2009.03.08 Sunday

ヨナ書2章から ヨナの祈りと私の聖書研究の方法

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    ヨナ書2章
    2009年3月1日

    ヨナ書2章 その前におはなししておきたいことですが、ある方には、機械的な聖書の読み方(理知的な信仰、機械的な感じがする)というご意見を受けるかもしれませんが、今日もパワーポイントのスライドを使います。
    何故、スライドを使っているか?ですが、アメリカの教会にいったとき、スライドがあるだけで、話がずいぶんわかりやすかったという件家印があります。私自身お話しするとき、アイディアを整理するうえで便利だからということもあります。しかし、私は話すスピードが早いこととと内容的に、必要以上にボリュームを入れて、消化不良になりやすいのでスライドを使うと、生理がしやすいというのもあります。
    聖書のお話について、記載しているブログがあって、それに転載するでの、基礎資料となるのでということもあります。ブログの記事にするために、後は書き加えするだけでよいからということもあります。
    昔は手書きのメモを作成した上で、お話していましたが、今は手書きのメモのわかりに使っています。
    私の聖書の学びをする仕方ですが、基本、場所を決めてするほうが好きです、なぜか?というと
    以前は、結構あちこちをしていたのですが、テーマを決めないと、どうしても断片的な理解の寄せ集めになりやすく、まとまって、深く考えるということをしにくいという側面があります。一つの場所を決めてすることで、皆さんに体系的な知識を与えようとか大それたことを考えているわけではないのです。ただ、職業が教師なので、教師くさいのはご容赦いただければと思います。

     

     私が考える聖書理解とは知識の体系や断片の寄せ集めではなく、聖書を通して聖霊の示しにより、神から受けたこと、洞察といってもよいと思っています。決して、どっかのものの本のコピーではなく、オリジナルだと思います。
    私が準備する上で、まず、聖書だけ読んで骨格の理解を作ります。意外と、電車の中で、祈るというのか、聖書について考えていることが多いです。私にとって、祈ること、考えること、お話の準備することは実は全て礼拝だと思っていてあまり区別していません。
     聖書に言葉について、ちょっと特殊な解釈かなぁ、と思うところは、一応注解書でチェックをかけるけれども、一般的かなと思うところに関してはかけないことが多いです。

     ただ、若干こだわるとすれば、日本語の聖書で読んでわからないところは、かなりこだわって調べることもあります。英語の聖書だと、平行訳聖書というものがあり、ギリシア語と英語・ヘブル語と英語が並べて書かれている聖書を使って、引っかかることばを特定し、その語のほかの場所での用例を調べることがあります。例えば、このヨナ2章の場合だと、『誓い』・『救い』『聖なる宮』といった表現に引っかかりました。
     後、他の事例との対比を考えてみることも大事かもしれません。ヨナと範なの祈りを比較してみると、ヨナの祈りをかんがえてみると、ヨナが握りしめていたものは自分のライフスタイル・自分のしたいことだったわけです。選手はハンナの祈りをしましたが、ハンナの場合は子供を生むということでした。ヨナが手を開くきっかけは、暴風で難破して、死にそうになることで、ハンナの場合は長らく子供が与えられない状況だったわけです。ヨナも、ハンナも神の前に祈っていますが、2人とも、神の主権を認めているだとおもいます。
    ヨナが自分自身をどのように表現するか(証)
    クリスチャンと罪(クリスチャンでも神を避け、罪を犯す場合もある)
    不幸を通しても、聖書の言う神とであった船員達
    聖書における公正さ

    ヨナ書2章その前に
    罪や不信仰の結果としての災難
    私達はそう考えやすい
    罪を犯したから、災難が発生した
    必ずしもそうではない
    ヨナの場合はそう見える
    ヨナは確かに神を避けた
    船員達は?他の乗客は?

    ヨナ書2章その前に
    罪や不信仰の結果としての災難
    イエスも厳格に否定
    ヨハネ9章1-3節
    ユダヤ人にとっては、きわめて自然な考え方

    不幸には原因がある
    原因がある場合も、原因がない場合も
    ヨナ書2章その前に
    短絡的な思考の例
    われわれは、聖書にいう神を信じる
    したがって、神の祝福がある
    したがって、問題ない人生が過ごせる

    聖書が約束するのは、神との関係、永遠のいのちだけ
    最初の時代から、多くの迫害・不幸があった事実
    ヨナ書2章その前に
    不幸がおきるのは
    祈りが足らないから
    私達が不信仰だから
    私達が罪を犯しているから
    線路的な信仰の誤り
    単線に乗って、天国一直線という考え方
    徴(しるし)を求める信仰生活の危険性

    ヨナ書2章
    ヨナがしたこと(1節)
    「彼の神に祈った」

    2009.03.08 Sunday

    持っている人と持っていない人

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      今回は、持っている人と持っていない人というテーマで話しました。

       今回は、持っている人と持っていない人、というテーマでお話しました。

       

      このことを考えたのは、最近出た本の紹介を見たからです。まだ買ってな

       

      いのですが、こんな本があります。教会を必要としない人への福音という

       

      タイトルの本です。この本の英文のオリジナルのタイトルは、「すべてを持

       

      っている人たちへの福音」というもので、The Gospel for the Person Who

       

      Has Everythingがオリジナルのタイトルです。
       この本のタイトルから思ったことですが、すべてのものをもっていると思っ

       

      ている人は、確かに「神」の必要を認めないかも知れません。

       物質的に豊かであること、肉体的に健康であること、幸せな生活を過ご

       

      している人、充実した毎日を送っている人は、ある面、全てを持った人で、

       

      そういう状況の人は、完全に見える生活といって良いでしょうし、そのよう

       

      な完全に見える生活を送っている人は、確かに、神の存在は必要ないよ

       

      うにみえるとおもいます。

       

       日本や欧米の現代社会は全てを持っている人が少なくない社会といっ

       

      て良いと思います。確かに今は、世界同時不況・失業者があふれ、派遣

       

      社員の解雇の問題もありますが、経済的には、ちょっと前までは非常に

       

      豊かさを教授した社会でもあります。

       また、今は非常に便利になった社会で、外国に行くこともそんなに大変

       

      ではありませんし、いろんな情報が自宅煮ながら手に入るなど、以前では

       

      考えられないほど、便利になりました。そんな環境を享受している人は、

       

      神は必要ないと思い込んでしまうことが多いかもしれません。そして、神

       

      を意識する機会も少ないかも知れません。

       聖書には、イエスや神を必要とした多くの人が多いのですが、しかし、イ

       

      エスや神を必要としなかった人の話もでてきます。このような事例はいくつ

       

      かありますが、今日は、そのお話の一つからお話したいと思います。その

       

      場所は、ルカ12章13-21節です。

       この部分は、遺産分けの問題を出発点とした、たとえ話の部分です。遺

       

      産の分割は昔から重大な問題でもありました。当時のユダヤ人社会の判

       

      断基準は、旧約聖書の出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の記述が

       

      原則ですが、その原則の細分化した文書が律法(タルムード)とよばれる

       

      もので、ラビと呼ばれる祭司や律法学者が裁判というか調停をタルムード

       

      にしたがってしていたのでした。おそらく、ここに出てくる人は、律法学者

       

      による判定に不満だったので、すぐれたラビと思われていたイエスにセカ

       

      ンドオピニオンをもとめ、再判定を依頼したように思います。

       次に、その話を受けて、ある金持ちの例え話がでてきます。このお話に

       

      出てくる裕福な金持ちは、経済的に豊かさ(16節)を享受している人であ

       

      り、全てを持っている人の姿(19節)でもあります。このひとは、安心して

       

      生きているひとだったようです。丁度、現代の豊かな人のうち、神を必要

       

      としない人間の姿もあらわしていると思います。

       この人に対して、神から突きつけられた質問は『おまえが用意した物は、

       

      いったいだれのものになるのか。』という質問でした。命を失うとしたら、物

       

      質的なものと分離させられてしまうのは、当たり前のことです。

       物質世界だけであれば、それ死亡したら終わりでしょう。そうであるなら

       

      ば死を恐れる必要はないことになりますし、現代哲学の一つの立場でもあ

       

      ります。しかし、直感的に物質世界に還元しきれないことを知っているので

       

      はないでしょうか。例えば、美術・芸術・音楽は、物質で説明できる部分と

       

      できない部分があります。また、非物質的部分があることは、私達も日常

       

      の中で感じられると思います。科学時代の限界があると思います。もとも

       

      と、科学は神学の侍女であったのですが、科学が飛び跳ねた結果、測定

       

      可能性の限界を超えて、測定しようとしているけれども、全ては測定でき

       

      ないことも確かです。

       イエスのポイントは、「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にある

       

      のではないからです。」(15節)です。ここで言っているいのちとは、非物質

       

      的ないのちのことです。私達が、なんとなく死後に存在すると漠然と意識し

       

      ているいのちです。豊作の畑を持った金持ちは神を意識しなかった人です。

       

      その意味で、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとお

       

      りです。」(21節)ポイントは、金持ちであることが悪ではないですが、貪欲

       

      は悪(15節)といっているようにおもいます。


       人間には、「不足・欠乏」があるからどうしても貪欲になりがちです。自分

       

      の欠乏を知っているからこそ、他のいろんなもの、例えば、アルコール、薬

       

      物、ギャンブル、さまざまなもので満たそうとするのです。聖書の言う「不足・

       

      欠乏」とは、神との関係の欠乏です。

       人間には、この神との関係の欠乏がある結果、人間はどうしても貪欲にな

       

      りが地になるのだろうと思います。

       ところで、この貧しさは回復可能なのでしょうか?


       聖書は、神との関係の欠乏は回復可能といっています。例えば、「心の貧

       

      しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5章3節)

       

      といっています。古い聖書の翻訳では、「幸福(さいはひ)なるかな、心(ここ

       

      ろ)の貧(まづ)しき者(もの)。天國はその人(ひと)のものなり。」と翻訳して

       

      いますが、オリジナルの聖書の雰囲気はこの翻訳がぴったりだと思います。

       

      私達に、神との関係の欠乏があることの認識さえあれば、その神との関係

       

      (天の御国・天国)の回復が可能であることを示しています。他にも、「求め

       

      なさい。そうすれば与えられます。たたきなさい、そうすれば開かれます。」

       

      という表現があります。その意味で、神は、私たちのありようと関係なく私達

       

      に関係を与えようとしておられます。

       さて、皆さんは、神との関係を求めておられるでしょうか?

       神との関係の重要性を伝えるためにイエスは、この地上に何もよいことも

       

      求めることなくこの地上に存在した人物です。このイエスについて、皆さんは

       

      どう思われますか?この人のことを歌った歌がありますので、最後に、その

       

      歌をご一緒に賛美したいと思います。お若い方のために、現代語訳をつけて

       

      あります。

       

      まぶねのなかに うぶごえあげ
      木工(たくみ)の家に人となりて
      貧しきうれい 生くるなやみ
      つぶさになめし この人を見よ

       

      食するひまも うちわすれて
      しいたげられし ひとをたずね
      友なきものの 友となりて
      こころくだきし この人を見よ

       

      すべてのものを あたえしすえ
      死のほかなにも むくいられで
      十字架のうえに あげられつつ
      敵をゆるしし この人を見よ

       

      この人を見よ この人にぞ
      こよなき愛は あらわれたる
      この人を見よ この人こそ
      人となりたる 活ける神なれ

       

       

      (((((現代語訳))))

      えさばこのなかで、うまれてすぐおかれて
      大工さんのおうちに生れて、人として生きて
      貧しいことによる悲しさ、生きることのつらさ
      しっかりとあじわった この人を見てください

       

       

      食事の時間も忘れて
      世間から相手にされない人と会ったり
      友達のいない人の友達となったりする
      心遣いをした、この人を見てください

       

       

      全部のものを与えたあと
      死ぬこと以外何もなく
      十字架の上で殺されながらも
      敵を許したこの人の姿を見てください

       

      この人を見てください。この人の中にこそ
      限りない愛が、表現されているのです
      この人を見てください。この人の中にこそ
      人となった、現在も生きている神を見るこ

      とができるのです。

       

       

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