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2016.02.20 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(46)最終回

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    今日もヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介してみたい。今日が最終回である。初出が2015年11月4日でであるから、ほぼ、4か月わたる連載、連載最長記録になってしまった。それだけ、この本が面白かったのである。
     
    芸術の持つ破壊性とその重要性
    芸術は、人間の感性というか感応を非常に深く刺激する。それも非理性的な方法で。それだけに危うさをもつし、それだけにあやしさが漂うし、それだけに強烈でもある。しかし、その感性というのか、感応の部分も、神が人間に与えたまいしものなのである。それをいたずらに否定的に扱うのは個人的にどうかとは思っている。なぜならば、理屈にかなうもの、無理がないものは、美しいことも多いからである。たとえば、前にも書いたが、Boeing 787の飛行中の姿は非常に美しいと感じる。


    http://www.kplu.org/term/boeing-787 から拝借

    余談に行ったが、芸術のもたらす意味について、ヤンシー先輩は次のように言っておられる。
     
    芸術は最も有効な破壊活動かもしれない。私にとっては確実にそうであった。『アラバマ物語』(ハーバー・リー著)『指輪物語』(J.R.R.トールキン著)、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー著)といった書物は、様々な仕方で私の鎧を難なく突き抜け、心に深く入り込んできた。若いころの読書は、自分を育てた原理主義というもろい世界を覆した。そして、後に偉大な芸術によって、突然の気づきという衝撃を受け、私は信仰に呼び戻された。(pp.417-418)
    実は、N.T.ライト先輩のSurprised by Hope(現在翻訳作業中らしい)という本があるが、その13章の中にBeautyという一節があり、その中身は大体こんな感じになっている。

    「創造」と「新しい創造」を考えることは、審美的なものへの理解と審美的な部分を活性化し、今日のキリスト者の創造性を活性化するものと思われる。美しさということは、霊性や正義(Justice)に劣らず重要なのだ。

    ローマ8章は、新しい創造における神学的豊かさと共に、自然の美しさを享受することを示している。この現在と将来の美しさを享受するよう招かれていることを考えてみたい。
     

     過去よく言われてきた「よいクリスチャンは、芸術家になれないし、良い芸術家はクリスチャンたりえない」という2項対立から考えてみたい。我々は多くの芸術家でクリスチャンがいることを知っており、Jeremy Begbieの神学を通した芸術のような優れた神学者たちの働きがある。

    Jeremy Begbie先輩の神学の観点から見た芸術に関する講演(英語のみ)

    このことは、神のかたちに創造されたことも、我々が様々な創造的な活動に関与することに関係しているものと考えている。純粋なアートは、創造物の美しさに対する我々の反応であり、それは神の美しさを示すことでもあるのである。

    しかし我々はエデンの園(神がおられるところ)に住んでいないので、芸術も、力の漲っていない、くだらないものになっている。教会だけがキッチュさとセンチメンタリズムを独占しているわけではないものの、まず教会に行けばこれらは簡単に見つかるだろう。そして、政治や哲学がそうであるように、芸術においても、醜悪さを極めるかのような方向に進む。

    キリスト者が美しいものと神理解を統合するような世界観(ものの見方とか認識)をもち、そして不毛な混乱状態を通り抜けて、創世記冒頭の創造の業とこれか ら来る新しい創造を結ぶことができるのではないだろうか。ローマ8章を読めば、パウロがすべての被造物が虚無に服しているがその回復を待っていると記述しているのを見ることができるだろう。(要約者注 ローマ8:19-23だと思う)キリスト者は、世界がどうであるべきか、現在どうであるかを言うだけではなく、この世界がどのようなものになるかを言うべきなのである。それは、神の恵みによってのみ実現することであるが。そうすれば、芸術が世界の痛みを示すことはもちろん、この世界の回復の約束を示し、そしてそれらを共に示す時に我々は革新的(Fresh)な見方と使命を共に持つことができる。

     前世紀の多くの芸術家や作家の情熱は、政治的な革新性と結び付いていた(後述するナチスドイツの敗退芸術とされた作品にも多い)のは、一種のパロディ状態にあったといえよう。もしキリスト者の芸術家がマルクス主義が神学の無神論版としてのパロディであることを認識できれば、汎神論や冷笑的な傾向に走らずに、もっと美しいものを描けたはずなのだ。このことには、キリストの死と復活についての反省(自省)と祈りを動力源とした想像力が必要なのではないか。芸術は、物事の姿を描くだけでなく、世界がどのようになるのか、ということへの注意喚起を促すべきものではないだろうか。
    ------------------以上Surprised by Hopeの13章 Beauty 関係部分の要約(ミーちゃんはーちゃんによる)
    とあった。
    ある面、美の世界は、理の世界、合理性の世界とは違う価値観があることを示すようでもあり、ちょうど、神の存在を示すこととよく似ている。個人的には、指輪物語はもう、今から40年近く前に読んだのであるが、いまだに忘れられない思い出がある。もともと建築なんかが好き(でも設計図を引く能力はない)であるのだが、美しいものや、リズム感がある空間構造物は、かなり関心がある。


    http://gipsypapa.exblog.jp/tags/%E5%AD%A6%E6%A0%A1/1/より 東京大学農学部1号館

    無論、芸術には物事の基本的な部分を指し示すという側面があるから、一部のモダンな理性を重視するキリスト教界のみなさんからは芸術は目の敵にされる部分がある。芸術ということは、人間にとって偶像になるかもしれないから、芸術は危険だ、芸術を重視するのはいかがなものか、というご意見である。そーいえば、ナチスドイツは、ある種の芸術を退廃芸術と呼んだんじゃなかったっけ?ナチスドイツのお偉いさん方は、その苦しむ民衆の力を恐れたからこそ、これらの芸術の創作活動を禁止し、第三帝国的な芸術を量産することを目指していくのではなかったか。
     

    退廃芸術展を視察するナチ幹部 http://www1.wdr.de/themen/archiv/stichtag/stichtag6770.htmlから拝借
     
    第3帝国芸術の例 http://laerer.aasg.dk/asgaf/Tysk/Themen/3Reich/index.htm

     
    この記事を書いている現在、家族の一員がカタルーニャに居るのであるが、その家人が現地のカトリック教会(カテドラル)に行った時、カテドラルの一つ一つの部分が芸術作品で飾られている姿を見て、次のように言ったのである。「カテドラルを飾る一つ一つの作品群が非常に丁寧に、そしてきっちりと先人達が組み合わせて作り上げられているのを見て、あぁ、このカテドラルには芸術というか偶像というかを超えて、その偶像的な画像や彫像を通して、そのが偶像的なものを超えたところにある神の存在を表すかのような 何かを感じた」ということだそうである。もともと、その家人は演劇もどきはしていたけれども、芸術(彫像や絵画)とはあまり縁のない生活をした家人であった。そう感じさせたものは何だったか、ということを考えている。

    確かに、そういう空間の凄みみたいなものは割と古いカテドラルに行くとなんとはなく感じることができる。一種の伝統の重みともいえるのかもしれないが。

    そういえば、ライト先輩も以下の動画で娘さんの友人の無神論者の若い女性が、おそらく、ダラム大聖堂に来られて内部をN.T.ライト先輩が案内した時に、この無神論者の若い女性がぽろぽろと涙を流したことを話しておられる(なお、全体の要約は、こちら NTライト Kansasで語る(1) でどうぞ)。つまり、聖堂自身が多くの人々に未だ知られぬ神を示しているので、それを通して、神が語りかけられることもあるらしい(これは、個人的には横浜と神戸のハリストス正教会でも同じことを個人的には経験したことがある)。

    (上記の動画の17分30秒あたりから)

    芸術における対話性
    ミーちゃんはーちゃんが思うに、芸術は、一方的なもののように見えて、必ずしも一方的なものではない。確かに芸術、とりわけ視覚芸術においては、一種一方的なものであるかの如く感じるが、そこに対話を招く部分(ラテン語で リラタス 日本語で物語とか、ストーリーとか、ナラティブとか全部ひっくるめた語)があるようにも思うのだ。盆栽にも、作庭にも、その中に引き込まれていく、そういうところがあるように思う。それは極めて大事なことではないか、と思う。個人的には視覚芸術(特に西洋絵画や陶芸の鑑賞、映画の鑑賞)が個人的な趣味であるので、作品との対話という側面(リラタス)はとくに思う。

    そのあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
    芸術には、創作者と受け取り手の両者によるやり取りが含まれる。C.S.ルイスは、読むという行為は「自分自身の見方を変えるということよりも(もちろん、それも読書の影響として生じることがあるが)、著者の見方、姿勢、感情、そして、そのすべての経験の中に入り込むこと」だという。良書を読みながら、一時、自分の人生を棚に上げて、私のために作られた想像上の世界に入る。それよりも前に、著者はそれとは逆のこと、読者の姿勢、感情、そしてその総合的な体験の中に入り込んでいる。クリスチャンが信仰を伝えようとするとき、この部分で誤りを犯すことがあるように思う。相手の観点を考慮していないのだ。(同書 p.419)
    特に言葉を用いない陶芸とか絵画の場合、読み込むということは一種作品の世界に入っていくことに似ている。個人的にはそのあたりにある現代作家の抹茶碗とかでも陶器がある種の宇宙というのか、世界観を示し、陶器の利用者であるミーちゃんはーちゃんの手の中で語りかけるという経験を時にするので、あぁ、それと同じであるのだなぁ、とこの部分を読みながら思った。

    ここで、ヤンシー先輩は「読む」ということがどういうことであるのかを簡単にあっさり述べているが、このあたりの意味とか重要性、そのことが聖書理解や神理解にどのような影響をもたらすのかに関して、現代哲学の理解なども視野に入れつつN.T.ライト先輩は、ご自身の著書で、最近邦訳された『新約聖書と神の民』の最初の5章くらいでかなり丁寧に述べておられる。いずれ、この『新約聖書と神の民』は別途、この『隠された恵み』でやらかしてしまったように、あまり長くならないように(あるいは、より正確に言うと、森本先生の「反知性主義をめぐるもろもろ 」のシリーズではそれをやってしまったように、もともとの本をネタにして遊ばないように)、気を付けたいと思っている。藤本満先輩には、この連載いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだシリーズでは、ヤンシー先輩の『隠された恵み』で、遊んでることを指摘されてしまったが。この本をネタに遊んでみせた経緯そのものが、実はリラタスなのだ。

    ところで、『新約聖書と神の民』は読み手を選ぶ本であり、邦訳書で、最初の20ページを読んで、ちんぷんかんぷんだったら、その段階では手を出さないほうがよい本であることはご忠告申し上げておく。認識論とか、認知論とか、公共圏とかという世界になじみのない読者には、非常に厳しい本であることは確かだし、ミーちゃんはーちゃんは、英書版のあの小さい字で書いてありながらえらい重量のあるあの本を、通勤電車で読もうとするというろくでもないことをしたので、英文であることもあり、都合途中で3度挫折し3度目に読むのをやめてしまった。しかし、日本語は意味がわかったので、読んでいる。

    ところで、娘の小学校時代の教員のSandy Cady(本人はSandy Candyと名前でからかわれるとご不満のようであった)先生が、読書ということについて、小学生であった娘の同級生と娘に対して、おっしゃったことが実に適切であった。「最初の3ページを読んで意味がわからないと思ったら、その本はまだあなた向けの本ではない」個人的には全くその通りと思う。しかし、これだと、マタイの福音書に耐えられる人はいないことになりそうだし、レビ記や、民数記、申命記などは多くの人向けの本ではないことになってしまいそうだが。

    恐怖と絶望をなかったことにする現代キリスト教
    不都合な事実はなかったことにしたいのは、ブレスケアのCMを見ればよくわかる。そして、一部のキリスト教では、そいういう恐怖とか絶望がキリスト教会の中ではないものかのように扱う教会がどうもあるらしい。そして、教会の中で、そういう悲しみや痛みや絶望のようなことを信徒がおくびにも出したら行けないとご指導される一部のキリスト教会もあるらしい。そのあたりのことについて、ヤンシー先輩は、あるブロガーの表現を用いながら次のようにお書きである。
    ブログ(引用者註 Patheos Blog)上で『レ・ミゼラブル』を批評したある無神論者が述べたように、『現代のキリスト教は、恐怖と絶望から目をそらそうとして語っているかのようだ。恐怖や絶望を表現することは、信仰の欠如を示すかもしれないからだ。だが、そうした感情を避けることは、宗教をうわべだけのものとし、脆弱なものに見せるだけである。」(p.420)
    マクナイト先輩は、こういうことに関してご著書の『福音の再発見』の英語版ではFull Body(日本語では骨太)の福音という言葉で語っておられる。

    しかし、この「レ・ミゼラブル」の批評をした人はなかなか鋭い。そうした感情を切って捨てて、避けているキリスト教は、「うわべだけのものとし、脆弱なものに見せるだけ」しかしてないと鋭くご批判である。不幸はあるし、恐怖はあるし、絶望はあるが、その底に傷ついた癒し人としてのイエスという希望を見るという信仰になっていないのではないか、破綻した人生を送った神の姿を見る信仰になってないのではないか、というヤンシー先輩のご批判でもあるだろう。

    その意味で、不幸や恐怖、絶望を見つめないキリスト教は、イエスが十字架で経験したはずの不幸や、恐怖、絶望といった人間にはどうすることもできないものを超えていくことがはたして可能なのだろうか、ということをご指摘である。キリストは、この不幸や恐怖、絶望を経験し、神に見捨てられるという経験をし、そのうえで、それを乗り越えていったというのが十字架であったはずなのだが…。

    パンドラの箱みたいな不幸がたっぷり詰まった人生という箱を開けて、その最も奥底の箱の板の間にはまっているごくわずかな希望は、実はナザレのイエスであり、完全な姿でもなく、むしろ、傷つき、裂かれ、痛みの激しいあとでぼろ切れになったかのような見る影もないイエスこそ、我らの希望であるにもかかわらず、そして、そのことを聖餐式でThis is the body broken for youと手渡されるパン(それがサイコロ状なのはさすがに時にどうかと思うが…)で覚えるのが、キリスト者ではなかったろうか。

    個人的には、聖餐式は、イエスと我らとの間の関係をかたちである様式とパンとブドウジュースないしぶどう酒で示す神と人とのリラタス(物語)ではないか、と思うのだ。実体化説とか、象徴説とか、いずれの説をとるにせよ。

    最近のほうのレ・ミゼラブルの予告編

    個人的には、このジョン・マルコビッチのジャベール警視が出てくるLes Miserableが大好き


    対話なのか対決なのか
     創造論に立つ人々は、割と対決姿勢を見せて、進化論を論破すれば、あたかも人が神を信じるとでも思っているようだ。進化論自身の当否はさておき、創造論に立つ人の手にかかってしまえば、神が正しいことを創造論の人の議論によって守ってもらわなければならない神のように見えるのが、実に残念でならない。進化論を論破したところで、それで信仰者がいったい何人増えたろうか。それは、同性愛を否定するのではなく、同性愛者を否定する人々の一部とかも、結果的に似た構造を持っているような気がする。ちょうど、前回紹介したレパントの海戦で、トルコ海軍を壊滅させたように、これらの人々を壊滅させないでは気が済まないか、と思いたくなるような物言いをなさる方もおられる。

    そのあたりの事をユージン・ピータソンさんのことばを借りながら次のように言う。
    (ユージン・)ピーターソンは、今日のキリスト教を伝える者たちが、イエスと大きく異なる点を述べている。「宣教や教えから学んだ言葉は焦点を絞った明確なものなので、私たちはその言葉を使い、永久に変わらない大切なことを他者に語っている。けれども、その言葉のほかならぬ強烈さによって、話しかけている相手への思いやりがそこなわれがちだ。相手がもはや人ではなく、論争中の問題になっている。」(p.423)

    ユージーン・ピーターソン先輩

    実は、長くなるので引用は避けたので、是非同書の423ページを読んでもらいたいが、ユージン・ピータソン先輩によると、イエスは伝道の初期よりも、より隠すように、よりほのめかすように、より引き身で語っておられるとご指摘であった。ピラトの前で、「ジャンじゃじゃ〜〜〜〜ん。オレ様がほんまもんの、パチモンじゃないイスラエルの王やしぃ、あんたにはわからへんかしらんけど」とか、以下の動画に出てくるように、「オレ、キングっす」「イスラエルで、チーム張ってて、キングって呼ばれてて」とはおっしゃらなかったのである。力を見せつけるようなことはされていないのである。

    ぶくろで、チーム張っておられるらしい、ぶくろのチームのキング(ギリシア語ではキリスト)のふりをされた方の動画
    (5分30秒あたりから)

    ところで、基本的に日本人は対話の技術を持っている方が多いかといわれれば、どうだろう?と思わざるを得ない場合が多い。そのうえに、ユージン・ピータソン先輩が「その言葉のほかならぬ強烈さによって、話しかけている相手への思いやりがそこなわれがちだ。相手がもはや人ではなく、論争中の問題になっている。」とご指摘のような形で話すとすれば、キリスト者がする議論はほとんど逆効果を持つかもしれない。案外こういう人を論争中の対象にしてしまうような強烈な発言は、『何が何でも正しいことを言わねばならぬ」という思いからではなかろうか、とは推測するのだが、ヒト(人間)のコト(モノ)化しているのことは教会内でも多いのではないか。

    ところで、ヒトをモノと理解することは、唯物論的な理解の一番の問題であると思う。それは分析のスケールの次元が低次すぎると思うのだ。自分が低次の事しか扱えないからといって、全て低次の次元で議論してよい、というものではない。本来、人間は物質の次元だけでは補足できないものを補足する能力を持っているようにも思うのだ。

    ヒトをモノ化したのは、旧ソ連をはじめとした共産圏国家がそうだった。東ドイツでは、自国民に対して秘密警察や国境警備兵が武器を向け、有無を言わさず西ドイツ側に脱出する東ドイツ側のベルリン市民(その昔、西ドイツは高いカベで囲われていた)を射殺したのであった。しかし、80年代末に国境警備兵の現場が、自国民の射殺ということは、本来の国民を守るための軍としての原理原則にもとっていることに気が付き、なんかやる気無くしてしまった。そうしたら、それで終わりになってしまったのである。こうして、ベルリンの壁は、もろくも崩壊したのであった。人をモノ化した挙句、強烈な武器という言語での恫喝をした国家は、今は、もうアジアの一部と、カリブ海あたりとアフリカあたりにしか残らない存在になってしまった。

    ベルリンの壁が1989年11月に事実上無効化したときの写真
    http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/germany/11211644/Berlin-Wall-anniversary-photographs-from-the-symbolic-rise-and-fall-of-the-Iron-Curtain.html?frame=3097097

    そーいや、どっかの国の大統領候補は、「メキシコからの移民が入らないように、ベルリンの壁のようなでっかいカベを米国の南側の国境線に作ったる」といったことをローマ教皇フランシス様から咎められたら、「そんなの関係ねぇ。俺クリスチャンだから、クリスチャンはおれに投票せぇよ」といったとかいわないとか、といったことが話題になっていた。

    特にピーターソン先輩の「相手がもはや人ではなく、論争中の問題になっている」という形で、人間を非人間的な処理をする「その人の存在そのものが問題」とラベルを張って解決することに関する問題法の問題を示しておられる。まるで、移民問題に関する某国大統領候補のだれぞの議論である。


    この事件のことです

    はたしで、「あいつが悪い」とある人あるいは他者の存在を全部を問題視したところで問題が解決できるわけではない。こういう「あいつが悪い」という人の発言力は、その発言の正統性の基盤が失われてしまえば、人はいとも簡単に「あいつが悪い」という人を見捨てていくのである。まぁ、これは政権批判をする野党の皆さんには、ぜひ心してもらいたいことであるなぁ、と思う。わしも悪いし、あいつも悪いが、問題の根本的な構造は何であるのか、ということに注目しないと、まともな解決策にならないのだ。大体「あいつが悪い」と言われ続けた人間は、そう言われ続けながら、その人のそばに居続けたりはしてくれないものなのである。

    キリストの復活と共産主義の埋葬
    共産主義国の雄として知られた旧ソ連邦(現ロシア)はキリスト教(おもにハリストス正教会)のみなさんを旧ソ連領からドイツ軍のタイガー戦車を追い払った勢いで、必死になってソ連領からキリスト教を追い出そうとして、いったん国家の下にキリスト教会を置き、無効化することに成功したかに見えたかもしれないが、素朴な信仰がいとも容易に復活してしまったことに関してヤンシー先輩は次のようにご主張である。
        共産主義の崩壊前と後に、ロシアを訪れた友人がいる。1983年に訪問した時、「キリストがよみがえった!」という伝統的なイースターの挨拶が大きく書かれた横断幕を赤の広場で拡げたために、熱狂的な若い観光客が逮捕された。讃美歌を歌っていたその破壊分子を兵士たちが取り囲み、横断幕を引き裂き、刑務所へしょっ引いた。一般市民によるその不従順な行為からちょうど10年後の1993年、友人は再びイースターの火地曜日に赤の広場を訪れた。ロシア人は広場のいたるところで、あけっぴろげにあいさつを交わしていた。「キリストがよみがえった!」「キリストは本当によみがえった!」(同書 p.424)

    たしかに、当時のロシアは、何かあるとすぐ秘密警察組織KGBが登場する時代だったことは、いつぞやの「こころの時代」でロシア文学者の亀山郁夫さんが写真でも撮ろうもんなら、KGBのみなさんからきついご質問を受けかねない雰囲気だったことをお話しして居られたのを記憶している。

    しかし、その取締りをしていたはずのKGBの職員でいらっしゃったプーチンさんが、今や、ハリストス復活(キリスト復活)の番組にお出になるほどなのである。(3つの動画の最下部の動画)その意味で、ハリストス復活(キリスト復活)だけではなく、ロシアハリストス教会も復活したのである。ちなみに、日本ハリストス正教会では、「キリストがよみがえった!」「キリストは本当によみがえった!」を以下の一番上の動画のように「ハリストース、復活」「実に復活」と御表現なさる。



    ハリストス復活(日本語版)人吉正教会

    各国語版の正教会さんのハリストス(キリストあるいはメシア)の復活をお祝いする讃美歌


    ロシアの復活祭の模様、2分54秒あたりにどうもキリスト復活といっているらしい
    3分22秒あたりに、プーチン君とメドヴェージェフが並んでご出席のご様子が。

    素朴さ、生活と一体化しているが故に残った信仰
    旧共産圏(あ、現在も共産主義国はあるので、この言い方がふさわしいかどうかは疑問ですが)では、キリスト教会絶滅、キリスト教会撲滅運動は大日本帝国支配かの美濃ミッション排撃運動以上に悲惨を極めたのである。
    富士の霊峰(れいほう)いや高く 激浪吼ゆる太平洋
    君が御稜威をたたえつつ 断じて護る我が力

    世界に類なき国体を 護るは我等国民の
    錬え錬えし愛国の 歴史栄えある三千年

    桜花(さくらばな)さく日の本の 国に生まれし我らこそ
    敬神崇祖(けいしんすうそ)の誠意あり 世界を導く大義あり

    皇統連綿ゆるぎなく 祖国日本は道の国
    皇太神宮尊崇の 精神(こころ)は大和魂ぞ

    起こって国体擁護せよ 神は我等の祖先なり
    神を敬う心こそ 我が国体の精華なり

    我が国体の尊厳を 害なう彼らミッションの
    排撃目ざす 我らこそ 使命に生きる国民ぞ

    血潮漲る憂国の 麋城(びじょう)[1]の健児の力もて
    倒せミッション倭異奴輩(わいどはい) 正々堂々最後まで

    日本魂汚さじと 烽火は天を焦がすなり
    吾等の声に力あり 正義の力に敵ぞなし

    いざ起て勇士時は今 我市四萬の健児らよ
    邪教の牙城を葬りて 正義の御旗輝かせ

    金鉄溶かす熱血は 我全身ににぢみけり
    仰げ国体我市民 護れ皇国我市民


    鶴田浩二の歌う軍歌「戦友」 このメロディに乗せて、結構攻撃的に美濃ミッション排撃の歌は歌われた模様

     どうも、旧ソ連邦時代のロシア・ハリストス正教会を中心とした強硬な圧迫があっても、素朴な信仰が自然に見についている姿というのは、ある面生き方と一体化したハリストス正教会の皆さんの姿に現われているのは、感じる。実は、今年初めの1月7日、神戸の日本ハリストス正教会のクリスマス(ユリウス暦で実施されておられる)に参加させてもらったのだが、非常に印象深かった。バブーシュカという雰囲気の方もおられたが、老いも若きもそれこそ、ティーネイジャーのややこしい少女たち(聖堂でなんかロシア語で仲間内の話していたが)まで、まぁ、体の動きといい、所作の姿といい、「なんか、こういうのがDNAに記録されてんですか」といいたくなるほど無理がない動きを見たとき、あぁ、この方たちはハリストス正教会の生き方がもう染みついているのだなぁ、ということを感じたのであった。
    信仰はロシアで生き残った。それは教会と国家の権力闘争の上ではなく、強制収容所の詩人たち、忠実なバブーシュカ(おばあさん)立ち、迫害された牧師たち、普通の信仰者たちが暗黒の日々の中でも信仰の炎を消さなかったからだ。かつて使徒パウロが書いたように。(同書 p.424-425)

    この部分を読みながら、そして、神戸のハリストス正教会のクリスマスを拝見しながら、思ったのは、ここまで板についてしまっていると、無理して信仰を守った、頑張って守った、というよりは、それ以外の生き方が考えられなかったのではないか、と思うのだ。あまりに生き方と一体化していて、信仰の炎の消し方を知らなかった、という感じではないかと思う。こういう身体性を持った信仰、あるいはリアルな生き方として、格好をつけるためにしている信仰と頭で理解した感の強い信仰とは、その味わいが違うように思う。まぁ、宣教されてからたかだか150年ほどしかない国のキリスト教信仰の在り方と、宣教されてから、その紆余曲折はあるにせ、1500年以上についての信仰の在り様が違っていて当然とは思う。

    しかし、隅谷三喜男さんの日本の信徒の「神学」ではないが、日本信徒の神学が二階建てなのは、この辺の身体性にまで澄み渡った信仰でない、というご批判なのであろう。革命ソビエトから脱出してきたロシア系の人々のロシア・ハリストス正教会での体に染みついたかと思われるようなロシア系の人々の信仰を満州時代に隅谷先生が満州でご覧になったが故の部分もあるのではないか、と思うのだ。(一応、満州国では、ロシア系の市民はロシア正教徒としての生活が問題なかった模様である。母国ソビエト連邦では禁止されていたが)


    バブーシュカで検索して出てきた画像


    毒りんごをくださろうとしているわけでない(多分)と思われるバブーシュカ

    連載を終了するにあたって
    気軽な気持ちで始めた連載であったが、なんと46回、1冊の本に関しては、本ブログ記事で紹介したどの本よりも回数の多い連載になってしまった。ここまでお付き合いいただいた方に深く感謝を申し上げたい。

    この本はおそらく多くのキリスト者にとって痛い本である。ミーちゃんはーちゃんにとっても痛い本であった。自分の信仰生活のいい加減さ、身体性にまで染み渡ったキリスト教となっていない自分の姿を指摘されるような本であったからだ。ただ、ヤンシー先輩は、基本アメリカのキリスト教のコンテキストでご指摘である。いくら日本のいわゆる福音派と呼ばれる集団が米国の宣教団体とのかかわりが深いとはいえ、日本にはそのまま当てはまらないことがある、とは思った。その点の解説をしておいた方がよいと思ったことがあることと、この本が多くの方に読まれてほしい、ということと、日本では他の教派の状況をご存じない方(悪しざまに言われる俗悪な噂話程度の認識の方)が多いこともあり、補足しておいた方がよいと思ったことに関しては、少し補足した方がいいかなぁ、と思っているうちに長く、めんどくさい連載になってしまった。

    ミーちゃんはーちゃんは、いのちのことば社の中の人ではない。一介の福音派的な教会で育ったキリスト者であると認識している。いのちのことば社社員ではないからこそ、本書の翻訳や表現上記になる所はいくつか直截に指摘させていただいた。御関係者におかれましては、再刷が出ることがあれば、その部分の修正をご検討いただければ幸甚である。

    自分たちを美化したがる傾向のある、あるいは自分たちが重要であると思っている教義(教え)を最重要視しておられる御関係者が多いように思われる福音派で広く読まれている出版社の本として、本書が出版された意味は非常に大きい。その勇気を翻訳された方、また、その出版のすべてに携わった方のご努力にこころからの敬意を表して、本連載を終わりたい。

    本連載は以上である。
    なお、次回は、富士山とシナイ山に戻り、順次やりかけの連載を終了させていく予定。



     
    評価:
    N.T. ライト
    新教出版社
    ¥ 6,912
    (2015-12-10)
    コメント:内容は良いことは間違いないが、読み手を選ぶ本なので、最初の10ページくらい現物を見られてお買い上げになられることをお勧めする。

    評価:
    隅谷 三喜男
    日本キリスト教団出版局
    ¥ 2,592
    (2004-06)

    コメント
    おつかれさまでした。
    私は、リーアム・ニーソンのレミゼラブルが個人的に好きです。
    シンドラーのリストで、リーアム・ニーソがお気に入りになって…(笑)
    今も遅々として進まずながら「隠された恵み」を読んでいます…ゆっくりとミーちゃんはーちゃんの記事を参照にしながら…じっくりと読めたらいいとも思ってます。
    「わかる人」だけに与えられた著書じゃないと思うので(笑)
    3月26日ちょっと同志社大学に行けたらと楽しみにしています(^^♪
    • あい
    • 2016.02.20 Saturday 09:50
    あい様 コメントどうもでした。

    あぁ、リーアム・ニーソン、いいすよね。

    あたしは変わったわき役が大好きなんで、ジョン・マルコビッチとか、スティーブ・ブシェミとか、変な人の方に関心が行って。しょうがないです。

    まぁ、変人が読んだらこうなった、というのがこの連載なんで。楽しんでいただけたら、幸甚です。

    よい週末をお過ごしくだされ度。
    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.02.20 Saturday 11:40
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