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2016.02.06 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(40)

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    今日も、ヤンシー先輩の『隠された恵み』の中から紹介し、思ったことを書いてみたいと思う。今日は倫理の基準とキリスト教の問題について考えてみたいと思っている。まず、冒頭には、かなりショッキングな事実が示される。

    優生学の驚くべき支持者たち
    優生学という学問は、劣った遺伝子を持つものを排除し、その上で優秀な遺伝子を残し、その優秀な遺伝子を持つものを残していくことで、社会をよりよいものにしようという一種の社会の純化を図ろうとする概念である。つまり、人為的な努力によって、想定される不幸を人間の目で見る限りのことを通して、またある時代の人間の価値観を通して、不幸と思われる事態を回避しようとすることを目指した概念であり、この概念のもとに、人工中絶が社会において是認されている側面がある。
    その優生学の背景と、支持者たちに関して、ヤンシー先輩は次のように述べておられる。

    チャールズ・ダーウィンのいとこ、フランシス・ゴルトンは、遺伝子プールから「劣った」人間や「欠陥のある」人間を取り除くことで、進化の原理を人間の進歩にも適用しようとした。その結果として出現した優生学運動は、科学者、哲学者、そしてウィンストン・チャーチルやセオドア・ルーズベルトといった政治家たちから熱狂的な支持を得た。(隠された恵み p.360) 

    しかし、この説を支持していたのは、ナチスドイツの政治的指導者ばかりではない。驚いたのは、イギリスの保守派の巨頭であるウィンストン・チャーチルやアメリカの民主党(The Democrats)の政治家、セオドア・ルーズベルトも容認どころか、熱狂的な支持者だ、と指摘されていたからである。つまり、それは、20世紀初頭から中葉にかけての科学であり、理性的な概念の中で容認されるべきことであり、社会的に真理とされていたことであったのである。
     
    まぁ、時代の限界とはいえ、これらを支持した政治家、そして、神学者たちも少なからずいたのであり、それが科学全盛期のキリスト教界の姿でもあったであろう。そして、このような態度は、ハンセン氏病者の対応にも及ぶ。キリスト者とハンセン氏病というは、いろいろ関係がありすぎて、単純化して書くことは困難なほど複雑な要素を持つのであるが、日本で初めてハンセン氏病者の世話をした豊後大分の”みぜりこるじあ”の人々から、明治期のハンセン氏病のケアしたカトリック教徒やそのほかのキリスト者の皆様もおられた。また、ハンセン氏病の根絶を目指して、さらに医学的知見が不十分であったからとはいえ、ハンセン氏病者根絶に向って断種やハンセン氏病者から出生した嬰児殺害も医療行為として行われてきたのである。このあたりのことは、もう少し知られてもよいと思うが、我々鼻で息するものは、見えない病原菌に恐怖し、病気に恐怖し、ろくでもないことを起こしかねない存在であることを頭の片隅にでも覚えておかねばならないのかもしれない。

    人間展示会、ってねぇ
    米国で、理想の家族像を描いたような展示がおこなわれたらしい。それは、人種的、遺伝的純血性を保つための措置であるかららしい、というのは、恐れ入る。
    米国では、価値ある遺伝子を持つ「ふさわしい家族」なるものが、州の博覧会で家畜の陳列場の隣に展示された。南部諸州は異人種間の結婚を禁じる法律を通過させ、遺伝的血統を純血に保とうとした。そして多くの州が犯罪者、未婚の母、精神を病む人に断種を強要し始めた。ある所では、貧しい人々、同性愛者、ふしだらな女性、そして遺伝性の盲目、ろうあ者の人々に、「退化している」や『不適格者」というレッテルがはられた。(同書 p.360)

    似たようなシーンが映画 The Nanny Diary(邦題 私がクマに切れた理由)というラブコメ映画(多分、ラブコメだと思うが)にあった。以下の予告編の最初に出てくるのはアフリカの家族の展示シーンであるが、これと同じようにNYの金持ち家族の構成員をアメリカによくあるNatural History Museum風の展示で出てくるシーンがあるが(それも現代のセレブに対する皮肉たっぷりのナレーションのコメント付きで)まさに、ここで指摘されている「ふさわしい家族」ではないが、「現代のアメリカの金持ち家族」といった感じの金持ち家族の批判を実際にやったのである。この辺がアメリカ人の心性をよくあらわしているように思う。
     

    映画The Nanny Diary『私がクマに切れた理由』の英語版予告編
     
    この部分を読んだ時、以下のPolice Squad!という確か80年代初頭の70年代の警察もののドラマをコメディにしたドラマシリーズのある回のシーンを思い出した。以下の動画像である。そこでは、日本庭園(Japanese Garden)に行こうと青年が女性を誘うと、日本人が突っ立っているなんとなくアジア風のお部屋である、日本人の庭(Japanese Gardern)にいってしまうという、かなりきついコメディシーンである。


    Police SquardのJapanese Gardenシーン


    Police Squard!のオープニング・シーン

    おそらく、この回の作者は経済摩擦が発し始めていた時代でもあり、日本人に対する批判意識もあるだろうが、むしろ、外国の動物や植物を生育環境から切り離し、展示する姿勢についても批判的だったのだろうと思う。まぁ、それにしても、日本人に対するステレオタイプは、今なお、フジヤマ、ゲイシャ、ジュードー、スキヤキ、スシといったアメリカ人の意識の根底を見ることも多い。それだけ、日本人の英語文化圏に対しても発信力あるコンテンツを持ちながらも、その良さを一部の人々に対してしか十分発信できていない日本の現状をこの前、マコト・フジムラさんは次のように、ツイッターで発信して居られた。

    とマコト・フジムラさんはお書きであるが、この辺、アメリカ人があまり地理意識がない(小学校でもほとんどやらない)からなのか、日本人が発信不足なのか、中国人が自慢するのが大好きだからなのか、よくわからないが、アニメで出てくる日本というのは非常によくわからない描き方がされていることが多いし、アメリカでは、まずアジア系は、中国人か、韓国人かって聞かれることが多い。まぁ、Hello Kittyはアメリカ発キャラクターだとか、SonyやSharpはアメリカの会社だと思い込んでいるアメリカ人は、なお多い。

    あぁ、話がまた脱線してしまった。すまんすまん。

    米国における人種意識
    で、このアメリカ人のコーカシア系至上主義というか、混血否定主義は、中西部で激しく、西海岸では緩く、ワシントン州ではめちゃくちゃ緩い。そのあたりの差別意識を告発した映画に、いくつかあるが、ここでは、Mississippi Burningという公民権時代の映画をサンプルとして挙げておく。

    Mississippi Burningは公民権運動華やかなりしころの公民権運動家である学生が、ミシシッピ州で失踪した事件に題材をとった映画である。この時代、白人至上主義者は、アフリカ系市民といわゆるヨーロッパ系市民(ただし、ドイツより西側が中心)とが仲良く同じ車に乗って移動することすら耐えがたく、殺人事件まで起こしてしまったのである。

    未だに、このこのようなAngloSaxon Christian社会であるべきである、とかといった思い込み(個人的には妄想だと思う)でしゃべる人々はいるし、最近話題のドナルド・トランプ君なんかの発言の端々に、それがにじみ出ている感じがする。それがこの前、Iowa州の共和党候補選挙で2位をとったことは、ご同慶の至りとは絶対に言わないけれども、アメリカ市民社会の保守的な人々の御意見の反映なのかもしれない。この動きが過激になると、NeoNaziの動きにつながりかねないのである。
     

    The Mississippi Burning
    Every Single Anglo Saxon Christian という言葉が出てくる。

    以下は、CBSのニュース番組60Minutesの一つからのスピンオフ映像らしいけれども、カリフォルニア(割とリベラルな人たちが多い)にも、こういうネオナチのみなさんがおられる。


    カリフォルニアのネオナチの人々について伝えるCBS60Minutes関連の動画

    経済的合理性と功利主義と米国人と奴隷
    米国人は、経済的合理性とその派生概念である功利主義が非常に発展している国の一つである。日本に来る経済学の大きな主張は、米国発であるので(なお、米国人は基本的に自分たちが国際基準であると思っていることもあり、日本でも国際基準の○○であるためには米国に認めてもらわないといけないという構造になっているが、世の中そうでもない。
    この辺米国人が国際基準だと思っているあたりに関しては、英国人が苦々しく思っていることはあまり知られていない。とはいえ、日本の経済学的な政策も基本的に米国流になっていて、社会の文化的状況(コンテキスト)や、産業組織や勤労者意識といった社会システム的状況(コンテキスト)といった状況も十分わきまえず米国風の政策が持ち込まれている。残念なことだと思うが、為政者の皆様とそのブレーンの皆様がそういうのがお好きなので、「あぁ、めんどくせえなぁ」と思っている。とはいえ、世俗社会で生きるときには、そういうめんどくさいことにも付き合わねばならないとは思っている。

    米国人は、功利主義の観点から道徳の問題を解決することを好む。アリストテレスもその論法で奴隷制を肯定した。ウィリアム・ウィルバーフォースは奴隷制廃止運動の中で、ディヴィッド・ヒュームのような功利主義の哲学者たちに反対しなければならなかった。ヒュームたちは黒人を劣っていると考え、財界の指導者や政治家たちも、奴隷は経済に利益をもたらすと考えていた。クリスチャンたちは、ウィルバーフォースと共に人々の道徳観に訴え、”神に創られた存在”という本質的な人間の尊厳に目を向けさせた。(同書 p.364)

    まぁ、アリストテレスさんは、貴族様がまともなことが考えられるような役割分担として、奴隷が必要だと言ったし、アメリカの金持ちの資産家は、資産家としてより利益を有効活用できるように、肉体労働から解放されることが必要であるため、奴隷制度が必要なのだ、といった。そして、この根拠に聖書内に奴隷という言葉が出てくるからだ、と書いている仲介書も、ちょっと前までいのちのことば社からクラッシックな書籍ということで売られていたような気がする。うちにはあるけど。なんか、これは昔の時代で本なので、とか言い訳が書いてあったなぁ。今なら、それだけでネットで炎上してしまいそうだけど。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/William_wilberforce.jpg
    ウィリアム・ウィルバーフォース先輩

    以前にも 教会やめたい?(その8) 伝統を守りながら変えていく教会(後篇) でもご紹介したところであるが、奴隷制廃止問題が教会でまともに議論されるようになったのは、差別されていたネイティブアメリカンの酋長たちが、教会役員になるにあたって奴隷を保有することが是認されるべきか否か問題に議論の根源があることを2014年の日本基督教学会というところでの東京大学の大学院生の御発表で知ることになったが、世の中、美談ばかりではないのである。

    日本では「クリスチャンは、倫理的な人々である(べき)」という妄想が世の中にはびこっているし、キリスト教の世界ではなおそうである。ヤンシー先輩にもそういうところがちょっこし感じられる。あるいは、「アメリカ人は何においても立派(ただしアフリカ系市民を除く)」とかいう根拠のない妄想を話す人々がおられるが、まぁ、妄想は妄想のままお持ちいただいたらよいのであるが、それらを他人様に触れ歩かないでほしいと思う。

    人間はどうしようもないから、神が必要なのであって、どうしようもあるなら、そもそも神がいらなくなるし、もしクリスチャンが倫理的に生きられるなら、その人は神になってしまうという逆説(パラドックス)が生じてしまう。そもそも、普遍的倫理というのが存在するのか問題が、現状で解決していない以上、個人の信仰と聖書理解に照らし、自分でどう考えるのかをその場その場で考えるしかないのに、こういう普遍的な倫理観があると他人に押しつけてこられる方がおられるからかなわん。

    そもそも、アメリカでは、ネイティブアメリカンは人間ではないとされたし、アフリカ系市民の人々の御先祖様は人間でないという詭弁が弄された挙句、奴隷制度が成立したのである。つまり、動物に対してなら何をしてもよい(これは創世記の最初の3章分に照らすと、かなり怪しい理解であるが)という論理から発生し、アフリカ系市民の皆さんは人間ではなく、神を理解する力がない、としながら、毎週日曜日に聖書を語って聞かせる、というあたりの矛盾があるのだが、そのあたりのことに関して、「それでも夜が明ける」12 YEARS A SLAVEという以下で紹介している映画で示されるのを見たとき、まぁ、聖書のカット・アンド・ペーストしながら自分の都合のよいところを抜き出し、自己都合により理解することのナンセンスを感じるなぁ。



    「それでも夜が明ける」12 YEARS A SLAVEの予告編

    価値のない人はいない
    前にも書いたように、我々は、イエス様のサンダル底にへばりついているごみに付着するアミノ酸の中のDNAを構成する物質の中の一つの電子にも満たない存在かもしれないが、それを神は愛して、大事にしておられるのだ。ありがたいことに。しかし、自分は大事にしてもらいたいけど、他人はどうでもいい、とかいうキリスト者を自称する人たちがあまりに多い。
    前にも書いたけど、くどいけど、いま枚方に居る司祭の方や、大阪のドヤ街で奉仕をしておられる本田司祭は、社会で最も弱い人たちのケアを散髪を通して、実施しておられる。本田司祭いわく、「私は、ホームレスの先輩方の散髪しかしてなくて、後は、シスターたちの趣味のミサ1回と日曜日のミサ1回だけしている」だそうである。詳しくは、「日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 」と「日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想 」をご覧下され。
    そういえば、この前1月27日は、国際ホロコースト記念日 であったが、そのことをキリスト教界関係者で教えてくださったのは、立川のT牧師だけであった。この方も、ミーちゃんはーちゃんというややこしい奴と遊んでくださる、実にありがたい方である。ミーちゃんはーちゃんの知り合いで、このことをつぶやいたり、Facebookとやらでお話になられた方はあんまり身の回りにはいなかった。なぜかは知らないけれども。あぁ、そういえば、その関連で、コルベ神父の画像をご紹介して下さった方は居られた。


    コルベ神父

    ナチスドイツ支配下では、少なくとも何人かの司祭、牧師はナチスドイツに反対しなかった、というよりは、反対した司祭、牧師のほうが少なかった。徒手して時代の流れを見ていた人たちが多かったのである。カトリックだから何とか、プロテスタントだから何とか、とか決して一般化できないのである。
     

    「価値のない人間などはいない、と強く主張する大切な役割」が、クリスチャンたちにはある。私たちはその役目を、かつてのドイツでも起こったように勇気ある抗議によって果たすことができる。また、マザーテレサがしたように、溢れる愛をもってこの社会で最も弱い人々をケアすることによって。どちらのやり方であっても、神学ー人が神と人間のいのちについて信じていることーが重要だ。世界はその善き知らせを、切実に必要としている。(同書 pp.364-365)

    ヤンシー先輩が言うのも、また、ジョン・H・ヨーダー先輩が言うのも、以下の図のような白丸の中の人物のようなことも、キリスト者には必要ではないか、ということである。まぁ、こういうことをするのは、非常に勇気がいる。まぁ、白丸の中心にいる人物の後ろの工員風の人たたちはわかてんだかわかってないんだか、わからないが、何に賛成して手を伸ばしているのかを手を伸ばしながらささやき合っているようで面白い。まぁ、この手を挙げている人たちの何割かは、この中心人物の後ろ側の人たちのようであったのであろう。それが大衆社会という社会のありようでもある。


    ヒットラーに媚売らなかった人 の写真

    ヒットラーに媚を売るどころか、キリスト者としてはにわかに信じがたいが、暗殺計画にまで加担して、獄死しちゃったのが、デートリッヒ・ボンフェファ先輩である。戻らなくてもいいアメリカからわざわざドイツにもどり、共同生活を送り、そして、挙句の果てにオペレーション・ワルキューレではないけれども、ヒットラー暗殺計画に加担するという、ろくでもないことにかかわる、って、ちょっとかっこよすぎないか。


    ボン・フェッファ先輩


    オペレーション・ワルキューレ 日本語字幕版予告編

    まぁ、余談はさておき、案外大事なのは、自分たちで自分を守れない人々をどうするのか問題のような気がする。それは、A Few Goodmenという映画の隠された主題になっている。この映画は、基地の司令長官から、同僚兵士を殺すように(Code Redと作品中で呼ばれている)命じられた兵士が、軍法裁判にかけられて、裁判上は、不名誉除隊を命じられるという映画であるが、この中に出てくるトム・クルーズは若いし、G.I.Janeに出る前のデミ・ムーアはまだかわいらしいし(これ、本論とはなんの関係ない)、なかなか話の伏線が面白いのでお勧めなのだが、最後のシーンで、アフリカ系海兵隊軍曹が下級兵士が、「なんで?なんでどす?」というのに対して答えていることが面白いのだ。軍隊組織の本来あるべき姿を語っているからである。


    A Few Goodmenの最終シーンの直前の軍事法廷でのシーン
     
    We suppose to fight for people, who could not fight for themselves.(我々は、自分自身で自分を護るために戦えない人々の為に戦うべきだったのだ)といわせている。これ、案外見逃されているかもしれない。こういうために警察や軍隊組織があるのであり、本来、自分自身が守れない人たちを守ったのが古代キリスト教会であるからこそ、迫害に会いながらもローマ帝国の中で、キリスト教会が生き延びたのだ、ということは、スタークさんという方の「キリスト教とローマ帝国」という本での主要なご主張である。

    この辺、宗教改革のゴダゴタのせいなのか、ミーちゃんはーちゃんのいたキリスト教会の集団の中ではついぞ最近になっても教えてくれる人はいなかった。街角に立って、説教したから、みんなクリスチャンになったんだ(なんとインスタントラーメンのような発想のことか)と信じ切っていた。それで現場に立って、説教したところでなんでクリスチャンにならないんだろうと、この30年余り悩み続けていたのだが、説教したくらいでクリスチャンになってくれる人が少ないのだ、とわかって、ちょっと安心している。まぁ、順番が逆だったのだ、世の人と軽く見ていたのでは、まずかったことに気がついたのである。

    気がつくの遅すぎ!って、その批判は甘んじて受けたい。で、今はこれからどうしようかなぁ、と考えている。

    ところで、この前、母の家ベテルで参加させてもらった研修会でも、これからのキリスト教(というよりは、これからのプロテスタントは何をもう一度考えるか) ということでディスカッションした中で、おもしろかったのは、この辺の小さな人たちに接し、その人たちを神のかたちとして向き合っていくことをきちんと取り戻すことではないか、というお話がちらっとでた。その時、20 ページくらいの論文もどきのものを書いて持っていったのだが、そこの主要部分「こんふらりあ・みぜりこるぢあ」を話す間もなくその部分は話させてもらえなかった。実に残念ではあったが。まぁ、一参加者なので、それはそれでよい、と思っている。その代わりと言っては何だが、熱烈なこのブログの読者の方にお会いできたのは、なかなか思い出深い一日となった。はい、これを読んでいるMKさん、あなたのことです。そして、他の当ブログをご清覧中の方々にも、この場を借りてお礼申し上げます。いつもご清覧、感謝します。

     
    もうちょっと続く





     
    評価:
    ウォルター ラウシェンブッシュ
    新教出版社
    ¥ 6,588
    (2013-01-07)
    コメント:資料としてはめちゃ貴重。図書館で読むのでよいと思う。

    評価:
    ロドニー・スターク
    新教出版社
    ¥ 3,456
    (2014-09-19)
    コメント:高いけどよいよ。手法に問題意識は残るけど。

    コメント
    軽井沢のセミナーに行く前にも一度こちらにコメントしてました(あいという名で)が…まさか実際に現実に先生に「お会いできる」とは…先生の、ちょっと読解困難な、お言葉の羅列を丁寧に読ませていただいてます!
    木原先生、大先輩向谷地先生、そして工藤先生の著作が、昨年、それぞれに出版されたとき「ついに揃った三部作〜」と、私の所属教会の、いのちのことば社・職員の兄弟にめっちゃ喜んで叫んでたのは私です。
    「何が三部作や〜」と兄弟キョトンとしてましたが…その三部作のおかげで、み〜ちゃんは〜ちゃんのブログにも出会い、木原先生のことも知り、軽井沢セミナーにも導かれ、先日のベテルにも\(^o^)/
    感動しまくりの2015年、そして今年の幕開け&#127926;&#127926;&#127926;

    「これからのキリスト教に必要な視点と、社会福祉で学んだところの、人間そのものを全人的に包括的に見つめるその視点が、ついに私の中で合点がいき始めた〜」です。
    私の信じるキリスト教(キリストの教え)は「キリスト、イエス」そのものです。
    「教会では、(油断すると?)いつの間にか、キリスト、イエスがいなくなってしまう。」とは、どなたの言葉だったでしょうか…私も同じ思いです。
    キリスト、イエスのように生きる…おこがましいですが「キリストを知り、キリストを知らしめるために」の標語が建てられていた神学校(現TCU)時代に、いくつもいくつも疑問に思っていた事柄一つ一つが、これからも生きていかなきゃいけないこの社会の、矛盾と向き合いながら、神様によって解き明かされていくと期待しています。
    それが決して、私の「納得」のいくところのものではなくても…
    これからも、さらに「イエス様ならどうなさったか?」と強く意識し、自覚しながら…楽しく喜んで、日々前に前に進んで行けたら…(#^.^#)心から感謝します♪♪♪
    • MK(あい)
    • 2016.02.10 Wednesday 01:17
    MK(あい)さま コメントどうもありがとうございました。

    >ちょっと読解困難な、お言葉の羅列

    すいません。わかりやすく書いているつもりなんですが…かえって分かりにくくなっているかも、です。

    あと、先生はおやめくだされ度お願い申し上げます。ミーちゃんはーちゃんで通しておりますので。わが父祖はさすらいのアラム人でござりまする。

    >「教会では、(油断すると?)いつの間にか、キリスト、イエスがいなくなってしまう。」とは、どなたの言葉だったでしょうか…私も同じ思いです。

    そうですね。メシアであるイエスを隠してしまうと、「キリスト」を標榜することは厳しくなりますから。

    >いくつもいくつも疑問に思っていた事柄一つ一つが、これからも生きていかなきゃいけないこの社会の、矛盾と向き合いながら、神様によって解き明かされていくと期待しています。

    これは、多分最後まで理解できないのかもしれません。しかし、そうであっても、神が共にいるという思いを持ちつつ歩むこと、そして、その現実に向かっていくこと、わからないなりに地の歩みを進めていくことが大事なのかもしれません。さすらいのアラム人は、そのように毎日を送ったのかもしれませんし。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.02.11 Thursday 20:43
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