2009.09.04 Friday

苦しみについて

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     苦しみについて、考えている。

    一つは、精神的にちょっとつらい、ということころがあるから。

    もう一つは、今週末参加する予定の聖書研究会が苦しみについて

    その存在理由について、であるから。この聖書研究会は、創造論

    的な立場からの研究会なので、たぶん、アダムとエバの善悪の知

    識の木の実のところからなのであろう。

    それはそれでよい。

    しかし、最近、ナウエンとかスキャゼロとか、クラウド・タウン

    ゼント(バウンダリーズ)を読んでいるせいか、(たぶん、ナウ

    エンの影響)苦しみの意味を考える。苦しみそのものよりも、苦

    しみを通してもたらされる荒野の経験というのか。荒野にいる、

    ということの意味、荒野で経験する深い神との個人的な霊的交流。

    もちろん、教会では共同体として経験する神との霊的交流がある

    のだが、荒野での個人と神との交流は非常に深いものをもたらす。

    そのことの意味を感じる。

     なぜ、苦しみがあるのか、という問いは、近代人、啓蒙時代人

    であるがゆえにもつことがゆるされる問いではないか、と思う。

    というよりは、近代人だから、啓蒙時代を経た人間中心的な思想

    の結果もたらされた問いだと思う。その背景には、苦しみを悪と

    とらえる思想、死を悪、生を善としてとらえる思想があるのでは、

    と思う。

     聖書のオリジナルの思想に戻れば、本来、死も生も善であるの

    かもしれない。というよりはいずれも価値から中立的な存在であ

    る。神の支配下にあるのだから。死も苦しみも中立であり、その

    まま受け入れるべきもののような気がする。苦しんでいる時はつ

    らい。それはその通りである。しかし、そこには深い神との交流

    がある。それを味わうことができるのは、苦しみを通してかもし

    れない。

     中世人、とりわけ、中世の普通の庶民にとって、理不尽な苦し

    みは日常的なものであったと思う。それでも彼らはそれを受け止

    め、当然のものとして生きてきた。なぜか、そこに神と出会った

    からではないか。彼らの考えを書いたものはない。しかし、彼ら

    に希望を与え続けたのは、共同体としての教会であり、共同体そ

    のものの中の現実の人間のありようだったと思う。

     そのことをもう少し考えてみたい。自分自身の痛みを通して。



    2009.09.09 Wednesday

    苦しみの意味 再考

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       世の中にはどうにもならない理不尽な苦しみがある。

      避けられないような苦しみである。悲しみである。

      今、ハンセン氏病の方々がこれまでの歴史的過程

      の中で通ってこられた歴史の記述の書を読んでいる。


      理不尽な悲しみという以外ない。それを受け入れな

      ければならなかった当事者の方々の痛み、悲しみ、

      苦しみを考えると耐え難くなる。

       しかし、一人の人間としてはどうして差し上げるこ

      ともできない無力感を感じている。その中で、勤務に

      当たっていたキリスト者の姿を見、そのキリスト者が

      自死していた事実にその現実の大きさを垣間見るよ

      うな気がする。

       苦しみは、神に出会う道であるとともに、他者を責

      めるのではなく、自らの無力さを認め、神のもとに行

      く道でもあるような気がする。

       もう少し、このことを考えてみたい。
      2009.09.11 Friday

      信仰告白とバプテスマの間

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        信仰告白とバプテスマの間

        いつも愛読している水谷潔さん(小さないのちを

        守る会代表)のブログ「命と性の日記〜日々是命、

        日々是性」に、高校生の本音として「バプテス

        マを受けたのだから、信者らしく○○して欲しい

        とか、○○してはいけない、とか言われるからバ

        プテスマを受けるのは・・・」といった内容が書かれ

        ていて、中高校生たちが信仰告白するものの、バ

        プテスマにつながっていかない問題を書いておら

        れた。

         詳細は、http://blog.chiisana.org/?eid=1255668

        を参照してください。

         使徒行伝の記事、あるいは福音書の記事を見る

        限り、本来、バプテスマと信仰告白ということは

        基本的に機を一にするはず。

         しかし、最近読んでいるキリスト教典礼史の本

        などによると、ローマ時代(使徒時代の直後の教父

        時代)には、キリスト者となるということが、一種

        の特権というか社会的ステータスというか(日本語

        に訳し難いが英語で言うとプリビリッジ)であった

        ことなどもあり、信仰告白とバプテスマの間に相当

        の期間がおかれたことが分かる。一種のテスト期間

        がおかれたようである。誰でも、彼でも信者にしな

        かった当時のキリスト教会の見識は見識としてあっ

        て良いとは思う。

         しかし、上で紹介した高校生のバプテスマに踏み

        切れない理由をみると、問題は教会側の審査がバプ

        テスマを受けさせなくしているではなくて、教会側

        の風紀委員的態度が高校生や中学生を教会から遠ざ

        けている点だと思う。

         隅谷三喜男氏は、卒業信者の問題を取り上げたが、

        これでは、入学辞退信者が量産されているのではな

        いかと私は思ってしまった。

         最近、福音書のイエスの言動をよく読んでみると、

        キリストは倫理的な行動基準についてはあまりうる

        さく言っていないことが分かる。もちろん、罪を犯

        さないように、避けるようにとはいっている。悔い

        改めよともいっている。神のもとに帰れ、といって

        いるが、それ以上のことは要求していない様に思う。

        イエスは、弟子たちが誰が偉いか、という議論をし

        ている時に、一人の子供をイエスの前に立たせ、こ

        の無力な子供を受け入れるものは、神を受け入れる

        ものだと話をしている。

         このとき、イエスは、この子供について、風紀

        委員のように髪型がどうの、行動がどうの、服装が

        どうの、とかいうようなことはいっていないような

        気がする。ありのままの子供を受け入れることがで

        きるかどうかが、あなた方の信仰を決定付けるので

        はないか、と弟子たちに問いかけている。

         教会が、19世紀的倫理観、日本に大量にキリスト

        教福音派の伝道が行われた時代の1960年代前半以

        前のアメリカ中産階級の倫理観を維持し続け、それ

        を、中学生・高校生に要求し続けるなら、キリスト

        教会の未来はないのではなかろうか。「老兵は死な

        ず、ただ消え行くのみ」といったマッカーサーのよ

        うに消え行くことをよしとするのも一つの見識かも

        しれない。

         この夏、賀川豊彦とその発言について考え続けて

        いる。



         「日本の神学は一体理屈が多くて六ヶし(難し)

         過ぎる」

         「今日の教会には一向に行きたい気がしない。

         感傷的(センチメンタル)な連中のみが徒に

         多くて、少しも心を引きつけられない」

         「信仰とは主知的に教条を鵜呑みにすること

         ではない」

            (以上:出典 太田出版 季刊 at 15号 )


        という賀川の批判にどう答えるのか、個人的に問わ

        れています。答えは見つかっていないけれども。

         賀川に関係するの本を読む中で、横浜バンドの関

        係者の植村正久が

         「我輩の教会に車夫、職工の類はいらない」

         (出典 太田出版 季刊 at 15号 )

        といったという記事があったが、キリスト教会が暗黙

        に漠然とした理念形として持っている都市中産階級の

        生活理念形というか理念形としての行動規範や倫理観

        が、中高生の救いを妨げているとしら、どうなのだろ

        う。

         現代のこのような教会の姿を見ると、イエスは鞭を

        持って大暴れし、机をひっくり返して、現代の教会で

        大激怒するのではないか、と思う。白く塗った壁、と

        批難されるかもしれない。この批判、この怒りが自分

        に向けられたものであるとも思う。

         今しばらく、この問題と取り組んでみよう。

        2009.09.14 Monday

        N集会に行ってみた

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           この前の日曜日、学会発表があったので、中部地方にある

          Nキリスト集会に寄せていただいた。

           場所が分からなかったので、早めに出たところ、礼拝

          開始前の50分くらい前についた。もうすでに、何人かの

          兄弟姉妹がおらてお話ししておられた。会話の中に割り

          込んでいって(アメリカにいたときの習慣が抜けない)

          話をしていた。

           二階では、日曜学校があったようだ。子供たちの賛美

          の声や先生が教えている声が聞こえる。内容までは聞こ

          えなかったけれども。

           伝統的なキリスト集会のスタイルにのっとり、聖餐台

          の周りを取り囲むような配置であった。

           学会会場に向かうバスに乗るため、途中ででないとい

          けないので、後ろのほうに座りたい、と言ったら、聖餐

          台の前に座れと言われて、ちょっとびっくり。

           こちらからは名乗ったが、相手からお名前を伺った

          り、名乗られることはなかった。この地方独特、ある

          いはご高齢の方特有の奥ゆかしさなのだろうか。

           前日のANA便のフライトアテンダントもみんな、

          この方たちは、シンクロの選手ですか、という髪型の

          女性ばかりであったが、N集会の女性信徒の皆さんも

          お若い方も、ご高齢の方も女性信徒の方は、シンクロ

          の選手が試合をするときのヘアスタイルであったので、

          驚いた。いやぁ、初めての学会だったので、スーツっ

          ぽいスタイルにしておいてよかった。

           礼拝は、途中聖書研究やショートメッセージをはさ

          みながらの2時間であった。つい懐かしくなり、自分も

          礼拝で聖書註解をしてしまった。やっちゃった。

           祈りの言葉を聞きながら、思いを重ねながら、多少

          違和感を感じる部分もなくはなかった。聖餐式という

          こともあるのだろうが、若干カルバン派的な雰囲気が

          強い。個人的には、ややルター派的な傾向が強いので、

          少し違和感を感じたが、誤差の範囲。

           しかし、最後までいて参加できなかったのは残念。

          本当は、学び会への参加が一番面白かろう。こんどは、

          平日の夜の集会にお伺いしてみよう。紹介状を再度発行

          してもらっておこう。

           自分の霊的な故郷に戻った感じがした。アブラハムに

          とってのカラン(ハラン)にいたような気がした。

          でも、個人的には、カランの世界観に戻ることはない

          とおもう。今のカナンの地が気に入っている。たぶん、

          定着する予定。しかし、しょせんは霊的なエトランゼ―

          かもしれない。エトランゼ―であることの意味も、今回

          少し考えた。それは、また、のちに触れることにします。



          2009.09.16 Wednesday

          スモールグループについて

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             この前の関西で学会発表があったので、関西のある大学

            で開かれている英語によるスモールグループ活動に参加

            させてもらった。親戚がその大学の先生なので、その先

            生が大学側のホストになりながら、実際の活動のリード

            はある教会にいるフィリピンからの宣教師の方がリード

            しておられた。

             参加者は、リーダー役のフィリピン人、中国系アメリ

            カ人、韓国人、日本人(私を入れて3人)であった。いず

            れも信者であり、それぞれの背景を持ちながら、フラン

            クに議論ができた。

             テーマは、弟子たちが誰が偉いのか、と議論している

            ところについて、自分との関連でどう思うのか、その部

            分でイエスが何を語ろうとしているのか、ということを

            話し合った。

             英語でする分だけ、直接的にものが言えるのがすがす

            がしい。冗談も言える。まぜっかえしもできる。サンタ

            バーバラで参加した時のスモールグループのことを思い

            出した。英語でする分だけに、フランクにものがしゃべ

            れる。

             現在の所属教会でも、ディスカッションもどきのこと

            をしているが、今一つ雰囲気が出ず、聖書解釈の細かい

            ことに行ってしまい、個人との関連や自分がどう思うの

            か、という深まりのある議論ができない。日本語と日本

            文化の影響が強すぎるのかもしれない。深まりのある

            ディスカッション、スモールグループ活動がしてみた

            い。そしてそのディスカッションを通して、神と個人と

            の関与の深まりを考えたいし、聖書理解の幅を広げてい

            きたい。教えよう、教えられようとするのではなく、

            話し合いの中で、考えを深めていく。そんな経験をもっ

            としたい。

             日本では、無理なのかなぁ。みんな仮面かぶっちゃ

            うから。まぁ、いいや、奥さんとしよう。


            2009.09.18 Friday

            教会が与えるもの、教会に与えるもの

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               教会が与えるもの、教会に与えるものについて考えている。

              教会は生き物だと思う。それはパウロも言っている。

              いけるキリストのからだ。その通りである。教会は体、

              信者は身体内の器官だというメタファーがある。システム・

              サイバネティクスというのを以前かじったが、パウロは、

              システム・サイバネティクスという概念が提示される以前

              から、教会がまさしくシステム・サイバティクス的にとら

              えられることを明言している。システム・サイバネティクス

              という言葉を一切使わずに。

               最近、現在所属する教会から離れて、別の教会に移ろうと

              しているお一人の信者がおられる。気になる。なぜ、彼が

              去らねばならなかったのか、去ろうという決断をしたのか。

               おそらく、ご自身が抱えておられる病気のことが大きな

              要因だと思われる。私は癒し(霊的な力で病気が治る奇

              跡の一種)に対してかなり否定的な立場に立っている。

              その方が参加しようとしているところは、その種のことを

              強調しているようだ。そのことに振り回されなければよい

              のだが。

               病気の苦しみからの解放、これは、病者ならば誰もが望む

              解放である。本人にしか分からない部分がある。しかし、

              病者としては現実の苦しみから逃れられるのであれば、

              わらをもすがる思いですがりたくなる気持ちは理解できる。

              病者になってしまったから。痛みがあるから。

               その反面、イエスの神の国の本質は、痛みの除去や、

              病者の苦しみからの解放ではないことが分かっている。

              イエスとともにあること、神と共にあることである。

               人を介してお聞きしたその方が移られる先については、

              個人的には、非常に不安感があり、ものすごく懸念を抱

              いている。不安がある。しかし、一方で、さまざまのこ

              とを見て判断されたその方の意思を尊重したい気持ちも

              ある。たぶん、私のこれまでの生き方からいって、その

              方の意思を私は尊重するだろう。大きなダメージをその

              方に与えかねないという懸念があるとしても。懸念で終

              わるよう祈るしかない。移られる先がキリストのからだ

              の一部をなしていることを期待するしかない。

               組織サイバネティクス的な立場から言えば、要素は全

              体に影響し、全体は要素に影響する。キリスト教会でも

              同じである。信者は教会に影響を与え、教会は信者に

              影響する。非常に複雑なシステムダイナミクスを持つ存

              在である。教会 → 信者 ではありえない。その意味

              で、信者が、どう教会に関与していくのか、教会がどう

              信者との関係を取るのか、そして、信者個人の生活と

              信仰を深めていく、信者同士の関係を深めていくという

              そのための仕掛けづくりの大切さを思う。コミュニオン

              あるいはコイノニアとしての教会、エクレシアとしての

              教会ではなくコイノニアとしての教会という問題を、

              移籍しようとしておられる信者さんの存在から、静かに

              考えている。
              2009.09.23 Wednesday

              関西のある集会に行ってみた

              0
                 最近、機会を捕まえては、あちこちのキリスト集会に

                出歩くことにしている。一つは、個人研究のフィールド

                スタディとして、より具体的には、参与観察と情報収集

                の一環として参加させてくださるキリスト集会があれば、

                できるだけ積極的に参加することにしている。

                 というのは、訪問することで得られるものは、単なる

                伝聞情報、ヒアリングでは語りつくせない視覚情報の有

                効性と情報量の多さがあるからである。

                 今回は、関東のキリスト集会のMさんという方が来ら

                れてメッセージをするということで、Mさんとはここ何

                年もお付き合いがあるので、その方が話すのを聞いてみ

                たいと思ったので、参加させてもらうことにした。

                 夕方に行ったのと、地図を印刷していたのに、それを

                持参するのを忘れていたので、駅から5分くらいで、行

                けるところを、10分以上ついて、現地に到着。

                 あるビルの一室で行われていた研究会に参加。20人も

                入れば満杯になるような会場であった。普段は、15人前

                後でお使いとのことであった。

                Mさんのお話は、感謝というテーマで、マグダラのマリア

                を巡るお話から、いろいろスピンアウトして出てきたお話

                しだった。個人的には、ちょっと論旨がずれている、と

                思う部分もないわけではなかったが、まぁ、おもしろかった。

                個人的には、弟子たちに言ったイエスの言葉がささってきた。

                「あなた方は、いつも貧しい人とともにいる。」この言葉の

                発見はかなり大きかった。お話を聞きながらも、このことの

                意味を考えていた。いまだに考えている。これは、もうしば

                らく考え、そして深めていきたい。

                 おもしろかったのは、この集会は、お好きな方がいるよう

                なのだが、やたらとPA(放送・録音設備)が立派で、State

                of Art(最新の技術水準)のものが置いてあったことである。

                最近、集会施設を移設した関西のK集会もPAは立派であっ

                たがここのは、小規模でありながら、やたらと技術的にマニ

                アックな録音設備があったことである。

                 普通の会社のオフィスのようなところを少しだけ手を入れて、

                そして集会所として工夫して使っておられた。そのため、0.5畳

                ほどの玄関で靴を脱ぎ、20人も靴を入れるといっぱいになるよ

                うなやや大きめのタンス状のシューズボックスの中に収納する

                様な形でカーペットじきの会場であった。

                 後、結構立派なすわりごごちのいい椅子がいくつかあり、疲れ

                にくかったのがうれしかった。

                 それ以外は普通のオフィスとあまり変わらない感じであり、場

                所がわかりにくかったが、それはそれで、キリスト集会の在り方を

                継承していると言えるように思う。ただ、入りにくかったのも事実

                であり、キリスト集会にとって、わかりやすさ、入りやすさという

                問題を少し考えた。最初の人にとっては、入りにくいだろうなぁ。

                 それから、旧O集会(旧H集会)の関係者が結構おられることが多

                いことがわかり、このO集会がもたらしたもの、ということを

                考えざるを得なかった。O集会は、多くの信者を生みだした集会

                であるが、多くのスピンアウトを生み、多くの集会から離れざるを

                得なかった人々を作り出してしまったという面があるように思う。

                同じ関西にあったK集会が、多くの信者を生みだす中で、かなり特

                殊な信仰をもった方々を生みだしていったことを考えるときに、こ

                の関西の信仰の特殊性という問題を考える必要があるようにも思う。

                関東のキリスト集会の冷静さと関西のキリスト集会の情熱の一種の

                激しさの違いはどこに由来するものか、もう少し考えてみたい。

                個人的には、関東の信仰に近いので、関西の大会に参加すると時に

                違和感を覚えることがある。その意味で、関西にいながら、外部者

                としての目を持って、もう少しこの問題と取り組んでも見ようと思

                っている。

                 


                2009.09.25 Friday

                グリーフケア 再考

                0
                   ある伝道者の方の奥様が召された。直接面識がない。

                  伝道者の方も、面識がない。関東に長くいたから。

                  伝道者の方の旧約聖書理解の方向性が違うから、あま

                  り関心がないこともある。あまり議論の方向性が異な

                  るので、正直に不快感が顔で表現されそうで、それが

                  いやだなぁ、と思うこともある。あまり、楽しい思い

                  出を分かち合うことのできなかった教会の責任者が

                  絶賛というよりは心酔していたことも影を落として

                  いる。

                   ブログを使って、病状が経過報告されていた。

                  祈りに覚えてもらうためであったが、遺族の方、

                  特に夫であった伝道者の方としては、闘病時の

                  この姿をとどめておくことで、ともに歩んだ配

                  偶者、というよりは、ラテン語でいうコンミリ

                  ターリィア(戦友というのか、同志というのか、

                  危機をともにくぐった中で培われる友情)の痛

                  みと悲しみを分かち合うというグリーフケアの

                  役割を果たしていたように思う。

                   この伝道者の方は、配偶者であった方の前夜

                  式(通常の通夜にあたる)と記念式(通常の

                  葬儀にあたる)ともにメッセージにあたるという。

                  個人的には無謀だと思う。グリーフケアの観点

                  から考えても、無謀だと思う。でも、それも

                  我々の理想化された責任者の姿だと思うが、

                  それはどこかで無理があると思う。神の前に

                  無力さをさらすべき瞬間であっても、無力さ

                  をさらすことを許さないその精神性は、個人

                  的にどこか歪んでいると思う。

                   他人に依存すること、それもときに必要で

                  ある。それを指導者自ら見せることで、牧会

                  上の益になることもあるのではないか。

                  そんなことを考える。

                   教会員は、指導者の姿を見る。そして、そ

                  れが有形無形の影響を信者に与える。である

                  とすればこそ、弱さを見せること、他人に依

                  存する姿を見せること、それが許されるなら

                  ば、そうすることが必要だと思う。

                   葬儀のセルフプロデュースの話が、水谷

                  牧師のブログ

                  http://blog.chiisana.org/?eid=1261092

                  http://blog.chiisana.org/?eid=1262336

                  にあったが、なんかそんな感じを受けてしま

                  った。

                   霊性の問題を考えるとき、グリーフケアの

                  必然性を考えるとき、歪みを感じる。この歪

                  みはどこから来るのか、少し考えたい。
                  2009.09.26 Saturday

                  大衆化とキリスト教会

                  0
                     小さな命を守る会の代表者をしておられる水谷潔さんの

                    ブログに「和田アキ子に学ぶ福音宣教」という記事があ

                    ったが、この話題は、日本における福音宣教の現地化の

                    問題を取り扱っているものと思う。

                     日本における現地化の問題は、日本におけるキリスト

                    教会の大衆化の問題である。日本において、不幸にして、

                    都市部の中産階級の信仰としてのキリスト教という形で

                    しか広がらなかった。その背景には、日本における宣教

                    が当時拡張過程にあった英米の福音派の影響を強く受け

                    た宣教団体によってなされたことと深い関係があるよう

                    に思われる。英米のプロテスタンティズムの思想的背景

                    と日本における都市部中産階級の社会的思想の不幸な

                    一致が日本における大衆伝道ということを成功させなか

                    った原因と思われる。

                     その姿は、欧米追従型の研究を行ってきた日本の学会

                    の姿でもあり、欧米追従型の音楽性を追求してきた日本

                    の音楽界の姿でもあり、日本独自のものの評価を十分で

                    きていない日本社会の姿であるかもしれない。

                     ブルーノ・タウトやバーナード・リーチなどにより発

                    見される形で評価を得ていった日本建築や日本民芸運動

                    にしてもそうである。自分たちのものを自分たちで正当

                    に評価できないその問題を感じる。それは、閉じたカノ

                    ンの問題かもしれない。自分たちのカノンが独自である

                    ために、他者のカノンとの比較において相対化できない

                    日本社会の案外根深い部分に潜む問題かもしれない。

                     大衆伝道を考える上で、賀川豊彦の存在を考え続けて

                    いる。もちろん彼には、15年戦争中の満州開拓団という

                    とんでもない負の側面があるが、しかし、彼が大衆伝道

                    家として果たした役割を過小評価しているような気がす

                    る。

                     歌謡曲が、水谷氏が言うように英米系ポップス、ロッ

                    ク、フォークの再解釈である(ある面でその側面は当たっ

                    ていると思われる)ことを考えるとき、日本のいわゆる

                    ロックファン、フォークファン、ポップスファンが、外

                    国の文化の中で培われた音楽性の表面だけを受け取り、

                    それを再解釈して提示した日本の歌謡曲をより低次元の

                    ものとして認めていかない「上から目線」は日本の中産

                    階級の思想性とどこかつながっているように思う。

                    英米系のロックや、フォーク、ポップスを「卒業」する

                    人々が多くいることと、教会「卒業生」の存在は重なっ

                    ているのかもしれない。

                     「教会」 − 「とんがり屋根」 − 「鐘」は

                    いわば西洋のシニフィアンであり、アメリカのシニ

                    フィアンだろうと思う。日本には、とんがり屋根の

                    建築物も歴史的にすくなかったし、コミュニティの

                    危急を告げる鐘は、半鐘でしかないからである。

                    そして、そのとんがり屋根の教会は、アメラジアン

                    の孤児や戦災孤児を受け入れる施設であり、丘の上

                    に追いやられた教会の姿である。

                     欧米で、町から見上げる位置にある教会というのは、

                    あり得ない存在である。丘の上にある教会というもの

                    は、丘の上に町がない以上あり得ないのである。

                     欧米では、教会はほぼ町の中心部にあるものであ

                    る。人々が共に集まり、人々が共に集い、人々のもの

                    だからである。それを受け入れられなかった、異人た

                    ちの集う場所、というのが、日本人の教会のイメージ

                    だと思う。町ができたときに、教会もできる。あるい

                    はダラムのように、教会に付属して街ができているの

                    が、ヨーロッパの都市の姿である。つまり、町のコア

                    としての教会の存在が定着している。

                     藤森照信氏の明治の東京計画によれば、西洋の都市

                    は、卵型のシェルを伴った都市であるのに比べ、日本

                    の都市はキャベツのような重なりの中にある都市であ

                    るという。卵の殻が守ろうとしているのが、教会であ

                    り、教会を中心としたコミュニティであり、市民であ

                    る。日本の都市は守ろうとするものがあまりない都市

                    なのかもしれない。そういう生き方も、日本のキリス

                    ト教会の問題としてあるのだろうと思う。

                    その辺の文化的側面を踏まえ、もう少し、考えを深め

                    ていきたい。

                    2009.09.29 Tuesday

                    日本の教会におけるウチとソトの論理

                    0
                      誰が言ったのだったかは明らかではないが、たぶん

                      この種のことを言いそうなのは、柳田國男であるが、

                      日本社会には、明らかにウチとソトを区別する論理

                      構造がある。

                      結界という概念や、異界という概念、異人という概

                      念を知ったのは、日本史の研究者である網野さんの

                      著作だったような気がする。

                       ウチの概念、ソトの概念の妥当性は別として、

                      このことが日本のキリスト教会(キリスト集会よ

                      り広い意味でのキリスト教会)に影響を与えてい

                      るように思えてならない。

                       日本社会にとって、まさしく異人とともにやって

                      きたキリスト教、異人が語り、異界の地に作られた

                      教会の姿。それが日本社会と隔絶していく教会の姿

                      を形作り、キリスト者は異人として、日本人の普通

                      の人々の生活と信仰を全否定し、普通の日本人は、

                      キリスト教を異教として全否定、あるいは排除して

                      きた。その不幸な歴史がある。そして、相互理解を

                      互いに拒んできた姿がある。

                       キリスト信仰と日本の宗教思想を結びつけるつも

                      りは個人的にはない。個人的には、日本社会の伝統

                      的な宗教性、あるいは精神性は、聖書の言う宗教性、

                      あるいは精神性との比較において異質性のほうが

                      強いと思う。しかし、同質性についてのベースで

                      議論を進めるのではなく、異質性を認め合ったうえ

                      で対話を進め、相互理解を進めていくことの重要性、

                      あるいはキリスト教会(キリスト集会)側で普通の

                      日本人に平易な日本語で自分たちの考えを説明する

                      責任は、少なくともあると思う。いつまでも、キリ

                      スト教会やキリスト集会が異界にあってはならない

                      と思うし、キリスト者が普通の日本人を批判し、自

                      らを異人扱いするような言動は慎むべきだと思う。

                       キリスト教会のウチの論理で、ソトである普通の

                      日本社会を考えるのではなくて、この精神的という

                      のか、心理的というのか、霊的な結界をまず、

                      キリスト者のうちから外すことが大事じゃないかと

                      思う。

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