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2016.03.07 Monday

2016年3月 大阪聖書学院での霊性の神学入門参加記

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    今日は、先日言ってきた大阪聖書学院での講演会の記録を載せておこうか、と思う。一生懸命現場でメモをとったが、落としている部分や誤りがあるかもしれない。その部分は、ミーちゃんはーちゃんによる。

    霊性の神学入門
    今回の講師のS原先輩という方は、リージェント神学校で学ばれたということだが、 この神学校の特徴は、スピリチュアリティが独立しているところである。このリージェントの神学校の特徴を表す面白い挿話として、窓ふきしているおじさんに挨拶をした二人の先生がいたのだが、それが、James Houston であり、もう一人がEugine Peterson(このブログでもときどき出てくる)というひとであった。
    James M. Houston先輩(2016年4月から5月にかけて来日予定の模様)

    Eugine Peterson先輩

    本日の講演テーマは、霊性と神学がどうかかわるのか、についてのお話であり、以下のA.とB.の二部構成でお話ししたい。

    A.霊性の神学とは何か
    B.組織神学とのつながり(いわゆる各論)

    A.霊性の神学とは何か
    なぜ、霊性が問題となるのか。 Spiritualityが問題となったのか。

    社会的要因
    社会的要因・歴史的要因があるであろう。マクグラス、いわゆる、米国の福音派と呼ばれる福音主義教会は、アメリカ全土3000マイルに拡がったが、深さは6インチでしかないと1990年代にいったことがある。ある面、数的に広がったが、深みがない存在ではないだろうか。生活と信仰が一体化している部分の意味がわからなかったり、福音派には、信仰の深まりがわからない人々がいる。信仰生活における深まりの分野が霊性と呼ばれている。

    個人的感想----
    工藤信夫先輩によると、日本でも同じことらしく、日本でヘンリー・ナウエン先輩が紹介され、読まれるのが遅すぎたことの影響も大きいという話であるが、それはある面首肯できると、思う。この背景には、近代の神学が藤本満先輩が「聖書信仰」のなかでも、ご指摘でもあるように、科学との対決姿勢を福音派が強め、科学に対する対決に勝利するためとはいえ、科学の土俵に乗ることに必死になったという側面もあり、その中で聖書無誤論という議論に陥ってしまったことはあるかもしれない。そして、本来取り扱うべき、聖書と霊性という本来科学で扱いにくいあるいは科学に対してメタな構造の中で考えるべきことを見失っていたのではないか、とは思った。
    個人的感想----

    個人的経験の要因
    霊性の神学をS原さんが考えたいと思った背景の一つには、いくつかの要因があったようであるが、まず、講演者のS原さんの個人的要因として、S原さんご自身の中にあった霊的な欠乏観があり、欠けがあると感じていた。その霊的な渇きを30歳前後から感じておられたこと、そして、クリスチャンの歩みとしての統一感のなさを感じた。職場や家庭、教会での生き方がばらばらであり、それが統合された感じがないという印象を持っていた。また、聖書を語るのにこころが喜ばない、説教が他者のこころに届いていない。聖書を読んでいても、心が躍らない経験をした。

    Trinity神学校で勉強しているとき、障害を持った女の子10歳に満たないカリスという名前の少女がご友人のご家族にいた。その子がなくなったときに、Trinity神学校のチャペルでご葬儀したが、カリス(恵み)について聖書から説教者は話があった。その説教では正しいことを述べていたし、正しい解釈が聖書から語られるのを、聞きながら心にある種の怒りを感じた。説教者が娘を失った遺族の悲しみに向き合っている感じがしなかったからである。そのことを思いながら、聞く人たちにすり寄るのではなく、心に届くということはどういうことか。正しい聖書のことばが相手に届いているのか、ということを考え始めた。まさに霊性の話である。

    個人的感想----
    まぁ、こういうことはまま起こる。正しいけれど、心に届かない説教がある。説教者が準備をしながら、あるいは話しながら喜びをもって、あるいは聞き手にシンパシーをもって語っているかどうかは、結構聞き手であるミーちゃんはーちゃんはわかってしまうのである。おそらく多くの人もそうではないか、と思う。
    一度、近所の教会にお伺いしたときに、まさに、痛々しくて、聞いているのがつらい聖書からのお話をお聞きしたことがあるが、それは語らなければ、という必死さが先に立ち、語っている本人が喜んでおられないのがわかったので、あぁ、痛々しいなぁ、と思ったのである。なお、その後その教会は二度と訪問することはなかった教会の一つである。
    個人的感想----

    神学的教育の要因
    霊性の神学の必要が生まれた背景として、神学教育の要因を取り上げておられる。

    フォスター・フリーマンという方は、 神学校を卒業し、牧会の現場に出て、数年すると、生身の人とともに生きていく中で、神学校で学んでないことに直面した時にチャレンジを受けることがあるものの、こういうことに対応する能力を教育していないということをご指摘のようである。神学校では、どうしてもこれまでの学者、他者の意見のとりまとめに終わってしまう。確かに、有名な学者の意見を扱う手法を身につけるが、生身の人間を取り扱うことを学んでいない。現場で接する人々とのかかわり合いをどう考えていくのかは、現場でより大きな影響力を持つのだが、こういうことは、なかなか神学校では取り扱えない。

    個人的感想----
    このあたりのことに関して、人のこころや霊性を扱うのに、神学教育があまりに貧弱であると、工藤信夫先輩は随分とお冠のご様子である。工藤信夫先輩は、お冠になられたからかどうかは知らないが、あちこちで、この種の対応の為の牧会事例研究会やその他の名称で、牧師がこころや霊性と対応するうえでぶつかる問題についてお話し合いをする会をお持ちのようである。
    最近のメディアでは、その神学教育と霊性にまつわる悲劇的な事例が、Ministryの2016年春号 ボクシたちの失敗で取り上げられている。また、この種の霊性に関する研修機関でのご経験についての豊田信行先輩によるご報告が、舟の右側3月号で取り上げられている。この2つは一緒に読まれるほうがよいと思う。まず、Ministry2016年春号、そして、舟の右側3月号の順番で読まれるとよいと思う。この二つの雑誌については、次回取り上げる予定である。
    個人的感想----


    聖書的な理由の要因
    ゴードン・フィーの聖書を正しく読むために、という書籍の中でも次のような言及がある。
    聖書的な意味でも霊性を学ぶ必要がある。釈義、聖書解釈をする、第1に心掛けることは、聖書記者が何を言っているかをとらえる。究極的な役目は、霊的な成長、霊性である。これは切り離せない。

    ゴードン・フィー先輩

    個人的感想----
    そもそも、聖書は歴史的文書としてのみみられるのか問題ということがあるわけで、神の霊感を受けた所、ということは新約聖書テキストにある以上、単に事実とその解釈が羅列されている古代歴史的文書としてみるのはまずいのだろうなぁ、と思うのである。
    個人的感想----


    そもそも霊性とは何か
    「霊性」という語にこだわっているわけでない。きよめ、敬虔、クリスチャンの歩みでも同じことである。
    J.I.Packerによると、霊性の神学とは、「敬虔の根拠と成果についての研究」ということらしい。(ミハ氏注:おそらく出典は、A Passion to Holiness(Nottingham:Crossway books 1992)  の模様)

    マクグラスの『キリスト教の霊性』によれば、 「キリスト教の霊性は、キリスト者として満ち足りた本物の生き方を追及することであり、キリスト教の土台となる信仰内容とそれに基づく生活のすべての経験を統合するものである。」S原さん私訳

    ある面、信仰者の生き方、信仰の内容、真理都のこの地における統合ということができるかもしれない。

    ユージン・ピーターソンによれば、「キリスト教の霊性は、福音の全体を生き抜くことである。即ち、霊性はあなたの生活のすべての要素―子供、配偶者、仕事、天気、財産、人間関係―を含み、そのすべての信仰の行為として経験することである。神は私たちの生活のすべてを求めておられる。」 (『牧会者の神学ー祈り・聖書理解。霊的導き』越川弘英 日本基督教団出版局 1997)
    霊性は定義不可能ではないか?とピーターソンはあるところで言っている。

    ケヴィン・ヴァンフーザーは、神学的な教理が実際生活につながっていることがあったら言うようにと言いながら、現実との対応を考える上で、霊性の問題に授業中取り組んだりもしていた。


    ケヴィン・ヴァンフーザー先輩

    霊性の神学とは何か、であるが、霊性の神学であろうと、霊性神学という語を用いようと、それはどちらでもよいと思う。

    Simon ChangのSpiritual Theology: A Systematic Study of the Christian life(Downers Grove, Illinois: IVP 1998)によれば、「霊性の神学は、組織神学とキリスト者の実践との間に位置する。霊性の神学が一方では組織神学、他方では実践神学の間に占める位置の重要性は強調しすぎることはない。霊性の神学による仲介がなかったら、キリスト者の実践は単なる活動主義に還元されてしまう」と書いている。

    個人的感想----
    しかし、霊性なきキリスト者の実践を活動主義と呼ぶというのは強烈であるが当たりすぎていると思う。むろん、霊性ぶりっこは誰でもできるので、ぱっと見わからない霊性ぶりっこは、できるのだが、ある程度長期的に人々を見てれば、霊性ぶりっこなのか、そうでないのかは何となく感じることができるような気がする。この辺は、同じような感想をお持ちの方のブログ記事 カルトっぽい教会を離れた後の話・16 がある。

    ただ、難しいのは、霊性ぶりっこしているうちに、本当に霊性の豊かさが現れる場合を否定できないという側面はあるように思う。
    個人的感想----

    組織神学と霊性の神学
    組織神学(Systematic)と、実践神学の間をつなぐ霊性の神学について、少し考えてみたい。
    Systematic Spirituality という概念がパッカーから提起されており、これは組織的霊性ともいわれるが、J.I.Packerの神学と実践を結び合わせるものということである。この概念は、Passion for Holinessで 1990年代に主張されたものである。この辺、(フーストンとピーターソン)とパッカーは、多少味わいというのか、雰囲気に差がある。

    Eugine Petersonは、「霊性の神学とは、イエスによって掲示された神の栄光への道を生きる生き方の細部に至るまで注意を払う生き方である。それは、神学が神に関する情報として非人格的な扱いを受けることに対する抗議である。それは神学が神のための戦略的な計画やプログラムへと実用化されることに対する抗議である。」と2005年のChrist Plays in Ten Thousand Places:A Conversation in Spiritual Theology(Grand Rapids, Michigan: Eerdemans)の中で言っている。また、同書の中で「礼拝室にいるときも、職場にいるときも、同じように目が開かれる。へブル文字を読むときも、新聞を読むときも、開かれていく、それが霊性なのだ。」とも言っている。(ミーちゃんはーちゃん注 p1.p6当たりで言っているらしい)

    フーストンとパッカーが両方でるセミナーがあって、それは、シトー派とピューリタンの霊性を研究するセミナーであったが、パッカーは福音的な神学で語るが、フーストンは、キリスト教の2000年の世界全体から霊性を語るようなところがあった。

    福音主義以外の神学的伝統の関係をどう考えるのか?
    霊性の伝統は、カトリック教会や、ハリストス正教会での蓄積が多いが、それをどう考えるのかは福音派の中では少し考えたほうがよいかもしれない。これを、

    1.福音主義の外からの問題提起としての対話
    2.福音主義の外への問題提起としての対話

    という形で考えていくのがよいのではないか、と思う。

    特に、カトリックや正教会などの霊性の概念が、福音派の中で、無批判に引用されていることに対して、自由に引用して大丈夫なのかという疑念はあるのではないだろうか。 ロヨラ 霊操など、他の神学理解に関しては批判的なのだが、霊性については無批判にイエズス会の理解を導入する人々もいる。無論、福音主義の人々の中での抵抗感もあり、ドナルド・ロッシュなどでは、カトリックの人間観、神感も違うものを福音主義の中に無批判に取り入れることに抵抗感を示している。J.I.パッカーは、私もカトリック、正教会のものを含めて引用する。そのことに対して弁解はしない。しかし、それらを引用するのは、過去のクリスチャンの方が霊性について、深く考えてきたし、自分が一から初めて地面に立つ状態よりも、巨人の方に乗る方がいい、とは言っている。あるいは、他宗教のものを引用する人々もいる。

    福音主義の外からの問題的としての対話、外への問題提起としての対話を考えた時、他の伝統が言っていることをどう考えるか?問題提起としてどう考えるか問題がでてくる。

    Trinityにいたとき、御霊にあるいのちと祈りという、福音主義、 聖公会、 カトリック ・・・などの5つの神学校での共同セミナー が開かれていて、その際には、それぞれのスタイルでの礼拝に参加することになった。それぞれの霊性が現れていて面白かった。S原さんが、参加された年のセミナーテーマ Caring 配慮する、世話をするということであったが、このような部分では、それぞれが、共通の課題を抱えている。

    Henri Nouwen の「燃える心で」をある牧師の買いでご紹介したところ、釈義をガリガリしてきた牧師たちが、ナウエンの文章を高く評価した。この釈義をガリガリしてきた人たちの理解からすれば、ナウエンの理解は、相当外れているのだが、非常に評価されたようであった。同じように、この霊性の問題を捨てることはかなり重要だったキリスト教の歴史を捨てることになるのではないか。

    個人的感想----
    ここ数号のMinistryでは、越川先輩が、礼拝論や聖餐論に関して非常に面白い記事を書いておられる。是非お読みいただきたい。それぞれの教派的伝統が失ってきたかもしれない礼拝論における様式や、式の順序、その霊性にかかわる部分を触れておられる。この部分だけでも、Ministryを買う価値はあると思う。(キリスト新聞社の私設応援団 ミーちゃんはーちゃん談)
    個人的感想----


    12世紀のシトー派 クレルヴォーのベルナルドゥスは、雅歌の説教をしたときには、結婚をしない修道士たちが、結婚を語った雅歌を読むということの中で燃え上がったという。神との関係の深まりというものであったのであろう。まぁ、メタファーとして適切でないものも含む可能性があるが、しかし、だからといって、そのような霊性の理解を切って捨てることはロスではないか。それよりも健全な意味での批判的な立場に立って、他者からの問題提起として受け止める、というあり方はよいのではないか、と思う。

    マクグラスの『キリスト教の将来と福音主義』という本の中には、福音主義は、霊性の世界における眠れる巨人だという表現がある。

    個人的感想----
    ミーちゃんはーちゃんもこの本を読んだときに、この記述を見て、驚いた。また、別の本の中でも、マクグラスは、福音主義の霊性は、ハリストス正教会の伝統とも共有部分があるのではないか、という指摘もある。いずれも重要な指摘であるが、ただ、マクグラスが、福音主義というと、現在の米国の福音派ではなく、宗教改革の伝統に乗っている人々、という意味でも使うことがあるので、その点は少し十分注意したほうがいいかもしれない。
    個人的感想----

    B.組織神学とのつながり(各論)
    神学と霊性は対立的にとらえることがある。理性的なものが受け入れられない世界として冷静を捉える場合がある。しかしながら、学問、あるいは理性の世界で霊性の神学をとらえるようになってきた面がある。

    個人的感想----
    このあたりのことは、認識論とのつながりがある。理性という平面でとらえかねる霊性というものを学問という理性の世界の中でどうとらえるのか、という問題なのである。これに関しては、非常にめんどくさい議論になるのだが、そのめんどくさい議論をある程度まとめてN.T.ライト先輩は『新約聖書と神の民 上』の第I部、第II部で割とがっちりやてくれているので、この辺に関心がある読者の皆さんは、まず、この『新約聖書と神の民 上』をお読みされることをお勧めするし、2016年4月9日には、翻訳された山口先輩の講演会が目白で開かれるので、ご紹介しておく。



    詳しくはこちら 4月9日 講演会のご案内(N.T.ライト出版記念)
    個人的感想----

    ジェームス・トーランスの最近翻訳が出た『三位一体の神と礼拝共同体』 有賀文彦・山田義明訳(一麦出版社 2015年)で、三位一体の神をどう理解するかという議論がなされている。そこでは、「キリスト教思想史から見れば、実際のところ、どの宗教史研究から見てもそうであるが、 神についての私たちの教理が礼拝と祈りの理解を規定していることがわかる。それはまた、人間性についての私たちの理解、私たちの人間論にも妥当するところである」とされている。また、「神の存在とは、交わりにおける存在である。このような三位一体なる神が恵みの内に私たちをご自身の像にかたどって男と女とに創造されたのであるが、それは私たちが自分の真の存在を神や相互との親密な交わりのうちに見出すためであった」とかかれている。

    個人的感想----
    何だ、三位一体ということは、大頭先輩とミーちゃんはーちゃんがつるんで今はやらせようと画策しているリラタスのことではないか、と思ったのだ。つまり、関係性の中において働かれる神のことである。実は、「神を知るということ」タイトルで、最近改訳版が出るらしいKnowing Godという英書の中で、J.I.Packer先輩が言っておられることでもあるし、あるいは、『神の物語』というマイケル・ロダール先輩がお書きになられ大頭先輩が翻訳された本の中で、言われていることでもあるのだ。

    なお、ステマをしておくと、ロダール先輩の『神の物語』は2016年3月末までの期間限定でお得イベントが開かれているらしい。詳しくは、大頭眞一先輩にお問い合わせしてほしい。ヨベルには在庫はないそうである。
    個人的感想----

    神は父・子・御霊の交わりの中に永遠に存在される、神の啓示を理解することが三位一体の理解を方向付けることになるのではないか。案外、三位一体を説明するのは難しい。確かにそれは神でないものには理解しがたい概念であるが、重要な概念であると思われる。カトリックの神学者であるカール・ラーナーは、西洋のキリスト教は唯一の神という部分を強調して語ってきたけっか、三位一体という部分が抜け落ちてきたかもしれない。そして、プロテスタントの側でも、三位一体を見直す動きが始まり、東西のキリスト教、正教会と対話をはじめた。その意味で、三位一体として語られている意味とは何か、を考える時代になった。


    カール・ラーナー先輩

    個人的感想----
    つまり、絶対正義の完璧な神学の世界を構築しようとしてきたプロテスタントの神学的伝統の中では抜け落ちがちであった、神の共同体性、神の共同体性、神との共同体性、あるいは、神と人とのリラタス、ないし神と人と、人とのリラタスが欠如した問題が顕在化してきた中で、その部分の再検討がされるようになってきたということだろう。
    個人的感想----

    マクグラスの三位一体に関する言及として、「キリスト教における三位一体の教理の基本テーマは、神の豊かさであり、人間の言語も想像る力も神の神秘を完全に理解することが不可能であることを示すことである」ということらしい。

    個人的感想----
    確かに三位一体は人間には、不可解であるし、不可解であるからこそ、尽きてやまない関心をもつ内容でもあるようにミーちゃんはーちゃんは思うのだ。あるとはわかるが、完全に説明できない、ささやき声のような神の声のようなものかもしれない(あ、すいません、N.T.ライトの「クリスチャンであるとは」からメタファーをば、借用しました)。
    個人的感想----

    ボンフェファーがいうには、三位一体の教えの意味は極めて単純であり、子供でも理解可能である。この神は完全な愛であり、イエスであり聖霊である。三位一体の理解の表現は、神の愛の激しさに対する人間の賛美の貧しさでしかない。という大意の内容をどこかの説教でしているらしい。この共同体性の大切さを見失っていた西洋近代のキリスト教があったのではないか。しかし、その三位一体の重要性を20世紀後半から見直し始めた。再発見した。

    ジョン・ジジウラスΙωάννης Ζηζιούλας イオアニス・ジジウラスによれば、信仰は、神の関係にもとづくものであり、共有の概念がないところに神の存在はない。(大意)このような、三位一体を驚きを持ってプロテスタント派は受け止めたように思う。


    イオアンニ・ジジウラス先輩

    とはいえ、Calvinも古代教父たちナジアンスのグレゴリウスを引用しながらキリスト教綱要を書いている。

    3つの位格(人格 person) person (つまり、人を交わりの束としてとらえる)

    一つの実体
       Individual 個人と人格の関わり in dividual  分けることができないものとしてとらえることになる。

    相互内在(ペリコレーシス)と重塔という理解があり、これは、マクグラスのキリスト教神学入門の中に書かれている。三位一体の重要なポイントは、相手のために生き、相手のうちに生き、相手と共に生きということであり、三者がダンスするように一体としていることである。

    個人的感想----
    このあたりのことは、ナウエンの次の本でも描かれていたように思う。

    差し伸べられる手ー真の祈りへの三つの段階 女子パウロ会
    心の奥の愛の声 女子パウロ会
    個人的感想----

    3つの位格に関しては、神の二つの手 (御子と御霊)という アイレナイオスの理解があり、父の手として遣わされた御子と御霊というメタファーでとらえられているが、手は本人と独立ではなく、一体であるというような理解と重なるものがある。

    充当は、これとある意味で逆であり、父・子・聖霊は位格の独自性を失わない。父なる神はそのままであり続ける、という理解である。

    フーストンは三位一体の神学は交わりを生む、といっている。交わりは必然的であるという。相互内在をどう学ぶことができるか。自分自身を与えること、あるいは交わり、他者を活かすということでの、三位一体の相互内在があるのではないか。一種自己犠牲という言葉が念頭にあるかもしれないが、そうではない。自分を活かすことが第1ではなくて、他者を活かすことが先に来る。共に生きる、ともに活かされる、ということではないだろうか。
    多くの日本人は、人格が大事にされた日本での経験がない。社会とか家とかしがらみとかが優先され、個人の人格が大事にされない。典型的には、昔のお嫁さんという理解にそれが現れる。他者を活かすということが大事であり、それは、男女という関係や、愛に直結するものである。。

    ところで、自己犠牲の現代の誤解に関して、性的かかわりの中での誤解があるのではないか。ICUの町田健一教授の調査によると、学生の性意識調査の中でも、キリスト者の女子学生が、男性の性的欲求が強いため、自己犠牲的な愛で接する必要(つまり、男性の性的欲求を優先させることがあってよいかもしれないと回答するものがあった。この調査結果に町田健一教授は、愕然としたそうである。これは本当の愛とはいえないのではないか。これは自分も他者も大事にしないことになる。相手を活かしているようで、活かせてない。結果的に欲望に支配されていると言えるのではないか。

    個人的感想----
    おそらく、その調査の結果は、この論文からの引用であろうと思う。
    個人的感想----

    質問として、他者を生かすというと日本だと、滅私奉公という概念が出てくるが、それとはどう違うのかという質問が出た。
    日本の場合は、公あるいは社会の頂点への奉仕となるのではないか。天皇とか、行政府の長とかなどの権威の頂点を意識したこうであり、パブリック、あるいは公はボトムサイドではないか。公共の福祉の公共とは何かといえば、市民社会の構成員一人一人を活かすことを第一にすべきではないか、と思う。

    聖化論
    直接的に霊性と関係する。聖化というのは、完全に罪がなくなることではない。全人格的変化のことであろう。

    キリスト教綱要の3篇 6−10章 キリスト者の生活の6章でカルヴァンは聖さを語っている。正しい目標が聖さである、としている。つまり、キリストに似たものとされていくことが、清めであると理解している。
    そのいみで、聖さは福音の本質にかかわることであり、存在のすべてに影響を及ぼすものであろう。
    ところで、誰の聖さなのか、ということを問題にしたのは、 ボンフェッファが初めてではないか。通常、Howto とか Whatを考えるが、誰?が大事であるように思う。
    きよめを私だけのきよめにすると盲点があるかもしれない。S原さんがある人と話しているとき、きよめを突き詰めると個人主義になるかも?という意見を聞いたが、それは案外多くて、この種の考え方は問題ではないかとおもう。つまり、問うべきなのは、誰の聖さか?ということであろう。

    ヘルムート・ティーリケの説教では、「御名が崇められますように、というとき、父なる神の名が聖なるものとされることを祈っている」といっているが、主の祈りを自分の祈りにすることにあるのではないか。


    ヘルムート・ティーリケ先輩

    コーリン・ガントンは、三位一体の神学の研究者であるが、きよめとは、神の民のきよめである。イスラエルも、新約の教会のきよめ、即ち共同体のきよめである。つまり、神の子として、御子のようにされていくこと、御子のからだである教会がきよめられることを考えるべきなのではないか。


    コーリン・ガントン先輩


    聖霊論
    私たちの信仰の始まり、継続、完成もすべて御霊のご臨在と働きによる。
    ピーターソンの信仰の友への手紙 (日本語版、入手困難)はある架空の友人を想定して、ピータソンが書いた手紙であるが、その中に次のような部分がある。「霊的な生活を以下に始めるべきかという君の気持ちはわかる気がする。思うに君は、信仰生活という者を、無計画にではなく直接体験によって送りたいのだろう。だがこの言い方には偏りがある。というのは霊的生活を始めるのは君ではなく、聖霊なのだから。そして聖霊はもうずっと以前からその技を始めておられる。これは思い付きではなく、聖霊の思いなのだ。だから問うべきは『私は何をなすのか』ではなく、『私が無関心でいたこの年月の間、聖霊が私の内でどう働かれ、今も働いておられるか』だ」ということが重要である。つまり、 聖霊が私たちに何をなしておられたか、が問題だというのである。

    この信仰の友への手紙は、霊的な導きの手紙といってもいいだろう。即ち、霊性は神の業である、御霊によってはじめておられるわざに、どう私たちが関与していくかということを考えることであるだろう。

    なお、同書で、神とクリスチャンの関係を強調しているおり、霊的導きは大事なテーマであり、神の導きのために人を通して働くということを示しているのかもしれない。

    個人的感想----
    ここで、神の主権性が出てくる。我々は、人間中心の社会の中に長く暮らしているために、どうしても、私が何をなしたか、私が何をなすべきか、私たちの人生を私たちが決める、という私中心(エゴセントリック)な生き方をしてしまいがちであるが、主の祈りは確かにそう教えない。「御名があがめられますように、御旨がなりますように」であり、「ミーちゃんはーちゃんが有名になり、みんなから評価されますように、ミーちゃんはーちゃんの思いが実現しますように」というのではないのである。
    なお、舟の右側の豊田信行先輩の記事ではないが、あの記事中にスピリチュアル・ディレクションという概念が出ていたが、神の導きにおいてその方向づけをする人がスピリチュアル・ディレクションをする人なのかもしれない。プロテスタント教会では、神学校出たら一人前、という形で教会の現場に放りなげてきて、牧会者をケアするということはおさぼりしてきたように思う。その結果、海外の神学校で学んだ人、国内の神学校で学んだ人を現場にぶち込み、疲弊させ、それに対してコンサルテーションも、卒業後のケアもせずに有為な人材を多数潰してきたような部分もあったように思う。実に無駄なことをしたと思う。その結果が、ボクシたちの失敗というミニストリーの特集記事になったのだと思う。もうちょっと、このあたりのことをしかけを作るかどうかは別として、何らかの仕掛けを自分たちで牧師先生方もおつくりになられたらよいのに、とは思う。それが、藤掛明先輩の特集号での10カ条なのだと思う。
    個人的感想----

    教会と霊性
    三位一体の神は、交わり(ミーちゃんはーちゃん注 コイノニア Fellowship 仲間である環境)を作り出す神でもあり、御霊の業は交わりを作り出すといえるのではないか。

    教会の話は霊性からも重要であるといえる。ジェームス・トーランスは、三位一体の神は、交わりを作り出す。真に人間的になることであるとその著書の中で言っている。なんか、N.T。ライトもクリスチャンであるとは、の中で同じことを言っていたように思う。

    ミロスラーヴ・ヴォルフはAfter our likenessの中で、教会と霊性に関して、「多くのものが多元的でありながら、互いに均衡を保って共に生きる相互依存の場」であるといっている。。互いのために生きることが霊的な成長につながり、神の御思いではないか。


    ミロスラーヴ・ヴォルフ先輩

    アメリカでは個人主義への反動として、信仰共同体が見直されている。日本人の集団主義の観点が強いので、その視点に十分配慮しつつ信仰共同体を見直すことが重要ではないか。日本社会における人のつながりの危険性、わずらわしさがあるような共同体論は教会と霊性を考えたときに、そのようなものではないように思う。

    まとめとしての5つの提言
    三位一体の神理解の回復、再評価、徹底を図ることが重要であろう
    福音に生きることの再定義だとおもわれる。
    自己の変容、心が扱われること 心が扱われることはどういうことか。 心が変えられるということが重要かもしれない。
    Religious Affection ということをジョナサン・エドワーズ先輩は言っている。
    キリスト者の生活の全体像を描くことの重要性。死を迎えるまでのキリスト者の姿を考えることが重要であろう。
    信仰共同体としての教会に生きる


    個人的感想(全体)----
    非常にわかりやすくまとまった霊性の話だと思った。何かこの種のテーマで今本を書く準備がなされているらしいので、是非、ご出版をお願いしたいなぁ、と思った。特に、霊性の神学は、まさにリラタスの聖書理解でもあるので、ここについて思いを巡らし、そして、即効性、迅速性を持つ異教の神との関係を求めるような神との生き方ではなく、神をまさに知るという形での神とのリラタスの中の生を生きられるキリスト者の方が増えるといいなぁ、と思ったのである。

    個人的感想(全体)----


     
    評価:
    N・T・ライト
    あめんどう
    ¥ 2,700
    (2015-05-30)
    コメント:お勧めしております。

    評価:
    N.T. ライト
    新教出版社
    ¥ 6,912
    (2015-12-10)
    コメント:お勧めしております。

    コメント
    クリスチャンとして生きていくうえでとても重要なテーマに関する講義をこのように記録・発信してくださり、本当にありがとうございます。
     組織神学からも聖書神学からも、共同体の回復と包括的な福音の必要性が語られていることをとても興味深く感じています。
     集団主義が強い日本の中で、どのように「カウンターカルチャー」としての教会共同体を形成できるのか、そんな思いを持っています。
    • 怪物くん
    • 2016.03.07 Monday 12:51
    怪物君様

    コメントありがとうございます。お久しぶりでございます。

    この講義、大変内容がよかったので、公開致しました。

    >共同体の回復と包括的な福音の必要性が語られていること

    これ、本当に大事なんで、じっくりと広がって定着していくとよいなぁ、と思います。

    >集団主義が強い日本の中で、どのように「カウンターカルチャー」としての教会共同体を形成

    これ、個が成立せず、外枠から与えられる集団主義や外枠が個人を支配する日本社会の中で、どこまで、水平的なものを受け入れ可能か、という信徒側の理解にかかっていると思うのですが、あと十年から20年は従来の集団主義と、トップ支配型の社会構造から脱却するのは厳しいかなぁ、と思っています。

    御励ましのコメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.03.08 Tuesday 12:51
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