さて、今日もローワン・ウィリアムズ先輩がお書きになられたものから、考えたことをたらたらと述べてみたい。本日の部分も、また、聖餐に関するエッセンスがギュギュギュっと詰められた感じの部分である。
しるしとしての聖餐を十字架のしるしを示す教会で
聖餐は洗礼を受けたいのちが受けるにたるしるしであり、それは新しい創造の物質的なしるしでもあるからです。それは新しい生命力と方向性を持って神の最終目的に向かって進んでいく、世界の歴史における新しい局面を意味します。この歴史観を土台に聖書を読み、聖書に聞くことが大切です。現代のキリスト教思想家たちが言うように、それが教会を真の姿にしているのです。あの短時間の間で、私たちが神の客人として神の食卓に集まるとき、教会は本来あるべき姿に戻ります ―共に客人となり、共に神の招きに耳を傾ける見知らぬ人々からなる共同体という姿に戻るのです。
(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』p.86)
この「しるし」ということは極めて重要なことではないか、と思う。聖餐式は、我々がキリストのうちにあり、またキリストを内に取り込むということをリアルな体験として経験するという意味での「しるし」なのである。聖なる儀式、サクラメントは、バプテスマにしても、聖餐式にしても、極論すれば「しるし」、リアルな体験なのである。
ヨーロッパ大陸あるいは、ヨーロッパの影響を受けた世界にある伝統的な教会のフロアプランは、基本的に十字架のかたちをしている。教会そのものが十字架を指し示している巨大なイコンなのであり、しるしなのである。
サグラダファミリアの平面プラン
もっとも古い形のカンタベリー大寺院のフロアプラン
サンピエトロ寺院のフロアプラン
https://etc.usf.edu/clipart/73700/73703/73703_st_peters.htm
パリのノートルダム大寺院のオリジナルのフロアプラン
十字架のかたちをしている教会の中で、イエスの十字架の死と復活に連なるものとしての象徴としてのしるしである、あの最後の晩餐の再現としてのパンとぶどう酒を受け取るのが聖餐なのである。そして、ホスティア(ウェハース)によるが、十字架の刻印が押されていたり、イエスが十字架にかかっているイコンの刻印が押されているパンを受け取るのである。まさに、十字架のうちにあって、イエスの十字架をわがこととして、わがうちに取り込む儀式、リアルな体験が聖餐式なのである。
https://twitter.com/808towns/status/1041993381830832128?lang=bg より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E4%BD%93 より
しるしと知恵
現代社会は、その歴史的展開から、知恵、理性を重視する側面に大きく舵を切ってしまった。もちろん、イエスは、ヨハネの福音書によるとことばΛόγος ではあったし、Λόγοςである。しかし、イエスはリアルでも、しるしでもあったのであり、人々の間でしるしを多数実施され、人々の間で見える形でそれを示されたのである 。それはユダヤ人が求めただけからではない。イエスが概念や知恵やコンセプトではなく、どうしようもないほどリアルであったからであり、リアルであるがゆえにその故郷でろくでもない目にあっている。理解されなかったのである。
リアルであることを示すために、復活のイエスの手の傷を見、わきの傷を見るまで信じないといった聖トマスやギリシア人みたいな理性を重視する人々にも、神がリアルな存在であることと、神の存在、神との関係の回復、復活がリアルであることを示すためにわざわざこの地に来て、復活の姿を見せたと思うのである。しかしながら、概念世界が好きなギリシア人の思想が、東ローマ帝国の崩壊に伴ってイスラム世界で冷凍保存され、それが、中世末期にヨーロッパに再移入され、ヨーロッパの社会の中で、回答されることでルネッサンスを誘発し、そして、理性の暴走が始まるまで、旧西ローマ帝国領内で、キリストを記憶するためのよすが、しるし、リアリティ、モノであること、目に見えること、例えば聖遺物信仰や聖遺物崇拝のような形で、しるしやリアリティが重視され続けてきた。あまりにもしるしやモノが重視され続けたために、理性の暴走と宗教改革の反動でしるしとしての聖餐やイコンや美術品のようなものがすっかり破壊されてしまってきたが。
聖餐と聖書に聴き、聖書を読む目的
伝統教派では、聖書を読み聞かせるということが礼拝(聖餐式)のプログラムの中に組み込まれている。この読んで聞かせもらうのは、ある面、われらが新しい生を受けたのは、神の最終目的、Telos、終着点の完成、それが終末の本来の意味だとは思うが、その終着点での完成に向かって進んでいくのだと思う。それを見失い、実際の生活に役立たせようというで、何らかの日常の生活で役立させようとして、道具的な理解で聖書を読むから様々な悲喜劇を含む間違いが起きているように思えてならない。聖書を読む目的、何を念頭に読むべきかについて、ローワン・ウィリアムズ先輩は「新しい生命力と方向性を持って神の最終目的に向かって進んでいく、世界の歴史における新しい局面を意味します。この歴史観を土台に聖書を読み、聖書に聞くことが大切です」とお書きである。
これは、極めて大事なことだと思うのだが、聖餐は神から日々新しい生命力を神から受けていること、そして、我々は神の最終目的に向かって進んでいくために必要な食糧であることであると同時に、イエスは神のことば(ヨハネ第1章)であることを合わせて考えると、その神のことばを受け止め、自分のうちに神から入れてもらうこと、すなわち神からの語りかけを受けること、聖書に聞くことをも実体を伴うパンとぶどう酒という象徴的な物質を自らのうちに取り入れるという具体的行為を通して示しているのではないか、と思うのである。
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さて、本日も、ローワン・ウィリアムズ先輩の『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』の聖餐についての記述、本書の中でクライマックスともいうべき部分を引用しつつ紹介してみたい。
まさに、この部分は、NTライト先輩の『クリスチャンであるとは』と『驚くべき希望』をググっと要約したような文章である。本当は一気に全部紹介したいが2回に分けて紹介したい。なぜなら、それだけの内容があると思うからである。
聖餐が指し示すもの
聖餐は、クリスチャンであるから、預かれるものでもない。単にパンとぶどう酒という物質を体内に入れるということでもない。また、聖餐は、イエスキリストの死と復活を記念し、覚えるよすがだけでもないし、クリスチャンである証でもない。聖餐を全員が集まって、会堂でともに預かることで、イエスキリストがなそうとしている、最終的な神の計画、復活の計画、回復の計画全体を啓示しているとローワン・ウィリアムズ先輩はお考えの様である。
偉大な思想家や詩人は繰り返しその神秘に触れ、聖餐は神の最後のみ業と目的の啓示であるといってきました。それは世界の終りの始まるといえるかもしれません。それは世界の終わりの始まりといえるかもしれません。(中略)終末への希望、つまり神がすべての人と万物に対して何を成し遂げるかという期待が生まれます。また聖餐式で起きている変容は、全体の変容のほんの一部を垣間見させてくれます ー聖餐式をキリスト教の礼拝において非常に重要で中核的な位置づけとする一つの理由はすべてここにあります。
(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』pp.85-86)
以前の連載でも書いたが、聖餐は旧約聖書から、福音書、使徒書、そしてその後約2000年にわたり、正教会からプロテスタントの様々な信徒たちによって描かれ続けた神の壮大なタピストリーのようなものであり、あるいは神が関与するすべての出来事の焦点なのである。その出発点であり、目的地であり、人間にとって、あるいは、神とともに歩む者にとって、アルファでありオメガであるものこそが聖餐なのだろうと思う。
終末というと恐ろしい日での裁きと滅びのイメージが強い。我々は、終末といえばハリウッド的なド派手な社会と地球の崩壊が生じることをおどろおどろしく描いたような終末観にあまりにも毒されたり、あるいは、逆に死んだら天国のお星になって、天国のお花畑で花を摘んでいるメルヘンの世界にも毒されているのではないだろうか。それは、本当の神が我々にご用意になろうとしておられる終末ではないように思う。
https://wallpapercave.com/rage-wallpaper
https://www.spoon-tamago.com/2019/06/17/post-apocalyptic-illustrations-of-tokyo-in-ruins/
一方で上の絵画のような、神の裁きの面だけを強調した、おどろおどろしい、人類滅亡のような終末が描かれ、社会自体が機能しなくなる状態を思い描く終末論があるかと思えば、また、他方で、以下の絵画のような、神が与えようとする幸いな面だけを強調したメルヘンチックで、ディズニーアニメの大団円のように、「そして皆さん、永遠に楽しく過ごしました」という雰囲気のイメージの両面があることも確かである。
https://theologyforum.wordpress.com/2008/06/03/on-pastoral-eschatology/ より
https://www.ac-illust.com/main/search_result.php?word=%E8%8A%B1%E5%9C%92 より
希望としての終末と完全な回復
ローワン・ウィリアムズ先輩は、非常に重要なことをこのきわめて短い文章の中で、実に的確に表現しておられる。それは、聖餐において「終末への希望、つまり神がすべての人と万物に対して何を成し遂げるかという期待が生まれます」という部分である。終末は、希望である、まさに、NTライト先輩が、『驚くべき希望』で述べておられることがこの一文に凝縮されているかのような記述である。
ところで、我々が人間だからだろうとは思うが、終末は人間にのみ起きることと考えておられるキリスト者の皆さんは少なくない。特に、福音派の皆さんには終末は人間に関する出来事と暗黙の裡に想定されておられるような方が多いようが、どうもそうではないらしい。すべての人間だけでなく、被造物、あるいは万物と神との関係が正常な状態に復帰するということだとお書きである。このような、考え方は、以前にも紹介した、正教会の聖餐論について丁寧に論考した「ユーカリスト」の中にも、記載されている。たまたま、人間は被造物の管理者、あるいは代表者として聖餐式に預かっているだけである、という理解はあるようである。
聖餐式で起きていることと、現在のCOVID19対策
聖餐式で、司祭がパンとぶどう酒を聖別して、聖なるものとするという所作があるし、伝統教派では、聖霊がそのパンとぶどう酒の望み、聖なるものとすることを祈り願うが、それは、終末に起きることのほんの一部の、その象徴をちらっと垣間見せてもらうだけのことであるということについて、ローワン・ウィリアムズ先輩は「また聖餐式で起きている変容は、全体の変容のほんの一部を垣間見させてくれます」と表現しておられるが、その聖餐式での聖別、聖なるものとなることが、神とともに生きようとする人間のみならず、全被造物において起きるということ、つまり、エデンの園の状態への回帰というか、その状態の回復、人が神と覆いも隔てもなく、制限なく親しく語り合う世界が回復するということのそのモデルが聖餐式である、ということになる。
COVID-19で我々はアクリル板越しに話すことを求められている。そして、スーパーのレジスターのところなどでもビニールの透明の膜状のもので隔てられ、口にはマスクをし、自由にしゃべることや歌うこともままならない。実に不自由な生活を強いられている。友人と食事するときでも、黙食が求められ、聖餐式もまともに執行できない日々を強いられている。ある面、その状態は、まさに今の神と我々の関係のようである。
COVID-19の感染症対策ということで、様々なものに隔てられ、不自由な中での生活を強いられているのは、神が設けられたシンポジウム(勉強会ではなく、古代ギリシア的な意味での飲み食いの楽しい会)で神と自由に親しく食事をしたり、語り合ったりできないという状態、まさに友人と気楽に食事や楽しい会食もできない状態である。
COVID-19の感染拡大が続く中、実際に、会議するのもコンピュータの画面越し、話するのも、コンピュータの画面越し、はたまた、オンライン飲み会のように、本来同じ場所にあって楽しく過ごしながら飲み食いすることすら、別々の場所で、コンピュータスクリーンを見ながらなのである。あたかも、全キリスト者が一つになって神の礼拝を一つの場所でできない状態とそっくりではないだろうか。
丁度終末が来る前の神と人との関係は、そして、イエスが去った後、連綿とキリスト者の間で続けらえてきた聖餐式はそのようなものかもしれない、と思った。別々の場所で、別々の時代に分断され、神を礼拝せざるを得ないのだ。それを考えると、神と人との間の完全な回復が起きた後の神と人との関係が、いかに希望に満ちたものか、ということは、COVID-19が大流行する前の時代を思えば、ちょっとはわかりやすいかもしれない。
次回へと続く
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聖化という考え方
もともと、クェーカーの影響を受けたキリスト者集団に40年近く、信徒として30年近くいたので、福音派の中でも、きよめ派の聖書理解との相性がそれほど悪いわけではない。その中で、強調されることの一つに聖化という概念がある。聖化大会とかいう大会をご開催になっておられる教派もある。聖化大会とは、要するに聖書に詳しい人を講師にお呼びし、講師の話を聞きながら、参加者は聖書をより深く学んで、より聖い生き方ができるようにしましょう、ということのようである。個人的にも聖化とはそういうプロセスなのだろうと、長らくそう思っていた。
さらに言えば、福音派にいたころは、カトリック教会や正教会、聖公会の聖別あるいは聖成の概念は、ちょっと違うかな、と思っていた。言い方は悪いが、元居たキリスト者集団には、宗教改革の伝統の影響もあったので、伝統的教派に敵意に近い視線を向ける方々もおられたし、またそれらの教派が大事にしてこられた聖成や聖別の概念をよく考えもせず、ある種魔術的なようなものだろう、と思っていたし、実際にそう主張される方々もおられないわけではなかった。そのせいか、今でも、時に、聖成とか聖別とかに、ちょっと違和感を感じる場合がないわけではない。しかし、よくよく考えてみれば、この概念は重要な概念でないかと思うようになった。
聖化(consecration)は、聖餐式のパンとぶどう酒を聖別する行為であり、近代人として近代的な合理思想に毒されたミーちゃんはーちゃんにとっては、今でも時には最も違和感を覚える部分であるが、おそらく多くのプロテスタントの官会社の皆様もそうかもしれない。その聖成あるいは聖化について、ローワン・ウィリアムズ先輩は次のように説明する。
私たちが聖霊に願うのは、パンとぶどう酒に奇跡的な変化が起こるようにという願いだけではありません。私たちは聖霊に、私たちの全てに奇跡的な変化をもたらし、これらの賜物を受け取ることができるようにしてくださいと願い、パンとぶどう酒を受け取るときに、「聖霊の力によって神の賛美と栄光のために生き」、世に出ていくことができるようにしてくださいとねがうのです。ですから、私たちのうちにイエスをいつも生かしている聖霊は、聖餐式の中で特別の働きを通して、人を霊的に造り変えます。『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』p.85
聖餐のパンとぶどう酒の聖変化についても触れているが、個人的には、「「聖霊の力によって神の賛美と栄光のために生き」、世に出ていくことができるようにしてくださいとねがうのです」という記述が重要な部分であろうと思う。実際、この聖別について、日本聖公会の祈祷書には、この部分の祈祷(司祭が声を出し、祈る)として2種類の祈祷が示されているが、個人的に気に入っている方の祈祷文では、次のようになっている。
父よ、私たちは今、み子、主イエス・キリストの死と復活、昇天を記念し、私たちを、み前に立たせ、祭司として仕えさせてくださることを感謝し、このパンと杯をささげます。私たちがあなたの聖なる賜物に預かるとき、聖霊を降し、世にあるものも世を去ったものも、すべての人を一つの体とし、聖霊を満たしてください。私たちの信仰が真理のうちに強められ、すべての聖徒とともにみ子イエス・キリストによって主を賛美し、ほめたたえることができますように。
ここでの「わたしたち」を司祭団と取るのか、司祭・信徒を含めた教会員と受け取るかでイメージが異なるが、死者から現在生きている信者全部、聖公会の信徒も、カトリックの信徒も、プロテスタントの各派の信徒も、正教会の信徒も、一つの体として聖霊を満たす形での聖別があるように祈っているとも理解できる。この辺、「わたしたち」とはどこまでか、ということに関して、厳密で限定的な形で意味を定義しない大人の対応をとるほうがよいとは思うが、神の被造物である人間社会いや被造物世界の中での神と被造物の和解を取り持つ祭司性を持った存在として生きる招き、とも受け取ることができるようにも思う。
ところで、何のために聖餐があるのかということを聖公会の式文から考えてみると、「私たちを、み前に立たせ、祭司として仕えさせてくださることを感謝し」といったあたりにあるのだろうと思う。結局神の民となるために、神の民として一つとなることができるよう、そして、神に仕え、地を適切にケアするという本来の神と人との姿を回復し、その中で神への栄光を帰していくところにあるのだろうと思う。それを考えると、キリスト者が神に仕えるもの、また、祭司として聖別されるために聖餐があるのかもしれない。
それに対応する2019年のthe Anglican Church in North AmericaのCommon Prayer bookでは次のようになっている。
Sanctify them by your Word and Holy Spirit to be for your people the Body and Blood of your Son Jesus Christ. Sanctify us also, that we may worthily receive this holy Sacrament, and be made one body with him, that he may dwell in us and we in him. In the fullness of time, put all things in subjection under your Christ, and bring us with all your saints into the joy of your heavenly kingdom, where we shall see our Lord face to face. All this we ask through your Son Jesus Christ: By him, and with him, and in him, in the unity of the Holy Spirit, all honor and glory is yours, Almighty Father, now and for ever. Amen.
https://bcp2019.anglicanchurch.net/wp-content/uploads/2019/08/BCP2019.pdf
個人訳してみるとすると、
これらのものを(パンとぶどう酒)をあなたの御言葉と聖霊によりきよめ、あなたの民のために与えられたみ子イエスキリストの体と血としてください。また、われらも、この聖なるサクラメントを受け取るに値するようきよめ、キリストにあって一つの体となり、キリストがわれらのうちに住み、またわれらがキリストのうちに住むことができるようにしてください。そして、時が満ちたとき、すべてのものをあなたの救い主キリストに服させ、あなたの天の王国で顔と顔を合わせてあなたを見るその時が実現するとき、すべての聖徒とともにの喜びの中に我々を導いてください。これらすべてのことをあなたのみ子、イエスキリストによって求めます。キリストによって、キリストともに、キリストの中にあって、聖霊とともに万能の父にすべての衛陶と誉とが永遠にありますように。アーメン
このあたりの式文を見ていると、私たちがきよめられるためにイエスキリストが必要で、そのキリストを受け取るものであることを覚え、キリストが内在していることを覚えるとともに、将来神の国において、神と顔と顔を合わせて礼拝するためのものであることを覚えるものとして聖餐を見ていることがわかる。何より、聖餐を受け取るキリスト者もすべて聖別されることを求めていることが印象深い。この式文を見る限り、聖餐とは、我々が聖なるものとされるために必要なことなのではないか、と思うのである。
神の神秘としての聖餐
先に過去、聖餐式の聖性とかは魔術的とか思っていたことを述べたが、聖餐とそれにまつわるもろもろは、魔術ではなく神秘なのだろうと思うようにはなった。我々には理解不能な神の霊の世界なのかもしれない、と思う。いかに聖公会の聖餐の実際のスタイルの例の一つ(実際は教区の伝統により、教会の伝統により多様であり、これは例の一つにすぎない)を挙げておいたが、こういう所作付きで聖別するのである。カトリックも割と似たような所作で行われていると認識している。正教会さんの聖別は、イコノスタシス(イコンが並んだ衝立)の後ろで行われる。それは神秘の過程なので、そもそも理解不能であるという立ち位置からかもしれない。具体的にどういう所作で、それが何を象徴しているかは、神秘の世界に属するので、理性で理解するものではないのかもしれない。
実際の聖餐の姿
以下でも紹介しておいたが、シュメーマンという正教会の方が書かれた、近代化社会を目指した帝政ロシア末期の時代の影響を受け、西方教会の象徴理解、合理主義的な理解の影響が入る前の正教会の本来の伝統に回帰しながら、正教会的、あるいは古代教会における聖餐論を考えた『ユーカリスト』という書籍があるが、聖餐がいかに大事なものとして、古代教父時代の教会以来、東方教会、正教会系の教会群でとても大事にされてきたかは、以下の『ユーカリスト』という本をお読みになられるとよろしいか、と思う。もちろん、カトリックや聖公会でも大事にされてきてはいるが、だいぶん味わいが違うことが、このシュメーマンの『ユーカリスト』を読むと理解される。
詳しい議論は、シュメーマンの『ユーカリスト』やその他の聖餐論の本に譲るが、聖餐に預かるということは、どうも言葉や論理という人間の側の世界の支配的言語や思想を超えたところにあるように思う。それは個人の救いや、キリストの死と復活と現在も生きておられること、あるいはキリストの臨在、聖霊の信徒への臨在が神秘であるように、神秘の世界に属することなのだとも思う。
神秘は神秘なので、それを人間の限られた合理性などや、言語能力で表現可能であるという思い上がった考え方の方こそがおかしいのかもしれない。
個人の聖化と聖餐
さて、パンとぶどう酒の聖変化、聖成、聖化、何と呼ぼうが構わないが、その理由とメカニズムはよくわからないことは確かであるが、神の神秘により起きるということに仮にしておくこととして、それでは、個人の聖変化はいかにして起きるのか、ということであるかを少し考え、本日のところのについて思うところを閉じることにしたい。
個人の聖変化も神秘であるが、おそらくそれは、人を介した福音(あるいは聖なるもの)という聖性(サクラメンタル、聖なるものに触れるためのよすが)に触れることによって起きるのだと思う。それは、福音書という使徒という人々を介した書かれたものに触れることかもしれない。あるいは、12年間病気を抱えていた女性にとってはイエスという聖性そのものではなく、その聖性が触れた外套の房というサクラメンタルに触れることであったかもしれない。あるいは、イエスが地上を去ったあと、パウロとシラスが収容されていた収容施設の管理者は、パウロとシラスのうちに内在した神がいかなる時でも共におられる核心による平安をパウロとシラスが持っていたサクラメンタルに触れることであったかもしれない。文字が読めない古代人や古代ゲルマンの民、文字を持たなかった古代スラブ民族にあっては、イコンそのものがサクラメンタルであったし、その地にそれらのものを持って赴いた司祭かつ宣教師司祭たち、あるいは聖人たちそのものがサクラメンタルであった。聖なるもののよすがを示す人物や物事は、サクラメントそのものではないが、聖なるものの反映、反射に過ぎない。しかし、その反射であっても、神の支配と臨在とその到来を指し示すのである。
あるいは、多くの人が文字が読めるようになった現代では、ギデオン聖書協会が絶賛配布中の聖書かもしれないし、ミッションスクールで配布される(あるいは購入させられる)聖書かもしれない。あるいはミッションスクールでのキリスト教概論とか、キリスト教入門講座かもしれない。あるいは、無名のキリスト者がこの地において存在していることそのものかもしれない。その無名のキリスト者が、キリスト教を布教しよう、伝道しようなどという大それた意図もなく、何気なく語った一言、にっこり笑う笑顔、日常人々と出会う中での丁寧なあいさつ、そういったことが、サクラメンタルになるかもしれない。何がサクラメンタルなのかは、人によってそれぞれであるが、そのサクラメンタルによって、多くの人々が非常に広い聖なるものとされる物語、聖化の物語、完全なる聖性に向かっての歩み、すなわち、聖化の物語に招かれているのだろうと思う。
聖化とは、バブテスマを受けたときに起きるものではなく、バプテスマを受けて以降、この地上の人生のドラマを去るときまでのプロセスで起き続けるものであると思う。たとえ、鼻で息するものとしての悪臭を振りまきながらも、キリストを内在させるものとして、すなわちサクラメンタルとしての性のプロセス、途上にあることを覚える意味での聖餐なのであって、『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』を読んでみた(19) でのご紹介の際でローワンウィリアムズ先輩がお書きになれれたように、我々キリスト者が、聖餐を拝領するのは、
到着したからではなく、旅の途中だからです。私達が正しいからではなく、混乱し間違っているから、神聖ではなく人間であるから、満腹しているからではなく、飢えているからです。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』 p.81)
である点は、聖化という側面と合わせて、考える必要があるようにも思うのだが。まぁ、一部のきよめ派やペンテコステ系での聖化大会を行う教派では、聖餐式をあまりしないため、聖書を読むこと、聖書の講演会、賛美歌付き後援会が聖餐式の代わりと考えられていたり、受け止められていたりするので、聖書の勉強会、聖書講演会がサクラメンタルに触れる機会として必要であり、それゆえ、そういうスタイルでの聖化大会が行われるのであろう。その意味では、賛美歌付き聖書講演会もサクラメンタルに触れる機会ではあるので、意味がないわけでもないが、個人的には、牧師が使徒継承権を有し、牧師しかできないことがあるというのであれば、面倒で時間がかかるかもしれないが、賛美歌大会付き聖書講演会ではなく、聖餐式付き聖書講演会にした方が、よほど、使徒継承権の発揮につながるとは思うのだが、それは聖餐マニアゆえの思いかもしれない。
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主の祈りについて
もともと、主の祈りをあまり祈らない教派(聖書の字義通り解釈の結果、「みくにが来ますように」という主の祈りの部分が「終末が来ますように」という祈りとも理解可能であるという要素があるためと思われるという理由と、いかに主の祈りといえども、固定化された祈りであるので良しとされていなかったこともあり、そのキリスト者集団では主の祈りはほとんど祈られなかった)にいたのだが、伝統教派の聖餐式に参加させてもらうようになって、毎回毎回の聖餐の前に主の祈りを声に出して祈るようになったとき、かなり変わったことがいくつかある。それの中で最も大きかったのは、主の祈りの中で、
Forgive us our trespasses,
as we forgive those who tresspass against us.
という部分である。日本語では、
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
という部分である。
この部分を唱えながら、罪とは、本来の主権者である神の主権の侵害(Trespass)することであるということが、よく理解できたのである。
アメリカでは敷地に以下に示す図のようなおっかない看板がかかっているところがある。銃器を所有する人間が所有する土地であるから、勝手に不法侵入するな、という警告文の看板である。実際に、許可なく敷地に入ると、銃をぶっ放されることがアメリカでは普通に発生する。もちろん、交戦警告という意味を持つ上空への警告射撃をしたうえで、というお約束であるが、中には、危険を感じた場合には、警告射撃なしの場合もある。もう10年以上前になるが、ハロウィーンの時に日本人留学生が不法侵入だと思われて、アメリカ人に射殺された事件があったのである。所有者の許可無く勝手に他人の敷地に入ったら、番犬どころか銃弾が飛んでくるのがアメリカなのである。
警告 敷地所有者は合法的な重機所有者である。不法侵入するな。という看板
https://www.amazon.co.jp/dp/B07LB17CRQ より
以下に示している映画グラントリノは、ある面でキリスト教的なメタファーに満ちた映画であるが、監督兼主演であるクリント・イーストウッドの自動車愛があふれた映画でもある。半分自動車が主役みたいな映画でもあるのだが、孤立して性格がひずんでいる元米軍人で、その後フォードで自動車組立工であった一応カトリックと思われる東欧系のアメリカ人の老人の物語であるのだが、その映画本体の中に、自宅の門前で騒ぐアジア系移民の若者に向けて、「お前らみたいな連中を朝鮮半島で殺してきたから、ここでお前ら殺すことには躊躇しないが、わしの庭の芝生から出ていけ」というシーンがある。以下の動画の1分くらいのところである。一応、この場合は、上空への威嚇射撃による警告ではなく、言葉で警告しているが、時々アメリカには警告なしにぶっ放す人が結構多いのが困るところではある。
本来、神の主権の侵害をすると、雷に打たれたり、病気になったり、地面が割れてそこに吸い込まれたりしても仕方がないことなのだろうとは思う。一応、そのための事前警告としての律法と預言者、そして祭司職がイスラエルの民には与えられたのではあるが。
映画Gran Trinoの予告編 1分くらいのところに家の前の芝生で騒ぐアジア系の若者にライフル銃を向ける部分がある
余談はさておき、聖餐式と主の祈りの関係についてのローワン・ウィリアムズ先輩のお書きになられた部分をご紹介したい。
聖餐式では、聖霊の働きを呼び起こし、祝うのです。あの中心的な瞬間、パンとぶどう酒を受け取る直前に、私達はイエスの祈りを祈ります。『私たちの父よ…』といいます ーそれは、崇高で意義深い瞬間であり、祭壇に出向く前にボソボソとつぶやくような祈りではありません。それは礼拝というドラマがクライマックスへ移行する一つの過程なのです。イエスの祈りを祈るとき、聖霊は私たちのうちに宿り、働きかけます。礼拝する中で、聖霊がイエスのことばを私たちのうちに語りかけていることを確認します。イエスが祈ったように、「アッバ、父よ」と。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』 p.84)
ここで、ローワン・ウィリアムズ先輩は、またまた、しびれる表現を使って居られる。「それは礼拝というドラマがクライマックスへ移行する一つの過程なのです」ということは、本当にそのとおりだと思う。まず、礼拝はドラマであるという指摘は非常に印象深い。
ドラマとしての聖餐式
個人的には、カトリックの宇治の黙想の家での朝のミサ(聖餐式)に何度か見学させてもらったことがあるが、これは非常に美しかった。3人の司祭、助祭、輔祭がそれぞれの役割を果たしながら、三位一体を示していたのであり、その所作の一つ一つにキリストの福音というドラマが礼拝の形として象徴されていることがわかった。そして、罪の告白、黙想、聖書朗読があり、神への賛美と祈りがあり、平和の挨拶があり、パンとぶどう酒が聖別され、そして聖餐という伝統教派が維持してきたスタイルで礼拝が行われ、そして、イエスの死と復活、そして今もここにいるというドラマが聖餐でクライマックスに達する前に、主の祈りが唱えられるのである。まさに、これまでの礼拝を縮約したかのような「主の祈り」を全員が唱えるのである。
主の祈りの祈られ方は、グレゴリオ聖歌や、正教会の聖歌、あるいは、ワーシップソングのようなものかもしれない。その言語もスタイルは多様でありながら、共通するのは、主の祈りそのものであるところである。以下のように。
ヨハネ・パウロ2世による主の祈り
賛美ミサの際の主の祈り
近代風の主の祈り
英語による正教会の主の祈り
ロシア正教会のロシア語による主の祈り
Hillsongグループによる主の祈り
スワヒリ語による主の祈り
ペルシャ語による主の祈り
アラビア語による主の祈り
コプト教会の主の祈り
広東語による主の祈り
タガログ語による主の祈り
マオリ語による現代風の主の祈り
このように言語も文化も、節回しも、賛美歌の曲も違う主の祈りであるが、時代も民族も超えてキリスト者の多くの人々が伝統的に大事にしてきたのは、主の祈りであることには違いはない。主の祈りとは、かくも重要で大事にされてきたキリスト教にとっての遺産なのである。
礼拝と聖霊
先にも少し述べたが、クェーカーの影響を強く受けた福音派的なキリスト者集団で育ったので、礼拝に式文などなく、定型化されてない祈りが教会の中でなされる教会で30年近くを過ごした。その中で、「導かれた」信徒が祈る、あるいは聖書朗読をするという暗黙のルールがある、きわめて「聖霊の働き」と呼ばれる要素を重視する教会で長く過ごした。その後諸般の事情で、今のアングリカンの出島の外人部落に定着し、式文による毎回ほぼ同じ祈祷文で祈るようになったが、その中で式文の中でも、聖書の言葉、イエスのことばから結晶化され、成文化された祈祷書の祈祷の中に響いていることを感じるようになった。
まさに、ローワン・ウィリアムズ先輩が、「礼拝する中で、聖霊がイエスのことばを私たちのうちに語りかけていることを確認します」という経験を日々している。もちろん、導かれた信徒が祈るタイプのアドリブ的な祈り、即興の祈り、アドリブの祈りにはそれなりの強さというのか、勢いのようなものが感じられることも少なくないのだが、静かに毎度毎度同じ祈りを聞きながら、毎回違ったイメージを持つのは何なのだろうか、と思うが、それが聖霊の働きの結果だと思うのである。
そして、定められた祈祷書のことばの奥にある聖書のことばがなんとも形容もし難い自分自身のうちにある神への叫びというか、神への思いというか、神への賛美というか、神への祈りにシンクロしていくという経験をするようになった。神秘主義者といわれても仕方がないのかもしれない。しかし、おそらく、その経験は、「聖霊がイエスのことばを私たちのうちに語りかけて」いるということであろうし、言ひ難き歎のような神の語りかけが聖霊を通して、礼拝の中で信徒に作用し、礼拝として信徒の集団により捧げられる祈りとなり、神に賛美と栄光帰されることになるということなのだろうと思われる。
まさに、パウロが、「斯くのごとく御靈も我らの弱を助けたまふ。我らは如何に祈るべきかを知らざれども、御靈みづから言ひ難き歎をもて執成し給ふ。(文語訳聖書ロマ書8章26節)」と書く如くではある。
次回へと続く
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教もまた、タラタラと、ローワン・ウィリアムズ先輩のおかきになられたものを読みながら書いていきたい。
教会のフォーカルポイントイベントとしての聖餐式
フォーカル・ポイントという概念がある。あるいはその概念の提唱者に敬意を評してシェリングポイントとも呼ばれる。特に明確な合意がなくても、その辺だろうと思う場所や時間のことである。たとえば、東京駅で明日午後2時にとか言えば、東京駅の銀の鈴の辺りで午後2時に集まることを想定するだろう。渋谷で、と言えば、ハチ公前、梅田でと言えば、ビッグマン前ということになる。
東京駅の銀の鈴
https://news.mynavi.jp/article/20150918-a282/
ハチ公前
https://www.shibuyabunka.com/blog.php?id=1157
梅田のビッグマン前
https://osaka-info.jp/page/umeda-bigman
その意味でいうと、本来教会のフォーカルポイントとなる出来事は、聖餐式であろう。なぜかというと、これまで説明してきたように聖餐は、系図なき大祭司のメルキゼデクがアブラハムにパンとぶどう酒を差し出した出来事、出エジプトの過ぎ越しの夜の出来事、その後行われてきた過ぎ越しの祭のパン、イエスの最後の晩餐、十字架の死、復活、復活の朝、イエスが弟子たちに差し出したパン、エマオのと上で出会った弟子たちの聖餐、その後、延々とキリスト教会で続けられてきた聖餐(それが宗教改革時代に、みことばの聖餐としての説教に転換するのであるが)につながっており、まさに教会にとってのフォーカルポイントとしてのイベントなのである。
そのあたりのことについて、ローワン・ウィリアムズ先輩は次のように書く。
聖餐式は、福音の物語全体が私達の内側で再現される習わしです。以前、聖書について考えたとき、私達は遠い過去の聖書の登場人物を家族の一員として認識するという話をしたのを覚えているでしょうか、このことは聖餐式では非常に直接的であり、また非常に身体的な実感のあるものです。私達は同じ家族の一員であり、今ここで、同じ食卓を囲む客人でもあります。イエスが歓迎することによって共同体が作り上げられていることを体験し、しかし同時に、私達は族長たちや使徒たちのように、忘れっぽくって、裏切り者で、逃げ去る人々でもあります。私達は死の中でも、裏切りや見放し、否認の中でも、再び共同体の創造を経験するために、復活の日に呼び戻され、あたらに招かれた存在です。そして、私達は今、聖餐を受けるときに、地の面を新しくするように使命を与えられている存在なのです。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』 p82)
今回の引用部分で、まず、印象的であったのは、「聖餐式は、福音の物語全体が私達の内側で再現される習わしです」という部分である。聖餐式は、先にも述べたように、メルキゼデクから、パンとぶどう酒を受け取った故事、出エジプトの故事、最後の晩餐の故事、エマオの途上で起きた故事、そして、パウロがそこの信者を問い詰めたコリントでの故事、その聖書の編集が終わった後、教会で様々起きた故事、すべての福音の物語全体が、パンとぶどう酒を受け取る瞬間に重なり重層的に再現されているのである。聖餐に預かるのは、その場にいる人々だけかもしれないが、それは世界中の各地の教会、世界の様々な言語で実施されている聖餐式がそこに重なるという構造を持っているように思う。神の前に人が集まり、頭を垂れ、キリストの代理としての司祭や牧師から、「これは私の体である」と言われ弟子たちに手渡された最後の晩餐のシーンの再現を通して、参加者一人一人のなかで福音の物語を再現する中で、聖書全体が主張する「神がこの地に来た、そして、神が人とともに生きようとされて居られる」という福音の物語を再現し、パンとぶどう酒を受け取ることで、「すべての人の中において神がその人ともに居られる」という福音の物語の全体像が再現され、そして、聖餐式から祝祷を受け、この世界に神の言葉、福音を内在させたものとして、いわゆる大派遣命令の再現として派遣されていくという構造を持っているはずであると思うのである。無論、「みことばの聖餐」でも、もちろん、説教を聞くことで、神がこの世界に来たという福音の物語の再現にはなっているとは思うが、どうしても、その一部に限られているようにも思うのだが、そのへんは多くのキリスト者の意識は、どうなのだろうかとも思う。牧師先生から、「よい聖書の話をお聞きした」となっていないだろうか。精一杯、語る牧師は聖書全体から伝えようとするものの、限られた時間で旧約聖書から、福音書、使徒書という聖書全体と、その後書き続けられてきた聖徒の諸歴史を含めた福音の物語の全体像を重ねることには限界があるようにも思う。しかし、パンとぶどう酒という物体と儀式に象徴しておくことで、旧約聖書から新約聖書、そして新約聖書を超えてなされてきた「神の言葉がこの地に来た」という記憶を重ねることができるようには思うのである。その意味で、聖餐は極めて重要だと思うのである。
Focal Pointとしての聖餐での聖別
聖餐に招かれる意味
今いるチャペルで、聖餐の際に、Comeと呼ばれることがある。あるいは、Draw near with faithと聖餐の場に呼ばれることがある。あの言葉を聞くたびに、司祭が招いているようにも聞こえるが、神の代役として、ある種の役者として、イエスの代理として司祭がこの聖餐の場に招いているという印象がある。
そのことを、「私達は死の中でも、裏切りや見放し、否認の中でも、再び共同体の創造を経験するために、復活の日に呼び戻され、あたらに招かれた存在です」という部分を読みながら思ったのである。アブラハムが、サラは親戚だといいはり、モーセが、神からもらった契約の板をぶち壊し、ペテロは、イエスを知らないといい、トマスは自分の指をイエスの傷に差し込むまでイエスの復活を信じないと否認をしても、それでも、神のもとに招かれており、イエスの復活のイースターの日に戻されると同時に、将来起こる我々の復活の日に、神とともに、イエスとともに、神の国での祝祭の場である聖餐が象徴してきたその場に参加するように招かれたことを思い出す機会になっているように思われる。
どうしても、人間は過去ばかり、自分が知っていることに引きずられる部分があるが、聖餐が象徴しているのは、将来の我々の復活したあとの髪の最終的な目的、人と神の関係が完全に修復され、関係が回復されたことを祝う祝宴、まさにシンポジオン(シンポジウムの語源)への招きなのではないか、と思う。
札幌市で開かれたらしい冬季オリンピックのシンポジウム
https://en.wikipedia.org/wiki/Symposium#/media/File:Symposium_scene_Nicias_Painter_MAN.jpg
そうであるからこそ、イエスのたとえ話の中には、飲み食いの話が出てくるし、コリントの一部の人々も、聖餐式を飲み食いのことと誤解したように思うのである。だから、パウロから、以下のように怒られているが。
なんぢら一處に集るとき、主の晩餐を食すること能はず。食する時おのおの人に先だちて己の晩餐を食するにより、饑うる者あり、醉ひ飽ける者あればなり。汝ら飮食すべき家なきか、神の教會を輕んじ、また乏しき者を辱しめんとするか、我なにを言ふべきか、汝らを譽むべきか、之に就きては譽めぬなり。
(中略)
されば宣しきに適はずして主のパンを食し、主の酒杯を飮む者は、主の體と血とを犯すなり。人みづから省みて後、そのパンを食し、その酒杯を飮むべし。御體を辨へずして飮食する者は、その飮食によりて自ら審判を招くべければなり。この故に汝等のうちに弱きもの病めるもの多くあり、また眠に就きたる者も少からず。我等もし自ら己を辨へなば審かるる事なからん。されど審かるる事のあるは、我らを世の人とともに罪に定めじとて、主の懲しめ給ふなり。この故に、わが兄弟よ、食せんとて集るときは互に待ち合せよ。もし飢うる者あらば、汝らの集會の審判を招くこと無からん爲に、己が家にて食すべし。その他のことは我いたらん時これを定めん。(文語訳聖書 コリント人への前の書 11章18節ー34節)
聖餐後に祝祷を受け、我々は、この世界に神の言葉を伝え、我が身をもって実現すべく派遣されていくのであるが、そのあたりのことを、ローワン・ウィリアムズ先輩は、「私達は今、聖餐を受けるときに、地の面を新しくするように使命を与えられている存在なのです」と表現されて居られるように思う。
この概念は、非常に大事であると思う。福音派の一部では、第2ペテロ3章の「天地」が焼け滅ぶという以下のような記述
されど主の日は盜人のごとく來らん、その日には天とどろきて去り、もろもろの天體は燒け崩れ、地とその中にある工とは燒け盡きん。かく此等のものはみな崩るべければ、汝等いかに潔き行状と敬虔とをもて、神の日の來るを待ち之を速かにせんことを勉むべきにあらずや、その日には天燃え崩れ、もろもろの天體燒け溶けん。されど我らは神の約束によりて、義の住むところの新しき天と新しき地とを待つ。(文語訳聖書 ペテロの後の書 11章18節ー34節)
やヨハネ黙示録21章の記述
我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。(文語訳聖書 ヨハネの黙示録 21章1節)
を根拠に、現在の天地が燃え尽くされるという字義通り解釈による理解をお持ちの方々もおられる。まぁ、その理解はその理解で良いかもしれないが、だからといって、この地の適切なケアの任務を与えられたアダムの末裔として、デタラメにこの地を陵辱したり、破壊したり、自分のいいようにしていいというわけではないように思う。神との関係が回復され、修復されたものであるからこそ、本来の神と人との関係が回復せられたものとして、この地にイエスが与えようとする神の約束、神の思いで地を満たし、地の面を新しくするような生に、キリスト者一人ひとりが招かれているのではないか、と思う。まぁ、ひとりひとりの信者は、有名人であれ、セレブであれ、無名人であれ、そのできるところは限られているのではあるが。
次回へと続く。
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本日もひたすらタラタラと、ローワン・ウィリアムズ先輩の『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』から、印象的な部分を拾いながら、思うところを述べてみたい。
聖餐に預かる理由
クリスチャンになったら、もう完全だ、という理解がある。福音派風のキリスト者集団にいた頃は、とにかく、聖書と、その解説のことばでとにかく説得して、「私はイエス・キリストを個人的な救い主として受け入れる」と言わせ、バプテスマを受けさせたら、クリスチャンのいっちょ上がり、みたいな感覚でいた。同じような話を他の福音派の牧師先生から、直接お聞きしたことがあり、そのような教会のあり方や、現状の教会の姿やその理解にイライラしつつ、ものすごいフラストレーションが溜まっておられる牧師先生のお言葉を聞いたことがある。バプテスマ受けさせたら、それで、もう完成、完璧で敬虔なクリスチャンのでき上がり、とかいう理解は、本当にそれでよいのだろうか、とは思う。
しかし、ローワン・ウィリアムズ先輩がおかきになられた、聖餐がなぜ必要なのか、なぜ、キリスト者が聖餐に預かるのか、いや聖餐にキリスト者が預かるべきなのか、という理由を見ていると、キリスト者にはそれが必要だから、ということがよく分かる。
聖餐に預かるのは、私たちの行いが良いからからではなく、うまくいっていないからです。到着したからではなく、旅の途中だからです。私達が正しいからではなく、混乱し間違っているから、神聖ではなく人間であるから、満腹しているからではなく、飢えているからです。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』 p.81)
上記の引用の記述で、一番しびれたのは、聖餐は、我々が「うまくいっていないから」「旅の途中だから」聖餐が必要である、という指摘である。一見、世間的にうまく言っているように見えたり、自分自身で自分自身の生活が「うまくいっている」と思うことは少なくない。特に問題もなく、誰かから変なことを言われることもなく、誰かから悪霊に憑かれていると言われることもなく、食するに困ることもなく、夜枕するところがあり、という生活を送っているとしても、実は、聖餐を必要とするのである。聖書には、畑が豊作であったため、蔵を立てようとした金持ちの話がルカによる福音書12章に出てくる。実に印象的なたとえ話である。
また譬を語りて言ひ給ふ『ある富める人、その畑豐に實りたれば、心の中に議りて言ふ「われ如何にせん、我が作物を藏めおく處なし」遂に言ふ「われ斯く爲さん、わが倉を毀ち、更に大なるものを建てて、其處にわが穀物および善き物をことごとく藏めん。かくてわが靈魂に言はん、靈魂よ、多年を過すに足る多くの善き物を貯へたれば、安んぜよ、飮食せよ、樂しめよ」然るに神かれに「愚なる者よ、今宵なんぢの靈魂とらるべし、さらば汝の備へたる物は、誰がものとなるべきぞ」と言ひ給へり。己のために財を貯へ、神に對して富まぬ者は斯くのごとし』ルカ傅福音書12章16から21節
我らは鼻で息するもの、神に息吹を、神からの風、神の霊を継続的に吹き込まれねば、生きたものにならない人間であるのであり、例え、多少の富を有するとしてもその富とするところすら、放蕩する神からすれば、ゴミ同然、靴の裏につく土埃同然に過ぎないものである。ビル・ゲイツがいくら金持ちでも、アマゾンのベソスがいくら金持ちでも、あるいはテスラのイーロン・マスクがいくら金持ちでも、神の前には、所詮人間にとってのウィルスサイズなのであり、そもそも、神の存在を保ち得ない人間にとっては、定期的に神の臨在を求め、神の臨在を求めている姿勢を示す聖餐が必要なのではないか、と思うのである。
教会は旅の仲間の集結点かも
ところで、個人的には、ロード・オブ・ザ・リングの『旅の仲間』が一番好きな部分が多い。もちろん、冒険物語も面白いのだが、ロード・オブ・ザ・リングの中で、一番ほのぼのしたシーンが多いのも、この『指輪物語』の最初の部分である。
ロード・オブ・ザ・リングの予告編
The Simpsonsのロード・オブ・ザ・リング、ホビットへのオマージュ
ロード・オブ・ザ・リングでは、結構食事シーンが出てくる。また、ホビットやエルフ、ドワーフやレンジャーなどの旅の仲間は、いろいろな事情で分離するが、また所々で再集結する話が出てくる。あの『指輪物語』で描かれている様々な出来事を思い出すと、すぐに怯え、すぐに隠れようとする小心者の不甲斐ないホビット共が、右往左往しながら様々な事柄が展開する物語である。あの物語の中のホビットは、まさに、キリスト者のようである。弱きものであるからこそ、ときに集い、時に食事をし、時に旅の途中の困難な旅程の中で、レンバス(ランバス)と呼ばれる神秘の食物(まるで、聖餐式のパン、ウェハース、ホスティア)を食することで勇気づけられ、そしてまた歩み始めるのである。
二つの塔で炎の山に向かう途中でレンバス(ランバス)を食するサムくんとフロド
カトリックのJ.R.R.トールキンは、C.S.ルイスをキリスト者になるよう熱心に勧めた熱心なキリスト者ではあったというのは、15年くらい前にC.S.ルイスの生涯を少し調査した時に少し知った。昔40年ほど前に、瀬田貞二訳の文庫版の指輪物語を貪るように読んだときには、そう思わなかったが、あれは、実にキリスト教的な物語だなぁ、と思うようになった。そして、『指輪物語』は、実にキリスト教の象徴に満ちている事に気がついた。それが、象徴の世界に生きる、と言うことでもあるのであろう。
キリスト者は、ロード・オブ・ザ・リングスの登場人物宜しく、日々、別々の世俗の日々を過ごし、それぞれ異なった挑戦と困難(それは大きかったり、時に重たかったり、時にそれほど出ないこともあるが)な道や、時に判断に悩む日々の生活を歩む。一般人として。そして、小さなことに驚き、右往左往する。まるでホビットが過ごした旅の日々のような旅を日常的に続けている存在であるように思う。そして、時に、仲間が集まり、レンバスをともに食し、力を得て、そして、右往左往する珍道中のような、この世界での日々を続けるのであろう。
なんのための祝祷か?
そのために、教会で司祭は、
Let us go in peace
to love and serve the Lord,
主を愛し、主に仕えるために平安のうちにこの場から平和のうちにこの世界に派遣してください
と言って、教会から、送り出してくれるのである。
多くの福音派の教会でも、この祝祷は牧師により行われているが、この祝祷は、「この一週間が神によって守られ、祝福され、平安があるように」と思っているキリスト者は少なくないように思われるが、それは、どうも違うみたいなのである。強調点は、後半の部分 to love and serve the Lord(主を愛し、主に仕えるために)にあるように思うのだ。主を愛し、主に仕える、そのために平安のうちにこの世界の神が求める場所、人々のところに派遣されているはずなのに、あぁ、それなのに、『「自分たちにいいことがあるように」と牧師が祈ってくれていると思いこんでいるキリスト者がいかに多いことでしょう』と、「チコちゃんに叱られる」に出てくる森田アナウンサーのナレーションのように思ってしまう。
次回へと続く。
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本日も、ローワン・ウィリアムズ先輩の名著『キリスト者として生きる』を読みながら思ったことをたらたらと述べてみたい。
聖餐に集う多様な人々
オープン聖餐とか、フリー聖餐とかいうことが時々話題になるが、具体的なパンとぶどう酒をまだバプテスマを受けていない参加者に与えるかどうかは別として、神がすべての人をご自身との関係の回復に招いて居られるという意味においては、究極的には、すべての人が究極的には聖餐に参加されることを望んで居られるような気がする。もちろん、聖餐はサクラメント、聖なる儀式であることから、誰彼なくパンとぶどう酒を与えて良いとは思っていない。ある面、かつての正教会のように、聖餐式が始める直前に『啓蒙者いでよ』と、正教会の洗礼を受けいる関係者以外を追い出す必要もないとは思う。なお、正教会さんでは、今は正教会のバプテスマを受けていない人々を追い出されることはない。そのへんは、まぁ、聖餐に与ろうとするものが自主的な判断により、パンをくれろ、ということを自粛するのが、適切なのではないか、とは思っている。
聖餐は事物、また人間への見方を変えます。それは私たちの世界の見方を変え、先に示唆していたように、たがいに対する見方も変えます(隣人を神の招待客としてみるようになるにつれてです)。信徒が困っている人たちに示したい歓迎の念は、聖餐を通して強められ、保たれます。また、他のキリスト者を見まわし、彼ら、彼女らも招かれているということを真剣に受け止めなければなりません。聖餐の中で最も変化をもたらす、驚くべきことの一つは、あなたの隣にいる人を神が求めていると認めざるを得ないということです。 (『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』p.78)
しかし、聖餐がいかに聖なる儀式、サクラメントであったとしても、その参与に関して身分の差も、年齢の差も、民族的背景の差も、所得の差も、性別の差も、どういう生き方をしているのかの差も、どのような自己認識を持っているかも関係なく、教会が人々を招いているのではなく、教会が礼拝への参与者を勝手に決めて良いとはならないのではないか、とは思う。その意味で、以下のThe United Church of ChristのテレビCMは重要だと思うのだが、現実には、教会内の安定を求めて、「すべての人を歓迎しています」とは言いつつも、『その教会の基準に合う』という条件付きで、すべての人を歓迎しています、ということになっている教会群が多いような気がする。まぁ、多様な教会群が現実には形成されており、高速移動手段が利用できるような都会では、個人の趣味に合う教会を、信徒が選択できる、あるいは教会ショッピングができるようになっている以上、こうなるのは仕方がないのかもしれないが、それはどこか違うのではないかなぁ、ということを改めて上のローワン・ウィリアムズ先輩のおかきになられた部分を読みながら、思った。
アメリカのThe United Church of ChristのBouncerと呼ばれるCM
イエスの直接の弟子たちには、元売春婦、病人、元重篤な皮膚病患者、元暴力団まがいの反社会的行為者、元高利貸し、元精神病患者、元障害者、元新左翼の活動家のような人々、元漁師といった雑多な人々からなっていたのであり、更にイエスを取り巻く人々には、騒ぎまくる子供、ホームレスまがいの人々が大量にいたのである。
それを考えると、現代社会の中の教会に集まる人々も本来的にはイエスを取り巻いていたような雑多な人々で形成されているはずで、ということを考えると、「あの人が教会に行くなんて考えられない」と人々から言われるような人も、神が招かれているのではないか、とは思うのである。
聖餐を介した共同体
個人的には、建物ではない教会は、聖餐共同体であり、それ以外ではありえないくらいには思っているが、実際には説教共同体だったり、賛美共同体だったりする面もあるようであるが、何よりも、教会とは聖餐共同体であってほしいとは思っている。その聖餐共同体としての特徴について、ローワン・ウィリアムズ先輩は、次のように書く。
周りのキリスト者を見るときに、「この人は神を説得して、愛してもらおうとしている(けれどもうまくかない)」と思うことと、「この人は神の方から共にいたいと求められている」と思うことの間に違いがあると理解することが役に立つのは確かです。聖餐はものの見方を変えます。聖餐式で受ける贈り物の一つは、新たな視点という贈り物です。おこがましく聞こえるかもしれませんが、あえて言えば、神からの視点で物事を見るという贈り物です。(同書 p.79)
現在、Zoom上で、ボンフェファーの月一回の読書会に参加させてもらっているのだが、なかなか印象深いエピソードをお伺いすることがあり、大変参考になる。今その読書会で読んでいる本も、ボンフェファーの名著『共に生きる生活』であるのであるが、時々、いかにもルター派っぽいなぁ、という記述も見るのだが、良書であると思う。その本の中に、まさにこの部分と共振するかのような表現があったのでいくつかご紹介したい。
キリスト者は、彼に御言葉を語ってくれるキリスト者を必要とする。(『共に生きる生活』 ハンディ版 p.19)
これは、教会で神の言葉を読んでくれる人や、神のことについての説教をする牧師を必要とする意味ではないとおもう。むしろ、神(あるいは聖神、聖霊なる神、聖霊)が臨在する他者として生きている信仰者とその姿を必要とする、という意味なのである。自分だけでは気が付かなかった神理解、神との共同体理解をもたらしてくれる存在としての他の信徒を必要とする、あるいは、キリストを内在させる他者のうちにいるキリストと出会うために、他のキリスト者を必要とするのである。
もともとのローワン・ウィリアムズ先輩の記述に戻るなら、「周りのキリスト者を見るときに、(中略)「この人は神の方から共にいたいと求められている」と思う」ということは重要ではないか、と思うのだ。
イエスは、聖餐のモデルとなった最後の晩餐の最後で、
われ新しき誡命を汝らに與ふ、なんぢら相愛すべし。わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし。互に相愛する事をせば、之によりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん (文語訳 ヨハネ傳福音書 13章34~35節)
とのたまっておられるのである。我々が、聖餐を共にする人々、キリスト者、過去のキリスト者、現在のキリスト者、将来のキリスト者を愛するのは、その人がどういう人であろうと、「この人は神の方から共にいたいと求められている」からではないか、と思う。神が聖餐に、最後の晩餐の場面(最後の晩餐の場面の再現の場)に招いておられるからこそ、我々は、他者である他のキリスト者を必要とするし、他のキリスト者が、個人の好き嫌いとは関係なく、存在として尊いとするし、愛する対象として必要とするのではないか、と思うのである。
ビンチ村のレオナルド君画 最後の晩餐 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Last_Supper_(Leonardo) より
イエスは相愛すべしἀγαπᾶτε ἀλλήλους といっておられるが、相愛するためには、相愛する対象を必要とするのである。その意味で、キリスト教は共同体を形成せざるを得ない構造になっているように思う。この信徒間の水平的な相互関係を重視する辺が、個人の悟り(涅槃ないしニルヴァーナの発見)を追求するそれが上座部仏教的な方法論であれ、大乗系仏教的な方法であれ、仏教系の信仰や、個人の潔斎を希求したり、地域や国家にとっての凶事の回避を希うタイプの神道とは、わけが違うように思うのである。
現在紹介しているローワン・ウィリアムズ先輩の文章は、『キリスト者として生きる』という書籍の中の聖餐に関してであるが、聖餐とはなんであるかを、サクラメントとはなんであるかについて、先に紹介したボンフェファーの中では、次のように触れられている。
一つの信仰共同体(ゲマインデ)が、この世において神の言葉と聖礼典(サクラメント)にあずかるために目に見える形であずかれるわけではない。とらわれ人、病人、散らされて孤独の中にいる人、異教の国にいる福音の宣教者などは、ただひとりでいる。彼らは、〈目に見える交じりが恵みである〉ということを知っている。(『共に生きる生活』 ハンディ版 p.14 下線部はミーちゃんはーちゃんによる)
聖餐は、一人で孤立人には経験できないことなのである。ここで、ボンフェファーが神の言葉と書いていることは、教会の中で聖書朗読が行われ、聖書に基づいた祈祷が捧げられることなはないか、と思うのである。説教そのものだけのことを指してはいないと思う。聖書朗読だけではわかりにくいから(ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語などの場合、他民族の人々にとっては異言とほぼ同様であるから、昔は読み上げられる聖書がギリシア語かラテン語(西方教会)ないしヘブライ語であったはずであるので庶民にとっては何のことかわからん異言であったという部分もあろう)解き明かしが必要であろう、という配慮の結果、聖餐の前か聖餐後に行うかどうかのタイミングの問題は別として、説教が礼拝の中に組み入れられたのだと思う。そして、宗教改革の奏で、プロテスタント教会の多くでは式文を忌避し、典礼などの象徴性と儀式性を忌避し、排除した結果、結果として説教が肥大したのである。しかし、このボンフェファーの「神の言葉と聖礼典(サクラメント)」という記述の部分を読みながら、いつもの聖餐式で祈る祈祷文(The Episcopal ChurchのCommon prayer book)の他者のために祈る次のような祈祷文を思い返していた。
Prayer for intersession
Father, we pray for your holy catholic Church;
That we all may be one.
Grant that every member of the Church may truly and humbly serve you;
That your Name may be glorified by all people.
We pray for all bishops, priests, and deacons;
That there may be faithful ministers of your Word and Sacraments.
We pray for all who govern and hold authority in the nations of the world;
That there may be justice and peace on the earth.
Give us grace to do your will and allthat we undertake;
That our works may find favor in your sight.
Have compassion on those who suffer from any grief or trouble;
That they may be delivered from their distress.
Give to the departed eternal rest;
Let light perpeptual shine upon them.
We praise you for your saints who have entered into joy;
May we also come to share in your heavenly kingdom.
中でも、聖職者や教会関係での奉仕者のために祈る部分を思い出していたのである。
We pray for all bishops, priests, and deacons;
That there may be faithful ministers of your Word and Sacraments.
訳していうなら、
我々は、すべての主教、司祭、そして助祭(輔祭・執事)のためにいのる
それは、これらの役割を担っておられる人々が、神のみ言葉と聖礼典を忠実に執行できるますように
とでもなるであろう。
この祈祷文には、牧師(Pastor)という語は含まれていないが、まぁ、司祭か助祭のうちどちらかだろう。そのためにも、ミーちゃんはーちゃんは日々祈っている。
ところで、かつて、どこぞの教会で、そこの信徒対策ではあろうが、コプト正教会の主教を捕まえて、コプト正教会の主教が日本語が直接ご理解されない(英語ないしアラビア語しか)わからないことをいいことに、そのコプト正教会の主教を含め、コプト正教会の皆様に対して聖書からメッセージを陳べ、教えを垂れたかのような放言したどこぞの極めて残念な牧師がおられたが、まぁ、上のThat there may be faithful ministers of your Word and Sacraments.と祈るときには、キリストのゆえに、キリストの愛を持って、そういう残念な放言をなさる牧師先生方を含め、上のように祈っているし、そういう残念な牧師先生のお世話を受けておられる信徒の皆様も、様々な教会の信徒の方々についてもキリスト者の仲間として、ミーちゃんはーちゃんはキリスト者のはしくれとして、
Grant that every member of the Church may truly and humbly serve you;
That your Name may be glorified by all people.
と祈ることにしている。
次回へと続く
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さて、今日もまた、ローワン・ウィリアムズ先輩の『キリスト者として生きる』から、考えて見たことを、かなり短くして、たらたらと述べてみたいと思う。知り合いから、長い(それはよく知っている)というご意見をいただいたので、今日からは、さらに短くしてみたい。
聖餐と悔い改め 聖餐は何のためか
聖餐について、聖い人たちだけが参加するという誤解をしている方々がおられるように思う。以前のミーちゃんはーちゃんも「聖くない以上聖餐には預かるべきではない」とそう思っていた。ある意味で誤解していたのである。というのは、聖餐式自体に罪の悔い改めが内包されていなかったからである。しかし、ローワン・ウィリアムズ先輩は次のように書く。
聖餐は誠実な悔い改めの必要性を思い出させてくれます ー与えられた贈り物を蔑ろにし、裏切る可能性に立ち向かう必要性を。ですから、聖餐は、キリスト教の実践においては、善い行いに対する報酬ではありません。それは、閉鎖的自己、自己陶酔、傲慢、怠惰の結果からくる飢えを防ぐために必要な食物なのです。(『キリスト者として生きる』p.80)
この中で、大事であると思ったのは、「聖餐は、(中略)善い行いに対する報酬ではありません」という部分である。日本では、「教会そのものがよい行いをする人々が集まるところである」と一般にも、またキリスト者のかなりの部分にも誤解されているが、そこに招かれているのは、善い行いをする人々ではないのである。ことに、聖餐は、悔い改めを求める必要性の象徴であるということは、重要だと思う。
プロテスタント諸派の多数の教会と、正教会系の教会、カトリック教会、聖公会とルーテル派の古い教会の一部との違いは、礼拝冒頭での罪の悔い改めが求められるかどうかだと思う。伝統的なキリスト教の教派の教会では、そのスタイルは違えども、確実に罪を悔い改め、神のもとに変えることについての何らかの行為(それは司祭のところに行って告白することであったり、礼拝参加者が全体としての告白としての罪の告白と悔い改めの必要に思いを巡らすことであったり)が行われる。
アメリカ合衆国での司祭に罪の告白をする正教徒
日本聖公会の式文の朝の礼拝の祈祷文では、以下のような祈祷が記載されている。
憐みぶかい父なる神よ、私たちは、してはならないことをし、しなければならないことをせず、思いと、言葉と、行いによって、多くの罪を犯しています。どうか罪深い私たちをお赦しください。新しい命に歩み、み心に従い、み栄えを表すことができますように、救い主イエスキリストによってお願いいたします。
ほぼ毎日、毎朝、また毎晩、こういう祈りをするのである。日本聖公会のすべてのみなさまが、この式文で日々全員祈っているかどうかは存じ上げないが、これは重要な祈りであると思う。というのは、我々は弱いからである。弱いからこそ、つい、しなければならないことをしなかったり、してはならないことをするように思うのである。最初に、この祈祷文に触れ、しなければならないことをしなかった、という祈祷を見た、自ら声を出して告白したとき、これは案外大事なことだなぁ、とは思った。してはならないことをすることが罪と理解することばかりであったからである。しなければならないことができないこと、これまた罪なのだ、と言う事実を突きつけられ、本当に左様であるという感想を持ったからである。
聖餐前の弱さの告白
日本聖公会の式文から引用しながら、聖餐が悔い改めの象徴であることを少し述べてみたい。
憐み深い主よ、私たちは自分のいさおに頼らず、ただ主の憐みを信じてみ机のもとに参りました。私たちは、み机から落ちるくずを拾うにも足りないものですが、主は変わることなく常に養ってくださいます。恵み深い主よ、どうか私たちが、御子イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み、罪ある私たちの体と魂が、キリストの尊い体と地によって清められ、私たちは常にキリストにおり、キリストは常に私たちにおられますように
と、このように祈る。「私たちは、み机から落ちるくずを拾うにも足りない」という告白にせよ、「罪ある私たちの体と魂」という表現にせよ、聖餐が、本当に自分たちの弱さや、罪の問題と直結していることがわかる。普段参加させてもらっているチャペルだと、
Lord, I am not worthy to recieve you,
but only say the word I shall be healed.
とほぼ毎回同様の内容を祈るのであるが、毎度毎度、このようなことを言うたびに、自己の罪ある性質が思い出されると同時に、その罪があっても、この聖餐をとりて食べよ、取りて飲め、と言われたイエスの御言葉において、そこに回復Healが神の言葉故にある、ということを思い出し、まさに、この聖餐は神から一方的に与えられたものであり、聖餐とは神の一方的な恵みと憐みであるということを思い起こす。
飢えと聖餐
有名な山上の説教では、飢えや貧しさを持つ人々に対して幸いであると、実に逆説的なことを述べておられる。
『幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。 (文語訳聖書マタイによる福音書5章3節から6節)
このことは、聖餐に招かれているものの性質を述べていると思われる。それを、ローワン・ウィリアムズ先輩の表現を借りるとすれば、「閉鎖的自己、自己陶酔、傲慢、怠惰の結果からくる飢えを防ぐために必要な食物」であり、であるからこそ、イエスを自身のうちに受け止めることの象徴である聖餐がその理由がどのようなものであるにせよ、必要なのだ、ということになるのであろう。
われら、鼻で息するもの、あるいは土から生まれ、土にかえるアダムの末裔の内部から生み出すべき神の義はない。神の義は、神からくるので、外からくるものである。神との関係を閉じてしまう、神に背を向ける閉鎖的自己である以上、飢えざるを得ない。また、自己陶酔し、自己を神のごときものとをするならば、イエスが言うように「しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。」(マタイ 15章18節)が実現してしまう。傲慢もまた、神の権威を認めず、自らを神と等しいものとすることであるので、本来の食物であるはずの『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』(マタイ 4章4節)となる神の言葉を必要としないことになり、飢えざるを得ない。最後に怠惰であるが、これも、神の姿を見ていないという意味では、本来の神の口から出る一つ一つの言葉を仰ぎ見ておらず、飢えることになる。
特に、近代社会において、聖書がかなりの数の言語、様々な国語で読めるようになり、各国語聖書が多数出る中で、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』から発送し、聖書を読まねばならない、という神経症的な方もおられるが、神の言葉とは、紙に印刷された聖書だけであろうか。パウロは我々の存在が、神の言葉であるべきであるということを、次のように書いているように思えてならない。
そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。(二コリント 3章3節)
その意味で、日々神のみ体の象徴であるパンとぶどう酒を聖餐式の中で受け取る中で、自らのふがいなさと罪を認識しつつも神がそこに内在されようとしていることを覚えたいものであると、今回もこの部分を読みながら改めて思った。
次回へと続く。 短くしたつもりだが長いなぁ。しょうがない。
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関係の回復の象徴としての聖餐
旧約聖書には、神との食事としての羊や山鳩など、人が食べてよいとされた様々な動物が全焼のいけにえとしてささげられた記述が多数存在する。旧約聖書の記述を見ていると、まるで、神と人がバーベキューを共にするかのような印象がある。無論、神が突然地上に現れて人と食事するのではなく、神の方は、捧げられた肉の薫りを受けられるだけであるが。
何かをともに物質的な食事をしたいと神はお考えの訳ではなく、人が神との関係を回復、人が神に語りかけ、祈り、賛美し、神に栄光を帰すことで神と人が関係を築こうとしようとする姿勢、あるいは、神のもとに帰ろうとする姿勢ををお喜びになっているのではないか、と思うのである。そのあたりのことを、サクラメンタル(聖なるものとされたものであること)との関わりで、ローワン・ウィリアムズ先輩は次のように書く。
私たちがパンとぶどう酒を通して主の前で感謝をささげるとき、私たちは ーイエスとともに、またイエスの中でー 世界と神との間に、そして人間の経験と与え主なる永遠の神との間に繋がりを築こうとします。この繋がりを通して私たちは、周りの世界を違う視点で見始めるようになります。あらゆる経験の隅々にまで当て主なる神が働いているなら、私たちが見て扱うすべてのもの、遭遇するすべての状況から、聖餐で起こっていることを真剣に受け止めることは世界の物質的秩序全体を真剣に受け止めることです。すべてをある意味で聖奠的(サクラメンタル)に見ることです。もしイエスが死の前後にパンとぶどう酒で感謝をささげるなら、もしイエスが神から最も離れたところである苦難と死をみ父から与えられ注がれるものと結びつけるなら、もしイエスがこれらを融合させるなら、私たちがどこにいても神との繋がりは可能になります。あらゆる場所、人、事物には、その内部に思いがけないサクラメンタルな深みがあり、与え主なる神に通じています。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』 pp.75-76)
ここで述べられているサクラメンタルという概念は、プロテスタント教会が発展させてきた神学的思惟や理解の中では極めて薄いことが多いように思うが、これは実は重要なことなのである。サクラメンタルとは、神と人との関係や関連の象徴、あるいは神と人との関係を象徴する対象そのものなのである。そもそも、我々が生きているこの世界は、創世記1章から6章あたりを見る限り、神が想像され、神が人に委ねられたという関係性を表しているので、本来サクラメンタルなものであるのであるはずなのである。パウロが被造物を見れば神がわかると述べたように、この世界そのものはサクラメンタルであったはずなのである。
それ神の見るべからざる永遠の能力と神性とは、造られたる物により世の創より悟りえて明かに見るべければ、彼ら言ひ遁るる術なし。 文語訳聖書 ロマ書1章20節
しかし、近代という社会の中で、人間中心の世界になってからこのかた、人間は、この世界をサクラメンタルなものとして見ることを忘れ、人間が勝手にして良いと思い込んだあたりに人間の不幸があると思うのである。
ところで、以下に紹介しておいたアレクサンドル・シュメーマンの『ユーカリスト』には、聖餐は、神と人が和解していることを形を通して示すと同時に、人が神とともに過ごし、人と人が共に過ごし、被造物全体が神への賛美を返すという正教会的な聖餐理解が非常によく描かれているが、まさに、聖餐とは神とこの世界の和解の象徴という意味で、サクラメンタルとしての現れがそこに極まる儀式なのであると言えるのではないだろうか。
その意味で、「あらゆる場所、人、事物には、その内部に思いがけないサクラメンタルな深みがあり、与え主なる神に通じています」という部分は、極めて重要であり、この地のすべての場所を想像したのも神であり、人間が作ったものですら、それは、神が与えられた知恵や知識によって、この地の資源を造って造っている以上、それは、神が与え給うたものであると考え方は非常に重要なのではないか、と思うのである。
近代の思想になれきった現代人は、人が観察可能な要素、すなわち表面的理解や表面的観察にこだわるがあまり、割と単純にモノや対象を見た目やぱっと見で割り切ってしまうところがあるが、その奥底、表面に見える事柄の奥底、その先にあることを考えることは、もう少しされてみても良いと思う。
地球環境と聖餐
さて、上で紹介した部分の直後に、次のようにローワン・ウィリアムズ先輩は書く。
そのため、多くのキリスト者は聖餐について振り返るとき、地球環境に対するキリスト教的態度がどのようなものであるかを知るようになりました。与え主なる神がすべての瞬間と物質世界の中に、背後に、そして奥底にいるかのように、私たちはこの世を生きているでしょうか。(中略)この世界全体は、神の与えるという恵みが、あらゆる瞬間、目に見えないところで脈動しています。この世界への畏敬の念は、聖餐のパンとぶどう酒を畏れることから始まるのです。(同書 pp.75-76)
何より驚いたのは、「聖餐について振り返るとき、地球環境に対するキリスト教的態度がどのようなものであるかを知る」と、聖餐と地球環境問題をぶつけるような形で、療法を関連付けてきたローワン・ウィリアムズ先輩の発想には驚いてしまった。たしかに、アレクサンドル・シュメーマンの『ユーカリスト』で描かれた世界観からすれば、確かに聖餐と被造物世界はつながっている。福音派的な世界にいたときには、全く考えたことがなかった発想であるが、実は、人間が何のために存在するのか、この地に置かれているのか、ということを考えれば、神と人との関係が本来の姿に回復し、神とともに生きる中で、本来美しかったはず之この世界、神が創造されたこの世界を、神の代理人としてケアするための関係が回復したことの象徴(サクラメンタル)と考えるとすると、聖餐の意味合いは大きく変わってこよう。この神との関係の回復を象徴するのが聖餐なのである。
しかしながら、これまで触れてきたように、プロテスタント諸派では、サクラメントとしての聖餐は重視されているとおっしゃる協会ばかりであるが、実際に協会に行くと実際の聖餐があまり重視されているようには感じられない。人間自身が、司祭のみならず、本来全てのキリスト者が至聖なる方、つまり神の存在を現実にこの地の生を通して指し示すというサクラメンタルな存在である以上、その生き方、背後に神がおられることを意識して生きているかどうか、この地のすべてのものが、広い意味では神の被造物である以上、その被造物の世界の奥底に神の息吹を感じるような生き方をということをしているかということは、もう少し理解されるべきであろうと思う。
ここでは、聖餐への畏敬の念が語られているが、それは、神がこの地に来られたことへの畏敬の念でもあり、また、神そのもののへの畏敬の念であろう。まさに、
智慧ある者は之を聞て學にすすみ 哲者は智略をうべし
人これによりて箴言と譬喩と智慧ある者の言とその隠語とを悟らん
ヱホバを畏るるは知識の本なり 愚なる者は智慧と訓誨とを軽んず(文語訳聖書 箴言 1章より)
とあるとおりであり、この箴言で示されているような神への畏敬の念を以て、神が想像されたという事実に畏敬の念を以て、神とともに日々歩む世界に招かれつつも、それができないことを振り返り、そして神に赦しを希うのが、キリスト者としての生き方なのかもしれない。そして、そのために、我々にこれお行え、とイエスは曰われたのであるし、初代教会以来紆余曲折を経ながらもキリスト者は、これを守り行ってきた、ということと、そのサクラメンタルな存在としてのパンとぶどう酒をもう少し大事にしたいものであると思うところではある。
次回へと続く
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連帯の信仰としてのキリスト教
さて、最近、日本の基層文化とや宗教とキリスト教徒は何が違うのか、ということを考えている。それは、実は主体的な連帯への希求にあるのではないか、ということを思っている。
先日、ある講演会で、社会という漢語の成り立ちについて、お伺いすることがあった。社(村落や集落の氏子にあたる人々が共同で用いる礼拝施設)が一堂に会するように集まるから「社」が「会」するので多様な村落の人々が多様に集まっており一つの人々の集まりを形成しているから、「社会」であるということらしい。なるほどなぁ、と思った。
そもそも、東アジア的な社会では、基本村落や集落、あるいは都市にしてもそうだが、そういう割と小規模な空間により定義される共同体の入れ物というか枠が先にあって、その小さな共同体の大きな集まりとして社会を考えるのかもしれない、とは思った。その意味で、割と狭い境域の空間により定義される人間関係の束の象徴である「社」が先にあって、その先にある社が象徴する地域が人々に影響しているのかもしれないと思った。これはもうそうかもしれない。多分、きっとそうだろう。
しかし、次のローワン・ウィリアムズ先輩のお書きになったものを読んだとき、キリスト教の聖餐共同体というのは、いわゆる地縁とは違う共同体とそこでの新しい交わりと連帯を求めるものなのかもしれない、と思った。
復活を信じなければ聖餐は一切意味を成しません。復活がなければ、それは二階の広間で起きた最後の晩餐という悲しく印象深い出来事が思い出される、単なる記念の食事になってしまいます。(中略)しかし、聖餐そのものの始まりは、使徒たち自身の始まりに求められねばなりません。すなわち、イエスが死から甦られた後、使徒たちと一緒に食事をしたり飲んだりし、彼らが復活したイエスと再び新しい次元の生活を共にし、新しい交わりと連帯が始まったことです。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』pp.71-72)
日本は、永遠の伝道地であるから、キリスト者となるということは、多くの場合、従来の生き方や周辺の生き方とは異なる生き方を自ら選択的に選んでいくという部分がある。その意味で、「新しい次元の生活を共にし」ということはよく理解されるのではないだろうか。最近は、キリスト者2世や3世もかなり増えてきてはいるので、「復活したイエスと再び新しい次元の生活を共にし」という「新しい次元の」というところが希薄な人々も多いかもしれない。特に日本では、教派間移動をしない人々がおおい。あるいは教派間移動する障害がかなり大きく、コストが大きいために移動しがたい人々が多いので、なかなか2世さんや3世さんについては、子供のころからなじんでいる共同体で過ごすため、「新しい次元の」という部分が理解しがたいと思われる人々も多いのではないだろうか、とも思う。
様々なキリスト教の教派を見回ってみた経験から言えば、どの教派もキリストを中心としているという意味では、そうは変わらない。ある教派でずっと過ごし続けた人から見れば、かなり細かいところや文化や献金の仕方、聖餐式の年間の回数、開始時間、週に何回礼拝をするか、説教の長さに違いはある。また、信徒が、お酒を飲む飲まない、タバコを吸う吸わないでも違いはある。これは歴史的な経緯によって違いがあるだけである。また、礼拝が説教中心なのか、式文中心なのかでかなり違うようには思える。また、教派内比較をしても、教会内の装飾とか、賛美歌とか、そこに集まっている人々の雰囲気の点で多少は違うところはある。しかし、もう少し全体的に見てみると、信じている内容であるはずのキリストの神秘、「キリストは死んで、甦ったし、いずれやってくる」という点ではそう違うわけではない。そして、イエスが生き、死に、今も生きていて、われらとの関係を持とうとしておられることを覚える連帯を身体性を通して神を礼拝している共同体、連帯するものであることを表現し、相互に確認し、認証し、相互に平和を保っていることを確認するために、教会に集まっているのではないだろうか、と思うようにはなった。
連帯は、神との和解、それに基づく人々との和解と相互の受容、平和の結果であるし、平和を維持するためでもあると思う。そこを見失い些末な違いそのものに目を向けてしまうと、本来神がわれらに招いておられる、神と人との「新しい交わりと連帯」の姿を見失うような気がする。
セレブレーション、祝祭としての聖餐
最初に聖餐が祝祭、祝宴であることを知ったのは、ヘンリー・ナウエンの著書であったと思う。伝統教派をいろいろ訪問して見学させてもらうまでは、その祝祭の意味がよくわからなかった。それは、かつて長らく参加したキリスト者集団の聖餐式が、比較的重々しく執り行われるきらいがあったからかもしれない。
ローワン・ウィリアムズ先輩は、ここで、「聖餐を祝う」という表現で、そもそも、キリスト教の礼拝は、祝祭であることを示しておられると同時に、それが、神と人との関係と人と人との間の関係の回復の行為であることを次のようにお書きである。
聖餐を祝うことは、私たちが客人として招待されていることを思い出させてくれるだけではありません。他の人を客人として招待する自由をも与えられていることを思い出さえてくれます。(中略)洗礼について考えたとき、キリスト者のいのちとはいかに人間の貧しさ、飢えと苦しみの近くに連れていかれることだったことを覚えているでしょう。聖餐について考えてみると、もう少し詳しい説明を補うことができます。イエスの近くにいることは、イエスの招く自由を分かち合うことですー連帯や交わりを最も欲している人々のために、私たちの生や共同体を歓迎する場として作り直します。ともに聖餐にあずかる人々として、イエスご自身が行い続けた御業、人と人の間の溝に橋をかけ、ともに分かちある生に人々を引き込もうとします。私たちの利己心、忘れっぽさ、そしてどうしようもなく悪い習慣は神と人間の間に溝を作ってしまいますが、その溝を埋めるイエスの重要な任務を成し遂げる力と光の中で、私たちはともに歩みます。(pp.72-73)
ここで、「聖餐を祝うことは、(中略)他の人を客人として招待する自由をも与えられていることを思い出さえてくれます。」と書いてある部分は意外と重要だと思う。我々は、聖餐に参加することにより、そこに他の人々をも客人、ゲストとして招いている、という側面である。聖餐式という祝祭に参加するのは、われわれが聖餐式に招かれるから、でもあると同時に、我々が他の人々を我々との関係に招くためでもあるということは重要であると思う。孤独な人々や孤立する人々を神との関係性の中に招き、共同体の中に招くための機械となっているという指摘は重要であると思う。
世俗の仕事のソーシャルキャピタルに関する研究の必要上、『孤独なボウリング』という書籍を読んだのだが、その割と最初の方に、教会の存在が出てきたことは印象的であった。ソーシャル・キャピタルというのは、ごくごく簡略化していってしまえば、仕事として業者を頼むほどや行政などを動かす必要がことや、話して住む悩み事や京都謡として課題などを解決する人間の共同体があることで、小さな社会的に様々な課題についての解決が付き、社会全体が効率的に運用できるようになるという理解であるが、アメリカ社会において、その形成の基礎を教会が担っていた、という指摘があるのだが、それは、教会がここで、ローワン・ウィリアムズ先輩が、「連帯や交わりを最も欲している人々のために、私たちの生や共同体を歓迎する場として作り直します」と指摘しているように、共同体を作り直す場であるからなのだろう。こういう側面を、近代国家が成立した後に成立したキリスト教会群で、聖書のお勉強中心型の教会群では、そのような立場に否定的な視点を向け、「社会派」というラベルを張って終わりにしていたような気もするが、それもまた、教会の重要な側面では、あったと思う。もちろん、そうすることは、「厄介な人」を教会に内包することになる可能性も高いため、それなりの覚悟が必要であるとは思うが、よく考えてみれば、すべての人が「厄介な人たち」なのであり、特定の人々を厄介な人とすることにどの程度の意味があるのだろうか、とも思う。
そもそも、罪とは、神と個人の間の溝あるいは分離なのだろうと思うし、また、人と人との間の溝、あるいは分離なのだと思う。そして、この溝あるいは分離が、孤独を生み、孤立を生み、そして、絶望を生むのだと思う。その絶望の原因を、人間は自ら作り出してしまう部分があると思う。
普段参加させてっもらっているチャペルの聖餐式(礼拝)の冒頭で、毎週、大体週に2回次のような罪の告白を司祭も、回収も行うのだが、「私たちの利己心、忘れっぽさ、そしてどうしようもなく悪い習慣は神と人間の間に溝を作ってしまいます」という部分を読んだとき、あぁこの罪の告白のことを思い出したのである。
Almighty God, our heavenly Father,
we have sinned against you and against our neighbour,
in thought and word and deed,
through negligence, through weakness,
through our own deliberate fault.
We are truly sorry,
and repent of all our sins.
For the sake of your Son Jesus Christ, who died for us,
forgive us all that is past;
and grant that we may serve you in newness of life
to the glory of your name.Amen.
罪の問題とは、神と人との間にトレンチ、塹壕あるいは壁を作ることであるように思う。こういうような罪理解というのは、意外と認識されていないと思うので、もう少し知られてもよいかなぁ、と今参加させてもらっているチャペルに行き、上に引用した罪の告白に関する祈祷文を読む中で思うようになった。
次回へと続く。
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神と人との相互的で動的な関係
仏教徒でもないし、神道の徒ではないので、詳しいことはよくわからないが、日本的霊性における信仰は、割と一方向的で、比較的スタティックなものというイメージがある。しかし、キリスト教の礼拝というか信仰というのは、実はダイナミックなものである。現代で、そのダイナミックさが外見的にも確認できる形で表現されるのは、コプト正教会などの正教会系と、福音派のアフリカ系アメリカ人の多いバプティスト系教会とアメリカ系のペンテコステ系の教会である。その味わいはだいぶん違うが。
ケニアのコプト正教会
アメリカ合衆国Ohio州のペンテコステ系教会
アフリカ系アメリカ人が多い南バプティスト系教会の模様
個人的には、コプト正教会風の礼拝は比較的好きな礼拝スタイルである。利用されている言語がアラビア語でわかりにくいのがつらいが。コプトのイコンは昔の日本製アニメみたいなものも多く、個人的には親和性が高いので割と好きである。ところが、ローマカトリックとその分離派の西側のキリスト教会では、だいぶん静かになっていて、もはや本来キリスト教が持っていたダイナミックなその姿を思い起こすことはそれほど容易ではない教会群も少なくない。特にメインラインと呼ばれる、改革派などのアメリカの主流派神学系の神学の影響を受けた教会群リベラル教会では、賛美歌付き講演会と揶揄されるほどであり、まぁ、説教中心となっているので、ダイナミズムが感じられるのは、賛美歌部分だけ、ということも少なくないようである。
仏教も、密教系や禅宗系の一部で、結構派手な礼拝もないわけではないが、基本、涅槃の世界、悟りの世界を目指すので、静謐さを求める傾向が強いようには思う。神社や神道に関しては、祭礼の際には神輿が出たり、山車が出たり、歌舞音曲があったりとはするが、そういう祭礼以外の日時に境内地で騒いだら、白い目を向けられるか注意されるかのいずれかであり、神が人に憑依するとか、神と人との関係がダイナミックな表現で示されるのは、特定の場合を除き、忌避される傾向にあるように思われる。
まぁ、日本に定着している宗教間がダイナミックな(動的な)ものよりも、不動心のようなスタティック(静的な)ものを求める傾向があることに加え、最初の伝道先になった佐幕藩を中心とした失業武士、従来のお仕事を失ったお武家の皆さんが、動的なものよりも静的なものを志向し、文字文化の継承者であり学問的なものを求めたからこそ、日本の今のスタイルのキリスト教と相性が良いのかもしれない。その意味で、ぱっと見、ダイナミックでにぎやかな礼拝は、若者を中心とする一部の方々を除いて、積極的に求められないというのがあるのかもしれない。とはいえ、きわめて、一見静的な決まりきったルーチンに則って礼拝が行われる伝統教派でも、そこには隠れた動的側面が表現されていることは少なくない。気づきにくいだけではあるとは思うが。
神と人が招きあう場としての聖餐
しかし、本来のキリスト教の礼拝とは、日本の多くのキリスト教会では、説教が妙に幅を利かせ、説教が礼拝のクライマックスと化してしまったために、本来は祈祷文であったものにメロディを付けた賛美の時にしか、そのダイナミックな神との交流が多くのキリスト者の間にみられない、認知されにくいのは、実に残念なことであると思っている。
しかし、本来は、聖餐が礼拝のクライマックスであり、そこでは、イエスがわれらを招き、また、われらはイエスと聖霊を招き、生産者のコミュニティがわれらを受け入れ、われらもそのコミュニティに受け入れられていることを示すのが聖餐なのである。丁度ルブリョフの至聖三者のイコンがコミュニティを表すように、われらもその至聖三者のコミュニティに招かれているのである。
ルブリョフの至聖三者のイコン
そのあたりのことについて、ローワン・ウィリアムズ先輩は次のように書く。
同時に私たちの生活の中にイエスを招待しそして聖餐を通して文字通り私たちの体にイエスを招き入れる自由が与えられています。イエスに迎え入れられることにより、勇気が与えられ、私たちの心が開かれます。ですから、与え、受け取り、招かれ、受け入れられ、その流れは途切れることなく続きます。私たちは歓迎を受け、歓迎を行います。私たちは神を歓迎し、予期せぬ隣人を歓迎するのです。それは確かに聖餐の特有で素晴らしい事柄です。私たちはイエスと聖霊に祈り、私たちと共にいてくださいと呼びかけます。私たちにこのような呼びかけができるのは初めにイエスご自身が私たちに共にいるようにと呼び掛けていたからです。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』 p.67)
ここで、ローワン・ウィリアムズ先輩は、そのダイナミックな関係性があることを「与え、受け取り、招かれ、受け入れられ、その流れは途切れることなく続きます。私たちは歓迎を受け、歓迎を行います。私たちは神を歓迎し、予期せぬ隣人を歓迎するのです」として示しておられるが、まさに生産の場は、そういう実にダイナミックな関係が、神と人との間で起きる場であると個人的に思う。
予期せぬ隣人との聖餐を共にする場としての教会
さて、ここで、ローワン・ウィリアムズ先輩は実に重要なことをサラッと書いておられる。「(聖餐では、)予期せぬ隣人を歓迎する」というご指摘である。この予期せぬ隣人、今風の言葉を使えば、にわか、一見さん、通りすがりの人、ちょっと行きかう人々、見慣れぬ奇妙な人々を歓迎するのが、また、歓迎できる場であるのが聖餐であるという。この指摘は重要であると思う。
日本のキリスト教会の多くは、ほぼ固定的なメンバーによる礼拝あるいは説教付き讃美歌大会、説教付きカラオケハウスとか揶揄されるイベント中心になっているが、そこに予期せぬ隣人として訪れた場合、妙になれなれしく歓迎される(若者の多いペンテコステ系教会)か、やたらと個人情報を聞き出そうとされるか、全く無視されるか、黙殺される(カトリック教会等)か、礼拝終了後牧師先生ががぶりよりよろしく近づいてくださる(メソディスト系に多い)かのいずれかのことが多い。まぁ、予期せぬ隣人として歓迎され方は、各派それぞれ特徴があって面白い。
しかし、多くの教会で、革ジャンにモヒカン頭とか、といった毛色の変わった人は、歓迎されにくいのである。しかし、そういう人たちをイエスは招いたし、今もなお教会に、いや聖餐に毛色の変わった人を含め招いておられるのだ。そのあたりをSister Act(日本語では天使にラブソングを)の以下で紹介するワンシーンの2分15秒くらいで司祭が、明らかにガラの悪い少女たちを招くシーンはよく描き出している。イエスの初期の弟子たちは、革命を目指す熱心党員、漁師、律法学者、取税人、元盲人、元狂人、病人といったそういう毛色の変わった人たちによって形成されていたことはもう少し思い出されてよいかもしれない。まぁ、天使にラブソングをはハリウッド映画なので、聖餐のシーンは出てこず、賛美歌のシーンしか出てこないが、カトリック教会である以上、これらの賛美の後に聖餐が待っているはずであり、それへの招きとしての賛美であるのだが、ここでも聖餐式のシーンは諸事情によりカットされているのは実に残念ではある。
天使にラブソングを、で不良っぽい少女が教会堂に入ってくるシーンを含むOh Mariaの部分
アブラハムと予期せぬの隣人との食事と聖餐
ところで、聖餐というと、新約聖書のイメージが強いが、古くはマムレのテレビンの木のそばでおそらくはシエスタをしていたアブラハムのところにやってきた三人の旅の人を招いて食事をしたことともつながっているはずである。
主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、言った、「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って、この木の下でお休みください。わたしは一口のパンを取ってきます。元気をつけて、それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから」。彼らは言った、「お言葉どおりにしてください」。そこでアブラハムは急いで天幕に入り、サラの所に行って言った、「急いで細かい麦粉三セヤをとり、こねてパンを造りなさい」。アブラハムは牛の群れに走って行き、柔らかな良い子牛を取って若者に渡したので、急いで調理した。そしてアブラハムは凝乳と牛乳および子牛の調理したものを取って、彼らの前に供え、木の下で彼らのかたわらに立って給仕し、彼らは食事した。(口語訳 創世記18章1-8節)
イエスと食事と聖餐と
イエスは出歩いては飯ばかりあっちの人、こっちの人、取税人も律法学者も、民の指導者たちとも飲み食いをして歩き回っていていたのである。COVID-19の緊急事態宣言下でなくても、当時のカナンの地の人々はその姿にまゆをひそめて、変な人と思っていた。十字架上で死して、さらに復活した後も、ペテロなどのように漁師に戻りかけていた弟子たちに焼き魚を出している。まるで、早朝働く水産業関係者相手の築地市場、今は移転して、豊洲市場にある食堂のおやじのように、漁師相手に営業しておられる定食屋のおやじようなことをなさったのである。
福音書の復活物語の偉大なテーマの一つは、イエスと私たちが互いに歓迎しあう関係にあることが言えるの十字架上の死の後にも再び繰り返されるということです。復活を巡る重要な真理の一つは、復活後のイエスが、死の前にしていたことを変わらずに続けているということです。そのうちの一つこそが、歓迎し、歓迎されるということです。(同書 p.69)
そうかと思えば、前回紹介したエマオに行く途中は、いわゆるヘブライ語聖書、あるいは旧約聖書、あるいはトーラー・ネィビーム・ケトビームから縦横無尽に引用をし、イエスが実現したことが、トーラーから始まるタナッハに基礎を置くものであり、既に予告されていたことを弟子たちに示してのである。そして、弟子たちがとりあえず、もうちょっと話を聞かせてほしいから、飯でもご一緒にといって二人が誘ったら、当時の居酒屋兼宿屋でも、パンを咲き葡萄酒を渡し、飯を食べ始めたのである。そして、そのパンを割く姿で、弟子たちが、「おお、これはわしらの親分さま、イエス様ぢゃぁございませんでしょうかぁ」と気が付いた瞬間に姿をくらませておられるのである。
それほど、食事をすることを、ごく普通のこととして行われたのである。先に紹介したマムレのテレビンの期のそばでは、きっと葡萄酒を飲んでいたのであるし、氏素性はよくわからないが、祭祀を行うものであったサレムの王(平和の王)メルキゼデクは、やってきたアブラハムにミルクを出したのではなく、ワインを差し出したと書いてある。モルモン教会で、ご利用のヘブライ語聖書のこの部分の翻訳はどうなっているかはよく存じ上げないので、知らないが。
https://en.wikipedia.org/wiki/Melchizedek
しかし、上の絵画でのアブラハムは、どうもすいませんねぇ、と故三平師匠のように言っているとしか思えない姿ではある。
懐かしの林家三平師匠の落語
食事をすることの意味
先ほど、イエスは、様々な人々と食事をしたことを話した。アブラハムの時代から現代まで、食事をすることは、人々の交流にとって重要なのであり、COVID-19の罹患者が急増して、緊急事態宣言が出されていようが、まん延防止等重点措置が出ていようが、政治家から、知事や市町から、中央官庁のお役人から、県庁のお役人から、庶民までが食事をして交流を深めようとしたのだ。交流や親睦を深めるためには、昔も今も食事が一番効果的なのである。
弟子たちも、ともに集まり飲食を共にしたし、ワインも飲んでいたし、カナの結婚式の時には、母マリアに向かって、「まだその時ではないのだが」とか言っときなっがら、石甕にいっぱいにさせた水をワインに変えたりもしたのである。
振り返って考えてみれば、聖餐式でパンとワイン(ないし教会によってはブドウジュース)を共にするとき、イエスが、取りて食せ、取りて飲め、と言われたことを再現し、最後の晩餐の再現をするときに、あの、使徒的な瞬間を再現し、その経験を、分かち合っているのである。
復活したキリストが弟子たちと一緒に食事をするのは、キリストがそこに「本当に」いることを証明するためだけではありません。この食事は、イエスが地上にいたとき、新しい共同体を創造するためにしたことですが、復活した後の生においてもなお、イエスが使徒たちと共にすることであるといいたいのです。私たちは、洗礼を通して使徒たちとともにいるところへ招き入れられます。(中略)私たちは、イエスとともに飲み食いするために集まり、あの「使徒的」な瞬間を分かち合うのです。だからこそ、何世紀にもわたり、キリスト者は使徒たちの語ることを同じように語り続けることができたのです。キリスト者たちとは、イエスが死者の中から復活されたのち、食事を共にした人々なのです。(同書 p.70-71)
ここで、やや読み込みすぎなことかもしれないが、ローワン・アダムズ先輩は、「キリスト」と「イエス」を使い分けておられることが印象的である。王であり、メシアであり、メルキゼデクに等しい王である祭司としての存在としてはキリストを使っており、実在の人間となった具体的な人物としてイエスを使っているように思われるのだ。この違いは、重要ではないか、と思う。イエスがファーストネームないし個人名で、キリストが家族名、あるいは姓であると思っている人々は、このブログの読者にはおられないと思うが、イエスの父は、ヨセフ・キリストではないし、イエスの母は、マリア・キリストではない。イエスは、ベン・ヨセフ・イエス(ヨセフの子イエス)ないし、ベン・ヨセフ・ヨシュア(ヨセフの子ヨシュア)と呼ばれていたかもしれないが。なお、イエスをヘブライ語で書くとするとヨシュアであり、その辺にたくさんいた人物の名前ではあった。
いろいろな祈祷文のバージョンがあるのだが、先週は、聖餐式の主の祈りの前に司祭が次の引用部分の細字のように祈り、会衆は太字の部分を祈るのであるが、まさに、イエスの最後の晩餐の再現であり、それにつながるものとして、その聖餐の場にいるのだなぁ、という印象を、ほぼ毎回この部分の祈祷を聞き、応答するたびに思うのである。
Among friends, gathered round a table, Jesus took bread, and broke it and said,'This is my body, broken for you;'Later he took a cup of wine and said,'This is the new relationship with God made possible because of my death,take it, all of you, to remeber me.'Holy God, maker of all,Have mercy upon us.Jesus Christ, Son of Mary,Have mercy upon us.Holy Spirit, brath of life,Have mercy upon us.
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多様な人々の交流の場としての聖餐
社会ができると同質化する傾向は、日本でも、海外でもそう変わらないのかもしれない。Birds of a feather flock together. ということわざもあるし、類は友を呼ぶということわざもある。まぁ、似た者同士は集まるのは非常に楽しい。また、同質性を強化する方向に、社会は進みがちであるし、それが政治的なものとなると、全体主義となり、異分子を排除することにつながる。しかし、イエスはそうではなかった。多様な人々に囲まれていたのである。ローワン・ウィリアムズ先輩は、次のように書く。
イエスはどこへ行っても人々と進んで交流しました。それは福音書の中で最も特徴的な行為の一つとして覚えられています。なぜなら、イエスと仲良くしていた人々もそのことを気恥しいと感じたからです。人を分け隔てしない寛大さとよそ者と付き合う積極性ーこれらの型破りな行動を記録した初代教会の福音書の著者たちにとって、それは頭を抱えるほど描きにくいことでした。しかし、このようなイエスの姿を否定し、隠すことはしませんでした。むしろ、そのようなイエスの姿はあまりにも鮮明に覚えられていました。イエスは人々とともにいることを求めました。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』 pp.66-67)
福音書を読んでいると、イエスの周りに登場する人物は実に多様である。律法学者や祭司といった宗教関係者、インテリゲンちゃんだけでなく、漁師、取税人、子供、人々から忌み嫌われた重篤な皮膚業を抱えた人々、視覚障碍者、聴覚障碍者、言語障碍者、精神病患者と思われる人々、女性、今風に言えばセックスワーカーの皆さん、乞食、普通の人々が、イエスの行くところ行くところに近傍の町や村から、三々五々食事の心配や宿泊の心配などもすることなく集まっていた。今でいえば、プロ野球選手やサッカー選手、ジャニーズか、AKBなどの追っかけのように人々がイエスの追っかけとして集まっていたのである。よほど暇で人々が退屈しきっていた時代であったのであろうとは思うが、それほど社会が混迷と苦難の中にあったのかもしれない。福音書には、当時のパレスティナの人々について、『野犬の群れ(正確には、飼うもののない羊の群れ)のようであった』という記述があるが、社会がそれほど安定せず、荒廃していたのであり、その中で、イエスのように、その周りに群衆が集まっている人物というのは、人々が現政権(ヘロデ王朝と帝政初期ローマ)に対する蜂起の原因になりやすい。おまけにイエスが、神の支配とか神の王国とか言い出したことを聞けば、ヘロデ王やローマの執政官ピラトなどの人々が、放棄を起こすのではないか、という不安や恐怖心にとらわれて、イエスという人物を物理的に排除したくなる気持ちもわからなくはない。
ローマ皇帝の神格化の初期段階であったとはいえ、初期帝政ローマ帝国にとって、そもそもいうことを聞かないユダヤ王国は、難支配地域であり、ローマ帝国より聖四文字なる方の方が偉大であり、ローマ帝国なんぞは風にそよぐ枯葉の如しと、ことあるごとに言い募るめんどくさい人々がいた地域であったわけで、最終的にローマ帝国は、我慢しきれず、Divide and Conquerということで、対ユダヤ戦争で、イスラエルを完膚なきまでに崩壊させ、イスラエルの民は各地に分散して住む流浪の民と化したのである。
http://www.preteristarchive.com/ARTchive/1850_roberts_destruction-jerusalem.html
そういう時代に、イエスはいて、そもそも社会の中で冷遇されている人々に囲まれていたし、そういう社会の中で冷遇されている人々とともにいることを望み、あえて、そういう人々がいるところにあえて寄って行っている部分がある。そして、マタイ5章などに採録されているΜακάριοι(幸いなるかな)で始まる一連の神から弱った人々、困っている人々、苦しんでいる人々、泣いている人々に回復を約束する神のメッセージを述べるのである。
https://i.pinimg.com/564x/11/be/15/11be15c9ff22b63984daf6170ef22ad5.jpg
福音派では、使徒書と呼ばれるパウロの手紙などの解説を中心として、説教という形で聖書の解釈や解説、説明が述べられることがあるが、正教会、カトリック教会、聖公会などの伝統を重視する教派では、パウロの手紙より弱った人々、困っている人々、苦しんでいる人々、泣いている人々に引き寄せられるように寄っていったイエスの直接の言葉である福音書がかなり重視されている側面がある。そして、説教の後はそのイエスの命に従って、イエスを具体的な形としてのパン(ウェファースやホスティア)とぶどう酒という象徴を介して、自らのうちに取り込み、イエスと一つであることを、イエスの弟子であることを表明し、多くの人々を分け隔てなく招き共に生きたイエスの弟子としての生き方を自らに問う聖餐が毎週行われるのである。
おもてなしとしての聖餐
イエスは、おもてなしをし、また、おもてなしを受けた人であり、パリサイ人たちから「大酒のみの食いしん坊」と揶揄されるほどであった。罪びとと食事をしていると嫌味を言われ、セックスワーカーと思われる女性が涙で足を濡らしその髪の毛で拭ったら、この人はこの女性がどういう存在なのかも気が付かないのかと揶揄するような民の指導者たちの思いを受けて、あなた方は招きながら、当時の人々にとっての通常のもてなしである足を洗う水すら出さなかったではないか、と公然と批判したのがイエスであった。
イエスは、人々に招くだけではなく、人々に招かれていたのである。そしてホスピタリティを持って疎外されている人、阻害する側の人々を含め他者を受け入れていったのがイエスであった。そのあたりのことについて、ローワン・ウィリアムズ先輩は、次のように書く。
イエスはもてなしを行うだけでなく、他の人のもてなしをも引き出します。イエスが招いてくださるので、人々もまた他の人々を招くことができるようになります。福音書の中でイエスと人々の間でもてなしあったことは聖餐についての最も大切な要素を示しています。私たちはイエスの招待客です。私たちがそこにいるのは、イエスが私たちを求め、ともにいることを望んでいるからです。(同書 pp.67-68)
先にも述べたが、聖餐式で、イエスの死と十字架といのちの象徴であるパンを受け取り、自らのうちに取り入れることは、イエスを招き、イエスとともにいることを示すのである。イエスに招かれ、イエスを相互に招き、ともにおられることを聖餐があらわしていることは極めて重要である。
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本日は閲覧注意の記事である。同性婚とかの種の話題がお嫌いな方には、以下の閲覧をお勧めしない。事前にお断りしておく。そういう方々には、こちらをご覧いただきたい。
福音主義神学会東部でのご発題の立ち見
さて、先般行われた福音主義神学会「東部」2021年の研究会で藤本満氏がお話になられたご発表とその後の討論を拝見させてもらった。ここのところ、世俗の仕事の通常業務以外の仕事が6つくらい割り込みで入ったので、その対応に追われているうちに、福音主義神学会東部の公式窓口での締め切りを過ぎていたらしく、まぁ、終わってから見ればいいか、と思っていたら、当日、お友達がZoomの参加リンクを送ってくださり、拝見することができ、ほぼ、主要部分を拝見することができたと思う。実にありがたかった。
印象が薄れないうちに少し思ったことなどを書いておきたいと思う。
ちょうど、事前録画の動画が始まってから1/3くらいのところから拝見できたと思う。その意味で、枕の部分は聞きそびれたが、主要なご発表の部分は拝聴できたと思う。「LGBTQ、同性愛・同性婚」を教会の問題として、聖書からどう考えるのかがテーマであったが、この問題への過去の教会の対応を整理と信仰共同体の形成の問題としてどう考えるのか、ということを考えたよく練られ、俯瞰的、網羅的な調査された結果についてのご紹介された後、一つのご提言をなされたように思う。
学問的アプローチによるご発表
印象としては、藤本満氏のお話をお伺いしながら、藤本満氏の「聖書信仰」という本を読んでから、藤本氏は、本当に学者向きの方だなぁ、学ということをよくお分かりの方だなぁ、という印象を持っていた。ところで、福音主義神学会は東部と西部でだいぶ味わいが違い、東部には学者肌の方が割と多く、西部には学者肌の方と感じさせるご発表が比較的少ないという印象があるのだが(あくまで、ミーちゃんはーちゃん個人の感想であり、統計に基づき客観的事実として申し上げているのではない)、その中でも、ご自身の教会の立場とか、教派的伝統をある程度離れ、可能な限り客観的にかつ冷静なご発表であった。福音主義神学会東部の発表は学問的なアプローチのご発表が多いが、今回のご発題はひときわ包括的・網羅的・俯瞰的なご整理をご提示になったのであり、非常に学問的なアプローチで取り組まれたご発表とご対論であったという印象を持った。
つまり、LGBTQ関係者を容認ないし受容しようとする人々(すなわち同性婚の賛成者や推進者を直ちに意味するわけではない)のご意見から、旧来の福音派が保持してきた保守的、伝統的な聖書理解からLGBTQ関係者の異常や感情に対する方向性を修正、矯正、強制的に変更を迫るようなご意見までがある種のスペクトルのような形で存在することをお示しになられたうえで、教会として、従来、黙殺、圧殺、あるいは放逐、無視、見て見ぬふり、押し入れに押し込める、座敷牢に押し込める、なかったことにする、気が付かなかったことにするという対応でその場限りのごまかしをするか、折伏よろしくそのような傾向を持つ人々を説得する、祈りの課題としてさらし者にする(公開処刑の一種)、食らえ御言葉攻撃をする、悔い改めを迫る、正論でねじ伏せる、祈りの言葉で攻め立てる(え〜〜〜、まるで、真言密教の護摩供みたいじゃないですか?護摩はさすがりたいたりしないかもしれないけど…)という対応をとってきた経緯のある福音派の関係者にとって、一定の概念整理のご提示をされた非常に優れた研究発表であったと、別の学術世界をメインの活動フィールドとする関係者としては、思った。
原住地の近くの須磨寺での護摩供(知らんかった…須磨寺って、直実首をぞかいてんげる由来の寺で、青葉の笛がある寺だとばかり思っていた)
17分59秒あたりから、首をぞかいてんげる、の名シーン
野球選手も護摩行はやるらしい
さらに、LGBTQ容認ないし受容するお立場の人々が立脚している聖書箇所とその理解および釈義、LGBTQを断固受け入れかねるということを支持するお立場の人々が立脚している聖書箇所とその理解と釈義にも触れられ、ある意味で、対論の土台と基礎を今回のご講演でご提示なさったように思う。印象的であったのは、Sodomyという語のもととなった、ソドムとゴモラの際に来訪者に対する発生事案として聖書内に記載されている出来事の背景に、当時の近東世界における異様な暴力敵性行為による征服欲の発露の側面があることと力の誇示の側面があることなどもご指摘であった。重要なご指摘であったと思う。また、教会の対応にとって重要だと思ったのは、ミーちゃんはーちゃんのお友達のパスター・オーズのように、突然降ってわいたように、教会は愛の共同体だし、神は愛なんだ、と教会はこの問題を時々わけわからない形で、うやむやにしてきた部分が多いのだが、そういう安易な解決策に流されず、容認側についても、否認側についても、よく配慮されたご講演であり、その意味で、非常に良いご整理を、ミーちゃんはーちゃんをはじめとする当日参加された皆様にお与えいただいたように思う。
科学だって物語じゃないの?
また、確か、対話の物語の神学としての聖書の読みとのかかわりのコメントへの応答の中で出てきた話だと思うが、「科学もまた物語ではなかろうか」という応答を通しての藤本先生のご指摘は極めて重要であろうと思った。ある面でいうと、技術の人間側の理解ではあるが、科学についてもまた、基本的なアプローチは、文学などでとられる主観的なアプローチではなく、間主観的なアプローチをとるという宣言(これから科学的な議論をするというマントラを唱えている)している段階で、基本的なストーリーラインがあらかじめ定められているという部分
藤本満氏は、大学でも教えておられると聞き及んでいるが、インマヌエル伝道団の代表(以前)をお願いし雑事に忙殺されたり、牧師をなさったりされるよりは、研究者としてご活躍される方がよいのではないか、と正直思った。とはいえ、ご本人の召命理解、どこに召しを感じられるのか、というのは、これまた別の問題なので、ミーちゃんはーちゃんのようなキリスト教界隈の流民で愚民であるものが申しあげるべきことではないとは思うが。
詳細で細密な概念整理をしたうえでの議論の重要性
詳細なご発言の趣旨は省略するが、今回のご発表で、とにかく、何よりも重要だなぁ、と思ったのは、既婚者の婚外性交渉のような性的奔放さと性的放縦、あるいは一般に受容されている性的なガイドラインからの乖離の問題と、同性同士の健全な強い精神的結びつきを希求する人々を同列に扱ってよいのか、ということを正面からとらえたご発題であったとは思った。同性同士の共同体の形成、交流の問題をどうとらえ、あるいは、男女間で形成されることが多い家族に代わる社会的ユニットの形成をどう考えるのか、それに伴う法的理解の問題の整理もなしに、聖書の表面的な記載を基準に、多様性がある対象に浮いて、罪という語で一緒たくれに議論してしまうのは、あまりに乱暴な議論であり、本来、どのような人であっても神に愛される存在たるべき壊れた神のかたち(像)である人間であること、教会もまた鼻で息するものの集まりであり、その神のかたちの回復を援助する存在として招かれているキリスト者、あるいは教会として、多くの人々と違う人々との関係性を求める人々に対する対応方法として、これまでの福音派の対応方法は、いささかながら(実際には非常に、だとミーちゃんはーちゃんとしては個人的には思っているが)課題があるのではないか、とやんわりご指摘になったような印象を持っている。
ことに、ご講演の中でも、ただいま絶賛紹介中の『キリスト者として生きる』をお書きになられたローワン・ウィリアムズ先輩のご講演やThe Church of EnglandでLGBTの司祭就任を認めた後のその後の分裂騒動、ランベスでの大激論など、英国国教会の分裂騒動や司祭の分離などについての、思いや悩みなどを含めご紹介されたりもしたが、そうであっても、ローワン・ウィリアムズ先輩がそのことに踏み切ったことについても一定のご評価をされていたように思う。ミーちゃんはーちゃんの理解が十分ではなかったかもしれないが。まぁ、とにかく何でもありのブロードチャーチで、差はあっても一つであることを目指してきたアングリカン・コミュニオン(英国国教会の影響を強く受けた教会連合体、と理解するのが各国聖公会の連合体というよりは、多少はよろしいかとは思う)としては、ここ十年くらいのごたごたは、一つであることにこだわりを持ってきたアングリカンコミュニオンの関係者にとって、つらいことのようには思う。まぁ、そのごたごたの時期に、アングリカン・コミュニオンの船員教会、日本聖公会の出島教会にたどり着いたのも神の導きであったのかもしれない。
Canterbery CathedralのEvening Prayerに登場する女性司祭(この方は、イギリス人らしくDog Peopleの司祭らしい 動画にコンパニオンなのかお犬様がたびたび登場する)
アングリカンコミュニオンでは、女性司祭の就任(今では英国では当たり前になっていて、Evening Prayerなんかにも女性司祭はご登場だし、今年になって、The Episcopal Churchでは、オレゴンで日系アメリカ人の女性主教が誕生したのである。詳しくはこちらhttps://diocese-oregon.org/the-rt-rev-dr-diana-d-akiyama-ordained-and-consecrated-as-the-11th-bishop-of-the-episcopal-diocese-of-oregon/(英語)をご参照いただきたい。
Diana D. Akiyama 第11代オレゴン司教区司教
なお、アングリカンコミュニオンにおいて女性司祭が最初に任命されたのは、日本の占領統治下で、男性聖職不在になった香港でのFlorence Li Tim-Oi司祭であった。非常事態の回避措置としてではあった。
写真はWikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Florence_Li_Tim-Oi から
まぁ、女性司祭の問題にしても、LGBTQの問題にしても、それが原因で、アングリカンコミュニオンを離れられた司祭もいるし、アングリカンコミュニオンの中でランベス会議に来ない地域もあったりするという話をお伺いしたりと、まぁ、いろいろややこしいことがあるようである。従来の考えを改めるということは、事程左様に非常に難しいことなのである。実は、この間のブルティン、日本語では週報の最終ページについている漫画(毎週、これがなかなかできがよいのだが)伝統についての漫画であった。
先週のブルティンの一部
なお、日本では、女性司祭は、つい十数年前までは、認められていなかったし、教区によっては、いまだに司祭は男性だけであり続けたい、と思っておられる教区もあるようではある。
同性同士の恋愛傾向 ∋ 同性婚
同性同士の愛的恋愛傾向のことというと、すぐ同性婚、同性間における性交渉のこととを短絡的に思い浮かべる方々もおられるが、それは物事を単純化しすぎ、物事の解像度があまりに悪すぎという批判は免れないように思う。要するに、恋愛に関する傾向として、性交渉抜きに同性の他者と共同体で生きる生き方を模索し、他者をそのままで受け止め、受け止め、大切にし合う生き方を模索したいのにもかかわらず、そのことを問答無用で認めないという社会の在り方に対して、疑問があるのではないかなぁ、と思ったのである。
個々の見出しで ∋ という集合論の要素に関する数学記号を用いたのは、同性同士の恋愛傾向をお持ちの人々の中の一部の人々が、同性婚を求めるのであり、すべての同性同士の恋愛傾向をお持ちの方が同性間の性交渉に関与しているのではないし、関与することを望んでいるわけではないことはもう少し知られてもよい、とは思ったからである。ある部分の方がそうだというだけであり、それを乱暴に一つのラベルで扱うことは問題ではないかと思う。非常に広いグラデーションの中で、それぞれ個々の特性、属性、方向性、オリエンテーション、方向性がある存在なのではないか、と思うのである。
https://unsplash.com/backgrounds/colors/gradient より
何が問題なのか
同性同士の恋愛に関する傾向をお持ちの方々がご発言になっておられるのを報道番組などで見ていると、一番の課題は、権利関係、親族関係に関する制約に関する問題なのである。財産整理の問題については遺言で処理できたとしても、生命保険や損害保険関係、医療に関する家族としての同意の問題、あるいは、養子や里子の受け入れに伴う法的関係での制約があまりに多く、不自由がある、というご主張であって、何が何でも同性婚を認めよ、という一部の強烈な声だけが目立つものの、サイレントマジョリティとしては、普通の人間ができることが可能でありそうなのに、従来の常識とか従来の法的関係の理解の制約の問題ゆえに、それが実現できないのがお辛い、ということなのではないだろうか、と思うのである。要するにLGBYQの方々にとって、現在の社会制度が自分たちにとっては使い勝手があまりに悪く、不十分であるがゆえに何とかしてくれ、とおっしゃっておられる問題なのであって、それに利用できる現代の家族法に関する法的制度が結婚しかないから、それを使わしてくれ、ということなのではないか、と思う。
例えば、同性同士の恋愛傾向をお持ちであるがゆえに教会に参加することはおろか、教会に参加することが大きく制限され、入信前に性的な放縦、不倫しまくり、離婚しまくっていても、悔い改めてキリストを信じれば、問題なく教会に参加できるというのは、あるいは、信じた後も性的な放縦をしていたり、異性間の結婚をしていても不倫やDVしまくっていても、そのことを関係者が黙っていれば、問題なく教会に参加できたりするというのは、バランスを欠いた措置のようには思うが、その辺はどうなんだろうか、とは思う。
社会からも教会からも排除される人々とキリスト
今回のご講演でローワン・ウィリアムズの講演などもご紹介になっていたが、先にも紹介したように、今「キリスト者として生きる」の紹介記事を絶賛連載中であるが、その中にもあるように、キリストは社会から排除されたマイノリティのところに行ったのであり、そうであるならば、現在の社会の中でマイノリティとして取り扱われているLGBTQの人々を教会がどういう迎え入れ方をするのか、という理解は改めて大事であることだなぁ、とは思った。本来、キリスト者はマイノリティの方々がいるところに行くように、そういう裂け目の間を結ぶよう、すべての人が聖餐に招かれているのがキリストだったのではないか、と思うし、そのような人々と神との間にこれらのマイノリティの人々とともに連帯して立つのがキリスト者だと個人的には思っている。
そして、洗礼を受けた人はどこにいますかという問いをもし抱いたとしたら、「混沌の近くにいます」という一つの答えが返ってきます。人々が最も危険にさらされている場所、人々が最も混乱し、傷つけられ、貧しくされたところに、キリスト者の姿をきっと見いだせるのです。(中略)もし洗礼を受けることがイエスのいるところに導かれることであれば、洗礼を受けた人は目的を見失った人々のその混沌と貧しさへと導かれます。(『キリスト者として生きる』 pp.15−16)
また、藤本氏の講演を聞きながら、最近絶賛紹介中のローワン・ウィリアムズ先輩の聖書に関する以下の記述を思い出していた。
人々の聖書理解における大きな悲劇と過ちの一つは、「聖書の中に書いてあるから」と、旧約聖書の中で人々がしたことを正しいと決めつける想定です。こうした想定は暴力、奴隷制度、女性に対する虐待と抑圧、そして同性愛者に対する残酷な偏見を正当化してきました。この想定は、私たちがキリスト者として今では悪と考えているというようなことを正当化してきたのです。しかし、こうした出来事が聖書の中に記されているのは、神が「それが良かった」と伝えたかったからではなく、「こうした出来事が一部の人々の反応であることを知る必要がある。私が人間に語りかけるとき、物事がうまくいかないこともあれば、素晴らしいこともある」と私たちに伝えたいからです。神は私たちにいます。「私の語り掛けは、聞いて簡単にわかるとは限らない。なぜなら人間とはそういうものだから」と。すなわち、私たちは物語全体のほんの一部を取り上げ、その一部を行動の規範にする誘惑から身を守らなければなりません。キリスト者はしばしばその悲劇の道を通って来たのであり、それはひどい有様でした。私たちはむしろ、聖書がイエスのたとえ話であるかのように読んでいく必要があります。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』 pp.48-49)
最後は場外乱闘気味だったかも
若干、最後の部分、この種のことに対応してきた牧師先生や、大学関係者に応答を求めるという、ミーちゃんはーちゃんがやるような場外乱闘のことをなされたのは、やや意外ではあったけれども、リアルな場を持つ方々からの応答を求められたのは、実は重要だったと思う。時間的に十分とは言えなかったかもしれないが。
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本日も、『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』の本の中の第2章、聖書の中の、「キリストが中心」という小見出しが付いた部分と「共に読む」という小見出しが付いた部分についてたらたらと考えてみたことをいつものように述べてみたい。
一生かける価値がある聖書の読み
キリスト者なら、聖書の中心はキリスト、すなわちメシアあるいは世界の救い主であることに異論はないであろう。新約聖書はそれを見出すのはそう難しい話ではない。ところが、旧約聖書に入った瞬間、あれ、と思うことが多く、人はそこでけつまずいて、こけたりはすることが多い。特に旧約聖書の中には、キリストが巧妙に隠れているので、それを見出そうとしながら読むのだが、つい脱線して目の前に繰り広げられている記述に惑わされてしまう。
それ(聖書を読むこと)は、一生をかけた作業です。キリストを中心とする聖書の読みは、人が一生かけても完成できるようなものではありません。というのは、聖書が持つおびただしい数の事柄が、中心であるキリストとどのように関係しているかを完璧に理解することができないからです。逆に誠意をもって読んでいくと、その中心的な現実の周りを行き来し、毎回なにか新しいものが見えるようになるかもしれません。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』 p.57)
聖書を読む、読み聞かせられることは、本当に「一生かけた作業」だとは思う。とりあえず、表面上の文字を追うだけなら、数日もあれば読み通せる。かなり忍耐を要請されることは確かだが。そのような読み方をすると、手がかりなどを見失うので、とりあえず読んだという満足感は得られるかもしれないが、聖書、それは、いったい何だったんだという感想を持つのが終わりだと思う。実際、新約聖書だけであるが、中学高校の倫理の教科書を読むようなスタイルで速読された元同僚が、「新約聖書って、訳が分からんなぁ」というような感想を述べておられた。それで、たぶんお分かりになられるのは「最低10年かかるかも」とは申し上げたのだが、そこまでは耐えられないし簡便というので、お断りになられた。
キリスト者の中に、速読で、今年は、聖書通読を何回やった、ということをお話になられる方もおられるが、それでは、聖書の味わいも何もないのではないか、とも思う。なに、速読が悪いというのではない。聖書の速読では得られないし一度や二度通読したくらいでは見えないものがあるということを言いたいのである。
というのは、人間の側が変わるし、人間として生きる経験で培われていくものが変わるので、毎度毎度見え方が変わってくるからなのである。そのことを、「逆に誠意をもって読んでいくと、その中心的な現実の周りを行き来し、毎回なにか新しいものが見えるようになるかもしれません」とウィリアムズ先輩は表現しておられるのだと思う。
同じことは式文についてもいえる。式文も全く同じ文書を毎週、読む。あるいは毎日それで祈る。最初は飽きるだろうなぁ、と福音派から今のチャペルに移ったすぐの頃はそう思っていた。しかし、定着して半年を過ぎるころから、毎週ほぼ同じ式文を読み、基本的に同じルーチンの礼拝であっても、誠実に取り組んでいく時、同じ式文から読んでも、印象が変わるのだ。もちろん、聖書箇所は変わるし、短めの説教も変わる。しかし、礼拝の70%の時間は全く変わらない。そうであっても、新しい印象があるのだ。ちょうど聖書がそうであるように。ただし、そのためには、「誠意をもって」礼拝に取り組んでいくことが必要かもしれない。そこに深い理解がかいま見せられることがあるように思う。それは表面的に礼拝に参加して時間が過ぎるのをただ待つような礼拝をしている限りにおいては、式文による礼拝では、毎週新たなる理解が得られるということはないのかもしれない。毎週変わる礼拝であっても、ただただ時間が過ぎるのを待つような参加では、そこに何かを感じるということはないのかもしれない。
時代、空間を超えて共感される聖書とその理解
では、続いて「共に読む」の部分から紹介してみたい。音楽や美術が典型的であるが、時間や空間や文化を超えて、共感や共同理解されるものがある。そして、時間や空間や文化を超えて、いろいろな人々が多様に考え、取り組もうとする対象はある。様々なメタファーが再解釈されなおされて、様々な作品が生まれている。あるいは、パロディが造られたり、様々な変奏曲が生まれたり、様々なアプローチで別の表現が試みられる場合がある。
まずは、ダースベーダーのテーマで見てみよう。
原曲
やる気のないダースベーダのテーマ(栗コーダーカルテット)
やる気以前の状態のダースベーダのテーマ
絵画に見る聖書解の多様さ
次に絵画で見てみよう。以下はエマオの途上でイエスであると弟子たちがわかったというシーンを描いた絵画である。
ケンタッキー・フライド・チキンでの現代アメリカ風エマオでの夕食
スペインの画家によるメキシコのフォルクアート風のエマオの夕食
Maximino Cerezo Barredo (Spanish, 1932–), Emmaus, 2002. Painted mural, 200 × 190 cm. Dining room of the Centro de Formación de Animadores, Gatun Lake, Panama.
The Supper at Emmaus, Filippo Tarchiani
The Road to Emmaus by Sr. Marie-Paul Farran, OSB https://artandtheology.org/2017/04/28/the-unnamed-emmaus-disciple-mary-wife-of-cleopas/ より
さて、いくつかの変奏、異なる表現方法の違いの味わいを感じていただいたところで、ウィリアムズ先輩の著作の記述内容に目を向けてみたい。以下の引用部分から少し考えたことを述べてみたい。
私たちは聖書を共に読みます。私たちが読む聖書は、過去の大勢のキリスト者によって既に読まれ、今日も多くの人々によって読まれています。ですから、聖書が自分に語りかけていることだけではなく、自分の周りや過去の人々に対して語りかけていることにも耳を傾ける必要があります。それは教会における「伝統」が意味することの一つです。あなたは人々が聖書をどのように読んできたかに耳を傾けます。それは今、教会にとって最も重要なことの一つです。私たちが聖書を読み、互いに聞きあうこと。これは思いのほか驚きを与えることがあります。(同書 pp.60-61)
この部分で、聖書はともに読む、同じテキストを過去の人々とともに読む中で、それぞれに語りかけられていることを聞いてきたのである。様々な神学があり、神学書がある。同じ聖書テキストを読みながら、実に多様な聖書理解が、様々な教派的伝統を受けながら、構成されてきたのである。ちょうど、同じ曲が、時代と文化と様々な地域で、再解釈され、それぞれの理解を変容させながら、さまざまなバリエーションを生み、変形しながら演奏されていくように。それを、アフリカンアメリカンが歌い継いできたゴスペルミュージックの名曲Swing Low Sweet Chariotで比較してみよう。調べてみれば、あるはあるは、様々出てきたが、以下にその一部を紹介して、お聞き比べいただければ幸甚である。
これぞ、南部のSwing Low Sweet Chariot
BBKingによるSwing Low Sweet Chariot
piano演奏によるSwing Low Sweet Chariot
刑務所でビヨンセがSwing Low Sweet Chariot歌うシーン
Big Band風Swing Low Sweet Chariot
このSwing Low Sweet Chariotはもともと、旧約聖書の預言者エリヤが天に挙げられるときに火の戦車がやっていたという旧約聖書の記述を基にしたアフリカ系アメリカ人の間に伝わる労働の時に歌われた歌である。過酷な環境の中で、休むことも許されず、単純労働力として、機械のようになく、無償労働力として酷使され、人間扱いもされない中で労働を強いられた中、エリヤのように天に挙げられるように神の戦車がおりてきてほしいということを希求する歌ではある。それが、現在に至っては、様々な人々、様々な文化、様々な状況下でかなり自由に曲の解釈と再解釈がなされ、相互に影響をあたえながら、変奏され、様々に表現、演奏されているのである。
ぶどうの木で考える聖書解釈の多様さと相互関係
まだ、今の日本聖公会の離れ、出島のようなアングリカンの海員向け教会に定期的に聖餐式にあずかり始める前、聖書解釈にかなりこだわりを持っていて、根拠なく「自分たちの教会は、最も正しい聖書解釈をするキリスト者集団であり、ほかの教会群とは違う」というかなり無茶な思い込みを持っていた(今なら、その根拠は何か、とかなり厳しく問うたであろうし、当時からそれを少しづつ問うていたので、煙たがられたが)頃の話である。聖書の連続公開説教をやっていたのであるが、その時「ブドウの木のたとえ」から説教することになった。その時、昔からなじんだ聖書の箇所を読みながら、はたと気が付いたのである。我々は、直接イエスというブドウの木につながっていると思い込んでいるが、実は、その幹であるイエスに直接つながっていることばかりを考えるが、そうではなく、同じイエスというブドウの木の幹につながっているほかの枝である他の教派群、そして、過去にその木を生きさせるために貢献した多くの他の教会群の人々からの影響を受けているのであり、そして現在もなお他のキリスト教会群が生み出している神学的な理解の影響を受けているということを、そして、その恩恵を受けているということに気が付いてしまったのである。
まさに、ここで、ローワン・ウィリアムズ先輩が「聖書が自分に語りかけていることだけではなく、自分の周りや過去の人々に対して語りかけていることにも耳を傾ける必要があります。それは教会における「伝統」が意味することの一つです」という姿を見てしまったのである。自分たちは、自分たちだけが根拠なく最も正しいと思い込んではいるが、それはそうではなく、たとえ反面教師としてであったとしても、他の人々に聖書が語りかけたことの影響を受けて今の自分たちがあるのだ、という理解に達した瞬間、自分だけが正しいといい募ることの無益を感じたのである。
その意味で、正教会の様々な聖人たち、西側のローマカトリックの伝承と伝統、そして、そこから分離していったプロテスタントと呼ばれる教会群が生み出した様々な神学的思惟、聖書理解との関係の中で、現在のキリスト者の個々人の今の聖書理解ができているのであり、その大きなシンフォニーの一音符を形成することで、現代のキリスト教、聖書をライブで演奏しているといえるのではないか、と思ったのである。それからである。過去の様々なキリスト者の理解、現在のキリスト者の聖書理解を知ろうとし、様々なキリスト教会に行き、そこで様々なキリスト者の皆さんがなしておられることを味わえるようになったのである。おかげで、20年以上いた元居たキリスト者集団にいた一部の声の大きな方からは変人扱いされ、今の船員向け教会に定着することにはなったが、今の教会に定着する以前、様々な教会群を事前予告なく突然訪問したことは、実に面白い経験であった。
ある意味で、ローワン・ウィリアムズ先輩が「それは今、教会にとって最も重要なことの一つです。私たちが聖書を読み、互いに聞きあうこと。これは思いのほか驚きを与えることがあります。」とお書きのことを、実地に様々な教会を訪問する中でやってみたのである。そしてやってみると、ほかの人々の持つ聖書解釈に聞きあう、そしてそれぞれの解釈を響かせあるという姿が重要なのではないか、と思うし、そして、そこに予想もしない驚きを感じることがあるのである。まぁ、実地に訪問しなくても、書籍を読むことで同様の経験はできるが、ただ、ある種のフィールドワークとして、現地に赴き、実地に行って調査しないと見えてこないものがあるのも確かである。だからこそ文化人類学者はフィールドワークを重視するのである。神に印刷された文字だけでは、見えないもの、認識されないもの、認識がひずむものもあるからではある。
実際、聖書の解釈は多様である。したがって、神学もまた多様である。これは、様々なキリスト教の書籍を読み、実際に様々な教会に足を運び、そこでのキリスト者の皆さんの行動を拝見したり、牧師先生の説教を聞いたり、あるいはそこでの式文を賛美として聞いたり、祈りの読み上げとして聞いたり、聖書を聞かされたり、様々な聖書箇所やキリスト者としての先輩の姿や業績を示すイコンを見たり、香炉で炊かれた香の香りをかいだり、多様な讃美歌を共に歌う中で、驚くことは多かったし、これだけ多数の神学書が出されていながら、あるいは聖書講解書、聖書の註解書が出されていても、一つとして同じものはないのである。共通する部分もあれば、異なる部分もあり、新たな視点が生み出されるのである。たとえ、古典的な聖書註解であれ。
ふと、そんなことを思い出していると、Facebookで元居たキリスト者集団のあるお若い方からご紹介された印象的なブログ記事「組織神学/教義学の本を読んで感じたこと」という記事があった。まさに、同じように「私たちが聖書を読み、互いに聞きあうこと。」の重要性をお感じになられた方がおられたのを拝見し、ふと懐かしく自分の姿を思い返した。ちょうど、本日引用したローワン・ウィリアムズ先輩がお書きの内容と重なるような印象があったので、ご紹介することにした。
さて、次回からは、いよいよ本著作のハイライト、本書でも最も重要であり、読まれるべき部分であるとミーちゃんはーちゃんが感じた部分の「聖餐」についてのご紹介に移りたい。
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さて、本日もローワン・ウィリアムズ先輩の『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』を読んでみた(11)から、ご紹介しながらいろいろと思うところを述べてみたい。
適切な問いを適切に問うこと
世の中で生きていると、面白い経験にであうことがたくさんある。意外と、人は、適切な問いを問うことができる人は少なく、なんらかの問を抱えているのだが、適切に問えないために混乱している場合が案外多いようである。適切な問いを立てるためには、ある程度の知識とある程度のセンスが必要なことは間違いない。
いまは、Google先生に問いを投げると、まぁ、それらしい答えを瞬間で返してくれるが、それはあくまでそれらしい答えであって、自分自身が求めているそのものの答えを返してくれないので、フラストレーションがたまってしまう人も結構いるのではないだろうか。Google先生が付き返してくるいらないサイトを見ながら、ため息をついた経験をお持ちの方も少なくないだろう。
意外と適切な問いを適切な語により立てるというのは、難しいのである。問であればなんでも意味がある、とされる方々も中にはおられるようであるが、適切に問いが立てられない場合、問から生まれる結果もろくでもない結果に終わることが多い。設計が出鱈目な建物は、たとえ見た目がよくても使い勝手がよくないのと同じである。適切な問いを立てるためにはそれなりの知識の背景がいるのである。たぶん、それを教養と呼ぶのが良いのではないだろうか。教養が豊かであることが望ましいと一般にされるのは、どんな問いに答えられることではなく、適切な問いを適切な語により問うため能力が必要であるからではないか、と思う。
さて、ウィリアムズ先輩の記述に戻ろう。聖書について、次のようにお書きである。
聖書を読むにあたって一定の常識を保つ必要があります。歴史の詳細にこだわるよりも、「神は私達に何を伝えたいのか」という問いに戻り続けなければなりません。もし聖書の歴史の絶対的な正確さを固く信じるのであれば、的外れの質問に正しい答えを出してくれる、一種の「魔法」の本とみなす危険にさらされます。(『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』 p.53)
前回に、ウィリアムズ先輩の所論として、聖書は古代バビロニア史の正確な記述された書籍としてみるのではなく、その中で、様々な信仰者がどう信仰を保とうとし、神がそこにその状況の中で、信仰者の生きる世界にどう介在されたかの大きなグランドストーリーをみた方がよいのではないか、ということをご紹介した。
ゴブラン織りのタピストリーのような聖書
個人的にはその通りであると思う。ちょうどゴブラン織りで作られるタピストリーのようなものだと思う。様々なより糸が合わされながら、表現しようとする絵柄が書かれたものなのである。以下の画像は、The Devonshire Hunting Tapestries として知られるタピストリーの一枚であるが、多様なより糸で、当時の貴族の猟の風景を描いて見せている。ある一部は大きく描かれ、ある一部は小さく描かれているが、それはごくごく小さなより糸で構成される。
様々な細かなより糸が、寄せ集められて一枚のタピストリーの全体を構成するように、当時の人々の様々な様子の部分部分のごく一部(例えば、モルデカイの存在やモーセの存在など)はデフォルメされ、拡大され大きく描かれ、それ以外の人々の様々な様子は捨象されつつも、その大きく描かれた人物は、より多くのより糸により構成されて描かれるように、大きく描かれた人物は同じような多数の人物というより糸で構成されているのかもしれない。つまり、デフォルメされて大きく描かれた人が多くのより糸で構成されているように、その大きく描かれた人物と共通する部分を持つ多くの人々が、その人物を描く際に用いられるより糸のようにその大きく描かれた人物に投影されているのではないか、と思うのである。
https://en.wikipedia.org/wiki/Tapestry#/media/File:The_Devonshire_Hunting_Tapestries;_Boar_and_Bear_Hunt_-_Google_Art_Project.jpg
正しく問うことの重要性
さて、ウィリアムズ先輩は、「もし聖書の歴史の絶対的な正確さを固く信じるのであれば、的外れの質問に正しい答えを出してくれる、一種の「魔法」の本とみなす危険にさらされます。」とお書きであるが、この指摘は極めて重要なのではないか、と思う。これは歴史についてもしかりであり、将来来るべき出来事として描かれている黙示文学の預言の理解についても、誠に左様であると思うのである。
聖書無誤説だろうが、聖書無謬説であろうが、聖書が絶対的な正確さ、文字通りの正確さを持つとあまりに強く主張することは、たとえ、的外れな質問をしても、それに正しい答えを出してくれる変な存在として聖書を見ることになりかねない、というウィリアムズ先輩の指摘は重要だと思う。的外れな質問をしても、それに正しい答えを出してくれるという部分について、もうちょっとわかりやすい言い方をすれば、メニューにカレーライスがない江戸時代のそば屋でカレーライスを頼むようなことをしても、魔法のようにカレーライスが出てくるようなことは、ほぼあり得ない。また、パン屋でカレーください、と言ったら、ナンが出てくるか、カレーパンが出てくるかのいずれかである。カレーライスは出てこないし、インドカレーも和風カレーも、海軍カレーも出てこないのである。横須賀あたりだと、カレーパンの中身のカレーあんは、海軍カレーかもしれないが。いくら、それが私が欲しているカレーライスではない、といっても、そもそもないものは出せないのである。聖書の正しさを歴史記述の正確さに求めるのは、そのようなことをしているのではないだろうか。だからこそ、「聖書を読むにあたって一定の常識を保つ必要があります」というウィリアムズ先輩の冒頭の表現になるのだろう。中庸を良しとするVia Mediaという世界観を持つ実にアングリカンらしいご意見であり、ミーちゃんはーちゃんはこのような考え方が好きである。
ナン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3 より
カレーパン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Deep_fried_curry_bread.jpg より
使用上の注意をよくお読みください、ピンポ〜ン
あるいは、コンピュータ屋やシステム理論屋の物言いに、「Garbage In, Garbage Out」という語があるが、コンピュータがいくら正確に計算をするからといって、計算機にごみのようなデータを入れてしまったら、計算機は、ウルトラ正確に計算して、ウルトラ正確なごみのようなデータをはいてくれるだけなのである。これは、コンピュータに何を入れるかに注意しないとダメな結果しか得られない、という技術者の知恵、理論家の知恵である。それと同じように、聖書はカノンであるけれども、私の将来はどうなりますか?というようなごみのような問いを立てて、聖書にぶち込んだとしたら、ごみのような答えしか得られないのと同じである。薬と同じである。用法容量を間違えて使ったら、本来人を生かす栗でも、人を死に至らしめてしまうのである。その意味で、表面的な聖書の文字による表記の正しさに必要以上にこだわる聖書無誤節にしても、聖書無謬説にしても、用法、用量を間違うと、信仰者を殺し、信仰者の中に芽生えた信仰を壊滅的に破壊させることにつながりかねない。以下のCMに出てくるようにこれらの理解をご利用される信仰者の皆様方には、「使用上の注意をよく読んでお使いください」、とお願いしたいところである。
CMの最後にピンポンという音が入り、使用上の注意が出る風邪薬のCM
なお、聖書無誤説とか、無謬説とかが一部の皆さんの中で話題になっているようであり、お友達のパスターオーズから、それについてなんか書いて、と言ってきたので、そんなものは、20年ほど前に終わった話だし、個人的にその差は、Nestleさんのネスカフェゴールドブレンドと、味の素AGFのブレンディほどの違いであると思うと書いて送ったら、この話は立ち消えになった。書籍に執筆する話は立ち消えにした(狙っていた)が、このインスタントコーヒーの違いのたとえは、いのちのことば社の編集者の方にはえらい受けた。
少しメタな概念、より高次の概念、あるいはかなり遠いところにに立ってパンした画像で考えてしまえば、両者は誤差の範囲程度の違いであり、ネスカフェゴールドブレンドであれ、AGFのブレンデイであれ、両方とも申し訳ないが所詮インスタントコーヒーに違いはなく、やれ、ブルーマウンティンだの、やれジャワコーヒーだのとコーヒーにうるさい向きから言わせれば、所詮インスタントコーヒーでしょ、っていうことになる。その意味で、基本、重箱の隅を顕微鏡を使って、プローブ針の針先でつつくような話なのである。真剣にご議論なさりたい向きには大変失礼で申し訳ない話であるが、その程度のものであると思う。
なお、ミーちゃんはーちゃんが常飲するのは、たっぷり飲んでも気にならないブレンディ派である。だからといって、ネスカフェゴールドブレンドが出されたとしても、「なんだこれは、コーヒーではない」とか激高したりはしない。どちらもインスタントコーヒーに過ぎないのである。まぁ、それはインスタントコーヒーよりは、コーヒー豆をひいたコーヒーの方が無論おいしいが、あまり飲むと眠れなくなるので、考え物である。
ブレンディのCM
お花畑の住民も困りもの
落語は、もともと、仏教の説法を人が聞かないから、それを利かせる手段として始まったという部分がある。その意味で、ある種の倫理性を教えるような落語も少なくはない。その意味で、よりよく生きるということはどういうことかを考えさせる良い話というのもないわけではない。
桂米朝師匠による不精の代参 仏教的な輪廻転生の話も出てくる話ではある。
常軌の武将の代参のような話は、落語の世界であるからこそ、笑って過ごせるが、リアルでこういう人ばかりであると、本当に困ってしまう。とはいえ、まぁ、働きアリの8割は、ほぼどうでもよいことしかしておらず、1-2割だけが懸命に働くものらしい。そして、そのまともに働く働きアリの1〜2割を取り去ると、今度は、どうでもよいことしかしていないアリさんたちの中から、1〜2割の懸命に働くアリが出てくるらしい。まことに世の中とは面白い。
不精ものではないが、歴史的な事実について、じゃまくさい、ということでいろいろなことについて無頓着な人々もいる。それも個性であるといえば個性ではある。聖書について病的に細かな細部にまでこだわり、正確さを追求する、神経症的な人々もいる。それもまた個性ではある。逆に細部や歴史的な正確さやリアリティについては無関心で、自分にとってどういう意味を持つのかだけ関心を寄せる人々もいる。歴史的な背景で書かれたコンテキストは無視して、たとえ話のようなものとして聖書を読む読み方、聖書の読み聞かせをお聞きになる方もある。それもまた個性ではあるが、バランス欠いているという意味では、字義通りの正確さにこだわる読みと大差はない。
そのあたりについて、ウィリアムズ先輩は次のようにお書きである。
聖書の真価は、歴史的な正確さだけでは十分に測れないにも関わらず、このことに執着する傾向があります。他方では「正直にいうと、何が起きたかは大した問題ではない。重要なのは良い話であるかどうかだ」というような歴史へのむとんちゃくな態度との間にバランスを取りながら、慎重に事を運ぶ必要があります。なぜなら、私達は歴史的存在であり、時間の経過とともに学習し過去を振り返るからです。(同書 p.54)
この中で、需要だと思ったのは、私たちは歴史的存在である、という人間認識だと思う。以前の投稿でもキケロ(英語風発音でシセロ)の引用でもふれたが、歴史が我々に意味を持つのは、「別の時代において小賢しくなるためではなく、時代にかかわらず知恵あるものとなるためである」という側面があるからである。あるいは、以下のジョージ・バーナード・ショーの警句ではないが、我々人類が歴史から全く何も学んでいなかったということを学ぶために歴史を学ぶという皮肉な側面もあるとは思う。それほど、我々は自分たちが歴史的な存在であることを忘れやすく、ファンシーな世界に住みたいと思う存在であることを示しているかもしれない。
聖書の正確な細部にこだわりすぎることなく、また、自らが歴史的な存在であることを忘れ、以下のぐでたまのようなあたまも世界観もお花畑の世界に住み続けるものではないということ覚えながら、ファンシーなおとぎ話の世界や常軌を超え、正しいことにこだわるでもなく全体像を適切に見て、自己のあり方を反省するための、神のカノン、あるいは、カノン、基準となる主旋律と聖書に求め、その変奏曲Variationsをいかに奏でるのか、ということを考えることが求められているのではないだろうか。
ぐでたま 公式ツィッターから
その意味で、我々は、神から与えられた聖書というフルスコア譜の一音一音にこだわりすぎる(聖書の歴史記述の正確性のみにこだわる)ことなく、子供がおもちゃのピアノで主旋律を演奏するよう(聖書の話を単純化して、単なる良い話として理解するにとどまる)でもなく、聖書の主旋律を捉え、時にソリストとしての役割を神に任せられながらも、また、時にソリストをサポートする役割の演奏家になりながら、その変奏曲を演奏していくのことが重要なのであはないだろうか。以下のバッハのゴールドベルグ変奏曲のように。それが、我々にこの地上で、神の変奏曲を奏でる演奏家としての役割が、神から我々居託されている役割なのかもしれないとは思う。
バッハのゴールドベルグ変奏曲
次回へと続く
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