2010.05.01 Saturday

アメリカの原理主義と支える者

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     本を枕に-スピリチュアルな日々で最近連載されている

    内容で、原理主義と創造論の関係の議論についての

    アメリカ人ロビイストについてのインタビュー記事の

    話題から、アメリカの福音派と原理主義(個人的には

    聖書中心主義と言うべきだとは思うが)をまつわる

    問題が取り上げられていたし、「のらくら者の日記」

    でも4月20日以降の2週間ほどの間にこの問題は取り

    上げられている。特に、この4月23日の記事

    http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-1399.html

    は秀逸だと思う。

    両者には、指摘されていないが、創造論を巡る

    アメリカ国内の論争の激しさの背景には、アメリカ人

    やアメリカで暮らした人にはピンとくる、アメリカ人

    の論争好きとPolitical Correctnessの議論と深い関係

    があるのではないかと思う。

    Political Correctnessは、極めて訳しにくいのだが、

    社会における政治力学を握った者の発言が正しいと

    される傾向であり、それを重視するアメリカ文化に

    ロックインされた傾向である。たとえば、陪審制度

    などが尊重されることや、陪審制度の中での意見対

    立の処理の仕方、裁判での検察(人々の代表)と

    弁護人(被告人の権利の代表)の意見や権利を対決

    させながら陪審をどれだけ納得させられるかという

    あたりで処理する方法論も、アメリカ人がもっとも

    好むところであるし、また、他国に対して優れてい

    ると思っていると思う。そして、アメリカ人はこの

    陪審員制度に非常に自信を持っている。

     アメリカ人はこのPolitical Correctnessにのって

    さまざまなことを動かしていく雰囲気がある。つまり

    ある段階であるデータに基づき、議論し、それで

    全員が納得させられたのであれば、それでよいではな

    いか、という所がある。

     アメリカが、フセインのイラクに大量破壊兵器があ

    ると結果的には他国をだまして侵攻したとしても、国際

    社会で平然としていられる背景には、もちろん、アメ

    リカが軍事的超大国であるという側面もある。しかし、

    それ以上に多くの国際社会の成員が国連決議の時、ア

    メリカ外交団のロビー活動による説得に納得したから

    よいではないか、と思っている側面があると思う。

     その面で、アメリカで事実としての真理を争っての

    議論であるというより、認識としての優位性を争って

    の議論であるという側面が強い。それを理解せずにア

    メリカのさまざまな論争を見てしまうと、本質を

    見逃すような気がする。

     創造論と原理主義を巡る議論を理解する上で、

    アメリカ人のPolitical Correctnessへの理解を

    知っておくことは重要ではないか、と思う。


    2010.05.08 Saturday

    歴史神学かな?民俗学的神学なのかな?

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       最近、いろんなこと、とりわけ、社会進化論と神学との

      関係を考えていると、いろんなことが気になる。

      ほとんどの30歳以下の日本の公教育で教育を受けた方の

      小学校以来の歴史教育は、実は社会進化論的な歴史観に

      彩られた歴史教育を受けており、その意味である面、

      バイアスがかかった歴史理解になっていると思われる。

      たとえば、大学で歴史学とかをまじめに勉強しない限り、

      この呪縛から抜け出すことは困難ではないかと思う。

      あるは、専門家としてまじめに勉強したとしたとしても、

      奈良時代、平安時代の荘園制度の破たんに伴い、それが

      進化した形での守護地頭制度、それにのっとって武士階

      級の台頭という形での歴史理解の方は多いのではないだ

      ろうか。どうしても、学問自体が学問の社会に自己逃避

      する傾向や学問自体の枠組みにロックインされていく

      傾向があるので。神学に限らず。

       実は、平安朝末期や、鎌倉初期の武士は武士としてみ

      るよりも新田開発者や大規模農業開拓者、資本家として

      見る方が、よほど理解しやすい人物が多い。

       たとえば、新田義貞といった人物は、平安朝の新田永年

      私財法(と私は習った)により、開発してきた新田とその

      収益を根拠に資本蓄積してきた社会集団の出身(そもそも

      新田という名前がそれを示している)である。その意味で、

      奈良朝時代の社会制度の枠組みが生み出した人物であると

      いえる。平清盛にしても、海運事業者の財閥の関係者とし

      ての側面もあような気がしてならないし。

      このように歴史では、時代における進化ととらえられかね

      ない飛躍性よりも、連続性が実は強い様に思われるのである。

       江戸時代の武士に与えられた官職にしてもそうである。

      勝海舟は、勝「安房」守であるし、吉良「上野」介にも

      見られるように、守護・地頭時代の地域名の官職が残って

      いる。武士階級では、個人の姓以外に、源平藤橘が明らか

      であることが大事で、そのことを武士としては明らかにし

      ておくことが求められた。家紋などで、その一部(下がり

      藤など)や笹紋が表されていたようである。その意味で、

      江戸時代の社会的基層の基礎制度は、奈良・平安時代の制

      度に乗っているといえよう。

       江戸時代末期の時代の奇妙さは、江戸幕府が実際の政策

      を担当し朝廷を通常はほとんど無視ししていながら、幕末

      の志士達のはねっ返りの結果、朝廷が担ぎ出されたら、突然

      彼らが戦意喪失していったことや、突然、この奈良・平安朝

      以来の古式の伝統が突然よみがえってしまうことにある。

       徳川家は、本当にそうかといえばかなり怪しいとされるが、

      源氏の流れを(征夷大将軍を拝命する関係上らしい)組むと

      なっているので、源の朝臣、従四位の上、徳川慶喜 といっ

      た朝廷の名義上の官職が一応武士階級には全部ついている

      ことになっている。つまり、江戸時代は、基本的に、奈良

      平安朝の延長線であると、普段は無意識であるとしても、

      人々はそのような漠然とした意識下にあったのであろう。こ

      のため、錦の御旗(錦旗)を見た瞬間に、突然、普段は全く

      朝廷との関係を無視して統治していたにもかかわらず、自分

      たちが位置づけとしては自分たちが朝臣であることが思い起

      こされてしまった結果、身分上は朝廷の臣下である身分が錦

      の御旗を掲げる相手(朝廷)と戦闘するということは、身分

      社会の根底を揺るがすことになりかねない、と武士階級とい

      う身分社会の中で生き続けてきた人間に、突然素朴な疑問を

      生み出し、戦闘をするのをやめるちょうどいい理由として

      しまったのではないかと思う。そもそも、戦闘意欲があまり

      あったわけではないし、もともと、武士階級は、江戸期には、

      実際には武装集団(武官)というよりは、官僚集団(文官)

      へと変質してしまったので、文官の特性として、口先では戦

      闘意欲があるというものの、本心としてそもそもどの程度戦

      闘意欲があったかは疑問であるように思う。文官集団として

      の武士団よりは武装集団としての有効性として、長州の奇兵隊

      (今でいえばゲリラ部隊か火力の強い特殊部隊)のように、

      武士階級に頼らない特殊部隊の方が、よほどまともに戦闘で

      きたという側面もあるだろう。武士集団が、突然朝廷の権威に

      参ってしまった背景には、江戸時代の武士階級での国学の普及

      と充実があるのも忘れてはならないだろうけど。だからこそ、

      錦の御旗が意味をもったのだろうし、国学が普及している相手

      であることを見越して、戦意喪失のために利用されたのだろう

      と思う。

       文官という意味でいえば、帝国陸軍末期には、一部を除いて

      帝国陸軍将官が実質文官化してしまっていたので、武官として

      の能力の低い将官が高位の将官に多かったこと、その作戦計画

      が無謀であったことが戦史研究の結果、知られている。海軍も

      似たようなものらしいが。

       余談が行きすぎたが、網野善彦氏の著作のいくつかにも、

      日本の戦後の主流派の歴史学が、社会進化論の影響を受けすぎ

      ており、歴史理解が歪んでいる可能性があることが指摘されて

      いたが、それはその通りであり、現実の歴史として素朴に見る

      目が覆い隠されているように思う。この背景には、戦前の皇国

      史観のアンチテーゼとしての戦後のマルクス史観の役割や、

      民主主義と混乱して理解された社会主義の諸問題(もともと、

      民主主義が日本にはそもそもなかった社会システムであるため

      かな?)があるように思われる。

       その意味で、現在の60代から30代までのかなり幅広い人々の

      歴史教育は、社会進化論に基づく歴史教育を受けているので、

      実はかなり歪んでいる可能性がある。だからといって、新しい歴

      史教科書を作る会のようなやや右傾化した歴史教育を願うつもり

      はないのだけれども、もっと、事実を虚心坦懐に見つめた文化人

      類学的なあるいは民俗学的な歴史意識を持つことは重要だと思う。

      尚、自然人類学にしても、文化人類学にしても、人類学自体、進

      化的思想で生み出されてきたものではあるのだけれども。

       その意味で、進化論というものが、学問の隅々にこびりついて

      おり、なかなか価値中立的に考えにくいところはある。

       個人的に尊敬してやまない、というよりはほとんど私淑してい

      るといってよいマクグラスの研究分野である歴史神学は、歴史の

      中で、どのように聖書から神とその理解を切りだしてき、現実社

      会と切り結んできたのか、に関する研究体系であるといってよい

      と思うが、一つ問題があるとすれば、ある特定の神学や聖書理解

      の立場がどのような社会環境の下で生まれてきたのか、というあ

      たりの論考をもう少し考えた方がよいのではないか、と思う。

      George M. Marsdenの本を読んだり、ブラザレンの歴史的

      展開を考えた文章を書いているうちに、このことは確信に変わり

      つつある。単に過去の神学者の議論や信仰者の在り方、信仰者の

      考え方や教派の形成を追うだけではなく、社会の動き、歴史の動

      き、社会意識と、聖書理解の形成や聖書解釈の形成、教派の形成

      と教派の特性はかなり密接に結びついており、その結びつきを

      解明していくことが必要ではないかと思っている。この前、マクグ

      ラスの「宗教教育を語る -イギリスの神学校はいま」を本屋で

      立ち読みしていたら、これまでの宗教教育あるいは神学校教育が

      社会から引きこもり、神学者の研究を整理して教育する機関にな

      り下がり、実践の学としての神学教育が弱体化していたことの

      批判について講演の中で触れられいましたが、それと同様に、

      それぞれのキリスト者グループがどのような歴史的環境の中で、

      聖書理解を形成したかを知ることは重要であろうと思う。マルク

      ス史観などの社会進化論とは独立に、聖書理解とそれが生み出され

      た社会の現実を虚心坦懐に並行して眺めていくなかで考えていくこ

      とは重要なのではないかなぁ、と思っている。現代に生きる人々

      に神の言葉を伝えていくための前提として。

       その意味で、それぞれのクリスチャンが、自分たちが漠然と考え

      ている聖書理解をもう一度、文化的コンテキスト、歴史的コンテキ

      ストとの関連から見直し、どう考えていくのか、ということは重要

      ではないかなぁ、と思っている。

       福音派全体について、何かを考えるという能力と資金的余裕は

      今のところないので、私自身は、ブラザレン派とその周辺については

      調べ、論考していこうと思っています。その意味で、Bookmarks

      にあげてあるベタニア・ホームを書いておられる野村基之先生はより

      幅の広い観点から研鑽をしておられるので、凄いなぁ、と改めて思っ

      てしまいます。野村先生のサイトは、友人が「東京キリストの教会」

      に誘われて、行っていいかを聞かれた時の情報源として、役に立ちま

      した。そこに誘われた友人には、深入りしないように、と話しておき

      ましたけれども。

       ところで、拝読させていただいて、このブログでも時々、引用させ

      ていただいている「のらくら者の日記」の方からご紹介いただく光栄

      にあずかり本当にびっくりしてしまいました。私は正規の神学教育は

      全く受けていないので、それこそ、イギリス風のアマチュアリズムで

      歴史神学まがいのことをしている在野の人間で、もともとブラザレン派

      でそだったので、教会でも説教もどきのことをしているモグリの人間、

      あるいはアマチュアであるにもかかわらず、逆引用していただきました。

      ご紹介いただき、感謝しております。ここに御礼申し上げます。


      しかし、また、収拾のつかないブログ記事になってしまった。

      2010.05.11 Tuesday

      アメリカ型資本主義と医療をめぐる体験的考察(1)

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         あまり長く滞米生活はないが、合計で2年弱の滞米生活で思ったことを、

        南の国のコメント王子様のブログ信州小諸論壇様のブログで思い出して

        しまいました。

         アメリカ社会における社会的弱者と聖書理解に対する考え方に関する

        考え方に関して、もう一度考え直さなければならないのかなぁ、と思いま

        した。

         確かに、アメリカの医療水準は、非常に高度なものがありますが、しか

        し、その医療を正当に受けるためには、非常に制限があることは事実です。

        国民保険(その保険料と運営システムが妥当であるかどうかは別として)が

        ないアメリカでは、まともな医療は、お金や保険をかけてくれる勤務先が

        あるかどうかによります。これは、厳然たる事実です。お金がなければ、

        病気にすらなることができない、これがアメリカの現実でもあります。

        この辺は、マイケル・ムーアが悪ふざけをしながらではありますが、

        Sicko!(シッコ)という映画で触れています。しかし、グアンタナモ・ベイ

        (テロリスト収容施設がある)で収容者と同等の医療を受けさせよ、とアメリ

        カ人に叫けばせて、映像化するあたりが、マイケル・ムーア。

        また、同様な状況は、日本の無保険者(国民保険および各種健康保険の非加

        入者)の方々の厳しい現実でもあります。自治体によっては、緊急避難措置を

        してもらえるところもあるようですが。

         近年、合衆国の大学などの留学先では、医療保険の保有者である証明を

        出さないと、留学を受け入れてもらえないところもあるなど、いくつかの

        問題がでているようでもあります。なぜ、こうなっているかというと、無

        保険者である学生を大学が受け入れた場合、その学校の学生であると語って

        治療を受けた場合(学生証を見せるなどして)、治療費自体を大学が請求され

        ることになることなどがその背景にあるようです。特に留学生などの場合、

        米国でも入国管理局の審査と確認は厳しいものあるとはいうものの、突然

        の帰国があったりと、留学生を抱える大学側にもいちいち管理しきれない

        という問題があり、高額医療費(普通の病気でも結構高い)の請求の処理の

        問題というのはかなり頭が痛いようです。

         私が行った時も、旅行保険(滞在型)の中でも一番高い保険に加入して

        行きました。1年間で1人10万近い金額を払った記憶があります。この保険を

        利用する機会はあまりなかったのですが、1回だけ、配偶者が中耳炎になった時

        があり、治療までに1ヶ月待たされた上に、数回の診療で5万円近い請求書が

        来たことがあり、非常にびっくりしました。たまたま、米国系の保険会社AIG

        の関連会社の保険だったこともあり、信用度があったのか、結果的に請求はま

        わされることはなかったですが。最初の治療費の請求書、現金で払え、と言わ

        れた時には、びっくりした記憶があります。つたない英語で、現金で払え、と

        ギャンギャン言ってくる会計担当者と延々と交渉したことが思い起こされます。

         日本だと、その日に行って、即治療、保険が効くから2千円でおつりがくる

        治療であるにもかかわらず、なんだ、これは、と思った記憶があります。

         アメリカのホームコメディや映画なんかでも、保険の問題はかなり深刻で、

        給料の決定と同時に、保険の問題の決定も同時に議論しているシーンが時々

        あります。映画パーフェクト・ストレンジャーの中でも、ちらっと出てきた

        ような気がします。特に、歯科の診療がオプションとなっている保険も

        (勤労者の医療保険でも)結構あるようで、Cover Dentistsとか、Including

        Dentistsといった表現を時折聞くことができます。この医療保険は、給料と

        並び重視されるベネフィット(福利厚生)と呼んでいる項目の中で、かなり重要

        な要素のようです。

         日本では、医療保険にしても生命保険にしても、最近はいろいろな病気や

        けがを保証する仕組みがありますが、アメリカでの医療保険は、基本的に

        個人の問題とみなされているようです。Sickoの中で、マイケル・ムーアが描

        くところによれば、国民皆保険は社会主義的な制度であるから、反共を経験し

        た米国人には、共産主義が受け入れられないため、どうしても受け入れにくい

        というところがあるということもあるのでしょうが、まともな病院や医者が

        いない地域に住んだ伝統が長いのも、一つの影響としてあるように思います。

        この辺、カナダ人も同様なのですが、カナダ人は、住んでいる地域がややア

        メリカ大陸でも北側に偏っているためか、やや集中して住んでいる傾向も

        あること、旧宗主国が同じイギリスであるとはいえ(アメリカ人にこれを言う

        と、ボストン・ティーパーティ事件以来の話を延々聞かされる可能性がある

        ので要注意)、イギリスの連邦国家としてイギリスと比較的近い制度運営がさ

        れてきたカナダと産業革命前後にイギリスから独立して、一線を画して制度

        運営がなされてきたアメリカ合衆国とは、銃規制や銃に対する考え方、

        社会に対する考え方が、ずいぶん違うようです。このあたりは、ボーリング・

        フォー・コロンバインで詳しく知ることができます。これも、マイケル・

        ムーアの作品ですが。

        ちなみに、アメリカで救急車を呼ぶと、料金を請求される(または、保険会

        社に請求される)場合もあり、これがまた、大変だったりします。事故にあ

        ったとき、消防と一緒に救急車が来ましたが、乗ったら有料だが診察まで

        待たされることはないが、かなりする。乗らなくて、自分で病院までいった

        ら費用がかからないが、待たされるがどうする、と言われて、結局、自力で

        病院まで車で運転していった記憶があります。日本のようにタクシー代わりに

        救急車を使う人がいるのはどうかと思いますが、有料の救急車というのも

        どうか、とも思います。

        ちなみに、産業革命期のイギリスや、1920年代までの消防は、基本民営だ

        ったので、火を消してもらうにも費用がいったこともあり、その問題が大き

        くなり、公的サービスに次第に変わっていったようです。







        2010.05.15 Saturday

        アメリカ型資本主義と医療をめぐる体験的考察(2)

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           アメリカ型の資本主義社会と直接医療とは関係しないが、間接的に

          関係する話を一つ。

           アメリカの医療を巡る問題を描いたテレビドラマや映画が非常に

          多くあるが、その中で思いつくものをあげていくだけでも、最近で

          はERやグレイス・アナトミー、ドクター・ハウスなどなどきりがな

          いが、医療と保険を巡る問題は、さまざまな映画の中で取り上げら

          れている。たとえば、ポール・ニューマンの「評決」では、医療過

          誤の問題が取り上げられているし、マット・デイモンがでている

          (個人的には、わき役のデヴィートから探した映画)「レイン・メー

          カー」では、医療保険制度の詐欺的構造(アメリカでは実在しそう

          なだけに怖い)が良く描かれている。また、純粋に医療ではないが、

          医療関連と公衆衛生の問題では、「インサイダー」などでも、主人

          公が退職させられ、保険を失うなど医療と保険を巡る問題が、さま

          ざまな形で表現されている。医療問題といえばジュリア・ロバーツ

          が出ている「エリン・ブロコビッチ」もそうだし、保険という意味

          では、「アバウト・シュミット」のシュミット(ジャック・ニコルソ

          ン)は保険会社の社員さんだったと思う。

           アメリカの保険会社の請求とその対応のまずさは、日本では想像

          を絶するものがある。アメリカの保険会社は、払わなくてすめば、

          それはそれでよし、とする部分がある。海事裁判のレポートを作成

          した時、判例時報を山ほど読んだが、そのような傾向が見て取れた。

           事故や疾病が生じたとき、アメリカの保険に加入している場合、

          保険会社に、損害保険の場合は被害者、健康保険の場合は、傷病者

          から保険の支払申請(クレイムという)をすることがまず出発点となる。

          (日本みたいに、医療機関でしてくれないので。)保険請求を起こした

          場合、大抵は、かなり待たされる。またされた揚句、なんだかんだ言

          って支払を回避しようとする。支払ってもらいたいときには、「裁判を

          起こすぞ」とか言わないと、まともに取り合ってもらえないことも

          あるし、そうであっても、まともに取り合おうとしない体質がある

          様に思う。

          この体質を如実に示すのが、映画「レインメーカー」で、その中で描

          かれている保険会社のシステムの中で、書類をやり取りしたりさせて

          いるうちに、保険金の支払いをしなくするよう、保険者をあきれさ

          せてしまうのではないか、ということを何となく肌で感じる。

          保険金詐欺も多いとはいえ、保険会社自体が詐欺的商法をしていると

          いう映画であった。アメリカ人の実体験が反映した映画ではないか、

          と思う。保険がなかなか支払われないことに、ため息をつきながら

          くらしているアメリカ人のフィーリングに基づく映画かなぁ、と思う。

           実際に、自分が追突事故で被害にあって、その保険処理に4カ月近く

          かかったことを考えると、ほとんど、絶望的な気持ちになったことを

          思い出すが、アメリカ社会の一面を知るいい機会だったと思う。

          単純に、アメリカ型社会の良さを吹聴して回る「おバカ」にならな

          くて済んだ、という意味で。アメリカ型社会には、アメリカ型社会の

          良さがある。しかし、それとともに、その良さの半面、非常に暮らし

          にくい側面があることも忘れてはならないだろう。このように社会シス

          テムとして、いかがかなぁ、と思われる側面もあるものの、基本的には、

          人のいい人も多い社会であることもまた事実。この辺、大いなる田舎者

          のなせる技であろう。

          次回、最終回は、グラスルートとしての教会や学校を通しての貧者救

          済について、そして、麻薬やアルコール中毒者と教会とのかかわりに

          ついて考えていきたい。


          2010.05.16 Sunday

          ともにいるということ

          0
             
            私たちは、さまざまな生き方ができますし、多くの人はさまざまな

            生き方をしておられます。ただ、人は人とつながっている、あるいは

            何かの時に他人の世話になることが必要な状況がありますし、

            人間には、他人を確実に必要とする場所があります。たとえ、孤独

            な生き方をしている人でもです。

            まず、そのことのイメージを理解してもらうために、「28Days」と

            いう映画の1シーン(シーン26の依存症の女性とその姉との対話のシ

            ーン)を見てもらってからお話を進めたいと思います。

             (ここで、そのワンシーンを見てもらいました。)

            この映画は、アルコール中毒の女性の回復をテーマにしたものですが、

            主役のグウェンまたはグウェニーと呼ばれている女性(サンドラ・ブ

            ロック)とその姉との対話のシーンです。彼女たちのお母さんもアル

            コール依存症で、その影響を受けたグウェンは、子供時代にお姉さん

            から離れて一人歩いていた、という対話がありましたが、私たちの

            ある人たちの生き方は、そういう生き方かもしれません。しかし、

            映画の中で、そんな独立心の強いグウェンに対して、姉は、「あなた

            も誰かに世話してもらうことが必要だったのに、私はそれを提供で

            きなかった」と言っています。たとえ、私たちは、強がって一人で生

            きていても、完全に一人で生きていけない、ということを示している

            ように思います。

            それでは、今日のテーマの関連する聖書の場所を見てみましょう。

            ヨハネ10章11節です。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊の

            ためにいのちを捨てます。とイエスは言っていますが、羊飼いは、

            羊と一緒にいる事が重要なわけで、羊と一緒にいない羊飼いはおかし

            いですよね。9時5時のサラリーマン羊飼いというのは、当時はあり

            得ないわけです。

             また、羊自体は、近視なので、周辺の状況が見えなかったり、

            どのような場所に草があるのか、といった事はなかなか自分で

            認識できませんし、水がどこにあるのかすらも認識できないため、

            羊飼いが連れていく必要があるわけです。そのような意味で、

            人間にとっては、誰か世話してくれる人が必要なのだ、

            ということをイエスは私たちにいっているように思います。

            さらに、ヨハネ5章40節では、

            それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもと

            に来ようとはしません。

            とイエスは言っています。イエスは世話をするために、永遠の

            いのちを得るための世話をするために、私たちの周りにいるの

            ですが、人間の側で、神のもとにいかない、ということを指摘

            しているように思います。すでに永遠のいのちは神が与えようと

            していてくださっているのですが、そのすでに与えられようと

            している永遠のいのちを人間の側が取りに来ていないのではな

            いか、ということを問題提起しているように思うのです。

            さらにイエスは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはし

            ません。
            」(ヨハネ14章18節)と言っています。イエスの

            ところに行ったばあい、一人で孤独に生きるのではなく、イエ

            スが私たちを捨てない、ということを主張しておられます。

            最後になりますが、同じような表現がへブル13章5節にあり

            ます。

            主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを

            離れず、また、あなたを捨てない。』

             このように、神のもとに行くとき、羊飼いのように私たちと

            共におられる神ご自身は、私たちと共に、私たちの状況とは

            関係なく共にいてくださることを見る事が出来るのです。

            神は、いま私たちのそばにおられます。私たちが貧しいか、

            悲しんでいるか、喜んでいるか、豊かであるかに関係なく、

            そばにいてくださるのです。ぜひ、皆さんが一人で生きる

            のではなく、私たちのそばにおられる神にお気づきになり、

            神と共に生きる、という生活をお勧めいたします。イエスは

            ヨハネ5章40節でみる事が出来るように、皆さんが、イエス

            のところに来られるのを待っておられるように思います。

             ぜひ、イエスと共に生き、孤独な生活ではなく、神と共に

            生きる生活をされることをお勧めいたします。


            2010.05.18 Tuesday

            アメリカ型資本主義と医療をめぐる体験的考察(3)

            0
               アメリカ社会で、どうにかならないのか、とアメリカにいて思った時の

              いくつかのことに、前回取り上げた、保険や医療にまつわる問題に加え、

              麻薬やアルコール問題の根深さと広がり、ホームレスの問題、貧富の格

              差の問題がある。

               いずれも、どこか社会保障に関する、あるいは人間社会を包み込む社

              会的ネットワークの貧困さに由来する話である。日本社会がその方向に

              急速に進みゆく中、少し気になるといえば気になる。

               この問題の背景には、社会的ネットワークというか、プットナムのいう

              「ソーシャル・キャピタル」の損耗が影響しているようにおもう。プット

              ナムは「孤独なボーリング(Bowling Alone)」の中では教会の出席率の

              低下が社会の中で人間を支えるソーシャルキャピタルの損耗の一つの指

              標として取り上げている事は意味深長であると思う。

               麻薬の問題の背景には、1960年代のヒッピー文化、ベトナム戦争の

              中で生まれた社会潮流があると思う。社会政治的な逃避の手段としての

              ヒッピー文化と精神性会としての逃避の手段としての麻薬(コカインと

              かヘロインとか、マリファナとか)があり、それらはパラレルな関係に

              あるような気がする。あと、アメリカ人の耐え難いほどの薬依存もある

              と思う。比較的容易に、アルカセルツァー(頭痛などの鎮痛剤)やアス

              ピリンが入手できるし、それが気軽に使われることで、実際にひどい痛

              みの時の鎮痛剤が効かなくなっている人がかなりいることも事実である。

              アルカセルツァーやアスピリンなどは、処方箋がなくても米国では購入

              できるので、気軽に常用されることとなり、いざ鎮痛剤が必要となった

              時には、すぐに毒性や中毒性の強い薬剤に移行せざる得ない場合も多い

              ということを目の当たりにしてきた。

               もちろん、米国社会が競争社会となった結果、高ストレス社会である

              ことは、言うまでもない。以前であれば、その高ストレス社会を中和する

              フラタニティ(社会的中間組織や同窓会などの組織)やPTA等の地縁型

              組織、教会への参加が衰退し、個人が孤立化し、それらの組織の個人への

              支援機能が弱体化していく中、その孤立を回避する手段、個人の孤独を

              埋め合わせる安易な手段としての麻薬の問題はあるように思う。

               アルコールも、あまり日本では問題視されていないが、米国では非常に

              深刻な問題としてとらえられている。それだけ、アルコール依存の問題が

              深刻であり、人生を破滅させる人々が多いからでもある。そして、特に

              家庭内でアルコール依存の問題がある場合、家族にアルコール依存症患者

              の問題が影響し、非常に悲惨な世代間連鎖の状況を生み出すからである。

              米国で深刻なのは、ビールなどよりもよりアルコール度の高いスピリッツ

              類(ウィスキーだのバーボンだの)が普通の家庭にあって、それが割と

              気軽に利用されることが多いため、実はかなりの数のアルコール依存症

              患者が社会に存在し、それが離婚の原因になったり、機能不全家族を

              生んだり、アルコール依存のためのアルコール支出のためにホームレス

              化する家庭や個人があったりと、現実にはかなり悲惨な現実がある。

              ホームレスの全部がアルコール依存症患者や麻薬依存症患者ではないが、

              ホームレスの問題の裏側ではアルコール依存や麻薬依存の問題が関係し

              ていることは確かである。

               従来の社会的紐帯が弱まり、これらの問題の早期発見が困難になった

              結果、依存症の問題の深刻化進み、表面化が遅れた結果、対処の遅れに

              より悲惨な結末を迎える事例が増えているように思われる。

               また、貧富の問題の深刻さ、社会的バックアップシステムのないこと

              による悲惨さは、言うまでもない。アメリカでは、生活保護として、

              公的住宅(犯罪の温床であることが多く、汚職の温床であることも

              多いため、手抜き建築や不都合が多く、住まいとしては課題が多い)

              が支給されたり、現金支給の場合、アルコールや麻薬に化けることが

              多いために、フードスタンプ(食料品との引換券)が支給される。

              スーパーのレジには、このフードスタンプの利用の専用レジがあるの

              で、ちょっと気まずい思いがすることもある。

               あと、高校生の妊娠の問題も、結構悲惨な社会側面である。中絶が

              違法の州もあること、キリスト教的な文化的背景の名残もあるのだろ

              うが、結構、高校生の未婚の母の問題は深刻な影を落としている。

              生活力のない家庭の問題、学歴社会における低学歴、能力開発が

              十分されない中での、低賃金に甘んじなければならない問題、さまざ

              まな副次的な問題を生む根源になっている。


               教会が、これらの人々に全く何もしないか、というとそうではない

              ことが多い。ただ、教会により、取り組みは大きく異なる。ホームレ

              スを受け入れる教会、ホームレスや未婚の母などの支援団体の支援

              (スタッフやボランティアの派遣、資金提供)、カン詰めなどの

              物資の募集など、さまざまなレベルでの取り組みがなされているが、

              社会の外部にいるとそのことは分かりにくい。内部でかなり活動に

              関与して初めて分かる部分があるように思う。

               アメリカ型の福音派の教会が社会福祉をする視線が、それほど強

              くないのには、過去の歴史的遺産、ニーバーなどの社会的活動の重

              視やリベラリズムとの関連、教会そのものが、さまざまな社会的弱

              者のボランタリーな保護組織となってきた伝統があることに加え、

              マッカーシズムの時代を経た社会において、社会的福祉が社会主義

              が連想されやすいことゆえの、共産主義的な思想が連想される

              ことへの否定的視線があるように思えてならない。それと、社会福

              祉的な活動そのものが、伝道に直結しなかった、ということについ

              てのムーディの反省も影響を与えていると思う。ムーディは米国福

              音派の形成に大きな影響を与えた人物であるが、その伝道の末期に

              は、社会との分離の方向に進んだようである。

              その意味で、アメリカの福音派の教会運営を考えるとき、あるいは

              アメリカからの伝道者集団により教会建設が推進された教会群には、

              固有の文化的背景に基づく行動原理が含まれているようにも思う。

               今、George M. MarsdenのFundamentalism and American

              Cultureを読みながら、南北戦争、そして、アメリカの社会・政治的な

              風土がどのようにアメリカの福音派というよりは、Fundamentalism

              運動を形成したのかをぼーっと考えているが、やはり、アメリカ人は、

              Political Arena(政治的環境)で考えるのが好きな人たちだとは、

              思う。

              終わるつもりが、終わらなかった。もう数回続きます。

              2010.05.21 Friday

              あるグループのアメリカ人の伝道意識に潜む諸問題

              0


                ミニストリーでマクグラスと対談していたことで、以前から気になっ

                ていた森本あんりさんの本をここのところを2冊連続で読んだのだが、

                アメリカの原理主義にまつわる問題を改めて考える上で、手軽な入門書

                となっている「アメリカキリスト教史」(新教出版社)を読んだ。

                ポイントを押さえてまとめてある非常に良い本であった。モルモンや

                末日聖徒をキリスト教の一派としているところは、個人的にはちょっと

                疑問であるが、それ以外はコンパクトにまとまっていて、入門書としては

                非常に分かりやすくてよいかなぁ、と思った。そして、アメリカ型原理

                主義の問題を考える手がかりをくれる。

                この著書の中で触れられている「マニフェスト・デスティニィ」という

                概念は極めて重要である、と思う。これがアメリカ人の素朴さとあわさると、

                突然化学反応を起こして、それがシナジー効果を生み出すような気がする。


                たまたま、東京キリストの教会の問題を追っていく中で、野村先生が

                かかれたサイト
                の中に、次のような記述があり、非常に参考になりました。

                ----------------------以下引用------------------------------------------

                  尚、このボストン運動に限ったわけではありませんが、普通一般の教派の一つとし

                ての日本のキリストの教会の多くが、米国のキリストの教会系列のクリスチャン大学

                から基督者学生たちを夏になると積極的に招いて「レッツ・スタート・トーキング」

                というプログラムを指導させています。

                  これは、無料英語会話を手段に教会に人々を勧誘しようとする発想から出たもので

                す。  多くの場合、米国学生は自分たち又は教会から援助を得て旅費と滞在費に充当

                し、彼らの言葉を借りれば、「日本宣教」に従事し、神さまに「一肌脱いであげる」

                式の無意識の、善意で無邪気ですが、危険な発想が潜んでいるように私は思います。

                 

                  そこには深く日本文化や歴史や、日本社会に於けるキリスト教が置かれているいろ

                いろな問題に対する関心や興味は見られず、日本語の準備も殆どなく、陽気で無邪気

                なアメリカ人青年たちが「指導者として日本人を教える」という発想です。

                <中略>

                  さて、最後に、そのような米国教会と米国人青年たちの陽気で積極的行動に就いて

                考えてみましょう。  (私は反米でも親米でもなく知米でありたいと願っています)

                  その裏には米国の1ドル紙幣裏面左側に描かれているピラミッドの意味する問題点

                を理解する必要があると思っています。  辞書でマニフェスト・デスティニーという

                単語の意味するものを理解する必要があるでしょう。

                 

                  アングロサクソン系でプロテスタントの白人米国が、米国周辺のみならず、全世界

                を、全宇宙を、彼らの価値感覚や文化や宗教で支配するという覇権主義の発想です。

                アメリカ原理主義と呼んでもよいかと思います。

                  湾岸戦争も、沖縄駐留軍も、そしてボストン運動の全世界獲得熱も、実はアメリカ

                原理主義と、アメリカ教会に顕著な原理主義キリスト教が理解するマタイ伝28章19節

                20節の世界宣教のイエスの大宣託とがごっちゃ混ぜになっていると思います。

                  この理解なくしては実は語れないのです。  ついでにと言うと語弊がありますが、

                Manifest Destinyマニフェスト・デスティニーを百科事典などでお調べ下さい。


                ----------------------以下引用------------------------------------------

                この文章で野村先生がご指摘になっている事が、アメリカ型の原理主義に特徴的な

                思想的立場であり、イギリス系の聖書に忠実であろうとするひとびと、

                J.I.パッカーやF.F.ブルースなどのようなイギリスの聖書中心主義の方々が

                指し示すFundamentarismとの違いなのかなぁ、と思いました。同じ

                Fundamentalismという言葉を使うことには、問題がありそうです。

                植民地経営の経験の長いイギリスには、このような現地文化の理解と現地との同

                化、現地化の重要性の問題意識があるように思います。マクグラスのいくつかの

                著作、たとえば、「総説キリスト教」や「ポストモダン世界のキリスト教」などで

                示されている聖書のテキストに基礎おきつつも、現地の文化環境の中で、伝道を

                どのようにしていくのかを考える「現地化」の思想の中に、アメリカ型の原理主

                義が持つ、一元的な思想を無理やりゴリゴリ押し付けるような伝道方法とは一種

                違った聖書中心主義の視点が示されているように思います。

                原理主義について考えるとき、このアメリカ型の原理主義と、聖書中心主義

                の区別は重要ではないか、と思います。

                しかし、この野村先生の記事を見ているときに、なるほど、SFはアメリカで

                しか生まれないはずだ、と思ったのでした。宇宙を開発していく発想自体は、

                まさしく、マニフェスト・ディステニィそのものですし、ケネディ政権下の

                アポロ計画なんかも、ニューフロンティアとしての宇宙空間ですし、レーガ

                ン政権下のSDI構想にしても、そんな雰囲気が漂います。まぁ、スペースオ

                ペラ(昼メロはソープオペラと呼ばれていますが)のにおいが、SDI構想には

                ありましたねぇ。

                 そういえば、アメリカ原理主義の影響を受けた人物の一人であるリック・

                ウォレンのなかにも、この無邪気なアメリカ人的な伝道を進めるような

                文章があったように思います。確か、人生を導く5つの目的にあったよう

                な気がします。基本的に彼の書いている事は、まともだとは思うのですが、

                時々、こういうことを書くウォレンの発言は、少し気になります。


                2010.05.27 Thursday

                アメリカ型資本主義と医療をめぐる体験的考察(4)

                0
                  前回で終わらせるつもりだったのだが、終わらなかったので、継続します。

                   アメリカの福音派の教会に集ってみた経験から思った事は、教会自体が大きな

                  の入れ物の役割を果たす点である。教会内にある複数の活動グループを包摂する

                  役割を果たすのである。ホテルかアパート、雑居ビルのようなもの、といった方

                  がよいだろうか。

                   一つの教会の人数が多い事もあるのだろうけれども、その中の活動が、複数の

                  主体的なボランティア活動グループによって進められているという点である。

                  たとえば、日本の教会だと、貧しい人への対応を考えましょう、とある教会で

                  アイディアが出されると、それが、全員総会で議論され、教会全体の動きとして

                  なってしまうようなところがあるようであるが、アメリカの場合、貧しい人への

                  対応を考えましょう、と誰かが言いだすと、それに賛同するグループが勝手に

                  そのグループを作り、それに賛同する人々がさらに集まり、時々、教会の

                  キャンパス内で、フードバンク(カンズメなどの保存食のボランティアでの

                  回収会)をしてみたり、ヒスパニックの子供への児童伝道と言い出すと、

                  また、教員経験者やその他のボランティアの信者が集まって、活動をし始める

                  など、こういった複数のミニ集団を包摂し、それに物理的環境を提示する役割

                  としての教会となっているように思う。その意味で、信者が起点にあって、

                  教会が形成されるという側面がアメリカの福音派の教会にあると思う。

                  ただ、日本は、伝統社会であり、個の意思があまり尊重されてこなかった社会

                  であるためか、教会(というよりは牧師)が決めた事に信者全員が従っていく、

                  という雰囲気があるようにおもえてならない。

                  その辺、アメリカの教会運営の在り方と日本の教会運営の在り方は、実際面で

                  非常に違うと思う。この辺、のらくら者の日記で紹介されていたNHK教育テ

                  レビのハーバード白熱教室の第4回放送分のLecture8のロック風の社会契約

                  論がアメリカにおけるキリスト教会形成にも、大きな役割を果たしていると思う。

                  このような文化的の背景があるので、アメリカからの教会形成をした宣教師

                  たちは違和感を覚えているようにも思う。いつまでたっても信者が動き始め

                  ない、なんでだろう、これは?と思っているように思われるのである。

                  あと、もう一つ言うと、米国福音派の中における啓蒙思想が形を変えた残滓と

                  して残る伝道意識である。米国福音派では、弱者救済の側面に啓蒙思想が

                  非常に深く根をおろしている事である。伝道することと啓蒙思想が抜き差しが

                  たく結びつき、それが弱者救済と相まってしまうところに無自覚であることが

                  米国型福音派が抱える問題の一つであると思う。啓蒙思想の中には、暗黙的に

                  次のような前提が置かれることになる。相手を啓蒙する存在(より優れた存在)

                  としての啓蒙する側と、啓蒙される存在(より劣った存在)の想定が必要になる

                  ところである。伝道活動が啓蒙思想と結合するとき、伝道する側が啓蒙する側

                  となり、伝道される側(たとえば、日本人とか、インディアンとか)が啓蒙さ

                  れる側と見えてしまうという構造的問題である。

                   このような観点から見てみると、アメリカの福音派の伝道団体から見てみる

                  と、いつまでも伝道される側であり、伝道する側に回らない日本社会は異様に

                  見えるとは思う。ただ、啓蒙思想と社会進化論とは、かなり強固に結びついて

                  いるようなので、そのような視座から伝道をとらえる事の妥当性もとらえられ

                  なければならないと思う。また、この考え方が、韓国福音派に影響し、それが

                  現在の日本における韓国系キリスト教会の意識に影響していると思われる。


                  アメリカ福音派の形成史として、手軽な読み物は、森本あんりの

                  アメリカ・キリスト教史―理念によって建てられた国の軌跡


                  です(やや、モルモンをキリスト教に含めるなどでの扱いに問題があるもの

                  の)が、この中でもごく簡単に触れられているが、福音派の伝道意識と啓蒙

                  思想の背景についてのより詳細な検討が必要ではないだろうか、と思う。

                  余談に行ってしまったが、米国型の福音派の教会では、独自のボランティア

                  組織が教会内のサブ組織として機能し、それが、他の教会の類似団体と独自

                  に連携することで、教会の枠組みを超えた組織構成を行っていくことになる

                  事が多いようである。その意味で、あくまでグラスルーツの活動が中心であ

                  るので、久保木先生ご指摘のように教会を挙げての麻薬患者などへの補助や

                  救貧活動や弱者救済活動というような形になっていないように思われる。こ

                  のあたりを見逃すと、アメリカ伝道団により形成された教会が弱者救済と切

                  り離された様な印象を持ってしまうことになるのかもしれない。

                   大陸型の教会(カトリックなど)では、貧者の家としての教会という

                  議論がある程度蓄積されている部分もあるので、このあたりへの関心が

                  米国型の福音派教会とは違っているように思われる。また、医療の表象の

                  赤十字自体、もともとロードスにあったヨハネ騎士団のマークでもある

                  ことに由来するように(このあたりは、塩野七生のロードス島戦記や

                  コンスタンチノープルの陥落などが参考になる)、医療自体、中世修道院が

                  果たした大きな役割の一つでもあるので、キリスト教会と利用を切り離して

                  議論する事がヨーロッパ大陸人にはナンセンスだと思われると思う。

                   その部分をぬきにし別種の発展を遂げた資本主義と医療の問題が現在

                  のアメリカでおきている事ではないか、と思う。

                  2010.05.29 Saturday

                  アメリカ型資本主義と医療をめぐる体験的考察(5)

                  0
                     アメリカ型資本主義ではないが、資本主義と医療を巡る問題について

                    考えている事がある。これは、ザンビアで宣教師を教育する組織の

                    リーダーから聞いた事であるが、ザンビアでは、医師がどんどん英国

                    に流出しており、一向に国としての国民の健康水準が向上しないという

                    問題があるという。

                     なぜか。

                     それは、英国の医師の給料の低さである。英国は、国民皆保険であり、

                    医療水準は保証されているが、治療にあたる医師の給料はそう高いわけ

                    ではなく、非常に低く抑えられているようである。その結果、高い給料の

                    欲しい医師は、米国や他国に流れていき、その結果、安い給料(それでも

                    アフリカ諸国より高い)でも働いてくれる、アフリカの旧英領植民地諸国

                    から大量に医療関係者が流入しているそうである。東ヨーロッパからの

                    移民型の医療関係者も多いらしい。

                     資本主義は、こんなところにも影響している。植民地経営で蓄積した

                    (言い方を変えれば、搾取して形成された)イギリスの国富がある限りは

                    今の生き方を続けられるとはいうものの、それも限界にきているようであ

                    る。それが、この間の英国の国政選挙の結果にも出たように思われる。

                    イギリスも、とうとう赤字額の心配をしなければいけない普通の国になった。

                    日本は、もっと前に心配をしなければいけない国だが、その危機感が

                    国民、とりわけ、国会議員にあるのか、と思うと非常に心配である。

                    借金を返すためにハイパーインフレを起こす、というようなおバカな案が

                    採用されないことを真剣に願っている。やりかねない政治家がいるので、

                    困ってしまう。そんないい加減な帳尻合わせで一番困るのは国民なのだ

                    けれども。
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