2010.04.06 Tuesday
イースターのメッセージ
先週の日曜日のイースターのメッセージです。
今日はイースターということですが、イースターの時期は、日本ではさくら、
イスラエルでは、アーモンドの花が咲くころです。
この時期は、ちょうど動物の赤ちゃんが生まれる時期でもあり、動物園などでは
動物の赤ん坊が生まれたといったニュースが流れます。
だからというわけではないのですが、今日は「シャーロットの贈り物」の
オープニングシーンをまず見ていただいてから、お話したいと思います。
この映画の主人公の一人でもある、子豚が最初、あまりに小さくて、
育ちそうにないし、母豚の乳首が10しかないのに11匹目として生まれた
子豚(のちにウィルバーという名前がつく)は生きられそうにないので、
この牧場主が殺そうとしたところ、その牧場主の娘(ファーン)がかわい
そうじゃないか、Unfair(不公平)でUnjust(正義が実現していない)だ
と言って助けます。そして、ファーンという女の子は、この豚の世話をする
ということで、この豚の命を助けるわけです。
この子豚のウィルバー君は、このファーンという女の子によって助けられ
ましたが、このお話は、私たちと神との関係に良く似ています。
私たちは、ある面、弱く、神の目の前に殺されるのが当然の存在です。
しかし、イエスが、命をかけて永遠の命を与えることで、この子豚の
ウィルバー君が守られたのと同じように、永遠の命を自分のものと
することになった、というのが聖書の主張です。イエス自身、ヨハネの
3章15節から17節で、命を与えるためにやってきた、と言っています。
まさしく、ファーンが子豚のウィルバーの命を守ったように、イエスは
私たちの「永遠のいのち」を守ったのです。それが聖書の主張です。
単に私たちは、この世のいのちではありません。イエスは、「私はよみ
がえりで、いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです」と語っ
たとヨハネの福音書は私たちに主張しています。
みなさんは、永遠のいのち、天国というものをどのようなものとして
想像されるでしょうか。聖書の言う天国、神の国とは、かなりいきいき
したもののようです。たんに生きているのではなくて、神との交流があり、
神を信じる人々との交流がある場所のようです。脳死状態のような形で
生きる天国とはかなり違うようです。
私たちは死を恐れます。そこが終わりであることを薄々感じている
からではないでしょうか。しかし、聖書は、神を信じる者にとって、
そこは終わりではなく、永遠に生きることの始まりであると言ってい
るようです。イエスは、みなさんのいのちを守ろうとしました。どうか
このイエスについてよくお考えになり、そして、イエスとが言っている
永遠のいのちをご自分のものとされますように。
今日はイースターということですが、イースターの時期は、日本ではさくら、
イスラエルでは、アーモンドの花が咲くころです。
この時期は、ちょうど動物の赤ちゃんが生まれる時期でもあり、動物園などでは
動物の赤ん坊が生まれたといったニュースが流れます。
だからというわけではないのですが、今日は「シャーロットの贈り物」の
オープニングシーンをまず見ていただいてから、お話したいと思います。
この映画の主人公の一人でもある、子豚が最初、あまりに小さくて、
育ちそうにないし、母豚の乳首が10しかないのに11匹目として生まれた
子豚(のちにウィルバーという名前がつく)は生きられそうにないので、
この牧場主が殺そうとしたところ、その牧場主の娘(ファーン)がかわい
そうじゃないか、Unfair(不公平)でUnjust(正義が実現していない)だ
と言って助けます。そして、ファーンという女の子は、この豚の世話をする
ということで、この豚の命を助けるわけです。
この子豚のウィルバー君は、このファーンという女の子によって助けられ
ましたが、このお話は、私たちと神との関係に良く似ています。
私たちは、ある面、弱く、神の目の前に殺されるのが当然の存在です。
しかし、イエスが、命をかけて永遠の命を与えることで、この子豚の
ウィルバー君が守られたのと同じように、永遠の命を自分のものと
することになった、というのが聖書の主張です。イエス自身、ヨハネの
3章15節から17節で、命を与えるためにやってきた、と言っています。
まさしく、ファーンが子豚のウィルバーの命を守ったように、イエスは
私たちの「永遠のいのち」を守ったのです。それが聖書の主張です。
単に私たちは、この世のいのちではありません。イエスは、「私はよみ
がえりで、いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです」と語っ
たとヨハネの福音書は私たちに主張しています。
みなさんは、永遠のいのち、天国というものをどのようなものとして
想像されるでしょうか。聖書の言う天国、神の国とは、かなりいきいき
したもののようです。たんに生きているのではなくて、神との交流があり、
神を信じる人々との交流がある場所のようです。脳死状態のような形で
生きる天国とはかなり違うようです。
私たちは死を恐れます。そこが終わりであることを薄々感じている
からではないでしょうか。しかし、聖書は、神を信じる者にとって、
そこは終わりではなく、永遠に生きることの始まりであると言ってい
るようです。イエスは、みなさんのいのちを守ろうとしました。どうか
このイエスについてよくお考えになり、そして、イエスとが言っている
永遠のいのちをご自分のものとされますように。
2010.04.12 Monday
NHK大河ドラマ 竜馬伝に描かれた 岡田以蔵と武市半平太の関係構造に見るカルトとの類似性
先週(4月4日)の放送分といい、今週(4月11日)の放送分といい、
この両者の関係性の描き方は、カルト化への精神構造と非常によく似
ていると思われる。ただ、実際の岡田以蔵と武市半平太の関係の実情
がわからないので、断定するわけにはいかないし、オリジナルとなっ
た小説を読んでいないので、あくまでNHKの放送を通した両者の関係
の描き方を見て、という話である。
確かに、カルト化した集団の特徴である外界との接触排除という側面
は描かれていないものの、彼自身があの番組の中で描かれていた通り
であり、グループ内でも疎外感をかんじていたということ、土佐の
勤皇党のメンバー以外との接続やほかのソーシャルネットワークが彼
には少なかったであろうこと、指導者への絶対的な尊敬の念をもってい
た(そう描かれていること)、を考えると、彼自身が、自ら外部との
ネットワークから自主的に遮断していき、カルト風の精神世界の傾向
を自ら彼の中に醸成させていったものと思う。
そして、指導者の意をくみ取り、指導者の意と理解したものを自分の
意思として実現してしまい、指導者に扇動されつつも、本来の自分の
意図とずれた所で自分の意図と思い込み、指導者の意を実現していく
姿というのは、カルト信者の姿とよく似ている様に思う。そして、
その悲惨な人生の姿も。カルト集団の場合、カルトに何らかの利益を
もたらす限り、カルトはその人物を抱え込む。そして、その人物が
カルトに利益をもたらさなくなった瞬間、カルト集団の指導者ない
しはそのサブリーダーに従う形でカルト集団は、その人物をいとも容
易に切り捨てる。しかし、切り捨てられようとした人物は、カルト集
団以外の人間ネットワークを持たない場合が多く、カルト集団にしが
みつかざるを得ないことがおおい。カルト集団が切り離そうとする
人物がしがみつく場合、、さらにカルト集団は切り捨て行為をより一
層露骨にし始め、切り捨てられようとする人物は、非常に悲惨な状況
に陥る。ここ数回の竜馬伝の描き方はそれを、予感させる描き方にな
っていたように思う。4月11日放送分の救いは、まだ、岡田以蔵が
坂本竜馬という外部の人間ネットワークを持っていたと、表現
されていたことであるが、通常のカルトの場合、このような外部者と
の接触は一般に容認されないために、さらに悲惨な状況に陥る場合が
多い。
そのことを、昨日ぼーっと竜馬伝を見ながら、考えていた。
伝道熱心な教会の指導者や、教会成長に熱心な教会の指導者には、
武市半平太のような印象を与える人物も少なからずいるような気が
する。すぐれた人物であるだけに尊敬を集めやすく、誤解を与えや
すい側面を持つ人物である。そして、岡田以蔵のような信者も。そ
して、そこに疑似カルト的な構造が生まれやすいように思う。
それを防ぐには、外部について開かれた心(精神構造)と関心、
外部の人間ネットワークではないかと思う。
そんなことを竜馬伝を見ながら、考えた。脚本家は、それを
描きたいのかしらん。
この両者の関係性の描き方は、カルト化への精神構造と非常によく似
ていると思われる。ただ、実際の岡田以蔵と武市半平太の関係の実情
がわからないので、断定するわけにはいかないし、オリジナルとなっ
た小説を読んでいないので、あくまでNHKの放送を通した両者の関係
の描き方を見て、という話である。
確かに、カルト化した集団の特徴である外界との接触排除という側面
は描かれていないものの、彼自身があの番組の中で描かれていた通り
であり、グループ内でも疎外感をかんじていたということ、土佐の
勤皇党のメンバー以外との接続やほかのソーシャルネットワークが彼
には少なかったであろうこと、指導者への絶対的な尊敬の念をもってい
た(そう描かれていること)、を考えると、彼自身が、自ら外部との
ネットワークから自主的に遮断していき、カルト風の精神世界の傾向
を自ら彼の中に醸成させていったものと思う。
そして、指導者の意をくみ取り、指導者の意と理解したものを自分の
意思として実現してしまい、指導者に扇動されつつも、本来の自分の
意図とずれた所で自分の意図と思い込み、指導者の意を実現していく
姿というのは、カルト信者の姿とよく似ている様に思う。そして、
その悲惨な人生の姿も。カルト集団の場合、カルトに何らかの利益を
もたらす限り、カルトはその人物を抱え込む。そして、その人物が
カルトに利益をもたらさなくなった瞬間、カルト集団の指導者ない
しはそのサブリーダーに従う形でカルト集団は、その人物をいとも容
易に切り捨てる。しかし、切り捨てられようとした人物は、カルト集
団以外の人間ネットワークを持たない場合が多く、カルト集団にしが
みつかざるを得ないことがおおい。カルト集団が切り離そうとする
人物がしがみつく場合、、さらにカルト集団は切り捨て行為をより一
層露骨にし始め、切り捨てられようとする人物は、非常に悲惨な状況
に陥る。ここ数回の竜馬伝の描き方はそれを、予感させる描き方にな
っていたように思う。4月11日放送分の救いは、まだ、岡田以蔵が
坂本竜馬という外部の人間ネットワークを持っていたと、表現
されていたことであるが、通常のカルトの場合、このような外部者と
の接触は一般に容認されないために、さらに悲惨な状況に陥る場合が
多い。
そのことを、昨日ぼーっと竜馬伝を見ながら、考えていた。
伝道熱心な教会の指導者や、教会成長に熱心な教会の指導者には、
武市半平太のような印象を与える人物も少なからずいるような気が
する。すぐれた人物であるだけに尊敬を集めやすく、誤解を与えや
すい側面を持つ人物である。そして、岡田以蔵のような信者も。そ
して、そこに疑似カルト的な構造が生まれやすいように思う。
それを防ぐには、外部について開かれた心(精神構造)と関心、
外部の人間ネットワークではないかと思う。
そんなことを竜馬伝を見ながら、考えた。脚本家は、それを
描きたいのかしらん。
2010.04.27 Tuesday
社会進化論とキリスト教原理主義
ここのところ、関係のあるブログ(3つ)で、社会進化論に対する
アメリカ型キリスト教原理主義者を巡る問題が取り上げられている。
アメリカ型キリスト教原理主義が進化論に対して、非常に攻撃的で
聖書的根拠を優先するあまり、科学的対話を否定する傾向がある
ことなどが取り上げられている。
アメリカとイギリスでは同じ英語圏でありながら、文化的な背景
がかなり違うような気がする。この辺、身分社会を前提に貴族的な
文化の名残があり、社会的に余裕のある層による学問や自主的研鑽
という文化的伝統を持っているイギリス社会と、身分社会をなくして
アメリカンドリームという形で、社会的名声を得るための手段とし
ての学問や、個人的利益追求手段としての学問の性質の強いアメリ
カ社会の違いではないかと思う。このような成り上がりの手段とし
ての学問の要素の強い社会では、よい意味でのアマチュアリズムが
機能しないため、相手の議論を余裕を持って受け止めるというよう
な態度にならず、ややもすれば攻撃的な態度となるような気がする。
アメリカに住み大学でも教える日本人の研究者が、一言漏らした
言葉が非常に印象的である。「アメリカ人は大いなる田舎っぺ」と
いう表現である。
田舎っぺであるがゆえに、自分たちの価値基準がすべてであると
思い込む。よくいえば素朴、悪く言えば頑固であり、それがアメリ
カの原理主義の基盤ともなっている。大いなるのは、国自身の国力
が大いなることであり、そのため、国際社会でのプレゼンスと影響
力だけはやたらとでかい。いかつい、カウボーイという印象をどう
しても与えてしまうのは、ジョージ・ブッシュだけのせいではない
ような気がする。国自体が持っている国民性なのかもしれない。
他者に対する非寛容、他の理念系に対する非寛容の有無が、F.F.
ブルースやJ.I.パッカーのようなイギリス系福音派とビリー・グラ
ハムやフランクリン・グラハムのようなグラハム親子に代表される
福音派の違いかもしれない。個人的には、イギリスの福音派には、
学問的洗練を感じるのだが、アメリカの福音派は、素朴で、人のい
い方も多いのだが、どうも洗練というものを感じず、どちらかとい
うと土のにおいがしてしまう。それが、アメリカ人の中でも学問的
洗練を持った人が福音派に対して持つ拒否感の根底にあるのかも
しれないと思う。
アメリカ型キリスト教原理主義者を巡る問題が取り上げられている。
アメリカ型キリスト教原理主義が進化論に対して、非常に攻撃的で
聖書的根拠を優先するあまり、科学的対話を否定する傾向がある
ことなどが取り上げられている。
アメリカとイギリスでは同じ英語圏でありながら、文化的な背景
がかなり違うような気がする。この辺、身分社会を前提に貴族的な
文化の名残があり、社会的に余裕のある層による学問や自主的研鑽
という文化的伝統を持っているイギリス社会と、身分社会をなくして
アメリカンドリームという形で、社会的名声を得るための手段とし
ての学問や、個人的利益追求手段としての学問の性質の強いアメリ
カ社会の違いではないかと思う。このような成り上がりの手段とし
ての学問の要素の強い社会では、よい意味でのアマチュアリズムが
機能しないため、相手の議論を余裕を持って受け止めるというよう
な態度にならず、ややもすれば攻撃的な態度となるような気がする。
アメリカに住み大学でも教える日本人の研究者が、一言漏らした
言葉が非常に印象的である。「アメリカ人は大いなる田舎っぺ」と
いう表現である。
田舎っぺであるがゆえに、自分たちの価値基準がすべてであると
思い込む。よくいえば素朴、悪く言えば頑固であり、それがアメリ
カの原理主義の基盤ともなっている。大いなるのは、国自身の国力
が大いなることであり、そのため、国際社会でのプレゼンスと影響
力だけはやたらとでかい。いかつい、カウボーイという印象をどう
しても与えてしまうのは、ジョージ・ブッシュだけのせいではない
ような気がする。国自体が持っている国民性なのかもしれない。
他者に対する非寛容、他の理念系に対する非寛容の有無が、F.F.
ブルースやJ.I.パッカーのようなイギリス系福音派とビリー・グラ
ハムやフランクリン・グラハムのようなグラハム親子に代表される
福音派の違いかもしれない。個人的には、イギリスの福音派には、
学問的洗練を感じるのだが、アメリカの福音派は、素朴で、人のい
い方も多いのだが、どうも洗練というものを感じず、どちらかとい
うと土のにおいがしてしまう。それが、アメリカ人の中でも学問的
洗練を持った人が福音派に対して持つ拒否感の根底にあるのかも
しれないと思う。
2010.04.29 Thursday
わからないことをわからない、という勇気
ある方のブログを読んでいると、教会の牧師とか、教会(集会)の
責任者は、いろんなことに対する答えを求められることがあって、
指導的な立場にある人は、全ての事に結論を求められて言わざるを
得ない。ということで大変だ、という意見を書いておられた。
ある面ではそうであるが、ある点では、そうでないともいえる。
わからないところは、わからない、ということが、望ましいのでは
ないか、と思う。
たとえば、創造論でも、若い地球論(地球ができてから7000年弱
という立場、根拠はアダムの年齢などから逆算しての推計値で1日は
1日と言う立場に立つ主張)と古い地球論(地球ができてから、
7000年以上という立場、根拠は、一日は千年のようであり、という
聖書の表現から1日が必ずしも1日と限らない立場)がある。
両者は、同じ創造論であるが、かなり立場が違う。科学的な立場を
両者が装うからややこしい。分からないものは、わからない。
個人としての確信を持つことは許されてよい。それをもとに対話す
ることもよい。しかし、個人としての確信を科学的事実と強弁し始
めると、論理が崩れる。どこかで、確信が間主観的な(平たく言えば
客観的な)事実とすり替えられてしまう。それを正当化するために
聖書の言葉が援用される。どこかずれているような気がする。
わからないものは、わからない、と正直に認めることはあってよい。
ただ、個人の確信としては、こうだと述べることはよい。そして、
その確信をもとに他者と対話することはよい。しかし、その確信を
絶対視し始め、それに合わせて聖書の個所を探し始めるとなると、
どこか不健康なにおいがする。このあたりの対話ができない人が、
洋の東西を問わずいる。確信であるがゆえに、個人の人格と密接に
結びついているので、このあたりの芸当ができない人がおられる。
そして、それが行き過ぎると、不健康な状況が生まれるような気が
する。
責任者は、いろんなことに対する答えを求められることがあって、
指導的な立場にある人は、全ての事に結論を求められて言わざるを
得ない。ということで大変だ、という意見を書いておられた。
ある面ではそうであるが、ある点では、そうでないともいえる。
わからないところは、わからない、ということが、望ましいのでは
ないか、と思う。
たとえば、創造論でも、若い地球論(地球ができてから7000年弱
という立場、根拠はアダムの年齢などから逆算しての推計値で1日は
1日と言う立場に立つ主張)と古い地球論(地球ができてから、
7000年以上という立場、根拠は、一日は千年のようであり、という
聖書の表現から1日が必ずしも1日と限らない立場)がある。
両者は、同じ創造論であるが、かなり立場が違う。科学的な立場を
両者が装うからややこしい。分からないものは、わからない。
個人としての確信を持つことは許されてよい。それをもとに対話す
ることもよい。しかし、個人としての確信を科学的事実と強弁し始
めると、論理が崩れる。どこかで、確信が間主観的な(平たく言えば
客観的な)事実とすり替えられてしまう。それを正当化するために
聖書の言葉が援用される。どこかずれているような気がする。
わからないものは、わからない、と正直に認めることはあってよい。
ただ、個人の確信としては、こうだと述べることはよい。そして、
その確信をもとに他者と対話することはよい。しかし、その確信を
絶対視し始め、それに合わせて聖書の個所を探し始めるとなると、
どこか不健康なにおいがする。このあたりの対話ができない人が、
洋の東西を問わずいる。確信であるがゆえに、個人の人格と密接に
結びついているので、このあたりの芸当ができない人がおられる。
そして、それが行き過ぎると、不健康な状況が生まれるような気が
する。
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