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2016.03.19 Saturday

松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ(1)

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    いつもお世話になっているイケメン編集長の松谷信司先輩がご著書というか、ご編集なさった『キリスト教のリアル』をご恵贈いただいたので、拝読した。

    書籍版アーメントーク
    神学的に学ぶところがあるか、というと、それほど多い本というわけではないが、考現学の資料、比較人類学、あるいは比較キリスト教学(それが成立するとすれば、の話であるが)に関する素材はかなりあると思う。個人的には、以下の「アーメントーク 7人のボクシたち」の方が教派数が大きいので、サンプル数の大きさという意味ではある種の幅があるが、その分一人当たりの発言の深さがないので、比較が深く可能になるという意味では、本書の第局瑤諒が、印象深い。
     
    超教派神学バラエティ「アーメントーク」七人の牧師たち (これも著者の松谷信司先輩の企画である)

    なお、上の動画は長いが、それでも本書を読まれる前に、上の動画をご覧になっておかれるとよろしいかと思う。著者の松谷信司先輩の発想の原型はここにあるといえよう。また、それは本書に反映されている。

    第吃堯.リスチャンあるあるから
    第1部のクリスチャンあるあるでは、クリスチャンが一度は経験する内容がかかれていて、それはそれで楽しく読める。内容は是非本書をご覧になっていただきたいが、あるあるとして、あぁ、そうだ、と思ったのをひろってみる。
    肉は食べてのいいの?
    「安息日」なのに教会で疲れる
    「イースター」に続いて「ペンテコステ」も盛り上がらないかと淡い期待

    とかは面白かった。個人的には「肉は食べていいのか?」と聞かれたことはない。この発想の背景には、宗教者としての仏教集団としての肉食に対する忌避感や、精進料理の伝統があり、日本人の宗教意識の中に殺生を好まない仏教思想の影響があるからではなかったか、と思う。なお、知り合いの仏教僧の方は、血の滴るようなステーキはお召し上がりになる時に、ニンニクはだめ(高野山直系)とおっしゃった方はおられるし、禅僧の方とお食事をした時も肉料理を召し上がっておられたので、そのあたりが日常生活的な理解として、どうなのかはよくわからない。

    似たような話では、聖公会のある司祭が東北地方で選挙会場に行かれたら、「神父さんでも投票されるんですねぇ」と選挙立会人の方からいわれた方の事例があることは存じ上げている。

    ところで、安息日なのにかえって疲れるというのは、クリスチャン二世で教会に行かされた人なら、経験はあるはずであるし、信徒として参加していると、結構神経は使うことは多いので、普通の信者さんでも経験する方もおられるかもしれない。
     ペンテコステが盛り上がる淡い期待、ということに関しては、最近は漸くイースターが認識されてき始めたが、あれは毎年の移動が激しいので、結構まぁ、春分の人かに合わせてしまえという説もヨーロッパでもないわけでもないらしく、固定日にしようとする動きもあるらしいが、個人的には、旧約と新約がつながるポイントなんで、合理性やら、便利さ追及のために固定日にされるのはなんだかなぁ、と思っている。さらにシナイ山で律法が与えられた記念日でもあるペンテコステの日は、キリスト教的には聖霊降臨がかぶさっているので、本当は重要な意味があるのだが、シナイ山で律法が与えられた記念日としての性質はすっかり忘れられているという意味でも、もうちょっと大事にされてもばちの当たらない日であろうと思う。なお、ペンテコステ派の創立記念日かどうかは、ミーちゃんはーちゃんは知らない。

    相互の教派の理解を知らないクリスチャンたち
    関西凸凹神学会という面白い研究会や牧会事例研究会に参加させてもらっているのだが、そこには、日本基督教団、日本イエス・キリスト教団(大体この二つが何がどういう点でどのように違うのかを明確に言えたら、相当のキリスト教マニアといえる)、メノナイト・ブラザレン、バプティスト派など様々な教派的背景の人々が来ておられるのだが、そこで交わされる牧師先生方のお話を聞いていると、実に多様であり、様々な特徴があるのを感じる。そして、案外他の教派教団のことをご存じないことが手に取るようにわかる。お互いの状況を実に興味深そうに聞いておられるのである。そのあたりの事を松谷信司先輩は次のようにお書きである。
     当事者であるクリスチャンの間でも、互いの違いはそれほど理解されていません。なぜなら、熱心な信者ほど自分の所属する教会へ通うことを重視しますので、他の教会の内情については知らない場合が多いからです。(pp.33−34)
    まさに、タコツボ状態なのである。先にも述べたように、一応、教会史を学んでおられるはずの牧師先輩方でも案外他のキリスト教のグループをご存じない状況であれば、信徒においては推して知るべし、という気はするよね。

    最近の特筆すべき傾向
    最近の傾向として、松谷信司先輩は次のような傾向をあげておられる。
     特筆すべき最近の傾向としては、比較的アットホームな雰囲気を重視し、信者間の交流や奉仕活動にも積極的なプロテスタント教会で人間関係につかれたという信者が、比較的淡白なカトリック教会に映る事例が増えていると聞きます。(p.35)
    実は、このことは、日本だけではなく、アメリカでも顕著らしい。Rachel Held EvansさんのSearching for Sundayでもそのような記述があるし、Young Evangelicals Are Getting High (この場合のHighはHigh Churchとも呼ばれる典礼重視型の教会のことであって、最近保釈された元巨人軍の清原君が使用した薬物が生み出す様な状態になることではないことだけは一言書いておこう)などでもそうであるが、基本的にはプロテスタントや福音派的なものにつかれて、ハリストス正教会とかローマカトリックとか、聖公会(アングリカン・コミュニオン)にご訪問されているのだと思う。

    まぁ、教会づかれ、という残念な傾向に関しては、堀肇先輩も最下部に紹介したような本をお書きになるほどである。

    メディアとメディアの表現保管施設としての教会建築
    建物としての教会のメディア性に関しては、以前、 NTライト Kansasで語る(1) の記事でもご紹介したように、確かに伝統的キリスト者集団の教会堂には、ほぼ民家同然の教会もあるようなプロテスタント教会にはない、教会建築全体を通してのメディア性が確かにある。その背景は、文字を読めない人々にキリストとその生き方をどう伝えていくのか、という側面であると思う。そのあたりの事に関して、松谷信司先輩は次のように書いている。
     建物としての教会が立てられると、誕生から復活に至るイエスの生涯を目で見てわかる形で伝えるため、ステンドグラスや絵画、レリーフなどの表現手法が発展し、宗教改革で聖書が文字を介して読めるようになるまで、建築物そのものを含め貴重なキリスト教メディアとしての役割を担うことになります。(p.38)

    この教会のメディア性というのは個人的に大事だと思うのである。キリスト教が大事にするリラタスの世界にどのように人々が入れるようにするのか、ということだからである。教会の説教もメディアであるゆえに、内部の論理構造を外部に提供するという側面を持ち、教会の信徒コミュニティ内部の共通理解を教会外部の人々の世界に橋渡しをしていくメディア性を持っているのである、ということを最近、平野克己先輩との対話、先日の Ministry2016年2月 Vol28のご紹介(前篇) でご紹介した際に、Facebook上でコメントによる対話を頂く中で、なんとはなく理解したのである。
    平野克己先輩は、おそらく
    【口語訳聖書】 マタイ福音書
     13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
     13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
     13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
     13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
     13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
     13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
     13:17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。
    を念頭に起きながら、ご対話いただいたようであるが、神の支配の内にあるコミュニティ、コミュニオンの中から神の理解がその外側に出ていくためにメタファーとか、たとえ話や詩というものがコミュニティとかメディアとして用いられているというご指摘を頂いた。これらのたとえ話や詩文がコミュニオンの壁を超えられるために用いられ、そのメタファーとか詩文で語られる内容が信仰コミュニティの外側にいる人々のところに影響を与えうるという理解をありうるのではないか、とご指摘いただいたように思ったのである。

    この聖書箇所の部分に関して、このような解釈の可能性があることをある面自分の内において言語化できていなかった部分が非常に明確になったので、実にありがたいご指摘を頂いたように思っている。この場を借りて、心からの感謝を申し上げたい。

    実は、教会堂自体が外に出ていくメディア性を持っていることに関して、最近思ったことがある。最近家人の一人がバルセロナにしばらく滞在していたこともあり、サクラダ・ファミリア教会に何度か行ったという話をしていた。家人曰く、あの教会堂はイエスの生涯を教会堂全体で示しているということを直感的に感じたそうである。

    そういう話を聞かされたので、サクラダ・ファミリアを調べた画像の中に以下の図があった。サクラダ・ファミリア教会のフロアプランである。このフロアプランを見て、腰を抜かさんばかりに驚いた。

    このフロアプランは、どうもイエスが人々を迎え入れる様に手を広げている姿そのものであることに気づいたのである。教会堂の平面プランが、キリスト教の主要な主張である、イエス、ないし神が人人を包摂しようとしていることを示しているのであった。さすがガウディ先輩と思ったのだ。

    https://www.pinterest.com/pin/187532771957403143/ から

    このフロアプランに現われているように、本来教会建築はメディアの役割を果たしたはずなのである。あぁ、それなのにそれなのに、宗教改革以降、とりわけ、プロテスタント派にあってはその理解を打ち捨ててしまい、日本では民家に十字架を付けただけ、のような残念な形の教会堂が少なくないような気がしてならない。

    教会人の偏りについて
     明治以降、教会に行く人というのは、今風の用語で言えば「意識高い系」の人々が歴史的に多かったことあたりについて、松谷信司先輩は次のように書いておられる。
     現実的な課題としては、そうはいっても(引用者補足 すべての人に開かれるべき)教会に集まっているクリスチャンは、経済的にも精神的にも余裕のあるインテリ富裕層(とりわけ高齢者)に限られがちという側面があります。まして、多くのノンクリスチャンの方にとっては、教会で毎週行われている礼拝は未知の世界だと思います。(p.41)
     教会の交わりについての神学アナロギアの参加記 第6回日本伝道会議プレ集会 これでいいの?教会の「交わり」!参加記 をFacebook上でご紹介した時に、N川先輩いわく、ご自身の教派のことではないが、今でも日本のあるキリスト教の教会群では、植村正久先輩の「うちの教会には車夫の類は要らない(大意)」と言ったような態度が残っていると教えてくださった。実にありがたい先輩である。

    その意味で、基本日本のキリスト教会はいわゆる「意識高い系」の人々や「ハイカラ」な人々が集まるサロンのような部分はあったのかもしれない。それは、仕方がないかもしれない。

    というのは、現在はやや緩和されているものの、異教社会である明治の日本でキリスト教徒をやり続けるというのはハードルが高いし、そもそも「すべて疲れたもの、重荷を負うものは…」とイエスはいわれたけれども、異教社会で教会に行くということはストレスがたまるのであり、それを乗り越えるための何かとしての「意識高い系」のような何かや、「既存の伝統社会通念からの脱却」とかいう何かがないとできなかったのではないか、と思うのである。ところで、ローマ時代にキリスト教が広がったのは、「健康に生きられるよう支援してもらえるし、結果的に長生きできた」というメリット、あるいは事実がもたらした結果だったのではないか、というのが、スターク先輩のご結論のようでもある。

    また、先日開かれた凸凹神学会でも、日本のキリスト教会のひずみの原因として、「教会に集まっているクリスチャンは、経済的にも精神的にも余裕のあるインテリ富裕層(とりわけ高齢者)に限られがち」というところの影響はあり、クリスチャン生活が地についていない原因はこのあたりにもあるのではないか、というところがあって、どうしても高踏的な感性に走る傾向は否定できないですよねぇ、というお話も出ていた。

    牧師・神父あるある
    牧師・神父あるあるとしていくつか面白いことがあげられていた。
    初対面のノンクリスチャンから「意外と普通ですね」とがっかりされる(p.52)
    人の悩みを聞くのは得意だが、自分の悩みは容易に言えない(p.54)
     普通であることがボクシらしくないと認識されるのは、結構特殊能力を持っているという思い込み(エクソシストができたらカッコイイとでも皆さんは思っているのだろうか。エクソシストまがいで油を撒きに行って、文化財の破壊行為として刑事告発されてしまうのは、きっとエクソシストまがいだということは皆さんお気づきだからなのかもしれない。あと、カトリックの司祭服を着ているという習慣が、プロテスタント派では比較的薄いので、その辺の影響もあるかもしれない。

    人に悩みが言えない、というのは、牧師やクリスチャンたるもの、品行方正にして、神の完全な形であるべきという思い込み、あるいは思想の影響を受けているのではないか、と思うのである。ところが、ダビデにしても、モーセ先輩にしても、とてもとても品行方正にして、彼ら自身は、神のような御姿ということにはないように思うのである。  
    日曜日以外はゴロゴロしていると思われている(p.53)
     これは、どうも牧師と遠縁の親戚関係に近い関係にあったり、二足の草鞋の穿き方として牧師と大学教員を兼任しておられる方も少なくないことからか、大学教員とかもそう思われている雰囲気というのはあるように思う。要するに他人の仕事は見えにくい、ということだろう。まぁ、他人から見て理解しやすい仕事と、理解しにくい仕事というのはあるのかもしれない。

    まぁ、東方敬信先輩のお訳しになられたスタンリー・ハワーワス先輩の以下で示す本では、そのことが実に明確に述べられていて、アメリカの名門大学(ハーバードにしてもイェールにしても)が、本来教会のために設置された基盤を忘れているのではないか、とまぁ非常に厳しい口調で追及されておられる。案外、このことは、日本の文系の大学人でも知る人が少ないのは、驚くべきことのような気がするが。


    ハワーワス先輩のご著書 一部に難はあるが、日本の大学人にとっては参考になるかもしれない。

    外部から誤解されやすい教会用語
    キリスト教会の教会人の使う言葉は、通常の人が使う言葉とだいぶん違うことがある。その例として、次のような語があげてあった。
    愛、証し、カリスマ、兄弟(姉妹)、説教、賜物、福音(エヴァンゲリオン)、交わり、導き
     たしかに、これらは、世間一般の用語とはかなり違う。

    カリスマ、といわれれば今の若い方は、109(マルキュウ)や原宿とやらにおられるこういう方を思い浮かべるだろう。なお、お年寄りの原宿、巣鴨にはこういう方はおられなかったなぁ。



    また、兄弟姉妹は、キリスト教会の同信の方々をお呼びするときの言葉であるが、個人的には、麻生兄弟とか谷垣兄弟とか読んだり、N.T.ライト兄弟とか、気色悪いので、個人的には、無性別でもあるし、先輩と呼ぶのがよいと思っている。麻生先輩、谷垣先輩、ボウカム先輩、N.T.ライト先輩なら、呼びやすい。なお、年齢的に若い方にも、先輩と呼ぶことにしている。

    この兄弟と呼ぶ習慣は、Yo BroとかBrother(若いアフリカ系アメリカ人が言う言葉のBroとかBrotherはもともとは、同胞とかいう意識で言われているものであり、アフリカ文化の中での特殊な感覚を持つ言葉である)とキリスト教の兄弟姉妹とつながるものはある。個人的に、人にもよるが、かなり図々しいミーちゃんはーちゃんでも、牧師先生にYo Broと呼びかけることはクリスチャンであっても、かなり勇気がいるのではないか、と思っている。ましてや、N.T.Wright Broとは呼べない。


    また、福音とかヱヴァンゲリヲンといえば、今のお若い皆様方は完ぺきに以下の動画を思い浮かべることであろう。なお、この本の著者は、いのフェスで、信司君だけにシンジ君のコスプレでご出演のことが多い。

    ところで、交わりとかの意味は信徒でも、共通理解があるのか、と問われれば、それはかなり怪しいのではないかと思う。だからこそ、神学アナロギア&コイノニア委員会で「第6回日本伝道会議プレ集会 これでいいの?教会の「交わり」!」というテーマで考えないといけないのかもしれない。そもそも、こういうイベントが存在すること自体、キリスト者でも、広く共通理解ができていないことの何よりの証左なのかもしれない。

    まぁ、今回ご紹介した部分は、イタリア料理店で言うアペリティーヴォかアンティパストであり、これからが本番である。まぁ、なかなか美味しいアンティパストだとは思った。この松谷信司先輩のシェフとしてのなかなかの腕の良さを味わった。


    なお、個人的には、松谷先輩というと、上の画像の翻訳者の方が印象が強く浮かぶが…

    次回へ続く


     
    評価:
    松谷 信司
    ポプラ社
    ¥ 842
    (2016-03-01)
    コメント:非常に面白いし、キリスト教メディア以外の出版社だからこそ、という部分はあると思う。キリスト教メディアが外から見られた、というところが面白い。

    評価:
    堀肇
    いのちのことば社
    ---
    (1993-11)
    コメント:良い本だったに。

    評価:
    ロドニー・スターク
    新教出版社
    ¥ 3,456
    (2014-09-19)
    コメント:手法的には問題ありだと思うが、内容的には面白い。

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