<< いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(38) | main | いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(40) >>
2016.02.03 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(39)

0

    Pocket

    今日も、ヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介してみようかと思う。キリスト教界の間違いとそれへの対応につい手に関する記述の部分である。

    道徳観の信頼できない伝達者
    としてのキリスト教

    西洋諸国では、キリスト教が普及し、キリスト教国(クリステンドム)が成立した後、西欧諸国の王政とキリスト教が抜き差しならぬ関係になった(これまた、ジョン・H・ヨーダー先輩いわくコンスタンティヌス型キリスト教)後、王政への反対をする革命運動が、フランスを中心になって発生し、そのあおりを食らったフランスでは、キリスト教が西洋道徳と化していった可能性があることを、『神学の起源』という本の中で、深井智朗という方は書いておられる。

    ある意味で、キリスト教から派生した道徳が生まれ、西ヨーロッパ社会での道徳として定着し、それが人権思想などへとつながるとともに、人間中心的な概念の独自の傾向が生まれ、その人間中心的な概念が教会やキリスト教信仰から独立していく中で、基盤が何だったかを考えることなく、教会がいうことは古臭くおかしいのではないか、と攻撃的な目を向けるだけではなく、実際に言論を用いながら攻撃しているというのが現在の実情だろうと思う。まさに、自然神学であった科学がキリスト教を非難するようなものである。また、キリスト教自身も、世俗の人間中心的な概念の影響を受け、変質していったので、同じものから出ているものがそれぞれ独自に変質したもの同士が相争っているような感じを受ける。

     そして、教会は、自分たちの伝統と自分たちの信仰と一見、合致しない問題に対して、時に強硬に反対し、黙殺し、あるいはある時期には悪しざまにののしる、圧殺する、言論封鎖することで、対抗してきたのではないだろうか、というあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。

    キリスト教を批判する人々が言うように、教会は道徳観の信頼できない運び手になってしまった。これまで述べてきたように、教会は確かに過ちを犯してきた。それでも、教会には自らを強制する力が備わっている。それは、より高い権威を信じているからだ。最近、南部バプテストや南アフリカのオランダ改革派教会といったプロテスタントの教派が、奴隷制やアパルトヘイトを支持してきた過去を悔い改めた。カトリック教会は科学に反対してきた過ちを認め、ユダヤ人やイスラム教徒への不当な行為を謝罪した。教皇フランシスコは、教会が同性愛、妊娠中絶、避妊といった問題に固執したことが、神の愛という一番大切なメッセージを妨げてきたことを認めた。
    私たちがは社会の間違いよりも自分たちの間違いに目を向けたら、世界はどれほど違った目でクリスチャンを見ることだろう。新約聖書を読むと、教会は当時の文化の欠点にはほとんど着目していない。(隠された恵み p.356)

    なに、ヤンシー先輩ご指摘のように、社会に対する不都合な事実を抱えてきたのは、南アフリカの改革派教会だけではないし、科学に反対してきて嘲笑的な言辞を弄し、科学者であるキリスト者が教会内に居づらい雰囲気を作り出してきた教会はカトリック教会だけではない。学問的研究をする人々の立場や学問的良心を理解せず、学問として記述した内容の文言の切れっぱしを針小棒大に取り上げ、非難し、自分たちの信仰と相容れないと、批判するような教会は、皆無ではない。


    アフリカオランダ改革派教会の紋章


    南アフリカ国歌


    教皇フランシスコ(この南米出身の教皇様はおっしゃることがかっとんでいるので個人的には好きだ)

    先日あるところで、かなり年配の牧会者の方からお話を聞く機会があったが、その方はそのお話の中で、戦争中の日本のキリスト教界の国家への恭順 の意を示し、宮城遥拝までやったことを真摯に日本のキリスト教界はキチンと反省したのだろうか、ということを問うておられた。まぁ、一応日本キリスト教団 関係では、戦争責任問題に関する文書を出しておられるが、はたしてそれが信徒レベルにまで、なぜ、あれがまずかったのか、という理解が行き渡っているだろ うか、あるいは、「あれは、先輩どもがやった話で、戦後のわしらには関係ない」という態度がないだろうか、あるいは、根源的な信仰にまつわる問題をきちんと理解しているのか、とい うことをお話しして居られたが、基本的に歴史をきちんと把握することは、黒歴史部分を切り捨て、関係ないとし、きれいに衛生化(Sanitalize あ るいは Loundaring)された立派な歴史を知ることではなく、黒歴史を含めて知っておき、それをもとに反省することである、という立場が旧約聖書の立場であるように思うのだが、違うのだろうか。

    まぁ、同性愛の問題にしても、中絶の問題にしても、聖書にダメと書いてあるから駄目である、行為は人と一体であるはずだ、という思い込みで、同性愛者や、中絶経験者、離婚経験者などを教会から排除し、苦しめ、神のかたちである人々をあたかも悪魔のかたちのように言い切り、神に変わって教会が追放し、本来神が願っておられる、神による神のかたちの回復の道を閉ざしたことはなかったろうか。聖書のテーマが、神のかたちの回復(つまり、愛であり、義であり、美である)ことをすっかり忘れ。

    共産主義、核戦争、同性愛、イスラム国…
    個人的には70年代ごろからあるキリスト教会とかかわるようになったので、70年代前半に教会が敵視しているものだと思ったのは共産主義であったし、イスラエルをいじめるアラブ諸国、とりあえずエジプトなんだなぁ、という印象であった。一番最初にそれを思ったのは、10歳ころあまりキリスト教団体と意識することなく通っていたYMCAのプールの入り口の壁に、ベトナム戦争孤児の写真が貼ってあり、確か英語で、Parents Killed by Vietcomとか書いてあったので、あぁ、ベトコンとやらは悪い人たちなんだ、と実情も知らずに思い込んでいた。

    その後1980年代には、核戦争であり、それを仕掛けるソ連(アメリカも仕掛けていたのだが)は、当時うちのキリスト教関係組織で超有名人であった宇野正美氏の講演でエゼキエル書に出てくる、ゴクかマゴクはソ連のことだとまことしやかに当時は言われていた。そして、ソ連はいずれイスラエルに攻めてくるという話も、これまたまことしやかに流れていたが、ソ連はアフガニスタンで、足止めを食らったせいか、この30年ちょっとイスラエル進駐したことはなかったように記憶している。いや、実はひそかにイスラエルにスパイが…ということをご存知の方がおられたら、こっそり、コメント欄でご教示いただけると実に嬉しい。また、イスラエルの隣国シリアに海軍の寄港地があるにもかかわらず、ロシアがイスラエルに未だ流れ込む気配は見せていない。ひょっとしたら、最近のISIS団の占領地域攻撃が、あのエゼキエル預言の予兆だとか、言い出しかねないのが、怖いところだが。

    個人的には、高校生の時、今日のソ連邦というソ連のプロパガンダ日本語雑誌を実家近くにあった県立図書館で見ながら、本当にこの国の人たちがイスラエルを攻めに行くのだろうか、と眺めていたものである。なお、高等学校の時の体育教師が1980年のモスクワオリンピックの柔道の候補選手(補欠の補欠)だったらしく、やたらと山下泰裕や斎藤仁と練習したことを事あるごとに自慢するのに耐えるのが実につらかった。



    その昔のグラフ誌『今日のソ連邦』

    同性愛非難の楽屋裏
    去年は、一時期当ブログも2015年6月末には、Love Wins祭り (Love wins AKA アメリカ連邦最高裁同性婚祭り ワズw)になったことがあった。アメリカ連邦最高裁で同性間の共同生活を営む者たちの権利を認める州法を、他州は尊重しなければならない、という判決が出たからだ。同性婚を積極的に推進する判決ではないことはもう少し知られてよいと思うが、「アメリカ連邦最高裁で同性婚が認められた、キリスト教国アメリカでなんたることだ」と騒がれた方々がおられたが、今は大統領選挙でかまびすしいせいか、このことに対するデモ活動も、連邦最高裁判所前でのデモ活動も、ホワイトハウスの前でのデモ活動もあまりないのか、CNNでもCBSでもあまり放送していない。話題にならないということは、その程度の反対運動であったということなのだろう。「時流に乗って、ちょっと同性婚反対って言ってみた」といった程度の抗議活動に過ぎなかったのかもしれない。

    ところで、同性愛が教会から敵視されるようになった時期と共産主義の崩壊がパラレルな関係に在る傾向があることを説明しながら、実は、教会が外部の仮想的をあげながら、ファンドレイジングというのか、大衆動員的な、そして、かなり政治的な傾向をもっていたし、現在もその政治的な側面をも持っているのではないか、ということをヤンシー先輩は以下のように示唆して居られる。

    今日、クリスチャンが全精力を注いでいるのは、「教会の外にいる人々」を裁くことである。一例をあげると、2000年代において、多くの人が教会に背を向けた理由の一つに教会が同性愛者を声高に批判したことがある。私は大人になるまで、同性愛についてほとんど聞いたことがなかったが、牧師や指導者たちが知っていたことは間違いない。なぜ突然この問題に著名なクリスチャンたちがこだわるようになったのだろう。
    友人の一人が、同性愛を敵視する発言が高まってきたのは共産主義の崩壊と時を同じくしていたと、証拠をあげて論じた。それまでは、テレビ伝道師やキリスト教の圧力団体が、無神論の共産主義という共通のおそれを理由に基金集めをしていた。エリック・フォッファーは『大衆運動』の中でこう書いている。神への信仰抜きに、大衆運動は怒り、広がるかもしれない。しかし、悪への信仰抜きにして、それは起こらない」と。そして私の友人は、同性愛を敵視するような発言は、新しい敵を必要とした資金集めの戦略として出てきた、と推論する。ある行為を「罪」として運び出し、それを他のふるまいよりも強調することは、恵みの必要性を失わせる巧妙な手口となる、ということだ。高尚な道徳主義と手厳しい裁きの宣言は、資金調達に役立つかもしれないが、恵みの福音の効用を損なう。(同書 pp.357-358)

    この指摘を読みながら、この話は昔の話ではなく、教会は仮想的を作り出し、それに対する憎悪と嫌悪を掻き立てることで、自分たちの正当性を示そうとしてきたのではないか、ということを思ったのだ。つまり、目に見える教会の敵を作り出し、それを焦点化することで、自分たちの正当性を示し、それを攻撃している限り、安全であるし、自分たちは正義だと思えたという精神構造があるのではないか、と思うのだ。

    最近、ホワイトハウスのPresident’s Advisory Council on Faith-Based and Neighborhood Partnershipsの一員となった Rachel Held Evansさんは、結局教会の入り口のところに、週の住民投票に関して、同性愛反対の看板がデカデカと掲げる教会の精神性に嫌気がさして、教会を飛び出した御仁であるが、この問題が焦点化したことに関する被害者のお一人でもあるような気がする。

    ところで、同じようなことが1920年代には、進化論裁判で知られるスコープス裁判で、進化論がその象徴的存在であると理解された科学を攻撃した。1940年代からは、アジアの新興国家であり、天皇制を抱えた日本という疑似一神教社会を情熱的に攻撃した。1950年代は、マッカーシズムの波に乗り、共産主義者とソ連と北ベトナム、中国や北朝鮮、キューバを攻撃した。1960年代には、退廃的な側面を持ったヒッピーを攻撃した。このように、これまで他者のおかしさを焦点化し、攻撃することで、自分たちの正当性を示せた、と思い込み(正確には、所詮自己満足に過ぎないのでは、とは思うが)自分たちの活動限にしてきたように思う。どこまでも政治的なアリーナで考えることが好きな米国民らしい在り方ではあるように思う。


    Eric Hofferさん


    大衆運動の原著表紙 メインのタイトルは、The True Believer(真の信仰者)という意味深長なタイトル

    森本あんりさんの著書である反知性主義(非常に面白い本でした)についてのシリーズもの 反知性主義をめぐるもろもろ ですでに書いたので、詳しくはその中をご覧いただきたいが、森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(3) のホイットフィールド先生ご活躍の時代から、アメリカのキリスト教とメディア(といっても新聞)は切っても切り離せない関係にあり、大衆動員的なキリスト教という側面を持っているから、大衆動員的な煽情的な、あるいはプロパガンダ的な社会構造は昔から米国社会には存在し、英国のような階級社会にはなっていない(それは良い効果をもたらす場合も、悪い効果をもたらす場合の両面があるが)ため、何かことがあると昔の某国のように、一億総火の玉状態に簡単になってしまいやすい社会構造を持っている。性格が歪んでいるミーちゃんはーちゃんとしては、こういう一致団結してハーメルンの笛吹についていきましょうぜ的な体質、とかいうのは是非ご免こうむりたいと思っている。非国民といいたきゃ、そうお呼びいただいてよい。



    その昔の某国の大政翼賛会と呼ばれる組織がつくったとされるチラシ


    一億総火の玉になりましょうという歌(まだ、戦闘で勝利を収めてた頃だそうです)

     しかし、ヤンシー先輩、「高尚な道徳主義と手厳しい裁きの宣言は、資金調達に役立つかもしれないが、恵みの福音の効用を損なう」って本質見極めたご発言、実に手厳しい。今風のことばで言えば、「斜め上から対応して、他人を悪しざまに言うことは、金儲けの道具としては効率的だろうけれども、それで、イエスの福音は伝わらねぇんじゃね?」ということだろう。個人的にはそれはそう思うんだなぁ。教会がファンドレイジングとアメリカ人が呼ぶ、資金集めには有効だけど、それは教会の目的か、本来目指すべき場所なのか、ということだろう。ここらを間違えている人たちは案外多いし、この背景には、当ブログ記事で何度もお話しているように、近代という時代が正しいということは一つであると理解し、それが社会の共通理解とされていた、あたりの社会背景があるように思うのだ。

    独善と公共的
     近代社会の中で、多様な価値観のある中で社会として適切な在り方とは何か、を考える語として公共的、ないし公共性という概念がある。従来の公共と違うということで、新しい公共と日本語では呼ばれる。以下では、経済産業省のサイトからお借りした画像を載せておく。

    新しい公共の概念図
    http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/aratana-kou/

    まぁ、左側の図は、従来の社会構造で、どっか指導者やリーダー(共産党は中央委員会、それ以外では政府、特に経済産業省(昔の通産省)や文部科学省(旧文部省))がいて、文書通達で、配下の関係機関を動かしていくスタイルなのである。こういう近代の大量生産、大量消費型でみんなが国民服とか人民服とか着なさいと支持するような、中央集権的な一斉のドンで動かす社会構造のままでは、現在の社会には現実的に対応できず、それぞれが文献的に、適当に動きながら、相互に調整したらいいじゃん、という形に変えていきますね、ということが、政府の方のお取り組みとしても行われている模様である。それぞれが別の立場であるから、それぞれ、直面する現実は同じであってもその見え方は異なり、そこは場面場面で、適切に対応していきましょうぜ、というのがこの新しい公共の概念である。

     この辺のことを聖書理解に当てはめたのが、新教出版から出版されているN.T.ライト先輩の『新約聖書と神の民』の第1部で示されていることであるが、これ、理解できる人がどれくらいいるかとなると、かなりしんどいだろうなぁ、と日本語訳を読みながら思った。しかし、あの本の凄みは、実はあの部分にあるのではないか、と思っている。まさに、ライト先輩が、ガチで、近代思潮や近代を支配した同質性の仮定にガチで4つに組んでおられる感じがする。

    独善性と神との義
     ところで、キリスト教徒は神を信じているということに関して、それから派生する行動や行為や言動が独善的である、と主張されることがあるが、そこらあたりの事に関して、ヤンシー先輩は、ジョン・ストット先輩の言を引用しながら、キリスト教徒は神と共に生きようとしているので独善ではない、むしろ、神を信じていない人は、その人の価値基準の根拠が、「オレ様が嫌いだから、ダメなんだ」と自己が基準になってしまっている可能性があることに関して、以下のようにご主張しておられる。
     
    ストットの主張によると、私たちの善良さは、唯一の義なるお方である神に、ただ謙虚に頼る所から来る。神おひとりだけが義である。対象的に、神を信じていない人々は文字通り善的だ。頼るべき道徳の源が、自分たち以外にないからである。(同書 pp.358-359)

    ところで、先日、義ということが、このブログでの発言から、別のところで話題になった。

    ある方が、義をどう日本語で表現するか問題で、適切さという面も含むのではないか、ということで話題になったのであるが、義とされるということがその関係で取り上げられ、義と見なされるということの話題になり、聖書における義とは何かが、ちょっと話題になった。そこに「義は関係のことである」と鋭くツッコミを入れてくださった方があって、話題が広がったのだが、個人的には、聖書の中の義ということは、このツッコミを入れてくださった方のご主張のように神との関係が成立していること、神と人間との間で平和があるということ、そして、神が人間との関係を一方的に回復しようとしておられる性質のことであると思う。

    それをイエスは次の2つの命令にまとめて、人間にお示しである。
    【口語訳聖書】マタイの福音書
     22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
     22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
     22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
     22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
    恐らく、これが成立している状態が、義であり、美であり、善であるというのが旧約聖書以来の、聖書の一貫した主張であると思うし、そのために、少し前にも書いたが、バプテスマのヨハネがサンダルの紐を解く値打ちもない、と言ったイエス様が足で踏まれたサンダル底にへばりついているごみに付着するアミノ酸の中のDNAを構成する物質の中の一つの電子にも満たない我々(こういう大げさな言い方が中東では好まれたらしいので、それを真似してみた)と共に居たいということを神自ら示すためにこの地に神が来られたのである。その神が、上のようにおっしゃったのである。ところで、神を愛するという以上、神を愛すためには、神という対象がいる。それぞれが、その関係そのものが、善であり、義であり、美しい、ということなのだろうと思う。そして、それが最終的に回復され、それが満ち溢れるようにするのが、聖書の言う、神の最終的なご計画なのだと思う。

    だたし、我々は、サンダル底にへばりついているごみに付着するアミノ酸の中のDNAを構成する物質の中の一つの電子にも満たない存在であるのにもかかわらず、神と一つだ、ということで、すぐ神の座を簒奪し、自分自身が神みたいになる所が人間という存在のどうしようもなさであることよ。なんぎなことよのぉ、と思ってしまう。



    まだまだ続く



     
    評価:
    N.T. ライト
    新教出版社
    ¥ 6,912
    (2015-12-10)
    コメント:前半の第1部はかなり手ごわいが、実は現代社会の思想を背景(認識論や認知論、記号論理学…を聖書を読むときにどう考えるのか)を考えるうえでのものすごい手がかりをくれる。おすすめ

    評価:
    Rachel Held Evans
    Thomas Nelson Inc
    ¥ 1,217
    (2015-04-14)
    コメント:ホワイトハウスのスピリチュアルアドバイザーになった方の著書

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << October 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM