2010.12.07 Tuesday

クリスマスと十字架

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     神が人として地上にきた。そのことを考える期間が、クリスマスの時期である。

    神であり、神であり続ける存在が、ナザレのイエス(イシュアス または ヨシュア)として人生を歩んだ、そしてその人生には、何も見るべきものはなく、特別なこともなく、ただ、多くの貧しい人々、社会から疎外されていた人々の中で、神の国が来る、神の国とはどのようなものであるかを説き、そして呪われたものとして、木に架けられたものとして、見る影のないものとして、十字架の上で死んだ、ということがクリスマスの中に隠されている。十字架は、イエスの人生にとって大きな意味を持つものであり、少なくとも私にとって、完全に解明できないという意味で、謎であるものの大きな意味を持つことである。

    個人的に好きな讃美歌の中に、「まぶねの中に」という讃美歌がある。作詞・作曲とも日本人による讃美歌である。この讃美歌を思い出すたび、イエスの人生を端的に示した讃美歌だなぁ、と思っている。


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    まぶねの中に うぶごえあげ
    たくみの家に 人となりて
    貧しきうれい 生くる悩み
    つぶさになめし この人を見よ

    食するひまも うち忘れて
    しいたげられし 人を訪ね
    友なき者の 友となりて
    心砕きし この人を見よ

    すべてのものを 与えし末
    死のほか何も 報いられで
    十字架の上に 上げられつつ
    敵を許しし この人を見よ

    この人をみよ このひとにぞ
    こよなき愛は あらわれたる
    このひとをみよ この人こそ
    人となりたる 活ける神なれ

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    一般社会で歌われているクリスマス・ソングとはずいぶん違うが、存外この曲、クリスマスソングとして実は適切なのではないか、と考えている。クリスマスは、どうしても神であるイエスの降誕にだけ目が向けられがちであるが、ナザレのイエス(ヨシュア)の生誕の先にあるイエスの人生、そのクライマックスとしての十字架とその意味(いまだに謎といってよい部分があるので、思いめぐらすことが多いのだが)が私個人にとって、個人的に重要であるということを考えている機会として、クリスマスを十字架を中心に据えて、もう一度、捉えなおして少し整理することを考えている。

     マクグラスの「十字架の謎」いい本だと思います。版元切れで、中古で探すしかないようです。
    2010.12.21 Tuesday

    聖書を味わうこと

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       聖書を味わうように読むことは、大事だなぁ、と思った。

      ついこの間、ジャン・バニエの「コミュニティ」という翻訳本を読んでいたら、読み飛ばしていた聖書の場所が迫ってきた。確かに、この内容が聖書にあることは知っていたし、その部分を何度となく読んではいた。だけれども、それがバニエの表現と現実に位置づけられたその理解を提示される中で、これらのことばが立体的に見えてきて、私自身に迫ってくる感覚を覚えたのである。

      それは、ヨハネによる福音書に記載されているイエスの表現であった。
      ヨハネによる福音書10章16節・11章52節・11章21節〜23節
      「彼らがみな一つになるためです。」「彼らも一つであるためです。」「彼らが全うされて一つになるためです。」という表現をかなり読み飛ばしていたことに気づいた。

      一つということに、かなりの強調がある。これは、マクドナルド的な、大量生産品が同一であるような一つであるという意味ではなく、様々な違い、区別、時間や空間、社会環境の違いを超えて一つであるということの意味が、最近迫ってきているし、このことをイエスが望んでいることを考えている。

      このことを考えるための背景として、ノアの話があるし、創世記11章に出てくる日本語ではバベルと呼ばれたとされる地で起きた事件のことがあるように思えてならない。さらに言えば、アブラハムとロト、アブラハムの子孫とロトの子孫のモアブやアモンなどとの民族間の関係なども直接ではないが、背景として関係しているような気がする。

      もう少し、このことについて、特に一つであることと多様性について、深く考えてみたい。
      2010.12.26 Sunday

      音声を通して聞くことと読むこと

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         最近、音声を通して聴くことと読むことの違いを考えることがあった。

        N.T. WrightのFollowing Jesusを読む中で、音読の魅力、ということを感じたのである。音読されることによって伝わってくるものと、文字で読むことの間に違いがあるのでは、ということを思い出したのである。文字で読んでもわからないけれども、音声となって初めて理解しやすくなるものがあるのでは、と思ったのである。

        旧約聖書にしても音読で伝承されてきたものでもあるし、新約聖書も、そもそも音読を意図して書かれたテキストであることを考えると、音読には音読の魅力があって、文字依存症になってしまった近代以降の人々が見落としてしまっているものがあるのかもしれない、と思うのである。

        文字文化が今、多くのものの基礎となっているが、そもそも文字となることを意図して書かれたものと、音声とすることを意図していたものを文字にしたものでは、かなり違うかもしれない、とふと思うことが時にある。

        以前、NHKのAMラジオの番組で、平家物語をアナウンサーが音読していた番組があったが、個展があまり得意ではなかったこともあるとはいえ、学校の教科書で平家物語を文字として読んだ時にはほとんど理解不能だったのであるにもかかわらず、音読されたものを音声として聞いたときに、ものすごくわかりやすかったことを思い出した。驚くほど、理解できたのである。

        説教を文字にしたときに、抜け落ちてしまう語り手と聞き手の関係、聞き手の側と語り手の側の間の特定の時期におけるある特定の問題や課題の共有関係の中で、語られていることなどが抜け落ちてしまうことだけでなく、音声として語られたものを文字にしてしまったときに抜け落ちてしまう要素が何かあるような気がしてならない。

        そんなことをFollwing Jesusを読みながら、思いだしてしまった。
        2010.12.31 Friday

        聖餐式、またまた

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          コミュニティと、聖餐式の関係を、じっくり考えている。

          コミュニティ、という側面にかなり配慮しながら。そして、社会という側面を考えながら。ナウエンが、コミュニティのモデルとして「いまここに生きる(Here and Now)」で取り上げた、スポークとハブの関係を考えながら。そして、啓蒙時代という時代とそれが生んだ近代という時代と社会特性を。

          中世のカトリック時代を礼賛するつもりは全くないが、その時代、教会はコミュニティそのものであり、コミュニティの中心であった。選択の余地がなく、その地域に生まれた場合、好き嫌いに関係なく、そのコミュニティにおかれ、そのコミュニティの中で生活するのが当たり前の時代が長らく続いた。コミュニティは選択するものではなく、どちらかというと当然のものとして与えられたものという側面が強かったのではないかなぁ、と思う。ヘンリー・ナウエンの南米での経験をもとにを描いた記述の中やナウエンの一部の書籍の記述の中にも、そのような記述があったように思う。

          不満や、不平を抱えつつもそこから脱出することのできない、一種のしがらみとしての存在として存在したかもしれないが、理由なしに一つであるということを感じさせる家族以外の社会的存在として、コミュニティというものは、存在したように思う。ギリシア正教の世界では、どうなんだろうか、と思う。FullHouseというテレビ番組やMy Greek Fat Weddingでも、ちょっとその世界が顔を出しているけれども、個人的には、割と関心がある。単に知らないだけだからかもしれないが。

          話が余談に行ってしまったが、選択ができるということは、個人の主張に対して一定の配慮がなされているということでもあり、それはそれで大切なんだろうと思う。プロテスタントという普遍から外れるキリスト者群の集団が登場することで、信仰上の選択肢が現れたともいえるのかもしれない。

          近代社会の特徴の一つは、この選択ということと深く関係しているのかもしれない。選択するということは、あるものが別のものより、何らかの意味で「よい」あるいは「すぐれている」という評価をしていることともつながる。「よい」とか「すぐれている」という評価をすることは、その選択したものに肩入れするということにもつながるように思う。「よい」とか「すぐれている」と評価することは、それが何らかの意味で『正しい』ということとつながっていく理解をする人々やあることが『正しい』ということを暗黙に想定する人々を生み出すことにもなるのかもしれない。

          その意味で、近代という時代、あるいは啓蒙時代を考え、そのあと登場してきたいわゆるポストモダン社会を考えるときには、この選択、ということは意外と重要なのではないかと思う。そして、ポストモダン社会の中でのコミュニティ、その一つとしての教会というコミュニティ、その中心にあるはずのイエスという存在を。そして、コミュニティの中心にあるとはいえ、コミュニティごとに異なるイエスのイメージの多様性を。そして、そうでありながら、キリスト者というコミュニティの共通項となるイエスと、イエスと神が一つであるという側面、そして、そのイエスという存在を介して、神が一つとなりうるというコミュニティというものの特性を。

          もう少し、このことを考えてみよう。



          2010.12.31 Friday

          「ナルニア国物語の秘密」を見ながら

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            この前、たまたま、気になったので、LaLaTVという衛星チャンネルのひとつでやっていた番組の「ナルニア国物語の秘密」

             http://lala.tv/programs/secret_narnia/index.html

            を見るともなく見ていた。ナルニア物語の背景に、「太陽系の衛星」に関する中世理解があるのではないか、という指摘があったのであるが、それ以上に面白かったのは、トールキンとの関係やC.S.ルイスの自伝では触れられていなかった部分が描かれていた部分である。

            C.S.ルイスは、翻訳でも何冊か読んだが、Mere Christianityの和文翻訳のうち、個人的には、「キリスト教の世界」というタイトルで翻訳されていた大明堂から出ていた翻訳が読みやすかったような気がする。現在、新教出版社から「キリスト教の精髄」という翻訳が出ているけれども、かなり読みにくかった気がする。思わず、オリジナルが同じかどうかを確かめたほどだった。「キリスト教の精髄」を呼んだ後は、英文で読んだ方が、わかりやすかったかな、という印象を持った。

            Mere Christianityは、もともとBBCのラジオ番組として語ったものに、加筆修正したものがMere Christianityと記憶しているのだけれども、それを発端とした対論だったか、科学と神学との関係の対論であったかは忘れたが、そこでの論争や中世の自然研究などの研究ががナルニア物語につながっているというようなストーリーのドキュメンタリーだったように思う。再放送があると思っていたら、当分ないらしいのがちょっと残念だけれども。

            C.S.ルイスは、多くの著作が英文だと出ていたり、毎日読むような普通の信者向けの本が英語だと何冊か出ているのだけれども、それは、彼の文章が割と読みやすく、さらに、何となく味わいがあるところがあるからかもしれない。日本語にしたときに、この辺のニュアンスがどうしても伝えにくいからか、日本では定番化している新教出版社の宗教著作集しか出ないのかもしれない。まぁ、翻訳しろと言われても、まともな翻訳にならないような気がする。

            もう一度、やらないかしら。どこかのチャンネルで。この種のものをしてくれるとしたら、ヒストリーチャンネルか、ディスカバリーなのかなぁ。しかし、LaLaTV。なんで、この番組を流したんだろうか。もう一度、録画して、見てみたい番組だった。もう一度、しないかなぁ。期待しています。
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