これを耳にしたときと、いやな感じがした。ポケモンのロケット団の発言ではないが、「やなかんじぃ〜」である。何がいやな感じさせたか、というと、ひとつになろう、という言明は、復興に向けてみんなが一つの気持ちになって支えあおうという意味なのであるのだろうけれども、日本的コンテキストで考えたときに、精神的な志向性の同一化という暗黙の方向性を示すような印象があるからである。ほかの人と同じになりたくない、ということが許されない社会、というのは、どこかひずんでいる。
確かに、現在は危機である。危機だからこそ、一つにまとまる、ということも大事なのがわかる。しかし、それを根拠に言論封殺など、されてはたまらない、というのが正直な筆者の感想である。911の1年後に1年間、アメリカにいて、Bushが鳴り物入りで、大量破壊兵器の存在をちらつかせ、対テロ戦争という名の下に、多国籍軍という名の軍隊を他国に送り込んだじだいにアメリカにいて、あれだけ、自由な発言を大事にしていたはずのアメリカ国民が黙りこくって、あれ、いまだに、マッカーシズムって続いているのか知らん、と思ってしまったほどに、国民性が異質化していたのを感じたものとしては、そのときの雰囲気に良く似ているだけに、この「一つになろう」というのに、違和感と底知れぬ脅威を感じる。
危機の時代は、この種の団結して、一つになろうということが強調される。911の翌年のアメリカで、それも比較的能天気な西海岸ですごしていたとき、車のバンパーにUnited, we standというステッカーが張ってある車を良く見た。あの時期、アメリカ国内が、911の原因の犯人探しという点で、War on Terror というお題目で挙国一致状態になって、「そりゃー、ちーと、まずいんじゃないかなぁ?」と素朴な意見ですら、口にすることすらはばかれる社会的雰囲気があった。本当に、「いやな感じぃ〜」という印象を受けたのである。外国人なので、寄留者Sojournとして生きていたので、あまり大きな声を上げる必要もなかったのであるから、じっと社会の片隅で、人々の動きを見ていた。
そういえば、危機の時代の直後に、一つになろうとした結果うまれてきたものにより、多くの不幸を生み出した。例えば、一つになろうとして生み出されたきたものの一つに独裁的社会構造がある。日本では、大恐慌の後の226事件、そして、壮大な構想の大日本共栄圏を生み出した状態、ドイツでのナチズム、第2次世界大戦後の北東アジア諸国(この部分、意図が分かりやすくなるように修正を加えました。)。
一つになった結果、生み出したものは、美しかったか、といえば、どうなんだろうか、と思う。どちらかというと、Uglyなものだったような気がする。目的が美しければ、結果が美しい、とわれわれは思いたい。しかし、世の中、そうはうまくはいかないのだなぁ。これが。目的は美しい、正しく見えるけれども、結果としては、Uglyなものは少なくない、というよりは圧倒的に多いという印象があるのですね。その意味で、何が目的なのか、を考えるとともに、どのようなプロセスで、どうなるのか、その副作用は何か、ということを十分考えながら、いろんなことを判断していく必要があるような気がする。そして、わかりやすい、そして、一見美しく見えるものに潜む問題ということを見据えながら。
スポンサー名を出すことで、自社ブランドの周知する目的でのCMの自粛をしたのは、それは一つの判断だと思う。しかし、ブランドの周知というのか売名行為を被災者感情に配慮して前に出さない、というのも何となく、感覚としてわかるが、注目しないでほしい、という感じもしなくもない。どうなんでしょうかねぇ。
それよりも、何よりも、最近のCMで一番違和感があったのは、「一つになろう」というCMのような5秒ほどのメッセージであった。確かに、復興しよう、という気持ちの非常にことばによる短い表明としてはよくわかる。しかし、これを耳にしたときと、いやな感じがした。ポケモンのロケット団の発言ではないが、「やなかんじぃ〜」である。何がいやな感じさせたか、というと、ひとつになろう、という言明は、復興に向けてみんなが一つの気持ちになって支えあおうという意味なのであるのだろうけれども、日本的コンテキストで考えたときに、精神的な志向性の同一化という暗黙の方向性を示すような印象があるからである。ほかの人と同じになりたくない、ということが許されない社会、というのは、どこかひずんでいる。
確かに、現在は危機である。危機だからこそ、一つにまとまる、ということも大事なのがわかる。しかし、それを根拠に言論封殺など、されてはたまらない、というのが正直な筆者の感想である。911の1年後に1年間、アメリカにいて、Bushが鳴り物入りで、大量破壊兵器の存在をちらつかせ、対テロ戦争という名の下に、多国籍軍という名の軍隊を他国に送り込んだじだいにアメリカにいて、あれだけ、自由な発言を大事にしていたはずのアメリカ国民が黙りこくって、あれ、いまだに、マッカーシズムって続いているのか知らん、と思ってしまったほどに、国民性が異質化していたのを感じたものとしては、そのときの雰囲気に良く似ているだけに、この「一つになろう」というのに、違和感と底知れぬ脅威を感じる。
危機の時代は、この種の団結して、一つになろうということが強調される。911の翌年のアメリカで、それも比較的能天気な西海岸ですごしていたとき、車のバンパーにUnited, we standというステッカーが張ってある車を良く見た。あの時期、アメリカ国内が、911の原因の犯人探しという点で、War on Terror というお題目で挙国一致状態になって、「そりゃー、ちーと、まずいんじゃないかなぁ?」と素朴な意見ですら、口にすることすらはばかれる社会的雰囲気があった。本当に、「いやな感じぃ〜」という印象を受けたのである。外国人なので、寄留者Sojournとして生きていたので、あまり大きな声を上げる必要もなかったのであるから、じっと社会の片隅で、人々の動きを見ていた。
そういえば、危機の時代の直後に、一つになろうとした結果うまれてきたものにより、多くの不幸を生み出した。例えば、一つになろうとして生み出されたきたものの一つに独裁的社会構造がある。日本では、大恐慌の後の226事件、そして、壮大な構想の大日本共栄圏を生み出した状態、ドイツでのナチズム、第2次世界大戦後の北東アジア諸国(この部分、意図が分かりやすくなるように修正を加えました。)。
一つになった結果、生み出したものは、美しかったか、といえば、どうなんだろうか、と思う。どちらかというと、Uglyなものだったような気がする。目的が美しければ、結果が美しい、とわれわれは思いたい。しかし、世の中、そうはうまくはいかないのだなぁ。これが。目的は美しい、正しく見えるけれども、結果としては、Uglyなものは少なくない、というよりは圧倒的に多いという印象があるのですね。その意味で、何が目的なのか、を考えるとともに、どのようなプロセスで、どうなるのか、その副作用は何か、ということを十分考えながら、いろんなことを判断していく必要があるような気がする。そして、わかりやすい、そして、一見美しく見えるものに潜む問題ということを見据えながら。
2011.04.26 Tuesday
発電という事業について
町では、原発の話題で持ちきりですが、普段はあまり意識されることはないものの、発電という事業は、結構大変な事業だったりするのですね。原発もそうだけれども、通常の石炭や石油を使った火力発電所でも、結構大変な事業なんですね。
詳しく知りたい方は、お近くの発電所に見学に行ってください。意外なことを教えてもらえるかもしれません。今は、時期が時期なので、あんまり突っ込んだ質問をすると、つまみだされるかもしれませんが、各電力事業者(電気事業連合会加盟各社)は、ショーケースとしての発電所をお持ちのはずですので、お伺いされるといいと思います。そして、できれば、いろんなタイプの発電所を見に行かれるといいと思います。発電方式の違いや、発電所の雰囲気が違うことが分かります。
何が大変か?まず、水力発電所、揚水発電所以外の発電所はやたらと暑い。そりゃそうです。原子力にしても、火力にしても、熱源(この熱が、石油か原子力か石炭か、ガス)を燃やして、蒸気を起こし、それで巨大な発電用タービンを回すんですから、それはそれで暑い職場なわけです。確かに、コントロールルームなんかは、きれいでエアコンガンガン効いているのですが、タービンの付近は、むちゃくちゃ暑いのですね。非常の高圧の水蒸気が高速でタービンを回しているのです。
つまり、むちゃくちゃ暑い環境でむちゃくちゃに高速の回転体を動かしているのですから、これで事故が起きたら、と考えたら、非常に怖いんですね。
だからこそ、こういうタービンを作っている三菱重工や、石川島播磨重工、川崎重工などのタービン工場では、聴覚障害の方は働けないのですね。タービンが破損しそうになった時の警報音が聞こえないと大規模な労災事故につながるので、聴覚障害の有無が採用時に考慮されたりします。
そういう意味で、発電所は、原子力発電所であろうが、火力発電所であろうが、3K職場の一つなんですね。24時間で動かす職場ですし。でも、そういう職場がないと、私たちは電気を十分に使えないのです。
電気は、ためておくことができないので、必要量に応じて発電しなければならない、という制約を電力会社はおっているのですね。必要量にピッタリ合わせて発電する必要があり、それが大変なわけです。昔は、手作業で出力調整などをしていたのですが、出力調整をするために火力発電所などのタービン回転数などを変えたら、それが事故の原因につながったりするのですね。だから、余剰電力(変な表現ですが)を使って、揚水発電所なんかでダムに水を吸い上げ、ピーク時に対応する発電を準備していたりするわけです。
原子力発電所の問題が、最近話題になっていますが、原題は電力依存の社会に住んでいます。冷房はもちろん、パソコンだって電気を使っている以上、私たちは電力依存になっているのですね。電力がないと、とんでもない人海戦術の世界が待っているのです。それこそ、給与計算もそろばんと鉛筆でする世界となります。年金から、税金から、保険制度など各種給与を取り巻く制度がやたらと複雑になっているので、電気のない事務作業は、総務部門はやめてくれ、と思われると思いますが。私の仕事なんかも、最近、学会誌などが電子ジャーナル化が進んでいるので、電気がなければ何もできない、という状態になりつつありますし、カード式の図書館のカタログが、電子式の蔵書検索システムに変わり始めているので、電気がなければ、所在確認ができなくなり始めたりするんですね。電気がなければ何もできないという情けない状況になりつつあります。
今、都心には、超高層マンションが建っていますが、電気が供給されなければ、上水も供給されなければ汚水も処理できない、買い物しようにも、誰が、30階や40階から地上階まで降りるのでしょう。足が笑います。さらに買い物したとしても、30階や40階まで重い買い物を持って上がるのでしょう。山岳部の訓練のようなものかもしれません。
超高層マンションではガスをエネルギー源にするのではなくオール電化になっているため、煮炊きすらできない、そんな住宅が増えているのは、どっかおかしいように思います。
そんな生活を支えているのが、発電所とそこで働く人々なのです。24時間、3交代の危険、キツイ職場だったりするのです。だから、発電事業所の現場の方々は、本当に大変なお仕事をしておられるように思います。だからといって、電力事業者に文句を言うべきではない、というつもりはありません。ただ、自分たちの快適な生活とその前提をどう考えるのか、というのはキリスト者だけでなく、多くの人にとって問題かもしれません。
昔、シアトルの南方にあるワシントン州立の大学で交換教員として環境学関連の修士課程の学生さんと議論していたとき、彼らが「電気自動車ができて原発の電気を使えば、CO2が出なくなって、環境負荷が減るから、これは、すごいではないか!」という脳天気な議論をしていたときに、「確かにCO2はなくなるけれども、核のゴミ、それも長期間環境に影響し続けて、CO2のようにリサイクルで除去できないものを生み出すものが本当に環境負荷の軽減につながるのかなぁ」と言ったら、唖然とした顔をしていましたが、今まで、我々は、この学生さんと同じような脳天気さで生きてきたのかもしれません。日本に来たことのないアメリカ人に「我々は、400マイルの区間を、時速200マイルで、ピーク時6分間隔で走る列車(新幹線)がある」といってみましょう。「冗談じゃないの?おまえは、40マイルの区間を時速20マイルで走る電車のことを言っているのではないか」といわれるとおもいます。都市間高速鉄道として、時速300キロで走る列車を6分間隔で走らせる社会、というのは、どこかおかしいのかもしれません。
ところで、大学時代、水利学や流体工学、コンクリート工学やら、土質工学の授業を受けていたことがあるのですが、その時にプラントの防波堤の設計のコンサルタントをした経験をお持ちの先生から教わったのですが、堤防を30cmほど高くすることは、堤防1m当たり(全体ではなく、堤防の長さ1m当たり)の建設コストが、億円単位で上がるので、プラント建設会社がかなり神経を使っていることやら、過去に起きた災害をもとに、100年に1回というような想定でしか、設計ができないこと、100年に1回が2年連続で起きたとしても、後198年間発生しなければいい、というような発想で設計ができていることなどを講義中にお聞きしました。その話を聞きながら、結構脆弱なものの上に自分たちの生活が成り立っているのだ、という印象を当時持ったものでした。
図学の才能がなかったことと、数学的能力が低かったので、工学の分野で生きる道を捨てて、工学とは遠い分野で生きてきたものの、今回の災害被害を見ながら、想定外という言葉は適切ではなく、そもそも被害が発生することを受け入れなければならない災害による被害だったのかもしれない、と思ったのでした。
今回の災害が発生した地域は、その意味で2重に悲惨な地域かもしれないと思っている。同情することしかできないのだけれども。
若者や人々が出て行って、都会以外の地域に残らざるを得なかった方々、都会以外の地域に残ることを自ら選択されていった方々を襲ったこと、さらに、想定外ということではなく、設計上は、防げません、だから、本当に被害を受けられる可能性のある方には、本当に申し訳ないのですが、我々の能力ではどうしようもないので、受け入れてください、と工学的には言わざるを得ないレベルの災害による被害であるがゆえに、何とも言い難い、という印象を持っています。
我々の生活は、そのあたりのバランスをどう考えるか、ということの上に成り立っていることを改めて思い出しているのでした。解決策、そんなものは私にはありません。ただ、現在の社会は、バランスを欠いた社会であるけれども、その中で生きていく、ということはどういうことか、ということを考えるべきかもしれない、と思っています。
詳しく知りたい方は、お近くの発電所に見学に行ってください。意外なことを教えてもらえるかもしれません。今は、時期が時期なので、あんまり突っ込んだ質問をすると、つまみだされるかもしれませんが、各電力事業者(電気事業連合会加盟各社)は、ショーケースとしての発電所をお持ちのはずですので、お伺いされるといいと思います。そして、できれば、いろんなタイプの発電所を見に行かれるといいと思います。発電方式の違いや、発電所の雰囲気が違うことが分かります。
何が大変か?まず、水力発電所、揚水発電所以外の発電所はやたらと暑い。そりゃそうです。原子力にしても、火力にしても、熱源(この熱が、石油か原子力か石炭か、ガス)を燃やして、蒸気を起こし、それで巨大な発電用タービンを回すんですから、それはそれで暑い職場なわけです。確かに、コントロールルームなんかは、きれいでエアコンガンガン効いているのですが、タービンの付近は、むちゃくちゃ暑いのですね。非常の高圧の水蒸気が高速でタービンを回しているのです。
つまり、むちゃくちゃ暑い環境でむちゃくちゃに高速の回転体を動かしているのですから、これで事故が起きたら、と考えたら、非常に怖いんですね。
だからこそ、こういうタービンを作っている三菱重工や、石川島播磨重工、川崎重工などのタービン工場では、聴覚障害の方は働けないのですね。タービンが破損しそうになった時の警報音が聞こえないと大規模な労災事故につながるので、聴覚障害の有無が採用時に考慮されたりします。
そういう意味で、発電所は、原子力発電所であろうが、火力発電所であろうが、3K職場の一つなんですね。24時間で動かす職場ですし。でも、そういう職場がないと、私たちは電気を十分に使えないのです。
電気は、ためておくことができないので、必要量に応じて発電しなければならない、という制約を電力会社はおっているのですね。必要量にピッタリ合わせて発電する必要があり、それが大変なわけです。昔は、手作業で出力調整などをしていたのですが、出力調整をするために火力発電所などのタービン回転数などを変えたら、それが事故の原因につながったりするのですね。だから、余剰電力(変な表現ですが)を使って、揚水発電所なんかでダムに水を吸い上げ、ピーク時に対応する発電を準備していたりするわけです。
原子力発電所の問題が、最近話題になっていますが、原題は電力依存の社会に住んでいます。冷房はもちろん、パソコンだって電気を使っている以上、私たちは電力依存になっているのですね。電力がないと、とんでもない人海戦術の世界が待っているのです。それこそ、給与計算もそろばんと鉛筆でする世界となります。年金から、税金から、保険制度など各種給与を取り巻く制度がやたらと複雑になっているので、電気のない事務作業は、総務部門はやめてくれ、と思われると思いますが。私の仕事なんかも、最近、学会誌などが電子ジャーナル化が進んでいるので、電気がなければ何もできない、という状態になりつつありますし、カード式の図書館のカタログが、電子式の蔵書検索システムに変わり始めているので、電気がなければ、所在確認ができなくなり始めたりするんですね。電気がなければ何もできないという情けない状況になりつつあります。
今、都心には、超高層マンションが建っていますが、電気が供給されなければ、上水も供給されなければ汚水も処理できない、買い物しようにも、誰が、30階や40階から地上階まで降りるのでしょう。足が笑います。さらに買い物したとしても、30階や40階まで重い買い物を持って上がるのでしょう。山岳部の訓練のようなものかもしれません。
超高層マンションではガスをエネルギー源にするのではなくオール電化になっているため、煮炊きすらできない、そんな住宅が増えているのは、どっかおかしいように思います。
そんな生活を支えているのが、発電所とそこで働く人々なのです。24時間、3交代の危険、キツイ職場だったりするのです。だから、発電事業所の現場の方々は、本当に大変なお仕事をしておられるように思います。だからといって、電力事業者に文句を言うべきではない、というつもりはありません。ただ、自分たちの快適な生活とその前提をどう考えるのか、というのはキリスト者だけでなく、多くの人にとって問題かもしれません。
昔、シアトルの南方にあるワシントン州立の大学で交換教員として環境学関連の修士課程の学生さんと議論していたとき、彼らが「電気自動車ができて原発の電気を使えば、CO2が出なくなって、環境負荷が減るから、これは、すごいではないか!」という脳天気な議論をしていたときに、「確かにCO2はなくなるけれども、核のゴミ、それも長期間環境に影響し続けて、CO2のようにリサイクルで除去できないものを生み出すものが本当に環境負荷の軽減につながるのかなぁ」と言ったら、唖然とした顔をしていましたが、今まで、我々は、この学生さんと同じような脳天気さで生きてきたのかもしれません。日本に来たことのないアメリカ人に「我々は、400マイルの区間を、時速200マイルで、ピーク時6分間隔で走る列車(新幹線)がある」といってみましょう。「冗談じゃないの?おまえは、40マイルの区間を時速20マイルで走る電車のことを言っているのではないか」といわれるとおもいます。都市間高速鉄道として、時速300キロで走る列車を6分間隔で走らせる社会、というのは、どこかおかしいのかもしれません。
ところで、大学時代、水利学や流体工学、コンクリート工学やら、土質工学の授業を受けていたことがあるのですが、その時にプラントの防波堤の設計のコンサルタントをした経験をお持ちの先生から教わったのですが、堤防を30cmほど高くすることは、堤防1m当たり(全体ではなく、堤防の長さ1m当たり)の建設コストが、億円単位で上がるので、プラント建設会社がかなり神経を使っていることやら、過去に起きた災害をもとに、100年に1回というような想定でしか、設計ができないこと、100年に1回が2年連続で起きたとしても、後198年間発生しなければいい、というような発想で設計ができていることなどを講義中にお聞きしました。その話を聞きながら、結構脆弱なものの上に自分たちの生活が成り立っているのだ、という印象を当時持ったものでした。
図学の才能がなかったことと、数学的能力が低かったので、工学の分野で生きる道を捨てて、工学とは遠い分野で生きてきたものの、今回の災害被害を見ながら、想定外という言葉は適切ではなく、そもそも被害が発生することを受け入れなければならない災害による被害だったのかもしれない、と思ったのでした。
今回の災害が発生した地域は、その意味で2重に悲惨な地域かもしれないと思っている。同情することしかできないのだけれども。
若者や人々が出て行って、都会以外の地域に残らざるを得なかった方々、都会以外の地域に残ることを自ら選択されていった方々を襲ったこと、さらに、想定外ということではなく、設計上は、防げません、だから、本当に被害を受けられる可能性のある方には、本当に申し訳ないのですが、我々の能力ではどうしようもないので、受け入れてください、と工学的には言わざるを得ないレベルの災害による被害であるがゆえに、何とも言い難い、という印象を持っています。
我々の生活は、そのあたりのバランスをどう考えるか、ということの上に成り立っていることを改めて思い出しているのでした。解決策、そんなものは私にはありません。ただ、現在の社会は、バランスを欠いた社会であるけれども、その中で生きていく、ということはどういうことか、ということを考えるべきかもしれない、と思っています。
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