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2016.03.16 Wednesday

第6回日本伝道会議プレ集会 これでいいの?教会の「交わり」!参加記

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    伝道会議 神学アナロギア 2016年3月12日 @ナザレン神戸平野教会での記録をご紹介したい。この企画は、神学アナロギア&コイノニア委員会コラボ企画だったらしい。

    最初のグループブレインストーミング
     最初にまずグループ分けがされ、ミーちゃんはーちゃんが参加したグループには、バプテイスト、長老教会、メソディスト、ホーリネス、ルーテル派など、様々なグループのキリスト教会群からのメンバーで交わりをどう考えるか、という伝道をどう考えるか、ということを話し合った。

     ご高齢の方は、ハンドクラフトの会など様々なイベントをして、交わりや伝道につなげているというご発言があったり、女性の会だと、強い主張を持つ信徒さんがおられて、割と混乱が起きる場合があること、若い世代は婦人会などに生活構造が変わって、出にくいこと、世代間での分離の方向に進みやすいこと、世代の交わりがやりにくい、伝道という意味では、子供のためのイベントに親が付いてくる形のことがあり、一つの可能性があるのではないか。

     また、ある参加者からは、教会の行事に関しては、変えていいものと変えてはならないものがあり、それをその都度変えていくことも考えてもいいのではないか、ということを考えている。また地域の交流会などに出ていくことも考えた方がいいのではないか、などという議論があった。

    岩上祝仁先輩による交わりの話
     第一のキーノートスピーカーである岩上祝仁先輩が交わりについてお話になった。

     今回のグループセッションのような形は、来年のテーブルグループでの議論のかたちのモデルとしての実施であったのであるが、これが導入される経緯は、ローザンヌ会議で参加されたか先輩方が非常によかった、と思われたことからであることに端を発している。その意味で、従来のような講師から学ぶ形もするけれども、より参加者中心の伝道会議になると思ってほしい。

    交わりについて
     なぜ、交わりが大事か、といえば、そもそも神のかたちに造られている人間であるからであり、エデンの園での人の堕落におって神が創造された愛の交わりが崩壊してしまったことになっている。
    その結果として、罪のために人間の間での力による支配が発生し、人間的な権威によって人間関係が傷ついている。

     教会の交わりは、その罪によって破壊された交わりがキリストの十字架によって回復しているはずであり、神との交わりの回復しているはずである。以下の聖書箇所が参考になるだろう。

    【口語訳聖書】ローマ人への手紙
     5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

    人との交わりの回復(謝罪と赦し)は深く関係しているであろう。

    ピレモン
      6 どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るようになってほしい。

    の中で語られている、あなたの信仰の交わりが強められて、という部分は非常に大事かもしれない。また、ピレモンの手紙は、赦しと和解と回復について語っているが、このあたりが交わりで重要ではないか。

    交わりは意識をしないとまずいであろう。教会の交わりに出席していても神と自分だけの交わりに終わっている場合があるのではないか。それと同時に、信仰者との交わりの両方必要であろう。

    教会の交わりとしては、一緒に食事すること、一緒にしゃべること、一緒に遊ぶこと、一緒に・・・がだいじではないか。

    交わりの基礎として、聖霊が与えられているはずで、交わりの霊的な基礎は与えられているはずである。つまり、同じものを共有している。共に霊的な営みを行う信仰的な共有から生まれてくる交わりがあるだろう。

    【口語訳聖書】使徒行伝
     2:42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

    とあるように、礼拝、祈り、食事(聖餐)というのが大事であろう。神様は食事を大事にしている。エリヤに食事を与えているし、エマオでも食事をしている。

    交わりと共に与ること
    互いのために祈り、喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣くということがイエスの姿であり、重要なポイントではないだろうか。時と場所、同じ経験による交わりを通して、共に支えあってていく交わりが重要ではないだろうか。

    交わりは、一緒に、そして主を見上げて同じ営みをすることであり、そこに主イエスも一緒にいてくださるというのが、信仰者の交わりといえよう。どんなに楽しいことをしても、主イエスの存在を忘れたら(信仰が働かせられないと)、そこが課題になっていくであろう。

    教会の交わりは、単に楽しいだけで終わる表面上の交わりではなく、さらに深みを目指すことができるものであろう。

    口語訳聖書 ピリピ
     3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、

    での”苦難にあずかって”のあずかるが、コイノニアであり、キリストの苦しみに与る 一緒に苦しみを共にすることから生まれる一体感ではないだろうか。

     自分の十字架を負って、キリストに共に従っていく交わりが重要であり、その交わりから出てくる伝道であるといえるのではないだろうか。

    【口語訳聖書】マタイ
     18:20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである

    ということとは重要であると思われる。

     伝道とは、内から外へむかっていくものである。キリスト者の交わりは外へむかっていて、滅び行く人々への愛へと開かれていくのではないか。

     なお、伝道会議は2000人全員参加、参加者が4日間、同じ仲間との関係を作るということになっており、その交わりが伝道会議後も残るように開催地委員会としては願っている。

    正木牧人先輩によるコイノニアと神学と伝道
    正木先輩は、『コイノニアを神学したら伝道が見えてきた』というテーマでお話になられた。

    【口語訳聖書】使徒行伝
     2:42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

    とあるように、聖餐がなされていたことがわかる。

    コイノニアと共有
     コイノニアとは、一緒にかかわること、英語で言えば Participate togatherであり、仲良くなるのではなくて、そもそも交わり、コイノニアは動作語であり、動きがある言葉である。使徒時代の初代教会では、全てのものを共有していたことがわかる。互いの必要に共に与ることがコイノニアである。ある意味で、具体的な出来事を分かち合うことといえるだろう。

     コイノニアとは、コイノーノスと関係が深い語で、一緒にかかわっている、一緒に、動作をしている、一緒に何かに共にかかわっているということである。

     困窮する信徒のために拠金されたものを届けることもコイノーニアと呼んだ 拠金を集めて運ぶプロジェクトのプロセスにかかわっていったのがコイノニアとも呼ばれている。共に何かに関与、参与することがコイノニアである。聖餐式も交わりである。但し、偶像崇拝でもコイノニアが言われており、第1コリント 偶像崇拝に参加することにもコイノニアが用いられている。

    教会と共同奉仕
     教会は礼拝に与って、チームワークとしてで出ていくところが教会であり、ともに交わる 共に聖書のお話を聞いたら交わりということが実現するのではないか。

     ペンテコステの時には同じ聖霊に与ったのであり、そして伝道した 教会は神が与えたものを共に味わうということが大事ではないか。そして、お一人様から解放されるようにされたのが聖書の言うコイノニアかもしれない。

     伝道とは自分でやるようにということに強調点を置くと、それは違うかもしれない。むしろ、チームで祈って、ともに重荷を負い、かかわるっていくことが大事ではないか。それも、一つの教会だけでやるのではなくて、複数の教会チームで関与してほしいと思っている。



     今の若い人は、リアルでの付き合いがめんどくさくなる方もおられ、自分の時間は自分でコントロールしていきたいという希望の強い方もおられる。

     また、アメリカなどでは、伝道に関して教会の交わりが伝道を妨げているという結果もあり、8人くらいが交わりの単位とするセルチャーチ運動が急速に成長していることがローザンヌ会議などでも報告されている。教会全員が集まることで妨げられる伝道ということは深刻に受け止めた方がよいだろう。

     先に岩上さんが言われたように、キリスト者は内側から殻を破る働きに招かれているのであり、同じ宣教の交わりに関与することではないか。

    2回目のグループディスカッション
    このような発題を受けて後、交わりと伝道に関するグループでの話し合いがされ、その中では、日曜学校のやりにくさや、若い人がいない問題と、語っている牧師や年長者の側と聞いている若い人々の間で理解のずれが生じていることや、若い人々の教会に来る動機や真理契機ということの変容などの話がでた。

    高木実先輩からの日本伝道会議のコイノニア
     高木実KGK総主事から日本伝道会議におけるコイノニアのガイダンス風の説明があった。

    コイノニア・サーバンツについて
    コイノニア・サーバンツという考えを強く打ち出している。指導したり、リードしたりするのではなく、そこに仕えるという姿勢を込めた語である。従来は、交わりと伝道は対立的であった。外に向かって伝道せよに強調があったかもしれないが、交わりは本質的なことであり、交わりにおける成熟が重要ではないだろうか。

    コイノニアとはある面、福音を広げるために交わることであり、福音を広めることにともに与ってきたのではないだろうか。互いに祈り合い、協力し合い、互いのことを想い合うという経験をこれまでしたのではないか。その意味で、交わりを持つことは重要である。
    【口語訳聖書】マタイによる福音書
     20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
     20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
    治める人は仕える人、僕として仕えることが求められる。洗足式のことがある。
    コイノニア・サーバンツは、グループの人を支配する役割り、教える役割なのではなく、触媒の様な役割であってほしい。他者に評価を下したり忠告するのでもない存在である。
    【口語訳聖書】ルカによる福音書
     22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
     22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。

    ルカ22章26節で、治める人(指導する人) 、指導者(へブル13:17)と訳されていることばは見張りをしている人のことであり、魂のために見張りをしている人のことであり、霊的な状態に気を配っているということである。

    コイノニア・サーバンツに求められる4つのこと
    コイノニア・サーバンツには4つのことに配慮してほしい。

    1.霊的配慮における敏感さ
    初めての人、若い人への配慮そしてほしい。また、牧師先生などでは、場慣れしているためにその人そのものを出せないことがある。また、仮面をかぶっている方もおられるかもしれないので、仮面を外すことができるように助けてあげてほしい。



    2.聞く努力 適切な質問 傾聴の心を持ってほしい
    その人の発言にこころから聞いてほしい。またその人が出せるように、適切な質問をし、その人の持っているよいものが出せる様にしてほしい。

    3.沈黙を怖れない
    明るく楽しくだけではダメでめで、うわべだけのものではないものにしてほしい。無口な方もおられるし、ある種沈黙に意味があるのであって、そういう意味のある沈黙を大事にしてほしい。

    4.祈り(霊的な配慮における敏感さのために)
    祈りの時間をきちんととってほしい。そして、お互いのために祈ってほしいと思っている。コイノニアのメンバーのために祈ることは非常に重要だし、この伝道会議が終わってもそれは続けてもらいたい。

     コイノニア、小グループでの重要性があり、そこでの交わりをしてほしい。準備をする段階で、何かグループ単位でやる計画を考えておいてほしい。また、はじめから無理して深いことを語らないことが大事かもしれない。最初からガンガンやりすぎないことが重要かもしれない。

    コミュニケーションレベルの3段階
    コミュニケーションレベルの3つの段階があることについて高木先輩はお話になられた。

    情報交換のレベル  自己紹介のレベル
    意見交換のレベル (やや深まる) それぞれの意見の正しさよりも、いわんとする中身を理解する
    感情交換のレベル  感情を抱いているという事実そのものを大事にする。

    あと、交わりの楽しさばかりを求めないことを考えていてほしいし、交わりの質そのものを大事にしてほしい。

    個人的感想
     とここまで書いていて思ったが、そこまで聖餐が大事だとおっしゃるなら、日常の教会の中で、聖餐がどこまで大事にされているのだろうか、と思ってしまった。それは、先日の記事 Ministry2016年2月 Vol28のご紹介(後篇) ではないが、本当に聖餐が個々個別の教会で大事にされているのだろうか、と思った。そして、信徒の皆様はそのことの重要性をご認識しておられるのだろうか、と思ってしまったのである。

     御言葉に与ること、説教に与ることの重要性は否定しないが、そもそもコイノニアとは、聖餐論として考えた方がよいのではないのか、と思ったのである。無論、教派ごとの伝統があることは否定しないし、その伝統の重要性を否定しないが、何かみんなで一緒にやること、聖書のお話を聞くこと、一方的な教室型の形態論とその弊害がどこまで認識されており、聖餐における相互性が認識されているか、というと、かなり怪しいのではないか、と思う。
     
     それなら、私の友人の一人が私のFacebookに書いたように、カトリック教会様の方が、よほど共同体性を大事にしておられるので、プロテスタントをやめてカトリックに戻るという在り方まで考える必要があるかどうかは別として、相互認識に関する事前の対話をきちんとできるかどうかが、突然戦闘民族に変化して、突然神学的な戦闘開始とならないための準備が必要があるのではないか、とも思わなくもない。大人はいいが、大人の顔した子供も時におられるので。

     一応、開催地の方では教派的な偏りがないようにご尽力されるよう心掛けるらしいが、その時につくられる一時的なコイノニアグループよりも、自分自身の基層文化を形成している既存教派文化や教派枠から、コイノニアサーバントはむろんのこと、コイノニアへの参加者がどの程度自由なのかが、今回のコイノニア活動の成否を決めると思うのである。そもそも、一人超教派活動をしているようなミーちゃんはーちゃんにとってはこういう教派枠とかはどうでもいい話だし、別にどういったこともないのだが、案外普通のキリスト者と呼ばれる人にとっては、アメリカ合衆国のキリスト者たちのように、どの教会、どの教派に属しているのかは案外重要らしい。

     今回の模擬コイノニアでもそうであったが、最初に所属教会を言わされたが、あれってどうなんだろう、とは思う。それこそ、人を教派枠で見ることを最初からお願しているようなもので、キリスト者はキリスト者、それだけで十分ではないか、と思うのは、キリスト教会におけるゲリラ部隊のようなプリマス・ブラザレンの思想をひいているから思うだけかもしれないが、まるで、アメリカのキリスト教会のようであるなぁ、その再現みたいだなぁ、と思ったのである。
     アメリカ合衆国では、最初に出会ったとき、その教派やどこの教会をざっくりと尋ね合う習慣があることが森本あんり著『反知性主義』にかかれていたが、なぜこうするかといえば、同書にもあるように、その人のソーシャルネットワークや社会集団が所属教会や所属教派によっておおむね類推がつくからである。
     ところで、そもそも「交わり」とかいうキリスト教会用語は、『キリスト教のリアル』でも外部者には通用しない語の一つとして挙げられていたが、そもそもが『お仲間であること』という状態動詞であるようなのだなぁ。関西で言う『ツレ』であり、左翼用語で言う『同志であること』なのである。そもそも現代日本語の中に一語でこのコイノニアを示す語がないのである。「一緒に」とか「共に」という言葉を補わなければ、表現が難しい語なのであり、その意味で現代日本人にどこまで理解できるのか、というのはあると思う。まぁ、コイノニアとは、「一緒に飯行きましょうぜ、一緒に飲みに行きましょうぜ」であるのだから、交わりとかいうややこしい表現せずとも、それでいいのではないか、とも思うのだが。

     今回刺激的だったのは、教会の交わりが伝道を妨げる、という側面があるという指摘である。また、本来、キリスト者は、外に向かって殻を破って出ていく存在であるという正木先輩のご指摘である。これは、先の教皇フランシスのご発言と軌を一にするものであり、ある面で言うとキリスト教の本質的な開放、赦し、救いという概念とつながっている概念だと思うが、それがなかなかできていないということを想うと、日本伝道会議以降、その参加者と日本のキリスト教会、特に福音派と呼ばれる人々に大きな問題を突きつけることになるのではないか、と思う。他のキリスト者をリベラルとディスって以上終わりにできなくなるからである。

     あと、もう一つ、この伝道会議は従来の教会内の構造を変えかねないという点と、それが今後の教会でどう出るか、という側面が重要ではないか、と思う。従来の教会内の枠組みでは、牧師中心の教会構造を中心としてきたようにおもうのだが、今回はかなり信徒中心にしていく可能性があり、それが教会内文化の軋みを生み出さないか、ということである。個人的には、このような変化の方向は妥当なものであると思うが、これまで、牧師におんぶにだっこになっていた日本の教会の信徒が、変容の中核的な担い手になれるかどうか問題である。牧師先生の側の問題もさることながら、高齢化が進む中、文化の構造転換を嫌う高齢者層の信徒がこの種の教会の変容を受容し切れるか、というチャレンジングな問題を提起していると思う。しかし、信仰者として高齢者層の信徒の皆様には、信仰者らしく、このチャレンジングな問題提起を受け止め、それらの人びとなりに受容してもらえればうれしいと思う。



    そして、上の漫画のようにならないことを願っている。

    参加申し込みのご案内
    なお、2016年3月末までに申し込むと申し込み料金が2000円も安くなります。
    クレジットカード払いもOkのようなので、主催者に成り代わり、ご案内いたします。

     
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