2011.02.22 Tuesday

ちょっと自主的な休暇をいただいていました。

0
    1月から2月とぼぉーっと考え事をしたかったこともあり、しばらくブログの更新をお休みにしていました。もうひとつのブログは、途絶えそうになりながらも、読者の方の励ましなどもあり、あちらのほうはかろうじて維持し続けたというか。この間、聖書のお話(教会論の最終、コミュニティとしての教会)のテーマと、本業の仕事に追われていたので、事前予告なくとめてしまって、少し申し訳ないと思っていますが、その割りにアクセスが落ちなかったのが不思議と言えば不思議。

    最近読んだ大和郷にある教会ブログでの「摂理」について、触れられていたのと、たまたま、今度話す内容として考えていることでもあることについて、少し考えている。

    「摂理」とは、地上の出来事や人間の行為に関する神の介在ということに関する理解である。実は、来週信者間で話し合うことになっている伝道者の書(コヘレトのことば)3章の内容と、というところと関係しているからだったりします。ちなみに、私は、口語訳→新改訳第1版→新改訳第2版→新改訳第3版と使う聖書翻訳が推移してきており、現在も新改訳第3版を使うことが多いので、伝道者の書というほうがなじみが深いので、この表記を使おうかと。

     伝道者の書3章1−15節のテキストには、「時」という表現が出てくるが、この中の表現そのものが神の関与という意味での神の摂理に関する考えを生み出す根拠としてよく言われる聖書の表現の一つだと思う。この「時」という表現をかなり考えている。時と日本語でいうと、時刻とか時間、時代の趨勢とか、期間とか言った意味があるが、おそらく、この「時」と訳されている表現を私個人が一番理解しやすく、私の語感に一番フィットする言葉に直すと、「出来事」ということだろうと思う。愛するというとき、憎むときがある、というよりは、神の目の前で繰り広げられている愛するという出来事、憎しみという出来事がともに存在する、とこの伝道者の書の著者は言っているのではないか、ということを思ったのである。憎しみのときがあるといってしまうと、神の前において憎しみを人に与えるような神の介在あるいは摂理があると理解され、「憎しみ」について、神の名が借り出され、正当化されるということにつながりかねないが、神の意図とは別に人間の側の行為として、愛や憎しみがモザイク画のようにともに地上にあり、神の目の前に存在するという姿をこの伝道者の書の著者は描きたかったのではないか、と思う。

     憎しみのときがある、を日本語の語感のみに沿って文脈を無視して解釈すると、神の前にあって憎むべきものを憎んでよい時期があるという、神の名を借りた勝手な自己正当化につながる危険性があるのではないか、ということを少し懸念してたりするのですね。これが。

    もちろん、おかしいと思ったことや間違っていると思うことに対して、「おかしい」ということや「間違っている」ということをいってはいけない、ということではなく、そのことに神の名を借り出すことの危険性について、考え込んでしまいました。

     この前、高校生の娘から世界史(中世ヨーロッパ史)について聞かれたので、十字軍(第4次十字軍以降)とその時代背景についての私なりの解説をしたりしていたのですが、そのとき思ったことは、神の名を借りた(というよりは神の名を語った)正当化、正義であるという主張が十字軍だけではなく、多くの悲惨を招いた事実を忘れてはならない、ということだったりするのですね。ベトナム戦争のときも反共という言葉の背景に、米国では取ってつけたように聖書が借り出された背景があったようにも思うし、最近の中東紛争のときもそうだったように思ったりもしました。

     こういった社会的な現象ばかりでなく、これは教会の中でも、現在の教会の中でも起こりうるんだろーなぁ、と思ったりしている私がいたりします。たぶん、HATTORI先生は「神の名において赦せ」という一見正論のように見えてしまう、神の名を語った正義と関係した問題への対処で、ここ数年苦しんでおられるのだと思う。HATTORI先生のこと、個人的に思いをめぐらしております。

     ところで、本論に戻すと、「摂理」というのは、どうしても認識システムとしての人間側の世界観(信仰についての考え方を含む)に依存する部分もあるので、ある事象を「神が介在した結果」の側面を重視して捉えるのか、「人間が介在した結果」を重視して考えるのかによって、大きく違ってくる。

     そういえば、映画「アマデウス」での、モーツァルトとサリエリの確執を描いた作品も、おそらく、そのあたりのことが遠い遠方の広い背景として、あるように思う。音楽史は中学校どまりなのでよくわからないが、「アマデウス」を史実の表現としてみるのではなく、この作品は、神の介在というのか摂理を考える手がかりになるかもしれないなぁ、と思った。印象的なのは、サリエリが作曲しながら、一音一音を楽譜に記載する際に、神への感謝をするような努力型の秀才として描かれていたシーンである。サリエリは、非常に日常的なことについても摂理を強調する人々へのカリカルチュアとして描かれていたのだと思う。詳しくは、映画をDVDかなにかで見てもらうとうれしいのですけれども。いかんいかん。またもや脱線してしまった。

     「摂理」を考える際に重要なことは、「大和郷にある教会」ブログの著者の方が「摂理」についての記事の最後の部分(以下斜線で引用)で述べておられることをどう考えるのか、ということだと思う。

    だからやはり信仰的な問題として「摂理」を考える上で最も困難なのは到底神の計らいとは思えない苦難を抱えている方々のことになる。

    ただその国に生まれてきただけで貧困・飢餓を宿命付けられているような人たち。
    不治の病やハンディを背負って生まれてきた人たち。
    圧倒的に不当な不正・抑圧・差別を故なく受けている人たち。

    このような人たちの現実を前にして「神の摂理」は問われなければならないのだろう。
    そのような人生の厳しい現実に向き合っている人にこそ「神の摂理」と「神の正義」の深い問いかけが可能なのではないか。


     そして、「苦難」とか、「試み」とか呼ばれる事象と「摂理」いうことについてである。この前、ナウエンの著作を読んでいるとき、南米の共産ゲリラに襲撃された司祭についての本を呼んだときにも、そのことを感じた。そして、ラルシュの創設者であるジャン・ヴァニエの著作などを読むときも、そのことを感じる。このような信仰者にとって「不都合な現実」と「摂理」をどう考えるのか、単に「罪の存在」や「神の栄光が現れるため」として単純に片付けてしまうのはまずいのでは、ということを考えている。では、どのように考えるかについて、そして、どのような関与を個人としてしていくのか、について、そして、そのための私個人の覚悟とは何か、ということについて、残念ながら、今の私に明確な、答えはない。ただ、悲しみも、喜びも、人間の間の平和も、戦争も、愛も憎しみがモザイク模様のようにちりばめられた世界を包括して、あるいは超越して存在する人格として神がいて、不都合な事実を含め、それらを容認している神の姿があるような気がする。そのさまざまな地上の姿を眺めている神の思いを十分はわからないなりに味わおうとしているのが、信仰者の姿なのかも知れない、と思ったりする。

     そう考えると、神の「摂理」を考え、神の正義を考えるとき、神を信じているという自身の確信を根拠として、我田引水的な結果を期待したり、現実を神の名によって我田引水的に理解する信仰者として生きるのではなく、人間としての限界があることをわきまえながら、地上のさまざまな出来事に対する神の超越ということとその意味を知ろうとすることが、大切かもしれない、と今は考えている。将来、その考えを変える可能性はないとはいえないけれども。

    小嶋先生、考えるためのヒントとブログを書きはじめるためのヒント、ありがとうございました。
    2011.02.24 Thursday

    聞き手としての成長 と 講壇からの天下りと単なる解説 を読みながら

    0
       Facebook友となってもらったUgoUgo君のサイトでこんな記事(聞き手としての成長 や 講壇からの天下りと単なる解説)があったので、ちょっと発言。

      最近、日本の諸集会の立てあげに大きな働きをした兄弟姉妹が

      天に帰られたり、帰ろうとしている。

      大雑把にいうといわゆる第一世代(7080歳代)の方々と言っていいと思う。

      その方々が天に帰られている。



      その世代の日本の兄弟姉妹とは私は直接個人的に交わった経験はほとんどない。

      だから正直に言って、その兄弟姉妹たちの事はよくわからないのだ。

      彼らのメッセージからその人柄、霊性、思想、経験を受け取るか、

      もしくはその兄弟姉妹たちから福音を聞き救われた

      いわゆる第二世代(5060歳代)の方々から又聞きしかできない。



      確かに、第1世代というか、私にしてみれば第2世代の信仰者の方が次々地上での人生からのリトリート(退却とか、退避とか言う意味もある)をしているよなぁ、というのは素直な感想としてあったりします。私は、すでに80年代にこのことを感じたのでした。私にとって、第1世代とは、ライトさんだったり、石浜さんだったり、藤本善衛門さんだったりするので、今、次第に生きて顔を合わせることができる人がいなくなり始めたのは、第2世代という印象はありますけれども。ここでは、UgoUgoさんの発言する勇気に敬意を表して、UgoUgoさんの分類法に従ってお話しようと思います。

      詳しい文章は、上記の表現の引用元であるUgoUgoさんの記事「聞き手としての成長」を見ていただきたいが、彼の主張を要約すれば、第2世代から非常に評価の高い第1世代の話し手の話す内容がなぜ、そのような評価になるかが、よくわからないし、自分には、そこまでのものがないように思えるのは自分がおかしいのではないか、という自問ではないかなぁ、と思うのですね。

      自己を批判的な視点から見直してみることは大切だと思うし、客観的に捉えるという努力しておられることはよくわかります。それは尊いことだと思います。本心から。

       ただ、自分自身だけの問題かどうか、ということは見直してみる必要があるかもしれないのでは、とも思うのです。というのは、伝道者も人でしかないのですし。その語り手の語り口や類比、表現の技法、聖書理解のアプローチの仕方の特性が聞き手に合う、合わないという問題があるように思うのです。ある面、UgoUgoさんの言う第1世代と第2世代とは、生育期の背景や生育家庭における時代と生活文化の連続性が比較的共有されており、その共通性や連続性を土台に類比や表現がつむぎだされているからこそ、わかりやすく、理路整然としている、という評価につながる可能性があるのでは、と思うのです。

       例えば、今、80歳を迎えた高齢者に、ガンダムがどうの、ボトムズがどうの、エバンゲリオンがどうの、という観点から福音を語ったところで、それは何だということであり、逆に意味不明になり、煙たがられるだけだと思うのですが、一部の40歳から30歳のマニアックな層には、ガンダムにおけるシャーの悲劇や、アムロの心情を聖書の登場人物のある事件を理解してもらう際や、特定の集団の人たちと対話するきっかけとしては、有効かもしれないし、わかりやすいという評価を受けるかもしれないとは思うのですがが、50歳以上の方には、何?ということになるでしょうけれども。

       もう少し具体的にお話しましょう。先週の日曜日に、こんなことがありました。私たちの教会で、50歳代後半のある方が福音のメッセージの一部として、個人のお話をされたとき、「自分たちの若い時代には、天地真理とか南沙織とかが居て・・・・」という昔のアイドルのことを証(UgoUgoさんのところでは、福音集会で、世のことを、と冷たい目が光るかもしれませんが、うちではいろいろな方の証の一部の表現は、それに目くじら立てずに受け止めるという文化があるので、かえってほほえましいといった雰囲気で包まれましたが)の一環としてした瞬間、普段はつまらなそうに聞いている信者でない50歳代の来会者の方が突然目の色が変わって、そのお話の最後に「僕は南沙織のファンやねん・・・」と突然興味を示したということがあったのでした。

       このことは何を意味するか、というと、話がわかりやすいと思う要素のひとつとして、ある程度、共通の土台、共通の理解を前提としたり、その存在を起点にすることが一定の役割を果たすのではないかなぁ、とも思うのです。

       サザエさんがなぜ、永遠のマンネリではありながら、多くの世代に受け継がれているのか、それは普遍性と人生の中でおきそうなさまざまな出来事(いわゆる、あるある体験)に潜む共通性を多少時代の変遷に合わせつつ表現し、それを暖かく見る目があるからではないかなぁ、と思います。そこを世代を超えて共通部分としているからこそ、マンネリと呼ばれながらも、安心感のある番組として一定の視聴率を確保できているのだと思います。

       別な例で言いましょう、アメリカン・ジョークというのがあります。アメリカのスタンダップ・コメディアン(カフェとかバーでジョークを言って客を笑わせる単独で芸をするお笑い芸人)が言うギャグの一種であすが、日本人には、ほとんど意味が通じない。なぜなら、その間や、そこで語られる内容に関する文化を共有していないからです。

       逆に日本の落語は、英語落語を取り組もうとするものの、そのままでは、理解ができない。たとえば、落語の枕で扱われる下手なしゃれというよりか親父ギャグですが、「隣の家に壁ができたねぇ。」「へぇ〜」は、アメリカ人にはその面白さは伝わらないし、今の若い日本人にも伝わらないではないかなぁ、と思うのです。その場が、少なくとも、寒々とした雰囲気に包まれそうですしね。あるいは、アメリカ人の子供の好きな表現に、See you later,  alligator!というのがありますが、日本語に直訳すれば、「じゃまたね、ワニ!」であすから、音韻が思い浮かばなければ、ギャグとしての意味が通じない。せいぜい「じゃまたね、ねんねこころりん」とでもしないと雰囲気は伝わらない。でも、文字通りの翻訳ではない。聖書の詩篇とか、伝道者の書などの韻文などでは、苦労して日本語に翻訳してはあり、そのもともとの語が持っていたイメージを、講壇から解説をする場面では、伝えるような努力をしてはいるものの、どうやっても伝わらないのではないか、と歯がゆい思いにとらわれることが時々起こります。

       その意味で、コメントの中で、Luceさんが言おうとしていたことは、同じ時代背景と時代環境を通過した人に対してのミッションやUgoUgoさんならではの伝道方法があるのではないかなぁ、ということではないかと思ったりするのです。その意味で、講壇から語ることだけが伝道か、学びか、といわれたら、そうでないともいえるのではないか、と思っています。いま、UgoUgoさんが書いているブログ記事も、伝道ともいえなくはないし、学びだろうと思います。信者とのバーベキューだって、学びだと思います。少なくとも、いずれも、神に対する広い意味での礼拝だろう、と思います。

       また、私が実際に講壇から語るときに、UgoUgoさんが書いておられること、として直接は言及しないけれども、講壇で語る際のヒントとして受け取っているところもあるし。そうそう、世田谷女子高校生嬰児死傷事件は、ブログの話題としても、講壇から語るときのネタとしても使わせていただきました。また、UgoUgoさんの団塊世代への異議申し立ては、間接的にではあるのですが、11月から3回連続でした聖餐式論の基礎となりました。本当に面白いネタのご提供、ありがとうございます。どもどもでした。

       ところで、「霊的に深い」ということは、「言っている意味がよくわからない」ということの言い換えの可能性があります。実際に、ブラザレン派の初期指導者の一人のJ.N.Darbyの書いた英語表現は、同時代の英国人にとっても超難解で、英国人に対して英国人の解説者として当時の代表的指導者の一人であるKellyという人物の解説を要したほどだったようです。とはいえ、その複雑さゆえに「霊的に深い spiritually sound」としてありがたがられた傾向があったようです。ただ、当たり前から抜け出るのは大変ですが、当たり前の内容では、「霊的に深い」とは表現してもらえない可能性が高いのは事実ですし。

       講壇に関与する人間にとって大きな誘惑になりかねないのですけれども、短い聖句をかなりの時間をかけて、じっくり読みこなしていくような学びをされる方に対して、時に「霊的に深い」という評価を人は与えやすい傾向があるようには思います。霊的に深いという評価を得るためにそういう学びをするのは、手段の目的化であり、お勧めいたしません。そもそも、講壇をおもちゃにして遊んではいけないと思うので。

       ついでにいうと、普段その教会で語っていない人の話は、普段聞きなれていない、というだけで、ありがたがられる、という傾向があるようです。私にとっての中学生のころ、何度も聞いた石浜さんのお話は、「また、例のあの話」でしかありませんでしたが、外部の教会(集会)では「大変面白く有益な話」と受け取られていたようです。

       ところで、講壇からの天下りと単なる解説については、ある面で言うと、確かにご指摘の側面があります。私自身も、そういう側面は、否定できないと思います。聖書知識の切り売りというか。それをする ことがよく学んでいると誤解される方も時におられるので。これは語り手にとっての罠の一種だと思います。以前、私どものキリスト者集団では、この講壇からの天下りと単なる解説に なることを避けるために、日常生活であった出来事を語ることが手法で用いられたことがありますが、比較的社会で同質的な理想が追求され、また、社会で比較 的同質的な生活が営まれていた高度経済成長期では、この手法はある面有効だったかもしれませんが、社会での関心が多様化し、分断化、分節化されてしまった 現代社会では、もはやこの手法によって、共通部分を確立することは、かなり厳しいのかもしれません。かといって、無理矢理、何らかの形で再統合するのも、これまた難しいですし。まぁ、サザエさん的手法は多少は有効だとは思いますけ れども。おそらく、お気づきのように、講壇の語り手と参加しておられる聞き手の間に、どのような共通部分を構築しうるか、を模索することが大切なのだと思いますし、聞き手に必要なことを語り手が様々なことに目を配りながら察知しつつ、語っていくことが重要かなぁ、と思います。しかし、これは、語り手だけの責任ではなく、聞き手との共同作業であるだけに、聞き手側にも責任が求められるものでもあるように思うのです。語り手は、聞きてのリパーカッションというか、反応を知ることはかなり難しいのです。語った内容が正確に伝わっているかどうかを実は知りにくいのが一般的なように思います。聞き手からの一定のリパーカッションがなければ、一種の徒労感に襲われるのは語り手の宿命かもしれません。成人男性は、基本的に聞いた後、何かを話してくれるということが少ないので、これまたつらいんですね。聞き手として参加した時に、語り手に下手なことを言うと失望感を与えてしまうのではないか、ということもあるので、そのあたり、フランクにものを言いにくい、というのもありますし。このあたり、聞き手の反応が分かりにくいだけに、なかなか難しいですね。それと、UgoUgoさんがお若いので、従来の方法論と違うアプローチをとると、年長の方から、不信感を持たれやすいのかもしれません。ご存じのようにミーちゃんはーちゃんがいるところは、ミーちゃんはーちゃんがその中でのほぼ在籍期間が最も長い信者の一人であることもあり、そのあたりの伝統を崩す際には、伝統を崩そうとする提案の時にはいやな顔をされましたが、あらかたの反応が予測できるので、事前の根回しやら、問題とならないような対策をかなり工夫してから崩しています。もともと、ミーちゃんはーちゃんの所属しているところの出発点となった宣教師の方ご夫妻が、固定化を嫌う、というところもありましたし。

       まぁ、そうへこまないで。UgoUgoさんには、UgoUgoさん特有のミッションというのかなぁ、よさがあると思うのです。自分の教会(集会)の中だけで、考えるから見えないだけで。UgoUgoさんのよさを大事にしていかれたらいいなぁ、と思いますよ。弱いものへの配慮とか、周辺というか周縁からものを見る習慣というか、現実から離れて抽象化して考える能力というのかはよくわかりませんが、大切なものをお持ちなのだと思います。

       ただ、一言申し上げたいことがございます。UgoUgoさんはまだお若いので、ある理想像とする信者像、あるいは教会で理想像とされるある特定の信者のイメージがあり、それに接近しようと必死に努力されているようにも見えるのです。それはそれで、一概に悪いこととは言えないのですが、時に行き過ぎると、不幸を招くと思います。

       あるシステム理論の本(Weinburgという人の書いた本ですが、どれだったか忘れた)にこんな内容のお話(正確ではないですが)が書かれていました。

      マラソン・ランナーで世界一の走者だからといって、100m競走では世界一にはなれない。

       つまり、Weinburgは、人それぞれ得手不得手があるのでは、ということを暗に示唆し、さまざまな特性の人々が総合的に力を発揮することで、世の中はできているということをいった話だったと思います。ある面、このWeinburgの表現しようとしている話は事実を伝えているように思います。

       UgoUgoさんは、UgoUgoさんの発想の斬新さ、奇抜さ、実行力で教会(集会)を支えていかれるのがよろしいのではないでしょうか。ガンダムを出発点としたGOSPELなんてことは、あなたにしかできないのではないですか。私は、そう思います。公式にさせてもらえなくても、一部の方との会話の中でガンダムファンに神のイワンゲリオンを伝えるなら、それはそれで非常に面白い切り口と思います。

       ところで、最後に三原で奉仕されていて、先日なくなった伝道者の方から2年位前に、お伺いしたお話を少ししたいと思います。実は、この方と関係が深い方が、沖縄方面で、ブラザレンの群れから出て、一風変わったキリスト教の教会をしておられることを別の教会の方からお聞きしたので、そのことについてのインタビューしたときの記録が手元にございます。以下は、そのときに、その方が伝道者となる経緯について触れた部分の抜粋記録です。

      もともと、私は、セブンスデー・アドベンティストの牧師になるための学校に入学するために日本に来ていたのだが、病気になり、入院中に聖書を読んでいるときにセブンスデー・アドベンティストの聖書理解にどうも違和感を覚えはじめ、当時先行してブラザレン派に共鳴していたYさんという方から誘われ、セブンスデー・アドベンティストを離脱して、ブラザレン派の伝道者になったんでねぇ、自分は純正種じゃない。あの当時は、大京町の大会で認められたら、それで伝道者だった時代で、そんな時代の最後の人間かもしれないです。
      と言う発言趣旨を記録しております。

       UgoUgoさん。あせらず、あわてず、へこまず、愚直に教会(集会)にいる人々との共通性を意識しながらエワァンゲリオンをどのように伝えるか、考えていかれればよいのでは、と思いますけど。


       聴衆の方々とUgoUgoさんとの間にある共感できるものが何か?共通するものが何か?がわかれば、信者の方々の睡眠学習の時間が減るんじゃないですか。

       ところで、宝が宝であると判定されるかどうかは、受け取り手との関係で決まる、と思うんですけどねぇ。受け取り手があるものに価値をみいだすかどうかにかかっています。たとえば、日本銀行が信用を失えば、日銀券はインフレを起こします。受け取り手に評価されないのであれば、送り出し側が「宝である」と思うことも、その受け取り側にとっては、「宝ではない」となるのでは、と思います。もし、「宝である」ということを理解しづらい受け取り手がいれば、何らかの共通性によって「宝である」事が伝わるような工夫が大事なのかもしれません。イエスが、たとえ話を多用している背景には、当時の人には「宝である」わかるための工夫という側面があったと思いますし、人それぞれにあわせて神の国を伝える際のアプローチを変えているのは、そのような背景ではないか、と思います。

       そういう意味で、既に試みておられるとは思いますが、聞き手が何気なく語っている内容をよく見ながら、ご自身と共通する部分は何か、あわてず、騒がず、イライラせずに探していく工夫をされていくのがいいかもしれません。説教のリパーカッションを聞く機会、いろいろなところで、あるといいなぁ、と本当におもいます。
      2011.02.26 Saturday

      Evelyn エヴゥリンの祈り という映画を見た

      0
          今朝、5時過ぎに、目が覚めてしまったので、いつもの日課をこなした後、たまたま衛星放送でしていたEvelyn (日本語タイトルでエヴゥリンの祈り)という映画を見ていた。実に面白い映画であった。ストーリーの内容よりは、アイルランドがおかれていた社会状況を非常にうまく描いたという点で、評価したい映画であった。詳細は、映画を見てもらうのがよいと思うが、どうも、日本国内では流通していないようです。となると、英語版DVDのイギリスないしアイルランドで発売されたものを手に入れて見るしかないようです。イギリスとアイルランドで発売されたDVDは、リージョンが同じなので、リージョンフリーDVDプレーヤーでなくても見られるのですね。

         この映画は、アイルランドの家族法の問題(どうも実在したらしい裁判)を題材にとりながら、法と正義の関係を考えさせるものでした。この映画で取り上げられているアイルランド家族法、とりわけ少年法が、当時深刻であった家庭内での飲酒問題により発生する児童虐待を防止する本来の法の目的を外れ、国が家族の問題に法の精神を超えて関与することの問題が焦点になっていたのです。

         この映画を見ながら、政教分離が進む前の国家体制の問題が、非常にうまく描かれていたように思います。本来、善を追求する組織であるべき国家と教会がある目的(映画では直接明確に語られていないものの、暗に語られているのですが、カトリック信仰の維持・発展)を図るために、この少年法に従って、家族と子どもたちを引き離し、カトリック宗教教育をする児童施設というか、寄宿学校に大量の子供を抱えて行く(収容と表現する方が適切かもしれないのですが)実際を、やや批判的な視点で述べています。我々が政教分離というと国が宗教的行事に関与することというイメージがありますが、英国における政教分離というのは、国がその政府の力を使って、特定の宗教集団を支援し、国民生活に強制的に関与していくことの恐怖であることがよくわかります。

         映画では、人間性がやや礼賛されている傾向がありますが、しかし、その中で、個人的に本質を突いていると思ったのは、Evelynという女の子の祈りもそうですが、Doyleさんという子どもを国歌と教会によって半ば強制的に奪われたペンキ職人のおじさんの弁論でした。国側の代理人(弁護士)がアイルランドの少年法が神が与えた子供と親とが共に暮らす権利をはく奪するのは、両親のともにそろった同意がないもとでは、子どもが安全に生活できないからである。あなたは、両親がなくても育った実例を知っているのか?と問うた時に、Doyleさんというペンキ職人のオジサン(オジサンというにはかっこよすぎるが)が最初は問い詰められて詰まりながらも、「父と、神と、聖霊なる神が聖書にあるではないか。自分の父は、聖霊は愛であると教えてくれた」と弁論するシーンです。そういえば、聖霊の本質が愛であり、包み込む存在であることを本質的についているところ、「ふーん、ほー」と思いましたが、もうちょっと聖書からもう少し、深く聖霊論について考えてみた方がいいかなぁ、と思い、聖霊論について聖書から、かなり突っ込んでかんがえてみようかなぁ、と思っています。

         この映画、かなり、聖書理解が必要な映画なので、日本では映画の公開は難しいだろうなぁ、と思いますが、ぜひDVDで興味ある人は見られるようにしてもらえたらなぁ、と思います。

         個人的には、わが信仰者集団がなぜ、アイルランドから出てきたのか、という背景を知ることになったという面で、参考になる映画でした。

         映画の中での英語は、アイルランドなまりがかなり抑えてあって、わかりやすかったと思います。アイルランドネイティブがアイルランドネイティブと話しあうときのアイルランド英語は、英語でしゃべっているとは思えないことがあるので。薩摩人同士の会話が、関西人である私には、日本語でしゃべっている、と思えなかったことがあるので、日本でも同じですが。
        Calendar
          12345
        6789101112
        13141516171819
        20212223242526
        2728     
        << February 2011 >>
        ブクログ
        G
        Selected Entries
        Categories
        Archives
        Recent Comment
        Links
        Profile
        Search this site.
        Others
        Mobile
        qrcode
        Powered by
        30days Album
        無料ブログ作成サービス JUGEM