2010.11.02 Tuesday

キリスト者・権威性・教会

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    ある方の最近のブログ記事を読みながら、権威性とキリスト者との関係を考えてしまった。

    関連部分だけをまず引用(青字部分)したい。引用元は、こちら

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    それを言う時の聖書箇所は、第一ペテロ5:5 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」

    「長老たち」の前に、「すぐれた」「学びができる」「おもしろい」「成熟した」とかなんの修飾語もついていないので、無条件で長老に従うべきという「理屈」です。

    今ははっきりわかります。まちがいなく読み込みすぎだし、まちがった私的解釈だと。

    (中略)

    なぜなら上述のような学びをするのは日本の西側に多い傾向があるなぁと感じており、しかも西側の人たちはやたら勇ましいというか、キリストの犠牲と(例えば特攻隊等の)天皇教に捧げられた犠牲との区別もつかないほど右翼顔負けの愛国者がいたりして不思議でしかたがなかったのです。

    なぜこれほどキリストに「熱心」で「忠実な」人たちが、右翼顔負けで国家神道的異教の価値観を支持できるのか。ずっと不思議でしたが、なんてことはない「福音が福音以前の価値観を転換させるどころか、支持材料とされ、福音が福音以外の価値観に従属するという構造」なのかもしれないということに気付いた時すごくすっきりした次第です。


    ------------------------引用-----------------------

     牧師や長老(役員)が、権威性を持ったり、その発言が権威性を帯びたりするということは、時にあるのかもしれない。牧師や長老(役員)が責任を問われるゆえに、孤独に感じたり、このブログを書いているミーちゃんはーちゃんみたいな牧師や長老、宣教師であろうと、変かなぁ、と思ったら異議申し立てを平気でしたりする(とはいえ、最初は穏やかにいかがなものでしょうか、と個人的に異議申し立てをしておりますけどねぇ。まずは)乱暴者が教会内にいる場合は、特に、権威性を振りかざして、牧師や長老(役員)が考える教会内秩序の維持を図りたくなる気持ちは、わからんでもないですけれども。

     「すぐれた」「学びができる」「おもしろい」「成熟した」とかなんの修飾語がついているからといって、即それに従うのは、問題かなぁ、と思います。まず、従うべきは、「人に従うより神に従うべき」ということを考えるほうがいいかなぁ、と読みながら思った。いかに「すぐれた」「学びができる」「おもしろい」「成熟した」長老であったとしても、その方に従うかどうか、というのは態度保留しておいた方がいいかもしれません。

     その意味で、現実と聖書のコンテキストに照らして、逸脱があるかどうか、ということを考えるべきかなぁ、と思います。聖書のコンテキストに照らして考える、ということをうまく表現しているなぁ、とおもった記事は、「のらくら者の日記」の

    聖書の <スコアリーディング>

    の記事だったように思います。詳しくは、上のリンクの記事をご覧ください。ここでの主張は、細かなところに拘泥せずに、聖書そのものの主張がどのようなものであるのかを考え、そしてそれを現実と結び付けていくという作業のことかなぁ、と思いました。実は、イエスと律法学者(パリサイ派を含む)との対話、というのは、この種のスコアリーディング的な対話が多いように思うのです。例えば、「モーセの離婚状」だとか、「兄弟たちと次々結婚した女性が誰の妻か」、「弟子たちの麦穂食べちゃった事件」、「両親より神への捧げもの優先行為への批判」などなど、この種のことのオンパレードだと思うのです。

    (例えば特攻隊等の)天皇教に捧げられた犠牲との区別もつかないほど右翼顔負けの愛国者

    という方には、お会いしたことがないので、何とも言い難いところはございますが、義理人情を超えて、教会のためにすべてをささげる、という情熱的というか、熱心に見える雰囲気の方が多いのは、よくお見かけいたします。関西の若い方に多いのかなぁ。キリスト者は、キリストと共に生きるのであって、教会のために捧げるのではないような気がします。ここで、これに関連する場所というのが、マタイ16:24の表現「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。」(新改訳第2版)であり、特に「自分を捨て」という部分の解釈かなぁ、と思う。「自分を捨てる」が日本社会で滅私奉公という概念に置き換わって理解されているのではないか、と思う。「自分を捨てる」という意味が、聖書でどのような意味を持っているのかをよく考えるほうがいいのではないかなぁ、と思う。「自己を捨てる」ということは、本当に滅私奉公を意味するのだろうか。ひょっとして、自己中心の否定であって、人格の否定ではないように思うのだが。人格とは、神との霊的な交わりを可能とするものであり、あるいは霊を通して神と格闘する人を人たらせるもののように思うのだが、違うのかなぁ。人格まで捨てたら、神と対話できなくなるんじゃないかなぁ、と思う。
     
     ところで、右翼顔負けで国家神道的異教の価値観で指し示されている価値観とは、必要以上にいわゆる牧師とか、長老とか言った人々の権威性を高いものとして認める精神構造だと思う。牧師とか長老とかの言動に無批判に従うことは、考えることをやめることだと思う。イエスが、どうしたら永遠のいのちを自分のものとできるか、に対して、律法の専門家の答えは、印象的である。「こころを尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」と記録されている。この記事の記載がある福音書のすべての記載において、知性を尽くして、と書かれている。もともとの申命記には「知性を尽くして」という表現は見られないとはいうものの、神が人間に与えたもうたものの中には、知性があるのだとすれば、それを無意味だというのは、どんなものだろうか、と思う。このことは、存外根が深くて、昔から見られたことなのだろうと思う。隅谷さんの「近代日本の形成とキリスト教」でも、明治期のころ、士族階級での信仰者が増える過程で、江戸期の倫理観と入れ替わる形でキリスト教が倫理として受け入れられていった過程が詳細に検討されている。聖書が日本的な精神構造から特定の聖句だけについて文脈を切り離して読みこなされていくと、倫理としての共通性から、聖書が本来的に主張しようとしていることを読み変えていってしまうことになるんだろうなぁ、と思う。それを防ぐ方法の一つが、聖書の<スコアリーディング>なのだと思う。

     さらに、この記事を見ながら、日本社会の牧師家族が、天皇家そっくりという記事が、Ministryの辛さんのインタビュー記事(一番下の部分)で出ていたが、それは、人に対する権威性を持たせるあまりの悲劇ではなかろうか。無理矢理それを持たされる牧師や責任者の家族にとっても、それを善意からとはいえ与えてしまう信者にとっても。

     そんなことを、上で引用した文書を読みながら、考えてしまった。
    2010.11.04 Thursday

    感謝の心

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       感謝の心。教会で示す感謝の心。これ、忘れていないだろうか。感謝の心、意外と大事かもしれない。特に、教会で隠れた奉仕をしている人。そして、評価はされているものの、そのことを表現してもらえない人。特に、牧師とか、役員とか。

      もうすぐ、勤労感謝の日。勤労感謝の日にかこつけるか、クリスマスの日にかこつけて、プレゼントを渡す、そんな単純なことでもいいかもしれない。

      そんな高価なものでなくてもよいので、若者の信者代表として、感謝を評してもらうと嬉しいのではないかなぁ、と思う。

       当たり前のことに、感謝をすることは、意外と効果的だと思う。本人がしにくければ、何人かですればよいのでは、と思う。意外と、小さな感謝、これは大事かなぁ。
      2010.11.06 Saturday

      日本におけるフィリピン人と地方社会

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         あまり意識して考えていなかったのだけれども、最近発生したいじめ事件の背景にフィリピン人と日本人の間に生まれたお子さんであることが問題の背景にあるのではないか、という指摘が小さないのちを守る会ブログ記事にあった。

         そのことを見ながら、そして、今年の秋、ある農事法人さんのお手伝いをしながら、あることを思ったので、書いてみようと思う。

         日本の地方、とくに農村社会の中に、フィリピン人系と思われる若いお母さんが増えてきたのは、もう15年くらい前からではないかなぁ、ということを思い出した。実は、ミーちゃんはーちゃんは、5年くらい前まで、金融関連の仕事をしていたことがあったので、地方の農村部の市町村から、金融関係の講演依頼があると、農村部まで出かけて行って、町民会館や、市町村役場の会議室で、金融関係の講演会をしていたのである。農村部でも嫌がらずにいくことと、割と、わかりやすい講演をすることもあってか、4−5年連続で山あいの町の金融関係の講演会の講師として呼ばれては行っていた。

         すると、こういう地方部の町では、婦人会や老人会とかいった組織がいまだに機能しているので、ミーちゃんはーちゃんのような半端ものの経済関係の講演会でも、婦人会の人々が人を集めてくれてしまって、あれ、こんなに来てくださったんですか?というくらい10年前までは集まったのである。最近は、呼ばれてないので行っていない。予算がなくなったのかもしれない。ところが、ご来場になっているご婦人の方々が年齢層で雰囲気が違うのである。いまの50歳代(当時は40歳代)以上のご婦人がたの方々と、いまの40歳代(当時30歳代)以下の方々の雰囲気が違うのである。いまの40歳代以下の方々の中に、フィリピン系の方と思しきご婦人がいて、えらい国際的だなぁ、と思ったのである。服装の色合いが違うので、ほぉ、と思った。

         その時、あまり意識しなかったのだが、その後、アメリカでフィリピン系の人々と出会ったり、いろんなことを知るにつけ、その背景を思うと、この問題、差別だけでなく、社会構造として根が深いんじゃないかなぁ、と思ってしまった。

         簡単に図式化して考えるのは、危険だけれども、フィリピンの農村部には、カトリック系の影響を受けた方々が多くお住まいである。フィリピンは、もともと、中国とマレー系文化の融合した地域文化の上に、スペイン統治下のカトリックの影響を受け、独特の文化や宗教的精神世界が広がっている。その後のアメリカ統治下での影響を受け、政治的には(とくに都市部では)アメリカ的な世界観が広がっている。ダグラス・マッカーサーが第2次世界大戦時にフィリピンから撤兵しがらも、彼がフィリピンに異常なこだわりを持ったことはよく知られたことである。

         余談に行ってしまった。フィリピンの農村部やスラムでは貧しい生活が現在もなお繰り返されている。そして、フィリピンでの生活が苦しいために、フィリピンは、海外への労働力と外国からの資金の還流が意外と多い国なのである。ディズニーランド近くのやすいモーテルの夜間のカウンターに立っていた受付の担当者は、フィリピンの大学の法学部の出身者で、フィリピンで弁護士するより、こっちの方がもうかるから、ということで来ていると話していた。こういうフィリピン国外で働いて、その働いた人が仕送りする資金が相当程度貫流していると思う。それから、アラブ諸国でのメード(家政婦)にフィリピン人が多いという話も聞く。ひょっとして、中世のトルコ帝国における海賊と地中海諸国での奴隷獲得の構造が再現されているのではないかなぁ、と思うくらいである。

         で、日本の農村部におけるフィリピン人の多さについて、考え込んでしまったことに戻そう。なぜ、中国人でなく、フィリピン人なのか、ということを考え込んでしまった。それは、身近なアジアにおけるカトリックの影響が強い国ということが背景にあるのではないか、ということである。カトリックの世界観では、原則離婚ということに対する抵抗が非常に強い。しかし、儒教文化圏では、離婚への抵抗はそれほどではない。この差が、フィリピンから来られた女性たちを農村にとどめる要因になっているのではないか、と思ってしまうのである。それ以上に、日本の若い女性(男性)が農村に残らなくなっている、というどうしようもない現状があるのではないか、と思ったのである。

         日本の農村で、稲作をしたとしても、おそらく年間の現金収入としては、100万円残ればいい方ではないか、という現実を感覚として今回知った。農家の人と雑談をする中で、肥料や、農薬、農業機械の代金などを差し引くと、おそらく、今年は、かなりの農家で、赤字ではないか、という感覚があるそうである。農家がそれでも暮らせるのは、自家用の野菜であれば、自分で育てられること、近所の親戚間での作物のやり取りがあること、兼業農家がほとんどであることなどである。兼業での現金収入がなければ、やってられない、というのが実情だと思う。そういう意味で言うと、経済的にはかなり厳しい、と思う。

         そして、農村部では、大家族である。そして、地方独特の文化がある。さらに、配偶者というよりは、嫁という社会的立場が期待される。そして、ヤモリやカエルと同居とか、夏になると家の中に虫が入り放題、という生活環境がある。

         そこでの生活となるとねぇ、と都会で育った多くの若い日本人女性と二の足を踏むのは、理解できなくない。となると、農村地帯での結婚相手が不足することになる。

         そのような背景の中、フィリピンからの女性が結婚相手としてこられているのかもしれない、と思った。そして、基本的に離婚に対する抵抗感が強い、となれば、日本に来たあと、いろいろな理由をつけて、離婚となることもない、また、フィリピンの農家の出身者となれば、大家族文化が残っているし、さらに、稲作文化や農村文化という点での共通性もあり、農村部での定着しやすい、ということなどから、フィリピン関係の方が多い、ということもあるのではないか、と思ってしまったのは、思い込みすぎだろうか。ただ、厳密なケーススタディやフィールド調査をしたわけではないけれども、何となく、もっと深い社会構造が、表面にあらわれた差別構造の裏側にあるのかもしれない、それをキリスト者としてもう少し考え、調査すること、そして、日本の農村部におけるフィリピン系の人々の信仰の問題について、少し考えないといけないかなぁ、と考えている。だれかそんな研究をしていないだろうか。宗教学や社会学とかが専門でないので、自分の分野ではないけれども、関心だけはある。

         そんなことを、今、考えている。

        2010.11.09 Tuesday

        祈りについて

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           旧約聖書の中で記述のある内容から、「祈り」ということを考えている。

           神との距離感と祈りの関係である。祈りは、神との距離感がある中で発生することではないか、と思うのである。創世記の最初のころの人々との関連で、「祈り」は出てこない。しかし、後世になればなるほど、「祈り」という語が出てくることとなる。

           神との直接的な対話ができる状況では、祈りは必要ではない。神との距離が遠くなったときに、祈りという概念が出てくるのではないか、と思っている。

           日本語での祈りには、願いの意味が非常に強いように思う。ただ、聖書で言う祈りは、単なる願いではないように思う。神を信頼しつつ、神と格闘することのように思う。神の思いを知るというか、神との人格的な交流をするということのように思う。日本語で一般に使われる意味としての「祈り」の概念の中には、この神を人格的に知るというのか、神と人格的に格闘するという概念がないのではないか、と思う。

           祈る、ということと神との人格的な関係を結ぶこと、二つはどんな関係にあるのかなぁ、ということについて、ここのところ、思いを巡らせている。

          2010.11.13 Saturday

          祈りについて(続編)

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             祈りは、神との格闘かもしれない、ということを書いた。たぶん、聖書をいろいろ見る限り、その解釈はあながち間違っていないように思う。完全にそうだ、と言い切るだけの自信や確信があるわけではないが。

            なぜ、祈りが神との格闘あるいは人格的な関係を結ぶことが格闘であるのか。日本語でいう祈りと、聖書でいう祈りとの根源的な違いを考えている。

            祈りは、神に対して話すことだといわれることもあるようである。間違ってはいない。ただ、どうも祈り、ということを考えていると、一方的に話すだけではないものがあるように思う。なぞなぞに対するヒントではないけれども、祈りの中で、神との格闘をする中で、形にならない何か、存在が意識されることがある。

            個人的な経験で申し訳ないのだけれども、大音響を伴ってある種の啓示があるようなことは、私自身経験していない。その程度の信仰の人間ではあるものの、それでいいと思っている。直接的な奇跡や、啓示を求める気分には、どうしてもなれないでいる近代人の理性がそこにある。リベラル派といわれるかもしれない。それはそうだろうと思う。だからといって、聖書が軽視されてよいとも思っていない。聖書のテキストは大事だけれども、その意味を考えながら読む作業、というのは案外していないのではないか、と思うのである。

            祈りが神との格闘である、神との人格的交わりである、というのは、聖書の言葉、テキスト、意味と格闘するということではないか、と思う。聖書自体は確かにテキストの集合体にすぎない。テキストに込められた意味としてだれかが語ったこととしての解釈を思い出し、その解釈を考えるのではなく、それが現実を取り巻く環境の中で、現実社会に生きる自分にとって、どのような意味であるのか、ということを考えながらそのテキストを通して、神とコミュニケーションする、ということを通して神と格闘する、あるいは人格的な交わりをすることではないかなぁ、と思いはじめている。

            この関連で、イスラエル(あるいはヤコブ)という人物を考えている。ヤボクの渡しのところで、かれは、「神の人」と格闘し、ある意味で、真剣に祝福を求めている。ヤコブは闇の中で、争った。それゆえ、イスラエル(神と戦うもの・神と格闘するもの)という語を与えられている。ヤコブは、神とも争った人でもあったと言えるかもしれない。神と格闘するまでの祈りを常に人間に期待することは無理だと思う。私には、少なくとも無理だと思う。しかし、時に、このような祈りが必要な時には、人間は経験するかもしれない。それは闇かもしれない。そこで、人格的な神と一人の人格を持った個人としての祈りが行われることをこの記事は暗示しているのかもしれない。イエスが逮捕される前、悶え苦しんだのも闇の中である。両者の闇の中での祈りは、神との格闘であり、神との格闘が祈りであったのかもしれない。

            そんなことを考えている。
            2010.11.16 Tuesday

            ジュリー&ジュリアを見ながら

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               最近、見るともなくJulie&Juliaという映画を見た。フランス料理の作り方をアメリカの家庭に広めたジュリア・チャイルドという女性の料理本を1年で制覇し、それをブログ記事にするということがテーマになった映画である。

               この映画を見ながら、この映画の背景になっているアメリカの戦後社会を垣間見たような気がした。詳しくは映画を見てもらった方がよいのだけれども、背景としてのマッカーシズムが取り上げられていた。

               ジュリア・チャイルドのご主人にあたる人が、共産主義者という嫌疑をかけられて、あちこち左遷されていく姿が、そこはかとなく背景として描かれていた。それだけ、マッカーシズムはアメリカ社会で猛威をふるったし、いまだにいえない古傷となっていることが何となく伝わってきた。ベトナム戦争前では、朝鮮戦争と並んで、最も大きかったアメリカの古傷のような気がする。マッカーシズムを経験した世代(今の60代以上かなぁ)は、いまだに弱者救済的な政策(医療保険なんか特にそう)に対する抵抗感が強いのも、この影響だと思う。まぁ、ベトナム戦争の前奏曲としてのマッカーシズムということもあるのだろうけれども。

               マッカーシズム。弱者救済的な視点への忌避感の出発点になっているのかもしれない。とはいえ、それとは別に、アメリカ人の中には、底抜けに人のいい、かわいそうだから、という同情心あふれる人物が多いのも、またこれまた事実としてあるわけだし。この辺、社会がこんな感じ、と言えないほどのまだら模様かなぁ、と思う。社会って、実態的には、こうだ、と言いきれるものではなくて、こんなところが特徴的、ということくらいしかできないのかなぁ、とこの映画を見ながら思った。

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               そうそう、この映画、実はアメリカの大衆向けの本の出版経緯がちょっと見られる。売れる本、売りたい本が出されていくその姿である。

               売れる本しか出さない、というアメリカの出版事情について、Isn't She Great?というジャクリーン・スザーンの自伝的映画でもあったような気がする。ジャクリーン・スザーンが自分の著書をどうやって売り歩くか、ということや彼女が抱えた様々な問題の中でも力強く生きていく、そんな前向きなジャクリーン・スザーンを描いた映画だったような気がする。ずいぶん昔に見たので、忘れてしまったが。


              2010.11.18 Thursday

              祈りについて(たぶん終わり)

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                 大和郷にある教会のブログで、プロテスタントと旧約聖書というタイトルで、このブログでの対話が取り上げられていた。小嶋先生、お取り上げいただき、感謝いたします。また、私が見えていなかった(完全にブラインドサイドとなってしまっていた)対話のポイントをご指摘いただき、ありがとうございました。

                 祈りについて、ここのところ、旧約聖書(新約も含む)の中から考えてきたのだが、これには続編があったのでした(少なくとも先週の日曜日に講壇から話した限りは。ちなみに私のところは、平信徒主義なので)。

                 実は、この格闘としての祈りを考える際の視点の先となった部分に、祈りとはいえないかもしれないけれども、ゲッセマネの園でのイエスのつぶやき、苦しみもだえがあったのである。ちなみに、だから、ヤコブが、イエスの先行モデルとなっているというようなお話しの線ではないのだけれども。

                 神との格闘として、必死になって祈りの中で神との関係を持ち、神の思いを手探りとして探していく、ということの関連として、いくつかの事例がみられることを述べた。その中に、従者の回復を願った1千人隊長とイエスとの対話にも、そのことが表れているというようなことを少し触れた。非常に重たい要素ではあるが、格闘としての祈りを考えるときに、この話題は避けて通れないように思ったので、それを日曜日では、人格的な関係の探り合い(格闘)としての神との祈りに触れた。

                 さらに、ゲッセマネの祈りが、夜、闇の中での出来事であることも。神と対話する時間としての闇、夜という時間の存在も。聖書をいくつか調べてみると、夜間に神との関係を深めている場面が少なくないことも。そして、創世記の最初の部分も、神と闇の関係を考える中で、思い出した。覆っていた闇。そして闇にうごめく神の霊の存在。祈りと関係がないかどうか、まだ、断定ができないけれども、という保留つきであるとお断りしたうえで、何か関係があるのではないか、ということをお話しした。このあたりは、上沼先生の「闇を住みかとする私、やみを隠れ家とする神」の影響を受けているなぁ、と少し自覚しながらしゃべっていた。

                 そういえば、以前、このブログに移る前にその本についての記事を書いていた。もともと利用していたブログサービスと、Jugemの改行コードが違うので、むちゃくちゃ改行コードが入っているけれども。

                 ヤコブの格闘(イスラエルの名の由来となったヤボクの渡しでの事件)の話題を読みながら、実は、人格的な関係の探り合い(ブログ上では格闘と書いた)とイエスのゲッセマネの祈りがまず、念頭にあったのであるが、それがどのようにつながるのか、ということを、講壇からは、ある程度まとめてお話ししていった。そのために、関連すると思われる聖書のテキストをもとに考えていったのである。その意味で、参照点の一つとしてのヤボクの渡しの事件という側面で捉えている部分はある。ブログでは、そこまではかけていなかったけれども。正直、1時間では、少々厳しかった。2回に分けたほうがよかったかなぁ、とは話しながら思った。また、信仰をお持ちでない方が途中から参加されたので、その点で、配慮したお話しにしていって他の聖書のテキストの言及を省いてしまったり、やや解説的な話に終始することになってしまった。

                大和郷の教会のブログ記事の中で、

                詩篇の言葉が、読む個人の「励ましや慰め」だけを抽出していないか。詩篇の作者の「敵に対する報復の願い」が時に強烈な表現でむき出しになっているのに鈍感になっていないか、と言う指摘であろう。

                というご指摘をいただいていたが、minako様のご指摘の中に含まれる、この指摘については、完全に見逃していた。確かに、詩篇の中には、敵に対する大激怒、みたいな表現が非常に多く出てくる。ダビデなんかの激情のほとばしりに、個人的に「うわぁかなわんなぁ」と思うことが少なくない。なので、詩篇から聖書研究するのはあまり個人的に得意ではない。このあたり、近代人的理性に支配されすぎているので、仕方ないのかもしれないけれども。そのあたりが、リベラル派と言われても仕方がない部分がある。

                また、同じ記事の中で、

                少なくとも旧約聖書はそれ自体で「聖書の権威」がある、と言うのはキリスト教的に言って穏当ではないように思う。
                キリスト教の聖書は「イエス・キリスト」に焦点を当てた上での「旧・新約聖書」全巻一体なのだと思う。
                だから詩篇でも五書でも、「イエス・キリスト」の視点から「権威」として読まれるのが相応しいと思う。

                その意味で、「旧約聖書」をフラットに権威として読んだり、適用したりするのは、不十分であると思う。(逆を言えば、旧約聖書の記述・文言全体を「イエス・キリスト」の視点からではなく、現代人の道徳観や正義感から難詰するのもやはり焦点を外した読み方になるのだと思う。

                というご指摘をいただいた。これもその通りであると思う。確かに、自分が書いた記事やコメントを改めて見ていると、「旧約聖書はそれ自体で「聖書の権威」がある、と言うのはキリスト教的に言って穏当ではないように思う」とご指摘を受けても仕方ない書き方の部分がみられる。このあたり、聖書のテキストとどう取り組んでいくのか、について、個人的にチャレンジを受けている感じがある。すぐには、答えが出しにくいんですけれども。ただ、クリスチャン・シオニスト的な発言が少なくなかったキリスト者集団に属しているので、個人の信仰の背景にある所属するキリスト者集団の聖書解釈に関する人間的な伝統として、旧約聖書に必要以上の権威性を持たせている部分があるような気がする。この部分、もう少し踏み込んで反省すること(考えること)の必要性が思い起こされた。

                 minako様
                   本当に重要なコメント、ありがとうございました。
                 小嶋先生
                  ブラインドサイドになっていた点のご指摘、ありがとうございました。
                  そして、議論のコーディネートありがとうございました。
                  いよいよ、お会いして、お話しをお伺いしに行きたくなってしまいました。

                しかし、自己批判を透徹したものとするのは、やはり、難しいですね。
                      
                2010.11.21 Sunday

                砕かれた心と滅私奉公は違うのではないかなぁ

                0
                   聖書の中に、いくつか、砕かれた心といった表現がある。それを少し考えている。砕かれた心というのは、日本語で言う滅私奉公の概念と似ているけれども、違うかもしれない、と思う。この前、ある信者の方と話をしているときに、「自分をなくしていく」ということを表現されていたが、聖書が言う「砕かれた心」というのは「自分をなくしていく」ということと「同じではないのではなかろーか」ということが出発点となって、最近そのことをわりと考えている。

                   日本語で言う「自分をなくして」という表現の中には、神仙的な世界観(道学的なのかなぁ)の影響があるように思うのであるが、聖書の中に出てくる「砕かれた心」というのは、空気のような存在になるのではなく、自己をしっかり持ちつつも、神の尊厳というのか、偉大さを認める姿のことのように思う。空気のような存在になったのでは、神と関係を持てないのではないかなぁ、と思った。

                   そういえば、新約聖書の中に「砕かれた心」といったような表現が出てきていないような気がする。このあたり、言語というか、言語と密接に結びついた思考についての方向性の違いがあるような気がする。

                   また、明確に言えないのだが、心とか、霊とか言った言葉についての感性というのか、感覚あるいは理解というものが、旧約聖書の時代の人々と現代の日本人とで、ずいぶん違うのではないかなぁ、と思ったりしている。翻訳されている中で、ある程度表現されているというものの、なんとなく、日本語の感覚で読みこんでいくと、どうも違うんじゃないかなぁ、と思うところがある。

                   心、霊、魂という聖書の中に出てくる言葉を読みながら、その中で語られる概念を再整理し、考えていく作業を取り組んではいるが、それを普通の人に分かる表現に直していく作業は、結構大変だなぁ、と思いながら、取り組んでいる。でも、自分が考えている感触をわかるように伝えるのは、なかなか、難しいなぁ、と感じているが、それでも切り出してみるしかないので、もうしばらく考えたうえで、このことをお話ししてみようかなぁ、と、そんなことを考えている。

                  2010.11.23 Tuesday

                  聖餐式について

                  0
                     聖餐式について、最近考えている。

                     聖餐式に参加できない、参加しない信者さんの存在がこのことを考える起点になっている。

                     病気や仕事で聖餐式に参加できないのは、仕方がないとして、長期に参加できない人たち、参加したくても参加できない人たち、参加できるけれども参加しない人たち、参加できない理由や参加しない理由は様々だが、そのような人たちがおかしい、と他者を批判しているのではなく、そもそも論として、聖餐式は何であるのか、ということについて考えている。

                     聖餐式を考えてみると、それは本来、喜びの儀式であるはずであるが、いつの間にか、儀式性が強くなりすぎ、あるいは、説教が長くなりすぎ、お説教を聞く場、となっているのではないか、ということを思う。

                     楽しければ何でもいい、楽しい聖餐式を目指せ、というのではない。聖餐式を感性にどっと訴えるようなディズニーランド化、イベント化してしまうことはどうかなぁ、と思っている。リベラル派的発想なのかもしれないが。、あるいは、ディズニーランド風の演出にするのもどうか、と思う。ディズニーランド風の演出にしていったところで、そのうちマンネリに陥るとは思う。そして、本来の喜びからどんどん離れていく可能性が高いのでは、と懸念してみたりする。

                     イエスの復活の喜びを思い出すための儀式が、聖餐式だということを考えると、もう少し内的な喜びというのかなぁ、神がともにいる喜びというのかなぁ、それを確認する儀式としての聖餐式という側面を考えることが意外と大切なのではないか、と思う。そして、そこに参加する信者も、そのことを思い巡らせるということを聖餐式で考えていただくこと、そのためのきっかけをどのように聖餐式の中で、どのように信者の方々に提示していくのか、ということを考えるのも大事なのではないか、ということを最近、ふっと考えている。

                     そして、聖餐式が共同で行う行為であるということも。どうも、個人と神との関係をあまりに主張しすぎてしまうと、そもそも、教会に入れない人たちが教会の駐車場で始めたラジオ聖餐式、それがテレビ聖餐式となり、そして、インターネット聖餐式となってしまいかねないのであるが、それでは、聖餐式の意味がないのではないか、と思っている。集まって共同作業として実施することに何らかの意味がある様な気がする。そのことに関する聖書的な根拠をイエスやパウロの直接的な言及以外の部分からも探れないか、ということを最近は考えている。
                    2010.11.24 Wednesday

                    聖餐式、再び

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                       たまたま、昨日の夜遅くヤンキー牧師のブログ

                      [命と性の日記〜日々是命、日々是性]

                      を読んでいると、

                      宇多田ヒカルの「人間活動」に学ぶ(2)

                      という面白い記事があった。この前の記事の聖餐式を考えることの延長線上にある記事なのでぜひ、ご紹介したいなぁ、と思う。自己満足としての礼拝(聖餐式)の問題と、聖餐式をどう認識するのか、という問題を取り上げておられる。ブログ記事中でのご指摘、

                      人間活動化しない礼拝」とか「礼拝になっていない人間活動」と呼ぶべき両極端の状態に礼拝は陥りやすいように思うのです。

                      の問題は集団としてのキリスト教会にも起きうるし、個人としてのキリスト者についても起りそうな気がする。

                      「人間活動化してしまった礼拝(聖餐式)」というのは、人間の感性どっぷりに使ったような礼拝で、神とともにいることの喜びという神と共に喜ぶの存在としての人間がどこかに飛んでしまったような礼拝(聖餐式)かもしれない。「礼拝(聖餐式)になっていない人間活動」というのは、本来礼拝(聖餐式)を目指しつつも、儀式性やさまざまな人間的な要素が重視されてしまったがために、本来神と共にあることを喜ぶということが抜けてしまった礼拝(聖餐式)は、[命と性の日記〜日々是命、日々是性]の表現を借りると、人格的交わりであるはずの礼拝が、あたかも労働活動で機能的な行為となってしまうのではなかろーか。

                      この前読んだ、「わが故郷、天にあらず」には、

                      礼拝は、地上の目に見える世界から逃れることではない。時間を超えた世界ではなく、時間の中で行われる。礼拝は「逃げ」ではなく、積極的な参加だ。人間である自分を忘れる時ではなく、一番人間らしい時だ。世界の中心である、神と人との関係が回復する時だ。また真の神を神として礼拝することは、自分自身や自分の賜物を神としないことでもある。私たちの目は被造世界を超えて、それを作られた方を見上げる。礼拝において、人生と希望、また救いの源であるお方に触れる。日々の生活を超えた世界に行くのではなく、生活の中心に向かう。人間存在の核であり、私たちの希望の源である神と交わる。」(同書 204ページ)

                      とあったが、ここで著者(Paul Marshall)のいう礼拝は、聖餐式よりより広い「神と共に生きる」という概念を含むものだと思うが、聖餐式にも当然、このことは当てはまると思う。このことを見失うとき、ヤンキー牧師の表現を借りれば「労働活動的で機能的な行為」となってしまうのかもしれない。聖餐式は、義務と言ってしまえば、「労働活動的で機能的な行為」となりやすいが、聖餐式や祈りのそもそもの価値というのか、意味というのか、その存在理由というのか、「人間である自分を忘れる時ではなく、一番人間らしい時だ。世界の中心である、神と人との関係が回復する時」とその時間(カイロス的な時間といったほうがいいかもしれないが)における人間の関与ということに戻ることが必要なのではなかろーか、と思っている。

                      とはいえ、このように考えていることを聖餐式に来ておられる人に話しても仕方がないのでは、と思いつつも、今度話すテーマはこれにしようかなぁ、と思い始めている。


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