2009.01.07 Wednesday

人生を幸せにするもの

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    今回は、人生を幸せにするものというテーマでお話をしました。

     

    最初に28Daysというサンドラ・ブロック主演の映画を使ってお話をすることにしていたので、28Daysという映画のあらすじをまず説明しました。

     

    この映画は、アルコール中毒になった女性が回復する映画で、主人公の女性は、かなりのアルコール中毒で、ぼやを出したり、ムチャクチャなことをしてすごしている女性の話です。この女性は、
    アルコール中毒の上に、姉の結婚式で泥酔して、結婚式用のケーキを台無しにして結婚式用のリムジンを泥酔したまま運転し、他人の家に突っ込みます。この事故に関する裁判の結果、28日間の中毒患者用のリハビリ施設での治療を受けることになり、そのリハビリの間の変化についての映画です。
     このアルコール中毒患者の女性は、生活はアルコール中毒の結果、混乱しているけれども、明るく人気がある女性で、この女性には婚約者がいて、婚約者がリハビリ施設でプロポーズをするシーンからお話することにしていたので、そのシーンについて、まず、解説しました。
     このシーンの段階では、アルコール中毒の女性は、回復の過程の中で、正常に戻りつつある状況です。そして、このシーンの中で、人生のありかたについて、2人が語っています。
     この2人の人生の見方は大変対照的なもので、男性側(アルコール中毒患者のフィアンセ)は刹那的、人生には特定の目的はない、とする生き方で、その場、楽しいこと、おしゃれなことの連続として維持しようとする生き方で、ルールは関係ないとする生き方です。人生の楽しい期間は短いし、その期間を楽しむことが重要だといっています。
     女性側(アルコール中毒患者のほう)は刹那的な生き方が正しいとは、必ずしも限らないということを思い始めていて、普通に生きることの意味を考えようとしているように変わりました。そして、普通に人生を積み重ねていくことに価値がある可能性があることを考えようとしている状況です。

     たしかに、元々、この女性も、婚約者と同様に考えていたが、セラピーの中で、変化していくその状況が対照的に表されています。注目すべきは、男性の人生が人生の空しさを忘れるためにどうしようとしているかです。


     注目すべきは、男性の人生が人生の空しさを忘れるためにどうしようとしているかで、オリジナルの英文では、(人生という)ゲームのポイントは、人生の苦痛をどのようにして最小にすることができるかだ、といっています。


     この対話の中で、男性は人生の痛みを和らげるためにアルコールや薬物で満たしてもいいし、人生は幸せ(Happy)ではないといっています。これに対し、サンドラブロックが演じる女性は人生の痛みを受け入れ、人生を普通のあり方で満たすことが幸せ(Happy)といっています。

     


     もちろん、この2人とも人は幸せでありたいとおもい、人生には何か価値があるはず、人生には何か目的があるはず、と思っているのです。私達もそうでしょう。しかし、現実を見ていても、答えが出ないのです。その結果苦しみ、もがき、悩むことになります。そして、現実的な解決策を現実の中に見出そうとすることもあります。
     確かに、幸せのあり方は人により異なります。映画の中で触れられていたように幸福感を与えるものは、人により異なることは確かです。小学生にとっては、ポケモンカードだったり、珍しいコインなどの場合もあるでしょう。若い人だと、贅沢な生活スタイルや必要なことが満たされることかも知れません。


    ところで、イエスはなんと言っているのでしょうか。
    ルカ12章16-31節をご覧下さい。

     

    ここでは、金銭的な豊かさ、という事で捕らえているが、これは他のことでも同じことです。この地上で満たすことができるのは、いずれにせよ、一時的なものでしかなく、人生を満たす方法としては、永続的なもので満たすべき、ということをイエスは指摘しています。

    ここで、イエスは神の国といっていますが、イエスの言う神の国とは、神とともに生きることです。もう少し解説すると、神がいるということを認め、神の存在を確信し、神の存在と関与が個人的に必要不可欠なものとして受け止めることです。
    人生を幸せにするためのものとされていることのなかに、楽しい、と思えることだと答える人があるかもしれません。また、映画の中の男性のように人生の鎮痛剤だという人もいるでしょう。しかし、その鎮痛剤が人生を破滅に招くこともあります。アルコール・タバコ(薬物)などはその代表例です。以前は、麻薬などの薬物対策に水際作戦が有効だったが、最近はちょっと疑問となっています。まさか、こんな時代が日本に来るとは思いませんでしたが、最近は大学生にまで広がっています。また、痛みそのものが、鎮痛剤となることもあります。

     さて、皆さんは人生を幸せにするものはどのようなものだと思われますか?

    人生の鎮痛剤でしょうか?聖書のいう神の国?でしょうか。その選択と決断は皆さんお一人お一人にしかできません。是非、本当に皆さんの人生を幸せにするものを選んでください。

    2009.01.11 Sunday

    神の主権と人間の意志 ヨナ書1章から

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      今回の聖書メッセージは、神の主権と人間の意志というテーマをヨナ書1章から学ぶことにしました。

       

       ヨナ書の面白さは、大人も子どももそこから学ぶことができる点です。日曜学校でも、そのお話の面白さがあるので良く取り上げられます。子どもにとっての面白さは、嵐でタルシシュ船が難破すること、その後海に放り込まれたヨナが海の大きな魚にのまれる話、そして、ニネベに言って伝道するときに暑くてたまらない時に日陰を作っていたトウゴマが枯れて大激怒する話なんか、非常に面白いものがあります。

      大人にとっての重要性としては、イエスがヨナについて直接の言及があります。例えば、ルカの福音書11章29-31節には、ヨナの奇跡以外に与えられないという言及があります。また、ヨナ書では、旧約聖書のないようには珍しく、ヨナ書の中では見る異邦人との神との関係を見ることができます。
       ヨナ書におけるポイントとしては、神の計画と個人の意思の並立の問題を考えることができます。
       神の計画として、ヨナに対してニネベ(異教の神の世界・アッシリアの首都)への伝道への召命が明確に述べられています。このミッションは、ほぼ、実現しそうにないことへのミッションでもあります。この明確なミッションの表明があるわけですが、こういう経験をする人は少ないかも知れません。
       これに対して、ヨナという人の意思としては、ヨナはニネベにいかずにわざわざお金を払ってまで、タルシシュへいこうとしています。ところで、タルシシュがどこかはよく分からなく、旧約学者や、古代オリエント学者の中でもさまざまな議論があります。代表的な例としては、スペイン説・北アフリカ説(今のリビア)、イタリア説などさまざまありますが、おそらく、フェニキア人の居留地という説もあります。


       ところで、ヨナがタルシシュにいくこと自体を止めておられない神の存在を見ることができます。とめることができるにもかかわらずです。陸上でタルシシ行きを止めることもできるはずです。
       ここらか学べることができるのは、神の計画と個人の意思について、神は人間の意志に任す場合があるということです。具体的には、いくつか例がありますが、たとえ、それが御顔を避けるような行動でもその意思を否定されておられない事例がかなりあります。

       また、このヨナの事例は、クリスチャンであっても、罪の問題があること、あって当然であることを示していると思います。それと同時に、神は許容範囲を持つ方でもあります。その代表例は、エデンの園の善悪の知識を持つ木の問題の場合にも、人間の意思を尊重されました。もちろん、それを触らせないようにすることもできたのですが、そうはされなかったのです。

      地中海での商船としては、ガレー船です。ガレー船は、風があるときには、帆船として航行し、風がないときには、櫂(人力)で航行するような船です。ガレー船のこぎ手が商船員(自分達の商品を持って貿易)なわけです。このガレー船の船員は、自分達の座席の下に黄金や入稿、香辛料といった荷物をおくことができ、荷物を売買することで、商売をしていたようです。ヨナが乗船し、嵐が起きた結果、この船員達は、船荷を捨てていますが、荷物を捨てるのは、自分達の商品を捨てることでもあるわけで、それだけ危険な状態であったことを示しているのです。荷物を捨てると、喫水線があがるので、それだけ、水をかぶって浸水する危険性は回避されるのです。
       危機に遭遇した時、人は祈る用になります。(5・6節)それは、自分では超越できない環境に直面しない限り、超越者を求めないということがあるようです。
       ところで、非常に不幸な出来事である嵐の原因を探すために、くじを用いて、ヨナがその原因であることが分かってくるわけです。旧約聖書では、かなりくじが出てきます。公正な決定や不幸な出来事の原因追求のため、くじが利用されています。

       具体的には、アザゼルのためのヤギ(レビ16章9節)の例、アカンの例(ヨシュア記7章)、割り当て地の決定(ヨシュア記18章)、サウル王の決定(第1サムエル10章)、神殿の働きの決定(第1歴代24章)などの例があります。

      そして、原因として選ばれたヨナに対する船員の問が非常に面白いと思います。
      「あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。」と聞いています。仕事は何か?(何によって収入を得ているのか?)という問に対する彼の答えの面白さは注目すべきでしょう。「私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」このことは、クリスチャンの姿を示しているといえるでしょう。礼拝と訳されている語は「恐れるもの」です。ヨナと同じように、私達も生きているすべてのことが、神に対する礼拝であり、すべてのことが神を恐れることの一環と考えることができるのではないでしょうか。
       ところで、ヨナの罪(10節)を考えることができます。神を恐れながらも、神の御顔を避けるこれも、クリスチャンの姿です。 

       クリスチャンだからといって、罪の問題はないものとみなされるが内在する罪がなくなるわけではありません。クリスチャンであっても、罪の問題はあり続けます。神の御顔を避けること、これが罪そのものなのです。パウロもこの問題を感じていたようです。例えば、パウロは激情型の人で、新約聖書にたくさんの文書を残した、初期の非常に重要な働きをした指導者ですが、ローマ7章23節のパウロの表明を見ると、彼も罪の問題を最後まで、抱えていたことが分かります。
       ところで、船員達の変化(14節)をみることができます。ヨナが、話していたことから、神とヨナとの関係の中で神を知ることになっていきます。元々は、彼らは自分の神に祈っていたわけです。しかし、14節では主に願っている(神(の名)を呼んでいる)わけです。危機の中で、つみある存在であり、神のみ顔を避けたヨナの存在を通して、創造者である神と出会うことになるわけです。その意味で、危機は、神と出会うきっかけとなる可能性となると思います。しかし、だからといって、他の方が、危機の時に押しかけていって、そして福音を語ることがすべてよいとは限らないと、私は思います。

       船員達の願いの中に非常に面白い表現があります。「罪のないものの血を私たちに報いさせない」という表現は、すべての文化やすべての世俗的な法律の基礎である公正さに関する概念と結びついていますが、それ以上に面白いのは、イエスは、罪のない方であったが、罪あるものの血(の責任)を受けたわけで、本来ありえない関係であったことが分かります。


       ところで、血は、罪と非常に深い関係にあります。例えば、アベルの血が叫んでいる(創世記4章10節)という表現や、罪のあがないのためには血が流される必要(出エジプト30章)などのように、罪の問題の解決のためには、羊や山羊の血が求められることになりました。
      船員達の祈りの表現として、新改訳では、「あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」となっていますが、新共同訳では、「主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」となっていますが、ここでは、すべては、あなたの御心のうちに関与される通りなのですから、といったような意味のようです。いずれの翻訳も、主(神・創造主・全能者)の主権を認める表現となっています。これがクリスチャンにとって、重要だと思います。

       神と人間との関係については、他の聖書その箇所でも、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言19章21節)や詩篇33篇16−23節に見ることができます。また、箴言21章30−31節なども参考になるでしょう。


       ただ、注意してほしいのは、主の主権を尊重することは、即ち無計画であって良い、ということを必ずしも言っているのではないことです。キリスト集会には、無計画の伝統と傾向があります。例えば、A.N.グローブスのイラクの伝道やジョージ・ミューラーの孤児院伝道、その運動は、ハドソン・テイラーの中国伝道などに影響していきます。神の主権を求め、人間的なものによらないその信仰の姿は大切、美点の一つではありますが、神の主権を認めることと、無計画とは別だと、私は思うのです。
       重要なのは、神の主権を認め、神とともに歩んでいくことであり、人間の世界に関与しようとされておられる神であることを認めることだと思います。


       それと同時に、強調しておきたいのは、人間が神の計画を推進するのではないことです。時々、そういうことをお話ししておられる方がいるとのお話をお聞きするようになりましたが、人間が神の計画を推進するために祈るということは、人間が神となるということでもあり、神の思いを知りたいという思いは大切ですが、人間が神の思いを推進するよう祈るというのは、どうかなぁ、と思います。そのことは、マタイ6章のなかでの主の祈り野中でもいわれています。「御名がほめ称えられますように。みこころが行われますように(私達が神の主権を認めることができますように) 」 となっていて、神に栄光がきせられること、そして、神の主権が優先されるように祈るよう進められています。それを別の言い方をすると、イエスは、「神の国とその義をまず第1にしなさい」と教えておられるのではないでしょうか。私たちの思いではなく、神の思いが実現することを祈り求めることが信仰者にとって重要であることを、このヨナ書から学ぶことができるように思います。

      2009.01.24 Saturday

      文化と福音

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         日本は、世界的な福音宣教に失敗する不毛の地であるといわれている。

         

         私達の教会の主席責任者(元宣教師、今も自弁宣教師)が始めて日本に

         

        来る時に、たまたま同船した(この人が始めて日本に来たのは、1960年代

         

        初頭なので、この頃は船で数ヶ月かけて日本に来たそうです)別のキリスト

         

        教会のグループの宣教師に、「日本での宣教は難しいよ。成功すると思わ

         

        ないほうが良い。あなたがもし、日本での伝道が成功したと思ったら、それ

         

        は失敗だったと思ったほうがよい」というアドバイスを受けたことを以前はな

         

        してくれた。人間的な成功という概念が宣教に当てはまらない、ということ

         

        を示している印象深い話だと思った。

         

         この辺のことについて、佐々木さんというペンテコステ派の牧師さん(この

         

        方フィリピンでの宣教師の経験があるという経歴の持ち主で非常に面白い

         

        視点で書かれたウェブサイト http://www.geocities.jp/tillich37/ を運営

         

        しておられる。日本での宣教がうまく行かない理由の説明が書かれている。

         

         この背景に、ヨーロッパ系の宣教師の持っていた文化が日本文化と摩擦

         

        を起こした結果、日本人に受け容れられない強固な素地を作ってしまったの

         

        ではないか、という指摘である。

         

         なんとなく分かる気がするなぁ。福音や聖書は、かなり柔軟なはず。とは

         

        いえ宣教のことばの愚かさを通してしか伝わらない。その言葉に、文化は

         

        影響を与える。福音を福音として純粋な形で分かりやすく伝えることの難

         

        しさ、人々が欲しているはずの福音を混ぜ物なしに伝えるということは、

         

        簡単ではない。でも、その方法を考えて生きたい。

         

         

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