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2016.03.05 Saturday

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (41)

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    きょうで、41回の長きにわたった、それも最初から言えば、半年以上かかった小山先輩の連載は終わりである。今日は異様に長い。結論なんでしょうがないが、よろしければお付き合いを。

    十字架の憐みの激しさと神の栄光
    逆説的なことではあるが、イエスがボロボロにされ、激しい叫びを神に向ってあげた場所である十字架は、神の心が神の霊が激しく動いた場所であろうと思う。そして、イエスは、そこに毛を刈る者のところに向かう羊のように従順であったとされている。頭でっかちなミーちゃんはーちゃんは、よくわかるのだが、頭でっかちな人間の悪い点は、羊のような従順ができないのだ。従え、と言われたらなんで「従わないといけないのか?」、「疑ったらいかんのか?」、「なぜじゃ、どうしてじゃ」と間寛平師匠よろしく、すぐ言ってしまうのである。


    間寛平師匠による「誰がじゃぁ、なぜじゃぁ、どうしてじゃぁ」攻撃 (35秒くらいから)

    余談に行ってしまったが、イエスは、ミーちゃんはーちゃんのような「誰がじゃぁ、なぜじゃぁ、どうしてじゃぁ」ということなく、神の御思いの実現、まさに主の祈りにあるように、
    「みこころが天に行われるとおり
    地にも行われますように。」
    と神のみこころを求め、ミーちゃんはーちゃんのように、「神を試みる」ことはなされなかったのである(私たちを試みにあわせないでください の別理解 正しいかどうかは知らない)。そして、十字架の死にまで従順に従われたのである。
    十字架は静寂な状況ではない。人類各人を探し求める神の受難の出来事である。キリスト者は神の受難の出来事に生涯献身の誓約をしているものである。十字架は思弁とのかかわりはない。献身の誓約にかかわりを持つ。ルターは思弁的神学を栄光の神学と呼んだ。なぜ「栄光」なのか。そこで我々人間の思弁の力が神を飼いならすからである。理性が神に対して主人の役割を演じているからである。対象的に

    十字架につけられた神の隠蔽性は、理性にとっては躓きだが、信じる者にとっては彼自身の知恵と義の廃棄となり、その結果、神が自在に働きうる。
    (『富士山とシナイ山』 pp.383-384)
    ただ、この部分だけを読むと、理性は神を神の座から追い出し、「人間の思弁の力が神を飼いならす」という概念のおかしさがあるのではないか、という理解も出ないわけではない。理性がなければ従順に従えるというものでもない。理性があるからこそ、自ら神の座を追い求めようとする理性の働きをいったん置き、神の御思いを求めることの重要性、あるいは理性を治めることの重要性があるのではないか、と思う。

    そして、知性そのものを劣ったもの、危険なもの(触るな危険)とする人々もおられないわけではないが、ミーちゃんはーちゃんとしては、知性は神が与えたもうた賜物であり、それを一概に危険視したり、神が与えられた知性というものをあえて劣ったものにする必要もないと思う。もし、知性を劣ったもの、危険なものとするならば、文字で書かれた新約聖書や旧約聖書は書かれなかったと思うし、また、もし、知性が危険なもの、劣ったものであるとするならば、パウロは、知性においても祈りましょうと、祈りについてわざわざ知性に言及しなかったのではないか、と思われる。


    触るな危険のポスター

    ただし、知性も神に与えられたものとして、キリストの支配の内にあることを認め、人間の思弁がもたらすことがある疑いを持ちつつも神にあるものであるということで、万物が被造物の創造者に服している(知性の働きを含めた万物に対する神の主権性)ということを認識していることが大事なのではないか、と思う。
     
    破壊でなはなく回復を
    小山先輩は、キリスト者が持つことができる基本的な理解(含意)について、以下のようにまとめておられる。それらは、(1)十字架に従うものにおける破壊ではなく憐みを、破壊ではなく回復を(2)最終的な決定権は神が持たれること(3)直接的・迅速的な関与ではないこと(4)自分を救わず他人の回復の追求すること であるが、それを以下では紹介したい。
     
    十字架の神学の光に導かれて、我々が今日の世界に生きているキリスト者的生活のためにスケッチすべき4つの重要な含意が浮かび上がる。
    第1はこれである。人類各人の救済のために神の充溢(コロサイの信徒への手紙1章19節)のすべてをかけた十字架につけられたキリストの光に導かれて、我々は破壊でなく創造を擁護すべきであるといえねばならない。絨毯爆撃による荒廃地ではなく人間が暮す世界を、死ではなく生を、敵意ではなくもてなしの心を、残忍ではなく憐れみをもたらすといわなければならない。(同書 p.384)
    まず、第1のものは憐れみと地の回復、あるいは地の平和であると小山先輩はお書きである。神はこの創造の世界をケアするように人間を召されたのというのに…地をケアするべき存在が地を虐待し、あまつさえ絨毯爆撃するのである。そこに人がいようがいまいが。何という職務放棄。何というサボタージュ。(なんか小山先輩風になってしまった)本来の職務を忘れ、その反対のことをするとは、まさに以下の讃美歌のように、神よ、我を憐れみたまえと歌うしかほかない。


    Allegri - Miserere mei, Deus, New College, Oxford(神よ我をあわれみ給えという讃美歌)

    ところで、ナウエンは、『差し伸べられる手』の中で、ホスピタリティということを取り上げ、包摂すること、受け止めること、異邦人を受け止めることを、来訪者を受け止めること、来訪者としての子供たちとの関係を取り上げているが、これは案外大事なのだと思う。この習慣は、アラビアの遊牧民ベドウィンの文化の中に残っているのだ。その意味で、彼らは、4000年も5000年も前のアブラム時代と同じような生き方をし続けているし、それ以外の生き方が理想的な人間の社会とそこでの生き方であると、現代西ヨーロッパから言われたところで、「何でだす?」といいたくなるのだろう(なぜ、アラビア人が教と方言を話すのかは定かではない)。


    http://twiow.com/kanoya_maneki さんから

    話をもとに戻してみれば、他者を受け入れることは、良くわからない旅のお方たちのために三サトン(40リットル 灯油缶二つ分)もの大量の粉を作って、ケーキをサライに作らせたのはアブラム君であった。たかだか3人のために(従者がいたという話はありそうだが…)、イースト入れたら、どれだけになることか。

    アブラムは、来訪者、異邦人を排除はしなかったし、むしろ、それを歓待したのである。タイやヒラメの舞い踊りではないが。見知らぬもの、新しいもの、風変わりなものにある意味で、庇護を申し出ている。ロトだって、見知らぬものたちのために娘を差し出す、とか、今で考えたら理解できないことを結構平気で、その地の住民たちに向かって言い放っているのであるが、客分として受け入れた以上、それを庇護するかどうか、ということは族長の権威にかかわるからこそ、こういうことをしたのであろう。

    イエスですらそうである。我らが保護を、我らが庇護を求めていくときに追い返したりはしない。どこかの国の大統領候補のように、フェンスを作ってあげるから、その経費、移民の流出国持ちでよろしくね、なんてことは言わないのだ。

    正義と包摂の問題がつながっていることについて、小山先輩は次のように書いておられる。
    キリストの正義は単なる社会学的概念ではなく、キリスト論的概念である。キリストの正義は不正を犯す人類各人を抱擁する〔義とする〕ーー十字架上でーーしかもそうすることによって世界の正義のために新たな可能性を想像するのである。同様のことは、人間の残酷と傲慢について言わなければならない。キリスト教倫理は十字架の神学の視座から研究されねばならない。これは「愚かしい」提案かもしれないが、パウロが身体に帯びていた「イエスのしるし」(ガラテヤの信徒への手紙6:17。しるしの言語は元奴隷のからだに焼き付けられた烙印の意)と社会倫理との意味深い関連を求めるための提案である。(同書 p.385)
    ここで、キリストの正義は、キリストによる包摂された状態であることを「キリストの正義は不正を犯す人類各人を抱擁する〔義とする〕ーー十字架上でーーしかもそうすることによって世界の正義のために新たな可能性を想像する」ということでお話である。義とは、神から与えられた自分たちが振り回すためのエクスカリバーの悪をぶった切る剣のようなものではなく、我々がキリストに包摂されている状態こそが義であるとお書きである。
     

    エクスカリバーの剣のイメージ ノルウェーにあるらしい
    http://labaq.com/archives/51825101.html から

    ある意味で、義とは、神に抱きしめられている状態であり、自分たちの思いのまま動ける状態ではないのかもしれない。まさに、ペテロが言われたような状態の事が、神の義であるのかもしれない。他者からなすがままにされる姿をイエスは十字架の前に示されたのである。
    口語訳聖書 ヨハネによる福音書
    21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
     21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
     21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

    鞭うたれるイエス 
    http://instituteofbiblicaldefense.com/2013/02/the-scourging-and-the-crown-of-thorns/から

    全体主義でない神の主権性
    2番目のポイントとして、神の支配、神の国の特徴を、小山先輩は次のようにお示しである。神は金太郎飴のような状態は、あまりお好きでないのかもしれない。サカナなら鯛一種類で創造されるのではなくタイやヒラメやマグロや、イワシやサンマを作られたのである。そして多様性の中において、一つであるということを意図的にこの地のすべてのものを用いて啓示されているようにも思うのだが、違うのだろうか。
    第2に、十字架の神学が我々に教えるのは、我々が世界と我々の運命について最終決定的な言葉を持っていないということである。我々が言うことは「十字架のことば」の支配下にある。もしわれわれが最終決定的な言葉を持っているとしたら、我々は栄光の神学の弟子である。敢えて言えば、もしわれわれが我々自身と世界について最後のことばを語り、一点の切れもない円を描くとしたら、我々は専制政治を作ったに等しい。全体主義としての専制政治は、我々は最後の切り札を手中に収めていると主張するであろう。(同書 p.386)
    神は専制政治的か、というと上の多様性にも表れているように専制政治的、全体主義的ではないように思う。神のことばは完全であるため、金科玉条、不磨の大典、永久不変、萬代不易のように言われる方々もおられるが、それはお立場としてはお認めしているものの、個人的には、そうであるとすると、聖書を読む意味はほぼなくなってしまうのである。確かに聖書はテキストとして固定したものとして扱った方がよいことは確かであるが、そのテキストの信仰者や信仰者集団、教会への働きかけというのは、実は変幻自在でもあり、実に柔軟なものである。固まってしまったものは、人間に働きかけないものであり、実に柔軟な働きをすることを、パウロ先輩は次のように書いているのではないか、と思う。
     
    【口語訳聖書】コリントII
    3:3 そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。

    さらに、神と人とのかかわりにおいて、小山先輩は次のように書いておられる。
    十字架につけられ、周縁に赴き、人々の福祉について真剣に憂慮するイエス・キリストを通してーー他の人々を救うが自分自身を救わないキリストを通してーー自己啓示した神が、世俗的な語法になるが、どうして全体主義的な神であり得ようか。神が我々が心身ともに健やかであるか、心にかけておられる。神は今も「あなたはどこにいますか」(創世記3章9節)と問いかけておられる。この神は神学的神であって、イデオロギー的神ではない。神学とイデオロギーの間には微妙な差異がある。神学は砕かれたキリストを反映するひび割れた円に基づいて生きる。このひび割れを通して神学は歴史に影響を及ぼす。「砕かれ、ひび割れたさま」こそ神学の本質的焼き印である。
    イデオロギーは違う。「ひび割れた円形」を持つことはイデオロギーにとって本質的なことではない。砕かれた様はイデオロギーにおいて弱さと見なされうる。強固なイデオロギーは砕かれた様の不確実性を受け入れることができない。(同書 p.386-387)
    ここで、人間の求めるもの、作ろうとするものとして、人間が作り出そうとする完璧なものの例として、学問(神学)とかイデオロギーとか、そのイデオロギーのもとに統一された全体主義社会とかを例に出し、人間が神を追い求め、極めようとした結果とた故とはいえ、欠けなく一点の曇りなく、完璧な姿を求め、不確実でないものをつくりだすが、それは、案外実は神の姿ではないのではないか、ということを小山先輩は上の文章で示されているのである。神、それは完全、というときの完全が、人間が考え得る限りの結果の完全を無理やり、人間を超えた完全さを持つお方である神に当てはまるからおかし気なことが起きるのかもしれない。神は不完全に見えるが、それが神の完全なのかもしれないという神に対する恐れを持つことは大事かもしれない。聖書のメッセージを一言で言え、といわれたら、小山先輩が書いておられるこのごをミーちゃんはーちゃんは指摘したいと思う。即ち、「あなたはどこにいますか」(創世記3章9節)という人間一人ひとりに対する、そして、人間の集合体に対する神の問いかけそのものが、聖書全体の主旋律ではないか、とおもうのだなぁ。これが。たとえ、人間が不確実で、不完全で、未完成のものであっても、神が我らを求めておられる、ということを示すのではないか、と思う。人間のイデオロギーや神学ではその様が受け入れられないとしても。

    この部分を読みながら、内村鑑三の楕円形の話(すでに記事として書いた NHK ETV こころの時代 内村鑑三 第4回「真理と寛容」視聴記)を思い出した。まさに究極の真円を目指し突き進んでいく西洋神学に対して、それでええんかいなぁ、とちょっと疑念を呈してみたのが、内村先生だったようにも思う。

    ドラえもん的なQuick Fixを与えない神
     祈れば聞かれる、という信仰は否定しない。しかし、我らは、秒単位、分単位、日単位、月単位で物事を考える修正が付いており、10年単位、100年単位、あるいは1000年単位で考えるのは不得意と来ている。したがって、非単位でモノが動かなければ、すぐイライラして、祈りが聞かれなかった、とか言いだしてしまうのが、人間の姿であったりする。あるいは、伝道してもなかなか自分の目でその伝道した結果、人が神と共に生きるその姿を見たくなるという思いはわからなくはない。しかし、そういうものではないかもしれないことを、小山先生は次のようにお書きである。
    第3に、十字架の神学は多くの神々が現存していることに気づかせてくれる。神々の中には――皮膚の色で差別する神、知的能力の神、良い収入の神、大砲とミサイルの神など――我々にとって大変魅力的な神々がいる。これらの神々が魅力的なのは、それらが十字架につけられた主よりも一層直接的かつ迅速に我々のアイデンティティと安全を与えることができる。(中略)これらの神々のセールスポイントは直接性と迅速性である。それらは我々にインスタント・サービスを提供してくれる。これこそがこれらの神々の魅力の根本的理由である。しかし直接性と迅速性は魔術の主な要素である。十字架の神学は魔術に対して強烈に批判的である。
    (中略)
    魔術は直接的で迅速である。軍国主義が魔術であるのはそのすべての思想と行動において直接的かつ迅速だからである。人種差別主義も同様である。(中略)宗教もまたそれが抱く価値が直接的かつ迅速に約束されるとき、魔術に堕落しうる。(同書 pp.388-389)
    しかし、小山先輩は実にヲサレである。何がって、「神々の中には――皮膚の色で差別する神、知的能力の神、良い収入の神、大砲とミサイルの神など――我々にとって大変魅力的な神々がいる」と揶揄的に書いておられる。まぁ、世の中には、神童とか、神対応とか、実にいろいろな神がおられるようである。
    まぁ、武力こそ力の源泉という考え方と、以下の聖書のことばは、まさにぶつかってしまうのだ。
    【口語訳聖書】詩篇
     18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
     18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
    しかし、このような武力も、神の支配の内にある、というのが旧約聖書の概念だと思う。実際イザヤ書の中には、以下のような記述がある。
    【口語訳聖書】イザヤ書
    31:1 助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない。


    ミサイルの神 その名もトライデント ポセイドンの三又
     
    小山先輩によると、インスタント神々の約束は、「インスタント・サービスを提供」することらしい。確かに、簡単なことをしたら、数分や長くても数日で簡単に現状で自分にとって不都合な真実が解決するのであれば、それこそ、これほど便利なことはない。もはや悩むこともなくなるし。

    ただ、小山先輩ご指摘のように、「直接性と迅速性は魔術の主な要素」なのである。祈ったら、すぐ聞かれた、とかいうのも信仰の一つのかたちであるとはミーちゃんはーちゃんとしては思うが、それはどうも小山先輩によると魔術に近いかもしれない、ということらしい。もちろん、神は人間の理解能力を超えているかもしれないが、しかし、神は人間の道具でもないし、人間の道具にした瞬間にそれは偶像崇拝に近いのかもしれない。

    小山先輩の「軍国主義が魔術であるのはそのすべての思想と行動において直接的かつ迅速だから」という記述は重要である。軍国主義と技術は切り離せないのである。相手より、いかに早く反応し、いかに早く対応し、如何に協力に反応する家こそ、軍国主義が技術に求める内容であり、それに関して、技術は「技術的にはここまで可能ですが…」と協力しやすい傾向にある。技術者にとって、自分の技術が求めらえていることは、何よりうれしいというところがあるからである。ただ、どのような技術でも、それは人類に奉仕し貢献できる側面と、人類に不幸と破壊をもたらす存在の両面を持つのである。その意味でも使い方によって色や見え方が変わるという意味で、技術は本当に『魔術的』であると思う。

    十字架の上で強盗に回復を約束し、自分は救わなかったイエス
    キリスト教の神は十字架で殺されるとき、隣で十字架刑につけられていた強盗に、今日あなたは私と共にある、という約束を与え、神のもとに戻るものに開放があることを伝えた。その意味で、この地における生において、ナザレのイエスは、神の支配がこの地に及ぶことを示す最前線に居続けたように思う。その最前線から逃げ、後方に退くことはされなかった方ではある。
    第4に、十字架の神学はそれによって我々が神の神と偽りの神を、真の預言者と偽りの預言者を識別できる基準を与えてくれる。奇妙なことに十字架の神学が提唱する基準は「彼は他の人々を救ったが、彼自身を救わなかった」という嘲笑的な言葉を通して与えられる。「他の人々を救ったが、彼自身を救わなかったこのキリスト」が真の神の根本的な性格を啓示する。偽りの神々は彼ら自身を救い、他の人々を救わない。(同書p.389)
    真の神は、自ら傷を受ける、自ら苦しむ、自ら激情の憐れみを持つ神であること、それゆえに十字架の上でも開放を、あるいは救済を、開放を主張したキリストについて、小山先輩は、「他の人々を救ったが、彼自身を救わなかったこのキリスト」である、とお書きである。そして、神でありながら、嘲笑的な言辞を喜んで受け、ろくでもない状態の中であえて受けられた方であることこそが、人類のすべてが持つ破れや砕けとつながることを可能にし、そして、十字架ですべての人類を包摂された方なのではないか、と思うのだ。

    そのことを、小山先輩は次のように小山先輩はお書きである。
    「彼は他の人々を救ったが、彼自身を救わなかった」。これは嘲笑的な言葉である。彼とはイエス・キリストである。イエスは人類にとって決定的な意味を持つ人であるから、終末論的人格である。我々を抱擁するのはこの決定的意味を持つ終末論的人格である。イエスキリストはどのように抱擁するのであろうか。彼自身を救わないことによって!(同書 p.390)
     ここで非常に印象的だったのは、決定的な意味と終末的な意味の重なりである。神であり、決定的な意味を持つからこそ、この世界の完成者としてのキリストに意味があるというのである。つまり、十字架の上で、「完了した」という言葉に現われるように、イエスは、終末論的な存在ではないか、と思うのだ。神の怒りをイエスが一身に受け入れることで、すべての人を守り、抱擁し、そのすべての欠けを覆い、キリストにあって完全なものにするシェルターを与えるということなのではないか、と思う。その意味で、神の怒りからの保護という意味でも、神との和解の完全な感性という少なくとも二重の意味で終末論的存在なのだろうと思う。

    インマヌエルと神の国と神の統治とオープンネス
    この本の最後の部分で、小山先生は次のようにお書きである。イエスが来られた本来の目的は、天国に行く道があることを示すことでもなく、努力した人が、特殊な修行をした人が多くの祝福を受けるでもなく、周縁に行かれた王(キリスト)であり神こそがその身を人々に、最も遠い人々とされた人々に神の支配、あるいは神の統治がすべての人にきたことをお見せになられたのだろうと思う。
    【口語訳聖書】マタイによる福音書
    11:8 では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。
    イエスにしても、バプテスマのヨハネにしても、今会えるアイドルではなく、それより、身近な存在であったのだ。今会えるアイドルの場合は、こちらが努力してアイドルがやっているイベントとかコンサートとかに行かねばならないが、ナザレにイエスにしても、向こうから、ふらふら会いにくる神であり、バプテスマのヨハネにしても、いま向こうからふらふらやってくる様な神の人だったのだ。典型的には、旧約聖書の神がそうであるように。



    今会えるアイドル と自称する ももいろクローバーゼット の皆さんの護国寺でのコンサート 
    しかし、これ問題にならなかったのかなぁ。
    人間は人間であり、神は神である。しかしイエス・キリストにおけるこの神は、神と共なる人生についての真理、即ちインマヌエルの真理、神我らと共にを啓示するために、周縁に赴いた。もしもこれをしも神が歴史を経験する仕方であるとすれば、これは我々が神の統治の到来を目指して生きていく過程で神が我々を力づける仕方でもあるはずだ。周縁に赴くことによって中心性を確立したキリストこそ、キリスト教的社会認識及びキリスト教倫理の源泉である。それは密教的教義ではない。(同書 p.390)
     インマヌエルというのは美しい言葉である。苦難の時も、悲しみの時も、喜びの時も、痛みの時も、そこに我々を覆う神が我らと共におられるという約束を示す言葉である。天でどっかと神の座に座り込んで、来るものを遠ざける神でなはないように思う。どこでもいつでも実現しているキリスト教(最近はやりの言葉で言えば、ユビキタスな神の支配あるいは神の統治)が実現しているように思う。
     そもそも、神は砂漠の中で、まさに、地の果てかのような周縁において、ツアーコンダクターのようにイスラエルの民と共に歩き回る必要はそもそもなかったのに、イスラエルの民と一緒に昼は雲の柱、夜は火の柱になりながら、インマヌエル、神我らと共に在りをイスラエルの民が行くところにいつでもあり、極めて明示的にしめされたのである。今、ここにある神なのだ。そのあたりの事は、以下のナウエンの本、「今ここにある神」が非常に良い。お勧めしている。

    あと「もしもこれをしも神が歴史を経験する仕方」は校正ミスだと思う。おそらく「もしもこれを神が歴史を経験する仕方」の間違いかもしれない。まぁ、この種の校正ミスとおもわれるものがあるが、この本の価値をわずかでも減ずるものではない(大体、誤植の名人のミーちゃんはーちゃんに言えた義理ではない)。

    最後に、本書を日本語で読める様にしていただいた、同書出版関係者のご尽力にこころか感謝して本書の紹介シリーズを終わらせたい。皆様の上に主の豊かな平和と祝福とがありますように。
    以上、本書に関する連載終了である。 あー長かった。ご清覧、お付き合い感謝いたします。






     
    評価:
    小山 晃佑
    教文館
    ¥ 4,104
    (2014-09-12)
    コメント:お勧めしています。高いからなんですが。

    評価:
    ヘンリ・J.M.ナウウェン
    女子パウロ会
    ¥ 2,160
    (2002-06)
    コメント:大変よろしいと思います。

    評価:
    H.J.M.(ヘンリ・J・M) ナーウェン,太田和 功一
    あめんどう
    ¥ 1,944
    (1997-09-20)
    コメント:大変よろしいと思います。お勧めしています。

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