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2016.03.26 Saturday

松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ へのご反応(1)

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     松谷信司著『キリスト教のリアル』のご紹介記事をここのところご紹介しているが、Facebookやツィッターでの反響が非常に大きい。Facebookでは、ご紹介後3日もたつのにもかかわらず、その記事に関する反応とそれに対する議論が今なお続いているほどである。

     ある種、炎上覚悟でこの本をお出しになられた松谷信司先輩には、本当にこころからの感謝をいたしたい。

     あまりに上品すぎて、足を地に直接つけたことのないほどのお上品さをお持ちで、真面目なキリスト者の皆様(まじめに不真面目なキリスト者を目指すミーちゃんはーちゃんのようでないキリスト者でない方)からは無視されるか、眉を顰められるかねないことをご紹介しているが、公開24時間以内にFacebookのいいねが120を超えたのは、初めてであるので、正直驚いた。紹介後3日経過した現在、262いいねである。

     前々回、前回の 松谷信司著『キリスト教のリアル』の記事に、いくつかTwitterでの反応やFacebookでの大量のコメントがあったことは先ほどご紹介したが、そのうちなるほどなぁ、と思ったことをご紹介してみたい。

    山中の祈祷院、軽井沢の修養施設の普段の生活
     いつも面白いブログ記事をあげておられるfuminaruKさんから、こんな内容のコメントを頂いた。

    牧師館の下りで思い出したのが、ある地方の山中の祈祷院という名のすごいボロ屋。献身されたご夫妻で管理していて、そのご苦労たるや涙なしに語れないレベル。でも月に数組しか訪れない利用客を笑顔で迎えておられた。

     このコメントは、牧師館の厳しさを書いた部分、あまりにぼろぼろな生活環境を強いられながら、それでも奉仕される牧師先生方や、奉仕者や献身者のお姿についての別の方のご紹介という形でご反応を頂いた。牧師館ではなく、fuminarukさんは、祈祷院というところで奉仕されている方のお姿をご紹介してくださった。何もない山中で、ご一家で、わずかな利用者のために非常に厳しい環境で過ごしておられる方のお姿である。しかし、こうなると信仰という名の人間疎外を超えて、下手をすると、献身者という名の搾取構造、という気もしないでもない、と思えてきた。

     似たようなことに関して、軽井沢という町で奉仕されている宣教師ご一家のことを思い出した。

     軽井沢というと都会の人間からすれば、特に東京近辺に住む方々からすれば、非常に恵まれた自然豊かなあこがれのリゾート地という側面がある。別荘やペンション、ホテルで休暇に行く場所としては確かに素晴らしいし、以前は夏に軽井沢でリトリートをすることが個人的には何より楽しみな時期があった。自然の中で神と人に受け入れられ、そして施設の利用者としても受け入れられ、実際に非常に豊かな恵みを受けたのである。そのことに関する感謝の念は非常に大きく深いものである。

     ところが、しかしである。よく考えてみれば、都会の人間はそこで数日、1週間ほど過ごし、豊かな恵みを受けて軽井沢から都会に帰れるのであるからいいのであるが、施設の運営をしている皆さんはそこに残られるのである。確かに、軽井沢町の不動産関連税収が豊かである。しかし、財政的に豊かであるからといって、常住人口数千人の町である。自治体としての財政力指数という指標から見た軽井沢町の財政的な余裕の可能性は高い(財政力指数に関しては、長野県内トップの超優良自治体)とはいえ、そうポンポンと公共施設を持つことはできない。小学生中学生数が少ないので、やたらと小学校があったり、中学校や町営病院とかがあるわけではない。そんな環境の中で、お世話になったキリスト教関連の青少年向け修養施設の管理をしておられる方々はお住いなのである。例えば、小中学校まで冬場の厳しさに耐えながら、数キロの道を通学する、病院は少ない、町に一校しかない高等学校…といった雰囲気のところで、施設運営者の方とそのご家族は、1年のほとんどを、お過しになっておられるのである。

     しかし、それでも愚痴ひとつ言うことなく、である。実に頭が下がる。おバカなミーちゃんはーちゃんは、只々感謝するしかないのである。なお、その宣教師ご一家は、戦後間もないころに軽井沢でその修養施設を、建設業者さんの協力を受けながら、自力で建設なさり(それこそ驚異的である)、自力でメンテナンスなさり、非常に多くの日本の若者に、若者のために、信徒のためにご奉仕されてこられたご家族である。それでも、同じ時期日本にいた宣教師仲間からは、「あなたは山に対して伝道するのか」と嫌味交じりのことを言われたこともあるらしい。

     そういう非難めいたご発言にも耐えられてそれでも施設を維持・発展してこられた。個人的にはかけがえのないものをその方々のご尽力を通して、また、ご奉仕を通して、頂いたと思って感謝している。ここにその感謝の意を表したい。

     確かにありがたいのだが、現在、ご高齢となられた宣教師ご夫妻にも、子供さんや孫の皆さん方がおられる。それらの方々は、キリスト者向けのその研修施設やその周辺に、そこでの活動を支えるためにお住いなのであるが、1年に通算で言えばわずか数か月の利用ために、先に述べた厳しい環境にお子さんやお孫さんは、本人の希望とは関係なく済むことを強いられるのである。子供は親を選べないのである(親も子を選べないのも事実であるが…)。それを考えたとき、個人的には、それってどやさ、という感じがどうしてもしてしまうのである。そのご奉仕は、子供や関係者に多大な犠牲を払っていただくことを前提としたうえでのご奉仕になっているなぁ、と思ってしまうのである。

     だから、「その修養施設の管理にもあたっておられる宣教師ご夫妻とご家族の皆様方がえらい」ということではなく、ミッションとその関係者の皆様、特に子供などのご関係者の人生に影響すること、あるいは犠牲の大きさを思ってしまうのである。確かに、それは我々のためにそのような方々の人生のかなりの部分を切り裂いて、私たちに与えてくださった、ということでもあるとは言えるのだが。その修養施設の建設、運営を自分の神に対する奉仕として受け取られた開拓にあたられたご夫婦は、ある面で、その修養施設の建設や運営の奉仕が神からのミッションであると、その宣教師の方がお書きになられたものを読む限り、ご確信がおありであったようである。しかし、そのお子さんにそこまで神はお召しになっておられるのだろうか、あるいは、ミッションとしてお子さんにもそのミッションを与えておられるのかだろうか、ということはどうなのだろうか、と考えさせられた。個人的には、この種の問題をどう考えたらよいのだろうか、と久しぶりにfuminarukさんのツィートを見ながら考え込んでしまった。

    Facebookのコメントから
     また、関東方面の大学で教鞭もとっておられる岩本先輩は、次のようにFacebook上でコメントくださった。このお方は、今で言う『きらきらネーム』をお持ちの方で、最初はお名前の漢字をどう読むのか見当もつかなかった(大変失礼ながら、本当にそうでした)お名前をお持ちの方である。非常に印象的な文章であったので、原文そのままの転載をお願したところ、快く原文転載をご許可くださったので、以下紹介いたしたい。
     

    まず、ボクの教会は、教会に行けなくなった人たちを迎え入れる教会という性格を最初から打ち出していたので、何の義務もなし、出入り自由としています。ただ、ここは人の批判を聞かない教会とするということ(+教会の基本方針)は、毎週、週報の裏に印刷しています。

     また、牧師夫人という言葉はありません。ボクの妻は牧師の妻ではあっても、小学校の教諭であり、牧師夫人ではありません。もし、「牧師夫人」に何かを期待するのなら、教会内で「牧師夫人」という職位と報酬を与えるべきでしょう。しかし、聖書のどこを探しても「牧師夫人」というものを見つけることはできませ ん。牧師は献身していても、その妻は献身していない場合も多いわけですから、妻に何かを期待すること自体が御門違いなのではと思います。

     そして、牧師の子供。ボク自身PKでしたが、親は「神様は子供は作るが、孫は作らない」と言って、ボクが信仰を失っていた時も、兄弟たちが信仰を失っている今も、何も言わずにただ祈っているだけでした。それで、ボクも子供たちには教会に行けとは言っていません。家族が一緒に集まった時、一緒に賛美を歌って祈ることができれば、自分で人生の壁にぶつかった時に、自ら求めるようになるだろうと思います。「いつでもここに君の場所があるよ」と言ってもらっているような雰囲気があれば良いなとは思います。牧師の子供だからといって、それで他の子達より清いわけでも、立派なわけでもないし、だいたい、そんなことを期待されること自体、勘弁してもらいたいですよね。

     最後に、ボクの親も無年金です。本当に貧しい中伝道していました。今ボクが毎月定収入があるので、親の生活の何分の1かは支えていますが、こういう仕事をしていなかったら、どうなったのだろうかと思います。

     ボクは大学で教えながら、自由に伝道活動をしていますが、教会というシステムの中ではこんなことはできなかっただろうと思います。しかし、やはり、キリスト教界全体は、教会というシステムを中心に進んでいるので、システムとしての解決を模索する必要があるのだろうなと思いながら読ませていただきました。感謝!

    とお書きであった。Facebookでもやり取りがその後も続いているのだが、このいただいたコメントがあまりに素晴らしかったのでご紹介したいと思った。ご転載の許可を得て公開するところである。

     冒頭で、岩本先輩の教会では、人の批判を聞かない、という表現があるが、これは、対論しないとか、「批判的な意見に耳を傾けない」ということではなく、恐らくであるが岩本先輩のお人柄から考えると、「人の批判に従って自分の生き方を変えたり、人の批判のことばの片鱗ごときに自分の人生を振り回されない、支配されない、神が造られたその姿をまずは大事にする」という意味だろうと思う。個人的にはそう解釈している。

     

    教会に行けない人のための教会、って?
     晴佐久先輩の「おかえりミサ」ってお話を受けてのことであろうが、岩本先輩が司牧としてご奉仕しておられるような「教会に行けない人のための教会」って、どっか矛盾した話ではないだろうか、と思ったのである。確かに、教会は建前としては「どうぞご自由に、どんな方でもお越しください。歓迎しています」と教会は言っている部分はある。しかし、そこに来る人も、教会人の本音や下心を実に敏感に感じ取るのである。信徒になってからも、所謂「その教会の風に染まない」人は冷遇されるとまではいわないけれども、何らかのことで、教会の人々との関係にけつまずき、倒れ、教会に行けなくなってしまうことがあるように思う。その辺で教会から取りこぼされていく人々は、案外多いのではないか、と思う。その状況に対して、教会と教会人は、教会に来れなくなった人々の側にのみ責任をおっかぶせ、ひどい場合は、教会に来なくなった、これ亡くなった方々に対して、「信仰の破船にあった」とか「悪魔の手に落ちた」 とか "Hello?"(え、ちょっと待ってください、意味わかりませんけど、って感じの最後の o にアクセントが強く出るアメリカ人の英語表現)って言いたくなることを本人がいない場でご発言なさる教会人の方がおられることは承知申し上げている。

     そういう発言を聞くたびに、実に残念な気持ちになる。個人的には、「問題は相手の方の信仰だけですかねぇ」とは思うのである。そういうキリスト教の「どなたでも歓迎します」といいつつも、その裏で「信仰の破船」とか「悪魔の手に落ちた」とかいう敬虔そうに見える表現の背後にある二面性を人は感じ取った場合、「ま、もう、教会はいっかなぁ」という気持ちを教会に抱かれ、教会から自主卒業されていくのかもしれない。

     なお、ミーちゃんはーちゃんは、過去に同じ教会におられた同年配の信徒さんから、「あなたは悪霊につかれている」というご指摘のお手紙を拝領したことがあるが、面の皮が厚いのか、鋼鉄の心臓を持っているからかどうかは知らないが、その教会に行き続けたことがある。今でも、そのお手紙は、自分の反省材料としてありがたく保存している。なぜ、そのようなお手紙を頂いたのかをお尋ねするお手紙をお出ししたが、そのことに関するお返事はなかった。

     ところで、このコメントの後、いつもお世話になっているあるキリスト教書の出版事業をしているO先輩からも、「私のところでも教会に行けなくなった人のための教会をやってます(存じ上げてましたが…)」なんて話が次々に出てきて、「本当はこういう教会に行けない人の教会が増えたらいいとは思うものの、本来、こういうものが必要とされないのが理想なんですけど…」ということは感じたし、そのことはもコメントとして申し上げた。

    牧師の配偶者は献身者か問題
     さらに、岩本先輩は、牧師夫人問題をお取り上げである。今回は意図的に拾わなかったが、 松谷先輩の 『キリスト教のリアル』の中でも、御つれあい(配偶者)はノンクリスチャンという事例が川上先輩によって、取り上げられている。なぜ、意図的に拾わなかったかというと、一部聖書というよりは、自分たちの先輩たちが示した信仰の形態、教会人としての生き方に対して原理主義的な人からは、「ほれ、いわんこっちゃない。だから日本基督教団は…」という愚にもつかないご批判、ご高説が出て来そうな気がしたからである。そうしたら、本書 『キリスト教のリアル』 で松谷先輩が伝えようとしておられる意図や、そのご指摘しようとされている問題の本質がずれてしまうからである。

     それはさておき、牧師夫人は献身者ではない場合がある。それは、以前のミニストリー(何号か忘れてしまったが)で取り上げられた内容でもあるので、本ブログ記事では取り上げなかった部分はある。

     牧師夫人という職分をある程度明確に定義しておられる教団や教会もあるが、そうでない教会群も多い。それはそれぞれのキリスト教会の内部構造の問題であるし、キリスト教会の多様性の反映の一部でもあることなので、それぞれでお決めになられればよろしいとは思っている。但し、現実に牧会の現場に立ちあったことがある経験から言えば、どうしても男性牧師が多い(女性は教えるなというパウロの記述【口語訳】第1テモテ 2:11から 12 女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。から女性教職が否定されてきた経緯の結果だとおもうが)こともある。この結果、女性教職の問題が最近になって議論され始めた教会群もあるし、あるいはある教会群を揺るがす大問題になりかねない場合もある。英国国教会でも、確かここ数年で女性教職の問題が議論されたと記憶している。

     しかし、牧会の現場にいると、男性の牧師では扱いにくい問題や、教会が人数的には女性の方(中高年以上のお嬢様の皆様)がはるかに多いにもかかわらず、教会の方針の決定権を握るのが男性中心であることが多く、その結果妙なひずみも生まれかねないのも実態としてはあると思う。一種細やかな配慮の行き届く静脈の様な重要な役割を果たす女性の関係者が絶対に必要な部分があることは確かだと思う。しかし、水谷潔先輩の名言ではないが、ミーちゃんはーちゃんを含め、男性は中学生からこの辺の理解が成長しない愚か者 (ほぼ、中二病患者) であることが多いので、繊細なケアができる人が少ないのは、実に困ったものである、と常々感じている。ごく少数の例外として男性でも個のようなケア精神に富んだ方がおられることは否定しないが。

     そんなことを思ってたら、牧師謝儀(牧師給与)の件と絡んで、九州のN川先輩が、ある教会では、「単身の女性なら牧師としての経費が安いから、とかえって女性教職が求められる」とかいう一瞬信じがたいお話をお聞かせくださった。個人的にそれを聞いた時、「そんな失礼なことを…、ラピュタの呪いの言葉を口にして、ラピュタの光、神の雷を落とせるものなら(そういうムスカ大佐のような特殊能力はミーちゃんはーちゃんにはないが)…」と思ってしまった。また、その様に反応したことをすぐに反省したのだが。

    ラピュタ 神の雷 http://dobonkai.hatenablog.com/entry/2014/01/27/182601 より

     

    ムスカ大佐
    画像はhttp://blog.livedoor.jp/takanomerde/archives/2011-12.html から

    信仰の継承問題
     キリスト者家庭、徳に牧師家庭は完全であるべき論というわけのわからない理論がある(大体その根拠として用いそうな聖句くらいはいくつか思いつくが)が、現実はそうではないのである。

     岩本先輩は先に紹介したコメントの中で、次のように書いておられた。
    ボクも子供たちには教会に行けとは言っていません。家族が一緒に集まった時、一緒に賛美を歌って祈ることができれば、自分で人生の壁にぶつかった時に、自ら求めるようになるだろうと思います。「いつでもここに君の場所があるよ」と言ってもらっているような雰囲気があれば良いなとは思います。
    個人的には全くその通りと思う。まさに、御意である。いいね!を1万回押したい気分である。とはいってもFacebookの設計仕様はやっと ものすごくいいね! が利用できるようになった段階なので、こういう1万回いいね!ボタンを押すといったことはできないが。

     こういう無理のない信仰スタイルは本当に「あぁ、うらやましいなぁ」と思うのである。他人が期待する定規や理想像に従って生きるほど、つまらないことはないと思う。

     そもそも、子どもと親は別人格であり、ナウエンが言うように、子供は夫婦というカップルの中にやってくる来訪者であり、寄留者であるというのが、基本的に聖書の言っていることではないか、と思うのである。このあたり、月本先輩の講演記録 上智大学大阪キャンパスでの月本さんの公開講座に行ってきた(1)家出(出家)あるいは自立文化と旧約聖書  の部分もご参考にしてほしい。そして、夫婦は、共に神から送られてくる来訪者としての子供を家族の中に迎え入れ、共に楽しい人生の一時をアブラハムが貴重な小麦粉三サトンを使って歓迎した様に、神から与えられる来訪者としての子供をもてなすのことでもあるのではないか、と思うのである。こういうことを書くと、突然思い出したように、箴言のことばを出してくる原理主義的な方もおられそうなんで、かなわないが。

    無年金牧師問題の深刻さ
     神が養ってくださるという個人的な信念、信仰の問題はさておき、無年金、無保険牧師問題は人数が少ないからこそ、現在は問題になっていないが、将来における生活保護受給候補者を教会が構造的にも増加させるように思う。 あるいは 、現金収入の途が他になく、講壇の上でメッセージしながら死ぬのが理想という牧師の皆様を増加させる、という意味において、教会の無責任問題と等しいといわれても仕方がないのではないか、とミーちゃんはーちゃんは思うのだ。

     人間、誰しも老いはやってくる。それは痛切に50を過ぎると感じた。50肩なんて…と思っていたミーちゃんはーちゃんも、今50肩になっているのである。50肩だけではなく、もはや身体のあちこちはガタガタである。老いは遠慮会釈もなく確実にやってくる。

     無年金で、体がぼろぼろで、そして体力的にも牧会ができず、収入の途がなくなる、という方のことを考えると、現代の社会では生活保護の受給しかありえなくなる。牧師の無年金を教会の在り方として容認する、それに向かって突き進むというのであれば、もはや教会は無責任、単立教会の場合、その牧師は無責任という社会的批判を免れ得ないかもしれないとは思う。ことばは厳しいが。

     昔は人が60過ぎたら、ほぼご逝去なさっていたので、ごくまれにご高齢の牧師がいても困らなかったのであるが、今は医療や健康管理が進み、超長寿社会を迎えている以上、教会の側としても牧師の無年金問題は放置できない問題を持っているのではないか、と思うのである。

     そもそも日本語では個人経営のこじんまりした田舎にある宿泊施設という意味が強くなってしまった語であるPensionはもともと17世紀ドイツで国教会(国営教会)の牧師夫人の困窮のために王様が金銭的に支援したことや、芸術家の余生の支援のために王侯貴族や金持ちが個人的に金銭的に支援するという構造である年金という言葉に端を発しているらしい。ところがしかし、世界史的には、年金発祥の組織であるはずの教会で、牧師の無年金問題があるってどやさ、って日本の教会ってどやさ、って正直思っちゃいます。

    2足のワラジを履く牧会者の困難さの背景
     以前このブログでも、 二足のわらじをはく兼業牧師の牧会の危険性 の記事でご紹介したように二足のワラジを履く牧師、ということをご紹介したが、コメントを頂いた岩本先輩は、「大学で教えながら、自由に伝道活動をしていますが、教会というシステムの中ではこんなことはできなかっただろうと思います」とお書きの上で、教会というシステムがあると岩本先輩のような二足の草鞋を履く司牧としての活動ができない、とご指摘である。

     英国で教会というシステムが機能不全に陥っていると19世紀の英国国教会を批判したプリマス・ブラザレン派、あるいは19世紀の日本のキリスト教に異議申し立てをされた内村鑑三先輩も真っ青のキリスト教界内ゲリラのようなご発言である。まぁ、二足の草鞋を履く牧師が日本の教会では受け入れ可能ではない(実態としてはそれをしておられる牧師の方を存じ上げているが)それはそうだろうと思う。

     ただ、二足の草鞋を履く牧師の場合、基本共同牧会というスタイルが望ましいと思うのだ。如何に大学人が自由人であるとはいえ(3次元空間に勝手に次元を平気で3つも4つも加えて、この5次元世界ではこうだとか言える人は世間的にはおかしな発想をする人たちなのである)、なかなか動きがとりずらいこともある。一番困るのが世俗の仕事や、時間とは関係なく到来するご葬儀の対応である。どうしても世俗の仕事を抱えていると、葬儀に完全に対応しかねるという場合が出てくる。しかし、キリスト教信仰者の少ない日本では葬儀の際の教会としての対応は極めて重要である。

     そうであるとすれば、二足の草鞋を履く牧師が海外出張で不在といったような状況でも対応できるBCP(事業継続計画 
    business continuity action plan)ではないが、牧会継続計画は持っておいた方がよいと思うのだ。また、結構、単立教会では、牧師の急逝に伴なって混乱が起きることも時々お聞きしている。であれば、なおのことそうである。

     開拓伝道型の教会の場合、開拓伝道にあたったその創始者からの教会の実際の対応の継承をどうするのかという牧会継続計画ということが大事なのだなぁ、と思う。

    CD200枚割った事件に涙した音楽家
     最近、大頭先輩からのご紹介で、岩渕まこと先輩とお知り合いになり、ありがたいことに、前回のブログ記事 松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ(3) をFacebookでお取り上げいただいた。ご紹介の御礼を申し上げたところ、CD200枚割られた牧師Rocksの主催者(首謀者ではない)の関野先輩の記述のところでは、どうも涙腺がぁ…の状態になられたらしい。それはそうだろう。音楽家にしてみたら、人生をかけ、やせる思いで必死になって制作したCDが悪魔の音楽と呼ばれるだけでもつらいのに、それどころか、無にされた挙句燃えないごみ扱いになるのだから。


    ギターを弾いておられるのが岩渕まこと先輩

     岩渕先輩が「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び…」という状態となられたのは、想像に難くない。CD叩き割るというのは芸術家にとって焚書と同じ構造を持っていると思う。しかし、この辺の感性って何なんでしょうね。ご自身を燃える剣を持つケルビムとでもお考えなのかもしれない。あぁ。

     次回は、キリスト教のリアルからのご紹介に戻る。



     
    評価:
    松谷 信司
    ポプラ社
    ¥ 842
    (2016-03-01)
    コメント:対談部分のご自身たちのお姿を包み隠さずしゃべる司牧の皆さんのご発言が、実に清々しく心地よい。

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