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2016.03.28 Monday

松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ(4)

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     今日も、松谷信司著『キリスト教のリアル』からご紹介していきたい。今日は牧師の養成機関である神学校と、その卒業性のお話である。

    牧師になるというキッカケ
     牧師になるキッカケについて、まず川上さんの発言を拾ってみたい。あちこちで 佐藤優先輩が書いておられるように、同志社の神学部には独特な世界があるらしい。一番驚いたのは、牧師にならないのだけれども神学部に行くという人人の存在である。いやぁ、驚くことはない。

     以前奉仕していた教会にも、関西学院大学の神学部の学生と名乗る学生さんが、議論を挑みに来たというよりは、学研のムーとかに出て来るような宇宙人世界とキリスト教を合わせたような独特のチラシをご持参になってこられたことがある。恐らく、勧誘活動に来られたのであろう。本人とキリスト教世界で「お交わり」と総称される会話をするなかで、問わず語りに関学の文学部に入りたかったが成績が足らなかったのか、文学部のすべり止めで受けた神学部に受かったので神学部に通っているということをおっしゃった。まぁ、日本の企業が学校閥で取り、本人の才能や大学で学んだこととは無関係に採用していることを逆手に取った戦略をしておられたようである。

     まぁ、それだけ大学教育を企業の皆さんが信用していない、ということでしかないのだが。これまた、中学校関係者が高校入試を批判し、高校関係者が大学入試を批判し、大学関係者が企業の採用試験を批判するというろくでもない相互関係の中で起きる悲喜劇の一コマでしかないなぁ、とその時にも思った。召命観無き神学部の学生は多発しているのだろうとは思う。まぁ、そういう現状の社会の中にいると思った方がよい。全員が召命観がないとは言わないけれど。
    基本的に同志社大学の神学部は牧師になりたいと思ってくる人がほとんどいないので大学に入ってから教会とかかわる中でいろんな牧師を見て、「こういう人になりたい」と気持ちが変わって、召命観を抱いて目指していく人がすごく多い。(『キリスト教のリアル』p.155)
     だいたい神学部を維持している学校がそもそも日本では少ないことに加え、神学部を維持している学校の中でも、かなり神学部は入試の競争環境が厳しくない、ということもあり、同志社、関西学院大学、西南学院大学、上智大学ご卒業というブランドのためならということなのだろう。まぁ、一応牧師の推薦状を要求している学校も多いが、お優しい牧師先生なら、ご推薦状をお書きになるのであろう。

     今年上智大学の卒業式に列席したのであるが、その時、神学部の卒業生代表は女性の方で、それもベレー帽に見えるほど、真紅に髪の毛を染め、パンツスタイルで卒業証書をお受けになっておられた。もう、彼女が登壇した時の会場の卒業生のざわざわ感が止まらず、さらにそのスタイルをご覧になった学長先生のちょっとびっくりした感が一列席者としては印象的であった。大体各学部の卒業生総代の半数以上、2/3が女性という「おい、これはSJ(イエズス会)の学校かい?」といいたくなるほどであった。女子イエズス会とかはないしねぇ。女子パウロ会はあるけど。

     まぁ、学校にいるうちに牧師への召命観が形成されるくらいの方が、いまだと適切なのかもしれないけれども。いずれにせよ、いかにも現代の風景をこの早春には拝見したような気がする。

    卒業生がゼロの専業神学校?
     教派立学校に近い神学校は日本の中にかなり数がある。関西圏でも、ミーちゃんはーちゃんが出入りしている(ある神学校では、営業もしているので、ある先生からは、”笑ゥせぇるすまん”扱いされることもある。喪黒福造体型なんでしょうがないのだが)、そういう神学校だけでも、4つくらいはあるし、同じような名前の神学校がたくさんあるので、混乱すること混乱すること。

    喪黒福造さん http://uproda.info/post-1177

     ルーテル派の関野先輩は、こんな風に話しておられた。
    ルーテルは、一人です。例年5〜6人が平均でしたが、この前は神学校始まって以来、初めてゼロの年がありました。(中略) 
    卒業生もゼロ。毎年、隠退する牧師が2~5人で、新任が0とか一人とかですね。 (同書 p.155)
    あぁ―ルーテルよお前もか、である。他の神学校も激減している雰囲気は見て取れる。そういえば、塩屋の神学校の卒業生の方に以前お伺いしたら、その80歳前後の方が最盛期のころは塩屋の神学校に入り切れず、湊川にある教会が寮代わりになっていたということのようである。今は昔、竹取の翁というもの…の世界である。
     退任者に対して、牧師として奉仕にあたる卒業生がゼロ、っていうのは厳しいと思う。隠退牧師が2〜5人新任が0から1だとしたら、もう平常状態の維持は無理で、縮小均衡の道まっしぐらなのは、小学生でもわかる。

    日本のなかでのキリスト教の進むべき方向
     確かに、教会員の数は減り、司牧(司祭、神父と牧師)の数は減り、デフレスパイラルのような消滅に向かってスパイラル効果のような人数減の傾向が見られることは確かである。しかし、晴佐久先輩は次のようにおっしゃっておられる。
    日本の教会は死につつあるなんて声があるけど、とんでもない。実はまだ、始まってもいないんだと思う。生き生きとした教会があって、それがだんだんしぼんでいったのなら「死につつある」といえるけど、まだ、始まってすらいない。モティベーションを持ったキリスト者が福音を語りまくって、日本の中で普遍的なキリスト教がどんどん広まっていくという300年くらい先のイメージが私にはあります。(中略)若い人たちは閉鎖的な組織とか原理主義的な教義とか、そこだけの習慣のようなことではなく、福音の本質というものを自由に語ったり、生きたりすることの楽しさはわかっていますよ。ただ、それを応援するだけのシステムとか、教義みたいなものがまだ整備されていません。(同書 pp.158−159)
    と、一見脳天気と思思えるようなご発言をなさっておられる。これを脳天気というのか、信仰というのか、いろいろお考えのわかれるところであろうとは思うが、個人的には、信仰者としての神の臨在を受けたサクラメンタルな存在としての司祭としてのご発言と受け止めたい。

     16世紀後半にポルトガル商船でやってきた宣教師たちが伝えたものが、その内実を失いながら伝えられ続けていき、半面、形だけであっても伝えらえてきたということはある面脅威的なのではないか、と思うのだ。そして、琉球伝道からおよそ160年、明治の禁教令解除から150年、その間、ロシア経由でのハリストス正教会、パリ宣教会を中心としたカトリックの伝道、中国インランドミッションの先にある英国系の伝道(ベッテルハイムや初めに賢いものござるという訳で有名なギュツラフなどは英国系)、そして、カリフォルニアの先にある日本という理解の中でのミッションスクール建設と一体化した形での北米からの伝道、と一気に多様なキリスト教理解が流れ込んだのである。ちょうど真空空間に空気が一気に流れ込むかのように。そして、ヨーロッパのようにたっぷりと時間をかけてキリスト教を成熟させていくことなく、様々なキリスト教が、キリスト教という極めておおざっぱな枠組みに突っ込まれる形で、受け取られたように思う。そして、もともと東北の逆賊と呼ばれた佐幕藩の下級藩士たちが大量失業状態になる中で、警察官、教員、軍人、技術者以外の職場の一つとして、文字が読めるという当時にとっては特殊能力が活かせたフロンティアの一つとして、キリスト教の司牧という職分があったと思うのである。 

     大量に一気にそれもいろんな種類のキリスト教が流入した結果、ある面で促成教育のような形でキリスト教を必死で理解しようとしたため、十分にキリスト教を自分たちのものとして消化できていなかったという側面はあるのではないか、と思うのだ。

     さらに、古屋・大木『日本の神学』(2001)が指摘するように、ほぼ20年交代で訪れる国際化と国粋化の中でよろめき歩いていた日本の中で、キリスト教もぶれていき、最終的には、昭和10年代から軍国化、大東亜戦争や聖戦(ジハードではない)という言葉が語られ、国粋化に向かってクライマックスを迎えた後、1945年からは手のひらを返したように国際化に向かっていく。そして、1960年代のオリンピックを機に1980年代のバブルに向かってジャパン・アズ・ナンバー・ワンを経験しつつ、日本は国際経済の中で大きなプレゼンスを示すとともに、国粋化の方向に向かっていく。そして、2000年代前半のリーマンショックまでは、経済力を背景に国際社会のプレーヤとして期待されていたこともあり、国際化に向かって進んでいった部分もあるが、現在今度また日本の経済的な斜陽化(昔の英国病みたいな状態とちょっとだけ似ている)の中で、国粋化に向かって今このあたりにいて、今回国粋化に向かう時代の前段階が2010年頃から始まったように思っている。その意味で、これからの10年から15年くらいの間、国粋化に向かう時代の中で、日本のキリスト教はその対応を迫られるはずであり、そう考えるとき、どのようにそれに対応していくのかが、司牧のレベルにおいても、信徒のレベルにおいても求められるようにおもわれる。それが、松谷先輩のご質問と 晴佐久先輩のご回答によく表れていると思う。
    松谷
    まだ始まっていないのは、そういうことをやってこなかったということでしょうか。
    晴佐久
    ほとんどやってきてないですね。それこそ翻訳の福音のようなものを必死に学んで、形式的に語って、これが正しいといいはって。誰も目の前で救いの喜びを感じていないのに、理解力のないお前が悪いみたいな感じの一方通行の語りだけだから。果たしてそれをキリスト教と呼んでいいかどうか疑問があります。 (同書 pp.159)
    しかし、このミスコミュニケーション、あるいは、ハーバーマスの言うSystematic Distorted Communicationに近いような説教スタイル(晴佐久先輩風に言うと、「 理解力のないお前が悪いみたいな感じの一方通行の語り 」)になっているので、伝わるものも伝わらない、ってことであり、果たしてそれはキリスト教か?というご意見にもつながるように思うのだ。

    教会のコミュニケーション不全の実際
     ちょうどこのことを考えていた正にそのころ、これまた敬愛してやまない、千葉の康先輩が康先輩のFacebookにご自身の経験を書いておられた。

    初めて教会に来た男の子がいた。時系列や舞台設定の記憶があやしいが、教会主催の中学生か高校生の修養会のような場所だったかもしれない。私は生後まもなくから通っていた常連組。他にも何人かいたし、若い副牧師もたぶんいた。円座だったかも。説教か、読んだ聖書の感想を述べ合うことが求められた。

    その問いかけに、その日初めて教会に来たその男の子が口を開いた。何か言えと求められたから応えたのだろうが、教会が初めてで、聖書を読むのも初めてのようだったから、発言すること自体にけっこう勇気が必要だっただろう。教会慣れしすぎていた私(当時中学生か高校生)のほうがよほど口が重かった。

    「えーと、聖書とかよく分かんないですけど、さっき読んだ箇所に『父』とか『子』とか出てくるのを読んで、おれ父親とあんまりうまく行ってなくて悩んでるところがあるんで、ちょっと気になりました」みたいなことを、その子がたしか言った。私の記憶が書き換えられていなければ、そういう内容だった。

    そのときの私(当時中学生か高校生)の内心の反応は「あちゃー」というようなものだった。「それ聖書の読み方間違ってるよ、聖書のその箇所の『父』と『子』の関係というのは、人間の親子関係のことなんか関係なくて『父なる神』と『子なるイエス・キリスト』の関係のことを意味しているのだから」と。

    でも、そのとき私はたしか黙っていた。黙ったまま心の中で「あちゃー」と言っているだけだった。そうしたら、他の子だったか若い副牧師だったかが、私が内心で考えたのとほぼ同じことを口に出して説明しはじめた。「その聖書の箇所のそれは、あなたが考えたそういう意味ではなくて、どうでこうで」と。

    そうしたら、その自分の親との関係がうまく行ってなくて悩んでいるということをみんなの前で打ち明けた男の子が不機嫌になった。座っていた椅子を蹴飛ばして部屋を出て行くというような行動まではとらなかったが、そこから先は、だれから何を聞かれても、何を言われても、何も応えなくなってしまった。

    私がかれこれ40年近くこの記憶を抱え続け、忘れられずにいるのは、そのとき感じた強い衝撃と、反省ゆえだと思う。内心で「あちゃー」と言ってしまったこと。そして、その子が聖書の言葉から自分なりに連想して自分の父親との関係という深刻な問題を告白したことを、ぞんざいに扱ってしまったことを。

    「教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください」と、教会の人たちは百万回くらい言う。だけど、勇気を出して行ってみて、「何か言え」と言われて勇気を出して何か言ったら「それは違う。それはこうでああで」と指南だけされる。そんな教会にだれが二度と行くか。

    自分が逆の立場なら「うるせーよ」の一言しかないだろう。何が「間違ったこと」なのかの判断自体が難しいことでもあるが、教会に初めて来た人に「間違ったこと」を教会の中で言わせたくないなら、初めから「何か言え」と求めなければいい。質問しておいて応えが返ってくると文句つけるのはどうなのか。

    これをミスコミュニケーションあるいはSystematic Distorted Communication(自分の意見への同意と同調を求めるタイプのコミュニケーション)といわずしてなんというべきだろうか。我らはこのようなことをし続けてきたのかもしれない。それは、我々のキリスト教信仰が身体性と一体化したところまで来ておらず、促成教育の結果であり、借り物という側面が強く、自分たちに自信がないからなのかもしれない。

     その意味でキリスト教だけに限らないが、日本社会におけるコミュニケーション能力の低さは、目を覆うばかりである。小学校くらいから、作文や教室の発言でも、教師の糸、あるいは出題者の意図を読み取る能力を極限まで最大化する能力を充実させ、それを当てさせる能力に関しては日本は非常に素晴らしい。大学入試まで、そうなのである。いわゆる定説オタクや、教師の主張したいことに沿って発言するオタクを大量に学校と呼ばれる機関で養成しているようにも、見様によっては見えてしまう。
     アニメや二次元という視覚、言語や思考を要さないメディアでのコミュニケーションは異様に高い割に、言語的なコミュニケーション能力の低さ、というのは、一体どうしたものかと思う。このあたりが、日本でキリスト教と呼ばれるものが成熟しない要素も含んでいるのではないか、と思うのだ。

    頭でっかちの牧師養成機関としての神学校?
     関西地区の神学校のいくつかにふらふらと出入りし、そこでご教鞭をとっておられる方々とご交流の機会があるので、非常に申し上げにくいことではあるが(なら、言わなきゃいいというツッコミはさておいて)、以下の森先輩のご発言には、頭を抱えてしまった。去年の秋の大阪聖書学院で開催された福音主義神学会出も話題になっていたらしいが、世俗の仕事のため、その部分はパスになってしまった。実に残念なことであった。

     森先輩のご発言の中にこんな表現があった。

    私たちの教派にもいくつか神学校がありますが、毎年10~15人くらい卒業していきます。ただ、途中で挫折する人が約半数います。学生のころにアイデンティティの確立をできていない人が神学校に入ってくると、そこで頭だけ大きくなっちゃう。(中略)人間として自己をどう確立していくかという側面がなくて、神学だけで考えていくから、折角献身を決意して神学校に入っても、若い牧師は打たれ弱い。逆に、自分は神学を学んできたと権威を振りかざして意に沿わない信徒を追い出してしまい、最後は反対に牧師が教会を追い出されていくという結果になる場合もあります。

    松谷
    それはお互いにとって不幸ですね。


    不幸ですね。もちろんすべてではないけれども、自分のアイデンティティがどこにあるのか、自分はいったい何者かとか、もっと難しいことを言えば、霊性神学のような類の学びはほとんど神学校でやっておらず、聖書神学と歴史神学、組織神学だけをやっているわけですから。(pp.159−160)

     このご指摘を受けて考える限り、森先生のご関係の神学校と呼ばれるところでも、毎年30人くらいは新入生はいるものの、それが2年ないし3年の過程を経る中で半減し、神学校を出るもののパシリ牧師になっているうちに自滅していく人々がいる、というご指摘である。そのあたりは、 みんなで育てよう健全牧師(場外乱闘編)  でもミーちゃんはーちゃんのご意見がご紹介しているので、そちらをご覧いただきたい。
     森先輩は、パシリ牧師になっていって自滅していく背景にアイデンティティの確立不全をあげておられる。まぁ、若い人はアイデンティティを形成していくものだと思うし、人生の中で形成され、あるいは発見されるもの、成熟させられていくものが、その人らしさ、あるいは ジョン・オートバーグ のいう「最高の私」になるということなのだろうと思う。わずか数年の期間で、自己のアイデンティティ確立を、というのは人生80歳時代を迎えた我が国の中では、結構きついのではないか、と思うのである。

     とはいえ、アイデンティティ確立に関して最も重要なのは、霊性の形成であり、霊的形成であり、そのために必要とされるのは、霊性の神学ではないか、というのが、森先輩のご指摘であるように思うのだ。この分野に関してはカトリックのイエズス会の設立者のロヨラ先輩の霊操をはじめ、カトリック、正教会、聖公会などの伝統教派には非常に長い伝統がある。

    ロヨラ先輩の霊操
     これらのことを反映してか、先日の記事  2016年3月 大阪聖書学院での霊性の神学入門参加記  も現在188いいね!であり、さらに言えば、現在の記事中で暫定4位である。このように多くの方が非常に高い関心をお持ちで、視線が霊性に対して向けられていることは今後の日本のキリスト教会において重要な視座を示すのではないか、と思うのである。

     その意味で、日本語で読めるわかりやすい霊性の本を誰か書いてくださらないかしら、と人任せに生きることにしようか、と。
     後もう1回でこの連載終了という予定だったのに、現段階で、あと2回連載になりそう。次回へと続く。




     
    評価:
    松谷 信司
    ポプラ社
    ¥ 842
    (2016-03-01)
    コメント:めちゃ面白い。

    評価:
    古屋安雄,大木英夫
    ヨルダン社
    ¥ 3,456
    (2001-07)
    コメント:面白かったです。

    評価:
    ジョン・オートバーグ
    地引網出版
    ¥ 2,592
    (2015-11-10)
    コメント:お勧めしております。

    コメント
    ミーちゃんはーちゃんさん かわむかい様へ

    昨日やっと「神が造られた「最高の私」になる」、とその前の著作(題名、今この瞬間思い出せません、検索すればいいのですが…ごめんなさい)を微笑みながら、気持ちストンストンと落とし込みながら、爽快に読みました(笑)

    そして、このブログのリンク先をすべてチェックして知った、翻訳者・中村佐知子さんのこと、私と同名の亡き娘さんのこと…今の私にとって、それらの読書と、中村さんファミリーの出来事を知ったこと、神様の贈り物として大いに感謝しているところです。

    上記…>「教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください」と、教会の人たちは百万回くらい言う。だけど、勇気を出して行ってみて、「何か言え」と言われて勇気を出して何か言ったら「それは違う。それはこうでああで」と指南だけされる。そんな教会にだれが二度と行くか。

    もう大きな声で「そんな教会にだれが二度と行くか〜。」その通りだ〜!!!とこぶしを両手振り上げて、私も叫びます(笑)
    …かと言って、私は?と振り返らされながら…ただ賛美してメッセージ聞いて、祈るだけの礼拝参加で大いにオッケーの教会に行ってるだけの、能天気な生き方の一キリスト者で…ラッキー(^^♪
    このような生き方に落ち着くまでにはいろいろ色々イロイロありましたし…(笑)
    今、<神が造られた「最高の私」>に目から鱗〜状態で、自他ともに「いのちをキープする」のが心から楽しいです!(ぎっくり腰の痛みに大いに泣かされてる今でも…お蔭で一気に読書の時間確保できたんですが…(笑))
    • あい
    • 2016.03.29 Tuesday 16:47
    あい さま

    コメントありがとうございました。あ、『神がつくられた「最高の私」になる』をお買い上げいただきありがとうございました。地引網の谷口和一郎先輩に成り代わりお礼申し上げます。

    いいでしょ、あの本。ああいう本がもっと売れるといいなぁ、と思います。

    赤ちゃんでもそうですが、思いっきりまず愛されることが大事で、それから立ち上がる必要があるのかもしれません。

    そのタイミングは、神が、私たち一人ひとりに介入されるカイロス(時宜)があるのかもしれません。

    私もぎっくり腰の腰痛持ちですので・・・

    お大事に。

    またお会いできるといいですね。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.03.30 Wednesday 21:23
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