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2016.02.10 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(42)

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    今日も、ヤンシー先輩の『隠された恵み』の中から紹介し、思ったことを書いてみたいと思う。今日は倫理の基準とキリスト教の問題について考えてみたいと思っている。まず、冒頭には、かなりショッキングな事実が示される。

    自分たちが持っていた福音をどう表現してきたか
     本ブログ記事でも、これまで何度かご説明してきたが、米国のキリスト教の世界では、ジョナサン・エドワーズ先輩の存在は大きい。このジョナサン・エドワーズ先輩に関しては、 福音派が生まれたころの世界むかし話(3) でも触れてきたところであるが、この方の「怒れる神の手の中にある罪びとたち」という説教が未だにアメリカでの高等学校での国語のテキストで用いられることもあるらしく、割とこの路線に乗った説教が聞かれる文化もある。まさにそれそのままが語られているわけではないが、論理展開が似ているものは、結構ある。まぁ、それだけ米国文化に浸透した、ということでもあろうが。
    クリスチャンを称賛していたした米国社会が、今やクリスチャンを怖れ、批判するようになった。その批判は、クリスチャンたちに内省する機会を与えている。自分たちが信じているメッセージをこれまで、どのように表明してきただろうか。もっと恵みに満ちたやり方があったのではないだろうか。(隠された恵み p.381)
    まぁ、クリスチャンが大半を占める米国社会であるし、聖書を大事にするクリスチャンたちが文化を形成した側面はあるものの、一部の過激なキリスト者が起こす騒動が面白がられて、奇矯であるため報道される中で、本人たちは伝道しているつもりでも、キリスト教の過激さについていけない多くの人たちを生み出していったように思う。

    日本でも、何か大きな犯罪関係の事件が起きるたびに、その場に行き、悔い改めを解く伝道者たちが過去(たぶん40年くらい前)日本にもおられた。マスコミに注目されることを目的としての行為であったとは思うが、個人的には、完全に悪評を立てただけで終わり、だったような気がする。

    社会から撤退することが善なのか?
     社会と信仰生活を分けて考えることの意味について、ヤンシー先輩は、ナチス・ドイツとルター派の関係を例について次のように語っておられる。
    クリスチャンは常に、社会のどの不正と戦うべきかを見極める必要がある。社会から完全に撤退することは、教会にとっても国家にとっても得策といえない。ルターの「二王国説」にとって、ナチス・ドイツは過酷極まりないテストだった。このテストに、ほとんどの教会が落第した。個人の信仰の実践の身で、国家に反対する歴史を持たなかったドイツの教会指導者たちは、声をあげる時間が遅すぎた。実際、多くのプロテスタント指導者は当初、共産主義にとって代わるものとしてナチスを歓迎し、ある人々は、今では唾棄すべきものに思える「胸にカギ十字を、心に十字架を」というモットーを取り入れた。(同書 p.382-383)
    要するに、キリスト者が、神の国と国家を分けて2元論的に考え、それを別のものと考えるときに非常にまずいことが起きることを書いておられる。これはドイツだけの問題ではない。アメリカでもそうであるし、イギリスで生じたと考えるのが妥当なディスペンセイション的神学理解でもそうであるし、世は滅びると主張するギリシア正教でもそういう部分がある。

     世の中の事と、神のこと、と完全に切り分けて、訳知り顔での対応をすることで、結構えげつないことができたり、神の名を騙って、自己を正当化することだってできるのだ。キリスト教の世界の中で、神を持ちだされたら、なかなかそれに反論することは難しいが、それでも反論するのは、ミーちゃんはーちゃんがかなり偏固だから、というのはあるだろう。

    まぁ、消極的にスイスですねたように「ナチスの皆さん、アカンのちゃいます?」言ってみた、をされたのがバルト先輩のような気がするし、まぁ、命がけで、クーデターを起こしたのが、ボンフェファー先輩だった気がするなぁ。まぁ、どうでもいい話なんだが。
     
    要するにこういう世俗と信仰の世界の二分論は、ルター先輩の二王国論だろうが、ディスペンセイション神学だろうが、なんだろうが、非常にまずいような気がするのだなぁ、これが。というのは、この世はこの世、神のことは神のこと、って訳知りを生み出しかねない危うさがどこぞに漂うような気がするのだ。


    キリスト教のイメージとカギ十字を重ねた図像 http://rexcurry.net/bookchapter3a1d.html から借用

    しかし、上記の絵はすごい。キリスト教徒なら多頭の蛇であるユダヤ人を排斥してよい、みたいな画面になっている。

    しかし、「プロテスタント指導者は当初、共産主義にとって代わるものとしてナチスを歓迎し」とあるが、共産主義は神を否定するから駄目だけど、社会主義(ナチスは、国家社会主義ドイツ労働者党であった)であれば、ちっとはましだと思って、少々のことに目をつぶっていたら、何のことはない、党首が神の座を簒奪した、といういつものことが起きてしまったのである。鼻で息するものとは、実に情けないものよ、と思わざるを得ない。
     
    第三帝国と宗教 という本で、ロバート・P・エリクセンという方が、どういう神学者がどういう背景でヒットラーとナチスドイツを支持していったのか、ということをかなり詳細に記載しておられるが、当時の名だたる神学者のかなりの部分がヒットラー支持に回った背景などや当時の時代背景がわかる。
    イエスは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に、とはおっしゃったが、ローマを無視して生きよ、とか、この世を離れて生きよ、とはおっしゃらなかったように思うし、人々の間で生きられた、歩まれた、ということは忘れてはならないだろう。いきたかみがこの地で人と共に歩まれたのであって、飛行船の中から伝道したわけでもなく、空中にホバリングして伝道したわけではないことは忘れてはならないだろう。

    人には与えられた神のかたちがあるかも…
     文化というか、この地でその人らしく生きるという在り方は、実は多様なのではないか、ということについて、ヤンシー先輩は次のような形でお示しである。
    文化との関わり方には、いろいろなやりかたがある。すわりこみなどをおこない、妊娠中絶反対の意思表示をするクリスチャンもいれば、ホスピスや妊娠カウンセリングセンターでボランティアをするクリスチャンもいる。また「飲酒運転に反対する母親の会」で働く人々や死刑廃止運動に身を投じる人々もいる。学問の世界で倫理的な問題について議論を戦わせる人もいれば、法律を作るという面倒な仕事を引き受ける人々もいる。(同書 p.384-385)
     実は、この部分にかかわる本として、オートバーグという人の『神がつくられた「最高の私」になる The Me I Want To Be』という本があるが、これは、多分タイトルがあまりよろしくなくて、『神がつくられた「本来の私」となる』くらいのタイトルの方がよかったかなぁ、とは思う。この本の中で、繰り返し述べられているのは、人間は一人ひとり特別な存在として、個別の存在として創造されているのであり、みんな同じではないということと、その本来の姿になることを神が求めておられるというプロセスを人生の中で経験するということではないだろうか、というご主張である。

     近代社会の中で、みんなが同じであるという根拠のない盲信(言葉がきつすぎれば根拠のない信念)が広がった結果、がんばればなんとかなるし、何とかするように努力するということが強いられてきた。例えば、水泳で100m泳げないといけないとか、体育で逆上がりができなければできるまで学校に残すとか、ということが教育の美名のもとで行われ、実質的な体罰という罰ゲームが行われてきた。みんなが、ピカソのような絵描きでもないし、棟方志功のような版画家でもないし、そうはなれない。逆に皆が、ピカソのような絵描きだったり、棟方志向のような版画家だったら、飽きるだろう。同じような絵しか書かないから。

    世の中には多様な役割が必要で、多様な人々でできているようである。一人の人が何でもできないようにできているのだ。短距離走選手のバルト君は、どうやったって、マラソンや1万メートル走では優勝できないし、やり投げでもオリンピックで一位になれない。世の中、互いにかけがあり、誰かに補ってもらうようにできているようなのだ。それを自分一人で頑張ってやっちゃおうとするから、無理が生じるし、おかし気なことが起きる。世の中とはうまくできたものである。それを無視してはいかんのではないか、と思うのだ。教会でもそうではないかと思う。何でも、ボクシ先生に、何でもボクシフジンに、なんてしてたら、持つわけがないし、かえって効率が悪い、と思うが…。教会でも、それぞれが与えられた賜物がうまくいかされるようになるといいのになぁ、と妄想を抱いてはミーちゃんはーちゃんはニタニタしながら眺めている。

    完璧主義、二項対立という悲劇
     近代社会は、完璧主義あるいは、完全であることにこだわりが強すぎ、それで人間を苦しめているのではないか、と思うことがある。そもそも、人間が鼻で息するいい加減なものであることを忘れ、バベルの塔のようなものを心の中に立ててしまったのではないか、と思うことがある。いい加減さ、というのか、完璧でないことを受け入れる余裕というのは案外大事なものではなかろうか、と思うのである。そうでないと、そもそも人間がそう作られていないのに、本来作られている形でない姿を生きる様に強いられるからであり、神のかたちを歪めてしまうからである。最近は、動物園に展示される動物ですら、その動物が生きている環境で過ごす様に展示環境が大幅に手が入れられているのにもかかわわらず。
     そして、完璧というのは、案外ある時代の特定の人たちが思っている程度の完璧さであり、それは普遍的なものではないにもかかわらず、普遍的な価値として、他者に強いることは適切なことであるといいきれるのだろうか。その例として、妊娠中絶の道徳性を巡る議論で、妊娠中絶を絶対に否定すべきか、ある程度容認すべきかを巡る議論をあげて以下のように説明しておられる。
    保守的な人たちは道徳性に関して一切の妥協を許さず、妊娠中絶についても抵抗した。クープは中絶は悪であるという鉄壁の信念を持っていたが、やがてこう結論するようになった。『妊娠中絶反対運動の持つ問題点は、その人たちが中絶を”100%”無くそうとしているところです。1970年や1972年に中絶反対派の人々が、中絶賛成派の人々ひざを交えて話し合っていたら、母親の生命の危険、障害児、レイプや近親相姦を理由とする中絶だけは認める、という同意にこぎつけられていたかもしれません。そうしていれば、その後の中絶の97%は行われずに済んだでしょう。それが歴史の真実です。」中絶反対運動は、絶対を求める戦いに敗れて初めて、中絶の廃止でなく、中絶の制限に作戦を変更した。それ以来、何百という同様の法律が州議会を通過した。(同書 p.385)
    ここで、保守的な人たちの頭の固さと、手段が目的化することをご批判しておられるが、まぁ、こういうことはまま起きる。特に、道徳とか、正しさとか、正義とか、本来人間が扱うことが極めて難しい問題であるにも拘らず、簡単に手出しして、自分たちの新年システムが正しいという前提に立っているために、妥協ができない、本来、何のためか、というのが忘れられてしまうという最低な結果になることをヤンシー先輩はご指摘しておられる。

    こういう議論が、本人たちだけの問題や仮想の想定上の問題であれば、それはそれで、閉じたシステムの中で、その中の問題として扱うだけだからいいのだが、社会の問題となると、そうはいかない。議論に関与してない人たち、あるいは議論のとばっちりを受ける人たちを生み出すのである。
     
    この話を想いながら、我が国の年金制度のことを問題を思ってしまった。現在の高齢者の人たち(まじめに選挙に行く人たち)のことを考えて、その人たちに都合の良い制度設計にしつづけると、結局問題が先送りにされてしまい、後は野となれ山となれ、に近い状態になっているのではないか、と思う。自分たちが収めた年金は預金でない、ということを理解せずに預金のような意識で語り続けることから、払った年金をもらわないと、ということになるので、ちゃんと返せ、絶対に返せ、ということになるのだろうが、そこを少し年金は現役世代から高齢世帯への所得移転をすることで、社会の経済のパイを大きくする制度であるという理解の上で議論ができたら、ちっとは変わるんでないか、と思うのだが、こういうことは世の評論家という人は、世間からこれを言ったら嫌われることがわかっていて、そのうえで、誰もこういうことを言わないと来ているから、世の評論家と呼ばれる人々もなかなか、である。

    もうちょっと続く。



     
    評価:
    ロバート・P. エリクセン
    風行社
    ---
    (2000-05)
    コメント:資料として貴重

    評価:
    ジョン・オートバーグ
    地引網出版
    ¥ 2,592
    (2015-11-10)
    コメント:めちゃくちゃよい。

    コメント
    >人間は一人ひとり特別な存在として、個別の存在として創造されているのであり、みんな同じではないということと、その本来の姿になることを神が求めておられるというプロセスを人生の中で経験するということではないだろうか、というご主張…

    まさにその通りですね。

    早速、『神がつくられた「最高の私」』を購入します(^^♪

    >こういう議論が、本人たちだけの問題や仮想の想定上の問題であれば、それはそれで、閉じたシステムの中で、その中の問題として扱うだけだからいいのだが、社会の問題となると、そうはいかない。
    議論に関与してない人たち、あるいは議論のとばっちりを受ける人たちを生み出すのである。

     私たちの職種は、そのように「とばっちりを受ける人」たちの権利を代弁する、大切な業務、役割を課せられてます…そのことを実行することは、その当事者、対象者、患者、利用者、被支援者…を唯一無二の存在、その方の抱える唯一の課題として捉え、じっくり誠実に、その個人に寄り添う必要があり、それが、この職種の心地よいしんどさであり、醍醐味であり…。
    そして、そのしんどさ、醍醐味は、キリスト、イエスも担ってくださってる「ゆえ」なんだと「知ってる」ことの自覚は、生きてるうえで、何物にも代えられない「○○○(この○の表現は仕様がないです(笑)各個人で好きなように…でしょうか)」です(*^^)v

    そのしんどさ、醍醐味を味わいながら、行きついたところが、「思い通りのことに繋がらなかった」としても(それを「祈りが聞かれなかった」…と表現してもいいのでしょうが…あえて、自分の、その個人の、この社会の「思い通りの」と表現したほうがいいと、私個人は思っています。祈りを積んで積んで積んでいたとしても…決して「神さまの側の思い通り」ではないことが常なのかもしれないと思いつつで…)私は、個人個人が表現するところの「○○○」そのものは、「その本来の姿になることを神が求めておられるというプロセスを人生の中で経験するということ」であるゆえに「絶えずすべてのことに感謝せざるを得ない」と体感させられることだらけだと、またまた…感謝するばかりであります(>_<)
    • あい
    • 2016.02.10 Wednesday 11:09
    あい(MK)さま コメントありがとうございました。

    >私たちの職種は、そのように「とばっちりを受ける人」たちの権利を代弁する、大切な業務、役割を課せられてます

    そうなんですよね。役所はどうしても予算の資金負担部局を見て仕事をするので、なかなかピタッと来ない制度しかないし、制度はやたらとあるのだけれども、個別案件ごとに使い勝手が悪いしとなっていて、大変ご苦労されているのは、なんとなく想像できる感じがします。大体、この辺の制度、役所でもねぇ、全体を網羅して知るのがほとんど不可能ではないか、と思えるくらいですし。

    それとですね。結局、我々は、いま全知全能の神なら脱鼻で息するものなので、目の前に見えていることが苦難や苦悩のこともあるのだけれども、あとから見返してみると祝福のこともあるし、呪いと思えることも、恵みのこともあるのだけど、それを短絡的に呪いとか、恵みとか、祝福とか、しれんとかいとも簡単に言っちゃう傾向がありましてね。ちょっと残念だなぁ、と思うんですよ。

    ですのでね、今、あまりに人間中心の社会の中で生きていて、神の御思いがなりますように、って主の祈りの意味を考える必要があるんじゃないかなぁ、と思うんですよ。うまくいかないとすぐ、証にならんとか、御心でなかった、とか、すぐ行っちゃうでしょ。それってどうかな、って思うんです。

    >「思い通りのことに繋がらなかった」としても(それを「祈りが聞かれなかった」…と表現してもいいのでしょうが…あえて、自分の、その個人の、この社会の「思い通りの」と表現したほうがいいと、私個人は思っています。

    ご指摘の通り、自分のお心を神のみ心と読み違えている例が案外多いような気がします。

    コメントを拝読しながら、主の祈りというのはやはり大切だなぁ、とこころから思いました。

    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.02.11 Thursday 20:37
    おはようございます(^^♪
    >この辺の制度、役所でもねぇ、全体を網羅して知るのがほとんど不可能ではないか、と思えるくらいですし

    ホントにそう思います(>_<)
    とりあえずは、その個人に一番必要な経済的な…となることがほとんどで…(-.-)

    >主の祈りというのはやはり大切だなぁ

    通ってる教会の牧師からのお話で…30秒の祈り=主の祈りで、祈りは30秒で祈れる!と(笑)
    長々祈る人への…なんでしょ?嘲笑?皮肉?(笑)
    あるご主人が、まだキリストイエスを信じるところまでいかない時から、主の祈りだけは欠かさずなさってたとかで「祈りは主の祈りだけでいいんだ」みたいな…で、その方の奥さま曰く、ご主人は平安に「主のもの」となられて\(^o^)/その後の信仰生活は?ですが、きっと主の祈りだけを口にしてらっしゃったんでしょうね。
    主の祈りを「唱える」と言うイメージが、読経と繋がる感じは否めないので、なかなか「主の祈りだけ祈ってたらいいのよ〜」と言いづらいですが、私個人は「主の祈りだけでもいいやん」と…特に私の病床での祈りは、「治してください、痛い思いさせないでください、なんで私だけ…罪のせい?ごめんなさい…」の類の祈りばかりだったので、最後は主の祈りしか祈れないやん(;_:)でしたね〜(^^)
    • あい
    • 2016.02.12 Friday 09:38
    あい様 コメント、ありがとうございました。

    主の祈りは、短くて、提携だから、ということももちろんあり、全ての要素がこれでもか、と詰め込まれている以上に、その内容が重要だと思うのです。急ぎ、回数を祈るのではなく、その意味を深く思いめぐらしながら、丁度、レクティオ・ディビナをするように(来住 英俊 さんの本 目からウロコシリーズのhttp://www.amazon.co.jp/dp/4789606376)にあるように1文1文大切に読むことの意味を感じます。

    あと、個人的には、佐知さんの最近のブログ(http://rhythmsofgrace.blog.jp/archives/3636573.html)にありましたが、鼻で息するものであるということは、息することも祈りではなかろうか、ということは、この10年来の自説でございます。あんまり大ぴらに言うと関係教会では怒られるので言っていませんが。

    主の祈りの理解が明らかに変わったのが、ライト研究会に参加した時(http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=342 でご紹介)で、主の祈りの意味を感じました。

    コメントありがとうございました。今日は宝塚、教徒と出歩いていたもんで、おそくなりました。良い主日をお迎えください。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.02.13 Saturday 23:48
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