2008.11.04 Tuesday

まもなく結果がでるのでしょうが・・・。

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    アメリカ人にとって、大統領選挙が大事なわけ


     


     基本的に、私はノンポリですが、今年のアメリカ大統領選挙だけは、関心があったりします。


     


     1996年、大統領選挙の年にアメリカにもおりましたが、このときは、結構クリントンが強かったので、そんなに関心を持ったということはないですが、大統領選挙だというので、当時教えていた大学でも、投票所があり、授業がお休みになったことだけが記憶に残っています。へぇ、選挙で大学もお休みになるんだ、ということだけが印象深かっただけで。


     


     日本では、直接選挙で総理大臣が選べるわけでないので(首相公選制を言い出した方もおられましたが・・・。)、ここまで盛り上がることはないと思うのですが、アメリカ人にとっては重要なことのようなので・・・。


     


     


     なんで、アメリカ人にとっては、重要か、ということを改めて考えてみたんですね。3つくらい理由があるのかな。多分。


     


     1つは、アメリカ人にとって、選挙権があるということは市民(人間)であることの証であることがあるのだろうと思います。基本的には、60年代の公民権運動によって初めて多くの市民(アフリカ系アメリカ人)に選挙の登録時に差別をしてはならないということが実質的に担保された、ということもあるのでしょう。日本では、戦後に普通参政権が20歳以上の市民にとりあえず進駐軍によって天から降って沸いたかのように受け取った権利であるのに対し、アメリカでの普通参政権は、戦後20年ほどかけて、多くの流血と暴力による妨害や対立の中で、実質的に生み出されていった権利だからです。建前上は、普通参政権はあっても、実質的な参政権が実現されていなかった国、それがアメリカだったりします。


     


     もう一つは、アメリカ人にとって、大統領を選ぶということは、自分の生存与奪の権利を持つ徴兵制を利用しようとおもえば思える人物を選ぶ、ということだったりするんですね。日本でも、一応総理大臣は自衛隊の最高指揮官ということになっている(自衛隊法7条 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する)のですが、一応問題解決の方法として武力による解決を禁じられている国とそこでの国土及び国民の福祉の増大に寄与する政府組織としての自衛隊と、第二次世界大戦後、ほとんど常時世界中のどこかで戦争に関与し続け(軍事顧問団と呼ばれる人たちを含みます)、死傷者を出し続けている国であるアメリカでの三軍の長(アメリカ大統領の別称)とは重みが違います。大統領令を出されて、軍隊を動員かけられて、戦争状態に連れて行かれる(良心的兵役拒否する道がありますが)可能性のある国の軍隊の最高司令官である大統領を選ぶことって、自分自身の生き方に影響することでもある、ということはあるようです。ベトナム以降、アメリカでは徴兵制度は実質的には休眠状態ですが、制度としては生き残っているようです。牧師さんや僧侶も、従軍牧師や従軍僧侶としての徴兵があったようです。


     


     最後の一つは、アメリカの国家を形成している人たちが、政治的な人たち、あるいは政治的に物事を考えることが大好きな民族だということもあるでしょう。日本でも政治ねたを扱ったような映画はありますが、アメリカではもっと多い。日本語には翻訳しにくいのですが、Politically rightなんて言葉もあるくらい。倫理的には正しくないけれども、政治的には正しいというわけ分からない考え方。ドラマでも、常に対立をテーマに描かれます。サザエさんのようなほのぼのした漫画は成立しにくい国かもしれない。基本、ダースベーダーの「ハー、ハー、I am your father」が父子の対立を象徴的に描くように。


     


     今回の選挙が重要なのは、民主党が勝てば、アフリカ系アメリカ人の初の大統領。共和党が勝てば、マケインが政務を取れなくなったとき、初の女性大統領となること。映画では結構あるものの事実となったときには、違和感があるかも。


     


     改善されてきたとはいえ、基本的に米軍は男性社会なので、三軍の長が女性では・・・、とただでさえホワイトハウスの言うことを聞きたがらないペンタゴンの将軍たちの本音やいかに、というところでしょう。まぁ、アフリカ系アメリカ人にとって、パウエルが以前統合本部長だったので(実質の戦争作戦の指揮者)アフリカン・アメリカンに対する抵抗はないでしょうが。


    2008.11.04 Tuesday

    かわいい(?)モーセ

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      10月末の最終日曜日、教会で信徒の皆さんと一緒に聖書をともに学ぶ時間を持った。


       


      ちょうどヘブル人への手紙11章のモーセだったので、出エジプト記の1章と2章(モーセの出生の前後)の中から、3グループ(各グループ6-7人)に分かれて話し合いをしました。


       


       最初のうちは、参加者の我が長女(中学生)から出た、質問へのご回答タイム。結構、変な質問が出ましたねぇ。


       


      「ヘテ人って何?」


        (はいはい、これ、ヒッタイトです。)


       


      「なんで、赤ちゃんを殺そうとしたの?」


       (はいはい、これは、要するにヘブル人は、要するにエジプトと対立関係にあったメソポタミアの関係民族なので、敵対心が強いのですよ。)


       


      「なぜ、全ての民の赤ちゃんを殺そうとしたの?」


       (はい、これも、当時のアメリカというのは、今のカナダとか、アメリカみたいな多民族国家なんです。当時のエジプトには、今のリビアとか、トルコ(ギリシア)とか、イラン・イラクくらいの辺りまでの人たちが流れてできている国なんです。飢饉でくいっぱぐれた人たちが、生存のためにやってくるのが、エジプト。イスラエル人のご先祖様の、イスラエル(ヤコブ)も食いっぱぐれそうになってエジプトに来たの。だらか、エジプトが戦争で負けそうになると、みんなが反逆するわけで、危ないでしょ。男の子は、戦争の時に担ぎ出されるわけだからよ。)


       ここから私の余談。ところで、エジプトは小麦の大産地だったわけで・・・。エジプトをローマが支配するようになってから、パンとサーカスがローマ市民には無料で提供されたわけで・・・。言いはしませんでしたけど、ビールの発祥の地は、エジプトだったりします。いつのまにか、出エジプト記を通しての分かち合いが、なぜか、ローマ史講義になっている。まぁ、いっか。


       


       その後、助産婦の信仰とか、父母の信仰について触れて欲しい、というのが、長老の方のご意向。それも多少配慮しながら、1章の「神を恐れる」についてのお話をしながら盛り上がっていました。


       


       私は特に気にしなかったのですが、赤ん坊であったモーセへの記述に奥さんから疑問符が・・・。モーセがかわいかったので、という出エジプト記の記述。たしかに、ヘブル11章23節にも 「その子の美しい」と新改訳では翻訳してあった。 家内は読みながら、「美しいねぇ」と思っていたので、自宅に戻る途中、質問が飛んできました。出エジプト記を見ていると、旧約聖書の本文中にも「麗しい」(口語訳)とか「かわいい」(新改訳)、「かわいかった」(新共同訳)となっていた。うーん。なんだろう。


       


       私の個人的としてのイメージは、モーセは、ひげを生やした骨太の老人のイメージ。皺に苦悩と指導者としての責任が刻み込まれたような印象の人物。それが「かわいい」は似合わない。かわいいねぇ。そりゃ、子供は概してかわいいですよ。赤ん坊は。誰だって。でも、なぜにモーセだけ、かわいい赤ん坊の記述があるのか。もちろん、出生時のありかたが乗っている聖書の例としては、きわめて少ない。でも、「かわいい」って何?


       


       そこで、ん?とおもったので、原典。旧約聖書のヘブル語版を調べてみたら、Tobe(トーブまたはトゥブ)。あ、これ、創世記の最初で、「○○をよしとされた」とか、「非常に良かった」とか書いてある言葉。また、善悪を知る木の実の「善」がこの「かわいい」と訳出されている言葉。そうなんですよぉ。モーセは、神の眼から見て、「よし・善」とされた。あるいは、「神の器として選び取られたものであった」という意味があったんですね。なるほど。


       


       で、今週は、モーセについての学び。トーブという語と神の臨在との関係をお話しする。神の臨在があることそのものが、トーブであること。そして、出エジプト記の記述を通して、礼拝者としてのモーセ、指導者としてのモーセ、救出者としてのモーセとイエスとの共通性、紅海を渡ることを通してのバプテスマと形を通しての信仰の表現の重要性。半ばエジプト兵に追われた恐怖によるもととはいえ、「紅海をわたる」ことがイスラエルの民として、最初で最後の形を通しての信仰告白であった、という部分は、うちの奥さんに受けてしまった。


      2008.11.04 Tuesday

      さと☆ひつじさんへ

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        さと☆ひつじさんへ


         


        あなたの心の痛みをともに分かち合ってくれるイエスがおられること


        これまでも、いまも、そして、これからも共におられるイエスであること


        これまでいたところ、いまいるところ、これから起こる様々のことにも共におられること


        あらしの中を共に弟子たちと船の中にいたこと


        海の上を歩きたいといったペテロの手を握った方であること


         


        そのことを共に覚えたいと思っています。神が常に与えようとしている慰めと平安があるように。


         


        さとさんの姿がウェブ上で見かけられないのは、悲しい。


        漠然としか祈ってあげられないのは、悲しい。


        共に、子供さんの霊の成長の喜びを分かち合えないのは悲しい。


         


        あなたの苦しみを、苦味を感じています。そして祈っています。


         


        回復があるように。


        2008.11.06 Thursday

        うまい。うますぎる でも、キリスト教の伝統

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           テレビでオバマの大統領となった選挙で勝利した直後の演説の一部を見た。ものすごく演説がうまい。歌い上げていくような演説。文字で聞くより、耳で聞いて分かるタイプの演説。そんな演説だった。Martin Luther King Jr.(ドイツの宗教改革の指導者、マルチンルターと同じ、ルターにちなんだ名前なんだよね)の演説も映画とか、ビデオ映像で見る限りうまかった。とはいうものの、アフリカン・アメリカンのバプティスト派の牧師によく見られる声を震わせて、一部の母音を伸ばして搾り出すようにして発音する習慣が強くあったが、オバマの演説にはそれがないので、聞きやすい。東部人なのに、スピーチスピードがゆっくりしている。これはマケインも同じ。


           


           この演説を聴きながら、うまいなぁ、と思った。スピーチライターがいるに違いないが、アメリカの国内の対立軸をうまく描き出している。その上で、私たちは一つだ、といって見せている。レトリックの展開が、めちゃくちゃうまい。 例えば、下がその典型。


           


          It's the answer spoken by young and old, rich and poor, Democrat and Republican, black, white, Latino, Asian, Native American, gay, straight, disabled and not disabled ? Americans who sent a message to the world that we have never been a collection of Red States and Blue States: we are, and always will be, the United States of America.


           


          この勝利は、若い人、年寄り、金持ち、貧しい人、民主党員、共和党員、黒人、白人、ラテン系アメリカ人、アジア人、アメリカ原住民、同性愛者、異性愛者、障害者、障害者でないアメリカ人が世界に送ったメッセージの結果(回答)である。即ち、我々が、単なる赤い州(共和党マケイン候補を支持した州)と青い州(民主党オバマ候補を支持した州)の寄せ集めではなく、我々がいまそうであるように、そして、これからも常に、連帯した州であるアメリカ(アメリカ合衆国)であるのだ。


           


          青い州、赤い州と重ねておいて、自国の国名である連合州国アメリカ(Unitedには、連帯といったニュアンスが含まれることをうまくつかって国の名前とかけて利用している)といっているところは、うまい。と思った。それと、このブルーとレッドって、アメリカの国旗スターズANDストライプスのストライプの赤と、星の背景のブルーなので、国旗もイメージさせます。国旗ではこの2色が統合されている。そこにもかかっているのかも、と思わせる原稿なんですよね。なんとも細かいところに配慮が届いたスピーチ原稿だったりします。


           


          それから、It's the answer で始まらせ、何を言うのか期待を持たせながら、聞かせるテクニック。
          It's the answer という文頭に同じ言葉を繰り返し使って、繰り返しのフレーズをうまく使いながら大事なポイントを並列させている。うまい。明らかに書いたものとして公表されることをイメージして書かれた草稿はなく、聴衆に聞かせることを前提に書かせた文章。うまい。


           


          オバマのスピーチを聞きながら、今日読んだ本のことを思いだしていた。「新約聖書よもやま話 」


           


          この本には、もともと、新約聖書は、声に出されて読まれて理解されるものであり、今のように黙読されるものではなかったことが書かれている。新約聖書は、耳で聞いて分かる文化の人たちに向けてかかれたもの。つまり、スピーチ原稿を我々は翻訳して読んでいるようなもの。文法的な正確さを犠牲にしながら、聞いて分かることを述べている。オバマの演説は、その延長線上にあるんだ。同じ表現の繰り返しを使いながら、論理展開していく運びは、パウロの特徴。まさしく、その線に乗った演説だったのを見て、アメリカは、やはりギリシア・ローマの子孫、聖書的伝統社会に生まれた国なのだなぁ、ということを改めて実感。


           


          2008.11.07 Friday

          America the beautifulを聞いた時の違和感

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            はちことぼぼるの日記 という面白いブログがあります。

            http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/


             お仕事の関係でアメリカに家族でお住まいのようで。

             大統領選挙に関連して、God bless Americaという表現に関する違和感の表現があります。そうそう。それを感じてたよなぁ、というのを思ったので、コメントをしました。コメントをしながら思ったことは、アメリカの美しさ、多様性、豊かさ、広大さ、ということが、アメリカ人に、God bless Americaといわせてしまうのだろうし、The pledge allegiance to the Flag of the United Statesを小学校以来、何回も言わされる(公立の小学校では、毎日または毎週1回は原則言うことになっているらしい)中で、なんとなく、under Godなので、そのまま連想で、God bless Americaとなるのでしょう。

             もともと、アメリカ自体、ローマの共和制をモデルとしながら、市民としてはクリスチャンが中心として構成される特殊な国家として出発しようとしたというところもありますし。だけど、習慣といえば習慣とはいえ、自分の国に対してだけ、God bless Americaと叫ぶ感覚は、寄留者として住んでいたときには、違和感がすごくあったことを思い出す。

            ちなみに、小学校で言わされるのは、この文面のはず。

            I pledge allegiance to the Flag
             of the United States of America,
            and to the Republic for which it stands:
            one Nation under God, indivisible,
            With Liberty and Justice for all.

             あと、アメリカ人がアメリカ人であることを感じる歌の一つに、第2国歌とも言われるAmerica the beautiful という歌があります。とりあえず1番だけ掲載。

            O beautiful for spacious skies,
            For amber waves of grain,
            For purple mountain majesties
            Above the fruited plain!
            America! America!
            God shed his grace on thee
            And crown thy good with brotherhood
            From sea to shining sea!


             確かに、アメリカは美しい。お知り合いの神学生のブログ


            http://d.hatena.ne.jp/hk-_-zz/(現在は非表示だそうで)

            の写真を見ていると、本当にこの時期のアメリカって、美しいと思う。

             また、このAmerica the beautiful という曲を聴きながら(音楽は流れるように流麗できれいです。アメリカ国歌よりよっぽど歌いやすい)、なぜ、神の恵みがアメリカに行くのかと思っちゃいます。確かにこの歌詞の前半で歌っているように、空は広いし、穀物は金色の海みたいに取れるし、山々は紫色に輝き、平地は実っているから、この大地は確かに神の恵みの地だよなぁ、とは思いますよ。アメリカ合衆国は、本当に絶妙の位置にある。

             でも、なんかアメリカ人が神の恵みは、我々のものだぞ、って言っているような気がしてくる歌詞のように感じるのは、私だけなんでしょうかね。

             全部のアメリカ人が、神の恵みは我々のものだ、と思っているわけではないのだけれども、かなりの部分のアメリカ人にとっては、一種の選民意識というのかなぁ、神の恵みは我々のものだ、という無意識の意識があるような気がする。その辺が、ジョージ・ブッシュへのシンプルな支持へとつながる傾向にあったのが、ちょっと気になる。

             From sea to shining sea! を聞く部分では、はアメリカの大陸部分をさすのではなくて、アメリカの大地の周りにある、大西洋から太平洋の洋上すべて、とアメリカ海軍は思っているのではないかと思ってしまうことがある。

             なので、この部分を聞くと、米軍の空母やら、潜水艦やら、フリーゲート艦、イージス艦、F18やF14なんかのイメージがどうしても浮かんでしまう。日本にいると、この種のものって、結構縁遠いんだけど、アメリカだと、結構身近にこんなものが身近に感じられてしまう。あっちこっちに、海軍や空軍、陸軍の基地があったりするので。

             その国の大統領が変わった。アイゼンハワーの後始末をさせられたケネディーやリンドン・ジョンソンみたいにならないといいんだけど。


             


            2008.11.11 Tuesday

            いま ここに生きる について

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              いま、ここに生きる ヘンリ・ナーウェン 太田和功一 訳 あめんどう 


               


               この本は、大変よい。この本を読んで、うちの奥さんが、ぼろぼろないていたらしい。特に、死について、ナウエンが書いていたこと、老いについてナウエンが書いていたことが心に響いたらしい。うちの奥さんは、「父、母を捨てる」という見出しの言葉に引かれて読み始めて一気に最後まで突き進んだ模様。


               


               私は、原著のHere and Nowをよんで、感動した。奥さんにも、読みにくくはないから、と薦めたが、うちの奥さんは、英語は読みたくない、という事で、日本語訳を探した。最近まで、版元在庫が切れだったが、最近10刷がでた。早速調達。


               


               非常に良かった。翻訳も丁寧で分かりやすい。まだ、全部を目を通していないが(他のナウエンを読んでいるので)、パラパラ見ている限り、ナウエンの文体の美しさを損なっていない。訳者の大変な努力に、そして出版社「あめんどう」さんたちの冒険に本当に感謝。


               


               Here and Nowが良かったので、長老の奥さん(アイルランド人)に早めのクリスマスプレゼントとして渡した。感動したらしく、長老に気に入ったフレーズを読み上げているらしい。


               


               それくらい、この「いま、ここに生きる」はいい。


               


               お勧めの一冊。


              2008.11.13 Thursday

              エルサレムの聖墳墓教会事件

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                 あー、ギリシャ正教とアルメニア正教の聖職者が乱闘騒ぎをした件が、あっちこっちのブログで取り上げられていますけど、ほとんど外部から見たら、内ゲバですよねぇ。乱闘騒ぎはテレビ受けしたけど、実は、もっともっと根が深い問題。問題の根源が微妙な神学理解の違いにあるのだけれども、テレビは関係ない。聖職者が殴りあいする画像が面白おかしいだけ。本当のバトルは、聖書理解の違いに関しての細かな違いを必要以上に強調して、論理的にバトルをしていることがまず第1でしょう。他のグループを間違いとして批判する精神性、その背後に隠された聖墳墓教会という金のなる木が生み出す経済的な豊かさとそれが与える目に見えて分かる正統性のイメージを誰がどうシェアするかの問題のように思う。


                 


                 実際、内ゲバって感じが強い。ギリシア正教にしても、アルメニア正教にしても、基本、外形的分類上は、東方教会族(微妙な違いや歴史的経緯はある)なので、骨肉の争い、という側面が強いように思います。教義的にも違いはそれほどないと思いますし。ビミョーな違いはあるけれども、プロテスタントとカトリックとの違いよりはよっぽど近い。ただ、使われている言語と典礼のあり方がちょっと違うくらいかなぁ(本人達に聞くと、一緒にしてくれるな、というでしょうけど)。ギリシア正教は、ギリシア語、アルメニア正教はアルメニア語、この辺の違い、そして、民族の違い、歴史的経緯の違い、民族性の違いの影響が大きいのだと思う。言えば、本家と分家との財産(聖墳墓教会という巡礼者からの多額の寄付が確保できる資金源)争いという側面が強いように思います。


                 


                 近いがゆえに二つのグループがある以上、違いを強調したくなるのが、人情というもの。そして、自分の考えを正当化したいもの。違いを強調する手っ取り早い方法は、本当は細かな違いに過ぎないことを、あたかも大きな教理や儀式上の違いを神学論争にしてしまうこと。まぁ、こうすることで、神学の精緻化が進んできたので、一概に悪いこととはいえないのだけれども。微妙な違いの強調することの無益さ、キリストの共同体を無視する愚かさを感じる。


                 


                 内ゲバをした中核派(なんと懐かしい響き)も,実は元々同じことを目指した仲間の中での微妙な違いが内ゲバにつながって行ったように思います。


                 


                 神学論争は、解決がつかないわりに自分が神と同じ立場に立ちやすい、という意味では非常に危険な部分があるんですね。自分の考えているものが正しい(これは良いとして)、自分の考えは神のものだ(ここまで来ると危険)、神はわれわれとともにおられ、われわれを守られる(これはもう妄信)となり、聖書のことばを適当に使い回しをしながら自己正当化をしていくようになってしまう。自己に対する批判意識やへりくだる心が働かなくなるので、非常に問題。他者を受け入れるおおらかさ、他者とキリストにあって共同体を作っていくの大切さを思い起こしたい。


                 


                 自己批判を忘れてはならないこと、神の前にへりくだり、神の前に、自分を明け渡し、神の名のために、自分を明け渡し、自分自身を他者に与えるために明け渡すことを、覚えたいと思う。


                 


                 とはいえ、今回の事件は、十字軍(クルセーダー)がやったことの名残(ジェットタービュランスみたいなもの)であることを思うと、いかに十字軍がくだらない、罪深いものであったかが分かる。900年たった今も尚、多くの人に影響していることを考えると、歴史を学ぶこと、そして、歴史に学ぶこと、歴史をわれわれの反省材料とすることの重要性を感じる。教会史と教理史に学ぶことには、実は深い意味と味わいがあるような今回の事件。


                2008.11.17 Monday

                歳をとるということ

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                  この前、ある会合に出ていた。


                   


                   会合のメンバーの皆さん、他人のことをすごく気遣う方で、そして、他人の思いを汲み取られるのが即座でできる方々だった。お話の中で、聞いていると、皆さん、いろんな人の会話が、聞こえてしまう、という特技をお持ちの方だった。


                   


                   つまり、別のメンバーと話していても、他のメンバーの話が聞けて、それに突っ込みを入れられる、というと特技の持ち主の方が多かった。実は、この特技、難儀な特技なんですね。常に周囲に感覚を張り巡らしている、そうすることが習い性になっている。これでは、精神が疲れてしまう。精神を緩和しないといけないのに、それができない。常に緊張状態でいることになってしまう。これはつらい。


                   


                   他人の思いが分かるということは、他人に対する関心が強すぎるということ、他人の思いを重視するということは、他人の目を気にしすぎること。これでは精神が疲れて、擦り切れてしまう。精神にも緩和が必要。ある程度の鈍さが必要。でも、できない。


                   


                   ただ、歳をとり、感覚が鈍り、行動ができなくなると、ある程度諦めがつくようになることも、この年になると感じる。そして、そういうことができなくなる。それでいいのだと思う。歳をとるということは、神の恵みだと思う。


                   


                   自然であるということは、それ自体、神の恵みだと思う。歳を取ることも、また、神の恵み。できなくなることも、神の恵み。他人の手を必要とすることも、それもまた、神の恵み。それを当たりまえのこととして受け入れていくことの大切さを考えた。


                   


                  詩篇90篇から


                   


                  私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。


                  だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。


                  それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。


                   


                  そう、歳を取ることの恵という知恵の心を自分のものとしたい。


                  2008.11.21 Friday

                  説教者の責任と相対化して考えることの大切さ

                  0

                     少し前、あるキリスト教系カルトの被害者の方とお話しする機会があった。聞いていて、これはキリスト教系カルトというよりは、キリスト教に成りすました異教だと思った。以前、あるところで、カトリック教会の親しい信者さんとお話しているとき、「○○は、キリスト教っていわれることもあるけど、異端なんで困るんですよねぇ」といっていたら、「あなたが属しているプロテスタントが、我々にとっての異端であり、○○は、我々カトリックからしたら、異教です。」といわれた。異端扱いにはびっくりしたが、もともと、私が属しているキリスト教会(キリスト集会)は、出発点からの歴史が浅いこと、プロテスタントの中のプロテスタント、福音派の中の福音派、と呼ばれることもある。だから、異端よばわりされることには、びっくりはしなかったが、プロテスタントは異端としている団体を、はっきり「あれは異教」と言い切ることの大切さを学んだ。


                     そう、カルト化してしまったキリスト教会は、「異教」と読んだほうがいいと思う。聖書の根本原理からどこか離れてずれた独自の教理ができているので、そりゃ、異教だろう、と被害者の話を聞きながら思った。


                     とはいえ、それらももともとカルト化を目指して教会活動を行っていったわけでもなさそうなだけに、ことは深刻。


                     教会のカルト化、あってはならないことだが、現実に、日本でも欧米でも発生しているようである。その影響は、本当に計り知れない。反社会的だからということもあるが、一番は、被害にあった方に回復不能と思われるほどの、非常に大きな負担を与えること。加害者の立場では、害を与えている意識が希薄なことがある。カルトにかかわるということは、被害者であると同時に純粋な善意であるがゆえに、加害者になりうることである。自分の信じていることは正しいと思う。これは大切で『正しい』ことだと、指導者は言っている。だとしたら、それを多くの人に伝えてあげたい。そして、被害者であると同時に、加害者になっていく。優秀な加害者であればあるほど、そのグループでの評価は高まり、そのグループから抜けにくくなる。2重の意味での悲しみを背負わされてしまっているのが、カルト化した教会の被害者だという印象を持った。被害者の実情と、その被害の大きさを目の当たりにして、ほんとうに静かな憤りを覚えた。


                     これは本当に許しがたい。なかなか回復しない。回復にものすごく大きな時間と努力を要する。そして、心についた傷は、トラウマとなり、痛みの元となり、なかなか癒されない。痛みは取れ、回復に近い改善はあったとしても、その傷跡がうっすらとはいえ、残るのかもしれない。それを思うと、原状回復という形での回復がされない、人間の弱さやはかなさ、そして、自身のおろかさを感じる。それも神の手の中にあることではあるが・・・。


                     ところで、カルトの被害者には、他人への思いやりがある方、他人の意識や評価を気にしている方、正義感や感受性の強い方が多いような気がする。カルトの指導者は、その被害者の性質を見抜き、それを自分の誤った聖書理解でその正義感、感受性、他者への思いやりなどを利用できるように仕向け、そして、その人たちの犠牲を利用しているような印象を受けた。


                     また、日本人の調和の精神といえば聞こえがいいが、出る釘は打たれるという言葉にもあるような、他者同調的な行動パターンも利用して、指導者への疑問を押さえ込んでいる感じがする。確かに、もともと、日本の教育に考える訓練をするというところがない。教育で訓練していないところに、聖書という歴史性のあるものの権威性を利用し、その聖書からあたかも語っているかのごとく、自ら語り、ある特定の方向性を持った聖書の解説(説教)により、そのカルト指導者こそが神の真意を知っている(何人こういう人がこれまでいたことか、そして現在もそう主張する人々が少なくない)といわれてしまえば、もともと批判精神がない日本人は、そうかなぁ、と思い込んでしまう。そして、その教えを繰り返し聞くことで、それが当たり前にそのように思えてしまう。過去のキリスト教の歴史でも繰り返された構図がここにあるとも思った。


                     繰り返し繰り返し、ある特定の方向性を持った聖書解釈を聞かせた上に、その上、大声での威嚇、目立つ行動での着目点となること等を使いながら、説得するのではなく、恫喝や恐怖による支配と思考停止を利用して、批判的志向(クリティカルシンキング)をさせないようにする。そして、指導者の美化を通して、指導者を美化する演出を通してのクリティカルシンキングを防ごうとする。
                     さらに恫喝のあとには、愛情表現があり、この恫喝は愛情表現の裏返し?と思わせることで、支配関係を強化するように仕向ける。


                     信者間の分断(分断して統治せよ、は統治法の初歩)なんかをうまく利用しながら、信者間を対立させ、批判者を遠ざけ、批判者を排除していく。そして、批判者の存在すら、美化された指導者の神話をさらに広めていく。


                     話を聞きながら、90年代に話題となったあるカルト系信仰者集団に見られた典型的なパターンと類似性が高いと思った。どこも同じ話の繰り返しなのかもしれない。使うテクニックは恐怖による支配である。ただ、恐怖を生み出す対象、恐怖をつむぎだす現実世界の解釈、そのための背景が違うだけである。



                     キリスト教風の異教であるキリスト教系カルトと呼ばれる集団は、使っている背景はキリスト教と聖書の一部の場所を道具として使っているが、それは、聖書のご都合主義的な利用とそれを妄想を使って拡げていき、その誤った聖書解釈を繰り広げていくことから生まれることが分かった。


                     日本人は、キリスト教のことを知らない。牧師にも、高潔な人々がいる。一般に信用してよいと思われている。そこに聖書を良く知っているとされる(自称している)牧師が来ると、どうしても、その発言を鵜呑みにしてしまう。鵜呑みにしてしまった、間違いを真実だと思ってしまう。思い込まされてしまう。


                     その中で思ったこと。


                     説教者の発言を鵜呑みにしてはいけないことの大切さを感じた。
                     そして、自分で調べること、へんかもしれない、と思う意識を持つこと、別の解釈の可能性はないのだろうか、ということの大切さを感じた。へんだなぁ、と思ったらできるだけ自分で調べること。これをしないと鵜呑みにさせられてしまう。おかしいかな、と思ったら、最初の段階で立ち止まることの大切さ、立ち止まって、時々は説教者の話す内容を自分の頭で考え、相対化すること、客観視することの大切さ、別の解釈の可能性がないかどうかを考えるということが大切なのかなぁ、と思った。そして、説教者の解釈が違うかも、と思ったときにはその場を立ち去り、荒野で神と共に語り合うその勇気を持ちたいと思った。


                     


                     何より一番感じたこと。それは、説教をすることを軽々しく考えてはいけないこと。当たり前だが、きわめて大切。基本であり、やはり重要。


                    2008.11.24 Monday

                    ヘブル書12章4-12節まで

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                       今年中にヘブル人への手紙の学びを終わりましょうという話になっているにもかかわらず、相変わらずじっくりとした学びをしていました。


                       


                      今回のテーマは、罪の問題と、聖書の世界から見た教育のお話。


                       


                       まず、4節で、罪と血を流すまで戦う、という表現がでてくるが、これは、他人の罪を裁くことで、罪と戦うのではなく、自分の心のうちにある罪を避けること、つまり、神から離れることをいかにして避けるのか、神から離れないようにすることが非常に大切である、ということをお話しました。


                       


                       5-12節のところでは、懲らしめ、という表現がでてくるが、この表現は、ユダヤ人の教育システムと関係していること、その背景にはエジプトの書記官教育の話があり、そこではむちによる教育システムが用いられいたこと、しかし、神がユダヤ人を教育したそのあり方には、忍耐があり、その上での教育的配慮から、厳しい状況に直面させたこと。


                       


                       さらに、ここからも、信者は、一種の養子として神の家族に迎え入れられていること、そのなかで神が養育されようとしていること、そのなかの一環として、聖餐式を考えることができること、信者としてより深めていくべきことは、神との関係、神にある平安であることをお話しました。


                       


                       この懲らしめとか、訓練ということばがキリスト教カルトとでも使われやすいことから、カルトのどこが間違っているのか、カルト化を防ぐためには、どのように考えればよいのか、についても、最後補論としてふれました。


                       


                       割と皆さん、真面目に聞いてくださったので、よかったかなぁ、と思います。若い方も3人くらい来ておられましたし。


                       


                       しかし、絶対後1月では、ヘブル書は終わらないような気がする。無理やり終わらせてしまうようなことになるでしょうが・・・。しばらく、12章以降13章最後の部分の補論を何回かした方が良いのかもしれない・・・・。


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