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2016.03.21 Monday

松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ(2)

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    今日は『キリスト教のリアル』のご照会の2回目である。本日からいよいよ、本書のハイライト、対談の部分に入っていきたい。これが何より、対談者の皆様の素顔が出ていて、飾っていなくて、おまけに伝道しようなんて言う変な色気とか、妙な下心がなくて、実に清々しい。しかし、その素の生き方そのものが、実に、神の国(より正確には、神の支配)がこの登壇者の中に来ているというそのことを示しており、何よりの伝道ではないか、と思うのだ。いや、それこそ福音伝道だろう。神の国が来ていること、神の支配が地に及んでいることを示すわけだから。

    森先輩のおじいさまの凄み
    ホーリネス弾圧に巻き込まれた森先輩のおじいさまだったのだが、お相撲ファンだったみたいで(大相撲の場所が開かれると、どっかFacebookに上がってくるのが本日の名勝負ネタになるI藤先輩とかみたい、とおもった)、このおじいさまは神田から練馬まで相撲をテレビで見るために通っておられたらしい。そのころおじいさまがご利用になっておられた自転車が学生に盗まれる事件の話があった後のお話の中身がすごいのである。

     その学生は「盗んできた」と白状して、お巡りさんが「どうしますか。訴えますか」と聞いたら、祖父は「君、何で盗んだんだ」と。がくせいは「いや、僕はどうしてもこの自転車が必要だった」というんです。僕は、もうその学生が捕まえられて、自転車が返ってくるものと思っていたら、祖父が「必要だったら君にその自転車を上げよう」と言って、その自転車をあげました。お巡りさんも「本当にいいんですか?」とびっくりしていました。そのことがとっても印象的で、祖父に後から理由を聞いたら「イエス様は十字架にかかって、自分を殺す人のために、『父よ、彼らをお許しください』とおいのりした。だからおじいちゃんが、彼を赦して自転車をあげることなんか大したことないんだよ」といいました。(『キリスト教のリアル』 pp.76−77)


    こういうスケール感の違うキリスト者になりたい、と個人的には思った。そして、自分自身の了見の狭さを思った。もう、個人的に、森先輩のおじいさまのファンになりそうで仕方がない。

    結構忙しい牧師・神父の生活
    川上先輩という日本基督教団の原宿教会の牧師さんと恵泉女学園大学キリスト教主任代行をされておられる方は、

    電話がかかってきたら、私が出て主任牧師につなげるとか、ほとんど秘書みたいな事務職ですね。「これ、準備しといて」って言われたらやるし、コピーもとるし、接客もします。日曜学校の準備などは、幼稚園の先生の様な要素もありますね。(同書 p.81)

    とご発言であった、するとすかさず、松谷編集長は

    ほぼOLさんじゃないですか。(同書 p.81)

    と鋭くツッコミを入れておられた。まさしく、女性の副牧師という職分は、OL業務プラス幼稚園の先生業務付き、プラス問診看護婦業務付きといった感じでではないか、と思う。というのは、結構飛び込みでやってくる教会の来会者は、結構慌てて何を言いたいのか分かりにくい状況でまさに飛び込んでこられるという感じもあるので、いったん問診みたいな役割をすることも多いのではないかと思う。おまけにお休みがないのであれば、下の漫画みたいな状況かもしれない。


    http://blog.livedoor.jp/screenager/archives/51415130.html より

    また、晴佐久先輩は次のように語っておられる。
    月、火、水なんかはそれなりに時間がありますが、家事が多いですね。掃除、洗濯、炊事、買い物、神父は一人暮らしでもあるし、教会はみんなを迎え入れるところでもあるので。中にはあまり人を招き入れない司祭もいますけど、私は人が来る場を作るようにしているので、お茶やビールを買ってきて冷やしておかないと、どんどんなくなりますし、ここに理事会とか、いろいろなミーティングや、自分がかかわっている活動の定期会とかを入れています。(中略)
    ただ、コンサートに出かけるとか、余暇は大切にしてますよ。この前は、名古屋までサザンオールスターズのライブにやっと行けました。しかし、本当に時間は足りないですね。常に何かしているという感じで、何もしないでボーっとする時間が本当に欲しい。(同書p.83)
    この後の応対で、説教を毎週しているという松谷編集長のツッコミに対して、晴佐久司祭は、「はい。ミサ二つのほかに毎朝説教をしています」という対応があり、さらにこんなことを晴佐久司祭は語っておられる。
    忙しく活動していると、その週にどうしても証ししたいことというのが、必ず出てくる。福音を語ったらこういう風に伝わったとか、病床訪問をしたらこんな風によろこばれて、その人からこんな風に教えられたとか。そうすると日曜日が待ち遠しくなります。聖書の中の出来事がそのまんま今、ここで起こっている感覚で、だから現実と聖書が全く響き合って、今、聖なる霊の働きがあるということを、日曜日の礼拝で共有するのが説教です。それを聞くと信者さんもものすごく元気が出ます。(同書p.84)
    こういうのを見ると、福音を内在化させた存在としての生き方ってこんな感じなのかなぁ、と思いつつも、世俗の仕事を聖なるものとされる神がおられると思いつつ、PythonやVBAのコードを書き、デバッグすることにしている。しかし、「昨日どうしても誤動作をするVBAのコードがあって…それが実に下らない理由で動かなくて・・・」とかはどう考えても説教の一部にはなりにくいような…。

    会議が多いボクシたち
    牧師ロックスの関野先輩が仕事としてある会議が多いというご発言を受けて(この辺は、お友達になっていただいているK野先輩が週に何度青谷詣で(神戸市灘区青谷にある神学校に行くこと、その回数があまりに多いので、正直驚いている。まぁ今年の9月、第6回日本伝道会議があるのでしょうがないのだろうけれども)、森先輩が次のように言っておられるのが印象的であった。
    中には大切な話し合いもありますけど、そういった話は2割ぐらいしかなく、そのために集まる月曜日、火曜日が本当に嫌でした。(同書 p.85)

    日本基督教団さんの中国地方の会議

    これは役所や学校でもそうである。一応、「会議で話しあいました」といえば割と文句の出ようがないので、そういう証拠づくりのためにやる会議が結構多いのである。実質的な討論なんかそんな場でやり始めたら、役所の場合は、まずにらまれる。そういう場を治めるのが学識経験者に期待されていることの一部、でもあるらしい。


    役所の典型的な会議風景(福生市のサイト www.city.fussa.tokyo.jp から
    後ろに座っているのが事務局


    司祭館や教会、牧師館などの建物について
     それぞれの方のご発言は、是非本文をお読みいただきたいので、引用はしないが、カトリック教会では、司祭館は教区が所有していること、さらには、教会で集まった献金が教会にストックされて、水道光熱費がそこから支払われていること、小さい教会には補助金が行くこと、司祭の生活費は本部から来ることということが書かれてあった。そして、教会の水道光熱費が上がるとカトリックでは教会が大喜びするというのが晴佐久先輩談であったが、どうもプロテスタントでは、なんとなくではあるが、光熱費や水道代が増えると自分たちで払わないといけないので、節約しましょうとなるらしい。この辺の違いが面白い。

     また、牧師館のぼろ自慢大会があるような話が関野先輩から出ていたが、確かに、悲惨な牧師館はある。お知り合いの牧師先生は、雨漏りする家で、牧師館に共生する蟹さんたちをも愛でながら、牧師館で生活しておられたことを存じ上げている。

    まさに、石川啄木の
    東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる       

    ではないが

    東海の雨漏りする家の床板でわれ働きつかれ蟹とたはむる

    状態の牧師館にお住いであった牧師先生をリアルに存じているだけに、実に大変な中で、お仕事をされていると思うばかりであった。
     
     ただ、戯れている蟹の種類が、毛ガニとか、松葉ガニとか、タラバガニなら、まだ役得とは言えるだろうが、イシガニのような小型の群生する蟹の群れと同居って、どやさと思います。はい。

     でも、こういう松葉ガニが定期的に現われる牧師館なら住んでみたい気がするかなぁ。


    松葉ガニ   http://higejiiyoubei.blog.fc2.com/blog-category-191.htmlより
     

    ヴォリーズ事務所の設計による近江八幡教会の牧師館 

     いかにヴォリーズ事務所の名建築といえども、さすがに、築50年を超えると結構住みにくいのではないか、とは思う。
     
    ボクシ・神父たちの休日
     休日は牧師や神父さんが谷は基本的にあまりないことが多いようであり、かなり少ない感じではある。そのあたりの話題が出された後、関野先輩が言ったこのことは、アメリカだとあるあるだろうなぁ、と思ったのである。
    昔一緒に働いていた宣教師から聞いたのですが、彼の知っているアメリカのある牧師は、年間3か月も休みをとっているそうです。桁が違います。(同書 p.95)
    この辺、文化的な結果だとは思う。アメリカ人は、結構ビジネス相手をほっぽっといてもバカンスをとるところはある。アメリカにいたとき、追突事故を起こされた時、担当の保険屋が、10月までバカンスで休みだ、というので、3か月以上、保険金の支払いが滞ったことがある。

     かとおもえば、森先輩の発言には驚かされる。
    最初に行った「きよめ派」の教会は365日休みなしです。赴任した時に新婚旅行もしなかったので、家内と一度だけ富士五湖の西湖に二人で言ったら、たまたまその時に本部から電話があって、出なかったら怒られました。(同書 p.97)
    とか
    この前、以前に所属していたきよめ派系のボクシを牧会塾のリトリート(修養会)に招待したら、27年目で初めて休んだといっていました。その牧師は50代でしたが、今まで1日も休まなかったところを、はじめて役員会の許可を得て休暇が取れたと喜んできていました。それも3年前の話ですから、今もきよめ派系の牧師は、ほとんど休んでいないと思いますね。(同書 p.98)
    これではまるで今のブラック企業並みである。以下のリゲインのなつかCMではないけれども、今の標準的な形態から考えたら、そういう姿って一体どうなんだろうと思ってしまう。以下のリゲインのCMのあるものでは、CMのメインキャラクターの顔が引きつっているような映像が出てくるが、まさに、そんな感じではないか、と思うのである。



    リゲインの懐かCM

     若い世代において、以前のようなキリスト教への忌避感は薄れているものの、その世代のキリスト教人口が極めて少ないという現状を踏まえると、将来がそんなに希望があるとは思えない現状はある。

     産業として考えることは甚だ不適切であるとは思うが、経済学的なセンスに則り、産業としてキリスト教を考えた場合、斜陽産業としか言いようがない状態にあることは間違いはないと思う。なぜならば、現状の教会を見る限り、牧師を支えるだけの教会人口の基盤がない中では、これからの将来有望というような産業とは言い難いのではないか、と思う。そのうえ、365日休みなし、超薄給のなか、牧師としての献身者が不足している、っていうこと自体、かなり厳しい現状の反映ではないか、と思う。

     ただ、その世俗的な視点からの厳しさを超える価値を見出しておられるからこそ、現在も尚、わずかながらとはいえ、牧師への献身者がいるのだろうと思う。
     また、今後紹介するが、この本が書かれた当時、東京のルーテル神学校では、ボクシ志願者がゼロというか卒業者がゼロというちょっと実に背筋が寒くなりかねないような現実も紹介されている。
     次回へと続く
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