2009.11.01 Sunday

教会と家庭について

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     水谷さんという方のブログの中に、「牧師家庭は金魚鉢?信徒家庭はブラック

    ボックス?」という記事がある。

     これは、日本のキリスト教会特有の現象ではなく、欧米のキリスト教会でも

    経験される問題である。昔から、Preacher's Childという言葉もあるくらい

    である。ひょっとして、この種の問題を避けるために、カトリックは、聖職者

    の独身主義を貫いているのかもしれない、と思ってしまう。

     ここでは、教会・牧師家庭・信徒家庭という3つの要素が完全に分離して

    しまっている姿を示しているように思う。本来、この3つというよりは、

    教会・家庭(牧師家庭及び信徒家庭をともに含む)は一元的なもののはずで

    ある。しかし、欧米でも日本でも両者がずれている教会が多い。

     しかし、基本的には、聖書全体としては、家庭 − 教会 − 神の国

    は一体としてつながっているもののような気がする。そのことを、山田耕

    太さんは 『ダラム便り』 (すぐ書房)の中で、家庭が神の国のモデルとして

    英国の信者の中では、自然にとらえられていることを書いていた。

     教会は、神の国であり、神の家族である。神の家族は、個々の神の家族

    からなる。個々の神の家族は、個々の神との関係を持つ信者からなる。

    その意味で、教会の延長線上、というよりは教会の手前に神の家族からな

    る家族生活があり、その延長線上に教会があるというのが、たぶん、キリ

    スト教と1500年付き合ってきた国の文化として、日常生活の中に織り

    込まれているのだろうと思う。

     日本のキリスト教関係者のなかでは、家庭というものを介した個人的な

    交流の深まりによる霊性の深化という概念が十分ではないように思う。

    ぼちぼち、そのことを考える時期に来ていると個人的には、思う。個人的

    には、そのことを少し実践しながらとりくんでみようかなぁ、と思っている。

    それは、私自身にとっても、有効なことだろうと思う。他者の視点を得る、

    という意味において。
    2009.11.02 Monday

    パンくずを拾って 様 コメント、ありがとうございました。(続)

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        パンくずを拾って 様

      貴ブログを通してのコメントありがとうございました。

      お気持ちは、伝わりました。ありがとうございました。

      謙遜なさらないでください。Webという大海の中で、

      『パンくずを拾って』様は私に話しかけてくださり、

      ディスカッションしていただける、また私にとって

      考える糸口を下さる数少ない大切な方のお一人ですの

      で。

      >>問題意識を持っているのか単なるへそ曲がりなのか分
      >>かりません。

      >私は、へそ曲がりですが、へそ曲がりにも、発言する
      >ことで、現状でいいの、という問題意識に気づかれる
      >方を増やしていければ、と思っております。

      たぶん、私はやはりへそ曲がりでしょう。集会という枠

      を抜け出せれば、かなり自由に行動できるにもかかわらず、

      いまだに、集会という枠にこだわり、面倒なことにもかか

      わらず、諸集会の方々にお考えいただきたいという立場を

      考えているのは、やはり、へそ曲がりというのか、素直で

      はないですねぇ。自分でも、とっとと出ればいいのに、と

      思いつつ、残っているのですから。

      >罪と滅びを強調するかキリストの愛を強調するか、しかし

      >愛をどのように語るか難しい所だ。

      そうですね。罪と滅びを強調すると、カルト化しやすいで

      すし、愛を強調すると、個人と神の関係がややあいまいに

      なってしまいますしね。この辺のバランスが難しいですが、

      キリスト集会と呼ばれるグループでは、イギリスや北米で

      も預言理解ともリンクしているので、伝統的に「罪と滅び」

      にやや重心があったようです。「罪と滅び」を強調すると、

      風紀委員のようなキリスト者という印象を持つ方が出てき

      ますし、「愛」を強調しすぎると、信仰生活が確立せずに、

      いつまでも愛されること、限りなく愛され、受け入れられ

      る、何でもありをそのままのわがままな姿を他者に容認する

      ことを一方的に求めるちょっとユニークな考えを持つ信者が

      出てきますし。

       このあたり、バランスの問題だと思いますし、多少、

      振り子のように触れてもいいのではないか、と思っていま

      す。どっち道、完璧な信者はいない、というのが、最近の

      私の立場でございます。

       パンくずを拾って様の意図はたぶん外して理解していな

      かったと思いますし、議論の糸口を頂戴した、と思ってお

      りますので、気になさいませんように。

       間接的なコメントでも、感謝しております。ありがとうご

      ざいました。
      2009.11.03 Tuesday

      ソトとしてのキリスト教

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         最近出た、Ministryという雑誌をよんでいる。いろいろと

        面白い記事が満載の雑誌であるが、この雑誌の面白い点と

        いうのか、私が共感する視点の一つは、ソトの目、外部者

        の視線を強く意識していることである。

         キリスト者は、人口の1%、マイノリティであったし、

        おそらく、マイノリティであり続けるであろう。また、

        マイノリティであることを誇りにし続けてきた部分がある。

         それはさておき、Ministryのなかで、教会にも出入り

        しているという、香山リカさんという精神科医がキリスト

        教会に属するということに関する抵抗感として、キリスト

        信者であると、「”あっち側の人”とひとくくりにされる

        ことが悔しい」と表現している部分があった。つまり、

        このことは、一般人の感覚として、キリスト信者(クリ

        スチャン)であると宣言することは、あっち側(ソト)

        の人であると宣言することに等しいということを感じ取

        っていることを意味する。キリスト信徒側では、”あっ

        ち側”(ソト)ではないといくら主張しようとも、基本

        的に我々がソトの人に分類されることが高いことを意

        味する。

         これは、キリスト教会がとってきた立場、スタンス

        にあるのだろうと思う。また、たしかに、社会的、歴

        史的、政策的に置かれた位置にもよると思う。しかし、

        それを脱却しようとしてきたか、あるいは、教会が開

        かれたものである、と発信しようとしてきたか、とい

        うところに問題があると思う。そのことは、Ministry

        のなかで、AERAの編集長のインタビューやMinistry

        連載の八木谷氏が連載の中で指摘していることともつ

        ながる。

         この問題をどう考えるのか、そして、自分の所属す

        るキリスト集会がどのようにあるといいのか、その中

        で、どのような発信をするのか、特に外部に向けて、

        どのように発信するのか、その方法を模索している。

        このブログもそのひとつとして考えている。



        2009.11.05 Thursday

        続 ディスカッションが日本の教会(集会)で成立するのかな

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           先日、私の所属する教会で、ディスカッションする機会があった。

          今回のディスカッションは、非常に面白かった。意見は収束せず、

          非常に広がりを持ったディスカッションであり、楽しかった。

           教会論ということについて使徒の働き1章及び2章の一部を素材と

          しながら、「キリストの証人」というテーマで、という話であった

          が、結局はそうはならなかった。それでいいと思っている。

           個人的には、キリストの証人より、教会と神の国の関係の方が、

          気になっている。証人というギリシア語の言語は、マルトスという

          ことばであるが、記録とか、物証というような意味もあるらしい。

          つまり、人を介した物証なのですね。イエスが救い主だということ

          を触れ歩く人(伝道者)ではなくて、必要に応じて呼び出され、そ

          れを静かに指し示すのが、そして、そこにただ存在していて判断材

          料を提供するのが、証人のような気がする。

           一番面白かったのは、証ができないという正直な発言であった。

          個人的には、積極的にイエスが神であると言いふらす伝道を証とし

          て必ずする必要もないのではないか、ということを思ったし、

          そういった。

           そのあと、お祭りのときなど、地域のなかで奉加帳が回って

          来るので、その時拒否しているという発言があり、まぁ、そういう

          かたちの証も証だと思うけれども、もう少し柔軟性があってよいの

          ではないか、個人的に奉加帳に記名、出費することはかなり違和感

          を覚えるが、ほかの形で、地域に貢献している人たちに、応援する

          方法があるのではないか。純粋に地域のお祭りをしている方たちは、

          地域のため、と神社のため、という区別がついていないのなら、地

          域のため、といってお菓子の差し入れくらいはあってよいのではな

          いか、と思う。我々は教会というコミュニティと地域というコミュニ

          ティでともに生きているのだとすれば、自分の信仰を理由に地域や

          家族というコミュニティの存在を拒否しなくてもよいのではないか。

          かたちが問題ではなく、異教の神に対する信仰心がどこまで対立す

          るのか、ということが問題ではないか、ということをナアマン(列

          王記II5章)から話した。

           また、伝道しようとしようと思ったり、伝道できないと思ったり、

          ということがあるという意見もあった。素直な意見であると思う。

          個人的には、それでいいのではないか、と思ったので、そうしゃべ

          った。というのは、聖霊は、風であり、息である。強くなる時もあ

          れば、弱くなる時もある。それでよい。それが、聖霊の動きだと

          おもう。他の旧約聖書の人物などを見ていても、そう思う。

           ただ、残念だったのは、参加者同士の自由な意見の交換がなく、

          司会者と参加者の意見交換になったこと。まぁ、みなさんの気持ちが

          なごむまで、勢いのある人が出てくるまで、しばらくこのスタイルか

          なぁ。日本の国会討論会でもそうだが、なかなか、議論風発という

          感じにならない。この辺、文化的な違いかなぁ、と思う。

           個人的には面白いネタをもらったので、よかったが。
          2009.11.08 Sunday

          一つであることについて

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             一つであることについて、いろいろ考えている。

            一つであることの中に、性質が同一のもので一つのグループを形成していること

            (Uniformity)と多様なものであるものの、一つの共通部分に焦点をあてて、

            相互に同一なものとして認識する一体性(Unity)がある。

             最近読んだ、Bassの本に、キリスト集会の創始者たちが、キリストの体が

            一つであることをめざしてキリスト集会であったが、ジョン・ネルソン・ダ

            ービーとベンジャミン・W・ニュートンとの対立の結果、このグループは、

            二つに分かれていくことになる。Bassはこの背景に、ダービー自身が、

            同一性と同質性の区別が付いていなかったこと、つまり、キリスト集会が一

            つであるためには、同質性が必要であり、その結果、同質性の確保のために、

            純化を志向し、それが、交わりを断つことや、バン裂きをともにしない、パ

            ン裂きをともにすることを受け入れない、などの行為につながっていくこと

            になっていく。

             この思想は、実は背後で純化思想とつながっている分だけに、一種のナチ

            スドイツやサラエボフェルツェゴビナの民族浄化運動など、一種の優生学的

            思想とつながっている。この背景には、エリート思想が見え隠れする。

             今、別ブログで、日本におけるキリスト集会の歴史を外国人の目から

            追った歴史の翻訳結果を示しているが、初期の時代は、キリスト集会その

            ものがキリスト集会の数でも、人数の上でも小さく、まとまらざるを得な

            かったことがあったし、その分、聖書理解や集会運営の在り方の可能性や

            展開の仕方にあまり差がない分だけ、均質性が高く、一つにみえただけだ

            ったのだろうと思う。

             同質性を強調すると、信仰のマクドナルド化につながる。どこで食べても、

            いつ行っても、同じ味(聖書理解)になってしまうことを意味する。となる

            と共に集まって、学ぶことの意味はなくなってしまう。

             多様性を強調すると、信仰の多元主義につながり、相対化が進みすぎるた

            め、一致性が失われかねない。

             現在、数多くのキリスト集会が「一つであること」が難しくなっている

            要因には、さまざまな要因があると思う。ダービーがニュートンとの間に

            もった亀裂の結果、生まれたダービー派を中心として生まれたコンネクシ

            アル・ブラザレンとして活動していた英国のキリスト集会の信者の影響が

            伝道におけるの協力や影響のある書籍が主に、コンネクシアル・ブラザレ

            ンのグループの著者の書物であったことによって生まれ、その影響がそも

            そもインディペンデント・ブラザレンとして始まった日本のキリスト集会

            に強いこと、そもそも、エクスクルーシブ・ブラザレンとインディペンデ

            ント・ブラザレンとの両者は聖書理解による分離というよりも、純化の在

            り方をめぐる方針対立という非聖書理解的な一種の政治的な対立関係によ

            る分離であるため、両者の違いは実質的にないことから、本来、エソウと

            ヤコブのような関係であるとおもう。

             ダービーは、同一性に協調のある一致性を強調したため、のちに、一つ

            の市に一つの教会ということを主張することになる。この考え方は、のち

            にかなり変わった形で、ウォッチマン・ニーとウィットネス・リーに引き

            継がれていくことになる。

             また、ある段階まで、日本でもコンネクシアル密接な関係にあったこと

            は、石濱義則著「私の歩んだ道 主イエス・キリスト」の127-128ページ

            に三浦さんのバプテスマに関して、日本に最初の伝道者としてきた、クレ

            ーグ氏の息子のパウロ・クレーグさん(エマオ聖書通信講座を担当)が東

            京でバプテスマを受けるときに、当時エクスクルーシブ(コンネクシアル)

            ・ブラザレンで盛岡で活動していた兄弟から受けるべきであると主張し、

            議論が紛糾し、石濱さんが粘り勝ちしたのか、結果的にあきらめられたの

            かはよくわからないのですが、三浦さんは、新潟の野城さんから多摩川で

            バプテスマを受けた、という記事が、記載されていることからもわかるよ

            うに、インディペンデント・ブラザレンとコンネクシアル・ブラザレンの

            両者はかなり密接な交流関係にあったように思う。

             昔から、いろいろな考え方が、奔流のように流れているのが、キリスト

            集会の姿で、安定したスタティックな姿ではないのではないか、と思います。

            それだけ、安定したものではないのだからこそ、「一つであること」の

            意味を深く考えることもなく来たのかもしれない。夫婦は一つであるが、

            完全に同じではありえない。しかし、互いに尊重しあうのが、私は

            夫婦の姿であるとすると、その違いを尊重しつつ、共通する部分を大切に

            する思いをもつことが大事なのでは、と思う。

             それをわすれた、「一つであること」の意味は問われてしかるべきである

            ように思う。
            2009.11.10 Tuesday

            徳治主義と日本の教会

            0
               日本社会は、徳治主義がいまだに意識される社会であると思う。

              このことが教会に影を落としているような気がする。ここのところ、

              書いている教会における牧師家庭が金魚鉢のようにさらされる可

              能性が高い反面、一般信徒の家庭はブラックボックスにとどまる

              問題や、指導者の非聖書的行動をとめられないばかりか、それを

              助長してしまいやすい問題、論理的な批判が受け入れられず、

              教会の中での議論が成立しないことなどに、この問題は影響し

              ていると思う。

               人間が罪ある存在、不完全な存在として捉えられていることの

              伝統の上に乗っているヨーロッパ社会比較して、まだまだ、属人

              的な特性に大きく依存している事が少なくない社会では、教会の

              中でも、徳治主義の結果、代表者に無制限の権限を与えて

              しまいやすいように思う。このことは、非常に大きな危険性を

              はらむように思う。

               指導者が徳を持って社会の運営の責任をもっている間は良

              いのであるが、地位は、人を狂わせることもあるし、人の生き

              方を変質させる。そうなった時に、徳治主義社会では、指導者

              に対するブレーキが効かないことは、その社会の構成員に

              非常な負担を強いることになる。教会の場合、指導者がカルト

              化した場合、その指導者を止めうる方法がなくなってしまう。

              牧師が自己批判能力を持ち、他者の批判を受け入れる余裕

              があるうちは良いが、それがなくなったとき非常に大きな

              問題を生む。

              特に単立教会の場合、包括組織、アンブレラ組織を持たない

              ため、指導者が暴走し、指導者と信徒の間のコミュニケーショ

              ンが正常に機能しなくなった教会を止めるものは、集団脱会し

              かなくなる。最後の手段であるべき集団脱会が多用されること

              にもなりかねない。

               このあたりが、現代増加中の単立教会の問題ではないか、

              と思う。そのためには、信徒が考え、牧師と信徒間のコミュニ

              ケーションの改善が必要ではないかと思う。

               特に、60歳代以上の人々はその思考スタイルの中に、この

              徳治主義がしみこんでいるような気がしてならない。教会運営

              をどうするのかは、極めて政治的な問題としてとらえるべきで、

              そのことをきちんと考えることは、指導者の暴走し始めた時に、

              どのようにとらえ、それをどのように対応するのか、ということ

              は単立のキリスト集会にとって、とっても大切だと思う。


               
              2009.11.12 Thursday

              バプテスマのヨハネの視線

              0
                 バプテスマのヨハネの視線ということを考えている。

                この前、美の巨人というテレビ東京系でしている

                番組を見ている中で、ルーベンスの作品紹介をしていた。

                彼の作品の中で、聖母子と聖人像の登場人物がヒエロニ

                ムスを除いてイエスを見ていることで、絵画の中に動線

                を作り出す、ルーベンスの作品にみられる視線の構造が

                解説されていた。

                 なるほどそうだと思う。その中で、ヒエロニムスが

                絵画の鑑賞者を向いているのには、意味があると思う。

                ヒエロニムスは、ローマ世界人の共通言語・民間語で

                あったラテン語訳聖書を翻訳するのに貢献した人物で

                ある。ラテン人とラテン人の影響を受けた社会に聖書

                とその内容を語りかける人物が絵画を見る鑑賞者に向

                いているのは、私が語りかけようとした聖書の中身の

                中心は、この人であったのだが、わかるかね、とヒエ

                ロニムスが問いかけているような印象を受ける絵画で

                あった。

                 この絵を見ながら、バプテスマのヨハネを考えた。

                バプテスマのヨハネは、イエスが活動した時代のユダ

                ヤの人々に視線を向け、人々にイエスのことを語りか

                けた存在としてヒエロニムスとよく似ている。旧約聖

                書世界の最後の預言者ともいわれる。

                 当時の人にわかる言葉で、イエスがくること、イエ

                スが来たこと、イエスこそ、預言された来たるべき方、

                であることを証言した人物である。

                 しかし、そのバプテスマのヨハネも、投獄され、イ

                エスとの関係が分断された後、イエスが神であること

                の確信に不安を抱き、弟子たちを使わしている。その

                弟子たちに向って、イエスは、「あなたがたは行って、

                自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しな

                さい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァ

                ラアト(ハンセン氏病)に冒された者がきよめられ、耳

                の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たち

                に福音が宣べ伝えられている。」とヨハネに告げよ、と

                言っている。

                 イエスを見ること、イエスの存在を感じ、イエスがも

                たらしたものを見ることが、人間にとって大切なこと、

                そのことを紹介することの大切さ、思いを巡らしつづける

                ことの大切さをこのバプテスマのヨハネの事例は告げて

                いる様に思える。




                2009.11.17 Tuesday

                日本(中世)史の勉強

                0


                   今、日本の教会を考える、という作業をしている。最初は、戦後だけを

                  するつもりであった。しかし、今の日本社会の原風景が、鎌倉、室町、

                  南北朝、平安朝と下がっていかないとわからない、民俗学的知識が必要、

                  ということに気付き、今日本史の勉強を必死でしている。高校生以来

                  である。高校生では、平安時代までは一通り習った。しかし、20年と

                  いう年月のうちに、民俗学と歴史学の交流がなされていることは、網野

                  さんという日本史の先生がおられることから気付いていたが、この種の

                  分野に手出しをしていなかった。どちらかというと、塩野七生の世界に

                  触れ、ヨーロッパ中世史をやり始め、そっちの方が面白かったという

                  側面もある。

                   しかし、日本社会の中でのキリスト教会という異人の世界、キリス

                  ト者という90%以上の現代の日本人にとっての異人をどうとらえてい

                  くのか、ということを考える上では、網野氏の異人論から見た日本史

                  という視点、民俗学の成果を活用した日本中世史は非常に参考になる。

                  漂泊する民や宗教者をどのように社会に位置づけていったのかの原型

                  がどうも平安末期から鎌倉時代にさかのぼって理解する必要があるの

                  ではないか、と思っている。

                   確かに建物としての、あるいは舞台装置としての教会は、日本社会に

                  徐々に受け入れられて始めている。平安期の信仰を見ていると、貴族

                  階級の仏教、平民階級の神道の原型であるツングース的な地霊信仰が

                  共存し、それが、破戒坊主や国家の枠組みを外れた仏教信仰者である

                  出家の行動と金剛密教・天台密教のいずれもが呪術的なものを含む

                  なか、ツングース的な事例信仰とシンクロしつつ、動いているように

                  思われる。これで、仏教の大衆化が進む。

                   このことを考えながら、日本のキリスト教における祖霊信仰や、

                  霊信仰の問題を考えている。この問題と解決をつけない限り、

                  日本での伝道は難しいよなぁ、と思う。ケースにあたりながら、

                  体系づけていくしかないのか。個別ケースの積み上げの重要性と

                  個別ケースの接近の重要性を感じる。


                  2009.11.21 Saturday

                  「三ツ星獲得閉店牧師」について

                  0
                     小さな命を守る会の水谷さんのブログに「三ツ星獲得閉店牧師」

                    という記事がある。参照先は以下の通り。

                    http://blog.chiisana.org/?eid=1297899

                    これを読んで反省してしまった。最近、「三ツ星獲得閉店牧師」

                    ではなく、「三ツ星獲得閉店説教者」になりかけていたからである。

                    聞き手があって初めて、説教や伝道は意味を持つが、聞き手を無視

                    しては、ならないにもかかわらず、かなり個人的な趣味の話を

                    しているような気がする。注意喚起も、徐々に、ということもある

                    のだが、まだ、若いせいかそのあたりがうまくいかない。

                    聞き手の良識に期待する、ということもあるが、しかし、あまり

                    ソフトにやりすぎると、主張が伝わらないということもあるので、

                    そのあたりが難しい。

                     検討しながら進めていきたい。


                    2009.11.21 Saturday

                    日本人と教会 第2回要旨

                    0

                      今回の学びのスタンスについて、まず説明しておきたいと思います。

                      私の学びのスタンスは、これまでも、「これが聖書的真理だ」と主張

                      するものではありません。

                       どちらかというと、これまでも、私にはこう見える、ということで

                      お話してきたつもりですが、こんかいも、私に見えているイメージを

                      お話したいと思います。

                       以前から、強調しておりますように、考えるための糸口をお渡しす

                      るのが、学びの主要な役割だと私は、考えています。

                      前回を簡単に振り返っておきたいとおもいます。

                       日本社会において、キリスト教会は、結果的に、地理的にも心理的

                      にも社会の周辺部に置かれてきたようにおもいます。

                       社会の内部にいないことを自ら選択してきたし、社会も外部に置い

                      てきた部分があります。

                       人々とともにいることをしない教会、地域のものとさせない教会の

                      構築がおこなわれてきたようにおもいます。

                       教会について学ぶ前に日本人の信仰概念の整理をしておきたいと思

                      います。

                       日本の信仰は、ユーラシア東部民族の伝統的精神世界や霊のとらえ

                      方の上に乗った神話学に変形され、神道の原型に乗った形の仏教とな

                      っていて、神道と仏教の混在があるわけです。日常生活に見る神道の

                      原型は、井戸の神に対する信仰や、初詣、事故防止のプレートを車に

                      つけること(お札のかわり)などに見られます。

                       仏教と社会との関係を考えると、お葬式のときの出番や集会所とし

                      ての機能があるわけです。だれも、結婚式に、密教の形の仏式では

                      しないですよね。

                       平安仏教はエリートや貴族のための仏教で、鎌倉仏教で時宗や日蓮

                      宗のような大衆伝道型の仏教が発生し、江戸時代に現在の戸籍の前身

                      となった宗門改め帳(檀家名簿)により、国民の組織化が進められた

                      といえます。江戸時代の仏教僧は、漢字の文字が読み書きできるイン

                      テリ層であり、であるからこそ、寺子屋、という概念が生まれたわけ

                      です。ただ、平かなは、鎌倉時代には庶民にある程度普及していた形

                      跡があるので、文字はエリート層だけのものでなかった可能性はあり

                      ますが、社会的地位がある立場になるためには、かなり熱心に学習さ

                      れたようです。

                       日本人の信仰をめぐる諸問題ですが、先日の成田敞美さんのお話で

                      「日本人は、メガネや針のようなつくられたものを信仰している」と

                      いったニュアンスの表現がありましたが、日本人の「針供養・メガネ

                      供養」は拝んでいるのではない様に思います。

                      針供養とか、メガネ供養は、呪詛と言っていいと思います。呪詛は、

                      平安仏教、密教の特徴です。なぜ、日本人が針供養とか、メガネ供

                      養をするかというと、これらのものを使用した人の魂が、ボンドの

                      ようにつかったものに付きまといそれが悪さをすることを封じるた

                      めに、付きまとうものを奉り、褒め殺すものだと考えた方がよいか

                      もしれません。

                       雛祭り(流し雛)、灯篭流し(原爆忌)、神輿の海入りにしても、

                      霊がとりついたもの流すことで、霊がとりつくことを防止する心の

                      動きといえます。

                       平安仏教(天台密教・金剛密教)ともに呪術要素をもっており、

                      護摩行等に現れます。この密教は、修験道につながっていきます。

                      恐山・大峰山・月山・…などが代表的な山岳宗教地です。

                       よく、水子供養というのがありますが、これは、水子の霊を慰め

                      るというよりは、仏として褒め殺ししているのに近いと思います。

                      これは、伝統的な考えで、ヤマタノオロチも基本、褒め殺しと考え

                      てよく、最後は本当に殺していまいますけれど。

                       先日の民主党の小沢氏の発言が、日本人のキリスト教に関する

                      よくある意識を示しています。読売新聞の記事では、「キリスト教

                      は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に、というみだしのもとで、

                      次のような記事がありました。

                       民主党の小沢幹事長は10日、和歌山県高野町の高野山・金剛峯

                      寺を訪ね、102の宗教団体が加盟する「全日本仏教会」会長の松

                      長有慶・高野山真言宗管長と会談した。

                       小沢氏は会談後、記者団に、会談でのやりとりについて、「キリ

                      スト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした

                      文明は、欧米社会の行き詰 まっている姿そのものだ。その点、仏教

                      はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい

                      宗教だ」などと述べたことを明らかにした。

                       さらに、小沢氏は記者団に、「キリスト教文明は非常に排他的で、

                      独善的な宗教だと私は思っている」とも語った。

                      という記事ですが、なぜ、こう思われるようになったか、ということ

                      を考えてみる必要がありそうです。

                      日本人がキリスト教を忌避する理由ですが、その中に、押しつけがま

                      しさがあるかもしれません。

                       結果としてではあるけれども、自己中心主義・パターナリズムがあ

                      るかもしれません。

                       キリスト教が忌避される理由には、地域社会や家族といった共同体

                      に害悪(不必要な対立)をもたらす存在だからというのもあるかもし

                      れません。

                       不幸にして、日本では、中産階級の人々が主な信者になり、中産階

                      級のためのキリスト教になってしまった様に思いますし、そのイメー

                      ジはかなり確立しているのではないでしょうか。たとえば、横浜バン

                      ドの高名な牧師の植村正久は、「我輩の教会に車夫、職工の類はいら

                      ない」と発言したようですが、このような態度が、信仰が広がりにく

                      い環境を作り出してしまったのではないでしょうか。

                       教会での説教でよく聞くフレーズとして、「神のない世界は、○○

                      や○○が起きて、まったく秩序や平安がない人が多いですが、神を信

                      じない人たちには希望がないので、救われる必要がある。」というフ

                      レーズがありますが、この話は、キリスト者の目から正しく見えるか

                      もしれませんし、その精神性は理解できますが、神のない世界に住む

                      人からすれば、自分たちの生活が馬鹿にされた気分になるのではない

                      でしょうか。

                       そのことで、人々を遠ざけるとすれば、教会はそれでよいのでしょ

                      うか?

                       実は、この種のフレーズはアメリカ人の説教者がしゃべっていまし

                      た。かれは、「キリストを知らない人々は、孤独を紛らわすために、

                      飲酒し、飲酒運転で事故を起こすことがある。私の友人もそうだった。

                      その友人は、天国に行けないのです。だから、友よ、キリストの許に

                      行きなさい。」と熱心に説教していましたが、と言われても、飲酒癖

                      を持っている人はそこに一人もいなかった。意味あるのかなぁ、と思

                      ってしまいました。

                      プレゼンテーションの仕方で人は心を閉ざすこともあれば、開くこと

                      もあるます。

                       要は福音を聴衆に合わせてどうプレゼンテーション(提供、提示、

                      引き渡し)するかが問題ではないでしょうか。この部分が、日本の教

                      会は、弱いのではないでしょうか?欧米型の19世紀の宣教方法(実践

                      神学)を無批判に受け継いでいるのではないでしょうか?

                      まさに日本のキリスト教はイエスは非日常のイエスとしてとらえてい

                      たのではないでしょうか?

                       聖書の中でのイエスは、少なくともそうではなかったようです。

                      イエス自身、「主が貧しい人々(プトコォス)に福音をつたえるよう

                      にと」とルカ4章18節でいっていますし、「あなたがた貧しい人

                      (プトコォス)たちは幸いだ」とルカ6章20節でいっています。

                       「あなた方は、貧しい人々(プトコォス)とはいつも一緒にいる

                      が、」とヨハネ12章8節といっています。

                       日本社会での教会の位置づけは、無意識のうちに「(霊的に)貧し

                      い人々を福音に導く場所」という部分があり、どちらかというと、

                      勝利者の側に立つ論理のところがあります。この立場は、戦後の多く

                      の福音主義と呼ばれる教会の立場であり、宣教師や牧師たちの立場に

                      時折見られたものです。この立場の問題は、正義は、宣教する側・指

                      導する側にしかないことになります。

                       この立場は正しいのでしょうか?

                       当初は、プロテスタントは、「公会」と自身を呼んだわけですし、

                      教えるところということではないという意識があったように思います。

                      ヘボン訳聖書では、「集会」と訳されているそうです。このことは、

                      鈴木 範久(2006)『聖書の日本語』岩波書店に書かれています。

                       教会の位置づけは、もともと、「貧しい人々とともにあり、その中

                      で神の国を見る場所」であり、教会構成員を勝利者の集団としない立

                      場だったと思います。最近でいえば、解放の神学の立場(問題がある

                      が)だといえます。この立場は、生協運動の主唱者である賀川豊彦の

                      立場ですし、カトリック教会の一部の伝統的立場です。

                       「相談したくなったら、教会に行け」ということが、佐藤 優(2009)

                      の「神学部とは何か」新教出版社に記載されていますが、このように、

                      キリスト教会の立場は、基本的に貧しい人々ともにあろうとしたはずで

                      す。

                       たとえば、アンソニー・グローブス、ジョージ・ミューラー(石井十

                      次等に影響)、のような貧しい人とともにあろうとした多くの人がいます。

                      この考え方は、中国インランドミッション(OMFの前身)につながってい

                      きますが、この運動の代表的な人は、ハドソン・テーラーです。彼は、

                      ジョージ・ミューラーの影響を強く受けた人物です。

                       貧しい人々とともにあり、その人々とともにキリストを分かち合おうと

                      したが、その人々に信仰や文明のもたらす『豊かさ』をたらそうと試みた

                      とはいうものの、福音のもたらす救いを引き渡そうとした方法論の中に、

                      時にやや強硬なもの、無理解や誤解に基づく方法が含まれたように思います。

                       典型的には、マッジ・ベッコン著「主の御手の中で」に見ることができ

                      ます。自分たちは神の側(正義)、他の信仰を持つ者はサタンの側(悪)

                      という極端な二分論に近い考えが時に見られます。


                      これをみるとき、Paternalismということを考えることができるかもしれま

                      せん。この語は、父権主義:力のあるものが、弱いものの利益になるように

                      配慮して弱い者の意思とは無関係に弱い者の行動に関与、介入する行為のこ

                      とをいいます。そこには、善意が存在するのですが。たとえば、学校教育や

                      義務教育・シートベルト規制等がこの種の代表例です。

                       この思想は、啓蒙思想などは典型的にあらわれます。この立場に立つと、

                      啓蒙される対象としての来会者・啓蒙する側としての伝道者という無意識の

                      構造ができやすくなります。

                      ところで、聖書で言う「証人」とはマァトスということばで、記録とか物証

                      とか言った言葉を持つ語です。この言葉は、あることが事実であることを

                      「呼び出されて」自分の理解や認識を口述する存在です。自分から触れ歩く

                      のは、証人ではなく、押し売りではないでしょうか。証人の場合、どちらか

                      というと、主導権は他者にあるます。

                      証とは、キリストor神がいることを静かに指し示す行為ではないでしょうか。

                      それを、いつの間にか、伝道という行為と意味をすり変えて理解していない

                      でしょうか?証≠福音伝道ではないのではないでしょうか?結果としての福

                      音伝道が実現することがいつの間にか、目的となってしまっていないでしょ

                      うか?そのことを考えた方がよいかもしれません。

                       伝道の方法の多様性は、伝道とは、ナザレのイエスが神であることを宣伝し、

                      説得して回ることだけではないのではないでしょうか。全ての信者の役割が違

                      う様に私は思います。信者の人生の目的は何でしょうか?それは、神と共に生

                      きることでしょうか。それとも伝道でしょうか。

                       アメリカで、強盗に伝道した女性信者の話がありますが、この話のように、

                      伝道は、信仰の結果という可能性はないのでしょうか?

                       信仰と文明(啓蒙思想・啓蒙時代の倫理)のごった煮としての伝道となって

                      おり、時に、救いたいという熱心さのあまり、高圧的な伝道や「仏壇を壊して

                      しまえ」的な伝道方法がないでしょうか。マッジ・ベッコン著「主の御手のう

                      ちに」の記述中に「仏壇を壊してしまえ」というあり方をよしとする表現が散

                      見されます。この結果、多くの人々とともに居られない環境を自ら作ってしま

                      ったのではないでしょうか?
                       私、個人としての反省すべき点を持っていますし、今までの伝道がおかしい、

                      私の立場が正しいというつもりはありません。しかし、常に、反省するべきとこ

                      ろがないか、振り返る必要があるのではないでしょうか?自らの聖書理解の中に、

                      暗黙の仮定・前提・無意識の意識がないかどうかを検証すべきではないでしょう

                      か?

                       教会とは何でしょうか?何をするところか?
                       
                       マルコ10章13-16節に、激怒したイエスが出てくる(激怒したことは触れ

                      られることが少ないが…)この場所から私たちが学べるものは、神の国は、受け

                      入れるものたちのものではないでしょうか。

                       子供の地位は、日本では比較的高いが、この当時社会からは黙殺されていました。

                      黙殺された子供たちを受け入れるところとしての教会があったわけです。

                       教会とは、みなさんにとって何でしょうか?少しお考えになってください。

                       教会とは、私にとってまず、明け渡す場です。神に対して、そして人に対して明

                      け渡す場です。このことは、ピリピ4章8節に書かれています。また、教会とは、受

                      ける場でもあります。それは、神から受ける場であり、人から受ける場でもありま

                      す。IIコリント7:7やガラテヤ1:12にこの根拠が書かれています。

                      また、渡していく場でもあります。手から手へ、人から人へ伝えていく場でもあり

                      ます。この根拠は、Iコリント2:12、15:3にあります。ぜひ、その場所をお読み

                      になって、皆さんの教会についてのお考えを深めていただければ、と思います。
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