2008.07.07 Monday

聖書の理解を深めること

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    私たちの教会(キリスト集会)では、聖書の中に神の声を求めて尋ねもとめることを重視しています。これは、大切なことだと思います。聖書を通して、神は私たちに語りかけようとしておられるからです。もちろん、信仰者としては、祈りのなかで、また個人的に神と語り合う中で、神は私たちに語りかけられようとしておられることも間違いないとは思っていますが。


     


    とはいえ、私たちにかかれたものとして与えられているのは聖書だと思っています。


     


    とはいえ、もともと、聖書自体は、一般に読まれるための読み物としてかかれたものではなく(特に旧約聖書)、音声で伝えられ、口伝で伝えられ、記憶を通して伝えられてきたもので、誰しもが参照し、思いをめぐらせることができるものであったわけです。そもそもは。新約聖書は、書かれたものではありますが、特定の読者に向けて、特定の意図を持って当てられたものがいくつか含まれています。


     


    ローマ時代の後半から中世にかけて、文字が読める人が限られていたこと、また、印刷技術が無い中で、筆写によってしか書物が作成できなかった結果、聖書は特定の人のものになってしまいました。


     


    しかし、印刷術の発展、製紙技術の進展により、聖書が一般の人にも利用でき、ラテン語やギリシア語、ヘブル語ではなく、普通の言語で翻訳された結果、一般の人が読めるようになった現代、それを繰り返し読んで理解を深めることというのは、キリストを信仰するものにとって非常に重要だし、そのような時代に生まれた幸福を感ぜざるを得ません。


     


    最近、もう一度、『ウィリアム・ティンダル―ある聖書翻訳者の生涯』,デイヴィド ダニエル (著),  田川 建三 (翻訳) 勁草書房 (2001) を読んでいて思いました。


     


    でも、これは、本当はもともと McGrathのいうように、Chrisitianty's Dangerous Ideaだったような気がします。その中で、2000年間にわたってキリストの体として、連綿と蓄積されてきた聖書理解の体系(『神学』ということもできますが)にも、一定の敬意を払うことは重要かもしれません。それに振り回される必要はないとしても。


     


    私たちのキリスト集会(教会)の中には、キリストの体として、連綿と蓄積されてきた聖書理解の体系(『神学』ということもできますが)を軽視される方も居られるのは、ちょっと残念かなぁ、と思います。


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