2009.12.01 Tuesday

一昨日の出来事

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     突然、仕事中に、遠方の方からのお電話があった。

    とりあえず、ご面会のご要望であったので、お会いした。

    思いがけず楽しい昼食の時間となった。海外の神学校

    で勉強中であり、かねてから祈りのうちに覚えている方

    であった。

     現在、険しい道を歩んでおられ、聖書を分かりやすく語

    ることに心を砕きたいというお気持ちをお持ちの方である。

    数の上の成長ではなく、信者一人ひとりの成長にこころ

    がけることの大切さ、文化とキリスト教の問題などを話し

    合い、その話し合いをする中で、結局文化と伝道というの

    か聖書理解というものが、分化不能なのかなぁ、と思って

    しまった。

     彼が進む道は、厳しく険しいものであることが容易に想

    像されるだけに、そのような道に進んだ彼にエールをおくり

    たい。そして、彼のために祈り続けたい。
    2009.12.03 Thursday

    済州島滞在記(3)

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       今回、済州島に行ってみて、普通の人の生き方を見てきたが、

      いろいろ思うことがあった。特に迎え入れてくれた韓国の

      学会関係者のホスピタリティには、感心した。すごい。

      椀飯振舞といってよい。非常によくしてもらった。

      後、英語がある程度の人たちの中で使われていることも

      わかった。主に若い世代との交流であったこともあるた

      め、日本語でのコミュニケーションは絶望的で、ほとん

      ど韓国語が分からない私にとっては、英語が唯一のコミ

      ュニケーションツールであった。

       後、韓国の航空会社のホテルだったのだが、CNNも

      なく、ほとんど英語の放送がなかったが、NHKの衛星

      外国向け放送が入っていたので、それが唯一の時間つ

      ぶしとなった。しかし、クリフハンガーがほとんど

      テンションの低いハングルで、話していたのが、印象

      的であった。

       韓国語の持つ、あるいは韓国人の持つバイタリティ

      を肌で感じ取った、3日であった。インフルエンザさえ

      なければ、もう少し楽しめただろうが。

       しかし、しばらく、ハングルにはまってしまって、

      ハングルの物まねがずいぶんできたのだが、今はどっ

      かにいってしまった。

       全体として、悪い印象じゃなかったです。以前、

      韓国の金浦空港に行ったときは、自動小銃を持った

      韓国兵がうろうろ、巨大な軍用犬がうろうろだった

      ので、うーん、この国は、今でも戦時下なのだなぁ、

      とおもいましたが、今回よった、チェジュ空港も、

      市内には全くよらなかった、プサン空港もそんなこ

      ともなく、通貨が韓国ウォン以外普通でしたねぇ。

      ただ、プサン空港は、国際ターミナルの方が破格に

      きれいで、待ち合わせをするなら、プサン空港の

      国際ターミナルの方がいいかなぁ、と思いました。

      後、プサン空港には、韓国陸軍と思われる航空部

      隊が常駐しているようなので、大型の輸送機やら

      が結構ひっきりなしに飛んでました。戦闘機も

      何機かはあったようです。ちらっと見えたりしま

      した。日本だと、基幹空港で軍民共用は少ない

      (千歳・福岡・小牧などが代表例ですが)ので

      ふーんと思いました。

      で、
      2009.12.06 Sunday

      かしらとしてのキリスト ということについて

      0
         いつも読んでいる、水谷さんのブログに

        頭部付け違い牧師
         http://blog.chiisana.org/?eid=1298780

        という記事がある。牧師夫人の問題と牧師家庭の問題を取り扱った記事

        であるが、ここが間違うとえらいことになる、という意味では、深刻か

        もしれない。

         徳治主義的な日本社会の中で、キリスト教会の中での指導者の役割が

        必要以上に重たくなっている部分があるし、その部分をどのようにして、

        軽くするのか、ということを真剣に考える必要がある。

         キリスト教会で前面に出ることの多い牧師、長老、指導者に依存的な

        キリスト教会は少なくない。であるとすれば、どのような対応が望まし

        いのか。日本社会におけるキリスト教会において、キリストをかしらと

        する、ということはどのようなことか、ということをもう一度考えない

        といけないような気がする。

         キリストをかしらとする、というのは、キリスト以外のテーマがあっ

        てはならないということであろうし、神ならぬ人間がキリストだと偽っ

        てはならないし、その座を奪ってはならなないということだと思う。

         キリスト者がキリストをより深く知ることの手助けをする存在が

        指導者であり、全体の行動の調整役が指導者であることを考えると

        き、まず、信者が指導者に依存するのをやめると同時に、そのような

        状況が発生しそうなことを調整する役割が指導者であることをもう一

        度考えるべきではないだろうか。

         アメリカ合衆国の大統領は、大統領と訳されているが、中国語では、

        美国総統(アメリカの総統)と訳されるらしい。日本と韓国だけが、

        President of United Statesを米国大統領と訳すらしい。そもそも

        は代表者という意味であり、最終的な代表権を持つ人物のことをいう。

        組織が人からなる以上、何らかの代表権を持つ人が必要であり、その

        面で人にゆだねるのは仕方がない。しかし、その代表者が暴走をし始

        めたとき、その暴走を止めるための仕掛けが、組織内に用意されてい

        るのか、いないのか、ということは大変大切だと思う。

         代表者なのか、最終的な決定者としてみるのか、それは難しい。

        たいていの場合、組織の代表者は、組織の最終的決定権をもつこと

        が多いからである。しかし、組織は代表者だけでなっているわけで

        はない。代表者の暴走を止める仕組み作りが、非常に大切だと個人

        的には、思っている。特に、教会のかしらがキリストである、とい

        うことの重みを、教会の指導者は考える必要があるし、そのことの

        意味を教会の構成員は、深く考える必要があるだろう。
        2009.12.08 Tuesday

        あなたの人生の集大成は?

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           Magnum Opus
          マグナム・オーパス(人生の集大成)というテーマでお話し

          したいと思います。
          今日は、この後、「シャーロットのおくりもの」のワンシーンを

          見ていただきます。 もともとは、アメリカの絵本だったものを

          映画にしたものです。先日、たまたま、映画をテレビでしていた

          のですが、非常に面白い映画でしたので是非ご紹介したいと思い

          ます。

          「シャーロットのおくりもの」のストーリーですが、ある母豚

          が11匹の子豚を産んだのですが、そのうちの1匹の弱い小さな

          子豚が、母乳からあぶれて生きられそうにないので、殺されそ

          うになります。

           かわいそうに思った、農場の娘(ファーン)が隣の親せきの

          家の納屋に預け、この子ブタをウィルバーとなずけ、自分で飼

          うことになります。

           納屋で、子豚のウィルバーは、自分が、将来殺されて、ハム

          とかベーコンにされるという現実を、ほかの牛や馬、ネズミか

          ら告げられショックを受けるのですが、その納屋で、シャーロ

          ットというクモと出会うことになります。

           このシャーロットというクモも、春生まれの子豚であるウィ

          ルバーは雪を見ることはないかも、と告げることになります。

           しかし、ウィルバーに、シャーロットは、何とかして雪を見

          せ、冬を越させてあげると約束します。しかし、どうすれば、

          ウィルバーを生き延びさせることができるか、を考えていたあ

          る日、クモの巣で文字を書くことをシャーロットは思いつくの

          でした。

           最初は、「立派な」という文字を書いて、人々を驚かせる

          のですが、人間は、すぐ飽きるので、次に「ものすごい」や

          「ピカピカ」という言葉をウィルバーのために、クモの巣に

          シャーロットはつづっていきます。

           秋の終わりにウィルバーは、その郡のお祭りでの家畜の品

          評会にでることになりました。そのころ、シャーロットは卵

          を産む時期なので弱っているが、ウィルバーのために一緒に

          品評会に行くことになります。

           ウィルバーの隣は、ものすごく大きな豚、ウィルバーは

          どう見ても貧弱に見えたのでした。そこで、シャーロット

          は、ネズミに協力させながら、言葉を探し「ひかえめ」と

          いう言葉をウィルバーのために、クモの巣に書いてやるこ

          とにしました。

           これが、品評会の主催者等の人々の関心を呼び、特別賞

          をウィルバーは受賞することになります。そして、受賞し

          動物小屋に戻ったウィルバーは、息絶え絶えになったシャ

          ーロットを見て、一緒に家(納屋)に帰ろうと言い出すの

          でした。


           では、クモのシャーロットとの対話のシーンをご覧いた

          だきましょう。ここで、シャーロットは、Magnum Opus

          という言葉を発します。マグナム・オーパスとは、ラテン

          語で人生の一大仕事とか、人生の集大成という意味だ、と

          いうことがお分かりになったと思います。

           シャーロットの人生の集大成は、卵を産んで、子供が生

          まれることだ、と言いました。これは、ある面、生きてい

          るもののひとつの姿を現していると思います。

           シャーロットとウィルバーの対話の中で、シャーロット

          は、彼女の人生の集大成は「卵・新しいいのち」と表現し

          ていますが、しかし、本当のシャーロットにとっての集大

          成は、シャーロットがウィルバーに言った「ありがとう。

          友達になってくれて」という言葉ではないでしょうか?

          では、あなたのMagnum Opusとはどんなものでしょうか。

          みなさんがたの人生の集大成とは、どんなものでしょう?

          あるひとにとって、仕事や子育て、人間関係、楽しい生活

          かもしれません。

           ところで、ナザレのイエスのMagnum Opusをかんがえ

          てみると、どんなものだったでしょう。シャーロットのよ

          うに子供を残し、彼の言葉を伝えることでしょうか?ある

          いは、王位に就くことだったでしょうか?指導者になるこ

          とだったでしょうか?有名人になることだったでしょうか?

          ナザレのイエスのMagnum Opusは、十字架の死でした。

          たとえば、マタイ20:17-19・マルコ10:32-34・ルカ

          9:51-53にまっすぐにエルサレムに向かっていくイエス

          の姿が現れます。


           エルサレム、そこに何があるのでしょう?そこに、十字

          架があり、そこに、死があり、復活があり、永遠のいのち

          の証明、そこに永遠の命につながること(神の国)の重要

          性と価値があります。イエスは、このことを示すためだけ

          に地上に来た神の子だ、というのが聖書の主張です。

           イエスが示そうとしたこと、ナザレのイエスのMagnum

          Opus(人生の集大成)は、ヨハネ11:25にある、彼自身

          の表現にかかっています。「私はよみがえりです。いのち

          です。私を信じる者は、死んでも生きるのです」

          ここで、イエスがいう永遠のいのちは、神との関係のネッ

          トワークに入ることです。ちょうど、シャーロットが、子

          豚のウィルバーで納屋の動物のネットワークに加入したの

          と同じように。

           では、人間にとってのMagnum Opusとはなんでしょう。

           さっきの映画を振り返ると、 シャーロットにとっての

          Magnum Opusは、ウィルバーと友達でいること、ウィル

          バーとともに生き、ウィルバーのいのちを確保することと

          なりました。

           人間にとってのMagnum Opus(人生の集大成)とは、

          「神と友達になり、神と共に生き、永遠のいのちを確保

          すること、神のネットワークの一員になることだ」とい

          うのが、聖書の基本主張だと、私は思います。

          あなたのMagnum Opusとはなんでしょう。あなたの

          人生の集大成です。

           神からのおくりものがせいしょにかかれています。


          聖書のいう、神からの贈り物は、神と友達になること、

          神と共に永遠に生きること、永遠のいのち、ナザレの

          イエスを信じることによるあなたの「永遠のいのち」

          だと、私には思えます。ぜひ、このことをお考えください。
          2009.12.14 Monday

          行き過ぎた解釈と行動

          0
             
            ウガンダでは、どうも、同性愛者に死刑を行うような法制度が

            検討されているようである。

            http://www.guardian.co.uk/world/2009/nov/29/uganda-death-sentence-gay-sex

            うーん、確かに聖書では、同性愛はいかんということになっているが、

            しかし、極端に走るというのが、ウガンダなのか、と思う。

            ウガンダの独裁政権の問題は、以前から知っていたが、この国の特有

            の文化とあい混じった今回の立法の検討措置なのか、それとも、この

            国家の若さゆえの問題なのか、あるいは、一部には、米国のキリスト

            者の影響を指摘されているようであるが、(リック・ウォレンは、名

            指しでその影響を指摘されたようであるがその問題をよく考えるよう

            にといっていた)その影響もあるであろう。

             過激派はどの世界にもいるように思う。以前、日本にもいた。226

            事件の関係者は、過激派だったと思うし、あさま山荘を起こした連合

            赤軍も過激派だったと思う。その方向性は異なるものの、社会に残す

            後味の悪さは同じだと思う。中国には、紅小兵というのがいた。毛沢

            東語録を持った若者だった。そういう意味で言うと、幕末の志士と呼

            ばれる人や明治期の国家を作った人々は、過激派なんだろう。成功す

            れば、過激派でもそれが正当になるというだけで。

             社会変革は、過激派でないとできないこともまた事実。しかし、そ

            こには流血と悲惨があり、人権の無視が伴う。個人の意思の無視が伴

            う。それくらいの強烈さがないと社会は変えられないということなの

            か。しかし、変わったところで、根源的なものは変わらないという事

            実も残る。

             このあたりの不思議さも、歴史が教えるところであると思う。

            ウガンダの法律の問題は、他国のことであるので関与できないが、

            やはり、間違いではないか、と思う。確かに、アフリカ諸国での

            エイズの広がりを見ても、エイズ根絶は望ましいことであるが、

            そのために、人を殺すことが望ましいとは思えない。過激な思い

            で人を扇動し、社会自体が偏った方向に行くことは個人的に望ま

            しいと思えないし、そのことで新たな不幸が生まれることを私と

            しては、望まない。今回のこの法律案のことを考えながら、複雑

            な気持ちになった。


            2009.12.16 Wednesday

            創造論と進化論

            0
               進化論と創造論、二つの信仰の不幸な対立がある。

              私は創造論者か、と言われれば、創造論者である。その意味で、

              狭義の聖書中心主義、逐語霊感説に立つという意味で、原理主義

              者であり、土臭い福音主義者である。

               とはいえ、創造科学がどうやったって科学的検証性を持ちえない

              という意味で、厳密な意味での検証可能性を含む意味での科学では

              なく、信仰の別形態での表現だと思う。それを科学の衣で包むこと

              の限界を感じる。むしろ、科学の衣を取ってしまった方がよいので

              はないか、と思う。

               大学院時代の先輩がたまたま生物出身者だったこともあり、この

              辺の話をフランクにしてくれたが、その先輩曰く、「君、進化論は

              信仰だよ」といったが、後で、私が福音派のキリスト者だと知った

              とたん「言うんじゃなかった」と思われたそうである。

               信仰が科学という装いをしている点では、進化論も、いわゆる創

              造科学も同じかもしれない。だとしたら、私の信仰はこうです、

              と科学の話抜きにしてするほうがよほど幸せではないかと思う。

               創造なのか、進化なのかは、結局水かけ論である。それと同様に

              将来のこれから起こる姿をどう見るのか、将来の時代がどうなって

              いくのか、千年王国とその実現の在り方に対する考え方も結果的に

              は答えのない問いである。大事なテーマだとは思うが、明確な答え

              は出ないのでは、という理解の限界に対する謙虚さを持って、それ

              でも時折考えるということが重要なのだと思う。

               何をだれがどう信じるのか、は自由である、という立場に立ち、

              それぞれの思惟の結果を尊重しつつ、自分自身を見直す作業、考

              えるという作業を大切にして行きたいと思っている。

               イエスが言ったことは、二つに集約できるかもしれない。

              「あなたを愛したあなたの神への応答を」「あなたの神が愛した

              隣人を大切に」この精神があれば、本来は、不毛な議論であって

              も、関係がこじれることはないと思うのは、ナイーブ(理想主義)

              的すぎるかな、と現実主義の立場から、ふっと考えてしまう。
              2009.12.20 Sunday

              Up(カールじいさんの空飛ぶ家)を見てきた

              0
                 Up (邦題:カールじいさんの空飛ぶ家)を家族で見てきた。

                3D技術も、そこそこ完成度が高くなっているなぁ、というのを

                思ったが、それより、この映画を見て、この映画が現代のアメリ

                カ社会、現代社会への緩やかな批評になっていることに気がつい

                た。製作者の反省なのかもしれない。

                 誰も死なない、殺されることがない、ハッピーさを売り物に

                してきたディズニー映画(アメリカのディズニー本社の映画)

                だったのに、この映画は少し変わっている。(この辺は、ジャン

                グル・ジョージでは明確)

                 死を正面からとらえ、生きることの意味を問うている気がする。

                そして、アメリカ社会の断面を、ごく当たり前のシーンである

                とは言いながら描いて見せることで、痛烈な社会批判となって

                いる部分がある。

                 たとえば、ほとんど地上げに近い資本主義の姿を描いている

                部分、ボーイスカウトの影響を受けているとおもわれる、

                Wilderness Explorerの少年が、バッジ(ピンバッジというか、

                刺繍で布につけるような布製の表彰記章)を必死になってあつめ

                る姿とか、人間の欲の側面をさらっとではあるが、切り出してい

                る。そうかと思えば、人間の変わらぬ姿である家族の問題、愛情

                の問題を取り上げている。主人公のキリスト教の背景をもたない

                姿でありながら、どこかでキリスト教の世界観の中に埋め込まれ

                ざるを得ないアメリカ社会の姿、高齢化社会を迎えたときの老人

                の現実、離婚した家庭の子供の生活や思いなど、さらっと

                描いているところが新しい。それも、子供向けアニメで描いている

                ことが面白い。従来の幸福な家族像(特に若い世代)を描いて

                きたディズニーがさらりとではあるが、この種の現代的な問題に

                取り組んでいるところが面白い。

                 カールじいさんこと、フレデリクセン氏夫妻は、子供向け

                の仕事をしていたようであるが(アメリカには実際に動物園

                で風船を売る人や、サファリツアーの格好をして動物園を案

                内する高齢のボランティアがやたらといたことを思い出した)、

                結局、養子という選択を取らずに、夫婦二人の生活を過ごす。

                養子を迎えたところで、老後は同様の生活だっただろうとは思

                うが。

                 フレデリクセン氏は、名前からしてスカンジナビア系、それ

                に噛んでいくラッセルは、離婚したアジア系家庭の子供という

                設定である。このあたりの現実も、アメリカ社会の意識の反映

                だと思う。

                 この映画は、いろいろ考えさせられたことが多い。3D版は

                インパクトはあるが、少し疲れるので、2D版をお勧めしたい。

                途中、家の中のごみというか家財をある目的のため、自然環境

                に掘り出すのはどうか、と思うところはあったが、それ以外は、

                ピクサーとディズニーが考えた社会批評としても楽しめる映画

                として、楽しいものといえると思う。

                 後、この映画、英語がわからなくても、そこそこ楽しめる。

                英語特有のギャグ、英語でないとわからないギャグというのは

                ほとんど見られない。ただ、この映画の背景としているものが

                率直に日本人に理解されるか、というと疑問だけれども。

                楽しい、そして考えさせる映画だと思う。お勧め。
                2009.12.25 Friday

                滅びるから救われよ の おかしさについて

                0
                   ある、ブログを拝読している方のブログに、「滅びるから救われよ」

                  と主張することの問題が取り上げられていた。そうだと思う。

                   この論旨は、のらくら者の日記でとりあげられた「ビリー・グラハ

                  ム」
                  型の伝道の持つ問題である。

                   「滅びるから救われよ」であれば、脅迫となってしまっている。

                  イエスは、脅迫しただろうか?世の終わりが近いとは言ったし、時代を

                  見分けよとは言っているが、世が近いから、聞く耳のあるものは聞きな

                  さいと言わなかったのではないか。イエスの主要な主張は、神の国が来

                  た、神の国が地上において現れた、だから、この神の国を見よ、という

                  主張であって、脅迫的な滅びの存在から、のがれるために救われよでは

                  なく、神の国があるから、それを受け取れ、結果として、あなた方は救

                  われる、だと思う。結果としての救いであって、目的としての救いでは

                  ないように思うのだが、そういうといいすぎになるのだろうか。

                   結果としての救いは、不確かなものではない。イエスの言う神の国の

                  問題を見ている限りは、神の国が来るから、神の国が近づいたからとい

                  う主張が強く、神の存在が強いと思う。神の国の到来の伝達が、イエス

                  生誕の最大の理由だと思う。結果としての裁きの存在はある。裁きを

                  ときに語ることも必要かもしれない。しかし、人が聞いてくれるから、

                  人が関心を持つからといって、裁きを語り、そこに救いがあるから

                  という論理はどこか歪んだものになるし、裁きをツールとしたカルト

                  を生みやすいと思う。裁きをツールとしたカルトは多い、○○をする

                  人々は、裁かれる。○○しかできない人は救われていない。神の救い

                  とは、そんな安っぽいものだろうか。誰もが救われる救いではないの

                  か。でなければ、なにもよいことをしなかったと思われる十字架上で

                  イエスとともに刑死した犯罪者にイエスは、今日あなたは私とともに

                  パラダイスにいる、とは言及しなかったであろう。行いも信仰の結果

                  であり、救いも信仰の結果である。目的ではない。そこを間違えると、

                  聖書理解が歪むと思うのだが。そういった聖書理解が語られないこと

                  を希望したい。とはいえ、そうなっている時があるので、自分自身を

                  十分反省せねばならないけど。

                  クリスマスの日だからか、そんなことを思う。
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