2010.08.04 Wednesday

愚かさについて、考えた

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    近代以降、人は愚かであることを、望まなくなったのかもしれない。

    そして、小ざかしくなることだけを望ましいこと、と考えたのかも

    しれない。人は、もともと、愚かで、弱い存在なのに。それを認め

    たくないことが、数多くの不幸を生んでいるのかもれない。

    パスカルはいった。「人間は考える葦」である。大学の哲学通論の

    とき、湯川佳一郎先生という当時法政にお勤めであった面白い非常

    勤の先生に哲学、考えること、ということについて、衝撃的な講義

    を受け、先生と時にお食事をしながら湯川先生のお話しをうかがっ

    た。その中で、パスカルとデカルトの哲学の本源的な部分に、少し

    かすった気がした。湯川先生は、おしゃれな先生であられた。どれ

    ほどおしゃれかって?

      体育系の学生が、この湯川先生のところに、「先生の哲学通論の

    科目がないと教職が取れないので、よろしくお願いします。」と言

    いにいったらしい。すると、湯川先生本人曰く。「あなたのような

    この科目の単位を取れない方が教壇に立って、これ以上日本の教育

    レベルを下げないでいただきたい。」と言い放ったそうである。目

    が真剣だったから、たぶん、そのとおり言ったと思う。

     あと、電車で走っている子供が車両にいるときには、事前にわざ

    と足を少し出しておいて、足に引っ掛かったときには、「おぼっち

    ゃん、電車の中で走ると危ないですよ。」と言ってやるのだ、と言

    っておられた。戦前の大学人の雰囲気を持つおしゃれさであった。

     近代哲学において大きな影響を与えたパスカルが示した「弱さ、

    愚かさ」を前提にして、それでも考える(哲学的反省と湯川先生は

    述べておられたが)ことの大切さを湯川先生の講義を通して教わっ

    たような気がする。残念ながら、物故されたようであるが。

     ここの所話題になっている秋葉原連続殺傷事件を起こした被告や

    ネグレクトをして子供を餓死、衰弱しさせた女性のことを考えてい

    る。この弱さ、愚かさの受け入れができなかったのではないか、と

    思う。弱い存在、愚かさを持った存在を受け入れる事が困難であっ

    たのではないかと思う。近代が生み出した小賢しさに偏ったための

    悲劇ではないか、と思う。

     ここのところ、塩野七生氏の本が出ていたので、読んでいた。も

    ともと、好きなな作家である。ゲーム論の研究会に出ていたとき、

    その主催者であった先生が彼女の「海の都の物語」を紹介してもら

    ッてからというもののめりこむように読んでいった。コンスタンチ

    ノープルの陥落、レパントの海戦、ローマ人の物語と、ほとんどの

    作品を読んできた。最近出た塩野氏の評論集の中に、「バカになる

    事の大切さ」(塩野七生:日本人へ-国家と歴史編 文藝新書 

    114-119ページ)という小文があった。ナポリのゴミ問題を題材に

    小賢しく生きる事が本当に良いのか、という事を問いかける文章で

    あった。時に愚かになり、愚かさを受け入れる事の大切さを説く

    文章である。(詳しくは、この本を読んでほしい)

     その小論で言われているように、第三者が悪い、として、自分の

    責任を回避する態度、これを小賢しいことであろう、とミーちゃん

    はーチャンも思う。自分のミーハーさに反省しつつであるが。

    この種の小賢しさ、というのが現代では求められているが、底抜け

    の愚かさ、他者を受け入れ、他者と共に生きる、という事が、案外

    重要なのではないか、という事を思っている。人が間違っている、

    と指摘したり、他者がおかしい、社会がおかしい、と義憤を持つこ

    とも意味はあろう。しかし、それでは社会は変わらない。社会を

    変えるのが政治であるとするならば、そこで重要なのは、どうも、

    この一種の愚かしさとも通じる底しれぬ大いなる空洞のような精神、

    あるいは愚かさではないだろうか、と思う。

     他の方の人生や生き方を軽々に判断したくはないが、どうも、

    このような小賢しさがよいとされ、小賢しさに生きる人々が増え、

    小賢しさが価値あるものとされた結果の悲劇だと思う。子供を

    世話することは、愚かさを受け入れることであり、時に愚かに

    なる事である。そして、手のひらを開いて、空洞になる、ある

    いは空洞を作り出して渡して見る事であるかもしれない。

    これができなくなっているのは、現代人があまりに小賢しくな

    った結果、この愚かしさを自分の中に持ち得なくなったからか

    もしれない。自己批判をすることは、小賢しさを捨て、愚かさ

    を認める事である様に思う。小賢しさを捨て、愚かになる事が

    どうも哲学的反省なのではなかろうか、と思う。パスカルや

    デカルト、そして、ソクラテスが、そしてプラトンが主張しよ

    うとした事は、この哲学的反省であり、愚かさに生きる事では

    ないかと思う。

     最近は、書かなくなったが、ミーちゃんはーちゃんのモット

    ーは、『愚公移山』である。愚かさゆえのすごみ、という事を

    もう少し見直してみるとともに、この愚かさを大事にして生き

    てみる事の大切さを少し考えている。


    評価:
    塩野 七生
    文藝春秋
    ¥ 893
    (2010-06-17)
    コメント:政治や文化、人間というものを考えるときに、参考になる。政治とは何か、という事を考えさせるエッセー。

    2010.08.07 Saturday

    教会はだれのものか?ということをタラタラと考えてみた

    0
       先週は一週間、軽井沢で所属会派の教会のキャンプに

      ワーカーとして行っていた。

      子供向け(主に小中学生向け)のキャンプであったが、今

      年は人数が異様に少ないので、大人も子供も混ぜてお話

      をすることが多かった。1980年代のピーク時なら、こ

      の週は、200人規模、2000年代前半でも、100人はい

      たのに、今年は、最初は大人と子供を合わせて10人ちょ

      っと。桁が一つ違う。気合いが抜けてしまいそうだった。

      少子化の影響なのか、塾や、スポーツクラブ、楽器のレ

      ッスンなどで忙しくなったのか、良くわからないが、と

      にかく少なくなった。まぁ、いつも会うのを楽しみにし

      ている横浜の教会からの参加が今週にずれ込んだ、とい

      うのもあるだろう。

      とはいえ、聖書のお話をした。まぁ、ペテロの話をして

      ください、とお願いされたので、ペテロの話や、単発も

      ののエリヤの話などをした。それはそれで面白かったし、

      毎日2回から3回を5日間だったので、多少は疲れた。た

      だ、聞き手の反応が悪いと、ついこちらも熱がこもらな

      くなる。仕方ないところであるが。話し手の勢いをそぐ

      一番有効な方法は、無関心を装うことであることが分か

      る。この辺は、落語家さんも同じらしい。米朝師匠か、

      枝雀師匠がそう言っていたように思う。

      それは、置いておいて、何人かの信者さんとお話した。

      その中で、現状の教会への不満というか、愚痴というか

      ご意見をお伺いした。大半は、指導者や教会への不満、

      教会内でのちょっとした行き違いや、教会内での信頼関

      係の棄損、他の信者さんからの言われたことに対する不

      満や理解できないこと、に対する個人的な違和感などな

      どが語られていた。確かに、専門職としての訓練を受け

      た牧会者を置かないことが多い、我々のような会衆派で

      は、牧会者や責任者は運が良ければ、フルタイム、参加

      者の年齢構成によっては、日常の仕事を抱えながらのパ

      ートタイム(土日だけ)になってしまうために、牧会上

      の配慮のできない教会も出てくる。また、その対応も十

      分でない場合も多い。私の属するキリスト者グループで

      そのような牧会上の配慮が十分でない教会が存在する、

      と断言する蛮勇はミーちゃんはーちゃんにはない。

       このような問題は、英国の18世紀や19世紀のメソ

      ジストでも、起きたようであるが。教育を受けたから、

      といって、即牧会上のケアが十分できるか、人の話を

      聞けるか、そして、聖書の原則に照らして、まともな

      対応策がとれたり、まともな対応策を考えうるのか、

      というのは必ずしも約束されない様に思う。

      要するに、人による、というのが大きいようである。

      責任者、牧会者の属人的要素により、この辺りのこと

      は変わってくるように思う。

       しかし、ミーちゃんはーちゃんである私は、思って

      しまった。自分の教会への不満、指導者への不満、

      指導者や他の信者の信頼関係の棄損の原因を相手にの

      み求めることは、適切であるのか。自分を客体化して

      現実のさまざまの認知されたことがらを、自分以外の

      視点にたってみて、検証してみる努力がなされている

      のか、ということについては、少し疑問があった。

       他者の批判は容易である。自己の正当化も容易であ

      る。自己の批判というか自己を正確に評価し、客観的

      に考えること、これは意外と難しい。安易な道に流れ

      がちなのは、ミーちゃんはーちゃんも同じ。とはいえ、

      その努力をしてみる価値はあると、ミーちゃんはーち

      ゃんは思っている。

       教会が悪い、ほかの信者が悪い、責任者が悪い、こ

      んなことがあったと言い募ることは、「愚かさについ

      て、考えた
      」でも触れたとおり、小賢しさのなせる技

      かもしれない。このように言い募り、悩む前に、キリ

      スト者により現実の形をなすものとして教会が形成さ

      れるのであり、それぞれの信者はその教会の一部で

      あり、教会を形成し、変容させていくものである、

      という視点をもう一度見直してみる、ことが必要では

      ないか、と考えた。あるいは、現状の教会があり、そ

      れを前提としたうえで、では、私たちは一信仰者とし

      て、どのようにこれらの教会を形成するものとなり、

      また、現実に教会を形成している人々、形成していく

      く人たちとかかわっていくのか、ということを考える

      ほうが、よほど有益なのではないか、と思う。批判し、

      遠ざけること、これもまた、一つのかかわり方であろ

      う。しかし、受け入れ、共に考え、違いがどこにある

      のかを見極め、それぞれの立場を思いながら、神の家

      族の一部として、神の家族を形成するものとして、違

      いを尊重しながらも、相互のかかわりの中で、神の家

      族である教会をどう構成していくのか、ということを

      考えるほうがいいのでは、と思った。

      教会は、まず神のものであり、そして、そこに属する

      すべての信者のものであるように思う。牧師や責任者

      一人のものではない。それこそが、コミュニティだと

      思うし、聖餐式が表象しようとしているものだと思う。

      ラルシュ・コミュニティを形成しつつあるジャン・バ

      ニエの著作を読み始めている。バニエとの対話でどう

      概念が変わるか、少し考えてみたい。




      2010.08.24 Tuesday

      キリスト者、かくあるべし論について

      0

         先日のキャンプ以来、今年はことのほか暑いためか、夏バテ状態からの

        回復ができなくて、なかなか作業が進まない。暑いのは、かなわない。

        太っているあんたが悪い、と言われればその通りであり、返す言葉がな

        いのであるが。

         さて、キャンプにいるとき、参加された方から、キリスト者、かくあ

        るべし、という理想のキリスト者像をいくつか、このようなキリスト者

        はいかがか、という望ましくないキリスト者像を拝聴させていただいた

        機会があった。キリスト者であるからには、こうあってほしい。キリス

        ト者であるのだから、このようなことを言うべきではないと言われて、

        いかがかと思ったとか、こういうことを言われたがこれはキリスト者と

        してどうかと思う、とかいうようなご意見を拝聴する機会があった。

         それを聞きながら思ったことであるが、そんな議論は、本当に意味が

        あるのか、と思った。キリスト者の出発点は、「こんな私でもキリスト

        がその命をかけて、永遠のいのちを与えてくださった」ではないのか、

        と思ったわけである。

         もちろん、霊的成長を目指すことは悪いことではない。しかし、一方

        的な基準を作り、その中に入ることがキリスト者として望ましい、

        というような態度や思索については、それでいいのか、と疑問に思う。

        キリストはそのような一方的な基準を設けたであろうか。おそらく、そ

        のような基準を設けなかったのではないだろうか。

         個人として、霊的成長を求めたり、理想の信仰者像を持つことはよい

        であろう。また、自分自身が目指したいキリスト者像を考えることも

        聖書に基づきながら実施するのであれば、有益であろう。しかし、それ

        を他人に強要し始めたり、その基準で他者との比較をすることは、人の

        視点を神の視点とすることとなるのではないだろうか、と素朴に思った

        りする。

         挙句の果てに、自己の倫理的基準に達していなければ、キリスト者で

        ないのではないか、と他者を非難するのであれば、それは勝手に、キリ

        スト者の基準を作っていることとならないだろうか。イエスは、このよ

        うな倫理基準を作ったのだろうか、と素朴に考え込んでしまう。

         ただし、この問題は、カルトや異端の問題とも絡むので、単純では

        ない。基準を設けないとした場合、イエスをキリストとしないものまで、

        キリスト者の枠組みの中に受け入れていくことになりかねないからであ

        る、と私の所属教派の中で、異端的な立場とみられている私が言うのも

        変な話であるが。

         それほど、正統と異端の区別は難しい。正統を目指していても、異端

        や異教になる場合もある。正統を目指していても、手法的な歪みにより、

        カルト化してしまう場合もありうる。異端は避けるべきであるが、避け

        るがゆえに、その先にある人間まで見失うことがないようにしたい、と

        は思う。

         このあたり、人間がキリスト者であることの難しさであるかもしれな

        いが、その人間をいとおしみ、受け入れ、神の子としたのがイエスであ

        ったのではないかなぁ、と思う。


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