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2009.09.25 Friday

グリーフケア 再考

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     ある伝道者の方の奥様が召された。直接面識がない。

    伝道者の方も、面識がない。関東に長くいたから。

    伝道者の方の旧約聖書理解の方向性が違うから、あま

    り関心がないこともある。あまり議論の方向性が異な

    るので、正直に不快感が顔で表現されそうで、それが

    いやだなぁ、と思うこともある。あまり、楽しい思い

    出を分かち合うことのできなかった教会の責任者が

    絶賛というよりは心酔していたことも影を落として

    いる。

     ブログを使って、病状が経過報告されていた。

    祈りに覚えてもらうためであったが、遺族の方、

    特に夫であった伝道者の方としては、闘病時の

    この姿をとどめておくことで、ともに歩んだ配

    偶者、というよりは、ラテン語でいうコンミリ

    ターリィア(戦友というのか、同志というのか、

    危機をともにくぐった中で培われる友情)の痛

    みと悲しみを分かち合うというグリーフケアの

    役割を果たしていたように思う。

     この伝道者の方は、配偶者であった方の前夜

    式(通常の通夜にあたる)と記念式(通常の

    葬儀にあたる)ともにメッセージにあたるという。

    個人的には無謀だと思う。グリーフケアの観点

    から考えても、無謀だと思う。でも、それも

    我々の理想化された責任者の姿だと思うが、

    それはどこかで無理があると思う。神の前に

    無力さをさらすべき瞬間であっても、無力さ

    をさらすことを許さないその精神性は、個人

    的にどこか歪んでいると思う。

     他人に依存すること、それもときに必要で

    ある。それを指導者自ら見せることで、牧会

    上の益になることもあるのではないか。

    そんなことを考える。

     教会員は、指導者の姿を見る。そして、そ

    れが有形無形の影響を信者に与える。である

    とすればこそ、弱さを見せること、他人に依

    存する姿を見せること、それが許されるなら

    ば、そうすることが必要だと思う。

     葬儀のセルフプロデュースの話が、水谷

    牧師のブログ

    http://blog.chiisana.org/?eid=1261092

    http://blog.chiisana.org/?eid=1262336

    にあったが、なんかそんな感じを受けてしま

    った。

     霊性の問題を考えるとき、グリーフケアの

    必然性を考えるとき、歪みを感じる。この歪

    みはどこから来るのか、少し考えたい。
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