2011.03.01 Tuesday

聖餐式論から考えるともに食事をすることの意義

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     昨日、教会に来たお若い方(まだ公式の信仰告白をしていないが、長期に通っている意味で、信者のような2世キリスト者の方)と少し話をした。彼にとっての伝道とは何か、というような話であった。彼自身、非常にアクティブな方で、友達も多く、その友達の多くを教会に誘うのだが、なかなか誘っても来てくれない。食事をするのは付き合ってもらえるのだが、なかなか教会までは、とならないので、どうしたもんか、というような愚痴ともいえない愚痴を聞きながら、少し考えた。

     彼にもその中で少し話したのであるが、昔は、教会自体が別な世界(ヨーロッパ的な世界観)への通路になっていた部分があり(いまだにヨーロッパ、英国、米国からの宣教師のいる教会では、そういう部分が残っている可能性がある)、それが魅力になっている部分もあるが、世の中情報が急速に広く流通する時代になった現代(入試問題が、開始直後から外部に流出できるような時代)では、そういった魅力は非常に薄い。となると、別な方法で、共通部分や関心を持つことへの提示を作り上げていく必要があるのではないか、ということを話した。食事は、そういう意味で言うと一番共通部分が作りやすいし、福音書を見る限り、イエスが人々と食事をしている
    場面がやたらと出てくるので、その意味で、食事を一緒にするということは、意外と重要かもね、というような話をした。

     確かに、豊かさがある面で達成され、関心と興味が分散化した多元的な社会では聴衆全体をカバーする関心を引き付ける話題を見つけ出すのは、意外と困難である。その中で、食事を一緒にするということは、意外と簡単な方法でありながら、共通部分を作り出すことが可能な方法かもしれない。こういう従来の講壇から一方的に語るという伝道方法以外の方法と従来型の伝道方法との適切なミックスを含めて考えていく方法がいいのかなぁ、と考えてみたりする。ただ、手段が目的化しやすいのもある面事実だし、そのあたりかなり工夫が必要かもしれない。
    2011.03.05 Saturday

    このブログの記事が面白い

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      マークしているブログの一つに(一応、このブログでも、Bookmarkにリンクも貼ってある)

      ベタニアホーム :甲斐小泉キリストの教会

      というブログサイトがある。東京キリストの教会にかかわっていいかどうかをある友人に聞かれたとき、東京キリストの教会を理解する上で有益な情報を提供しておられたのが、このブログを書いておられる野村基之さんという方で、この方が書かれるものをときどき、拝見させていただいていた。

      野村さんのブログの最近の記事の中で、

      リップ・ヴァン・ウィンクル

      という記事と

      蚕の繭からジャップよ、出て行け!


      という記事があって、いずれも、人が知らず知らず、自分の聖書理解に拘泥していき、本来の福音から離れ、それと似ても似つかないものに絡め囚われている姿を、この二つの記事から考えさせられた。このブログの1月の記事には、そのことが多く書かれている。野村先生のご意見にすべて賛成というわけではないが、自分たち自身が伝えようとしてる聖書理解の大きな構図(Big Picture)を見失った結果、信者がしようとしていることが、教会の中での教会ごっこになっているかもしれないという目線でものを見、自分自身を反省をするうえで、私自身、非常に強烈な批判を受けたような気がするなぁ。反省。反省(反省した振り、はサルでもできるという話がないわけではないが・・・)。少なくとも少しは内省するきっかけとなった。

       世の中の人と関係性を持たない、共有部分を持たない伝道や聖書メッセージ、聖書の細かな部分への解釈のこだわりゆえ、聖書全体像で言おうとしようとしていることを見なくなっていたり、様々な先行する信仰者からの話を聞き、それをそのまま受け入れてしまった結果、無批判にそれが聖書理解であると受け止めてしまっている自分の姿がないかどうか、ということを確認する機会になった。

       聖書、聖書と言いながら、聖書そのものの主張が何であるか、という大きな構図(Big Picture)を見ずに、枝葉末節の部分で、自分たちだけの内部論理というのか、文化というのか、考え方に凝り固まらないことの大切さを、もう少し考えないといけないかなぁ。


      2011.03.08 Tuesday

      聖書をどう読むか

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         ここのところ、講壇から、信仰生活の基本シリーズを語っている。意図的に、このシリーズをしている。最初は、神との格闘としての「祈り」(これは、ちょっと中途半端に終わってしまったので、もう一度振り返りながら話す予定)、そして、やや範囲を広げすぎた感のある聖餐式(3回シリーズ:ユーカリストとしての聖餐式、コミュニオンとしての聖餐式、コミュニティが形成される聖餐式)についてお話しをした。それに引き続き、「教会」とはなにか、そこで行われる活動と信者との関係、教会を取り巻く社会と教会の意味ということをお話した。これは、始めてこられた方が居られたので、キリスト者と受容という点に論点を移し、ヘビーなところの話をはしょってやや軽い扱いにした。とりあえず、次回はもう一度、教会を考えるということをした上で、その次に聖書を読む、ということを話そうかなぁ、と考えている。
         
         聖書を読む、という作業について、少し前、このブログにも登場してくださる小嶋先生の書かれたことも少し気になっているということもある。小嶋先生は通読のお話しを書いておられたが、私自身、通読は少しにして、講壇から話すときは、特定のテーマをもとに聖書のあちこちを思い出しながら、そして思い出したところについて、かなり時間をかけて意識しながら読み、考えるようにしている。特に、今回のようなテーマ性を持たせたお話しをするときには、かなり広範囲の部分をあたるようにしている。参加される皆さんは聖書のあちこちを開かないといけないので、少し追うのが大変で、申し訳ないのだけれども。

         本題に戻すと、今、聖書をどう読むのか、ということを考えている。キリスト者は、すぐ外部の人に「聖書を読まれたら」ということを進める。聖書を読んでいると、いいですねぇ、という。私もその一人である。ある面で、そのとおりだと思うが、これには盲点があるような気がする。聖書は普通の小説や学習参考書、専門書のようにあるテーマについて、理解しやすいように、あるいは読みやすいように、整理されて書かれているわけではないからである。

         聖書には、確かに、いろんな読み方がある。歴史的視点を理解するため、ユダヤ社会の根幹を理解するため、悲しみの時の慰め(詩篇など)、感情の爆発への共感、神を知る手掛かり、神との対話の一環として、知識を得るため・・・といろんな読み方ができることは間違いない。何の本で読んだのかは忘れたが、確か、列車での時間つぶしのために買った岩波新書の大貫 隆さんの『聖書の読み方』であったように思うが、聖書をまともに最初から教科書や学習参考書のように読む本ではない、という趣旨のことが書いてあった。

         半分、クリスチャンホームで育ったので、この指摘は、意外と盲点であった。そもそも、子供のころ(中学生まで)は、日曜学校のお話しのオリジナルという意識で読んでいたし、解説をまず頭に入れて、それに合わせて読んでいたのである。ストーリーやある特定の聖書理解が先にあり、それにあわせて、聖書テキストを見ていたような印象があると、今になって反省している。

         だから、読みやすいところしか読んでいなかったし、先にアウトラインというか外部から与えられた理解があって、それに合わせて聖書を読む習慣ができてしまっていたのである。何の疑問もなく。聖書そのもののテキストと、どこかで聞いてきたこと、どこかに書いてあったことから離れて読み直してみる、という作業が始まったのは、30歳を超えてからだったように思う。もちろん、それまでにも、それを試みたことはあったが、そこまで本格化したものではななかった。

         聖書を既存の理解の枠組みを超えて読む作業をしているうちに、聖書を既存の理解の枠組みを外れて読むことは、数学の図形の問題で補助線なしにとくことと似ているかもしれない。あちこちに埋められているヒントを探しながら、人間には完全にとらえることのできない神の姿を聖書のテキストの中から、浮かび上がらせていく作業のような気がする。この作業、これはこれで面白いが、結構大変ではある。このためには、聖書の蓄積、書かれた内容がある程度どのあたりにあるかわかっていないと、非常につらい。今は、聖書の日本語での語句検索ソフトや英語版であれば、ごく検索ができるサイトもかなりあるので、かなり楽だけれども。最初にStrong Numberと出会ったときは、コンピュータもなしにこの作業をやった人はすごい、と思った。ノートや紙を使いながら、一語一語していったのだとは思うが。

         もちろん、このようなものに頼るのもよいとは思うが、じっくりと聖書のテキスト、特に特定のテーマについて考え、様々な聖書の場所を思い出しながら、聖書のテキストを味わっていると、何気なく読み飛ばしているところが時に深く浮かんでくる。最近は、教会や会堂をテーマにその語とその周辺に出てくる言葉を強く意識しながら、読み込んでいる。教会について、考えているからだとは思うけれども。最近は、「受け入れる」と「話した」という言葉である。それについて、今も思いを巡らせている。

        2011.03.10 Thursday

        寛容な精神について

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           この前、愚息が受験した公立高校の入試で、チャードリー(イスラムの女性が被るベールというか頭髪を覆う布)をかぶった受験生が高校を受験し、試験監督の先生方が、その受験生への対応をどうするかについて、ひそひそばなしをしていたそうである。要は、チャードリーが本人確認の妨げになるかどうか、という点が試験監督の先生方の議論の焦点であったようですが、どうもそのまま受験でき、合格していたようである。受験票の写真は、無帽無背景なので、チャードリーはかぶっていなかったのかもしれない。試験場についていっていないので、よくわからないが。

           この話を愚息から聞きながら、ある映画のワンシーンを思い出した。Crossing Overというハリソン・フォードが出ている映画で、チャードリーを被った公立高校の女子生徒が、911のテロリストがテロをすることではじめて、アメリカでムスリムの意見がアメリカ国民に受け取られた、といったことを公立学校のクラスの中で発言するシーンがあった。無論、911のテロを用いたという方法の点での非常に大きな問題があるものの、発言の自由があっても、それまでほとんど無視され、受け止められてこなかったムスリムからの情報発信が、対立という形をとりながらも、ようやく取り上げられた問題を取り上げていた。結局、彼女は、公立学校でこの発言をしたために、アメリカ国外退去処分となるのだが、発言しようとする意図はあっても、発言そのもの、または発言した内容を受け止めてもらうこと、というのは意外と難しいことを描いていた映画でもあった。もちろん、それ以外にも、入国管理における不正や不正義の問題も取り上げていたのではあるが、個人的には、この映画の視点としては、この視点が一番面白かった。クラッシュもまぁ面白い映画ではあったが、社会における発言とその受容という点では、こちらの方が、より深刻な問題を突きつけていた。

           他者の発言を受け止める、他者の発言とその趣旨や本意を聞きとるということは、意外と簡単ではない。社会には、恫喝もどきの手法を使う人々がいたり、やたらと大きな声を出して相手に聞かせるのがよいと思う人たちがいらっしゃるようであるが、そのような対話というよりは他者への一方的な意思の表明は、多元的な価値が並立する社会での対話の技法としての適切性に欠けるのではないか、と思う。そんなことを考える私がナイーブ過ぎるのかもしれないが。

           多元的な社会では、一つの意見に塗りつぶしたり、半ば強制的に集約したりするのではなく、様々な意見と世界観の間で、繰り返し対話をしていて、意見の違いは意見の違いとして残しつつ、他者の意見に耳を傾けるという行為を前提に、何らかの形でそれぞれが社会に関与し、社会を形成していくことが必要なのではないかなぁ、と思う。

           その中で、他者の意見をくみ取る努力、他者の発言を聞く努力というのは意外と大変だと思うけれども、それを行う度量というのか、努力が求められていく社会になるのかもしれない、と思っている。教会は、本来的に、一方的に教える場所ではなく、他者と共存する社会であるだけに、双方向的な意見交換というのが意外と大事ではないか、と思う。
          2011.03.11 Friday

          心からお見舞い申し上げます。

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             今回の地震の被災者の皆様に、心からのお見舞いを申し上げます。

            今は、みなさんの安全を祈るしかありません。

            特に、帰宅難民になっておられる東京都内の皆さまに、心からお見舞い申し上げます。
            2011.03.17 Thursday

            マトリックスからの覚醒(最後) を受けて

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               このブログにも時々、コメントを入れてくれるUgoUgo君が覚醒してしまわれた。

              マトリックスからの覚醒(最後)

              その中で、覚醒の内容として、

              例え講壇から、戦後からバブル崩壊までの時代に御言葉に生きて

              「単なる聖書に関する博識以上の根強い思索力・判断力、および確かな解釈に支えられた信仰」と彼が生きた世界での適用を語られたとしても、我々が御言葉を適用しなくてはならない生きている世界が、あまりにも違っているので私には殆ど理解できなかったのだろうということです。

              (*ただし、その生き方を私は見て、見習うことはできると思います。そしてそれこそが受け取るべき本質的なメッセージなのでしょう。)


              という記事がありましたが、基本的に共通部分としての現実世界の違い、そして現実世界に冠する世界観ということに対する問題意識の差が世代間で見られた、ということなのかなぁ、と思います。生き方を見習う、という意味では、それはそれで普遍的に正しいご主張だと思います。反面教師の部分もあるとはおもうのですが。童謡の替え歌賛美歌には、どうしてもついていけなかったミーちゃんはーちゃんがいます・・・。ミーちゃんはーちゃんの母親の世代には、概して好評でしたが。基本的に世代間ギャップだったように思います。

               以前、水谷先生の「命と性の日記」における、「みんなで育てよう健全牧師(7)」での「サムライ牧師」だとかその前の「みんなで育てよう健全牧師(6)」での「延長戦牧師」南下の話題もございましたが、生涯伝道者、となると、どうしても現代を生きる人々、特に若い人々との時代感性のずれが生じることは避けがたいように思います。日常的に二十歳過ぎの方々とお付き合いすることが多いのですが、なかなか、日常生活でもカルチャーギャップを感じることもおおございます。何とか、フォローするようにはいたしていますが。

              聖書から原則を抽出し、日々我々が歩む世が、どのような世かを理解しようとし、その世で必死で生きようとし、どのように適用していくかという作業を日々真剣に繰り返していない人(私のことね)の話は、ただの講壇からの説教にすぎず、伝わる言葉には決してなりえないのです。

              UgoUgoさんが、果たしてそうだろうか、と素朴な疑問をミーちゃんはーチャンは持っています。社会の中で生きることも、礼拝ということを考えると、さらに、現実に生きる中での疑問、不公正・不正義の問題に直面しながら、ブログという問いかけのメディアで問いかけをしているように思うんだけどなぁ。トンチンカンなことをこのブログで言っているミーちゃんはーちゃんとの対話は成立しているように思うのですが。ミーちゃんはーちゃんは、UgoUgo君と話したいんですね。UgoUgoさんを見てると、自分自身の10年位前を見ている感じでね。なんとなく、構ってみたい、と思うのですね。自分の若いときを見ているようで。講壇でのお働きを続けられるとのこと、良かったです。ミーちゃんはーちゃんなんざは、所属教会のある責任者の方から、公の学び会の場で、魚雷攻撃ほどのピンポイントの個人攻撃食らって、ほぼ、轟沈しかけたことがございましたから。拡散波動砲でなくて良かった・・・。何とか、自力航行して、ロイドジョンズのドックで復帰しましたが。魚雷攻撃された方もOさんのファンといってもいいほどの方だったので・・・。個人的には、複雑な思いもあります。

              私が聞いてもよく分からないので、その人の学びが駄目だとか言っているのでは決してないということ。

              決して誤解しないでくださいね。

              その人の働きや人格、信仰を否定するつもりは毛頭ありません。


              はい。誤解しません。この文章を読みながら、カリフォルニアで娘と私がお世話になった小学校の先生がクラスのみんなに言っていた経験則があります。

              「本は少なくとも最初の3ページ読みなさい。それでも、わからなかったら、それは、今のあなたのための本ではないので、ほかの本を探しなさい。」

              これ、なかなか良い経験則ではないかなぁ、と思うのです。講壇からのお話でもそうだと思います。

              「最初の1回は聞きなさい。それでもわからなかったら、それは今のあなたのための話ではありません。(ほかの人のための話かもしれない)」

               教会の講壇の場合はねぇ、聞き手を選べない、話し手を選べないのが、教会のつらいところですよね。

               そうそう、これに関して言えば、「牧会ジャーナル」の最新号がでていましたが、まさしく最初の3つくらいはこのテーマだったように思います。[『仕えること』を問い直す2]が特集ですが、最初は、「礼拝における抵抗」というテーマですが、「抵抗」というよりは、違和感という感じでしょうか。ウィリモンの本を引用しながら、礼拝、説教における違和感の問題を取り上げている。ちょっとだけ、孫引きします。本誌を買ってね。

               「ここで第一に問題になるのは、「抵抗を生み出す真の説教」と「あくびを催させる貧しい説教」をどのようにして見分けるか、ということである。牧師は説教者としてこのことを見分けるために、自己省察や誠実さが求められる。また、会衆の抵抗が痛みを伴った真実との出会いを意味している場合がある。また、説教者が、自分の説教を弁護したり、強烈な感情を持ったり、自己弁護をする場合、つまり説教者が抵抗を示している場合、説教者自身が自分の真実と直面しなければならないこともある。もう一つの問題は、ある「抵抗」への振る舞いが、「聖なるもの」への反応として示されているのか、他の要素によるのか、ということをどのように見分けたらよいのかということである。」坂野慧吉(2011), 礼拝における抵抗 -ウィリモンの『牧会としての礼拝』に学ぶ-, 牧会ジャーナル, No.50, p.6.
               
               第2論文の藤原導夫(2011),説教における牧会, 牧会ジャーナル, No.50, p.8-11.では、p.10の「説教が思いがけない形で、問題や悩みを抱えて苦しんでいる聞き手の現実にとどき、牧会配慮的結果をもたらしているということである。」やp.11の「まず、説教準備の段階から、説教者は聞き手と向かい合うような形に位置しないということを覚えるべきであろう。むしろ、説教者は聴き手の中に自分も入り込み、聴き手と並び、聴き手とともに、神とその御言葉に向き合うのである。」を読みながら、なるほどねぇ、そうだよねぇ、という思いを持った。自己に関する哲学的反省をしながらではあるが。

               第2論文の岡村直樹(2011),思春期の犯行とラポール形成, 牧会ジャーナル, No.50, p.12-17.では、関係性の土台といった意味の心理学の用語であるらしいラポールという概念からみた、どのように聴き手と共感の土台を形成していくのか、について述べている。相手が思春期から大学生に限られるものの、非言語コミュニケーションの重要性を指摘している。ラポール形成に失敗する要因として、P.16で「もっとも多く語られたネガティブな態度は、「上から目線」でした。(上から目線の説明部分は略)グループディスカッションにおいて語られた研究参加者のことばを用いれば、それは「最悪な態度」で、「すぐ心が閉じる」とのことでした。また自分に対して「上から目線」を感じた対象の年齢は、20代から60代まで様々で、立場も牧師からユースグループリーダーまで多様でした。また、うなずきの大きさや頻度から、多くの研究参加者がそれに強く賛同していることが分かりました。」

               ラポールをどう会衆との間で構築していくのか、それが意外と重要なのかもしれない、とこのシリーズを読みながら、思ったのだなぁ。

               語ること、これ、意外と難しい。特に、聴き手からのリパーカッション(批判的なものも含めて、建設的なもの)を聞ける機会、ということが語り手にとって、意外と大事のようです。本当に大事にしたい、と思います。しかし、ラポールとか、心理学用語を使うと、それだけでも拒否感を示す人がいるのが、わがグループの特徴だけに…つらいですね。お互いに。
              2011.03.20 Sunday

              この本が素晴らしい。

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                評価:
                後藤 敏夫
                いのちのことば社
                ¥ 893
                (2007-08)
                コメント:福音派とその周辺が抱える内在的な問題意識を、論難的に論ずるのではなく自己批判的な視点から世界とのかかわりを考えるための手がかりを与えてくれる本。福音派以外には、???かも。

                この本が、素晴らしい。

                改訂新版「終末を生きる神の民」

                この本自体の紹介は、のらくら者の日記

                『終末を生きる神の民』

                (後藤敏夫著 いのちのことば社 2007)が紹介されていたのであるが、聖書を読むときの問題意識として、いくつかのことが指摘されてあり、自分自身の最近考えている、教えられたことに沿って、聖書を読むことを同書の中では、「私自身、無自覚的にディスペンセーション主義のミルクを飲んで育ったものですが」(同書63ページ)と記されておられたが、この感覚、わかるなぁ、という感じでした。

                 ディスペンセーション主義についても、「これは、古典的ディスペンセーション主義と呼ばれ、アメリカのテレビ伝道者のほとんどが報じる世界観であり、ベストセラーになった「レフトビハインドシリーズ」の背景にある終末論です。よく見る「ユダヤが見えれば世界が見える」といった類の本も、自覚的であれ、無自覚的であれ、ほぼすべてはこの立場で書かれています」(同書63ページ)と書かれていた。「ユダヤが見えれば世界が見える」といった類の本を量産した人たちが所属していた(一応、今は、何となく緩やかな線が引かれているような感じでしかないのだけれども)キリスト者集団の端っこで、自体を眺めているものからしてみれば、この無自覚的な立場で聖書を読んでいて、本当にいいのだろうか、と思う。そもそも、それが、自派の発展史の歴史研究の出発点の一つになっているのだけれども。後藤先生が、自派に否定的で積極的に世と係ろうとする姿勢を持ち、そこから飛び出した人物が始めたSojournersを訪れていたて、そこから違和感を感じておられた経緯も何となく、見えてきた。この自派の発展史を研究してきた経過で見えてきたのであるが、自派の出発点にあっては、世界とかかわろうとして、とりわけ囲い込みで困窮するアイルランドの貧しい人々、当時の社会で抑圧されていたカトリックの人々と係ろうとして、英国国教会から分離していった本来の姿が、神学的英雄が出てきてその影響力が強くなりすぎてしまった結果、色が変わっていったような気がする。

                 この本、のらくら者の日記を書いておられる方がお勧めのように、世界とキリスト者がどのようにかかわるべきか、それについて触れている。気になった個所を一か所引用したい。

                 
                「私たちがなす決断は、キリストにあって、あくまでも罪に絡まれた人間の一つの相対的な判断にすぎない。しかし、御霊に導かれてする決断であれば、そのような一人の罪人にすぎない人間の決断であっても、それは主キリストが今ここでなせとお明治になったことへの服従として、それ以外にない決断である」ーこれは、神学的認識のことばではありません。ただ、キリストの恵のいのちの中で、徹底して自分を相対化しながら、キリストの光に照らされて、自分の全実存をかけて決断する、そういう終末論を生きる人のことばです。
                (同書60-61ページ)

                そうそう、UgoUgoさんの最近の記事との関連では、以下の記述が気になりました。たぶん、これを読んでおられたのかな。

                 世界に働く破壊的な力が圧倒的で、希望も助けもないように感じられるとき、祈りへと促され、祈りから押し出されることほど、キリスト者にとって大切なことはありません。大いなる悪に対して、私たちがまずとるべき対応は、主の前にひざまずくことです。

                 寄留者共同体の牧師ジム・ウォリスは、そのような祈りの働きについて、次のように語っています。「祈りは神の子としての私たちのアイデンティティの宣言である。祈りは私たちが何者であり、どなたのものであるのかを明らかにする。祈るという行為は、私たちをこの世の力と権威が支配する領域の外においてくれる。(ジム・ウォリスからの引用 以下略)」


                (同書58ページ)

                そう、今の破壊的な動き、不安と不信と悪意が渦巻いている災害後の東日本の人々と共に、私自身の神に対するアイデンティティを明らかにしたいと思います。
                2011.03.25 Friday

                恐怖と悲劇は売り物になるけれども…

                0
                   人は、基本的にどっかの部分で、恐怖や悲劇が好きである。おそらくは、自分自身がその悲劇や恐怖に巻き込まれない限り、そしてある程度距離を置いて眺められる限りは、という条件付きではあるけれども。

                   だからこそ、ギリシア悲劇や古代神話には、かららずと言っていいほど悲劇がある。童話でも同様である。映画でも、悲劇や恐怖映画というジャンルがある。個人的には、この種のものが嫌いなので、コメディ、特にラブコメディを心から愛するのであるが。

                   悲劇や恐怖は、人の行動を拘束する効果がある。集団心理を生み出すことができる。この効果はスタンフォード実験でも明らかであるし、それを描いた映画に「ウェイブ」や「フルメタル・ジャケット」等が思い当たる。そして、恐怖はカルト的集団を構築するためのツールとして利用される。

                   恐怖は実態が存在しなくても、生み出される。そのことは、壮大な社会実験と言ってよい「マッカーシズム」が吹き荒れたアメリカの実例、我が国における関東大震災時代の朝鮮半島出身者への理由なき暴力行為、東西冷戦競争時の核軍拡競争、911事件後のアメリカ国内の外国人への差別的待遇、とりわけイスラム諸国出身者への待遇など、言い出したらきりがない。なにしろ、極めつけは、イラクの大量破壊兵器かもしれない。あれは、本当になかったが、あるかもという恐怖が、国際社会で寄ってたかってイラクの人々を悲惨な目に合わせる結果になってしまった。フセインがまともだったという気はないが、ああいう結末が妥当だったのかは、疑問であるが。そして、あの時期のアメリカ国内で、反対を口にすること自体が憚られたことは直接強く感じた。

                   何故、恐怖が生まれるのか。それは、恐怖を生み出しうる潜在的なポテンシャルを持つ存在や理解の体系のなさというか、理解不能できないことや、理解に時間がかかることや、外部からの客観的視点のなさであるように思えてならない。

                   裸の王様という童話があるが、あれこそ、王と王の仕立屋という虚構の権威性の否定である。王様が裸だ、と主張した少年は、理解の体系があったわけではないだろう。健全な常識という外部からの視点、王国という統治システムの内部でのみ通用する特殊なコード(規則)や世界観の外にある外部者の視点(世界観)から素朴に発言したと見ることができよう。外部者は、内部の特殊コードに縛られないからこそ、独裁者は、外部の世界観を恐れるし、システム外との交流を極端に制限する。江戸幕府や、この種のことに関心が深い国家が独裁国家に多いのは当然と言えよう。どことは言わないけれども。

                   UgoUgoさんのマトリックスからの覚醒は、ある面、外部者の視点を得た、と言い換えることができるのかもしれないなぁ、と思うのである。ただ、外部者の視点を持つということは、一種社会システム内にいるマジョリティの視点や世界観をその一部にせよ捨てるということであり、自ら主体的選択として、マイノリティであることを選択することでもある。これはこれで、厳しいし、これはこれで孤独な道を歩むことになりやすい。日本でのキリスト者というのは、基本的に日本社会に対してマイノリティであることを自ら宣言するという点で、どこか社会システムに対して離れていくこととなりやすいが、しかし、近年の多元化した社会では、マイノリティであっても、発言権だけは確保される(その意見が配慮されることは約束されていないけれども)こととなっているというのが、どうも最近の政治学の潮流らしい。

                   しかし、人間はグループで生きる存在であり、グループで生きる以上、グループ内に何らかの共通するコード(ルール)や世界観が生まれる。この世界観が案外曲者で、あるグループにおいて特定の世界観が発生すると、そのコードや世界観が人を縛り始め、そして最悪の場合、仮想的な恐怖を生み出すことになる。そして、そのシステムを守ろうとする人々は、その恐怖を利用して、歪んだ世界観を生ぜしめる。まさしく、ナチスドイツがその典型例である。本来、批判的な立場となるべき知識人ですら、間違いを起こす。このことは、第三帝国と宗教―ヒトラーを支持した神学者たちにかなり詳細に描かれている。中には、確信犯で、第三帝国とシンクロしていった人たちもいるようである。

                   第三帝国に批判的な立場をとったために、マイノリティとなり、国外追放となったり、政治的圧迫を受けた人々もいる。

                   恐怖は、その実体が実在しなくても、指導者やマスコミが恐怖だ、と言い続けることで、恐怖は連鎖し、人々は行動を変えていく。チェーンメールやうわさが怖いのはこのためであるし、革命が起こる際に、政権側も、政権でない側もマスコミを掌握したがるのは、このためである。そういえば、Jakob the Liar は単なるユダヤ人迫害の物語ではなく、情報と恐怖の問題を取り扱っているように思う。戦場のピアニストもそういう側面があるが。

                   人々はグループを作る。グループができれば、その中の世界観ができる。その世界観への傾倒が強ければ強いほど、世界観が強化される方向に動きやすいように思う。そして、その世界観で塗りつぶそうとするのが、グループなのかもしれない。結束の強い組織ほど、世界観は強化される方向に動く。開放的で、結束の弱い組織では、特定の世界観はその他大勢の声にかき消されるために、強化されにくいのではないか、と思う。

                   自分自身が、特定の考え方に閉じ込められないためにも、外部の声に目を向ける姿勢を維持することや思索の面で、他者の思索への開放的な環境と開放的な対話環境を維持することの大切さを感じる。 

                   UgoUgo君のいう「マトリックスからの覚醒」ほどでなくてもよいから、恐怖から抜け出るためには、いったんその恐怖を生み出す環境から抜け出してみて、普通の人と普通の感覚で、対象を客観的にもう一度見直しつつ、多くの人と対話する精神を持ち続ける努力がいるのかもしれない。それが、Hattori先生の表現によれば、「裃を脱ぐ」ということかもしれないなぁ、と思う。

                   案外、それができる人であれば、恐怖におののいたり、自己を、そして、他者を冷静に見られるのかもしれないと思ったりする。それは、どうも必要なことのように思うなぁ。

                  2011.03.27 Sunday

                  この番組がよかった

                  0
                     地震の影響で、放送時間がおかしくなってしまったようですが、NHKの今朝のこころの時代で雨宮先生がお話しになられたことばが気になった。

                    今回のテーマは

                    福音書のことば 旧約聖書から読み解く(12)
                    わたしが来たのは罪人を招くためである

                    であったのであるが、その中で知恵文学などが取り上げられ、コヘレトの言葉(伝道者の書)やヨブ記は、格言に対する疑いであり、神が存在しても悪が存在することを通して、神への疑いを通してもなお、そこに存在する神への恐れ(日本語にしにくいのであるが、神を敬い、そして神に目を向け、神の存在を確信し、神を礼拝し、神の存在そのものを賛美すること)を抱くことの大切さが最後の部分(というよりは、ミーちゃんはーちゃんが目を覚ましてからみていた部分)で述べられていた。そして、この疑いがあるからこそ、神への恐れが薄っぺらなものにならない、という表現、わかるなぁーという感じであった。つまり、疑いの中で、神との真剣な祈りによる格闘を通して、自らの信仰を深めていくということを述べているのだと思う。

                     何より、極めつけは、イエスこそ、神への恐れを極限までその人生で示した人物であった、といったご趣旨の発言であった。そうなんですよねぇ、弟子たちに対して、その愛を余すところなく、あるいは、その愛を極みまで示されたイエスこそ、神と共に生き、神への恐れを極限まで示されたといえるのであろう。

                    あー、これの再放送しないかなぁ。
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