2008.02.05 Tuesday

これだけは苦手ってねぇ。

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    icon 今週のお題

    「これだけは苦手!」というものは何ですか?






    苦手なもの、それは、爬虫類。一番つらいのは、ぬめっとしたややつるつるに見えるかえる君とか。ヘビ君とか。ぬいぐるみや、ぬいぐるみのカエルのカーミットとかは大丈夫だけれども、リアルなやつはどうも。


     


    アメリカ人って、カエル君とかヘビ君とか見て、キュートっていう人がいるんで、精神構造がどうなってるんだろう、って思ってしまった記憶が。


     


    酔っ払いもだめですね。特に絡んでくる酔っ払いは。できるだけよらないようにしている。


     


    あと、メキシコ料理はたいてい好きなんだけれども、タマーリ(ツマーリと聞こえる場合も)は、一回食べたのが今ひとつだったので、それ以来食べられなくなってしまった。


     


    後は、干ししいたけ、干し海老とかもにおいがだめです。特に戻すとき。はきそうになります。


    2008.02.09 Saturday

    バレンタインデーの思い出

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      icon 今週のお題

      バレンタインデーの思い出を教えてください。






      私自身の思い出ではありませんが、カリフォルニアで子供が行っていた小学校での出来事。


       


      バレンタインデーに、カリフォルニアで子供が行っていた小学校では、バレンタインカードを配るのが習慣でした。Peanutsのアニメやディズニーチャンネルでやっているアニメ番組でも、そういったシーンが出てくるので、かなり普遍的な習慣のようです。


       


      で、普通の子は、近所のスーパーで売っている(日本でもどこでも、その国のジモティの行くスーパー見ていると季節行事がわかっておもしろい)バレンタインカードを配ります。ちょっと気を配っている家庭は、ハーシーズのチョコレートか鉛筆一本程度のプレゼントでしたねぇ。


       


      一番すごかったのは、上の娘の言っていたクラスでもらったノートの切れ端に書いたバレンタインカードです。手書き鉛筆書きのHappy St.Valentine's Day!You are niceと汚い字で書いた紙の端も明らかに手でちぎりました、といった感じのバレンタインカードでした。この種の手抜きをたっぷりするけれども、一応、形だけは守っている子だったので、その子らしくて、おもしろかったです。


       


      2008.02.11 Monday

      罪って何だろう?

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        コララさんからの質問で、罪の問題って、ひょっとしたら信者の皆さんに伝わっていないかもしれない、そういえば、教会でしゃべるのを避けていたなぁ、でも、信者の生活にとって重要だよねぇ、ということを改めて、お話ししないといけないかなぁ、と考えさせられたので、今週のお話として(本当は聖書研究会で信者向けのお話しをする時間だったのですが、たまには、基本も良いでしょうということで)、罪についてお話しました。


         


        まず、罪は、これまであまり触れてこなかった理由として、罪の問題は重要だけれども、必要以上に恐怖感や罪悪感を持つ方がおられるので、避けてきました。


         


        また、罪は日本社会や日本語にはない概念なので、分かりにくいですよね。日本の方にご説明するとき、このことって、結構説明が難しいんですよ。じゃ、皆さんはどう説明されます?と参加者の方、求道者の方や、信者の方など何人かの方にお伺いしました。罪は、よく分からないとか、誰かをだます、誰かに悪いことをするということしか出てこなかったので、じゃ、私が説明するとしたら、どう説明するのか、という事で、実は、死ぬことって、人間にとってやな事ですよね。でも、何でイヤなんだろう。死後に何もないなら、恐れる必要はないのに。それと、なんとなく居心地の悪さを感じるようなことがありませんか。日本には、絶対はないんだけれども、なんとなく感じる居心地の悪さ、それが罪の意識だと思います。


        実は、ギリシア人やローマ人にも、絶対という概念がないので、罪って、分かりにくかったんですよ。だから、聖書は、かなり新約聖書で罪の話をしています。


         


        で、今日は、ヨハネの第1の手紙から中心に考えましょう、という事で、罪、愛、赦し、救いは密接に結びついているのですが、その中から罪って何でしょう、ということを中心に触れることにしました。罪って、神様との間で居心地の悪い関係が続くことです。人間関係でも居心地が悪いのはイヤですよね。それと神様との間の関係も同じです。だから、人間でも回復が必要なのと同じように、神様との間の関係でも回復は必要ですよねぇ。そのために、イエス様が地上に来てくださったのです。


         


        で、ヨハネ第1の手紙では、罪についていって、律法に逆らうことだ、といっています。律法に逆らうことって何?ということを考えるのに、イエス様が行っている律法のポイントを考えて見ましょう。二つしかないんです。神様を愛すること、神が創られた人を愛すること、この二つだけなんです。これがうまく行かないとき、罪だと聖書は言っているようです。もっと言うと、私たちを愛している神様の愛を無視すること、神様とその愛に冷淡にすることが罪なんです。神様の愛を裏切ること、それが罪だと思います。


         


        第1ヨハネの 1章7・9節からは、イエス様によって、私たちのすべての罪が例外なしに清められること、赦されること、きよめてくださること


        第1ヨハネの 2章1節2節からは、私たちをイエス様が全力で弁護してくださること、私たち一人一人ではなく、全体についての罪を許してくださる方であること
        第1ヨハネの 3章5節では、キリストは、私たちと神様との居心地の悪さである罪を取り除く為にこられたこと


        が書いてあることをお話しし、でも、これは地上では完全な形では完成せず、天国で完成します。地上では、私たちは義と認められる、ということでしかありません。ローマ人への手紙の3章24節でもそう示していますし、同じローマ4章25節では、私たちが義と認められる(義とされる)ために十字架にかかってくださったのです。


         


        では、罪が許される為には、神様の前での告白が重要です。イエス様ご自身が、ルカの18章10-14節で罪の悔い改めている取税人が神様の前に祈ったことで、義と認められたということをお話しし、その告白があることで、義と認められ、神様との間の関係が回復することになるのだ、というお話をしました。


         


        もし、私たちがこの罪のある状態を解決できないとなるとどうなるか、それは永遠の死、神様の前から永遠に失われることになります。それは、神様は望んでおられないのです。神様は、詩篇23篇に書かれているとおり、私達の敵である罪の前で、私たちを攻め立てる罪の前で、神様との和解が成立している食事の場を設けて下さろうとしているのです。


         


        その意味で、クリスチャンとして、神様との関係が正しい状態にあるかどうかを考えることが重要ですよ、ということをお話ししました。


         


        参加された方が、よく分かってもらえるとうれしいのですが。


        2008.02.12 Tuesday

        神様と出会っていく瞬間に立ち会わせていただいた人々

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          神様とであった瞬間に立ち会わせていただいた人たちが、何人かいます。何の気なしに、福音をお話したり、教会でお話ししているとき、そして、その後、個人的にお話ししているときに、その経験をされた瞬間に立ち会った方が何人かおられます。真面目な信者でないので、数はそう多くはありませんが。


           


          いまの教会での話は、ちょっと生々しいので以前の教会で神様に出会う、という経験をした瞬間に立ち合わせていただいた方のお話をしたいと思います。


           


          その方が当時50歳代の後半だったでしょうか。木工職人さんでした。私は20代後半の若造でした。私の属していたブラザレンの教会では、講壇はすべての信徒に開放されている、というよりは、諸般の事情もあり、神戸という大都会でキリスト教の宣教が多く行われている場所ではありましたが、私のところは3人しか男性信徒がいないので、イヤでも話す機会が多いという教会だったので、毎週のようにお話していました。そこにひょっこり現れてきた、Yさんという方がおられました。最初はあまり熱心ではなく、時間つぶしで入ってこられた感じだったです。


           


          とはいえ、そのYさんが聖書を真面目に読むようになられ、2-3ヶ月たった頃でしょうか。一度食事にお招きし、お食事を一緒にする中で、イエス様の愛を感じられた瞬間、というのがあったように思います。特に泣き出したり、感極まったりされたわけではありませんが、ほっとした表情をされたのが印象的だったです。あー、たぶん、Yさん。神様とであったんだなぁ、よかったなぁ、と思いました。


           


          しかし、このYさん、ご自分のことはお話になりませんでしたのでよくわからないのですが、ご家庭があまり幸せでなかったのか、あるいはお母様と何かあったのか、母なるものへの思いがものすごく強い方で、マリア崇敬みたいなものが自分にはほしい、といっておられました。


           


          その頃は、ゴチゴチのプロテスタントの権化みたいな石頭君だったので、それは間違いだ、と思います。聖書からはそれは支持さないように思う、と言い放ってしまいました。それからしばらく、Yさんは教会に来てくださいましたが、やはり、マリア崇敬を大事にするカトリックのほうへ行ってしまわれたのか、私の集っていた教会には二度と来られなくなりました。


           


          今なら、時間をかけて、ゆっくりと進んだでしょうが、若気の至りで、Yさんの信仰の成長を待ちきれなかった自分の無謀さというのは思慮のなさを反省したりしています。


           


          コアラさんのブログを読んだり、Foceさんとのミニメールのやり取りをしながら、ふっとYさんのことを思い出してしまいました。Yさんがたとえ手を離そうとしても、それを離さないイエスの力強い手をYさんが今も感じておられるように祈りますし、そうだと確信しています。


           


          神とであった人間は、自ら神の手を振り解こうとするかもしれないけれども、神様はつかんでおられる、そのことを確信していたいし、そのためにおもいだしたときには、ふっと祈っています。


          2008.02.17 Sunday

          笑ったとき

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            icon 今週のお題

            最近、笑ったのはどんな時でしたか?






            子供がとんでもない漢字の読み方をしたとき。


             


            ○○を用いて を ○○をよういて (どうして、そんなよみかたができるの?)


             


            歴史の教科書で、昔の有名人の読み方をしたとき。


             


            島津 久光 を しまづ きゅうこう (だれや?)


             


            新井 白石 を あらい しろいし


             


            藤原 定家 を ふじわらのじょういえ


             


            などなど。


             


            それから、大河ドラマ『篤姫』のオープニングで出てくるおかつの子供時代の首のない和服姿の映像。微妙に気持ち悪い。見るたびに笑ってしまう。


             


             


            2008.02.18 Monday

            笑ったとき(2)

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              icon 今週のお題

              最近、笑ったのはどんな時でしたか?






              娘の技術の教科書を呼んでいる家内の発言


               


              ピンクプラグをまずぬいて・・・  ぬくのは、ピンプラグなんですけれども!


               


              漏電遮断機って何?  いつも我が家でレンジと電磁調理器を同時に使っているときにお世話になるブレーカーのことです。


               


              ことばだけで覚えるから、こんなことになります。


               


               

              こないだ、ディズニーチャンネルで、ジャングル・ジョージをみた時。あまりにくだらなくて笑ってしまった。あと、スポンジボブスクエアパンツのパトリックの言動。親でもないときに、親だと思い込んで、結構時間を過ごして、親でないことがわかって、ただわはははは、と笑っている話をみた時。あまりにばかげているので、つい笑ってしまった。
              2008.02.26 Tuesday

              律法と愛

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                今週、私の通っている集会(教会)の福音集会では、若い人たちが中心となっていろんな話をする時間でした。


                 


                そこで、取り上げられていたのは、マタイの福音書22章の律法が神の愛であることについての話をしていました。一生懸命、いろんな工夫をしてお話していたのですが、それを聞きながら、ひとつ思ったことがありました。


                 


                第2コリント3章6節の中で、律法について、パウロは次のように言っています。(新改訳聖書 第2版)


                 


                神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。


                 


                このことばを見たとき、イエスが、律法は愛に還元されうる、と発言したことがいかに画期的であったのか、というのを感じます。


                 


                もともと、人間を攻め立てるものであった律法が、本質的には愛を問うものであること、人間の行為の根源がどこにあるのか、ということを問われているという概念は、非常に大きな価値転換をもたらすものであるといえる、その価値展開のすごさ、ということをもう少しふれてもらいたくて、最後に一言だけ、律法は、もともと人を攻め立てる可能性があるものであるが、イエスがこの律法を愛として捕らえているというこの問題をぜひ考えてほしい、という発言をいたしました。しかし、この律法をどう捉えるのか、ということは、重要だけれども、なかなか理解されていないものではないか、ということを感じました。


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