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2016.03.30 Wednesday

松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ(5)

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    本日も、キリスト教のリアルからご紹介してみたい。前回の記事が長めになってしまったので、連載枠のもう1回追加が決まってしまった。今回も神学校についてのおはなしである。

    司祭として学ぶという経験
    神学校の同期生で、牧師をしている人たちとの連帯感について触れられた後、カトリックでの神父養成について、晴佐久神父は次のようにお話である。非常に印象的な部分をご紹介したい。

     カトリックの神学校は最低6年間で全寮制。正に出家。その期間は何かを学ぶというより、捨てる。もっと言わば捨てさせられる時間でしょうね。意気揚々と神学校に入った時のことを今でも覚えていますが、その後、勉強すればするほど、自分に自信が持てなくなるというか、信仰の闇みたいなものにのまれていって、半ばのころはほとんど絶望的で真っ暗な状態に陥って、神父にならないどころか生きていくことさえ無意味に感じるような完全な闇に覆われました。(『キリスト教のリアル』p.165)

     このカトリックの司祭教育の中で捨てさせられることを学んでいく、ということは、一度、片柳神父にお話を伺ったときにも、同じ話をお伺いした。その意味で、捨て身になるということを学んでおられること、その捨て身のの姿であるからこその強さ、みたいなものは、カトリックの司祭の方とお話していると、感じるところである。上智大学には、化学とか物理を教える司祭教員(上智大学の今どきの学生は、ファーザーと呼ぶらしい)がおられるようだが、それを目指して司祭になる人々もいるらしいが、そういう人はなかなかそう思い通りに行かないらしい。面白かったのは、信仰の闇に巻き込まれていく、という経験である。

    学問の世界も似たようなところがある。やってもやってもキリがない、賽の河原の石ころ積みたいなところがあって、奥に行けば行くほど、別の世界が見えてきたり、別の世界とつながってたり、と思って奥の世界のドアを開けた途端、舌切り雀の欲深の意地悪爺さんが大きなつづらを開けたときのように、どわーーーっと学問の妖怪どもが押し寄せてくる感がある。
     

    月岡芳年作 新選36妖怪 おもゐつつら
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yoshitoshi_The_Heavy_Basket.jpg

    こういう経験を修士2年のちょうど修士論文に着手し始めた秋口に経験し、絶望的な気分になって以来、この種の経験を数年に一度繰り返しているが、年をとったことの良いこととして、何度もこういう経験をする中で、全部を知ろうとしない、網羅しなくてもいいかも、と手を抜くことを覚えたことがある。本当はいかんのだけど。
     
     いまだにこういう絶望的な気分になっているときには、夜寝ていて、自分が背中から、暗黒の中に落ちて手足をバタバタしそうになる、という夢を見ることがある。これは非常に恐ろしい経験であるが、個人的には時々起きる。特につかれているときに起きる。ありがたいことであるが、最近はあまり起きていないが。

    外部へ手を広げていくこと
    キリスト教は、外に向かう徳性を持っている。それは、イエスが弟子たちを派遣した時の表現、
    【口語訳聖書】マタイによる福音書
     28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
     28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
     28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」
    にも表れるように、外側に向かうタイプの方向性を持っていることは間違いはない。枠の中に閉じこもるのではなく、自分たちから外に出ていく方向性をイエスの復活以降、非常に強くしていく。復活前には、異邦人の道、サマリア人のところに行くな、とはおっしゃっているが、復活後には、ユダヤ人と異邦人の境がないことをかなり明確に出しておられる。

    なぜ、イエスの福音が広がっていないのか、ということに対して、晴佐久先輩は、次のようにおっしゃっておられる。
    晴佐久
    いつも言っているのですが、信者の数は福音を語った数に正比例します。これは自分の実感で、間違いなくそうです。福音というのは、「あなたは救われている」とか、「神様は本当に愛しているよ」とか、「大丈夫だよ」という、はっきりした神様からのメッセージ。今、それを必要としている目の前の人にまごころから宣言すると、必ず救われます。だから私に言わせれば信者が増えないのであれば、それは福音を語っていないから、あるいは福音ならざるものを必死に語っているからでしかない、ここだけは確信がありますね。(同書 pp.168−169)
    晴佐久先輩は、福音とは、まずは 「神様は本当に愛しているよ」 とか、「大丈夫だよ」 あるいは「もう大丈夫」と教会に来られた人々に、まず、神と出会ったこと、そして、自身を持って生きていくことをお勧めになられているらしい。あるいは、いったん教会で信仰を持ったものの、その後の信仰生活で何らかの事情で神のもとから離れた人々に対しても、 「あなたは救われている」 とおっしゃっておられもするようである。「あなたは信仰の破船にあった」とかいわずに。ただ、ご発言がわかりやすい分、誤解を招きやすく、晴佐久先輩には、時々、異端的な匂いを感じる場合もないわけではない。しかし、この晴佐久神父と聖地巡礼に行かれるツアーでは、チャータした飛行機が2機丸々埋まるというから、本当に化けものである。カトリック教会にはこういう化けものみたいな司祭の方がおられる。

    ただ、今回の記述の中で、必死になって伝道と呼ばれる行為をしていても、信者数が増えないのは、「それは福音を語っていないから、あるいは福音ならざるものを必死に語っているからでしかない」とまで言っておられる。実に耳が痛い。福音ならざるものを必死に語っている、というのは、まさに、問題解決の第3種のエラーが発生しているのではないか、というご指摘のようである。第3種のエラーとは、ごくごく簡単に言ってしまうと、

    問題解決にあたるべきときに、間違った問題として現状をとらえ、間違った対応を必死になって取り続けること

    である。伝道はビラを撒くことでもなく、伝道とは、必死になって聖書の片句を語ることでもなく、あなたたちは罪人であるということでもなく、あなたには、神との回復がある、神はすべてを人、中でもあなたを愛している、とお示しすることではないか、というご意見なのだろうと思う。ビラを撒くことも、聖書の片句をお示しすることも、神との回復がある、神の愛を示すための手段であるはずなのだが、そこに先験的な聖書の読み、聖書理解が前提とされる関係で、その先験的な聖書の読みを示す、受け取ってもらうということが優先されることも少なくないようである。その結果、福音が後退し、先験的なある種の聖書の読みを取得することが福音であるという理解になるのかもしれない。ことに、文字や聖書理解にこだわりの強いプロテスタント派では、一層この傾向は強いように思う。

    こう考えると、必死の努力をして神のもとに人々を、子供たちを含め呼び寄せるのではなく、自分たちの聖書理解に価値があるということを大事にしすぎるあまり、神のもとから人々を追い出し、追い散らしているようにしか思えない。まるで、イエスのもとから子供を追い払おうとした弟子たちのように。何ともやるせない気持ちになってしまう。

    サティアンと変わらない教会…
    教会が意図せずに持っている壁があるのではないか、その壁を超えて出ていくことに関して、関野先輩は次のように言っておられる。しかし、ある時期のある教会というイメージをお持ちの方から、様々なご高説を拝聴させていただく機会もあることを、次のようにお書きである。
    関野
    ある時、先輩の牧師から「教会も(かつてのオウム真理教の)サティアンと変わんねえぞ」といわれ、本当にそうだなと思いました。聖書研究会や講演会をしても、信者以外の方は絶対に来るわけないなと。初めて教会の外にいる人の視点がわかりました。牧師になってからずっと知っていたつもりでしたが、やはり教会が誇示しようとしているある種の壁みたいな、宗教の垣根みたいなものをぶっ壊さなきゃいけないなと思った。それで僕は、毎週水曜日、「牧師カフェ」というのを5年前からやっています。やり始めたときは、「映画館に行くのは不良」とか言われた時代の方々から、「カフェとは何ごとか」と大反対されました。でもそこで、「マルチン・ルター・ハウス」にするとだれも来ない。だけどカフェにすると人が来ます。そこで何か押し付けたりもしないし、勧誘もしません。(同書 pp.170−171)
    しかし、サティアンと変わらない教会ってねぇ。
     

    オウム真理教のサティアン http://matome.naver.jp/odai/2140293703331642901 より

    まぁ、上のサティアンのような建物はないように思うが、まぁ、入りにくい教会はそんなに少なくはないし、特に、キリスト者であっても他派のキリスト教会には入りにくいと感じるのであるから、キリスト教と縁もゆかりもなく生きた人にとってはさらに教会の中に入っていくのは大変、と感じるであろう。

    ほとんどすべての教会では、どなたでも歓迎しています、とは言う。しかしながら、本当にどなたでも歓迎していて、教会の中に入りやすいようにはできていないし、特に普通の民家のような教会では、どこからどうアクセスしていいのかすらわからないところもある。入っていくことすらためらわれる雰囲気すら漂うことがある。関野先輩は、その辺の透明性確保のためにこれまで様々なことを試みられておられるようであり、その一つとして牧師Rocksもあるのだろう。


    牧師ロックスの皆さん http://www.christiantoday.co.jp/articles/14818/20141216/pastors-rock-band-boxi-rocks.htm 

    そして、教会でカフェを「やり始めたときは、「映画館に行くのは不良」とか言われた時代の方々から、「カフェとは何ごとか」と大反対されました」ということである。
     この部分を読みながら、そらそうだわなぁ、と思ったのである。「映画館に行くのは不良」といわれた時代の方々からすれば、清く正しく美しくあるべき教会で、聖餐を司式する司牧がキャフェ―の女給如きがなすことをなぜにしなければならないのか、という理解なのであろう。まぁ、教会の礼拝もServiceであれば、キャッフェーの女給がなすことも、Serviceの一種ではある。ちゃんと英語の辞書を引いてね。

    カフェの女給図鑑
    https://www.1101.com/edo/2003-09-29.html

    NHKの連続ドラマ『あさが来た』の御三味線のおししょさんのカフェ
    http://blog.goo.ne.jp/yuzu0905_85/e/74930cdcd3bf38a0f80dead31d5ee46f

    まぁ、カフェというのは今で言うと、キャバレーとか、キャバクラとか、バーとかといった風営法の規定に引っかかりそうな産業ではあったのである。まぁ、今でももともと色町だった地域とその近所にはやたらと喫茶店があるのは、その時代の名残りであるし、やたらと喫茶店がある地域は、そういう風営法規定とのかかわりがある産業が多い可能性がある。まぁ、打ち合わせの場所がないから、喫茶店を打合せ場所にしていた会社もj高度成長期には多いから、何とも言えないが。キャッフェーとは、今で言うファミレスのようなものではなく、もうちょっと隠微な匂いが漂う可能性があった場所でもあるようである。このカフェの女給にいれあげた人物に、永井荷風がいるが、そのあたりに関しては断腸亭日乗でその一端が表れている。

    ところで、カフェというのはヨーロッパでは新聞というメディアが生まれ、商品取引所の原型が生まれ、保険事業の原型が生まれた場所であり、実は近代における人間ネットワークの結節点となった場所の一つであるのだと思う。教会はビジネスの原型が生まれはしなかったが、非公式な人間ネットワークの結節点を生み出す基盤の一つであったことも確かであり、それを関野先輩は、教会カフェということで取り戻そうとしておられるのかもしれない。まぁ、似たようなことは、フィリップ・ヤンシー先輩の本にもそのような働きをしている方のお話が出てくる。詳しくは、いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(2) を参照してもらいたい。


    牧師カフェ お品書き https://twitter.com/jelctokyo

    社会へのアウトリーチの窓口の持ち方と
    若い人がいない教会での新しい方法論への忌避感
     社会へのアウトリーチの方法論というのは実に様々である。関野先輩はコーヒーハウスという方法論で試みられているし、あるいは、インターネットを使う人々もいるし、あるいは、キリスト看板一本槍な人々もいる。まぁ、いずれにせよ神の国の到来をそれぞれがよいと思う方法論で試みておられるようである。川上先輩は、カフェボード(直上の画像参照)でお知らせされようとしたようである。まぁ、これは教界看板の変形の一種なので、ハードルは異様に低かったらしい。

    しかしである、それが教会のFacebookページとなると、Facebookってなにそれおいしいの?状態のお若くはない皆さんからの大反対にあってとん挫しかけたことを次のようにご紹介して居られる。
    川上
    少しでも入りやすい環境にしたいなと思ってやったのが、教会の表にカフェボードを置くということです。まず、東急ハンズで売っているような黒字のボードにカラーペンで、「今日ここで何時からこういうことがある。誰でも入れるのでどうぞ」ということを書きます。カフェボードを置いたら、これを書くようなセンスのある若い人もここにいるんだなと思ってもらえるし、さらに『子供でも来ていいんだよ」という意味合いを込めて、子ども向けの絵を書いたり、折り紙を張ったりしました。そしたら、間違えて本当にカフェだと思って入ってきた人がいたぐらいでした。あわせて、プロテスタントの場合は、本当に若い人がいない場所なので、まずは教会のフェイスブックページを作って、そこに次の日曜日にはこういうことをやるよということをアップしましょうよと提案しました。でも役員会では、大反対でした。『これらの教会がフェイスブックページを作っています」と一覧表を作ってもだめなくらい。(同書 pp.173−174)
    しかし、Facebookページを作るのに役員会が大反対、とは、実に現代風のあるあるだと思う。しかし、川上先輩、「プロテスタントの場合は、本当に若い人がいない場所」なんて公然の秘密を公表して大丈夫だったんだろうか。なんせ、一番若い信徒が50代とか60代という教会はざらにあるし、そういう教会に紛れ込んだお若い方々は、いろいろねちねちと事情聴取されてしまえば、嫌気がさして二度と教会に来られなくなるという例は少なくないだろう。教会は秘密結社ではないはずなのに。

    お若い友達に教会のことを紹介しようと思って、「インターネットのサイトを作りたい」、「ブログで紹介したい」、「Facebookのアカウントをとりたい」とかいった日には、「サイトって何?”すいとん”のこと?」、「インターネットって、出会い系サイトがあるところらしいですよね?」(おいおい)、「インターネットは悪魔の道具ですから」、「ブログって何?ブログで紹介って、雑誌の付録で紹介するの?」(学研の科学と学習の付録と間違われた可能性も…)、「フェイスブックって何?フェイスマスクとどう違うの?」ってことになりかねないらしい。

    これで、「教会に若い人が来ない、若い人が来ない。ボクシの努力不足だ、もっとトラクトまいたら人は黒山の人だかりになるはずだ」というのであれば、時代錯誤も甚だしい、といわれても返す言葉はないだろう。今の二十歳代の学生諸子からは、「そんな昭和ちっくな・・」といわれてしまって終わりである。

    「いやいや、由緒正しい形で伝道すれば…」とおっしゃるなら、それを続けられたらよろしい。そして、縮小均衡に陥って自滅される日に向かって、カウントダウンをされればよいと思う。すべての人は、昭和な人と同じでないのである。昭和な人は、「多くの人は自分と大体同じ」という概念に毒されておいでなので、自分と異なる、自分とタイプと異なる人をすぐに「常識のない人」扱いして、終わりにされたがるのである。

    ミーちゃんはーちゃんが思うに、「新しいものにチャレンジしていくチャレンジ精神のない根性無しの根性主義者」としか思えない。自分たちの成功方程式に縛られ、その成功方程式にこだわり続け、それを根性主義で貫き続けられるのは、その方個人にとっては大変結構なことかとは思うが、本当にそれでいいのか、と思うのである。

    自分たちの成功方程式に縛られ、その成功方程式を維持しようとして失敗したのは、近年ではシャープさんの液晶事業がそうであったし、サンヨーさんの白物家電がそうであった。もう少し昔に戻れば、一時期倒産しかけたハーレー・ダヴィッドソンがそうであったし、イギリスの自動車メーカーがそうであった。もっと昔に戻れば、清帝国もそうであったし、江戸幕府もそうであったし、ヴェネツィアの没落もそういうところがあるし、ローマ帝国もそうであったし、カルタゴの没落なんてのも似たようなところがある。

    ある時代の方法論における成功の方程式は、その後の時代においても、方法論における成功の方程式ではないことくらいはもう少し認識されていてもいいように思うが、それが認識できないのが、人間というものなのかもしれない。

    まぁ、いずれにしても、新しい酒を古い革袋に入れないほうがよいということは、もう少し教会の中でも、ユダヤ教の枠組みの中に人々を入れ続けない、ということ以外にも広い含意があるのではないか、ということについて、考えたほうがよいかもしれませんなぁ。

    をされなカフェの看板
    http://www.tocobook.com/cafesignboard/



    アイフォン珈琲と一瞬空目したサイフォン珈琲を出す喫茶店の看板
    http://tabelog.com/tokyo/A1311/A131106/13075786/

    次回へと続く

     
    評価:
    松谷 信司
    ポプラ社
    ¥ 842
    (2016-03-01)
    コメント:非常に面白い。

    評価:
    晴佐久 昌英
    カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所
    ¥ 1,512
    (2010-01-20)
    コメント:非常に清々しい。福音とは、まず、神の一方的な宣言であることを明白に示しておられる。

    評価:
    スコット・マクナイト
    キリスト新聞社
    ---
    (2013-06-25)
    コメント:福音を取り戻す、ということをプロテスタント側の新約聖書学者が書いた本。

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