2010.01.05 Tuesday

ぶどうの木と枝

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     最近、小さないのちを守る会のブログで紹介された、あるブログ

    浜通りの風というブログで紹介されていた 

    鹿嶋春平太チャーチというブログがあるが、


    このブログで、L型社会(ヨーロッパ)とハイフン型社会(日本)につ

    いての考察がある記事があった。これを読みながら、思ったことが

    ひとつ。

    日本の社会は、ハイフン型社会とI字型社会の構造が並立している

    のではないか、という疑問である。

    確かに、セキュラーな(世俗的な、あるいは普通の民主的な社会)

    のなかでは、このハイフン型社会が志向される。しかし、何らかの

    公式組織になった瞬間に、I型組織としての論理が牙を見せはじめ、

    中央集権的な、組織の長や代表者とつながる社会論理が急速に

    力を増し、組織の長や代表者とつながることが重要視される社会

    観が生まれている。

     会社であれ、学校であれ、その他の社会組織であれ、一種の

    擬似天皇制を思考する思考方法が、社会の組織の長以外の

    構成員の中に生み出されていくような気がする。

     聖書の中に、イエスと信者の関係を表す言葉に、『私(イエス)は

    ぶどうの木、あなたがた(信者)は枝です』ということばがあるが、

    日本のキリスト教会を見ていると、各教団の幕藩体制(とだれかが

    いっておられた H先生だったか?)が確立しており、教派を超

    えた横のつながりのなさがあると思う。

     単独の教会を見れば、単独の教会で、その教会の牧師との

    つながりの重視があり、信徒同士のつながりの弱さがあるの

    ではないだろうか。あるいは、キリストと個人の関係が強調さ

    れるあまり、キリストを介した個人同士の関係が強調されて

    いるのではないかと思う。その結果、信者同士の関係性が

    薄れているのではないかなぁ、と思う。これが、牧師にかわいがっ

    てもらいたがる信者の精神性につながり、いつまでも成長しない

    信者の精神性につながるのでは、と思う。もう、イエスを神とし

    て信じた瞬間に、イエスと既につながり、イエスを信じるほかの枝

    ともつながっているのにもかかわらず。

     ちょうど、同じ幹から出た信者専用の枝にそれぞれの信者が

    独立して植わっている様に誤解していないだろうか。

     しかし、イエスのぶどうの幹と枝のたとえは、信者同士や教団

    同士がもっと有機的なつながりを持つものであり、もっと親密で

    密接な関係を表していないだろうか。最近、そんなことを考えて

    いる。

     その意味で、鹿島春平太さんの表現や住谷三喜男さんの表現

    をあわせて考えるなら、日本の教会は、Iと‐が別個に存在する

    教会だということなのかもしれない。このIと-をつなぐ普遍的に存

    在するものがナザレのイエスなんじゃないかと思ったりもしてい

    ます。

    2010.01.16 Saturday

    「イエスのことばにみる教会のイメージ」

    0
      教会について 3と題して、今日は、「イエスのことばにみる
      教会のイメージ」をお話ししたいと思います。

      これまでは、日本社会における教会と教会自体の位置を考えて

      きましたが、日本の社会構造の中での教会の中での信徒同士の

      関係について、お話していきたいと思います。さて、私たちの

      社会構造として、このような図1のようなものとしてイメージ

      されていないでしょうか。日本の社会は、割とこういう社会的

      精神構造になっていることが多いのではないかと思います。

       このような社会構造は、政治の面では、中央集権、家族構成

      原理では、家父長主義と呼ばれるもので、この背景には、中国

      の儒教思想、なかでも朱子学的な思想で、その中に徳治思想が

      あり、近代社会の中でのパターナリズムへとつながっていきま

      す。

       この考え方は日本社会の中で、根強く未だにあります。

      例えば、これまでは、国の無謬性、国は間違っていることをす

      ることがあり得ないとする立場がありました。典型的には八場

      ダム・諫早湾干拓事業で現れました。国が間違ったことをして

      いないという暗黙の前提をこれをつぶしかけちゃったのが、小

      泉政権で、その典型例が、ハンセン氏病訴訟だったわけです。

       但し、国が父の様な存在で、国民をよい方向に導くというの

      は、毛沢東が非常に尊敬された時代の中国共産党、カンボジア

      のクメール・ルージュ、今はなきロシア共産党も、そういうと

      ころはあったわけです。いま私たちが最もはっきりした形で目

      にできるのは、北朝鮮です。

       この考え方の背景には、基本的に同質性・統一化の世界を前

      提とした議論で、産業革命を支えた社会のあり方の世界観でし

      た。ただ、今は、このような考え方が成り立たなくなりつつあ

      る社会を迎えており、その意味で、時代の変換点に立っている

      様に思います。

       キリスト教会のモデルとして、日本の教会は、このモデルと

      なっていないでしょうか。だれか偉大な指導者、過去の外国人

      伝道者の発言やライフスタイル、考え方が聖書に優先するとい

      う状況はないでしょうか?

       つまり、日本人キリスト者の中に、家父長的、あるいは万世

      一系的な思想がそもそもあり、その線の上で聖書を読んでいな

      いでしょうか。私のお知り合いの聖書学校で学んでおられる方

      がある教会では、前の牧師さんはこう言っていた、前の宣教師

      の理解はこうだった、ということがかなり強く影響していてお

      り、そこを超えることがなかなか難しいということのようです。


       中央集権型のモデルは、キリスト教会でもあり、2000年の伝

      統があります。日本だけでなく、ヨーロッパの産業社会でも

      200年くらいの伝統があります。ただ、この一人の指導者が

      集団を導いていく、というモデルは、いくつかおかしな教会の

      あり方を生んでいく可能性があります。たとえば、「○○兄弟

      は、すばらしい」とか、「○△姉妹の信仰は、すばらしい」と

      いう表現がありますが、この表現って、聖書的でしょうか。

       時に、ではありますが、尊敬を越えて、個人崇拝のにおいが

      しないでしょうか?必要以上な思い入れがないかどうかを確認

      した方がよいと思います。無教会運動を構成した、内村鑑三に

      しても、なくなる直前の無教会運動を見て、特定の信者を高く

      評価した結果、個人的な指導に大きく依拠する先生主義が広が

      っている、と批判していたのも、無意識にこの構造が持ち込ま

      れた結果かもしれません。

       現在、多くの教会で、牧師の継承問題時の障害があることが

      問題になっており、聖書を超えた権威性を持つ特定の個人の聖

      書理解もあるように思います。典型的には、ダービーなども

      結果として、このような問題を生み出していったと思います。


       今日お話しする話を思いついた背景には、ヨハネ15章4−5節

      のことばがあります。

       「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にと
      どまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは
      実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにと
      どまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶ
      どうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わ
      たしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの
      実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすること
      ができないからです。」

      このぶどうの木と枝との関係を考えてみると、私のつい最近ま

      での理解をマンガ(図2)にすると、こんな感じでした。幹で
      あるキリストにだけ、個人としての枝がくっついており、枝

      と枝との関係があまり考えられていないところです。

       もちろん、イエスとつながることは重要ですが、イエスとつ

      ながっているだけではなくて、隣の枝や、その隣の枝ともつな

      がっていて、いろいろな交流が、直接間接にあるはずです。

       そのことをローマ12章でパウロは主張していないでしょうか?

       その意味で、教会の一つのポイントは、信者間のダイナミズ

      ムにあると思います。信者間の自由意志の尊重と主権の尊重で

      す。

       たしかに、一致していなさいという言葉は、エペソ書4章に

      ありますが、どちらかというと、一体であれ、と主張されてい

      るのであって、マクドナルドのハンバーグのように全員が全く

      同じようになれとは、一言も言っていないように思います。 

      これは、同質性と一体性の混乱だと思います。個人的には、

      望ましい教会モデルとして次のようなことをお話ししたいと思

      います。神との関係は再重要であり、特定の指導者が集会を指

      導していくのではなく、集会構成員相互の自由で水平的な関係

      を重要にしながら、相互に影響を確認しつつ進んでいく丁度、

      ヨーロッパの群舞のような感じでしょうか。日本で踊りという

      とどうしても盆踊りのようなものがイメージされますが、ここ

      でいっているのは、輪になって、肩を組みながら、一つ音楽に

      合わせ踊っていく群舞のイメージかもしれません。だれが指導

      者とか、指揮者というのでもない。

       イエスは、信者のあり方について、何と言っているでしょう

      か。それを、マルコ12:28-31から見てみたいと思います。

       律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスが
      みごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての
      命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
       イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イ
      スラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
      心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あ
      なたの神である主を愛せよ。』
       次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せ
      よ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

      ここで、イエスが律法のポイントとして言っていることは、非

      常に重要です。神との関係があり、人との関係が律法に位置付

      けられている、ということです。特に、隣人(信者)との関係を

      考えてみると、この言葉が話された背景に着目すべきでしょう。

       この言葉はユダヤ人社会に向けて語られたもので、ユダヤ的

      な隣人とは、神を信じる同じ民族です。その中で、律法学者は

      ある面指導者的な地位を占めていました。その指導者的な役割

      を果たしたラビ(律法学者)に向かって話している点に注目した

      いとおもいます。神の関係も大事だが、人との関係も大事だ、

      ということを主張していることです。つまり、水平的な関係の

      中にあって働く神ということの大切さを示しているのです。

       ある方は、ここは日本だ。日本の中で考えるべきではないか、

      ということを言われるかもしれません。そうです。私たちは日

      本にいます。でも、聖書を通り越して日本社会の再現を教会で

      実現することの意味はどういうことになるでしょう。

       前回、非聖書的なもの(ある人たちにとって当たり前でよいこ

      とと思い込んでいること)と聖書を混同することの危険性を英国

      や米国からの伝道者がもっていたことをお話ししました。

       帝国主義は言い過ぎ、とケアンズさんからはいわれましたが

      ただ、その色で塗りつぶそうとするのは、やや帝国主義的だと

      思いますし、そのあり方は、問題だとは思います。

       日本の文化は尊重し、伝道することは大切ですが、日本人固

      有の考え方を無理やり聖書的なものとこじつけてないでしょう

      か。非聖書的な日本的なものと聖書の理解を混同してないでし

      ょうか?

       そこで、聖書が何を言っているのかをお考えいただければ、

      と思います。『日本の常識』や『歪んだ日本論』のめがねをは

      ずして、聖書について考えていただければ、と思います。

      なぜかというと、日本の教会は、日本人のためのものではあり

      ません。日本人から構成されていますが、誰のためのものでし

      ょうか?キリストのものではありませんか?ナザレのイエスの

      ものでないでしょうか。

       このアイディアに影響を与えた参考文献をご紹介しておきま

      しょう。『イエスの御名で』というヘンリ・ナウエンの本です

      が、『あめんどう』から出ています。また、『嘆きは踊りに変

      わる』もあめんどうから出ているヘンリ・ナウエンの本です。

       また、いのちのことば社が出していたD.M.ロイド=ジョンズの

      『キリスト者の一致(上・下)』も参考にしました。

       読んで見られることをお勧めします。
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