<< 松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ(2) | main | 松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ へのご反応(1) >>
2016.03.23 Wednesday

松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ(3)

0


    Pocket



    今日も、松谷信司先輩の『キリスト教のリアル』を読んだ記録をご紹介したい。今日も教会の牧師、神父の方のお話のご紹介を引き続きしてまいりたい。


    牧師子弟の悩み
    森先輩のご発言の中身で、あぁ、これはいいなぁ、と思ったのは、教会に行けない人が行く教会という発想である。これは大変ユニークな教会の在り方ではないか、と思う。敢えて従来の教会の在り方に合わせての教会運営ではなく、人に合わせての教会運営であるように思う。
    要するに「教会に行けない人が来る教会」です。例えば、教会に住んでいる牧師のお子さんが、牧師の父親とうまく行かなくて十何年も教会に行かず、礼拝にも出ていない。その人が一緒に来て礼拝するということもあります。最終的には回復していくのを望んでいますが、そんなに早く回復はしません。(『キリスト教のリアル』p.102)

    藤掛先輩のブログ記事 さらに、さらに、焚き火を囲んで(舟の右側vol.27を読む)  中の名言ではないが、
    そもそも啓蒙主義が台頭し、科学の知が重視されてきた長い歴史がある。しかしそこには限界があった。そこで臨床の知、魂の知が登場し、科学の知を補った。科学の知とは、客観主義、論理主義、普遍主義。臨床(魂)の知とは、相互作用性、多義性、個別性。
    前者は精緻な法則や体系ができあがる。後者はみずみずしい物語が生まれる。両者は車の両輪である。
    の相互作用性、多義性、個別性を重視した霊性の臨床知としての教会論に立つものではないか、と思ってしまったのだ。今漸く日本の福音派の中でも個別性に着目した霊性が見様見真似で始まった感があるが、コンスタンティヌス型の教会を経た欧米に繁茂した19世紀の教会論が日本でも教会の在り方として認識されてきたため、いつの間にか、霊性に基づく教会論が主流とはいえない状態に現在なっているのが残念でならない。

    しかし、牧師家庭の子弟がその教会に行けないとなると、その牧師家庭に対して教会の中で、かなり冷たい視線が向けられるのはある面予想できるところである。しかし、牧師家庭の子弟はかなり厳しい目にさらされることは、Ministryの過去の特集号が組まれているし、有名牧師や著者の子弟ともなれば、かなり厳しい状況におかれるようである。なお、アメリカの超有名牧師のJohn Piper先輩の息子さんもこんな本をお書きである。


    Piper先輩の息子さんの本 Amazonさんから

    もうちょっと、あるべき論の基準の観点から見るのではなく、余裕ある目で牧師子弟の皆さんのみならず、信徒の家庭のおちいさい方々を見てもらえるといいなぁ、と思う。

    ところで、教会に行けなくなったキリスト者の皆さんへの対応として、晴佐久先輩はご自身の取り組みを次のように書いておられる。この記事 第6回日本伝道会議プレ集会 これでいいの?教会の「交わり」!参加記 の中で、あったような教会の交わりが伝道を妨げるということは、やはりあるようだ。割と人間関係が淡白で住むという印象のあるカトリック教会でも、信者を神から遠ざけることもないわけではないことを想うと、頭を抱えたくなる。
    都内の修道院の聖堂で月に一度、「おかえりミサ」というミサをやっています。これは元気な人ばかりの教会には行けないという、元気のない人のためのミサ。教会に行くとみんながもう元気で、「落ち込んでいちゃダメよ」みたいなことを言われて傷ついたりとか、「あんたこれ手伝ってちょうだい」といわれただけで気後れしたりとか、普通の教会には行きづらいという人が増えてきたので、そういう人だけのミサをやろうと思い始めました。(同書 p.103)
    またこうも述べておられる。
    原理主義的なプロテスタント教会ですごく生きづらくなって普遍的なカトリックの教会へ来る人は多いです。(同書 pp.103−104)
    原理主義と普遍主義という形の対比でとらえておられるが、まぁ、原理原則、かく在るべし論が比較的幅を利かせる19世紀型の教会論に支配されているプロテスタント教会では生きづらくなるということは、なんとなくわかる。原理主義だから疲れるのではなくて、おそらくそもそも人間には無理に近いこと(神にならう、神と近くなる、神に近づいている、聖とならなければならない、聖に近づいていると他人から認識してもらえるようにすること)をより競い合うようにしていく傾向があるために、信仰生活に息切れしてしまうということが起きた結果だと思う。その意味で、他人からの視線をあまり意識しなくて済む、ダメな部分がある自分でも受け入れてもらえる感のあるカトリック教会は確かに魅力的である。また、本連載第1回目の記事でも紹介した Young Evangelicals Are Getting High  で示されている傾向になるのではないか、と思うのだ。まぁ、これも、19世紀を支配した人間中心の世界観の影響を受けた結果であるように思われる。

    牧会者と牧師夫人のケアの問題
    カトリックでは、霊的な指導者というか、相談者(メンターというか霊性の相談者)が置かれていることもあるらしいが、プロテスタント派の中でも福音派の牧師さん方の中には、休むことすらできず、霊的な研修の機会や休むという機会すら、これまでほとんど認められなかったことは前回も紹介した。その結果、牧師たちが霊的に疲れ切っている、青息吐息の状態でありながら、それが教会内で出せない為に顕在化していないことに関して、森先輩は改めて次のように発言しておられる。これで、充実した説教が可能である、というのは、ほとんど超人クラスではないか、と思う。
     神学校を出てからこそ先生が必要だけど、押しててくれるスーパーバイザーのような人がいないということもあって、どんどん倒れていく。私たちの教派の神学校は残念ながらそういう継続教育はほとんどない。(中略)特に牧師夫人は疲れ切っている。礼拝にも出られないという牧師夫人が何人もいます。(同書 p.105)
    しかし、牧師夫人の方は、本当に24時間365日、針の筵状態となりやすく、その精神的な緊張からの開放は、それこそ1年に3か月とかのバカンスでもないと、やってられないように思うが、しかし、前任者(開拓伝道の場合は、過去の前例を信徒が知らないし、自分で前例がつくれるし、その前任者の制約がない分だけ、割とやりやすいというのはあるかもしれないが)の方がそういう緊張状況を乗り越えてこられてこられた場合、「そんなの簡単よ」と以前の牧師夫人からいわれてめげる牧師夫人の方もおられるかもしれない。

    自分自身がある時期、世俗の仕事で疲れ切ったこともあり、ナウエンの本を読み始んだり、おふぃす・ふじかけ(blog)のサイトの内容を読み始め、休むということの大切さ、静まるということの大切さを覚えている。それは牧師の方も同様だと思うし、また、牧師夫人でも同じことだと思うし、それは信徒でも同じだと思う。疲れたら、休むということは結構信仰生活の中においても大事だと思うのだ。そもそも、日本人が割と根を詰めてまじめで手を抜かないという社会構造に加え、第2次世界大戦中、日本海軍が月月火水木金金の休みなしの体制であったことや、リゲインのCMのように「24時間戦えますか」みたいなノリもあり、こういうのが当たり前、とかおっしゃる70歳代後半以上の信徒の方が多いのが、日本のキリスト教界の現状なので、休むなんて論外ってことも牧師に要求されてしまうのだろう。そもそも、普段何しているのかご存じでない方が多いので、松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ(1) の牧師あるあるでご紹介しておられるように普段は牧師はゴロゴロしているという在らぬ疑惑が欠けられている部分もあると思う。


    軍歌 月月火水木金金


    『ロックは悪魔の音楽』とイレズミ入れた方から説教される?
    司会をしておられた松谷先輩が、過去の家族との関係に関して関野先輩に質問したところ、関野先輩はご家庭で、
    「ロックは悪魔の音楽だ」といわれ、CDを全部捨てられたんですよ。
    という泣くに泣けない状況に直面されたらしく、その仔細を次のように発言しておられる。
    当時はかなり原理主義的な「福音派」の教会に行っていたんですけど、親父が教会の牧師を呼んできて2人でCDを200枚割りました。16歳でしたから、さすがにへこみました。確かに、十字架を燃やしたり、「キリストは負け犬だ」とか歌っている曲もありますが。「ミッション・バラバ」という元やくざの牧師グループが一時期はやったことがあって、大学生の時にキャンプで元やくざの牧師さんとお風呂に一緒に入ったんですよ。「僕、ロックやっているんです」といったら、「ロックは悪魔の音楽だから駄目だよ」って、刺青の入ったおっサンに言われて。(p.130)
    しかし、元やくざであることとそこからの回心体験を伝道のきっかけにしようとしている牧師(個人的にはどやさ、とは思う。なぜならば、犯罪行為への反省が罪の悔い改め、神との関係の回復と誤解されかねないからではあるけれど)から、ロックは悪魔の音楽って言われるってことはねぇ、それはさぞやショックでしょう。U2がロックグループといっていいのかどうかは知らないが、U2のボノという方はどうも、クリスチャンらしい(山崎ランサム先輩の 暗闇からの叫び の記事参照)。ロックをどう定義するかどうかは議論の余地のある所かもしれないが、人は自分にとって慣れ親しみのないもの、なじみのないものをすぐ「悪魔の手先」とかわからないことを言うことはあるかもしれないと思う。


    Bonoとのインタビューから キリストについて の部分


     個人的には、元ヤクザの方の回心を疑うわけでもないが、キリスト教関係者の一部には、「ミッション・バラバがミッション・バラバラになってしまった」と揶揄する人々もおられるように思う。


    お若い方のためにミッション・バラバの写真
    箱崎キリスト福音館(http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/history.html)から


     「悪魔に惑わされたらいかん」とか、「世的だ」とかおっしゃって、こういう新しいものを信徒に避けさせる傾向は教会には、特に福音派教会あるあるの傾向ではあるように思うし、そういう言説をこれまでの教会人生の中で何度もお聞きした。しかし、そもそも論として考えたときに、世の中にあるものを世的だ、とか悪魔に惑わされるという言説そのものは不信仰ではないか、と思うのだ。そんな、人間の行為ごときで生まれたものによって、神からキリスト者が離れてしまうほど、神はちっちゃいのか、と思うのだ。神の偉大な、圧倒的な力があり、その愛は大きく、その赦しは測りがたい、ということをどこまで真剣に受け止めておられるのであろうか、と思ってしまう。人間の恣意的な「悪魔の影響を受けるから避けた方がよい」とかいったようなことばで守らねばならないほど神は矮小な存在なのであろうか、と思う。個人的にはFM放送で流れていればロックも聞くが、趣味が合わないので、ご勘弁をと思っている。特に大音声系のシャウト系は趣味には合わない。
     
    牧師間の経済格差
     森先輩が、大きい教会と小さな教会の間の牧師の間で経済格差があるというご指摘を述べられたたあと次のようなご発言が出ている。個人的には、牧師間の経済格差というものはなくすべきだとかという労働組合関係者のようなことは思わないし、某自民党総裁のように同一職務同一賃金(派遣と正社員の格差是正)の路線から言っておかしいではないか(この某自民党総裁は、本当にそう思っているのか、と我が耳を疑ったが)ということは思わないが、どの教会で牧師をするかによって、状況が著しく変わるというのはどうか、と思うのだ。
    (格差を)是正しようとしても、どうしても大きな教会に反対されますね。教会が小さいのは伝道してないからだとか、説教が下手だとか、いろいろ異論が出てくるわけです。牧師は代表役員だから退職金もない。国民年金で国民保険。その年金すら入っていない人もいます。教会の役員会で毎年給料を決めて、今年はこうなりましたと提示される。プロ野球選手の年俸制みたいですね。(同書 p.140)
     牧師の無年金問題どころか、牧師の経済的基盤の脆弱さには、時に目を覆いたく場合も少なくはない。ある研究会でご一緒した社会福祉関係者からは、経済的には「もう生活保護で対応するしかないレベル、ということになるのではないか」というお話が出たこともある。しかし、生活保護は、働いている認定が地方自治体担当者から出ると打ち切られてしまうので、牧師として奉仕している、これは神への奉仕であって、仕事ではないからといって、市町村の窓口の担当者の方が生活保護認定をしてくれるかどうかは、かなり怪しいと思う。

     その挙句の果てに、無年金者ということがあるとすれば、もう目が当てられない。ミーちゃんはーちゃんのいるキリスト教集団では一種極端な各個教会主義をとることもあり、専心伝道者の方が何人かおられるのであるが、その専心伝道者の方々の中には、無年金者である場合があるのである。そういう制度的な保証や制度設計を世的なこと、信仰さえあれば何とかなる、と極端な形での伝道をしてきた(その背景には、もともと伝道者として海外に出た人々が、母国でかなりの資産があったり、高給の職であったりしたこともあるし、大英帝国系の国籍の方が多かったこともあり、年金を心配しなくても済む人々であった)ことも影響しているように思う。

    牧師の引退
     年金、とくれば、退職引退ということが話題になる。松谷先輩が「教団には引退牧師という方が気があるのか?」と尋ねられて同志社出身の川上先輩は、次のようにお応えしておられた。
    あります。引退(教団では「隠退」と表記する)した牧師も死ぬまで牧師です。ですから、隠退牧師から復帰して牧師になる場合もあります。それを何回か繰り返している人もいます。70歳過ぎてからの場合もあります。でも、教会で何回も同じ話をしているので、役員の方が「先生そろそろ(隠退してはいかがでしょうか)」という場合があるみたいです。(同書 p.148)
     同じ話を何度もする牧師って、結構きついように思う。そもそも同じ話しかしなくなった段階で、もうミーちゃんはーちゃんなら、ご覚悟をって切り出しそうになるし、また、そういうのを信徒席から拝見していると痛々しくってしょうがない。ミーちゃんはーちゃんはある所でこの隠退牧師の方が割と中心的な役割を果たしておられる集まりに参加したことがある。そこで、水谷潔先輩のお話の前にその隠退牧師の方が聖書のお話ならまだしも、老人ホームでの奉仕で受けがよかったからと、なんと、延々、40分近く、大人相手に聖書の紙芝居を2本も拝見させていただいたことがあった。さらに3本目に入ろうとしたところ、さすがにこれではまずいと司会者の方が思ったのか、3本目はお読みいただかなくなったので、水谷潔先輩の講演時間は確保されたものの、名作聖書紙芝居劇場、紙芝居豪華3本立て、というものすごい祝福に預かり損ねた。

     その後もその集まりにしばらくお招きされていたので、参加していたのだが、何度かそのご高齢の隠退牧師の方の聖書のお話をお聞きすることがあったが、どうも以前書いたと思われる説教のノートをもとにお話されるのを拝聴しながら、「あぁ、さぞご準備は大変なのだろうなぁ、ご無理なさらなくてもよいのに」と心からのご同情してしまったことがある。なお、その方は、福音派の神戸にある神学校をお出になられて、今は教団の隠退牧師となっている方である。実に、出処進退というのは難しいなぁ、と思った次第である。

     さらに、川上先輩による教会内人事の話が出てくる。
    会衆派で同志社系列出身の牧師だと、「自分はまだ牧会を続けたいです。でもこの教会はやめます」という意思を同志社大学神学部の人事担当者やその系列団体である同信伝道会に伝えて、教会をあっせんしてもらうというシステムがあります。なので、ここが無牧だからとか、「謝儀が少なくてもいいので牧会したい」という人は、「ではここの小さな教会でいかがですか」という感じです。(同書 p.149)
     日本基督教団の牧師先生方とお近づきになるまではあまり良くわからなかったのだが、日本基督教団の場合、同じ教団の教会とはいっても、かなり教会ごとに雰囲気が違うのである。聞き比べをする目的で行ったわけではないのだが、兵庫県庁から歩いて5分以内に日本基督教団が2教会在り、それが全然雰囲気が違うのである。式文や式次第は大体同じなのであるが、いろんなところで微妙な違い(説教の内容の視点の違い)がかなりあって、何でこう違うのか、と思いきや、教会の牧師先生とその出身校が、かなり明確な対応をしているらしいのだ。あぁ、なるほど、それでここまで違うのだなぁ、という感じであった。

     どうも日本基督教団のご関係者にお聞きすると、東京神学大学系の教会とか、同志社系の教会とか、関学系の教会・・・とかがあるらしく、その学校ごとに人事が決まっていくことがあるらしく、その間でのテンションがあるらしいことも分かってきた。それで、相互がわずか10分以内の教会でありながら、なるほど、学校の系統が違うことによって、実に微妙に違うのだ、ということがわかってきたのである。まぁ、合同教会なんでしょうがないとは思うけれども。

    カトリックの司祭の転任
     カトリックの司祭の転任が激しいことは聞いていたが、どうも、カトリックの司祭には、ほぼ6年に1度転任という内規があるらしく、れを基準に教区司教の任命で転任することにはれ策先輩が触れられた後、松谷先輩が「もう少しこの教会に居たい、とかいうのはないのですか」って聞いたことに対して、
    そこにもし自分の考えを入れたら、自分のせいになりますよね。私の場合は、それが嫌ですね。(中略)自分がこうしたらもっとここに居たいとか、ああしたいからあっちに行きたいとかいって、何かを選択することって、すごく浅はかというか、人間の考えがそこに入ってきてしまうので、全部お任せしたい。(同書 pp.151−152)
    と晴佐久先輩はご回答であった。実に清々しいと思った。
     この記述を読みながら、ナウエンの著書の一節を思いだしたのだ。選択と祈りの関係に関して、ナウエンはWith Open Handsの中で次のように書いている。
    The prayer of little faith makes us cling to the concrete circumstances of the present situation in oder to win a certain security.  The prayer of little faith is filled with wishes which beg for immediate fullfilment. 中略 When this prayr is not heard, that is, when we don't get the presents we wanted, there is dissapointment, even hard feeling and bitterness.(With Open Hands, Chap 3, p.68)

    (ミーちゃんはーちゃんによる日本語化)
    信仰の薄い祈りは、私たちの現在の状況に関する確実なことにしがみつき、ある種の確実性を確保しようとさせます。信仰の薄い祈りでは、即座にその願いが実現するような願に満ちたものです。子のような祈りが聞かれないと、つまり、人間の願ったようなプレゼントが与えられないと、そこには失望が生まれ、時には、強烈な感情や苦しみすら生み出されることになるのです。
    さらにナウエンはおそらく学生がレポートか何かで書いてきた内容を引用しながら、
    I see hope as an attitude where everything stays open before me. Not that I don't think of my future in those moments, but I think of it is an entirely different way. Daring to stay open to whatever will come to me today, tommorrow, two months from now, or a year from now-- that is hope.(同 p.72)

    (ミーちゃんはーちゃんによる日本語化)
    「のぞみ」とは、私たちの前に拡がる世界に対してオープンな態度(自らが何らか確実なものがあるとしない態度)のことです。それはある時点において将来のことを考えないという意味ではなく、将来を違った視点で見るということなのです。今日これから起きること、明日起きること、2か月先に起きること、この1年に起きることがどのようなものであれ、それに対して、かくあってほしいということに対して何か特定のことを定めないこと、それこそが「のぞみ」なのです。

     この2カ所と晴佐久先輩のご発言が実に見事にシンクロしてきたのである。まさに、明日は明日のことが心配します、という言葉を、近代の人間は忘れ、Hopeという言葉で表される希望やのぞみを確実な現象に変換してしまった、あるいは理解を変容させてしまったのかもしれない。そして、突然現れ出てくるものを受け止めるのではなく、それを何とかしてコントロールしようとする世界に住むようになってしまい、人間社会に備わっていたある種の余裕というか緩さ、そしてショックをコントロールする余力を見失ったのかもしれない。

     典型的なのがトヨタのカンバンシステムである。トヨタ車だけでなく多くの自動車メーカーで取られている効率的な方法として、最終製品を起点にして、その組み立ての工程を細分化し、その組み立て工程に必要な部品が必要な時に到着するシステムで、多くの自動車メーカーでは現在自動車の生産ができるように工程管理されている。問題ない時には、この種のシステムは実に効率的なのだが、ところが、不幸にして上流の工程での部品製造が止まると(たとえば愛知製鋼の工場事故などの様にある工程での生産が止まると)、それ以外の工程での製品が製造されても、組み付ける生産途中の製品がないため、事故を起こしていない工場でも、出荷停止が発生してしまうのである。つまり、鋼板を作っている工場と直接関係のない製造工場のライン(たとえば配電部品やスピーカーなどの音響部品の製造工程)が止まるなどの減少が生まれるのである。産業の依存関係があるがゆえに、一つの向上の停止により、いろんなことがうまくいかなくなるのである。

     こういういついつまでに何をして、どのようになるという計画をPERTProgram Evaluation and Review Technique)というが、アメリカ系の教会の中で、いついつまでに信徒100人の教会堂になって、いついつまでに信徒1000人収容の教会堂を立てるとかいう計画を作るのが大好きな教会も中にはあるらしいが、そういうのは個人的にはどうかなぁ、と思う。それよりも、ある程度の計画は持ちつつも、適切にその計画の組み換えをしていくような、コンティンジェントプランニングのような生き方をしたいと思うのである。そもそも、神様の世界というのはそういう合理的な理解を超えたところにあるようにも思うが、どうなんだろうか。

     次回へと続く


     
    コメント
    コメントする








     
    Calendar
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    28293031   
    << July 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM