<< いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(40) | main | 上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(2) >>
2016.02.06 Saturday

上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(1)

0
    今回は、上智大学大阪サテライトキャンパスでの川村先生の公開講座に出席してきたので、その記録を2回でお知らせしようか、と。

    高山右近先輩について
    高山右近が今年列福(現在は内定状態)されるが、その生涯を年表風に書いて並べて解説すると面白くないものになってしまう。それは、一般の社会の歴史や戦国時代史とキリシタン史が分かれていて、その関係がよくわからなくなるからである。キリシタン史の研究者は、概してキリシタン史のみを語る傾向にある。実は、高山右近の高槻にいたことが重要であり、畿内のキリシタン全部が高山右近と畿内の政治情勢とがかかわっている。なかでも、河内が畿内のキリシタンの土壌であるが、それは、河川交通が河内では発達していて、非常に便利であり、河内が京都や大阪と密接につながりがある要因が見逃されている。

    高山右近が活躍した時代は、室町幕府が傾いていって、織田信長が登場する時代であり、摂津とはいえ、高槻と河内が関連した動きをしている。高山右近の高槻入城は乗っ取り事件といわれるが、和田惟政から奪い取った形の入場である。この高槻入場は、荒木村重の反乱とパラレルに考える必要があり、高槻の裏には荒木村重の存在がある。荒木の反乱と回心の時期が微妙に重なっている。(この辺の詳細、今回はつまびらかならず)

    高山右近は、本能寺の変で山崎の戦では、大勝利をおさめ、最前線にいた人物であるが、賤ヶ岳では戦わずして逃げている。その意味で、英雄的な側面と、ダメな人が高山右近の中で、併存している。



    この賤ヶ岳の戦いの後、高山右近は明石に転封されるが、加増されているから、栄典だ、とキリシタン史を見ればおもいやすいが、そうでもなさそうである。この時期を一つで考えると、伴天連追放令とのかかわりを考え、秀吉と高山右近との関係をもう少しきちんと追った方がよいのかもしれない。この後、川村先生は、今年教文館 から出る本のステルスマーケティングをこっそりしておられた。

    前半は、フランシスコ・ザビエル の世界史的意義を考えたい。ある意味で、当時のヨーロッパ社会における、日本の情報発信者であり、初めて、ヨーロッパの地図に、日本を載せた人でもあるし、後のオリエンタリズムにつながる、日本への期待を持たせた人ともいえる。(さすが、上智大学の去年のポスターみたいなことをおっしゃる)


    後半は、ヴァリニャーノが日本に西洋からのキリスト教を持ち込むときの障害にどう対応したのか考えたい。


    日本を中心とした交流史
    これまでの交流史はどちらかというと一方向的な交流を想定してきた。つまり中心があって周辺がある形、ある種帝国主義的な形の影響を考えてきたが、実はこの時代というのは、双方向的交流で考えた方がよい。ジョセフ・フレッチャー Joseph Fletcher(1934-84)という西アジア史の専門家がハーバード大学にいたが、彼の説によると、1500年前後は、は世界史的な大きな転換点であり、一種の統合の歴史 Integrated Historical Momentであったとされている。それというのは、様々な自己完結した領域型国家が様々な観点で交差しており、ムガール帝国、明、サファヴィー朝イラン、オスマントルコ、モンゴル周辺諸国、モスクワ公国が交差している。
    その状況の中、ポルトガル領インド(海からアジアに入るヨーロッパ人)を経由して そして日本にザビエルは来ている。

    接続された歴史
    サンチアゴ・スブラフマニヤムというインド史の研究者であり、UCLAの教員が名古屋大学出版会から『接続された歴史 -インドとヨーロッパ-』という本を出しており、その中で、「接続された歴史」という概念を提案している。

    当時の文化は、多様な文化が併存する状況(juxtaposition)であり、共存co-exustanceの強調があった。それは、文化の混交、総合ではないと考える方がよく、18-19世紀の帝国主義の時代に起きた文化の総合や混交とは異なる。双方向的な交流が生んだ、文化の併存状況であり、ヨーロッパが中心で支配するという構造ではなく、他の地域へのヨーロッパの影響は、それほど強くない。ヨーロッパにNoといえた時代である。東洋進出でも、1500年前後とその後の18・19世紀の東洋進出は、同じ東洋進出でもかなり違う。

    大航海時代の日本情報
    1502年 「マルコ・ポーロ」のポルトガル語版が出版される。編纂版が出版され ジパングをはじめて認識された。ベネツィア人ニコラオが書いたとされる。
    1543年 エスカランテ報告が存在しているが、一応自己申告で来日経験ありとする記録にある。メキシコ総督メンドーサによるアジア艦隊の一員として到着したとされるが、その後捕虜としてリスボンにいたことがわかっている。

    1548年 ジョルジュ・アルバレスの日本報告がある。ヤジロウをザビエルに紹介したことが書かれており、記録によれば、マラッカでザビエルとヤジロウが出会っている。ザビエルに依頼を受け、日本情報を書いている。
    1548年 ニコラオ・ランチロット(ゴアの聖パウロ学院院長)の日本情報があるが、かなり、日本情報が集まっていた

    1574年 フラン・ロペス・デ・ベラスコ 新大陸の日本記事がある。

    この時期、世界に認識され始めた日本という存在がある。

    地図に存在する日本を追ってみたい。(これは地図マニアの血が騒いだ)


    インド北部と大タタール図
    赤線部分を拡大しました。日本だそうです。
    Tabula superioris Indiae & Tartariae maioris (http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/start/sel=13/)

    半島なのか島なのかはっきりしない。ドイツ語表記

    ボルドーネの世界島嶼集の世界図の極東部分の中にも同じ図があり、書物の中に島国として書いた、ヨーロッパ最初の印刷物の一つとして挙げられる。

    1550年 セバスチャン・ミュンスターのアジア図の中にも表れており、四国が Tonsa 土佐と表記されている。


    ミュンスターのアジア図 http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1550-KB1-1/zoomone/


    拡大図

    この島は銀の島ということが知られている。1540年代には、フィリピンのスペイン商船が太平洋航路を経由して、フィリピンとメキシコを移動している。地図の面白さは情報があればあるほど詳しい地図が書いていかれることになる。その意味で、新しい情報があれば、その情報が書き加えられていくのが地図である。


    1570年 アブラハム・オルテリウスのアジア図
    http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1570-KB1/zoomone/より

    Tonsa(とさ) Bungo(ぶんご) Amanguco(やまぐち)の文字が見える。

    なお、石見銀山1533年に精錬された銀輸出が盛んになり、当時の世界の1/3の銀を産した時代があり、それが文字として銀鉱山の存在が地図上に記載されることになる。


    1570年刊行のアジア図 大シャム国(元) 
    http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1570-KB2/zoomone/


    1570年刊行のアジア図 大シャム国 日本付近拡大図
    Tonsa Bungo Amanquno(とさ、ぶんご、あまくさ?)がみえる

    Bandumia(坂東が出てくる。恐らく、足利学校のあったあたり)、Meaco(みやこ)Minas da plata(銀鉱山)の文字が読める。


    1595年 ルイス テイシェラLuís Teixeira 日本図 

    1595年 ルイス テイシェラLuís Teixeira 日本図 拡大図
    日本国内の地域に関する相対的位置関係の精度は向上している。ただし、朝鮮半島は島として描かれる。


    ゲルハルト・メルカトルアジア図 
    http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1600-KB1-5/zoomone/


    ゲルハルト・メルカトル アジア図 拡大図 
    鹿児島 (Cangoxuma)、 都 (Miaco)、 山口 (Amanguco)、 坂東 (Bandu)、Negru(根来?)等がみられるが、総体にかなりいい加減な配置となっている。(アジア図だから、かなりいい加減だというのはあるかもしれない)


    ポルトガルとスペインの世界
    日本にはポルトガル船でやってくるのは、トルデシリャス条約 1893年であり、これは、ポルトガルスペイン国王間での取り決めである。それ以前に、東漸した地域はポルトガルによる強化圏で、西側は東経38度線までとした。これ以前にポルトガル王スペイン王の了解なく惹かれた、 Line of Pope Alexander VIという世界史的境界線がある。

    とはいえ、現在のフィリピンはスペイン領であるが、ボルネオ島やマラッカ諸島は、スペインがポルトガルと交渉して、支配権を確立した結果である。

    スペイン 地球西廻りで征服し、植民地化を行った。その結果として支配地域のキリスト教国化を反対者がほとんどいない形で、征服が先にあり、そのあと宣教していった。なお、長崎殉教した28人のうち、23人が、フランシスコ会の中でも、最も厳格派の洗足派であった。また、スペインが、レコンキスタを行って領土回復したこともあり、レコンキスタのメンタリティにあふれた国家であった。

    ポルトガルは地球東回り 「抗争」か「順応」かで宣教していった。簡単に崩せなかった、イスラム教徒やインドのヒンドゥー文化、そして中国・日本という、独立して存在している簡単に凌駕できない文化が存在する中で伝道していった。その意味で、白地図の上に線を引くようなことができなかったアジアに対し、中南米は軍隊で、熱したナイフでバターを着るように伝道できたスペイン系のカトリック教会がある。サラゴサ条約(布教保護圏の領域決定に関する条約)では東経133度線が教会なのであるけれども、日本の存在は認識されなかったため、日本に関する宣教地の分断はされていない。

    インドより西側のポルトガルの植民地は、ゴア、カリカット、コーチン、マカオであり、海上基地とその周辺を抑えるような植民地経営をしていた。ところが、アメリカや、アフリカでは、内陸までが領土とされており、かなり経営が違う。
     


    ポルトガル海上帝国 Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Portuguese_Empire から

    ------個人的感想-----
    この図を見ながら思ったのは、アジアを経営する場合、兵站距離が伸びることなどもあり、拠点型であったのであろう。これと同じようなことした地中海世界の国が過去にあったことを思い出したのだ。それはベネツィアである。詳しくは、塩野七生女史の『海の都の物語』でも読んでもらうことにして、完全に拠点型のアドリア海、地中海、黒海世界の支配をしたのである。まさに本土人口の少ない場合の海洋国家(海軍軍事国家)としてのベスト戦略をアジアで実際に行ったのが、ポルトガルであり、後の大英帝国である。

    ベネツィアの支配領域図 https://en.wikipedia.org/wiki/Republic_of_Venice
    ------個人的感想-----

    印刷物と宗教改革時代
    ゴアのイエズス会あてのザビエル書簡(1549年11月5日付) ザビエル書簡がトリエント公会議で、多くの司祭が悲嘆にくれた公会議の中で読み上げられることになり、その結果、トリエント公会議の司教団はどうもが善やる気が出たようである。そして、この書簡が、印刷され、1552年に印刷された最初の書簡集がでる。

    AVISI PARTICOLARI delle Indie di Portogallohttps://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/senk17.htm
    京都外国語大学所蔵


    宗教改革は、当時のIT革命であった印刷文化に支えられた時代であるからこそ、起きたといえる。慶長少年使節団に謁見した教皇は、一つの島(ブリテン)を失った( 英国国教会の成立のこと)がその代わりに一つの島(日本)から人がきた、と痛くお慶びになられたようである。


    トルセリーニにより1594年にザビエル伝が刊行されている。(画像のソースはこちら http://blogs.yahoo.co.jp/dogstar500ml/12669004.htmlから拝借)  おそらくここの挿絵がそのご教科書に乗る小学生の社会科のヒーロー、ザビエル(小学生男子は禿が好き)の原型になったものと思われる。

    アレッサンドロ・ヴァリニャーノの自筆原稿が残っているが、ヨーロッパの紙とインクだとぼろぼろになっているし、裏移りがひどいが、同じヴァリニャーノの自筆原稿でも、和紙に黒墨で書いたものは、裏移りがしていない。バリニャーノ自筆書簡と書名を比較することで、現在伝ヴァリニャーノの書簡はほぼ真筆であることが確定で来ている。なお、イエズス会員については入会時の自筆のサイン署名が残っているのでそれで参照できる。なお、当時の日本の神(わし)が西洋で高く評価されたことは、江戸期長崎からの輸出品の最大のものの一つが和紙であったことからも分かる。

    歴史資料としての宣教師文書
    フロイスの記述を証明する考古学成果がいくつも存在する、約20年くらい前の1990年代くらいまでは、宣教師の偏見があるかもという説があったが、現在では発掘調査などによりその正確性が確認されている。特に、フロイスはメモ魔であり、岐阜城に関しても、山上とふもとの宮殿があった、とフロイスは記載しており、信長はふもとの宮殿に住んでいたという記事が残っている。岐阜城は稲葉山の山上に位置するという説が有力であったが、近年の発掘結果によれば、ふもとの方が大きい館であることが明らかにされるなど、その信ぴょう性が発掘結果からも確認されている。また、安土城の礎石研究から、宣教師の記載にある空中通路(本丸と天守閣を結ぶ空中廊下)の存在が、確認されている。

    キリシタン大名としての大友宗麟
    豊後の大友宗麟は、なかなか評価が定まらないが、非常に面白い人物である。今、大分は南蛮都市ということで売り出しをかけている。駅前にはザビエルの銅像が立ったりしていて、陶板画の世界地図なんかがあるらしくって、駅前広場が面白いらしい。


    大塚オーミ陶業株式会社様からの借用 https://www.ohmi.co.jp/news/9700/

    戦国時代大名でありながら、キリシタンになって、薩摩に敗北した人という江戸時代の大友宗麟のがた落ちしたイメージのみが伝わっている。それはある面、江戸時代の色眼鏡での見方の影響を現在も尚、受けているといえよう。大友宗麟は、6か国の守護であり、南蛮文化の取入れを行った人物であり、その点では面白い人物であるとは言えるのではないか。

    大友宗麟は豊後府内病院とその周辺を整備し、病院を建てさせた。府内古図といおう大分市内の古都があるが、この子図を見る限り、天守閣が中心ではなく、城下町はないような形となっている。大友館が真ん中にある。府内古図の中にキリスト教施設だいうす堂があり、宣教師がいたとされるし、ミゼルコルディアという組もこの中にあり、そこにもパーデレがいた。なお、この敷地内から、墓の跡地が見つかり、ここから乳幼児の骨が出てくるが、豊後で、戦災孤児が多かったという宣教師の記述に一致し、こういう戦災孤児を教会で世話したことが想定される。

    この教会敷地の中に、貧者の家があったことが知られており、宣教師の医療補助を手伝った12名の信徒がいたことが知られている。五野井隆史 東大史料編纂所 研究紀要14 2004 がその内部構造の研究をしているが、1560年代には病院はなかったんではないかと思う。なお、病院は 重い皮膚病患者のケアをした病棟が別棟であったものと思われる。

    コスメ・デ・トルレスは文化適応主義として、日本宣教の方策をとったが(これに関しては次回分で紹介)、それとともに、この医療による奉仕は、極めて重要であった。ルイス・デ・アルメイダという人物であるが、もともとユダヤ教徒の商人であったが、改宗したのち、イエズス会入会し、彼がささげた試算により、極貧状態にあったイエズス会が豊かになった(そんな過去があったなんて知らなんだ)。そして、豊後で病院での医療にあたる。そして、それを補佐した人々が、日本最初のボランティアとしての存在であり、病院を手伝い、信徒グループを形成した。それが、慈悲の組の形成とつながっており、コンフラリア(友愛会)である。

    『ヨーロッパ中近世の兄弟会』では、その詳細が紹介されており、コンフラリアはその一種で、豊後大分では、死者の埋葬と病院の経営にあたっていたようである。平戸の葬列について、1555年 ルイス・フロイスの記述があるが、これは、ヨーロッパのコンフラリア式の埋葬を完全コピーしたものであり、サカラメンタ提要にある埋葬するときの歌を歌ったことなどが記載されている。なお、高山右近はそれを高槻で完全コピーして再現したようである。その意味で、治療の手立てのない病人の世話 Careと死者の埋葬という役割を担っている。

    死者や病者に関しては、触穢思想との関連、日本にけるタブーの抵触をだれがするか問題と深くかかわっており、死者や病者のケアすることは、直接触穢概念と向かい合うことであった。それをあえてしたのが、慈悲の組(こんふらりあ・みぜりこるぢあ)の活動である。なお、触穢の思想は10世紀にはあったことが知られている。

    こういうことを考えると、キリシタン史をキリシタン史ですることは意味がなく、当時の歴史的環境と接続して考えないといけないのではないか。
     
    -----------今回の個人的感想-----------

    『新しい中世』という本がある。インターネットが出始めのころ、これから情報技術社会がつながることで世界システムがどう変わるのか、ということを書いた本である。つまり、公共圏という言葉を使わずに、公共圏が小規模化し、分散多元的に存在する可能性を示した本である。
    まさに、多様な文化が併存する状況(juxtaposition)であり、共存co-exustanceの強調が起きるのではないか、ということが記されていたのであり、それが空間を超え、サイバー空間上に小さな文化コミュニティを形成しながら、文化的にそれぞれのグループが別のグループに影響しあいながら、世界が形成されていくのではないか、という現象を示した本であったように思う。

    ちょうど1500年代の大航海時代の始まりには、このような多様な文化が併存する状況(juxtaposition)で空間に制約される形で併存し、それが大航海時代という時代で実物の人間というメディアを通して触れ合うことを通して、変容もしていくし、他の文化の併存状況を認知していくこと、そして、当時の国際通貨銀という物質のメディアを通して、それぞれの社会構造が変化していくことなどをたらたらと妄想しながらニタニタしていた。(擬音語が多いのはしょうがない。関西人であるからである)

    それはそうと、アメリカという新大陸で、軒並みつぶしてしまえみたいな形で布教したスペイン、その後の多くの信仰集団が併存した市場化したキリスト教社会の原型を作ったアメリカ建国の父たち、そしてそうでありながら、何でもアジア的なもの、日本的なものを否定しまくり、キリスト教プロテスタントならなんでもいいという感じで日本で戦後伝道したキリスト教伝道者たちの姿を考えると、アメリカ南北大陸で、ちょうど温めたバターナイフでバターを切り出すようにして伝道できた過去を持った人たちの精神性が日本の戦後伝道とその副作用を未だに負わされている日本のキリスト教の信者たちというのは、まぁ、ろくでもない罰ゲームの後処理をさせられているような感じがするが、まぁ、聖書主義というのであれば、基本的に個々の信徒が聖書に向かいつつ、誰かから与えられた伝道方法を固守するのではなく、自分でどうしたらいいのか、やりながら考えた方がよほどよいような気がするか、違うだろうか、ということを考えた。
     
    しかし、アメリカ人の都市計画は、対象を何もない原野を切り開いてきた人たちの都市計画であるので、計画の対象地を白地図で、そこに銅線を引いても問題ないと考えるタイプの都市計画であった。自分が暗に大学生のころ理想とした都市計画もそんなもんだったし、どうも、今になって思えば、ミーちゃんはーちゃんの師匠筋の先生方も、お若いころはそういう都市計画をまい進されたのかもしれない(その結果が日本住宅公団、現URのいわゆる団地であるのかもしれない)、と思うようになってきたが、まぁ、日本のように長期居住がされている地域に手出しするには、そうというの構想力と適応的な手法が必要であるが、若者であったミーちゃんはーちゃんにはそんなかったるいことや権利関係の後処理をするなんてめんどくさいことはやりたくなかったのである。今では愚かだったと思うけど。

    なお、この回は、地図屋としてのミハ氏を狂喜乱舞させた。今回は古地図の変遷の歴史でもあったので(メインはそっちではない)、非常に楽しかった。

    そして、今回思ったのは、キリスト教教理史や日本のキリスト教史の資料は随分整備されてきて、日本でも手に入りやすくなったし、資料はそろって来ているけれども、一般の歴史との接続がキリスト教側でも弱いし、逆に政治史や近世史をおやりの方々の宗教音痴は絶望的な気分になる。この辺、もうちょっと適切にやる必要があるようには思う。
     
    この連載は後1回続く。

     
    S.スブラフマニヤム
    名古屋大学出版会
    ¥ 6,048
    (2009-05-25)
    コメント:図書館でどうぞ

    ---
    東京大学出版会
    ¥ 10,584
    (2014-10-06)
    コメント:マニアックな本なんで図書館でどうぞ

    田中 明彦
    日本経済新聞社
    ---
    (2003-04)
    コメント:図書館にはあると思う。かなり1990年代には流行ったので。

    コメント
    >触穢の思想

     これはおそらく、延喜式に於ける規定を想定されておられると思いますが、律令に於ける諸指定は殆どが範とされた唐の律令制度に基づくと考えたほうが自然です。その規定部分は儒教の礼記(経)にその根拠が有ると申したほうが自然です。そもそも、物忌み、タブー、ジンクスなどと呼ばれる種々の規制的慣習は、もっと根源的な心から自然的に発生する行動様式で生理的、経験的直感と結びついて固定化されていく行動様式です。

     元来教義の存在しない(そのような考え方の団体集団を宗教団体と呼称して良いかは別として)アミニズムを、仏教布教手段として考案された両部神道や山王神道に対抗して教義らしきものを纏めたのは15世紀半ば以後。それ以前から生理的、自然的に存在した物忌みを半ば制度化、固定化したのは江戸時代の固定化した社会と諸制度の影響によると考えるべきだと思います。
    (殯(もがり)や儒教の喪、神葬祭の歴史など調べると判ります)

     くさい、気持ち悪い、辛いと感じる生理的諸要因は(身体を守るために)ほぼ自然に備わっている感覚で、通常の感覚器官を持っている生物にはほぼ共通して訴えることが可能な要因といえます。

     故に、この様な用語を引用定義される場合には、この場所での使用定義と引用原典場所を明記されないと、表面面を読んで触穢と呼ばれる考え方の拡大再生産に繋がってしまう危険が大きいと思います。
    • たぬ
    • 2016.02.06 Saturday 20:55
    たぬ 様

    本記録記事は、2016年1月30日に上智大学大阪大学サテライトキャンパスで実施されました川村信三さんの「大航海時代と日本」の当日会場で速記した速記録に基づいております。

    用語の引用定義のソースをお尋ねですので、それは、
    川村信三(2016),「大航海時代と日本」,上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 となろうか、と思います。

    タイトルで、そのことをあげておりますので、わざわざお断りする必要はないかと思いましたので、参考文献リストとして別記としてはつけて居りません。

    また、感想という部分で囲まれた部分と()内でやや小さな文字で書いた部分以外は、基本ご講義の内容そのものですので、当方にお問い合わせいただいても、そのオリジナルソースは川村先生ですので、誠に申し上げませんが、ご回答いたしかねます。お話になられたものを速記しただけですので。

    もし、必要とあらば、是非、定義とソースに関しては、ご本人様にお問い合わせください。

    当ブログでは、広くキリスト教にまつわる内容を記すサイトとして運用しておりますので、触穢にかかわる専門サイトではございませんこと、キリシタンの活動の意義を示すコンテキストでお話になられたことと心得居りますので、もし、当ブログの記載内容では、不十分、ご不満ということで、きちんと触穢思想とは何か、ということをご定義になられる必要があり、一般読者に有益なものであるとご判断なさり、ご提示することが望ましいとお考えなら、どうぞ、ご適切な参考文献や、参考サイトをこのコメント欄にお残しいただければ、一般の方々への適切な情報提供に関しましては、一定の機能を果たすと思いますが、いかがでしょうか。

    以上、甚だ不十分なご回答かもしれませんが、一介の計算機技術者の趣味のブログとしては、以上のような対応しか致しかねますので、そのあたりをどうぞご斟酌賜りますように。

    たぬ 様におかれましても、サイバー空間上なり、一般誌なり、学術書籍などで一般に正確な知識を広めるための適切なご発言の提示と、ご高説をご提示なさるお働きに邁進され度、平にお願い申し上げる次第で御座います。それこそ、議論の豊かさと豊かな社会を構築するに実に有益ではないか、と存知居ります。

    以上、ご回答まで。
    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.02.07 Sunday 08:21
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM