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2016.02.17 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(45)

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    義のゆえに迫害する側か、迫害される側なのか
    あることにあまりに熱心になっていると、いったん事実を離れて客観的に見ることが難しくなる。あることに熱心になると、冷静さを失うことがあることは、良く知られているし、こういうことは戦闘などではよく起きる。適当なところで止める、という冷静さは案外難しいのだ。

    下の絵で紹介するレパント海戦なんかも、そんなところがあるような気がする。自分たちが正しいことをしているという思いと狭い海域で戦うことになったことから、適当なところで戦闘をやめることなく、相手を殲滅するタイプの海戦になってしまったようにも思う。そして、ヴェネツィア海軍を主力とするキリスト教側は、トルコにより迫害されたと主張し、トルコ海軍(正確にはイスラム海賊)は、キリスト教国側により迫害されていると主張し、お互い、相手が迫害してきた、ということをいい募った結果の戦闘であったように思う。

    レパントの海戦図 (Wikipedia)から拝借

    ヤンシー先輩は、それと似たようなことが今西側先進国の中で、クリスチャンとポスト・クリスチャンの間で起きているとご主張である。
    クリスチャンと、ポスト・クリスチャンの(対決という)様相をますます帯びてきた社会との大きな分裂という、振り出しに再び戻る。どちらにとっても恐怖でいっぱいだ。世俗的世界にとってクリスチャンは脅威である。自分たちのルールによって社会を改革し、反対する者たちを処罰する道徳警察のように見えるのだ。他方、クリスチャンは自らを、宗教に敵対する勢力からの嫌がらせに耐える少数派と考えている。(隠された恵み p.400)
    モラルの問題に対して、クリスチャンが相手を批判すればするほど、相手は批判するクリスチャンに対して遠ざかりたいという思いを持つか、腹を立てた場合には、ぶつかりあうことになる。そして、レパントの海戦のように、冷静に全体像を見ることもなく、自分たちと違う価値観を持つものに対して、あんたがおかしいといいながらそれを排除しようとするのである。そして、自分たちがスルーしておけば済むようなことを、敢えてスルーすることなく、相手を嫌われるようなことを言っておきながら、相手から嫌われることをしておきながら、「おまわりさん、あの人たちが意地悪するんです」とか「神様、あの人たちが意地悪するんです」とか、相手が意地悪したことにして、論理をすり替えて、自分たちをかわいそうに少数派と自分で読み替えてしまっている例は少なくはないのではないだろうか。


    インド映画 道徳警察 この辺のチープさというのか、ボリウッド・クオリティがたのしい

    拳握りしめ戦闘態勢をとることと
    政治を使おうとする態度

    自己保身や防衛を考えると、こぶしを握り締めて、防御態勢をとることを我々は社会の中で学んでいく。そして、他者に対して、常に警戒を怠らないような態度をとることが習い性になっていく。あるいは、自己の保護のために、政治勢力と一体化すればうまくいくのではないか、という浅はかな期待を持って、使い方の良くわからないものを自分のものにしていこうとすることは、よくあることだと思うし、何でも政治的な空間で考えることが好きな米国人は、すぐにこれをやりたがる。そして、挙句の果てにしっぺ返しを食らうことが多いのだ。それは学問の世界でも、政治的な空間に持ち込むことも、案外よくあることのように思う。
    新約聖書を読んで気が付いたのは、やってはいけない二つの対応があることだった。まず、退却して防御態勢に入り、攻め込んでくる『異邦人』に対して跳ね橋をあげてはいけないのだ。イエスによると、世界から敵意を持って受け入れられても、驚いたり、ためらったりすべきではない。
     
    「さぁ、行きなさい。いいですか。私があなた方を使わすのは、オオカミの中に子羊を送り出すようなものです。」(ルカ10:3)
    (中略)
    2つ目に、権力にすりよって世俗世界の脅威になってはいけない、ということだ。クリスチャンが、「私たちの国を取り戻す」、「道徳観を回復させる」、「米国をもう一度キリスト教国家にする」といった言葉を口にするなら、かつての異端審問や十字軍で、あるいはもしかすると、神権政治を達成しようとする今日のイスラム教過激派が使う常套句を繰り返していることになる。(同書 pp.402-403)
    我々は、自分たちがしっかりと手を握り締め、こぶしを相手に突き出すことで神と神にかかわる信仰といったものを、自分たちで守るということを時に考えるかもしれない。あるいは、神聖なものなので、神や聖書にかかわることを自分たちが防御奉らなければならないと、時に考える人々もおられるようである。。でも、我々の神は、我々が防御奉らなければならないような神なのだろうが、あるいは我々が守らなければならない神なのだろうか、とも考える。そして、ちょっと待てとも思う。聖書の中にこういう言葉があるのではなかったろうか。
    【口語訳聖書】詩篇
     33:16 王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。
     33:17 馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。
     33:18 見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。
     33:19 これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらえさせるためである。
     33:20 われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。
    もし、霊の戦いと称し、神をお守り奉らなければならないのであれば、それは上の聖書の詩篇とは逆なのではないだろうか。神が我らの助けであり、我らの盾である、とこの詩篇作者は書いておられる。主は、我らの戦車でなく、ミサイルでもないことの意味をば、少し考えた方がいいのかもしれない。

    ナウエンの祈りはこれを考えるとき実に味わい深い。
    Dear God,
     I am so afraid to open my clenched fists!
    Who will I be when I have nothing left
      to hold on to?
    Who will I be when I stand before you
      with empty hands?
    Please help me to gradually open my hands
    and to discover that I am not what I own,
    but what you want to give me.
    And what you want to give me  is love --
    unconditional, everlasting love Amen.
    (With Open Hands, p.27)
    神様
    私は握りこぶしを開くのが本当に恐ろしくてたまりません。
    頼るものが全くない私はどういう存在になるのでしょう。
    空手であなたの前に立つ私はどういう存在とみられるのでしょう。
    私がじっくりと時間をかけて握りこぶしが開けることができる様にしてください。
    そして、私自身が持っている何かが私というものを決めるのではなく、
    むしろ、あなたが与える何かによって私というものが決まることが理解できますように。
    あなたが私に与え給うものは、愛、無条件な愛、そして永遠の愛です。まさにそれです。 
    (ミーちゃんはーちゃん私訳)

    私たちは自分たちが握りしめているもので、自分たちの未来が決まったり、価値が決まったりすると思いがちで、他者に対して手を開いていくことで、開放的な精神を見せることで、そういう未来が悪いものになると思ったり、価値が減じるとでも思っているかのようである。そういうものではないのではないか、とナウエン先輩やヤンシー先輩はおっしゃっておられるようである。

    ところで、ヤンシー先生のご本から引用した上記の部分は、ものすごく皮肉な現在の社会状況を描いていると思う。「クリスチャンが、「私たちの国を取り戻す」、「道徳観を回復させる」、「米国をもう一度キリスト教国家にする」といった言葉を口にするなら、かつての異端 審問や十字軍で、あるいはもしかすると、神権政治を達成しようとする今日のイスラム教過激派が使う常套句を繰り返している」。つまり、自分たちの力で、「古き良きアメリカ、信仰の満ち満ちていた世界を取り戻す」とか言い出した瞬間に、神が与え給うた「開放」「保釈」とそれに基づく「自由」ということは軽んじられてしまい、「自由と民主主義がない」「奴隷制をしている」と自分たちが批判しているはずのISIS団、イスラム国と同じことをしていないか、ということをご指摘である。まぁ、聖書の価値観が重要だというキリスト者は、日本で、過去の選挙の時に自由民主党の党首の方が、こういうことを選挙公約としておっしゃっておられたことと、何が、どこがキリスト者が「取り戻す」というとき違うと考えているのか、ということを考えておいた方がよいかもしれない。以前の記事でもご指摘したように、どこの国でも、完璧だったし、理想であり、かけひとつない社会は地上に存在したのか、ということは考えた方がいいのかもしれない。個人的には、経済はいいか知らんけど、公害だらけの日本を取り戻してもらいたくはないし、軍事教練をするために在郷軍人会の人が来るような教育や、教育勅語を何でもいいから拝めというような教育をする日本を取り戻してもらいたくはないし、他国に攻め入って自分たちの生存を可能にするための軍隊を持つことで安心するような日本は取り戻してもらいたくないような気がするが。


    自民党の選挙公約CM

    国家と宗教の不幸な関係
    ポスト・クリスチャン社会というかキリスト教に飽き飽きした現在のヨーロッパの環境はよくわからないが、結局国家と一体化して、人々に信仰を強いることにはミーちゃんはーちゃんも耐えがたいし、現代のヨーロッパやアメリカの皆さんのある部分、耐え難いし、また、声高に批判の矛先を向けてきて、国家とキリスト教界の蜜月時代に過去に非国民扱いされた記憶が疎ましいのであろう。どこぞのことわざにあるのだそうだが、「踏んだほうは忘れるが、踏まれた方は忘れない」ということもあるのではないか、と思う。
    キリスト教世界で起きたこれらの出来事を見て明らかになったのは、国家と過剰に親密に結びついた宗教は権力を濫用する、ということだ。クリスチャンに対する現今の敵意のほとんどが、そうした過去の記憶を想起させる。教会と国家の融合は、一時的にはうまく機能するように見えるかもしれないが、今日のヨーロッパに見られるように必ず反動を引き起こす。
    クリスチャンが理解してきたのは、強制的に上から押し付けられるよりも、むしろ下から働きかけたとき、信仰が最もよく成長することだった。ヨーロッパには、教会と国家が手を組んだ長い歴史がある。その歴史的観点から合衆国を見て、英国の歴史家ポール・ジョンソンは、米国のクリスチャンの最大の貢献は自主原則だと述べている。『米国キリスト教の中心である自主原則という考え方は、自由に教会に集まり、ボランティア活動をするような個人の信条は、説得力を持って規範を示しながら、少しずつ、けれども確実に社会に浸透してゆく、というものだった。」(pp.404-405)


    Paul Johnsonさん
    http://www.telegraph.co.uk/lifestyle/7800902/Paul-Johnson-After-70-you-begin-to-mellow.html

    特に、N.T.ライト先輩が『クリスチャンであるとは』で
    何百万のいのちをガス室で奪ったのは、雑多なイデオロギーを混ぜ合わせたカクテルだった。宗教的偏見、悪用された哲学、「異なった人たち」への恐れ、経済駅困窮、スケープゴートほしさなどの要求を、悪賢い先導者が調合し、少なくとも、部分的にそれらを信じたい人に語り、「進歩」の代償としての犠牲もやむなしとした。そのヒットラーやホロコーストを思い浮かべるだけで、たくさんの問いが浮かんでくる。(p.16)
    と書かれているように、ほとんどキリスト教が人類悪に無抵抗だったのを目の当たりにしたヨーロッパ大陸と、同じキリスト教国でありながら、海外では争っていたものの、ヨーロッパでは、ヨーロッパの西海岸でD-Dayまでは、ほぼなすすべもなく眺めることしかできなかった英国、そして、さらに太平洋の向こうで、ユダヤ移民は受け入れつつ、そこまで直接の当事者性を持ちにくかったアメリカ合衆国とがあった。特にヨーロッパでは、自分たちの住んでいる地域で自分たちの目の前でユダヤ人であるということで、国家的に拉致事件を目の当たりにしつつも、国家に対して、何ら有効な手立てを打ちえなかったキリスト教会に直面せざるを得なかった。そうであるがゆえに、ポスト・クリスチャンというか、ポスト・キリスト教となってしまっても、それはある面で致し方がないような気がする。
     
    ところで、このあたりの国家と教会の間の関係については、『ジョン・H・ヨーダーの神学』でも詳述されているので、ご関心の向きはお読みになられたらいかがか、と思うのだなぁ。

    上で米国型ボランタリー精神の話が触れられているが、この米国型のボランタリー精神は、自分たちで教会を作るとか、自分たちで共通資源を一つ持つ(教会でもいいし、学校でもいい)とそこに自治権が発生するという発想につながっていて、自治権が発生するところに関しては、国(連邦)の関与をものすごく嫌う、という概念につながっている。州政府は、連邦政府を嫌い、基礎自治体(市とかコミュニティ)は州や連邦の介入を嫌うのである。挙句の果てに、コミュニティで警察まで(実質的にはお雇いのことが多い)持ってしまうのである。国家が先にあるような国ではなく、コミュニティが先にあって、そのはるか先に国家があるというのが、基本的にアメリカの制度らしい。

    こうであるから、州境を挟んだところでは、高速道路の速度制限が変わったり、大統領予備選挙のかたちが州によって違うのは、統一感があるのはまずコミュニティで、どこぞの成功例を持ってきてもうまくいかない、と思っているので、国で一つの制度というのは最小化したい、自分たちの事は自分たちで決めるというのが、アメリカ合衆国居住者の標準的な理解らしい。そして、自分たちのコミュニティが合わないなら、どんどんよそに出てって、新しいコミュニティを作れば、という世界の中で生きておられるらしい。まぁ、西へ、西へと開拓地を広げていかれた米国人の歴史的文化から生まれた精神性かもしれない。
     
    であるからこそ、「個人の信条は、説得力を持って規範を示しながら、少しずつ、けれども確実に社会に浸透してゆく」のであり、逆に言えば、信条が合わず、規範に合わない人は、別の社会を形成してね、というのが、アメリカ風のやり方のような印象が生活したものとしての感覚としてはある。

    強制と自主性と信仰の存続性
    信仰の存続問題をどう考えるか、ということに関して、それが国家や制度という強制を伴う場合、それがどの程度効果があるのか、ということに関して次のようにヤンシー先輩は書いておられる。
    ミロスラブ・ヴォルフによれば、「強制は、キリスト教信仰が持っている性質に矛盾する。キリスト教信仰の中心にあるのは、自己犠牲ー神の自己犠牲と人間の自己犠牲ーであって、自己の押し付けではない」。
    自己犠牲には常に危険が付きまとう。それは、最初に人間に自由を与えたときに、神が受け入れた危険である。そして、自由の尊重が、「ポスト・クリスチャン(かつてクリスチャンだった人々)」という用語の出現につながった。自由を尊重することは、信仰を持たない選択を尊重することでもあるからだ(注目すべきことに、「ポスト・イスラム教徒(かつてイスラム教徒だった)」社会があるのは、イスラム教が力ずくで排除された地域だけである)。(同書 p.406)

    読みながら、思ったのは、このミロスラブ・ヴォルフのこの「強制は、キリスト教信仰が持っている性質に矛盾する。キリスト教信仰の中心にあるのは、自己犠牲ー神の自己犠牲と人間の自己犠牲ーであって、自己の押し付けではない」という発言である。この発言は、案外クリスチャン2世問題を考えるとき、重要なのではないか、と思うのだ。つまり、信仰の本来的なものが残るとは、自発的なものか、社会や家庭、親からの強制によるのか問題を考えることにもつながるのではないか、と思うのだ。なお、どのように考えようとも、成功の完全な方程式というものはない。人間の世界は、そのように複雑に造られているのではないか、と思うが、どうしても、近代人は単純化して考えるのが好きなので、一つの方法しか考えないようにできているかのようだ。

    上記引用部分で書かれているように、人間が選択できる自由を与えられた時、神がよいと言い給いし人間が神ご自身のところから離れていくことに関しても、神は受け入れ給うたということは重要ではないか、と思う。「最初に人間に自由を与えたときに、神が受け入れた危険である」という部分は、もう少し親としては考えた方がよいのかもしれない。自己の概念や信仰の押し付けで、信仰は継承されたかに見えるかもしれないが、それは、イスラム世界のように、徹頭徹尾力づくで「信仰者であり続けるか、死か」という選択を強いることと同じなのではないか、と思う。

    その意味で、イスラム社会においてポスト・イスラム教徒、あるいはキリスト者への改宗、転向は、殉教、あるいは死を覚悟の決死の覚悟を迫る信仰上の行為なのであり、ポスト・イスラム教と社会が仮に存在するならば、それは、イスラムの敵であるとされ、滅ぼされつくされねばならない存在であり、それゆえに存在しないことになる。

    道徳的ぶりっ子・祝福あるぶりっ子はナンセンスかな?
    そもそも、道徳的でないものが道徳的かにふるまうことには、なにがしかの無理が伴う。なんというか、その人の中から出てないぎこちなさ、というか、板についていないということを感じるのである。ちょうど、子供がお下がりの合わない服を着ている感じかもしれない。子どもなら別に自分がどんな服を着ているかにはほとんど関心がないので、かわいらしい、ということですむのかもしれないが、大人はねぇ。
    合わない服を着ている子供
    http://kyouno.com/turezure/20050401_nakajimakiyoshi.htm

    上の画像の子供の頭のところにいるのがうめ吉
    http://item.rakuten.co.jp/auc-serattihouse/s-1000b/

    しかし、大人が合わないぶかぶかの服を着て動いていれば、まるでチャーリー・チャップリンの世界を再現することになりかねないおかしさがある。そうなると、ほとんどコメディか゚吉本新喜劇になってしまう。

    それと同じことを完璧な教会を演ずること、教会が完璧な社会のふりをすることのおかしさについて、ヤンシー先輩は、次のように書いておられる。
     
    カール・バルトが教会の使命について書いた下りを、私は何度も読み返している。「世界の中に、〔世界〕そのものの振る舞いとは根本的に異なり、前途有望なやり方で、この世界とは矛盾する新しいしるしを示すこと。」バルトは理想主義者でなく(彼は、ドイツ教会の、ヒットラーへの生ぬるい反応を目の当たりにした)、教会に次に様な修辞語を付けた。「神が私たちに与えられた高尚な善に、時に従順に、時に不従順に、時に理解しつつ、時に誤解しつつ、歴史を重ねていくその交わり」わたし達は高慢な陰の権力者としてではなく、謙虚な信仰の”旅人”として、高尚な善という知らせを携えていることを常に覚えていなければならない。
    どういうわけか、クリスチャンは道徳的に優れているとの評判を得てきたが、実は、自らの道徳的『劣等感』を認めたときだけ神に立ち返るのである。依存症の自助グループが教えているように、徹底的な正直さと無力さが私たちを神へと駆り立てる。自分は助けを必要としているという事実が、私たちを開放する。物事がうまくいっているとか、良好である、というふりをする必要はない。(同書 p.410)
    「教会は正しい」「教会の人は正しい人が多い」と思いたいという側面をお持ちの方は多い。しかし、現実に教会と呼ばれるところに行ってみると、必ずしも、どうもそうではないということは教会に少し参加してみたら、教会のあちこちで感じることになる。教会派教会の人たちが自称するほど正しくはないし、完全な存在でもないことは何となくすぐわかる。その意味で、バルト先輩が言っておられる「神が私たちに与えられた高尚な善に、時に従順に、時に不従順に、時に理解しつつ、時に誤解しつつ、歴史を重ねていくその交わり」という表現は、かなり正確な表現だといえようか、と思う。まぁ、不完全だけれども、そこに神の息吹(霊)が表れ、時に死んだように見え、時に生き生きとするいきもののような存在、ということなのだろう。それがいつでも、善であるといってみたり、祝福があるといってみたり、ということを言うからおかし気なことになるのではないか、と思う。

    そして、自分たちは聖書通りやっているから、祝福されてなければならない、恵みがあふれている、物事がうまくいっている、という理解になり、挙句の果てに、それを偽装するために「祝福があるぶりっ子」をすることになるのだ。


    カマトトぶりっ子、知ったかぶりっ子を笑うエネオスのCM

    上記のエネオスのCMではぶりっ子がぶりっ子を批判するという構造のおかしさを示しているが、これと同じようなことは案外結構多いんではないかなぁ、と思っている。そして、良好である証拠としての祝福がもちだされることになる。その極端な例が、Fuminaruさんのブログの最近の記事 カルトっぽい教会を離れた後の話・13 で出ていた。一応参考のために、その重要な部分を一部ご紹介したい。
    「祝福」に関する勘違いである。

    よくクリスチャンどうしの挨拶に「祝福がありますように」というのがあって、ほとんど定型文のようになっているけれど、私の教会で「祝福」を語る時、それはマジで真剣に本気で「祝福されなければならない」という意味を含んでいた。つまりそこは教会であり、自分たちは「神の民」であるのだから、祝福されて 当然でしょう? 祝福されない理由などありますか? みたいなニュアンスがあった。思えばそれは「繁栄の神学」(だからそんなの神学じゃないんだってば) の影響が強かったためだろう。

    信仰的な行い=祝福される
    不信仰な行い=祝福されない

    という単純な図式があった。

    それで、ではどうすれば祝福されるのか? という話になる。そこはもう「信仰の行い」である。毎週ちゃんと礼拝しなさい。礼拝以外の集会にも参加しなさい。何か奉仕を担当しなさい。よく献金しなさい(それはあなたの為だから・・・)。よく祈りなさい。よく聖書を読みなさい。毎日「デボーション」しなさい。よく伝道しなさい(未信者を教会に連れてきなさい)。牧師を尊敬し、たとえ意見が合わなくても従いなさい(それもあなたの為だから・・・)。

    という訳で様々な行いが信徒に課せられるのだった。それは全て「クリスチャンとして当然の行い」であり、それらをしていれば当然「祝福される」とされていた。それを拒否するという選択肢はなかった。拒否するなら、なんでクリスチャンやってるんですか? なんで教会に来るんですか? という話になる。

    そこでは「祝福されない」状態でいることは、イコール不信仰であり、何か罪や問題があるのではないかと勘繰られてしまう。祝福されることがベーシックなのだから当然だろう。そして牧師や役員や長老やリーダーといった人たちは「信仰に進んだ者」であり、「祝福されない」なんてことがあるはずがない。そうでないと教会の根幹が揺らいでしまう。
    まぁ、このブログ記事で紹介されている事例では、祝福されないという段階で止まっているのであるけれども、これが行き過ぎると病気や不幸は不信仰が原因とされてしまう。イエスがおられた当時人々が理解していた、ユダヤ的な因果応報の世界をイエスはそうではない、と何度かご指摘である様であるが。
    【口語訳聖書】 ルカ福音書
     13:1 ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。
     13:2 そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。
     13:3 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。
     13:4 また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。
     13:5 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。
    とかおっしゃっておられるようであるが。

    ただ、人間には、苦難や困難はある。理解できない苦しみに直面するときがある。しかし、その中にあっても神の臨在があることを確信することが神への信仰であると思うし、その中にあって、なぜ、そのような状態が生まれたのか、わが身に襲うのかの原因がわからなくとも神の支配の内にあると受け止めることは案外重要なのではないか、と不可知論者的なところがあるものとしては思ってしまう。何でも、合理的に説明を付けようとか、何でもいいから説明を付けようとすることは、かえって無理を生むし、それが重なるとどうもおかし気に見えてしまうような気がするが。その意味で、美は説明できるものではないし、それをかえって説明したところで、その対象がより美しく見えるわけでないことは、我々は良く知っているのではないか、と思う。

     そして、如何にろくでもない状況でありながら、まともでない状態でありながらも、そのような我らを住処とし給う神、ということは案外大事なのではないか、と思うのだなぁ。これが。

    次回、ヤンシー先輩の隠された恵みに関する記事群の最終回をお送りする予定である。



     
    評価:
    ---
    Sorin Books
    ---
    (2006-04-01)
    コメント:あまり単語も難しくない。平易な単語から紡ぎだされる祈りに関する黙想のために

    評価:
    ---
    新教出版社
    ¥ 2,052
    (2010-03)
    コメント:ヨーダー入門としても使えるかも。

    コメント
    「佐知さんの最近のブログ」拝見しました…ミーちゃんはーちゃんブログのお蔭で、ほかのブログも拝見しに行きますが…あまりにもあまりにも難しすぎて…(笑)
    でも、いろんなクリスチャンと言われる人たちの姿、生きざまが、日本以外からも知れることはとても刺激的で、アップアップさせられます(笑)
    単純すぎて、平凡な生活を送ることが、今の私の日常で。
    考えすぎることから守られてる???けど、まあまあ…生きてるわ!(笑)
    拝見し続けます!読み続けます!わからなくても?(笑)
    癌が再発したらどうしよう?のその日暮らしの日々を送り、先の夢が見れなかった私にとっては、今の読書、思索がとても楽しいです(^^♪
    日本語しかわからないけど、容赦なく難しい言葉はちょっと脇に置いといて…&#127926;
    すみません!単純な、平凡なコメントさせてもらって…(^^)v
    • あい
    • 2016.02.17 Wednesday 16:50
    あ、小嶋先生のとかは、趣味のブログなんで…。そうですね。案外日本にいて、自分の身自家にいる人ばかり見ていると、何か詰まった感がおありになるのでなければよろしいのですが。
    まぁ、ご無理だけはなさいませんように。その日の重荷で十分だ、ってナザレのイエスって方はおっしゃってたようですが。

    どなたでも、コメントは歓迎しておりますので、お気軽に。といっても、ここは特殊な人しか来ないサイトになっているようなので、コメントくださる方は少ないですけど。

    それでは良い一日を。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.02.18 Thursday 06:57
    おはようございます♪
    >「特殊な人しか来ないサイト」

    ちょっとわかる人しか読めない?ので、なかなかちょっと読んだだけではコメントも「できない」(>_<)
    私は、教会に行き始めてから、すぐにキリスト、イエスを自分の救い主として心に受け入れました。それから40年、奉仕先としても、野次馬根性からも、いろ〜んな教派、教会に行けました(笑)カルト教会も。
    ヤンシー氏のように、住んでる地域にあるすべての教会を訪ね歩いたことのある人たち、の部類に入るかな?(笑)
    教会から離れる人、キリスト、イエスを神と認められなくなった人などなど…の気持ちはよくよく理解できる部類の人間だと思って、ミーちゃんはーちゃんのブログや、工藤先生との交わりを楽しませていただき学ばせていただいてます。
    知識的に深めて、追及して、研究して…は、とても素晴らしい、人間のできること。
    目が見えるのならば、文字を、耳が聞こえるなら、音声で、知れる機会があるならば…感謝して、私の脳に入れてあげたいと思います(笑)
    先日、ヤンシー氏の本を、初老の方に読んでもらおうと渡したら、「目が…。今、PCのモニター画面で文字を大きくして見ながらの作業はできるし、読めるんだけど……」
    「今でしょ」の言葉通り、与えられた「今」にできることを楽しみましょ(*^^*)
    • あい
    • 2016.02.18 Thursday 09:46
    あい様 コメントありがとうございました。

    あい様は、このサイトに、ヘビー来ている人だと思いますよ。w

    まぁ、メディア自体、万人向きを目指せ、というのは、極めて近代的で、日本的で、国家総動員法的な世界なので、個人的には大嫌いなんです。いろんなメディアがあるから、それぞれが楽しめばいい、と思っています。

    いろんなところに行ってみると面白いですよね、違いがいろいろ見えて。

    >目が見えるのならば、文字を、耳が聞こえるなら、音声で、知れる機会があるならば…感謝して、私の脳に入れてあげたいと思います

    ですね。でも、これができるのは、あい様がご自身の信仰が確立しているからなんですよ。多分。骨太の信仰を持っていらっしゃるからではないか、と。

    そうですね。その人なりのその時なりの居間があるので、それを喜んで生きよ、と神はおっしゃっておられるような気がします。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.02.20 Saturday 11:33
    ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい様

    >「骨太の信仰を持っていらっしゃるからではないか」

    骨太の信仰…とは、初めてお聞きする単語です(笑)…で、素直に「ありがとうございます」という気持ちです(笑)

    なぜか…?!
    実は、私の信仰生活は、悩みに悩んで「面の顔の厚い、心臓に毛の生えた」…偽善的な生き方の中で骨太にならざるを得なかった?ような気がするので(笑)
    それと…昨日の礼拝メッセージで「私はイエス様が大好きなんですよ」と…70過ぎの牧師先生が素直に単純におっしゃられた一言に、私も大いに「アーメン」で(笑)
    私も、それ(「私はイエス様が大好きなんですよ」)だけで、ここまできたような…

    イエス様は大好きなのに…なぜ?こんなことが起こる?こんな世の中?こんな人間?…と恨みつらみばかりを、やはりイエス様にぶつけて…それでも「私はイエス様を好きでいられるの?」と…ちょっと、世俗っぽい、人間的な、かなり幼稚な言い方で失礼ですが、そんなこんなでここまできました!

    …なので、イエス様が大好きです、と(たぶん牧師先生からそんな表現を聞いたのは初めて…かな?)聞いた瞬間、「な〜んだ、先生も一緒か〜!そんなに簡単なことだったんや」なんて、スッと納得させられて落ち着いたような…そんな礼拝でした(笑)

    その当時の人は、癒された〜と言ってはイエス様のところに走り、助けて〜と言っては、イエス様のところに出向き…と、そんなお話も牧師先生は話されてましたっけ(^^♪

    こんな話をコメントして…さらに喜んでいられる日々を、と願うばかりですね(^^♪
    • あい
    • 2016.02.22 Monday 16:44
    あい様 コメントありがとうございました。

    骨太ってのは、 Full Body ワインなどで味がしっかりとしている、って感じだと思います。リンツのダークチョコなのかも。これ、なかなか分かりにくい表現なので、翻訳者の方に直接著者に聞いてもらいました。そしたら、そんな意味だというお答が。

    まぁ、少々のことに動じない信仰ってのは、次の連載の最末尾部で書いたようなロシアのバブーシュカのような、生活と信仰が一体化したような信仰なのだろう、と思います。神学中心の場合、頭でっかちで、生活が薄くなる人々も時におられるので。どっちかってぇと、私はそっちの方が好きなんですが。

    あと、「イエス様が好き」って方はおられますよね。もう、イェス様フリークみたいな人。好きすぎて世間の事、どうでもよくなっちゃうタイプの人。私が最初に行き始めた教会の信徒説教者は、戦前からの信者さんでしたが、神学は全然ダメな人ではありましたが、もう、イェス様好きで好きでしょうがないタイプの人でした。好きすぎて、1時間のお話の時間が、気が付いたら2時間3時間延々しゃべっているというタイプの、実体験型の人でした。

    まぁ、人それぞれ招かれた場所があるのだろうなぁ、とお話を拝見しながら、懐かしく思いだしてしまいました。

    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.02.22 Monday 19:59
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