2008.05.14 Wednesday

最近、感動したことねぇ。

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    icon 今週のお題

    最近、感動したことは何ですか?







     


    心震わす感動というわけではありませんが、我が家に生えているピンクのバラの花かなぁ。


     


    ほとんど世話をしていないにもかかわらず、今年も何輪も花を咲かせたこと。


     


    結構きれいなので、毎年のように忠実な咲くバラに感動したりしています。


    2008.05.14 Wednesday

    また、復活

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      連休以来バタバタしていたので、なかなか、書けなかった。


       


      そのうち、ヘブル書の学びのファイルをあげようと思うが、なかなかできない。


       


      今週末かなぁ。


      2008.05.18 Sunday

      ヘブル書2章10節から3章6節

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        今回のお話は、2章の前半までの復習から入りました。


        基本的にヘブル人への手紙が、ギリシア語で旧約聖書を読んでいる当時の信者を対象に、イエスという人物を聖書からどのように考えるのか、ということを書いた書物であること、


        まず、1章の前半では、イエスが神であることの要約、1章の後半では、イエスが天使より優れたもの、すなわち上としての栄光をもつ存在であることを説明し、2章1-4節では、救いの偉大さ・救いの理解の源泉としての聖霊の存在についての解説であり、続く ヘブル書2章5-10節では人として性質を持たれたイエスキリストであることを説明しました。


        1章の後半は、3週間前に、私の担当でお話したのですが、2章は、ほかの方が学ばれたのですが、多少飛ばす形でお話されたので、復習をかねながら、もうちょっと詳しく学ぶことにしました。特に2章の後半は、時間的制約もあり、重要なポイントでもあったので、詳しくお話しすることにしました。


         


        実質、本題に入った部分は以下からです。
         ヘブル書2章11-18節では、人としてのキリスト・祭司としてのキリストというテーマが提示されており、この概念が、これからしばらくの間ブル人への手紙の理解を進める上での基本概念となりますので、これらの概念について、詳しく学ぶことをお話しました。


        特に、祭司について学ぶためには、 レビ記(できれば全部、できなくても、1−12章まで)を参照してもらいたいのですが、祭司とは、神と人の間にたち、神の前に立つ存在であり、人を代表する存在でもあります。



        とくに、レビ記1章をみていると、神と人と和解をさせる奉仕に当たる存在であることがわかりますし、レビ記3章では、和解について書いています。このことについては、シナイ山で神の怒りへの和解を参照され、罪(律法の精神(神を愛し人を愛する)との不一致)が発生したことへの解決が必要であることが述べられています。特に着目したいことは、レビ4章3・13・27でもいうように咎を覚える(神の前に神との関係が正しくないことを意識的に覚える、神の前に不安を覚える、明確に意識する)ということです。私たちは、罪を犯しますが、そこで、咎を覚えているかどうか、ということが重要であることをお話しました。


         


        次に、祭司の特殊性と普遍性について、お話しました。
        とくに、油注ぎを受けたもの(レビ8章12節)として、非常に特殊な存在ですし、さらに私たちは、油注ぎということは王と関連付けて考えがちですが、もともと祭司との関係であったこと、イエス様への油注ぎ(ナルドの香油が注がれたこと)を考えることが重要です。


        とはいえ、人間として普遍的な性質があり、 罪のための犠牲が必要な存在(レビ9章8節)でしたし、また、誤りを犯しやすい存在であるがゆえに、祭司は神の指示通りに行うことを求められた(レビ10章存在でした。神の指示のとおりに祭礼を行うことは、神がいい加減な方ではなく、神が義なるかたであること、その義の厳密性を示しているものと思います。

        次に、祭司としてのイエスキリストについて、考えてみると、イエスご自身は、人と神をつなぐ存在としてのイエスキリストという性質をもたれたこと、また、そのイエスがこの地上に来られて私たちに与えようとしているのは、人の意図しない罪の問題を含め、神の前に咎を覚えること(悔い改めの出発点)があることに基づく回復(救い)について出ることは重要かもしれません。


         


        では、ギリシア語を読むヘブル人の手紙の読者に向けて、イエスはどういう印象を持ったかというと、ヨシュアの予言の実現としてのイエスという側面もあるでしょう。まず、名前自身が世シュアのギリシア語読みがイエスであることから考えても、また、当時の地中海人にとって名前というものが持っていた意味について考えるとき、このことは当然であるといえましょう。


        イエスと世シュアとの関連はたくさんありますが、典型的には、民数27章17節を見ると、福音書の中で、イエスが群集を見たときの表現(たとえば、マタイ9章36節)のなかの飼うもののない羊を守るものという表現が重ねられています。マタイによる福音書では、この前に、中風(脳梗塞)の人の例・酒税人と罪びとと食事をするイエスとそれへの反感・会堂管理者の娘・長血をわずらう女・救いを求める盲人・悪霊につかれた人とその癒しなどがのっており、民の指導者がこのような阻害された人々に目を向けたことに対する反感を当時の指導者たちがもったことが示された後、この「民が飼うもののない羊」のようであるという表現が出てきます。


        ところで、 イエス・キリストという表現が出てきますが、イエス、すなわち、ヨシュアという名前は、?主が救われる(ヨシュア)ですし、クリストス(キリスト)は救い主という意味です。

        ■過ぎ越しのいけにえとしてのイエス
        イエスが十字架にかかったのは過ぎ越しのいけにえがささげられる祭りのときであったことから、明らかに、イエスの十字架の背景には、過ぎ越しのいけにえ、罪のためのいけにえとしてのイエスということがイメージされている。また、? バプテスマのヨハネのイエスへの呼びかけである、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)もいけにえをかなり意識した表現であろう。


        マタイ26章17節には、種入れぬ祭り民数28章17節(種入れぬパンの祭り開始日)が記載されているとおり、イエスも神の定めに従われたことイエスの祭司としての性質を考えるときに、重要であろう。その意味で、律法の完成者のとしてのイエス(ヘブル12章2節・マタイ5章17節)というご性質があることは忘れてはならない点である。


         


        ■祭司とイエス
        祭司は罪を犯しうる存在であったこと輪忘れてはならない。特に、祭司(人間でありながら、神と人をつなぐ存在)であったとはいうものの、兄弟という表現(同質性、信徒の中にいることの象徴
        2章11・12がある。この点は人間としての祭司である以上、避けることはできないが、イエスは、罪を犯しうる存在となったが罪を犯さなかった点は重視すべきである。ただし、罪の問題の解決の必要性を自身を通して経験されたことは、イエスの神と人をつなぐ上で、重要な意味を持つ。
        レビ系の祭司とイエスとの違い
         それを図にモデルとして簡略化して図に示すと、図のような形になる。もちろん、モデルであり限界はあるけれども、イエスとレビの違いを考えることが重要である。


        ■名が覚えられる存在(2章12節)としてのイエス
         詩篇22篇22節からの引用として、教会(エクレシア)の中でという表現があるが、もともとは会衆の中でという意味は、神にあって一つの民となされたものの中でという意味であり、神との関係のある人々の中で、すべてのクリスチャンの中で、名が覚えられるという意味であり、それこそが、教会で集まることの意味の一つである。

        ■解放者としてのイエス(2章15節)
        イエスは、われわれを死の恐怖からの開放したのであって、このことは、第1コリント13章50-57節でも語られているし、3章の中で繰り返し出てくるモティーフとして新しい地に入っていくヨシュアのモティーフが用いられている。このことから、救い、あるいはイエスの回復の最重要ポイントは罪から、その結果の死からの回復であり、このテーマに関しては、ローマ5章18-21節でも表現されている。


        ■信者の保護者としてのイエス(16節)
        16節にアブラハムの子孫という表現があるが、類似の表現は、ローマ4章9-24節(16節・23-24節)にも、ガラテヤ3章6-9節・29節にもあらわれる。また、ルカ3章8節では、血統よりも信仰の重要性が強調される意味で、イエスの自身による言及があり、石ころからでも起こされるアブラハムの子孫ということが語られている。


         この背景には、アラム語圏のユダヤ人の異邦人の改宗ユダヤ教徒への無意識の優越意識への対応という意味も含まれるように思われる。ところで、ここで、「助ける」という言葉のもともとの意味は親切心のうちに保護する、手をつなぎながら守る、非常に強く支援するというような意味があり、普通の日本語の助けるという意味とは少し違うようである。

        ■人としてのイエス(17・18節)
          人への同情心を持つイエス、忠実な大祭司(神への忠実さ)、 罪を持つものへの同情されるかたであり、ご自身を罪のためのなだめの犠牲とされ、 いける神の小羊としてのイエスとなられた方である。
         民数記28章にも示されるように、罪の解決のためには、犠牲が要される事は、罪が存在する、したことを意識的に意識するためにも必要であったのではないか。
         その意味で、単に許されるのではないがあり、普通の日本語の許しの概念とは異なる。


         特に、苦しみを受けられたイエス・人を理解する神としてのイエスということは、クリスチャンの立場を考えるときに重要である。(ヘブル4章15節を参照されたい)


        とこれまで抜けたところを少しカバーした上で、新しいテーマに入っていきました。


         


        3章の最初のところで、触れられていることは、まず、信者の特殊性であり、
        それを、天の召しにあずかっていると表現しているが、まず、信者は、神から呼び出された、召しだされた存在であり、呼びかけにこたえて、反応した存在といえるでしょう。ところで、ここで、あずかっているという語は、一部をなしているというような意味であるが、一方的に与えられる、というよりはもうちょっと積極的な意味を持っていると考えるのがよいと思う。


         


        ■信仰の使徒・大祭司
        次に、使徒としてのイエスということを考えることができるが、この表現は珍しい。イエスから任命されたものを使徒と考えがちであるというものの、より広い意味で用いられている。具体的には、使徒とはイエスから直接任命を受けたもの・イエスの直接の言動を知り、伝ええたものであるが、 イエスを使徒と表現するのは、新約聖書の中でここだけである。


         


        ところで、使徒とは何かを考えるとき、神の言葉を伝え、神の直接的な証言者であるといえる。ここの表現は、もともと「私たちの信仰告白、すなわち、イエスキリストが大祭司、使徒(神と人との間に立つものであること)を考えなさい」とも訳せるのであり、考えるとは、正確に測定するという意味を持つ語である。

        ■忠実さについて
         ここで忠実と訳されている言葉は、信頼する、とか信仰を持つという意味であり、もともと信仰という語と同じと考えたほうがよい。つまり、神に対する信仰を指し示す存在としてのイエスの正確を述べており、神への信仰のあり方とその重要性を多くの人に示した神であるイエスということを開設しているものと思われる。


        ■神の家全体について
        まず、モーセについてであるが、神の家全体のために、というよりは、神の家全体のなかで信仰を示したモーセと考えるほうがよいであろう。モーセとは、すべてのイスラエル人に神への信仰を示した人物であり、シナイ山での事件(出エジプト32章子牛の像の事件)などでも大きな働きをしている。つまり、信仰の指導者としてのモーセということを覚えるべきである。
        さらに、神と語り、人と語る存在としてのモーセという意味で、旧約聖書の中にあっても、非常に特殊な存在であり、イスラエル人の信仰を形作っていく大きな役割を担った。


        ■モーセよりはるかに優れたイエス(3・4節)について
        ここでは、イエスがモーセよりもさらに優れたものであることが強調されており、論理展開の重点もここにある。イエスは、アロン系の祭司の最大のものよりもさらに優れた存在として、イエスの存在があり、それは、創造者としてのイエス(4節)・被造物としてのモーセとしてその差は明らかである。
        ところで、ここで触れられている栄誉とは、人間からの評価を受けることと関係した語であり、栄光とは、神からの正当な評価として考えられている。



        ■モーセとイエスとの違い(5節・6節)
        ここでの表現は、新改訳でもそれを苦労して訳出しようとしているが、同一の語順で並べることで、イエスとモーセの違いを示している。モーセに関しては、神の民の中でとかかれていることから、被造物のとして、神の民全体の導く奉仕者としてのモーセとして示され、モーセ自体、将来現れるイエスの不完全な表象であるといえる。
        ところで、モーセとイエスの違いは、モーセが民の仲で、と表現できるのであるが、イエスに関しては、神の民の覆うようにとなっている。つまり、イエスは創造者、神の子として、神の民を覆う存在であるといえます。神の民を覆う(忠実に治めると表現)というのは、包括的な救いの完成を表しており、現在、完全に明確に示された存在として、すべての人の救いを与える存在となっている。


        ■神の家となること
        神の家となるということには、いくつかの意味がある。まず、キリストが神であるという確信を持つ人々の集まりであり、 キリストにおいていのちがあるという希望の栄光(誇りというよりは栄光)を持つものの集まりをさしている。


         さらに、ここでヘブル書の著者は、これらにとどまること、イエスキリストにとどまることの重要性
        を述べているが、ヘブル書のテーマ(今後繰り返し現れるテーマ)が示されている。類似の表現は、ヨハネ15章4節・使徒11章23節・ヘブル3章の後半、4章、6章、10章25節でみることができる。



        ■神の家というメタファー


         神の家と神の国の類似性を考えることは重要であろう。より具体的には、神の民が住まう場所であるとどうじに、イエスご自身が、あなた方のために住まいを(ヨハネ14章)と表現していることは心にとどめておくべきであろう。さらに、神の家は、神の民が一緒に集まっている状態であり、荒野でのイスラエルの姿を含めて考えうる。さらに、教会(集会)も神であるし、第?コリント3章の表現なども参考に考えることができる。また、イエスご自身の表現でも、神の臨在がある場所(神殿)がヨハネ2章16節でも示されている。


         


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