2009.10.01 Thursday

日本での伝道活動の諸問題

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     Cururuでであったある方(foceさん)から寄贈されて、2冊の

    本を一気に読んだ。

    1冊は、
     新井英子著 ハンセン病とキリスト教 岩波書店 (1996)

    もう一冊は、

     宮坂道夫著 ハンセン病重監房の記録 集英社新書 (2006)

    である。

     この2冊の本を読む中で、明治以来のキリスト教会の持って

    きた限界というのか、課題を見たような気がする。非常に知的

    な刺激を受けた。そして、おそらく日本社会の中でキリスト教

    が受け入れられなかった理由がなんとなく整理できたような気

    がする。ハンセン病という特殊な事例、あるいは極端な事例を

    通して、そこに潜む問題とそれを弱めてはいるけれども構造的

    にキリスト教会の中に内在した問題である。

     おそらく日本社会でキリスト教が受け入れられなかったのは、

    啓蒙思想 − パターナリズム − メサイア・コンプレック

    スの複合意識であり、それに対する違和感であろう。つまり、

    上から目線の伝道、上から目線で語られる『正義』や『真理』

    に対する違和感なのではなかろうか。それが、いかに『聖書』

    と呼ばれる啓示の書に基づいた理解から出発しているとしても。

     啓蒙思想の場合、啓蒙する側(ヨーロッパ文明・本当にそう

    であるかは別として学があるとされる側)と啓蒙される側(非

    ヨーロッパ文明・学がないとみなされている側)に分かれ、

    パターナリズムの場合当人の利益のためという大義名分を掲げ

    ながらも、保護する側(国家とか保護者)と当人の意思を無

    視して
    保護される側(国民とか子供とか)にわかれ、メサイア・

    コンプレックスの場合、救う側(助けたいと一方的に思う側)と

    救われる側(助けられる対象に本人の意思とは関係なくみなさ

    れる側)に分かれてしまう。人々は、啓蒙される側、保護され

    る側、救われる側であることを望まない場合がある。しかし、

    近代を突き動かした社会構造においては、この両者は分かれ、

    この社会構造があると理解する立場に立つ以上、啓蒙される側、

    当人の意思とは関係なく保護される側、救われる側という対象

    を必要としてしまう。一つの教会という社会集団の中でも、

    この構造が発生する。その結果、共同体に分裂が生じる。

     本来、キリスト教は、共同体の宗教あるいは精神性を持つ社

    会である。ほかの宗教もそうであるように。しかし、17世紀を

    経て啓蒙思想が社会的な思想体系として幅を占める中(科学の

    分野では科学中心思想が理想化されていく中)、この啓蒙思想

    が聖書理解に大きな変質をもたらし、聖書理解を歪めていった

    ように思う。その行きつく先が、神学の場合、自由主義神学で

    あったように思う。あるいは、その反動としてのニュー・エイ

    ジ思想もその影響を免れていない。

     共同体としてのキリスト教会を再定義し、再構築していくた

    めに、聖書理解の中に隠されたこの

    「啓蒙思想 − パターナリズム − メサイア・コンプレックス」

    という一連の連鎖の再検討が必要だろうと思う。その再検討の

    際の手がかりになるのが、個人的には、ヘンリー・ナウエンの

    著作であり、ジャン・バニエの著作であると思う。いま、ジャン

    ・バニエ(うちの娘からは、ジーン・ビニールって誰?と言われ

    てしまったが。フランス語を知らないのでしょうがない。)をい

    くつか読みはじめている。

     いただいた本を読む中でのもう一つの発見は、新井氏が指摘し

    た「信仰と人権の2元論」である。これは、日本信徒の「神学」

    で隅谷三喜男氏が指摘した2階建ての教会(日常の霊性と主日の

    霊性が完全に分離した教会の問題)とおそらくパラレルである

    と思われる。同じ構造が2つの別の対象に共通して見られる。

    つまり、新井氏はハンセン病者への対応の中に、この問題を見

    出したし、隅谷氏は日本のキリスト者の生活の中にこの問題を

    見出したのだと思う。この問題は、深刻な問題であると思う。

     この信仰の二元論のもたらす影響は、教会運営にあらわれる

    ように思う。具体的には、日本人の牧会者が、無意識の中にあ

    る構造として、教会を疑似日本社会とした時に牧会者を疑似天

    皇とする父権的構造を教会の中に作り上げてしまう問題も、こ

    のうちに含まれてしまうような気がするし、また、その構造を

    これまた無意識のうちに作り上げてしまう信徒のうちにある日

    本人の霊性というのか精神構造の問題があると思う。

     その面で、ダグラス・マッカーサーが早期の段階で、GHQの

    指導者を下ろされたことは、日本にとって、幸運だったかもし

    れない。歴史家には許されない質問であるが、もし、マッカー

    サーが長期間GHQのトップであり続けるならば、彼と彼の価値

    観を中心としつつも、微妙に日本風に解釈しなおした思想体系に

    依拠する国家が出来上がっていたかもしれないと思うと、

    ちょっと考え込んでしまう。(今でも十分そうだ、というところ

    はありますが、もっと大規模に影響したでしょう。)

     この問題に対する解決策は、今の私にはないので、少し困って

    いる。ひたすら、この問題を具体的な教会の中でどう考えるのか、

    具体的な行為、聖書解釈を明らかにする行為を行っていく中で、

    考えていきたいとおもっている。そして、自己を批判的に眺めつ

    つ、聖書から語ることの意味と、そのアプローチを考えている。

    2009.10.01 Thursday

    おかえりなさい。のらくら者の日記。うれしい。

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       「のらくら者の日記」が復活している模様。

      よかった。完全に中断か?と思いきや

      お得意のギターネタで復活。無理せずに

      でもお話聞きたいなぁ。

      特に、ほかの牧師さんのブログで知ることの

      できないイギリスの神学思想とそれを語る本

      のお話し、お待ちしています。

       最近の私の読書傾向に大きな影響を与えて

      いるブログの一つなので、これからも、楽しい

      神学のお話し、本のお話しを楽しみにしていま

      す。

       のらくら者の日記をお書きの方のおかれた環

      境には、同じキリストの共同体(コイノニア)

      あるいは、からだに属するものとして、心から

      心痛めておりますし、ご同情申し上げます。
      2009.10.06 Tuesday

      パターナリズムについて

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        パターナリズムについて、静かに考えている。

        日本の制度について、そして、日本の社会の

        隅々にまで行きわたった、パターナリズムに

        ついての考え方を整理しようとしている。

        パターナリズムは、ある面強者の論理である。

        弱者保護に隠れた強者の論理である。弱者保

        護の観点から、強者が強者であることを認め

        させることが問題であり、一つの組織内や社

        会集団内に強者と弱者という関係を作り出し

        てしまう。

         そのことの問題が、信徒を牧師が引っ張る

        というスタイルの教会運営にあらわれている

        のだろうと思う。カトリックでは伝統的に

        この立場に近い立場をとってきた。文字を読

        めない人々が大半の社会において、文字が読

        める教育を受けた(ことになっている)司祭

        が教理的な判断をするのは、ある面当然であ

        ったであろうし、教益者間の関係において、

        このような相談される人、相談する人の関係

        を組織として構築しておくことは、組織の知

        恵として有効であったのだろうと思う。

         しかし、そのなかで、いつの間にか、司祭

        や牧師が信徒との間に遊離がおこり、教会が

        教会として、共同体として課題を抱えるよう

        になる側面も出てきたのだと思う。

         強者は強者であることを捨てること、ある

        いは強者が弱者に転換することは、極めて難

        しい。しかし、強者はいつまでも無敵ではな

        い。老いという強者をむしばむものが存在す

        る。秦の始皇帝は、この老いを防ぐため、不

        老長寿の薬を探させるため、いろいろと行っ

        たようだが、成功したものはなかったようだ。

        そもそも、神の前の強者などはいない。その

        ことを知る謙遜ということの意味を考えね

        ばなるまい。人はいつまでもパターナリズム

        の世界を維持し続けるわけにはいかない。で

        あるとすれば、自己の中にあるパターナリズ

        ムを軟着陸させる方法論について、考えるか

        必要があるのではないか。

         今、そんなことを考えている。
        2009.10.08 Thursday

        カルトとメサイア・コンプレックス

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           メサイア・コンプレックスについて、考えている。

          カルト被害者には耐えがたい話であるが、カルト加

          害者であるカルトの指導者、牧師、導師、グルとよ

          ばれる人々には、メサイア・コンプレックスがある

          のではないか。

           自分は、メサイア(ないしはメサイアの使者、代

          理人)であるから、自分自身の行為は常に正当化さ

          れ、批判的意識は向かず、批判的意識は常に他者に

          向く。つまり、どのようであっても、メサイア・コ

          ンプレックスの保有者には、救済されるべき相手が

          必要であり、てじかに不用意に近づいてしまった人

          々、その中でも感受性の強い人々は、メサイア・コ

          ンプレックスの指導者の意図を何とはなくくみ取っ

          てしまい、救済されるべき人の役割にはまってしま

          う人がいるように思われる。

           問題は、ここだろうと思う。本人がカルトに近づ

          いたこと(不用意とはいえ)は裁かれてはならない

          が、通常の世間様の感覚では、本人も近づいたんだ

          から、本人にも責任があるということになるが、

          ただし、感受性の強い人、そして他人のためという

          ことを考えて動きやすい性質の人には、他人がこう

          あってほしいと思った意図をくみ取り、意識せずに

          他人の意図に沿った行動をしやすい人もいるように

          思う。逆メサイア・コンプレックスというほうが

          良いのかもしれない。

           カルトでなくてもそうである。これは、検察や

          警察の取り調べに応じてしまう人の心性とも通じる

          ように思う。

           個人的経験から言えば、この感受性の強い人た

          ちは、他人の気持ちではなく、いったん自分の置

          かれた環境を突き放してみて、客観視し、その状

          況を冷静に分析するしかない。感受性の強い人に

          は、どうもこの種の作業が苦手な人が多いと思わ

          れるが、こうでもしないと、メサイア・コンプレ

          ックスを持った人の罠にはまってしまう。

           そして、カルト被害者でありながら、カルト加

          害者であるという二面性を抱え込んでしまう。

          カルトの問題をもうしばらく考えてみよう。逆

          メサイア・コンプレックスもメサイア・コンプレ

          ックスもどこかでつながっているような感じがす

          る。もう少し、整理して考えたい。
          2009.10.08 Thursday

          結婚式場キリスト教会を考える

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             世の中に、結婚式場キリスト教会牧師と教会だけから

            構成されるキリスト教会風の施設という特殊な存在が

            ある。

             なぜ、日本人は、仏間やお寺での結婚式をしないの

            か。神社には、神社付属の結婚式場がある。お寺専用

            の結婚式場がないのが不思議といえば不思議。法主様

            にありがたいお経を唱えていただきながらの結婚式。

            うーん、なかなか味わいがあるかも。「怨敵退散、怨

            敵退散、と護摩行をしながらの結婚式であれば、不

            倫封じにはなるので、ぜひあなたも」というラディ

            カルなお坊様はいらっしゃるかもしれない。無理か。

            結婚情報サイトで、仏式とみられる結婚式場はなか

            ったなぁ。ということは想定外、ということかな。

            しかし、

             結婚式 (神社 または キリスト教会)
             葬儀  (お寺)

            という使い分けがなされている。これには、何か理由

            があるはず。しばらく考えたい。

             なぜ、結婚式場が教会を併設するようになったか。

            あるいは、教会のようにみえる教会という建築物の

            ルールの基本線を無視した(異様に狭い会堂、40人が

            限界の会堂、意味のないステンドグラスとその配置

            がなされている)ものすごい変わった一見教会風の

            結婚式場がある。

             なぜ、このような結婚式場、あるいはホテルや結

            婚式場併設の教会(英語ではチャペルという)が生

            まれたのであろうか。

             『「結婚式場教会」の誕生』という面白い本があ

            るが、ようするに、おとき話の演出装置としての

            「結婚式場教会」という建築物が構想された、とい

            うことのようである。

             おそらく、この背景には、テレビや映画で見る

            ヨーロッパやアメリカ型の結婚式のスタイルを演

            出しながら、海外での結婚式をするには金がかか

            りすぎると思う人たちが、手軽な装置としての

            結婚式の装置、背景画として、このような意味の

            ない結婚式場教会というのを生み出したのだと思

            う。

             安藤忠雄が「水の教会」というわけのわからん

            結婚式場教会というものの設計をして、現物があ

            るらしいが30分は耐えられても、1時間の説教に

            は耐えられないだろうと思う。大体、安藤氏の

            設計した建物が使い勝手が悪いことで定評はあ

            るが。ガウディもそう。

             『「結婚式場教会」の誕生』では、連れ込み

            旅館(昔風の和風のラブホテル)から自由の女

            神や訳わからん疑似西洋風のメタファーを利用

            した西洋のお城風の建物にラブホテル(いま、

            ファッションホテルというらしい)が変容した

            あたりから、この結婚式場教会というものが

            生まれているらしい。

             つまり、手軽に外国風を味わえるメタファー

            を持った施設としての疑似(似非)教会として

            結婚式場教会があるのだろう。日本人のキリス

            ト教に対するイメージが良いことにあるのでは

            なく、疑似外国としての教会なのだと思う。

             知り合いの結婚式(といっても、20歳以上

            年の離れた知り合いであるが)の結婚式に参加

            するために大阪市内のあるホテルの結婚式場教

            会に行ったが、そこには、コーカシア系の見る

            からに外国人という風体の司式者がいた。牧師

            であるかどうかは定かではない。

             最近は、伝統のある教会堂、人気のある教会

            堂をもつ教会で結婚式を挙げることを狙う結婚

            希望者も多いという。本物志向なのだろう。

            教会の側でも、信者獲得の可能性を考え、消極

            的ながら関与する教会、積極的に関与する教会

            いろいろある。そして、信者の結婚式向けプロ

            グラムを流用しながら、聖書に書かれた結婚と

            それと一緒に信仰を語っているという。そして、

            信者とするためにバプテスマを施すこともある

            という。それは、その教会の料簡なので、何も

            言うことはない。

             しかし、結婚式場教会としてキリスト信者で

            ない人々が、あるいは、おそらく、その瞬間だ

            けキリスト信者であると主張する人々が、キリ

            スト信者の共有財産である本物の教会を使う

            意味とそのために信者(便宜的にだとおもうが)

            となった人の教会への定着率は、どうなんだろ

            う。一度調べてみたい。

             個人的には、教会がビジネスと知った上で、

            牧師付きでなく、貸し出しするのなら、いいか

            なとおもうが、慎重にしたほうがいいかなぁ、

            とは思う。教会は、信者のものなので。
            2009.10.13 Tuesday

            カルトと教会指導者

            0
               

              のらくら者の日記


              にガリラヤ書と皇帝崇拝の問題が取り上げられており、

              かたちを変えた牧師崇拝という形での日本の教会の

              一部に根を下ろした問題についてのお話しが断片的に

              かかれていた。

               ガリラヤ書から、皇帝崇拝という形が暗に伏線と

              して存在し、それが教会を腐敗させていくのと同じ

              ように、日本の教会では、牧師崇敬が牧師崇拝とな

              り、牧師を天皇とし、信徒を国家とする疑似天皇制

              が生まれる問題が取り上げられていた。尊敬が、

              尊敬で留まっている間は良いが、日本人の精神性

              の中に尊敬が自然に崇拝、指導者のことばが絶対

              視されやすい雰囲気があると思う。私は、日本社会

              の帝国陸軍化と読んでいるが。

               15年戦争当時の日本の社会は統帥権問題で、

              海軍も陸軍も、結局訳の分からないものに巻き込

              まれていったように思うし、それを個人としてとめる

              こともできなかったのが日本社会だったし、その

              雰囲気は今もなお続いている。

               アジア的な指導者に対する絶対視というのが

              どこかで効いていると思う。それが、教会内で行

              き過ぎるとカルトになるのだろうし、無批判にいろ

              んなことを飲み込んでしまう無謀さが、いろいろな

              問題を生むように思う。そして、無意識のうちに

              カルトに加担することになるのかなぁ、とも思う。



               紹介された本をAmazon.comでも見てみたが、

              売り切れらしい。

               どうも、この問題には、アリストテレスやアウグ

              スティヌス、トマス・アキィナスなんかも関係して

              そうな気がする。

               もう少し考えを深めてみたい。
              2009.10.16 Friday

              エトランゼ―ということ

              0
                 最近、面白い映画を見た。以前、スカパーのどこかの

                映画チャンネルでしていたのだが、DVDになったらしい

                のでみた。

                オリジナルのタイトル:The Spitfire Grill

                日本版タイトル:「天使はこの街でバスを降りた」

                この映画を見ながら、エトランゼ―(フランス語で寄留

                者・通行人)ということを考えた。

                 義理の父親にレイプされた揚句に胎児を父親に殺さ

                れ、その怒りから父親を殺して、見ず知らずのメイン州

                に流れてきた南部なまり(あのなまりは、ケンタッキー

                あたりか)のあるパーシー。出獄し、あてもなく、

                小さな町ギリアド(聖書ではギリアデ:殺人者の逃れの

                町があったとされる)に流れてくる。彼女も間違いなく

                寄留者。

                 一方、彼女が働くことになったSpitfire Grillの女性

                オーナーも定着はしているが、心の面ではエトランゼ―。

                心に迷いがある。

                 ジョニー・Bと呼ばれることになるSpitfire Grill

                の女性オーナーの息子も、ベトナム戦争前は、町の期

                待を一身に集める期待された人材であったが、ベトナ

                ム戦争でのPTSDからか、自宅近くにいながらエトラ

                ンゼ―として暮らしている。彼の作る木工作品が、

                鳥であることがキーの一つである。えさをついばむ

                鳥のように、母親の差し出す缶入り食料で生活して

                いる。

                 エトランゼ―である鳥がメタファーとして取り込

                まれている。

                 Spitfire Grillの女主人の甥もまた、エトランゼ―

                である。家族もある。しかし、他人に対する不信感

                があり、特にパーシーに対する敵愾心と疑惑の念を

                向ける。他人に対して、心を開け放つことのできない

                人物。

                 これらの人が一つの小さな町、ギリアドという

                固定され、みんなが顔を知っている町で交差する

                ことで、エトランゼ―であることを明らかにしな

                がら、あるいは隠しながら暮らしている。

                 この映画の最後のシーンで出てくる教会の姿を

                みながら、泣けてくる。牧師のいない、使われる

                ことのなくなった町の中心にある教会。礼拝に参

                加するためには、自動車に乗ってよその町まで

                行かなければいけなくなった町の姿。コミュニティ

                が失われてしまった町の姿。

                 エトランゼ―、あるいは漂泊する民は、日本社

                会でもヨーロッパ社会でも社会の枠外におかれ、

                差別されてきた。しかし、モーセは漂泊する民で

                あった。アブラハムも漂泊する民であった。

                イスラエルも漂泊する民であった。エリシャも

                エリヤも漂白した。ナザレのイエスも漂泊した。

                イエスは、漂泊しても、枕するところのない漂泊

                であった。

                 キリスト者と漂泊者の問題は本来深いところ

                でつながっているはず。その思いが強い。

                キリスト者自身も、霊的には漂泊する民である。

                キリスト者であっても漂泊する。その中で、どの

                ように神と出会うのか、そこがポイントだと思う。

                荒野にいることは漂泊することである。漂泊する

                ことの意味をまだ考えている。


                2009.10.18 Sunday

                日本人とキリスト教会

                0

                  日本人の教会意識に潜むもの というタイトルでお話ししたいと思います。

                  今日の狙いですが、通常、学びでは、自分たちの考えを中心に、自分たち

                  の目線からの見しゃべることが多いのですが、これはある面自己中心主義

                  的かもしれません。今日は、他者の目からどう映っているのか、他者にと

                  って教会とはどんなところか、ということを考えるべきかとおもいます。

                  教会(キリスト集会)に長くいると、教会(集会)ボケ(他者の感覚が分

                  かりにくくなること)を経験することがあります。

                   そこで、今回は、いろんな時代の歌謡曲から、一般の人の教会のイメー

                  ジを取り上げてみたいと思います。

                   まず、戦後すぐのイメージですが、「とんがり帽子」という歌が代表的

                  です。

                   この歌の背景は、もともと戦災孤児の収容施設を舞台としたNHKのラ

                  ジオドラマです。調べてみると、もともとは、作詞家がある村役場を見た

                  イメージから発想されたようです。ここでは、エリザベス・サンダース・

                  ホームが重なるかたもおおいでしょう。

                   次に、ペギー葉山の「学生時代」からまず、聞いてもらいましょう。

                  この歌は、今の60歳代以上の方の平均的な日本人の教会のイメージに大

                  きく影響していると思います。今の中学生には、完全に『昭和』のイメー

                  ジかもしれません。

                   おもしろいのは、「つたの絡まるチャペル」とか、「讃美歌を歌いなが

                  ら 清い死を夢みた」という表現です。讃美歌は、神にあって生きている

                  ことを賛美する歌ですから、それを歌いながら、清い死を夢見ることは、

                  個人的には違和感を感じます。この曲の作詞家にとっては、教会は、

                  「ロウソクの灯に輝く 十字架を見つめ」るところなのかもしれません。

                  その意味で、この歌詞に示されたイメージは、少女マンガのような清楚で

                  ハイソなお嬢様のイメージで、どちらかというと、か弱い、か細いイメー

                  ジだとおもいます。少なくともこたつでチキンラーメン啜っているイメー

                  ジではありません。

                   次に、吉田拓郎が描く教会のイメージを「結婚しようよ」から聞いてく

                  ださい。この段階になると、「町の教会で」と身近になっていることが分

                  かりますし、「白いチャペル」ということで、吉田拓郎の教会のイメージ

                  としては、結婚する場所としての教会しかなく、つまり、儀式としての通

                  過点としてのイメージであることが分かります。この歌詞は、1972年に作

                  られたものですが、この時期には、結婚式をする場所としてのキリスト教

                  会のイメージが登場していることが分かります。吉田卓郎のイメージとし

                  ては、レンガ造りの建物のレンガ色ではなく木造の白ペンキ塗りのイメー

                  ジであることが分かります。

                   その意味で、外国の教会ではなく、国内の教会というイメージが示され

                  ています。実は、この時期の前、1962-3年ころ芸能人で最初のキリスト教

                  会式が挙げられており、その影響もあり、結婚式場のキリスト教式とよば

                  れる結婚式が多くなり始めています。

                   高橋真梨子の歌詞に見る、教会のイメージを考えてみましょう。

                   『教会へ行く』という歌詞をとってみましょう。この歌詞で面白いのは、

                  やはり、坂道の先にある丘の上の教会というイメージです。たとえば、

                  『坂道を教会へ行く』、『坂道は急だけど』、『丘の教会』という語が出

                  てきます。後もう一つ、おもしろいのは、『たったひとりで』とか『誰も

                  来なくて 私だけでいい』という表現や、『ひそかな祈りを捧げてあげる』

                  『たったひとりで』という表現です。ここでは、教会に行くことは、個人

                  的な問題として捉えられています。また、この歌詞に示された教会のイメ

                  ージは、葬儀や死者の追憶のイメージであり、神が存在する場というより

                  は、故人の追悼の場としてとらえられています。その意味で、吉田拓郎の

                  『結婚しようよ』と共通する儀式の通過点としての教会のイメージです。

                   つぎは、Sugerという女性グループの「ウェディング・ベル」という歌

                  詞から考えたいと思います。若干冒涜的なところがあるのですが、イメージ

                  の定着を見るという意味では面白いことが分かります。

                   歌詞の中では、「オルガンの音が静かに流れて」「祭壇に」「神父さん」

                  という用語がかなり明白な意図をもって使われています。たぶん、この

                  結婚式場は、カトリックの教会のようですが、この歌詞を作った方は、カト

                  リックの教義をあまりご存じないのかもしれません。カトリックでは、カト

                  リック信徒以外の結婚を認めていませんから、カトリック教会で式を挙げる

                  ためには、カトリック教会員になる必要があるのですが、そうでもなさそう

                  ですから。

                   しかし、ここでの「アーメン」という意味は、正確に使われているので、

                  一般に『アーメン』ということの理解がある程度普及していることが分か

                  ります。

                   この曲自体は、1981年日本がバブルに突進していき始める時代の歌詞で

                  すが、この時期には、結婚式教会が定着していることになります。

                   次は、Gacktの「マリア」という曲の歌詞にみる教会のイメージですが、

                  現代の日本の若者が教会に持つ一つのイメージが分かります。

                   Gacktさんにとっては、『錆びついた教会』に見られるように、教

                  会は錆びついたイメージのところのようです。『朽ちてゆく母親の亡骸に

                  呟き続け』にもあるように、かなりおどろおどろしい教会(ゴシック風)

                  のイメージをあたえるところです。マリアが出てきますから、カトリック

                  教会がメタファーなのかもしれません。特に、中世カトリックの神秘主義

                  を感じます。この歌詞は、2001年ごろの作詞です。

                   これらの歌詞を振り返ってみると時代ことに、かなりいろんな教会のイ

                  メージが歌謡曲で歌われていることがわかります。

                   今回、なぜ、集会で、よいとされていない歌謡曲を使ったかですが、歌

                  謡曲の歌詞には、世間一般のイメージや世界観が非常によく投影されてい

                  て、ある面、一般人の感覚に近いから、受け入れているのだと思います。

                  その意味で、歌謡曲の歌詞は、世間の理解を示している証拠として利用で

                  きます。

                   もちろん、人々が言っている、ということからもお話しできますが、歌

                  詞は非常に有効な証拠として解析ができる様に思います。

                   これらの歌詞分析からの共通項として、日本社会において教会は、儀式

                  装置(結婚式・葬儀施設)としての位置は確保されつつあることが言えま

                  す。
                   しかし、儀式装置ということは、民俗学の世界における、ハレとケの世

                  界であり、つまり、非日常の世界であることを示しているわけです。この

                  ことは、多くの人々にとって、非日常の世界(異界)としての教会であり、

                  日常世界の存在としての教会でないことが分かります。

                   ところで、村(町)の境界である山や丘は、異界(鬼や神、天狗が住む

                  世界)との境界であり、外人・異人が現れる場所でもあるわけです。その

                  意味で教会は、異界への恐怖心が潜む場所におかれたわけです。

                   その意味で、赤い靴はいてた女の子は、異人さんに連れられて行く必要

                  があったわけです。日本人にとって、外国籍の人は、エイリアンと正式に

                  よばれていますが、このエイリアンという言葉は、映画のエイリアンのよ

                  うな異星人で邪悪なものをもたらすものという印象がある語で、あまり望

                  ましい語ではないのですが、日本人にとって、外国籍の方はエイリアンの

                  様なイメージを持つことが言外に示されているように思います。このこと

                  は少し問題と思いますが。

                   ところで、儀式装置を考えるという意味では、冠婚葬祭業者の結婚式専

                  用教会があります。いくつかの冠婚葬祭業者の結婚式専用教会はある程度

                  まねてはいますが、基本的にあるべき聖人像がないことや、ステンドグラ

                  スの使い方がおかしいなど、建築上のルールが守られていない部分もあり

                  ます。

                   外国人の目から見た日本の教会を見たときの違和感の大きなものの一つ

                  に、日本の教会が町の中心にないことです。パリにしても、ケルンにして

                  も、エディンバラにしても、町の中心に教会があるわけです。その意味で、

                  教会は地域のものですし、地域の人々のものであることを場所で表してい

                  ます。外国人の目から見た日本の教会を見たときの違和感は、地域の外に

                  あり、非日常としての教会の違和感にあると思われます。つまり日本の教

                  会はめったに見ないもの、めったに行かない場所(異界)としての教会の

                  存在です。教会は、欧米では、日常生活的存在ですが、日本では、日常生

                  活空間として意識されない教会なわけです。その中で最もおかしな存在は、

                  結婚式場教会のように信徒「0(ゼロ)」の教会の存在です。このような

                  信徒がいない教会というものがあり得るのは、それだけ、教会と生活が離

                  れているという点だろうと思います。

                   丘(山)の上にある教会であるということは、つまり、みんなから離れ

                  たところにある教会であり、異界に存在させられた教会であることを意味

                  し、みんなにとって使いにくい教会であることを強いられている点です。

                   教会が地域の中心となって機能してきた欧米社会からは考えにくい状態

                  だと思います。欧米の教会(特に国教会系)の位置は、町の中心、市役所

                  のそばにあるのが普通です。ただ、私たちブラザレン運動関連のキリスト

                  集会は、郊外住宅に付随して伝道してきたこともあり、必ずしも町の中心

                  にあるとは言えないですけれども。

                   確かに教会を表すものに、マタイ5章14節があり、「あなた方は、世界

                  の光です。山の上にある町は隠れることができません。」とありますが、

                  教会は、確かに世を照らす光かもしれないが、教会が、物理的にも、心

                  理的にも遠すぎてその存在が分からないとしたら、それでもよいのでし

                  ょうか?物理的にも心理的にも、人々から教会が遠すぎて、そこに行く

                  のをあきらめる人が出たとしたらどうでしょうか。

                   ところで、イエスは弟子たちになんと言ったでしょうか?

                  マタイ26章6節-11節を見てみましょう。

                   「さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家に

                  おら
                  れると、ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持

                  ってみ
                  もとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。

                   弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだ

                  ことをするのか。

                   この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」


                   するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を

                  困ら
                  せるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。

                  貧しい人
                  たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わ

                  たしは、いつ
                  もあなたがたといっしょにいるわけではありません。」

                   この記事に見られるように、ハンセン氏病(ツァラアト)者の家に

                  おられたわけですが、その後、「あなたがたは貧しい人々(プトォコ

                  ス)とともにいる」と弟子たちに語っています。そのことからみた場

                  合、教会は人々がともにいる場所であると理解できるように思います。

                  貧しい人々(マタイ5章3節 プトォコス)がともにいるのが、弟子た

                  ちの姿であるとした場合、教会も、この人々が共にいるという理解の

                  関連でとらえることがよいのではないでしょうか。つまり、神の国

                  (天国・教会・神とともにいること)はだれのものか、だれととも

                  にいることなのか?ということの理解が大切になります。


                   さて、結論をまとめていきたいと思います。日本社会においては、

                  キリスト教は異界であり、非常に特殊な社会施設としてとらえられ

                  ていることが歌謡曲やポップスの解析から分かったわけです。この

                  ような日本社会の教会に対する理解が信者にも影響していると思い

                  ます。

                   本来、教会は、その地域社会の共有財産であるはずなのですが、日

                  本社会では、そうなっていません。教会が信者の共有財産であること

                  を考えれば、教会が信者の共通財産であることが、個々の信者のかか

                  わりを生みだす要素があるはずですが、それがいつの間にかずれてし

                  まっている場合もある様に思います。つまり、自分たちのものである

                  からこそ、信者が教会にかかわるのはある面で当然だといえます。

                   信者がない教会が無意味なように教会にかかわりのない信者もある

                  面、何かかかけたものがあるのではないでしょうか。もちろん、かか

                  わりのあり方は多様でよいとおもいます。ただ、日本では、偏った社

                  会主義的(日教組的)平等思想があるので、全員が同じようにしなけ

                  ればいけないという意識がある場合がありますが、このような概念か

                  らの脱却を図る必要があるのではないかと思います。

                   これについては、次回以降、お話ししながら、考えを深めていきた

                  いと思います。

                  2009.10.20 Tuesday

                  カルト被害者とセカンド・レイプ

                  0
                     カルト被害者がおってしまう問題は、カルトから受ける

                    直接被害だけではない。カルト被害を受けたことに関す

                    るセカンドレイプとも呼ぶべきカルト問題の本質を知ら

                    ない人々からの、何気ない一言である。

                     「宗教なんかに引っ掛かるから…」、「自分の意思で

                    そこに行ったんだから当然」、「そこでいい思いをし

                    たこともあるんだろうから・・・」といったような

                    何気ない一言が、カルト被害者の気持ちをどん底に

                    落とし込むことがあるような気がする。カルトが巧妙

                    なのは、カルトであることを巧妙に隠し、あたかも

                    カルトでないかのようにふるまうので、引っかかる

                    な、というほうが無理に近い。カルトがカルトであ

                    ると看板を掲げてくれるといいのだが、まともな

                    活動をしている宗教団体が知らず知らずうちに構造

                    的にカルト化する場合もあるので、このあたり、何

                    とも言えない。

                     カルト被害者は、カルト被害者であると知った段

                    階で、「なんでこんなものに引き込まれたのだろう」

                    (それがわかるのなら、そもそもひきこまれない)

                    という反省の思いに加えて、カルトに巻き込んでし

                    まった加害者であるという反省もあり、二重の意味

                    で苦しんでいる方が多いように思う。そのうえに、

                    「自己責任だ」、「無知なのが悪い」、「不注意だ」

                    と攻め立てられたのではたまらなかろう。それこそ、

                    セカンド・レイプに近いのではないだろうか。





                    2009.10.22 Thursday

                    献身者ホイホイについて

                    0
                       牧師の卵を要請する神学校(神学部ではない)の入学者の

                      質的低下が、小さないのちを守る会のブログ記事で触れら

                      れていた。そのなかで、献身者ホイホイという表現で、日

                      本の神学校を取り巻く問題が取り上げられていた。

                      かなり、真実味を帯びた状況報告であると思う。

                       おそらく、このことは事実だと思う。先日、情報交換を

                      したキリスト教系平和主義者の方との話の中で、日本キリ

                      スト教団の聖書学校なのか神学校でも、なぜ、この神学校

                      を希望するのか、という中の一定の割合の志望者の志望動

                      機が「両親が日本キリスト教団なので」とか、「代々、日

                      本キリスト教団なので」といった理由がかなりの部分を占

                      めるという。

                       聖書をほとんど自分で読んだことのない信徒、聖書をも

                      とに自分で多少なりとも苦労したことのない人々が、行き

                      先がないからということで、「神学校でも」といった軽い

                      ノリで、神学校に行く例が増えているという。

                       まさしく、行き場がないから、という理由で修道院には

                      いって行った中世のキリスト教のマンク(修道僧)と同じ

                      ことを繰り返しているように思う。

                       中世ヨーロッパでは、マンクは乞食よりちょっとまし、

                      という程度の扱いを受けたようであるが(その反動とし

                      て、イエズス会のような改革派が現れる)、このままで

                      いくと、日本のキリスト者は、少数派の上の少数派にな

                      っていきそうな気がする。福音派では問題牧師が続出す

                      るし、大教団では、信徒の高齢化と無牧教会の増加が

                      深刻である。

                       人数が多い教会がよいのではない。福音が、聖書が

                      まともに語られる教会が増えること、個々人が聖書を

                      読みながら、素朴でよいから考えることを身につけて

                      ほしいと思う。
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