信仰の諸側面 ヘブル11章1-6節
ヘブル書10章の復習をしながら、イエスキリストが、人間が生きている世界と、天の世界をつなぐ唯一の存在であること、神の国(神の支配)と地上の生活が並存し、相互に関係を持つ、ということを説明した上で、ヘブル11章のテーマである信仰という問題、つまり、地上において、神の支配のうちに生きる、という問題をご説明しました。
特に11章1節の信仰の定義から、信仰とは、目に見えていないものが、実存することを主体的な行為として認めること、それを第3者に事実であるということを、説得、宣言する行為である、ということをお話しました。
また、新約の内容を見ていると、信仰は、力という概念と密接に関係していること、キリスト者の価値は、その現実のありようではなく、神との関係のあり方にあるということ、ことばに力があり、ことばで世界が作られたこと、信仰とは、自分が喜ぶことではなく、神が喜ばれることを感じ、そのことを喜ぶこと、信仰とは、神に積極的に関係を求め、神自身とともに時間を過ごすことである、ということをお話しました。
今回も、45分をかけたとはいえ、6節分すら、進まなかった。他の方は、1章くらい、あっという間に進んでいかれるのに。まぁ、じっくりと味わって聖書を読んで生きたいと、このところ思っているので、教会の皆さんを巻き込んでしまっているのかなぁ、と反省。
今日の福音メッセージ
今日は、証をかねた福音のメッセージしました。このブログでもご紹介した100歳を超えて生きておられた信徒の方のご親族の方が来ておられたので、そのかたがたにかなり配慮したお話になりました。
まず、私が高校生の頃、第2次オイルショック、急速なドル安、で日本国内の経済的な不況が深刻化し、それを背景として、ディスペンセーション論がキリスト集会と自称していることが多い福音派のキリスト教会のなかで、大流行したこと。それが私を含めて多くの人々に影響を及ぼしたことをお話し、多くの問題があったということをお話しました。このような具体的な社会事象への聖書の預言のかなり無理な適用が見られたことをお話し、このような無理な適用が聖書の中心的なテーマではなく、その預言の先にある、『ふるさと』にもどることこそが、聖書の基本的なテーマであることをお話しました。
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11章16節)
『故郷』は、出発点であり、到着点であること。なぜ、出発点かというと、母親の胎盤の中で私達が形作られている間も神の関与があるということは、聖書の基本的な教えであること。その意味で、私たちの出発点で神の関与と関係があること、また、キリスト者が目指している天の故郷とは、単に天国という行き先ではなく、神の関係と関与がある場所であることをお話しました。
もし、私たちの死後に何もないのであれば、私達は、何も恐れる必要はないけれども、私達が恐れるのは、私達が故郷でないところに行くことになることを漠然と理解しているからではないでしょうか。聖書の約束は、私達が、天の故郷に帰ること、そこは故障が沖たる、トラブルが続発するような情けないような場所ではなく、非常にすばらしい場所であることを聖書は主張しています。だからこそ、是非、この天の『故郷』のことをお考え下さい。この故郷は本来、すべての人のものなのです。というお話をしました。
大分、朝の学びとかぶってしまったのですが、まぁ、皆さん、よく聞いてくださったと思います。まだ、神様のことを信じる決心が付いておられない方もたくさんおられなかったので、良かったかなぁ、と思います。
ヘブル11章11-16節 信仰について再び
□前回の復習
□11章前半のユニークさ
□サラという人物・アブラハムという人物
□待つということの意味
□旅人・寄留者ということの意味
□『故郷』ということの意味
というテーマでお話します、とお話した後、具体的な内容に入りました。
前回の復習という事で、
ともに過ごす信仰の側面の重要性、信仰による家族への救いをノアの事例から見ることができること、使徒の働きの中での家族の救いとの関連性、アブラハムの召しへの応答としての信仰について振られていることから、信仰とは、アブラハムのように神の呼びかけに反応していくことであることを8節からお話しました。また、ともに相続、受け継ぐ信仰という側面が、アブラハムとイサクの例を通して、9節にみられること、神の国・神の都・神の支配とともにあるものとしての信仰10節でお話し、神との関係としてお話ししましたが、どうもそれでは不十分であることに気づいたので、今日は、その部分について、お話して以降と思います。という事で、お話していくことにしました。
最近、ヘンリー・ナウエン「ナウエンとともに読む福音書」(あめんどう)を読むことで、
□ともにあること
□共同体としての信仰者
ということで聖書を読むことが増えてきました、というお話をした後、神とともに、神とともに歩んだ人の共同体ということを考えると、 ヘブル11章前半のユニークさが見えてくることをお話しました。まず、アダムが含まれないことに、何らかの意味があるそうであること、その反面、アベル・エノク・ノアが含まれることから、より広い神の共同体を意識しているのではということをお話しました。なぜならば、ヘブル人にとっては、アブラハムが出発点なわけですから、アブラハムから始まってもいいようなものですが、アブラハムが始まっていないことから、アブラハムの子孫の中だけで信仰を捉えるという概念を、この作者はあえて否定しているのでは、というお話をしました。
つまり、ヘブル11章前半のユニークさとして、アブラハム・イサク・ヤコブの神を超えた神の概念があるような気がしますし、このアブラハム、イサク、ヤコブの神を超えた神と人との関係、つまり、イエスと神と人間という関係のありかたこそが、ヘブル書全体に流れている通奏低音であるというおはなしをしました。その意味では、ここでは、地域を越え、歴史を超え、神とつながろうとした、神のもとに帰った人々の共同体と信仰との関係が意識されている可能性を感じていることをお話しました。
次に、11節からでは、サラに対する言及があることについて、女性が出てくることに注目したいということをお話しました。なぜならば、旧約聖書の中で、信仰にある女性出会っても、その存在は無視に近い扱いを受けていること、また、ユダヤ社会に限らず、地中海社会で、女性の位置は低いユダヤ・ギリシアでも女性は社会の枠外におかれていたにもかかわらず、サラの存在が取り上げられていることが重要だと思います。
サラは、あなたに子供が生まれる、といわれて笑ってしまった人物です。なぜ笑ったのか、ということに関しては、よくわかりませんが、信仰がなかったのから笑ったのか、常識人としての反応かも知れない、とお話しました。
ただ、待つこととサラという観点から見たとき、サラの存在は非常に面白いと思います。サラは、待たされることを余儀なくされた人物です。なぜかというと、子供が生まれなかった上に、アブラハムは、サラをエジプトでパロに差し出して(創世記12章)いますし、また、別の王にも妹だと偽って、サラを差し出しています。そういう意味で言うと、子供が与えられるのを、彼女は、またされ続けたわけですし、またされ続けた人生だったようです。
実は、当時の社会にとって子孫は非常に重要な存在でした。まず、財産の継承のためにも重要だったわけですし、アブラハムは、非常にこのことを心悩ませていました。呂とに財産を譲ることを検討していた印象も受けます。ところが、サラは、現実的には、出産が無理な年齢であるけれども出産しました。この事実は、エリザベツ(バプテスマのヨハネの母)の例を思い起こさせます。そういう意味で言うと、この待たされたと言うことは、何らかの意味を私たちに告げているようです。
一人の人間としてのアブラハムとサラをみたとき、アブラハムもサラも、不完全な人間といってよいと思います。たとえば、アブラハムは、サラをエジプトのパロ・ゲラルの王アビメレクに妹として差し出しているわけですし、サラは、ハガルとの関係をアブラハムに与えておいて、後にハガルをいじめているわけです。本来的に考えれば、このような人物が信仰の先人として評価されているというのはちょっと理解に苦しみますが、このような人物たちが評価されている意味をもう一度考えてみると、人は罪を犯すが、それでも神は人との交わりを求めておられるということ、救いの意味・十字架の意味・神との関係を深める意味を考えていくと、完全な人間はいないこと、でもそれらが神にあって、歴史的な時間を超えて共同体を形成しうることの意味を教えようとしているのではないでしょうか。
今日は、もうひとつのテーマとして、待つこととしての信仰ということを考えてみたいと思います。おそらく、信仰とは、待つことだとおもいます。これは、11章の後半のテーマの一つとなっています。最近、ナウエンに請っていて、またまた、ナウエンのご紹介ですが、今週、「待ち望むということ 」(あめんどう)という本を読みました。すごくいい本でした。ぜひ、本を読んで考えていただきたいのすが、簡単にナウエンの主張をまとめると、信仰とは、積極的に待つこと(待ち望むこと)であり、ヘブル書11章1節にある、忍耐をもって待つこと(望んでいることを確信)だろうと思います。このナウエンの本を読んだ後で、もう一度、ヘブル11章10節をみてみました。すると、彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。という表現が出てきます。前回は、信仰とは、神の支配のもと、神の主権のもとにあることを認めることと、天国が我々の希望であることを中心にご説明しましたが、もう一度、待つということの視点で見てみると、『彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。』という表現が出てきます。ここでの、待ち望むという表現は、ギリシア語では、エクデモヒー 『受け取る、期待する、待ち望む』といった意味があり、同じ言葉は、ヘブル10章13節でも出てきます。ここでは、イエス自身も実現していないことを待っておられることとして触れられています。
待つということを考えてみると、ナウエンが言うように、現代人の私たちは不得意です。ただ待つことは、悪いことと考えがちです。あるいは、待つことは、時間の無駄と考えがちです。先週の家族で買い物に行ったのですが、その中での母との会話では、母が待つことが嫌いなので、病院の方が、リハビリなどのタイミングを早めてくれるという話しをしていましたが、私も似たようなところがあって、待つとイライラすることが多いです。でも、本当に、待つとは無駄なことでしょうか?何かすることで、時間を使わなければならないという強迫観念に取り付かれてないでしょうか?本来、待つということの中にあるはずの神との豊かな交わりの時間を忘れてないか?ということを考えていました。
少なくとも、モーセの時代の人たちは、かなり緩やかな時間の流れの中で、待つという生き方をしていたはずですが、そこでもっていた、豊かな神との交わりといやし、回復の時間があるはずなのですが、積極的に待つこととは、神の主権を認め、神の関与を期待し待つことではないでしょうか。松中で、現実が、自分の思い通りになることを期待してないだろうか?そういう祈りになっていないか、ということを考えることは重要かもしれません。
11章13節 待つこと・旅人・寄留者 というテーマの下で、「 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでした」という部分から、待つこと、祈ることは、現実の世界にあるものを手に入れることと必ずしも限らないのではないか、ということがここからも見られるように思います。「地上では旅人であり寄留者である」ということから、現実の世界での実現を待ち望むことが、必ずしも信仰ではないことを暗示しているように思います。旅人であり寄留者であるということは、人間的なつながりに頼りにくいわけですが、人間は、共同体でこそ、生存可能であるわけです。この人間的な地上での共同体との関係が弱いものが、旅人・寄留者なわけです。ところで、我々は、寄留者に過ぎないのかということを考えるとき、前提条件としての『地上では』、というところが重要だと思います。私たちは、地上では寄留者かもしれないけれども、神の共同体にたいしては、旅人・寄留者ではないことは覚えるべきでしょう。ただ、地上の共同体も重要であると思う(寄留者という表現)を考えたとき、アルプスの少女ハイジのオンジになるのであれば別ですが、地上での人のつながりは重要だと思います。
『故郷』という比喩(メタファー)を考えてみるとき、15節・16節は重要だと思います。
『故郷』というメタファーにどのようなものが含まれると考えると、故郷とは、出発点であり、帰り着く場所でもあること、現在の状態を一時的なものとして捉える意味があることをお話しました。
故郷ということを考えると、思い起こされるのは放蕩息子のお話です。放蕩息子が、戻ろうとしたのは、彼の故郷であったし、サポートが得られる共同体に戻ろうとしたわけです。また、彼は使用人の一人にしてくれ、と頼んでいることから、富を目指したのではない・生存だけを望んだ帰還であったわけです。
また、ナウエンですが、ナウエン 『放蕩息子の帰郷』あめんどうを読みました。これほど、深い、放蕩息子の解釈を聞いたことがありません。ところで、この間、ETという映画を見たのですが、ET phone Homeをきいて、私たちはなぜ感動するのでしょうか。なぜ、スピルバーグという監督は、彼にそういわせたのでしょうか。故郷という観点から考えたときに、
『故郷』には、自分の原点がある
『故郷』には、自分をはぐくんだものがある
『故郷』には、自分を支える人々がいる
『故郷』には、家族がいる
『故郷』には、待っている人たちがいる
側面があります。さて、私たちは、神の都、天国、神の支配について、それが本当に『故郷』といえるものになっているでしょうか?私たちは、そこを希望にするとともに、私たちが神の国につながっているものとして、ひとつとなっているかどうかが重要ではないか、ということをお話しました。
さらに、『神は彼らの神と呼ばれる』という表現から、クリスチャンにとって、本来の共通部分が神であるべきはずであること、また、信者の共通部分は神であることをお話しました。また、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」エペソ4:6 にもあるように、神との関係を考えることが重要であるということをお話しました。父というメタファーがエペソ4章6節にもありますが、放蕩息子の帰還と神を重ねて考えてみると、故郷には誰がいるかを考えてみると、放蕩息子は父の元に帰っていますが、ヘブル書では、神の都とされています。神様は、私たちのために、天の国を用意して待っておられる神です。ぜひ、このことを考えながら、今週も過ごしていただければ、と思います。
ということをお話しました。今回、かなり皆さんまじめに聞いてくださった印象があるので、よかったかなぁ、と思いました。
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