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2016.04.02 Saturday

松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ(6)

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    本日で、松谷信司著『キリスト教のリアル』のご紹介は、終了である。本日は、聖地に関するご意見と、キリスト教の表象、イベントと葬儀、そして森先輩による福音派とは何か、ということをご紹介したい。

    聖地について
    聖地といえば、けいおん(K−on!)の聖地の豊郷小学校であるが、ここで言う聖地とは、どちらかというと荒野で燃える柴の前で、モーセ先輩が靴(サンダル)をお脱ぎになったような聖なる場所のことである。


    けいおんの聖地 豊郷小学校 http://sippofan.net/scoop/K-ON/から



    シャガールのモーセの燃える柴 http://www.wikiart.org/de/tag/burning-bush から

    ほらね、焚火仲間の大頭先輩がいうようにモーセ先輩の頭に角が生えていることをシャガールは、神様とモーセ先輩との荒野の焚火のシーンできっちり書き込んでおられる。
     
    松谷 
    晴佐久さんにとっての聖地は。
    晴佐久
    「この教会がすごい」ということで言えば、うちの多摩教会。あまりよその教会の実体を知らないというのもありますが、ここは聖なる場所だと感じるのは、実際に人が救われているから。本当に苦しみに囚われていた人が、目の前で解放されて喜びの涙を流す現場をこれほど日常的に見られる教会は、多摩教会においてほかにはないと思っています。日本中の人がこれを知ってくれたらいいのに、と本当に思うから。(『キリスト教のリアル』p.177)

    しかし、自分の教会を聖地といえる司祭や牧師というのは、本当に幸せな存在ではなかろうか。教会は本来、それぞれの司牧にとって聖地のはずではあるが。とはいえ、そこまで言い切れる司牧は日本にどれくらいおられるのであろうか。なお、晴佐久司祭は今年、 浅草教会・上野教会主任司祭として、転任される模様である。

    参照URL http://tokyo.catholic.jp/info/diocese/28952/

    しかし、「 実際に人が救われているから。本当に苦しみに囚われていた人が、目の前で解放されて喜びの涙を流す現場をこれほど日常的に見られる教会 」って、本当に少ないと思う。まぁ、こういう方(恐らく当時50歳前後)を目前にしたことがわが生涯の中で30歳を前に1度だけある。しかし、そういう経験は、それ一回だけであり、それ以降はない。

    霊的変容と開放を与えている
    何もないキャンプ場

    森先輩は、ご自身の経験から、霊的変容と解放(聖書のいう『救済』、ないし『救い』)とを与えておられるスイスのキャンプ場のお話を次のようにしておられる。 
    松谷
    森さんはいかがでしょうか。

    個人的な聖地は、南スイスのラサとういところ。キャンプ場ですが、20年くらい前にハンス・ビュルキというスイス人がこの土地を買って、キャンプ・ラサという活動をはじめた。(中略)私も2006年と2008年に行きましたが、クリスチャンとして行き詰ったり、つらかったり、律法主義的な教会に苦しめられたりという人たちが15人から20人ぐらい参加して、その2週間の間に変わっていきました。見渡す限りアルプスの山々に囲まれた場所で、料理もジャガイモのような質素なものしかなく、一人ひとりが自分自身を見つめ直す。(同書 pp.178-179)

    驚いたのは、森先輩の「クリスチャンとして行き詰ったり、つらかったり、律法主義的な教会に苦しめられたりという人たちが15人から20人ぐらい参加して、その2週間の間に変わっていきました」って言うひょうげんであり、それが2週間の修養により回復し、変容していく姿である。このように変容する機会が必要なのはわかる気がする。教会のいろいろなどで苦しんでいる日本のキリスト教徒は案外多いのかもしれない。Ministry Vol. 28に見られるように、牧師も苦しんでいる。こういう、信徒を苦しめ、教会人を苦しめ、牧師を苦しめる日本の教会って、信徒と司牧と教会とで相互に不幸にしあっている面があるのかもしれないと思う。

    まぁ、そういうの原因はいくつかあるが、どれか一つでなくて、かなり構造的なものであり、それが、教会ごとにかなり違う形で存在し、それが歴史的な経緯の中で、さらにややこしい形で形成されていくのではないか、と思う。そら、牧師をもう一回やるなら、開拓伝道やって新しい教会を立てたくなる気持ちはわからなくはない。
     
     ある面で、こういう行き詰まりの背景に、静まりや離れること、休むという概念がないキリスト教の一部の在り様の問題があるのかもしれない。その意味で、神の前において静まりにおいて神に向かい合っていく中での時間というもののなさ、というのが、キリスト教の一部にあるようにも思う。


    キリスト教美術について
    個人的には美しいものが好きである。美しいもの、美術作品を作る(デザインとか) ことも好きであるが 、美しいものを作るためには、美しいものに触れる必要がある。ミーちゃんはーちゃんは、美術館にいると、それだけで幸せな気分になるタイプである。音楽もそうだが、ロックとかポップスとかはあまり聞かないが、基本的にはバロックを古楽器で聞いたりするのは好きである。ダンスや演劇もだめだなぁ。その意味で、どちらかというと美術、中でも絵画の人なのである。

    キリスト教と美術といえば、本当は、ハリストス正教会なのであるが、それに近しい存在としてカトリックの例があげてある。

    ミーちゃんはーちゃんが住まい致す近くの大きな町には、女子パウロ会のお店が1件と、「業務をまじめにやる気がどこまであるかな?」と思いたくなるようなプロテスタント系の書店が1軒と、かなり真面目にやってくれているプロテスタント系の書店が1軒あるが、グッズの貧相さは、このプロテスタント系書店2軒はトントンである。「業務をやる気があるのか?」と思った書店では、封筒の色の変わったカードも平気で定価でご販売である。また、今アマゾンで買えば3000円位の英語の神学書を9000円前後の価格で販売しておられる。完全にデッドストックという言葉がふさわしい本を、数十年昔の価格でご販売しようとしておられるのである。

    ところが、そのご近所の女子パウロ会のお店では、品のいいご長寿のシスターたちが働いておられるが、季節ごと、「まぁ、かわいらしい」と思える様なグッズを販売しておられる。
    松谷
    四ツ谷のカトリックの専門店などを見てもうらやましいなと思うのは、プロテスタントの専門書店はグッズがかなり貧弱なわけです。そういう図像を愛でる習慣がそもそもない。
    晴佐久
    偶像崇拝の危険を避けるためというのもあるかもしれない。
    (中略)
    晴佐久
    最近は像のついていない、木の棒だけのシンプルな十字架が流行っていますが、カトリックは本来像を付けるんですよ。イエス・キリストがこの十字架で私たちと苦しみにおいて一つになってくれているんだということを、きっちり忘れない様にするために必要だと。目に見える像であるとか、お香を焚いて、鼻で嗅ぐ香りであるとか、オルガンの音であるとか、ともかく五感に訴えて、それで神を味わったり、神の福音に触れたりということを、カトリックはすごく大事にしてきているから、グッズに対してもかなりハードルは低いと思いますね。(同書 p.182)
    確かに、四ツ谷のイグナチオ教会とJR四ッ谷駅を挟んで反対側にあるサンパウロとか、阪急梅田駅の北側にあるサクラ・ファミリア教会の1階にあるサンパウロとかは、たしかにグッズ類は極めて充実している。いいものは、お値段もそこそこはするが。

    カトリックの六甲教会の早朝の礼拝やテゼの集いでカトリックの神戸中央教会にも参加させてもらったことがあるが、教会堂自体は、両者とも割とあっさりとしたモダンな作りになっている。
     教会堂の中で、一番、あ、カッコイイと思ったのは、横浜のハリストス正教会をご訪問させてもらって、水野司祭からご説明を受けたときである。神戸のハリストス正教会も、聖餐は与らなかったものの、1月のクリスマスには参加させてもらったし、去年の聖トマの日にも参加させてもらった。これらの教会とその中の美術品からは、圧倒的なものを、もう五感で感じるどころか、迫り来るようなものを感じてしまったのだ。日本聖公会の神戸昇天教会もなかなか味わいがあった。

    まぁ、教会の中には、簡素でありながらも、きちんと教会の開始の前に鐘を鳴らしてくれている教会がある。これはありがたい。会場の雰囲気がピシッと締まる感じがする。神の前でごはんを食べるために呼び出されていく感じがする。もちろん、開始の前にオルガン演奏もいいが、何より、鐘の音が、ありがたい。とはいえ、まぁ、近代化した都市の中で日曜の朝っぱらから、鐘ガンガン鳴らすと近所迷惑として苦情がつきそうであるが。そういえば、日曜の朝の礼拝とかの讃美歌でもご近所から苦情を頂戴する教会はあるらしいし。

    カトリックや新プロテスタントがある程度日や感性を保有することに対して、森先輩は、五感というものを否定する派だと明確におっしゃっておられる。ミーちゃんはーちゃんもそう言う福音派的な教会というか、存在はほとんど知られてないのに実は重大な影響を与えている教会群で育ったので、感覚的なものは否定的視線を向けられたこともあるし、美術館なんか行く暇があったら伝道したら、というようなところで育った。でも、個人的には美術が割と好きなので、美術館には良く行ったし、今も暇があれば時々いく。

    私たちは、プロテスタントの中でも「福音派」と呼ばれる方のグループですが、残念ながら、先ほどの晴佐久さんが言った五感というものを、むしろ否定する側ですね。否定というか「聖書のみ」だと。
    晴佐久
    お香もだめ?

    ダメです。一切やらない。十字架すらない教会もあります。(同書 p.184)
     宗教画もだめだし、福音派的な感性からは、おそらく、フランダースの犬のネロ君とパトラッシュのように、ルーベンスの絵の前で死ぬなんてことはありえない。下手をすると、宗教画は偶像だから、と死ぬ前に破壊工作の一つや二つは試みるかもしれない。まるでISISというか、ダーシュの皆様のような行動をやりかねないし、実際に教会堂の中にある聖人像とか宗教画を破壊した宗教改革時代の人々もいる。

    教会と十字架に関して言えば、以前いた貸店舗を借りていた教会でも、10年くらい前に教会の外から見えるところに十字架マークを付けるかどうかでかなりシビアなディスカッションになったことがある。あるいは、お葬式の時にも十字架マークを付けるかどうかで葬儀社を前にして小田原評定したこともある。まぁ、どこまでも、目に見えるマークとしての、象徴である十字架マークを徹底的に忌避する人々の一人であった。とはいえ、新改訳聖書第2版原理主義とか、日本語聖書を字義通り解釈するとか、そういう特定聖書に以上に価値を置いている方々も少なくなく、象徴としての十字架マークはダメで、象徴を含有する聖書の特定翻訳を異常に尊重することはいいのか、と思うことがあった。こういう偏ってあることに思い入れを持つことは、平気でされつつも、十字架マークはNGとかおっしゃる方々ではあった。

    ミーちゃんはーちゃんを含め、「聖書のみ」というよりは、「新改訳聖書第2版のみ」という部分があった。ある時期は、「新共同訳聖書」を引用することすら、自粛せざるをえないような雰囲気もあった教会もあったのである。

    教会とおしゃれ
    意外だったのは、アメリカ系の福音派的な背景の強い森先輩が、福音派的な教会では敢えて質素な格好で来る、というご発言だった。意外に思ったのだ。というのは、長らく集っていた教会では、ラフな格好で来ることはあまり良くなくて、かなりバリっとした格好で行くことがよしとされていたからである。

    キリスト者のグループとしては、親戚関係にある中野パークサイドチャーチ関連のサーヴェイをしていた時だと思うが、同信会さんの初期のイギリス人自給開拓伝道者のブラントさんは、夏だろうが、なんだろうが、かなりバリっとした格好(たしかモーニング姿)で教会に来られているという記述や、初期時代の同信会さんの会員さんは、紋付き袴で来ておられた、と言ったような記述がかなり散見されていた。そういうバリっとした格好で神の前に出るのがよしとされていた時代も確かにあった。 

    米系のキリスト教では、日曜日用のドレスSunday Dressという定番商品があり、教会行き用のキレイ目なドレスがある。その手の話が大草原の小さな家で出ていた。大草原の小さな家のテレビドラマ的なインガルス家の宗教的背景であるが、米国バプティストか米国系メソディストのような印象があるが、設定はあまり明らかではない。しかし、ローラのお父さんが説教してたような記憶もあり、恐らく、米国パプティスト系に近いという印象がある。

    (と書いたところで、投稿した同日中に、八木谷さんから、インガルス家は会衆派であるとツィッターで通報がござった。また、
    筆硯独語殿からは、同様の指摘と共に、Reverend Alden(オルデン牧師)が実在の人物とのご指摘がござった。ここに感謝もうしあげると共にご指摘を記載する)


    Sunday Dressの例 https://www.pinterest.com/bnb99/little-house-on-the-prairie-party/ から

    ところが、同じような新新プロテスタントでも、日本に来ると、質素な格好がよしとされる部分もあるらしいのだ。森先輩はご婦人の服装について、
    松谷
    でも、教会には何かおしゃれとか、見た目とか、かっこいいとか、そういうものに対する忌避感がありますね。多分それはクリスマスやイースターにも関係しますが、世俗的なもので着飾ろうとすることや、見てくれをよくしようとすることにそもそも価値を見出さない。

    普段はおしゃれをしているご婦人たちも、日曜日に教会へ来るときは敢えて質素な格好で来ます。清貧の思想というか、教会にはいいものを着て行っちゃいけないという感覚でしょうね。(同書 p.186)
     ここで、意図的に質素な格好を目指すのは、製品の思想、ということもあるかもしれない。しかし普段おしゃれしているご婦人たちが合えて日曜日に質素な格好で来ることの背景には、聖書逐語的な解釈の背景があり、
    【口語訳聖書】第一ペテロ
     3:1 同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、
     3:2 あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。
     3:3 あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、
     3:4 かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。

    と言ったような表現が、教会に質素な格好で来る原因になっているとか(じゃ、普段オシャレするのはどうなのよ、って感じもするけど)、あるいは上の第1ペテロの聖句をもとに過去、教会でのおしゃれが公式に、あるいは非公式に批判された学習効果が今日まで続いているとか、ってことも米国系の福音派という米国系新新プロテスタント派の日本支部教会ではあるかもしれない。

    服装といえば、前にも書いたことがあるかもしれないが、サンタバーバラで言っていたShoreline Churchでは、説教者が意図的にアロハを着て登壇したりしたことが何度かあるが、その場でも、ダーク系のスーツにネクタイという60前後のおじさまたちもおられた。こういうドレスコードがない教会も実に気楽で楽しかった。

    なお、個人的には、カジュアルな格好で教会に意図的に行くことにしていた時期がある(いまでもそう)。というのは、そこに来ている人たちが普通の人たちであることを服装というメディアで示すためである。ある時期まで、日曜日にネクタイ・スーツのサラリーマンスタイルでそれまで行っていたのだが、それがなんか会社の延長線みたいでいやだったからである。しかし、教会の在る方からは、御小言は言われた。「神聖な日曜日の礼拝に…」と。そこまで神聖だ、というなら、以下の図のような格好でやられればよろしいと思う。

    ロシアハリストス正教会の司祭の皆さん
    http://www.rocor.org.au/?tag=centennial-park から
     ここまできちんとした伝統的なユダヤ祭司服の伝統をひく服装なら、だれがみても文句なく神聖に見えるであろう。まぁ、最初はいった人は、ドン引きするだろうけど。

    日本的祭式とのかかわりについて
    日本では、端午の節句、七夕、お盆、秋の彼岸、七五三、お正月、節分、ひな祭り、春のお彼岸、と結構、暦に依存した行事ごとが多い。もともと、日本の産業構造の中心産業が農業であった時期が長かったため、その農事暦に応じて、行事が定められており、また、それが自然状況に依存しているようだ。四季の気候変動の多い日本では季節ごとのけじめ、節句ということの意味は大きいのである。そして、それは日本人の身体性にまで昇華した文化になっているので、後から来たキリスト教の入り込める余地ができるには、もう少し10年単位の時間がかかるかもしれない。
     
    松谷
    キリスト教には本来ない習慣である、元日、お盆、七五三などのイベントはどうされてますか。例えば元日礼拝とか、世間の暦に合わせた行事を、形を変えてやった利する教会もある様ですが。
    晴佐久
    カトリックは全部そろってますよ。七五三の祝福式では、千歳あめを聖水で祝福して配る。千歳あめの袋にマリア様がついていたりと何でもあり。それこそパウロの時代から、宣教師の中にはその土地の宗教に合わせて、それを利用しながら本質に導くという伝統的な手法があるのかもしれません。(中略)

    私たちはほとんど制反対ですね。世俗的だからと、クリスマスをやらない教会まである。
    松谷
    「福音派」の教会ですか?

    はい。講解説教という聖書の順に従って連続した説教をする教会で、クリスマスだからといって特別にクリスマスの説教はしない。決められた順序を徹底して頑固に守ります。
    松谷
    教会歴(降誕、受難、死と復活など、キリストの障害の出来事を1年サイクルで記念した教会の暦)も関係ないんですか?

    そういう教会には、そもそも教会歴がありませんから。でも意外と元日とか子供祝福式はあって、若いころに「聖書に書いていないから、やっぱり異教の行事じゃないか」と質問したら、「元日礼拝をやらないと、みんな初詣に行っちゃう 」 と。それはまずいというわけです。(p.189)

    カトリックの日本の季節ごとの節句儀式の吸収っぷりは、カトリック自体の包摂の論理もあり、伝道のためなら、譲るところまで譲るというカトリックの東方経由、インドのゴア経由の伝道方策とパラレルな関係にあるものと思われる。


    マリアの絵入り千歳あめ袋
    http://irodorifuwari.blog.fc2.com/blog-entry-70.htmlから

    実際、マテオ・リッチにかんしては中国伝道において、儒者(儒学者)風の格好をしている画像が残っている。このあたりは、上智大学の川村先生のご所論が大変参考になるように思う。もう少し詳しくは、こちら 上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(2) でもご紹介しているところである。

    マテオリッチ 
    http://econgeog.misc.hit-u.ac.jp/excursion/09manchuria/column/catholic/index.html より

    しかし、森先輩のクリスマスをやらない教会がある、というのは良くわかる。実は、ミーちゃんはーちゃんが信仰を持った教会とつながりの深い教会群にもそういう教会群があるからである。その教会群では、クリスマスは、聖書的に日程の特定するための聖書箇所がないので異教的であること、クリスマスの日が12月25日の日程設定の根拠が薄弱であること、カトリック教会から継承された日程であることなどが障害になり、一定程度伝道の機会となるとはわかっていても、クリスマスは教会行事としては無視するという論理構成になっているのではないか、と想像する。それはそれで見識として評価する。また、Facebookでコメントをくださる、改革長老派の某伝道師の方は、イースターも関係なく講解説教をされたとFacebook上で公開しておられた。一つの見識として高く評価したいと思う。

    ところで、お宮参りの代わり、あるいは幼児洗礼の代わりの子供祝福式も、あるいは仏教の●回忌にあたる記念式も、ミーちゃんはーちゃんがある時期までは取り組んでこなかった。そんなことは異教的であると、10年くらい前までは、完全に無視してきたが、信徒さんや、信徒さんの関係者の声に押されて、「伝道の機会として」という大義名分で取り組み始めた時期があったが、今は、それを言いだした方が移転されたので、今はもう、やらなくなって久しい。おそらく以前からの聖書原理主義、「聖書の中にあるのかないのか論争」の結果、「聖書の中にない」従って、「やらない」という論理構成の方が、今は強く出ているのだろうと思う。個人的には、確固たる神学がなく、伝道の機会だからOKだというのはねぇ、というのは論理構成としては弱いと思っている。しかし、こういうことをやってはならん、といっているのではない。やるならやるで、「伝道のためなら何でもOK」という根拠として薄弱な論理構成でやるのではなく、その対象をどう聖書から落ちつけて納得できるのか、聖書テキストに基づききちんと考えた上で、「伝道という側面を加味し対応する」という慎重さがあればよいのだが、そんなことは面倒くさいのか、あるいは、そこまで考え抜く能力が欠けているのか、こういうことの議論の後ろにある明確な理解が説明されることは聞いたことがない。残念なことだと思っている。

    もし「伝道のためなら何でもOK」というなら、アンパンマンショーでも、ウルトラマンショーでも、プリキュアショーでも、教会でやって人集めをされたらよろしいのではないか、と思う。教会は子供たちと写真・ヴィデオをとろうとする親たちで黒山の人だかりになることは間違いない。


    プリキュア・ショー http://blogs.yahoo.co.jp/movelc80/64341437.html より

    しかし『プリキュアにみる聖書のインターテキスト神学』とかやる日本人神学者とか教役者は出ないもんだろうか。そのうえで、プリキュア・ショーを教会でやるというのは面白いと思うが。こういうことを書くから、いろいろといわれてしまうのかもしれないが、イケメン編集長に聞いたら、香港あたりの司祭で、こういうことをやっている人がいるらしい。

    世間との距離感
    福音派では世間との距離をとることに関して、森先輩は次のようにお書きである。この感覚は、あぁ、わかるという感じである。線をひくというよりは、等高線をひく感じなのだと思う。自分たちが神に近くより正しい、より高い、という位置として暗黙に想定し、世間は、より神から遠く、神から見れば誤っており、より低いと認識している福音派的な世界に関するメンタルマップの存在があるように思う。

    しかし、まかり間違っても春佐久先輩のように「 現実はグラデーションだから、線はひきようがないと思いますが」と、「この世と迎合してはならない」とおっしゃっておられる、牧師先生や年長の信徒の皆様に言わない方が御身のためであると思う。

    言ってもいいけど、「当局は一切関知しないからそのつもりで。なお、このテープは直ちに処分すること。ピィ―――ー」なのである。



    スパイ大作戦の作戦司令 オープンリールというのが70年代ハイテク

    私たちはどうしても、「この世と迎合してはいけない」と、ことさらそこを強調します。社会の中にあって、それらとどこで線をひくかというのが、昔からの課題ですね。
    晴佐久
    現実はグラデーションだから、線はひきようがないと思いますが。
    松谷
    教会の葬儀で、遺影すら置かないという話を聞きました。

    写真を前におくのは、偶像崇拝だからだめということです。
     教会の葬儀ではなかったが、教会員の葬儀を会館でやる時に、これまたお亡くなりになった信徒の方の写真をどこにおくか、キリスト者のお亡くなりになった信徒の方のご遺族の方がお持ちになられた供物(果物類)をどうするかで、これまた小田原評定である。とはいっても、こういうことについて、延々小田原評定を繰り返すこともできないので、葬儀はその場の瞬発力と判断力が求められることになる。

    ご遺族の方のお気持ちとしては、「写真がないのはつらいので、ご遺族はできるだけ前、正面においてほしい」とお考えであり、実際にそう言われたこともある。しかし、正面にデカデカと掲げると、これまたそれを見て、キリスト者でないご遺族の方が、日本型の仏教式の様式に従い、写真に向かって成仏して悟りを開いた対象かのように、拝み始める方が出てきてしまう。そうなると、偶像崇拝チックになってしまう…。

    あるいは死者のための供物は、これは偶像崇拝にあたるのか、これを拒否することは、ご遺族の弔意や感情を逆なでしかねないのではないか…などなど、結構葬儀を一つやると、葬儀そのものよりも、あるじは葬儀説教や前夜式の説教そのものよりも、こういった葬儀にまつわる判断をその場で瞬間瞬間でこなしていかなければならないことも多いので、結構大変なのである。

    なお、このあたりの事に関しても、Ministryの古い号で、みんなで葬儀、というような特集があったように記憶している。あの号も大変参考になった。

    また、お墓や結婚式についてもプロテスタントとカトリックの違いがあることの説明があった後、カトリックが違って見えても、その中身は成文によるので安定していたり、フィリピンでのフィーバーするマリア像の話が出たりした後、教会の違いとして、福音派について森先輩がこのように語っておられたのが印象的でした。

    福音派とは何か、福音派をどう定義するか
    こないだ、たまたま東京に行くことをFacebookに書いたところ、いろいろお世話になっているイケメン編集長こと、この本の編集人というか著者の松谷信司先輩と飯田橋のファミレスでお会いすることになった。

    その時に、「福音派って何でしょう、その中身はどんな感じで理解しておられます」と個人的意見を求められた。こういうのこそ、福音主義神学会で教会史ネタをやっておられる先輩方にお願したいのであるが、福音主義神学会での教会史ネタは、全体を俯瞰する歴史というよりは、自派の歴史=教会史となる傾向が福音主義神学会関係者で強いように思うのはたぶん気のせい…。ところで福音派の定義なのだが、どこまでを福音派とするかという問題が生まれかねないこと。もともと、マクグラスなどの本での福音派の説明として、16世紀の福音派の文章をカトリックの司祭団が読んでいた、とかいう表現に見られるように、宗教改革で分離していった古プロテスタント派をも福音派と称することもあり、混乱が著しい。

    現在のプロテスタント全体からのコンテキストで言えば、以下の森先輩の英国国教会の在り方に不満を抱え、「国教会に反対して…」とした人々がアメリカにわたって独自に展開したプロテスタント型キリスト教の一部、ということになるのだろうと思うが、より正確には、国教会の在り様や国家と一体化して政治的な要素を持つキリスト教会であった英国国教からの分離派がアメリカでさらに独自に発展した新新プロテスタント派型キリスト教会が日本に伝わったもの、という理解がよいかと思う。 

    「福音派」というのは、イギリスの国教会に反対して、ピューリタン(ジュネーヴの宗教改革を模範として、さらに徹底した改革を主張した英国国教会内の一派)でアメリカに行った人たちからできた流れが一番多い。だから、例えば当時のアメリカでは禁酒法があったために、いまだに聖餐式でぶどう酒はほとんど使わず、ブドウ液(ジュース)を使います。当然、お酒も飲まないし、映画を見てはいけないなどがありました。今はかなり変わってきていますけれど。こういう教派を超えたエキュメニカル(教会一致)という流れや、いわゆる「リベラル」な自由主義神学に対応して、我こそは「福音派」だということでエヴァンジェリカル(福音主義的)であり、かつコンサバティブ、保守派といってもいい。聖書の無誤性、無謬性を強調し続けていて、聖書は誤りのない神のことばであるから、一字一句を文字通りに解釈しなければならない(逐語霊感説)という立場です。
     福音派が形成される中で、聖書に基盤を置くものという意味でのFundamentalismというラベル(なぜかは知らねど、日本では原理主義と訳された)が20世紀の前半に科学主義との対抗の中で、本のシリーズの略称であったFundamentalsというシリーズ名からFundamentalという語が生まれ、この聖書原理主義的な名称だとイメージがいかんせん悪いので、福音派の主張と聖書原理主義の主張がほぼ重なっていることもあり、Evangericals( 福音派 )と米国で呼ばれる(あるいは自称する)ようになり、その訳語として日本で福音派が定着していると思う。その意味で、古プロテスタント(ルター派及びカルヴァン派)も福音派と呼ばれることがあり、米国系新新プロテスタント派も福音派という語が用いられることに混乱の原因があるように思えてならない。残念なことであるが。
     森先輩がおっしゃっているのは、Fundamentalistともよばれる人々が米国で、ハーバード、イェールの神学が変質した結果生まれた理神論的な米国系新プロテスタント派に対抗して何となくまとまり始めた時期に、女性参政権やアイルランド、イタリア移民(いずれもカトリック教会の影響力が強い地域)への差別の一環の中とのかかわりの中で、禁酒法が生まれていったため、その時代に成立した米系新新プロテスタントとしての福音派では、カトリック信徒や古プロテスタント派、あるいは新プロテスタント派の皆様との違いの強調の意味合いでアルコールに対して否定的なっ視線を向けていったため、ブドウジュースがつくられ、その結果生まれたのがウェルチ(日本ではアサヒ飲料が販売)のブドウジュースである。なお、ウェルチと聖餐式の関係はこちらのアサヒ飲料のサイトをご覧いただきたい。愛されて140年またはウェルチのサイトhttp://www.asahiinryo.co.jp/welch/history/(←クリック)をご覧いただきたい。

    なお、いわゆる米国系新新プロテスタント派としての福音派的な聖書無誤論に関しては、以前、津ののらくら者先生からお願された時に書いた記事があり、福音派的な聖書無誤論、無謬論、聖書解釈との関係についてどう考えているのかは、ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論 をご参照賜りたい。あるいは、藤本満先輩の『聖書信仰』も参考になるのでご一読をお勧めする。

    この福音派、あるいはファンダメンタルズ関係者は、そもそも、アメリカの伝統的な支配階級であるハーバードやイェールなどのアイビーリーグの卒業生を中心とするエスタブリッシュメント(この辺がもともと民主党、DemocratsやGOP Good Old PartyとしてのRepublicansを構成した)への反動として生まれたが、そのうちの政治的に保守的な人々というか、好戦的な人々が福音派右派(Evangelical Right)であり、ホーマー・シンプソン氏に代表されるような、その中でも都心の一等地に居住できない人々、より下流側に近いの中産階級、これから社会階層の梯階を上がりたいと思っているけれども上がりそびれている非都心地域居住者の中での、労働者階級、下流側に近い中産階級の人々と福音派右派のかなりの部分が形成し、それが支援しているのが、基本的にはドナルド・トランプ君であり、彼の登場によりわしらも一旗揚げたいぞ、ということが、2016年の大統領選挙でのトランプ支持の背景にあるのではないかと思っているが、これは完全に余談である。大統領選挙の予備選が信仰ちゅうのであるので、ご紹介した。


    ドナルド・トランプのカツラ疑惑を揶揄したシーン


    2015年当時の大統領候補者たちを揶揄したシーン

    上の動画で出て来る、ホーマー・シンプソン氏の隣に住んでいるネッド・フランダース氏は、福音派的人物を象徴する人物であり、Everybody hates Franders (全米の人はおバカなお隣さんのネッド・フランダースが嫌い)という歌まであるほど嫌われている。


    フランダース氏嫌い というホーマーシンプソンさんによる歌


    ということで、今回でこのシリーズは終結します。ご清覧感謝申し上げます。


     
    評価:
    松谷 信司
    ポプラ社
    ¥ 842
    (2016-03-01)
    コメント:面白いです。対談部分がすごくはっちゃけてて好きすぐる。

    評価:
    森本 あんり
    新潮社
    ¥ 1,404
    (2015-02-20)
    コメント:今年の状況まで読み込めてはいないが、参考になります。

    評価:
    小原 克博,中田 考,手島 勲矢
    PHP研究所
    ---
    (2006-09-16)
    コメント:非常に原理主義の背景を分かりやすく、イスラムやユダヤ教の立場を含めて書いてあります。同志社大学一神教センターの成果

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