2010.03.24 Wednesday

遍在する神

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     1月以来、本業がやたらと忙しくなったので、ブログをアップして

    いませんでしたが、最近、やっと落ち着いたので、ぼちぼち更新を

    再開します。

     本日のテーマは、遍在する神というテーマです。

    この前、Fake(フェイク)というジョニー・ディップが出てくるギャング

    映画をみるとはなしに見ていたのですが(なお、ジョニー・ディップは、

    FBIのおとり捜査官役)、そのなかで、おとり捜査官としてギャングに

    潜入している彼の娘が、堅信礼を受けたのだけれども、その堅信礼

    には、ギャングの潜入捜査のために自宅に戻れず、堅信礼で聞かれる

    質問を寝入りかけている娘に聞くシーンがあって、それをみながら、

    ふーん、とおもってしまったのが、次のやり取り。

    潜入捜査官     「神はどこにいるか」

    潜入捜査官の娘  「神はどこにでもおられる」

    この映画で、多分、ジョニーディップはイタリア系という役どころで、

    儀式は、カトリックの儀式だと思います。

    「神はどこにいるのか」 

    この問いかけに対して、

    「天」または「天国」と答えるプロテスタント系の人は多いだろうけど、

    神は、どこにでもおられる、というこの確信は意外と大事だと思うの

    です。

    この前、小さないのちを守る会の水谷さんのブログでも紹介された

    「のらくらものの日記」の記事、

    火は天から降る


    http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-c12d.html


    ではないですが、聖霊の臨在は、イエス自身の発言として、ヨハネ

    の福音書14章で言及されているわけですが、それを無視して、自

    分たちで呼び出そうと思っている人々がおられるようです。

     福音派の一部に、聖霊派の方々やペンテコステ派の方々も分類

    されることが多いですが、その中の一部の方に、人間的なものや聖

    霊の臨在を特殊なものとしてお考えの方もおられるようです。全部が

    全部これらの方々がその考えをお持ちだ、というわけではないようです。

     素直にヨハネの14章を読むと、聖霊の臨在とは、もっと普遍的なも

    のかなぁ、と思います。

     神の臨在、その意味というのは非常に大きいと思うのですね。それを、

    わずかなことばの問答にまとめた(どこまで、それがその人のものかど

    うかは別として)その意味は、非常に深いものがあると、思うのです。

    特に、残虐なシーンが多いフェイクというその映画の中で、ほっとする

    シーンの一つであるそのシーンで父と娘の交わす会話の中から、

    そんなことを思ってしまいました。そして、このあたりの聖霊の

    臨在の考え方や神の臨在の考え方がナウエンの「いまここに生きる」

    (Here and Now)につながっているのかなぁ、と発想が広がってい

    ますが、広がりっぱなしで、収束していません。しばらく、考えようかな

    ぁ、と思っています。





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