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2016.02.15 Monday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(44)

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    一部の福音派のマキャベリスティックな行動
    ヤンシー先輩の福音派の人々の気候に関しては、きわめて手厳しい。以下で紹介されているように確かに、福音派の人々のマキャベリスティックな行動に関しては、極めて厳しい表現をしておられる。
    神の国の福音を語るため、とは言いながら、電波ジャック(たぶん窃盗とか不法侵入、通信の妨害)という違法行為になっているという矛盾をしている事例を次のような例で紹介しておられる。
    福音派の人々には、誉められるようなところが見当たらない。キリスト教放送ネットワークに勤務するエンジニアが、衛星放送の伝送装置を使ってプレイボーイ・チャンネルを妨害したことがある。「アメリカン・エクスタシー」の放映中に、「主なる汝の神はこういわれる。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。悔い改めよ、神の国は近づいた!」というメッセージを流したのである(後に連邦大陪審により起訴された)。彼の上司のパット・ロバートソンは、長年にわたって奇妙な発言を繰り返していたが、中でもフェミニストを表現した言葉は有名だ。「夫の元から去り、子供を殺し、魔術を行い、資本主義を破壊してレズビアンになるよう女性を励ます社会主義者であり、反家族政治運動をあおる者たち。」(pp.389-390)

    この記事を見ながら真っ先に思い付いたのは、以下に示すキリスト看板である。まぁ、恐らく、所有者の許可をとってはっておられるのだろうが、田舎に行くと、結構この手のキリスト看板と称される神のことばを切り取ったものを掲げる事例は散見される。別に言論の自由もあるし、何を書いてもいいし、所有者の許可をとってやっておられる分には、何も文句を言う筋合いはない。

    しかし、である。プレイボーイ・チャンネルという有償の番組放送網をジャックし、他人の支払った金と設備が技術的に利用でき、個人がその放送内容に不適切さを感じるから、それをハッキングして、その代わりに聖書のことばの切り取りを他人に見せつけることも良いことにはならないと思う。窃盗も、他人の妻に横恋慕することの両方とも、モーセ先輩が山でもらったらしい石の板にやったらあかんこととして書いてあるのではないかと思うのだが。

    ただ、この放送ジャックする人々の精神構造は、なんとなく以下で掲げるキリスト看板の皆様の精神構造と似ていらっしゃるとは思うのだ。確かにキリスト者にとっては、聖書のことばであり、それの重みがある。

    しかし、それと無関係な皆様には、その意味も分からず、神の国といっても、明治天皇制のころに主張された神の国だと思って、「おお、聖書では、神国日本になる日は近い」という意味なのだ、と受け取られても仕方がない面もあるのではないか、と思う。だって、書かれた文字と受け取られる理解がかなり違う可能性はあるのだから。

    幸福の科学出版 大川咲也加著 「神国日本の精神」 
    神の国が近づいたと聖書にも書いてある、と同書の中で主張されているのかどうかは良く知らない。



    神の国は近づいた という聖書のことばの切り取りしたものが書いてあるキリスト看板の作品

    ところで、聖書の中には普通の人々には理解できない異言を語るなら、異言の解説も必要だよ、とパウロ君は諭されたはずである。神の国が近づいたは、日本のかなりの人にとっては理解不能な言説だではないか、と思う。

    ヤンシー先輩の本の中で出てくる、キリスト教放送ネットワークCBNってなんだと思ってたら、何のことはない、700Clubという放送をやっていた放送局であった。そういえば、PTLクラブという似たような番組を、地元ローカル局の「おっサンテレビ」を自称する神戸新聞系のSun-TVで放映していたような記憶がある。

    Pat Robertsonさん(ヤンシー先輩いわく「長年にわたって奇妙な発言を繰り返していた」らしい)

    ところで、以下に掲げる図像は、その「長年にわたって奇妙な発言を繰り返していた」ことの例として取り上げられた一例の恐らくオリジナルの発言を画像にしたもののようである。


    フェミニズムに関するロバートソンさんのご発言をポスター化したもの
     
    しかし、他のものは何となく理由が想像できなくはないが、なんで、フェミニズムが資本主義をぶっ壊すのかの論理がよくわからんが。資本主義自体が実はつい最近の出来事なんだし、それがもたらす弊害があるので、新古典派的経済学が生まれてきて、市場至上主義型資本主義では限界があることを指摘したような気がするのだが。

    と思って、書いていたら、である。本ブログで紹介した、あの「聖書信仰」(当ブログでは、藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(1)藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(2) 終わり  でご紹介)をお書きになった藤本満先輩が、また、やっていただきました。ありがとうございます。こんな素晴らしい記事 聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その7) を山崎ランサム(山崎ハンサムという大頭先輩説在り)先輩のブログで書いてくださったのである。ありがたいことである。

    キリスト教とユダヤ教の共通部分
    N.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』には、「ユダヤ教とキリスト教という仲たがいした二姉妹(そしてある意味イスラム教も)の基盤になっている世界」(クリスチャンであるとは p.38 オリジナルは、the world that sitll forms the foundation for those two estranged sisters, Judaism and Chrisitianity, and to a lesser extent Islam. )という非常に印象的な表現がある。どうも、以下のラビ、ジョシュア・バーバーマンさんがPolicy Reviewという雑誌でお書きになられたことと、非常に似ているような気がする。
    ラビのジョシュア・ハーバーマンは、ヒットラーのオーストラリア併合を経験した人で、『ポリシー・レビュー』に次のような記事を書いて大きな議論を巻き起こした。
     
    私はユダヤ人として、神学、この国の社会問題、そして公共政策に関して、聖書を信じる様々なクリスチャンとは意見を異にする。キリスト教原理主義過激派の狂信さ、狭量さ、厳格な教条主義の発作に、時々嫌悪感を抱く。しかしこうした違いや反発よりも、私が原理主義者を含めたクリスチャンと共有している共通の道徳、そして霊的枠組みの方がはるかに大きい。聖書はこの国に道徳という視点を与えた。そして、今日、米国のバイブルベルトは安全ベルトであり、私たちの基本的人権と自由を永遠に保障している。
    (同書p.391)
    結局、今のこの世の中では、N.T.ライト先輩ご指摘のように、仲たがいする2姉妹のようにユダヤ教とキリスト教は仲が悪いが(まぁ、ドイツでの悲惨な事件に教会も関与しているし、伝統的にユダヤ教徒がイスラム教徒ともビジネスをしていたので、それがもとで嫌われているし、さらに、金融決済事業、今で言うセブン銀行みたいなもの、でヨーロッパでの決済事業をやっていたので嫌われてきた。なぜ、ユダヤ系市民が金融決済が得意かといえば、家族や親類のネットワークを介した信用を生み出す仕掛けを持っていたからなのであるが)、本来聖四文字YHWHを認めるという意味で、本来共通のものがあるはずなのだが、キリスト教原理主義過激派(恐らく今でいうEvangelicalsとも呼ばれる米国型の福音派全体を指すような気がするが)は常時、他民族排他性由来の教条主義の発作状態が続いているからか他の宗教者、他派のキリスト教に対して発作症状が続いているのかもしれず、他者との違いを言い募り、本来見るべき共通のものである神自身というお方を見てないし、その方が与え給うた霊的枠組みすら連続的な発作のために見えなくなっているのかもしれない。

    ところで、中華人民共和国と米国は大国クラブというか、国連常任理事国クラブでは仲がよいが、「人権」や「自由」という同じ語を使いながら、基本的人権と自由の点で、本来的に違うものを持っているような感じがする(天安門事件のことを考えればよくわかる。自国民に向かって自国民保護のための道具である戦車を突進させかねない国なのである)し、日本は、とりあえずこの基本的人権理解が保証されているはずの国であるが、現実的には、様々の面で、この基本的人権理解が本当に国民や社会や文化の奥まで、しみ込んでいるのかどうか、怪しい事例に時々であう。残念なことであるが。


    天安門事件のCNNの映像

    違法と不道徳の混乱
    文化とかかわる時、クリスチャンは”違法”と”不道徳”を区別するべきである。というタイトルの下、様々な事例が紹介されているが、この最後の部分が秀逸であるので、ご紹介したい。
    クリスチャンは現在、同性愛者の権利について賛否を問う議論をしている。賛成派も否定はも同意しているように、これは道徳の問題だ。数十年前、英国国教会は離婚について同じように議論していた。聖書は同性愛より、はるかに多くの結婚の神聖さと離婚の誤りに言及している。C.S.ルイスは離婚を支持する意見を表明し、当時多くの人々に衝撃を与えた。社会一般に自分たちの道徳観を押し付ける権利はクリスチャンにはない、というのがその理由だった。道徳的な立場から離婚に反対し続けたルイスであったが、道徳性と合法性は区別すべきだと主張し続けたのである。(同書 p.394)
    同性愛者の問題は、実に微妙なテーマである。そして、実際の法律(あるいは米国内における法と同等の価値を持つ裁判結果)も、実はかなり解釈が難しく、その本来的意味をとらえるのは、極めて難しい問題を含んでいる。あまり安易に単純化して考えられない問題なのである。Love Wins祭り(Love wins AKA アメリカ連邦最高裁同性婚祭り ワズw)の時にも、その困難性はご説明したが、あの連保最高裁判所の判決は、主権を持つ他州の認めた行政的措置に対して、著しく不当な行政的措置を別の行政府である州政府が、アメリカ市民である個人に対して禁じたものであり、積極的に同性婚を認めるという性質のものではなかったのである。このような場合に、道徳性(同性愛を認めない)と合法性(合衆国憲法が個人に保証した権利を合衆国憲法を超えて州政府ないし他の行政府がその行為により著しく侵害すべきでない)とが混乱した例であろうと思うのだ。

    あるいは、奴隷制度や差別の問題は、実に微妙なテーマである。これは米国のクリスチャンによくある過誤ではないか、と思う。本来的には、道徳として、自分自身に向けるべきことを他者に向け、法律違反であるかのように、他者を容易にさばいてしまうという側面である。

    それと、世俗の法律というか、裁判での判決をもとに、様々なことが問題がないということをご主張のキリスト教徒であるとご主張の方々もおられるが、それは少し違うのではないか、と思うのだ。裁判所の判断は司法という法律論の観点からのある時点でのご見識のご公開であって、ある時点の司法判断がすべてを支配するというのはあまりに安易であると思う。考えてみればよろしい。たかだか150年前とか200年前(そこまでいかなくても50年くらい前でも)は、アフリカ系市民の奴隷の方が殺害されても、法の裁きはアフリカ系の市民の方々には及ばなかったのである。Justice for all の all は、一部の限られた人たちについて all という意味であり、全てのアメリカに住む人に及ぶ、という意味ではなかったのである。

    キリスト者の目的とは何だったのか?
     イエスが言ったことを二つにまとめると、1)神と共に自分を大事にして生きよ(無理だけど、できる限りでいいので)2)神が創造し給うた他人を大事にして生きよ(嫌なこともいっぱいあるけど)ということになるのではないだろうか。それが、その基本線を忘れ、特に(2)を忘れてしまって、他人の生き方にくちばしを出すということになれば、(2)他人を大事にして生きよ、とういことがどうしてもいい加減になる。そして、使えるものは何でも使って、他人の生き方に介入しようとする。たとえ、それが善意から始まったことであったとしても。

     そこらあたりの事について、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
    教会が世俗的文化の改革を目的とすると、私たちは恵みの福音を目立たなくさせ、陰の権力者になってしまう危険性がある。米国のクリスチャンは、今やそうみられている。この世界の多くの人々から、彼らの考えに逆らう法律の通過を画策する”右翼”と見なされている。そして、いつの間にか良き知らせを損なってしまっている。「罪人」を救うためにキリストが死なれ、それによって私たちは罪と恥から解放されて、神が望んでおられる豊かな人生を歩める、という善き知らせを。(同書 p.396)
    まぁ、米国福音派の人々がこれまでやってきた運動自体のかなりの部分が、ある意味で的外れなことをしてきた側面はあるかもしれない。例えば、特定の宗教が支配的な国家からの移民を排除しようとする法律を通過させようとしてみたり、妊娠中絶を何が何でも禁止しようとする法律を作ってみたり、ある人たちを社会から排除しようとして禁酒法を通過させたり、同性愛者を社会から排除するような法律を成立させることに血眼になってみたりと、まぁ、アメリカを捜せば、こういう事例はやたらと多い。州法や住民投票などの事例では、こういうことをまじめに通している例は結構ある。法律という個々人の生活を全体として規制するものが土足で個人の思想信条の中に入ることは、個人的には、少しまずいのではないか、と思っているし、米国なら、憲法修正第1条の精神に照らして、まずいのではないか、と思っている。

     こういうのを見ていると、普通の感性の人でも食傷するし、こういう法律を通そうとして必死になっている人々は声高に叫び、自分に反対するものは悪魔の手先とお呼びになられるので、悪魔の手先呼ばわりされたものとしては、もういいやになってしまう。まぁ、ミーちゃんはーちゃんも同じ教会のある人から、悪魔に取りつかれているのではないか、という有難いお手紙を数年前に頂いたことをここに記しておく。こんなブログ読んでいるあなた、悪魔の手先扱いを受けかねませんぞ。ご警戒召されたく。

     余談に行ってしまったが、福音とは、囚われの身からの開放のことであり、神と共に生きることで、本来の人間に与え給うことを願って与えられしはずの生き生きとした姿(ヤンシー先輩の表現を用いれば、神が望んでおられる豊かな人生を歩める姿)となることであることは、既にふれたところであり、神が与え給うた創造のみわざが、現実的な諸制約のため、制限付きであれ、ある程度実現するということであろう。これこそが、神の国の到来であり、神の支配が近づいた、神の国が近づいた、ということではないだろうか、と思うのだ。あるいは、神と人が制限付きであれ、共に生きるということが可能になったことであるのだと思うのだ。だからこそ、「神が人と共に生きることが今可能になっている。神から離れた姿であることをやめ、神のもとに戻れ」ということが、「神の国は近づいた。悔い改めよ」ということの本来の意味ではないか、と思うのだ。本来の幸せな姿を取り戻すことが、神の願いであると思うし、それをイエスは人々に示せ、告げよ、と弟子たちにいわれたのだと思う。無理して本来の自分でない人間になれ、キリストを信じるものが社会が理想とする人間に頑張ってなれ、とも、教会が立派であるとする人間に無理やりなれ、とはイエスは言っていないように思うのだが。違うだろうか。ただ、イエスに従って、神と共に生きるものとなり、神に立ち返れ、とおっしゃっていることはそのとおりではあるが。
     
    もうちょっと続く。(残り2回)







     
    評価:
    ジョン・オートバーグ
    地引網出版
    ¥ 2,592
    (2015-11-10)
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